懐かしの珍改造車を語るスレ©2ch.net
根室拓殖鉄道キハ3
と言っても当然自分には乗車体験が無くて地元の郷土史家の方に話を伺っただけだが、
当時はそれほど奇異の目を向けられることなく、利用者には受容されていたらしい。
では、どうぞ。↓ >>385
結局わかってないんだよね。
乗車した人がシートピッチが異なっていたと言ってもいるようなのだが、
実際にメジャー当てた訳では無いのだろうしねぇ。
サハに運転台を付けたクハ165やクハ455と比べると、
201号は本来のクハと車体長に違いは無さそうなので、車体新製ではないかと思えるけれど、
それも感覚的なものだしなぁ。 付けた座席がどっかで発生した
似てるようで微妙に背の厚み違うとかの
ものなら、シートピッチ違うとか
言われてもおかしくなさそうかな
あと、種車の台枠を行かして先頭改造するとして
オーバーハングが40センチ詰またらあからさまだろうとか、
それを回避するために台車中心間
わざわざ詰めるのかとか、
だったら連結器前に出す形のほうが
車端強度補強しやすそうとか
考えてしまいますな。 車体新造だとして
どこかで見込みで作って死蔵してた
クハの車体を引き取ってきて付けたが
そこらへん帳簿的に誤魔化しておきたい
事情があったとかの方が面白いかな 長野電鉄の601・602→611・612。
湯田中方の運転室が広がって(多分)、そっちにのみ乗務員室扉が付いた。
併せて、先頭の窓がR付で且つHゴム支持式に。 今も不思議に思っているその客車が改造車かどうか?
昭和30年頃の北海道では長距離の普通列車に
(1,2,3等があった時代で)2等3等が半分づつの客車が連結されていた。
出入り口のデッキは両端に合って、2等3等の境にトイレと洗面台があった。
2等車はゆったりしたボックス席で窓もピッチは合って広かった。
3等車の方は狭いピッチのボックス席で窓ピッチと合っていた。
2等車が普通列車に連結された理由は後年分かったのが、
当時の役人(公務員)の出張旅費規定で、
役付きだと2等車だったからと聞いた。
車両全体が2等車では大きすぎるので半車合造車だったと。 ただしこれはデッキが中央にあるから。記憶ちがいでは・・ >>393-394
これは合造寝台車なので、
私の記憶とは違います。
私のコメントは座席車です。 >>391
便所が中央にあるのは最初から新製の二三等合造車
スロハ31(32系)・スロハ32(35系)の類
窓の感じからすると32のほうか
寝台車を改造したスロハ38は便所が端部 >>393
ナロハネ10〜オロハネ10の
2等3等合造寝台車は、
夜行急行「かいもん」(小倉・)門司)〜博多〜西鹿児島に
連結されていました。 屁理屈だけど、その種の車両、本来は「オ(ロハ)ネ」みたいな表記にすべきじゃないかとか思ったり。
「オロハネ」じゃ、「グリーン車(座席)+B寝台車」とも取れなくはないから…。 >>398
二等座席車+三等寝台車だったら、オハネロ、ってなるんじゃないか? マロネロ38があったジャマイカ(Cロネ+ロザ)。
>>398
の「グリーン車(座席)+B寝台車」なら、
オハネロになると思われる。寝台が座席より上らしい。
北海道に一時期オハネ14の寝台1画をグリーン席に改造したものがあったが、
あれはまあ、オハネロ14とするべきだったんだろうなぁ。 サシ489-12 → サシ481-83 → サシ489-83。
形式は戻ったが番号は戻らず。 169系の座席を簡リクシート(元新幹線)に置き換えた車両。
客室とデッキの仕切り扉も新幹線風になったが、自動化はされなかった。
それにしても、あの車両がもうちょっと早く登場してたら、
到底その名に値するとは思えんような特急の濫造、は回避されたような気がする…。 1970年頃だったか?
急行形の製造が中止になった時点で、特急格上げがみえていた
中には、快速格下げもあったが そう言えば、先のサハシ455-18以外にも、
営業を終えたビュフェを普通車に改造する話があったとかいうが、
実現してたらどんな車両になってだだろう。 サロ489-1004からMG・CPを撤去した同101。
設置なら分かるけど、撤去の必要性って何処にあるんだろう?
重くなるから? >>406
サハシ165で見ると、まずビュッフェ側に運転室というのは、資材搬入ドアの戸袋が
車端部方向なので無理っぽい。
ハ室側に運転室を取り付け、中央ドアをそのまま、旧ビュッフェの資材搬入ドアを
自動ドア化して流用。食堂部分に窓新設と、通路側だった部分の窓高さ下げ、
全然ピッチが合わない座席取り付けで、クハ165-500番台。元の冷房MGが生かせる。
窓配置はクロハ49みたいな変則的なものになるだろうねぇ。 >>408
何か、車体そっくり新製するより面倒そうだな…。
出来てたら、間違いなく「珍改造車」だったと思えるけど。 サロ165(455)→クハ455-600も車体やドアや窓から座席までそのまま使って運転台部分をくっ付け。
東北にいた車は座席を近郊化の際にセミクロスとロングにしちゃったが、九州は座席は座席は変えず
ロングをつける等の近郊仕様にせずに使って終わった車も多い。
冷房はAU12S車が大半で13Eは九州にいた車しかいなかった。
(種車の内サロ165はAU13E車は130〜133の4両だけで種車に使ってない)
何故かあれだけ急行型がいた北陸にはグリーン車改造がいなかったのは珍しい(クハ165らの300と400番台はいたが)。 珍改造車というより、存在自体が珍奇だったキロ58だけど、
これは冷房化されたんだろうか…? キロ58は、製造から約5年で冷房化
冷房化から10年で廃車
あまり目立たない存在だった >>412
サンクス。
結局、中央東線の電化(キハ65の登場)で、キロ58は厄介者になったんだろうな…。 ED73は、22両全てが高速用1000番代に改造されたが、「新番号=旧番号+1000」、でなかった。
改造が製造番号順でなく、且つ新番号を改造順に付けたからだろうが、
律儀というか、杓子定規というか。 >>412
電源機関ないから冷房あってもキハ28から貰わないと使えないしまして運転台がない中間グリーン車だし
使い勝手の悪さが祟ったなあ。なくなったっていうよりキハ40の車体に替えてキニ58になって
常磐線の荷物列車用で暴走運用しておしまいだしなあ。 外吊式のドアから引戸式に改められた、初期の交直流型急行電車。
後年の車両は最初から引戸式になったが。 >>415
4VK付けたキハ28や65が多数配置されていた高山線に転用されたけど、
あまりうまく使われなかったようだよね。
>>416
枕梁部分に前ドアのステップがかかって、強度が不安だったからと言われていたが。
あまり問題なかったようだね。
>>417
キモ >>416
改造によってノーマルな形態に
なったのだから珍改造とは違うかと
むしろ珍新造車? 大阪環状線に最後に残ってた103系。
元と大幅に見た目が変わったけど、
そんなカネかける意味あったんだろうか…。 モハ301-4・モハ300-3→サハ301-101・102。
別に「サハ301-1〜」なんて車両はないにも拘らず、改造後の番号は101〜になった。 >>422
体質改善の経緯を調べなよ
自分の知識が少ないのを晒しているだけだぞ >>423
モハ300-9→サハ301-103も。行き場を失ったモハ301-13は放置プレーの上廃車された。 それにどれだけ金かかったんだよ。
ホントに経費に見合う効果あったんか。 >>426
イチャモンつけたいなら、まずはつける側がそれを証明しないと 185系気動車のローカル転用改造車。
座席のリクライニング出来なくした、ってのが何か笑える感じ。
そんな事しなくたって、元々特急用に足る車両とは思えなかったけど。 >>426
JR西日本のえらい人が、新車同様に化けた東武8000の修繕工事車を
見ちゃったんだから、真似しようと思うのは仕方ない話。
103は台車の出来が絶望的だから、あれにカネかけるのはねぇ >>429
東日本大震災で大津波に飲まれたのもLCカーの205系だしな。野蒜か高城町だっけか。 209系のボックスシート設置改造車も似たような印象。 4ドアクロスで落成し、長期にわたって使われ、
その後ロングシート化された近鉄2600系、2610系のほうが
珍奇な改造にも思えるが。 そう言えば、長野電鉄10系の窓配置は、クロスシート化改造も考慮してのものとか聞いた。
実際はそんな気配は全然感じられず、剰え、より高齢の3500・3600系より先に消えちまったが。 秩父鉄道に行った、元101系(国鉄)・165系。
前者は、3両編成の真ん中だけ非冷房だった(筈)。 >>435
>
> 前者は、3両編成の真ん中だけ非冷房だった(筈)。
然り
で、教えていただきたいのですが元東急7000が長生きしなかったのは車両長?非冷房? >>436
秩父での短命は、非冷房の上4連で短縮出来なかったため、と言われている。
簡単ではないけど西武701系のFS-342台車とMT54相当モーターに換装し、
冷房装置搭載の上Mc-M-Tcにしていれば良かったのかもしれないが、
いかんせん20メートル車が標準であった秩鉄にステンレスとはいえ、
18m車を入れたこと自体がダメだったんだろうな。 御教示ありがとう
冷房は国鉄101系の例もあるので横に置いといて、18メーター車4連がオーバースペックだったということですが、確かに3連にするわけにも行かなかったでしょうね 国鉄の鋼体化改造車宜しく、
18m×4両→20m×3両
なんて改造が行われてたら、それこそ「珍改造車」だったんだろうが、
流石にそんなわけにもいかなかったんだろうな。 >>437 元々、あまり長く使うつもりがなかったんでは?
90年代にもなって、地方私鉄への譲渡車両を冷房付きに改造するのが当たり前。
福島、水間、北陸に行った東急7000は、床置式にしたのも含め冷房改造している。
そして、3両ないし2両編成にしているわけだし。
秩父の場合、小田急1800など旧型車の更新考えてたところ、偶々東急7000大量放出されたので、最小限の改造で繋ぎとして入れたということなんでは? 440続き
秩父は、セメント輸送で儲かっていて旅客輸送は片手間でやってたから、小田急1800、国鉄101、東急7000と最小限の改造で安価で導入できればよい、という考え方だったのでは。
それが変わってくるのが都営6000入れたころからか。
吊りかけ非冷房の電車で有料急行走らせていても、行楽客の需要があった頃は楽勝だった。 短命スレの話になってしまうが、かつては国鉄が72系等の吊りかけ車を地方線区にほとんど無改造で転用したのと同様、大手私鉄からの譲渡車もあまり改造してなかったわな。
1500Vでない地方私鉄で走れるようにするための電圧降下改造以外。
非常に安く譲り受けた中古なんだから、手を加えずに寿命来るまで使えばいい、という発想だった。 >>441
三岐も旅客は二の次でセメント輸送で儲かってるようなものだよな。筆頭株主がセメント会社だし。
特に東藤原の炭酸カルシウム・フライアッシュ輸送が大きい。荷主は中部電力だし。 旅客輸送にテコ入れしないと路線の存続が難しい、
時代遅れの車両を更新しイメージアップを図りたい、
とはいえ、新車造るだけの予算がない
そんな事情で譲受車を大改造して入れる。福島交通なんてそんな感じか。 >>437-438
管轄の陸運局(?)によって見解が違うところがあるんだけど、
秩父鉄道の場合は、3両編成じゃないとワンマン運転を認めない、ってことだったので
より古い国鉄101のほうが長生きしちゃった。
地上側の設備を整えれば、4両編成でも認めてくれるんだけど、ホームにカーブミラー
付けただけだとダメみたい。
現に東上線や西武秩父線は4連のワンマンカーなんだし。 パンタグラフからの集電に改造された、元銀座線・丸ノ内線の車両。 元銀座線のは複数存在するけど、丸の内線のはアルゼンチン以外譲渡車はないんじゃあ 現存する分はそうかな。
旧・日立電鉄に元丸ノ内線の車両が輿入れしたと思ったけど、記憶違いだった…? パンタ集電化に加えて、大抵台車も狭軌用に換装したんだろうから、
相当手間のかかる改造だったと思われるが、新製するよりは安かったって事か…。 日立電鉄の元・営団2000系、夏は暑かった。水郡線支線にキハ110が入り、常磐線中電は100%冷房、バスも同様だという時期に・・
冷房化する位なら新製した方が安かったのかもしれないが。 日立電鉄は18mの中型車すらも入れなかったからもある。
旧式車両は変な出所の車があったり気動車を電車にしちゃったのまである。ほとんどが14〜15m級の小型車ばかり。
冷房すらつけられなかった。既に経営も行き詰まっていてモハ3000形2両が注文倒れになり、
それをもらったのが銚子だった。 サイズ的には、地方鉄道にはうってつけと思えるが…。事は単純に運ばないもんだ。 クハ164の種車は、何でクハ153の0番代だったのやら。
500番代だったら、見た目は165系オリジナルの先頭車と釣り合い取れたと思えるが。 それより、何でTc164-1〜4は非冷房車を改造して短期間で廃車にするようなことになった、ってことのほうが疑問だわ >>437
>>440-441
当時の秩父鉄道車両置換名目
1000系(←101系) :100系、800系(←小田急1800形)
2000系(←東急7000系):500系
3000系(←165系) :300系
自社発注500系は2扉一般車でWC付(当時は使用不可)だから
ラッシュ時には対応できなかったとかで、適当なのを探してたら?
偶然にも東急7000系が4連4本分丸ごとあったので導入したとか >>453
旧国17m級はOKで、私鉄18m級がOUTってのが大雄山線と似てるな・・・
こちらの方は、同時期に17mの新車が入線してる >>453 静岡鉄道の100形が譲渡されているが、長さ17.84mでほとんど18m車なんだが。
同じ車体長の静岡鉄道1000を18m級としているのもある。 日立電鉄、京王の2000に狭軌用の台車取り付けて入れるという選択もあったのだろうけど、金がないからやらなかったのかな?
元・静岡鉄道の車両があるから急ぐ必要はないと考えていたのか? >>462
タイミングが悪い、1979年の静鉄100形1本と同時期
相鉄から5両が入線(元小田急のモニ3両、旧国と青梅の更新クハ→クニ2両)
その直後に京王2000・2010系の大量置換は無いな
2010系全廃の頃に静鉄350形1本入線だからな C61(62)は、名目上D51(52)の「改造」だったとか…。 >>464
名目上も何も、実際に足回りを交換して大改造したものだよ。
「ボイラD52***」という元のボイラを供出した号機を示す、
小さい銘板が付いていたりした。 渋谷駅のハチ公広場の横に置かれている、
旧東急の「アオガエル」
ちょっと短いなと思ったら、
三分の2に中抜き切断して端部を溶接して、
元の車両風に復元したのね。
廃車の有効利用だけど・・・ >>465
東日本C61-20も拠出した元のボイラーのD51はいわゆる戦時型だったような。拠出元のD51表記もあり。
C62-2と3はボイラー拠出元のD52表記がないような。
足回り全取っ替えでなくD51とD52に軸重を軽くするために1軸追加したD61 D62はろくな使われ方しなかった。
D61はD51が入れない留萌線で使ったがほどなくD51でも入れるようなってろくな使われ方せず飼い殺し。
D62は函館線だっけ。 115系3500番代(元117系)。
これに当たった客は、「普段(先頭車両)より乗り心地いい」とか感じたんだろうか。
台車が空気バネだから。 仙石線103系の非冷房時代にあった、自販機つき車両。
103系に自販機なんて、首都圏じゃ考えられない。 AU75系クーラー設置準備工事したとこにJR東海独自のクーラー載せた車両。 101系1000番代。
他の車両に例を見ない、難燃化改造車。 >>472
開業がもう少し早かったら72系が入っていたんじゃないか、って路線だからな。
車体は新しいが足回りが古いモハ72-970と101-1000、
武蔵野線にとってはどっちが良かったんだろう。 >>473
結局冷房化されなかったのだから、72790で良かった気もするね。
101-1000化の種車は初期車が多く、保守には結構苦労しただろうし。
ただ72999まで番号が行ってしまい、どうなるかが趣味的には面白かったかもw 新京成のツリカケが乗り入れてた頃の北総線がそんな感じだったと聞く >>474
そこは知らん顔で721970とか(笑)しかし仙石や身延同様、短命だったろう。
もっとも導入するとしたら1973年だから例の水害(1974)より前、ならば970は作られず、72920や更新車で賄われたかもしれない。 で、後年103系が武蔵野線に投入された折、K島R三なる人物が、
「いくら101系より難燃性が高いとは言え、難燃化改造しないのは危険ではないか」
なんぞとこき下ろしてた。 >>478
203製造開始で常磐快速線に103-1000が転属していくのを見て
何故それを武蔵野線に入れないのか不思議に思っていた幼少期のオレ。
そこから玉突きになった103の0番台が武蔵野線にやってきていたから。 防火対策も、「57・11・15」改正で、183系非貫通型が東京―錦糸町間に乗り入れるようになってから、
どうなってるんだか分からなくなった。
特急先頭車の「貫通型化改造」なんて例はないけど(中間車の先頭車化は別にして)…。 >>480
散々言われてるけど、東京トンネルは長大トンネル扱いなんでA基準だったから、地下鉄A-A基準と違って貫通扉は必須ではなかったんでね。
今はどちらの基準も廃止されてるけど 72970番台の投入は、実際に検討されていた。仙石線のグループは、
A基準相当の難燃性を備えている。当時量産の103系も同様。
番号の問題は、暖地向けということで、クハ79701〜、モハ72750〜、サハ78600〜
あたりになったかもね。
>>479
実際武蔵野線への103系1000番台直接投入による101系1000番台淘汰は検討された。
しかし超多段制御器の保守を、松戸と三鷹だけに担当させたいということと、
豊田側も難色を示したらしいので、結局玉突き転属になった。
もし103-1000の武蔵野線投入が実現していたら、あのお面でオレンジ色にw 60・3改正で房総特急が6両で運用されるようになった折、
サロ183を先頭車化した「クロ183(182)」が登場しててもよかった気がする。 鶴見線用に、Mc'+M+Tc、の3両編成になった205系。
普通はMc+M'のユニット、つまり奇数の方を「クモハ」にすると思われるが、
この205系改造編成は逆パターンになってる。 >>484
不勉強で申し訳ないが、何故そういうことになったのかご存知の方おられますか?
ひょっとして2連を持つ関係でクモハ204を多めに持っておきたかったのでは?と思うのだが