昔の長野電鉄を語る
ロマンスカー2000系やOSカー0系が信濃路を元気に走り回っていた時代の思い出を語ろう >>1
特急専用車はあるし、4扉車はあるし、地下線はあるし、
他の地方私鉄から頭ひとつ抜きん出た存在感があった 長野電鉄2000系の特急電車は車内は扉間回転クロスシートでも、大手民鉄の
特急車に比べれば見劣りしていたが、地方私鉄の特急車両としては上等の方で、
特急料金100円で乗車できるとあれば花形の車両ともいえた 40年前、地下化する前に長野から善光寺下まで乗ったが、OSカーに乗れると思って行ってみたものの、乗ったのは大手私鉄では引退しているような相当旧式な車両だった。
虎の子のOSと2000系以外は、当時、まだ17m級車両が主流だった伊豆箱根や富士急などの他の地方私鉄並みか。 >>3 数奇な運命だな。
豊橋が頑なに2両しか引き受けなかったのか?(予備品確保にも要らないと蹴ったのか?)余った半端一両が
遥々四国の伊予鉄に行き3両化が、目的とはいえ、既存先頭車の運転台潰してまで先頭車化とか
伊予鉄は何故ソコまで面倒な事をしたのだか・・・不可解!? 形式としての登場に関しては、0系は3500(3600)系より後だし、10系は8500系より後だった。
と考えると、新旧共にOS車の引退は早過ぎたような印象も…。 オーダーメイドの自社発注車は、地方私鉄にとっては絶対的量数もしくは、
余程 後世まで保守維持してゆく信念や経済力が無きゃハードルが高いと云うことだな。
それでも、長電は地鉄ほどではないが、車両の相対的経年の若返りには努めてきたし中古の買い物も同業他社と比較して巧い方だと思う。
東急丸抱えの伊豆急なんて開業当初の一時期を覗き中古や借り入れと無縁だったのに今では、同じ東急系で昔は戦前生まれの古豪の巣窟だった上田にも車両経年では追い越される始末。 上田は東急からの落下傘部隊が保守してるからなぁ…
伊豆急は国鉄と仲良くしなきゃならないし、其処まで尖った事は出来なさそう…。 国鉄車の乗り入れ乗務は、自社乗務員で対応?
過去にキハ58とかも入っているけど、そのときダケ例外※内燃の為(自社乗務員添乗とか?)
それとも当初は国鉄職員による運行?後に自社乗務員担当に変更? 地下化後間もない頃に訪問したことがあったが、
ちょうど冬ということもあって本当に寒かった
まさに底冷え
市役所前で待ってるお客さんはみんなガタガタ震えていた
あれから三十数年抵抗器の熱やクーラーの排気などが蓄積されて
今はどうなってるのだろう 駅構内は禁煙だったのな?
地方はその辺が寛容なところがある 地下駅はどこでも禁煙だと思ってたが、そうでもないのか 建前上は禁煙だが(表示もある)。
無視して吸う客も近頃は殆ど見かけなくなった。
…ってか、客自体が少なくなってるけど。 かつて長野電鉄でもデラックス特急車の新造計画があり、その特急車の想像図は
名鉄パノラマカーとそっくりな車両だったとか 駅にはあったよな灰皿
地下鉄駅のあのタバコ臭さとカビ臭さが合わさったような匂いが懐かしい
二十年くらい前の話しだけど 2000系の車内にもあった。
戸袋の所以外の窓の下に付いてた。 >>22 そりゃそうでしょ。
地下を走る房総特急だって禁煙じゃなかったし・・・
地鉄にちょっかい(グループ支配下に収めようと)出した名鉄が、(他にも北鉄、福鉄、大井川等を傘下に収める事には成功!)
が、長電についてはそういうハナシを訊かないのは何故?
車両面(志向的)には名鉄的傾向が強かったのに・・・
財務、労政等 名鉄に足元を診られる弱みが無かったの?
地元資本が寄せ付けなかったの?
単に 名鉄から診て魅力が無かっただけ? 以前は一般列車も地下駅も喫煙可が当たり前だったわな
JRも、発足当時は地方の普通列車がほとんど喫煙可だったし
一部禁煙車・禁煙区間・禁煙タイムなどがあったにせよ 2000系C編成にあった、ラジオ受信用のアンテナが目を引いた。
また、昭和30年代後半〜40年代前半の一時期、
2000系4編成のうちこのC編成だけが旧塗装で残った事も。 2000系の茶色の旧塗装の編成は「くり饅頭」、赤とクリームの編成は
「りんごっこ」という愛称があった >>27
愛嬌のあるスタイルだからファンがニックネームをつけたくなるいでたちなんだろうな 長電の地下線区間ってトンネル径が大きいの?(失礼ながら工事予算に制約がありそうなのに良く出来たなあ?)
それともA-A基準(電車の妻面を 貫通にする・しない?)って地下区間の距離も縛りがあるの?(長電は距離でクリア)
地下線区建設で地下線区に入れない(対応改造が困難)旧型車が多数淘汰された訳だけど、
そもそもロマンスカー2000系よりアトに 車体を新調し更新した1100,1200,1300が淘汰され 豊橋と伊予鉄に追い出された理由が解からないのだが?・・・
上記3両の代わりに、地下線NGの1500が残った理由も不可解。 そこまでわかっているなら、回答を出せるはず
あと少しがんばって! 長野電鉄2000系の赤とクリームのツートンの旧塗装で前面にスカートの
取り付けられていない先頭車の前面スタイルは女性的な感じがしたね りんごカラーで揃えてた頃のが魅力的だったな
10系OSカーかっこよかった >>29
地下線化後の1500系は屋代線専用でしょ
単行で行けるとこなんて最適じゃん その単行可能な1500形の後継車を欠いたのが、木島線・屋代線消滅の一因だったような気がする。
元東急の「青ガエル」を両運化改造したとこもあったと記憶してるが、
聞くとこによると、長野電鉄は「改造嫌い」らしくて…。 >>34 改造嫌い・・・内容によりけりでは?
信濃鉄道の木造買収国電の1100グループへの鋼体化
2000の冷房化
3000のワンマン化
8500だって譲渡時 先頭車化しインチキ貫通飾りつけたのも居るし・・・
東急5000が2500として活躍したのは嬉しいけど 国鉄157系が譲渡されていたらと悔やむ
・・・微妙に長電塗色で印象、イメージが変わって残念な姿に変わり果てていただろうか?
長電は同じ二色塗りにしても車種ごとに(似合う様に?)塗り分けを変えて拘りを感じて好感がもてる! 長野電鉄には前面が国鉄EF58に似たスタイルの電気機関車が在籍していたな >>35
2001編成なんか台車や電気品を3500系と同じものに交換したしね。
それゆえに保存車となったのに部品取りされてしまったが。 10年前の大減便の衝撃は忘れられない。
五輪に絡んで増発したのは正に「泡沫の夢」と思えた。
完全にそれ以前に戻っちまった印象だから。 それでも長電と江ノ電はマメに既存車両に手を加えてゆくので(補修じゃなくてアップデート)
車両に対する現場のヒトの愛情をかんじる。 >>38
「それ以前」どころか、さらに後退なんだが…
1980年代にはすでに日中の長野〜朝陽間15分間隔があったから、
その基準さえ満たさないレベルにまで落ちたとみるべき。 長野駅での長野電鉄と他社との接続は昔からもう1つだな。
以前は朝一番の新幹線に間に合う電車がなかったり(2011年2月に設定)。 下り一番電車が長野626発と聞いてビックリ
夜行に接続しスキーや登山客を運んだ日々も今は昔… 志賀高原なら長野駅から急行バスで直行だからな
今はあまりないけど帰りに渋滞すると湯田中で長電に乗り損なってえらいことになるから、長電自身が電車をあまり奨めてない 国鉄から「志賀」が乗り入れてきた事もあったが、”今は昔”だ…。 長野電鉄は2000系やOSカーなど昔は電車を自社発注していたが、
最近は他社からの譲渡車が多いのは、長野電鉄には新型電車を車両メーカーに
発注して新造するだけの資金がないからだろうか 地方私鉄はどこも同じ
新車を買うと一気に減価償却が嵩み、大赤字に転落
それ以前に銀行から借入できるか? 車両メーカーによる地方私鉄向け規格型の新車を買うよりも、大手私鉄の中古車を導入した方がコストパフォーマンスが高い、ということなのかなあ 末端視線こそ廃止したが、長野市内の地下化
中古とはいえ他社と較べ かなり上質な中古車両(ロマンスカー)のを調達手配してくるのだから長電は、かなり優秀というか健闘していると思う。 元東急青ガエルの2500系は、東急時代は下部にあった尾灯が
前面窓上部に移設されたり、助士席窓下にタイフォンが設置されたり、
客用ドアの窓が高い位置にあったりして、前面スタイルが不気味にも
見えたりしたな >>50
ドア窓が上に小さくなったのは東急時代にやってたはず
ラッシュ時にガラスが割れたり外れたりしたからだったかな 赤蛙の急行灯の尾灯転用は不可解だな。
元々の尾灯じゃ低すぎたの?(降雪時の視認性とか?・・・そのままじゃ微妙に 特急車2000より低い気もするし・・・)
あれで東急5000の可愛らしさが失われ残念だった。
・・・その後 福島で既存尾灯を埋めない可愛らしい赤蛙が登場したのは、少し嬉しかった。 あの頃の長電には灯火をなるべく窓より上に設置する方針があった
下にあると踏切事故で壊れやすいのと、前照灯が下だと乱反射してよく見えないからだそうだが、じゃ今は何なの?と聞きたい気はする 赤蛙以降、片運転台車や中間車ばかりが導入されて、
それが旧河東鉄道の殆どを消滅させる結果に繋がったと思うと、
何ともやり切れない。
一時、クモハ119の両運車を屋代線に導入したら、なんて話もあったらしいが。 >>53 灯具の下配置は踏切事故うんぬん・・・
結局あまり根拠ないんだよな。
東急8090(特に初期車)が下部に設けたとき 東急線は踏切事故が少ないから問題があまりない・・・
結局、自動車はともかくヒトはよくぶつかっていたし・・・
当の8090は、踏み切りの多い大井町線に早々都落ち 早くから遮断機や障害物検知などを整備した大手と、
ろくに警報機もない中小の違いもあるのでは? 0系・10系は新製時点で「前照灯も尾灯も運転台の上部」になった。
これは、従前の長電車両(旧型・2000系)にない特徴だった。 0系4連なんていう大輸送力の電車が運転された時代もあった。 ま、そのために造った車両だしな
地方だからこそ、特定の時刻に客が集中する 少子高齢化が進んだ今日 初代OSカーが必要性に迫られ時代を先取りし4ドア車として導入されたのに、
現在は、必要性も無いのに安価中古車両で条件に合うものが無いが故に大量に中古導入された4ドア車が地方私鉄に多数散在
なんと皮肉なことか・・・。 0系、3ドア両開きでもよかったんでは?
大手私鉄の西武が3ドア両開きの車両造り続けてたころでっせ。
当時の長野市内の混雑といえども、東京ほどではなかっただろうし。 2〜3扉だと奥まで詰めにくい、混雑が偏る、停車時間が延びるとかあったんじゃないの?
で、最ピークの要注意列車に都市形電車を投入
長野に限らず、地方の人は東京のような乗り方はできない
東京の混雑が異常だけど >>63
10系は3扉に変更された。
まぁ、これが登場した頃(1980年)はモータリゼーションの影響が露見してきて、
客も減少傾向にあったんだろうが。
前年は貨物列車が全廃されたし、2年前には、権堂・須坂・信州中野停車のA特急が消えて、小布施にも停まるBに変わってた。 背伸びして4ドア両開きの0系造ってみたものの、冬季の車内保温で不利。中間の2ドアを閉じていても隙間風が入る。
混雑もそれほどでもない。3ドア両開きで十分か・・ってことになったのでは? >>66
もしそうだとしたら、8500系の譲受で4ドア車再導入となったのは皮肉だな。
当時の状況からしたら、西武101なんて長電にうってつけだったろうに。
3ドアでしかも抑速ブレーキつきだし。
まあそれでも8500になったのは、4ドアのデメリットがあってもなお、無塗装の
メリットを優先したという事か。 多扉車の効果が長野ではイマイチ発揮できてない
ラッシュ時の客数も減ってしまった。 キハ58の急行「赤倉」が乗り入れたとき、乗務員は自社で受け持ったらしいけど、
動免の養成は何処で行ったの?(政令制定前だとしても教習は必至だな。)
そもそも、そうそうシーズン以外必要性の低い資格だし 緩い時代とは云え、
取り扱いミス防止に担当者は相当苦慮したのでは? >>71
>キハ58の急行「赤倉」が乗り入れたとき
どうでも良いけど初っ端から大胆に間違ってんな
>そうそうシーズン以外必要性の低い資格だし
これも意味不明 今となっては、「赤ガエル」以前の旧型車両がよかった。
両運転台付で単行運用もできるって意味で。
8500系3連なんて、この車両の「生家」の東急池上線・多摩川線より輸送力でっかいんだから、
大いなる無駄。 大型3両ならラッシュ時に詰め込めるから、多少の不自然はあっても結果的に効率化できるんじゃないの?
ラッシュ4両・昼間2両が実態に合ってるとはいえ、それでは保有車両が増えてしまう
あと、池上や多摩川は本数が全く違う テスト期間や部活の遠征に対応した増結手配を取る時代では無いからな… 119系の両運車を屋代線に入れる、なんて話も聞こえてたが、
ほんのちょっとの可能性でもあったんだろうか…。 45年前頃、「本郷ステーションデパート」なるものが出来て、
当時のC特急は、それまで停まっていた善光寺下を通過、代わりに本郷に停車となった。
長野市にもドーナツ化現象が起きてたんだろう。
しかし今、そのステーションデパートは見る影もない。1店舗も入っていないと言っていい。
「栄枯盛衰」を痛感させられる。 専門店街だな。
間違っても伊勢丹や高島屋をイメージしてはいけない 1000系の最晩年に乗車した記憶が微かにあるが、
扇風機が天井についてる車両はあったかなあ そんな気の利いたものは無かったよ
夏は窓を全開にしてれば風が吹き込んできてそれなりに
涼しかったので、冷房車への渇望感はない
ただ地下線が出来てからそういう感覚は無くなったな