懐かしの珍改造車を語るスレ©2ch.net
根室拓殖鉄道キハ3
と言っても当然自分には乗車体験が無くて地元の郷土史家の方に話を伺っただけだが、
当時はそれほど奇異の目を向けられることなく、利用者には受容されていたらしい。
では、どうぞ。↓ 国鉄の瓦解を象徴してたような、715・419系(元581・583系)…。 特急車両をあんなみすぼらしい格好に改造して、何やってんだかと思わざるを得なかった。
今風に言えば、「国鉄、終わった」って感じがした。 使わないトイレの区画を撤去ではなく封鎖で乗り切ったりとか
長く使う気は最初からなかったから、最低限の改造だけで済ませてあの状態。
715は当初計画通り割とあっさり廃車になったけど、419は長生きさせすぎだったな。 >>319
ドアがワンクッション遅れて閉まるんだけど、バーンとかドッカンといきなり閉まるギロチンドアだった。
総武線にいた751〜754はみんなギロチンだった。あと772は幕がないのもそうだがこいつだけ
黄色が変色した車だったりした。 モハ403-1→モハ401-26。
何でスペックダウンの改造なんだよ(モーターの出力120kWh→100kWh)。 >>318
昭和48年関西線電化に伴い環状線にピカピカの冷房車が投入された。
中間車にみすぼらしい非ユニット窓車が連結されていたから良く目立った。
後に関東からとんでもないセコハンのクハを大量に受け入れる羽目になるのだがw >>325
むしろ相方を事故で失ったモハ400-26をモハ402に改造すべきだった >>328
モハ402-1の廃車(踏切事故)のとばっちりでモハ401-7が廃車されて、
この相棒のモハ400-7と、モハ403-1変じたモハ401-26がユニットになった。
さっぱりわけの分からん話だけど。 さらにクハ401-101なんて変な車まで作ってるな。しかも車がなくてクハ115から改造してまで。
しかも401系の最期まで看取るとは。 相鉄3010系→3000系
VVVF改造したから、たくさん居た6000系を差し置いて最後の低運転台車だったのも印象的。 >>318
T773・774・776の3両は非冷房のまま廃車となっているよ。 >>329
すまん間違えた
モハ400-26ではなくモハ400-7だった
つまりモハ400-7の方こそモハ402に改造されてモハ403-1と組むべきだった >>333
もちつけw
事故でクハ401-52とモハ402-1が廃車。
さらに401系が踏切事故でたんぼに落っこち、クハ401-13とモハ401-7が廃車。
それでモハ403-1をモハ401-26に改造。うまいこと4連に戻る。
モハ400-7をモハ402に改造した方が合理的にも見えるけど、
主電動機の出力が上がることで改造する部分が多くなるのを嫌った? 貨車改造の豊鉄サ201。琴電と違って戦後落ち着いてからの改造というのも異色。 「嘘から出たまこと」みたいな、103系3000番代。 古谷の車庫に止まってるのを見て、あれ、高運の非冷房車なんてあったっけ? と思った。103-3000。 量産化改造された201系900番代。
元モハ201-901のサハ201-901の屋根上には、パンタ台座が残存。 サヤ420→モハ420。
これは珍改造っていうより「珍種車」って感じだが。 >>341
> サヤ420→モハ420。
> これは珍改造っていうより「珍種車」って感じだが。
どうだろ
元からそのように設計してたのだから、改造というより復旧かな
旧に復したわけではないが 臓器移植したみたいな、183-800と415-800。 クハ381→クロ381(紀勢線)とサロ381→サハ381の抱き合わせ。
共に座席と窓の位置が合わなくなった。
単純にサロの先頭車化、じゃいけなかったのか…。 >>345
アルミカーの先頭車化改造は、思いのほか手間がかかるようだ。
なので、今後の寿命も考慮して、多数の手をかけて先頭車化するよりも、
基本座席の交換だけですむ方法にしたのでは。 クロ381はクハ381タイプでも貫通形と非貫通形の2種類がある クモハ119の両運化改造車。
常識的には、片運を両運にしたら形式が変わる筈だけど、「番代」が変わったに留まってる。 >>348
クモハ119Aとか?
奇数と偶数だけしか選定出来ないと、矛盾が生じてしまう例ですな。 >>348 富士急の両運転台キハ58は? 国鉄保有でないのに、何故種車の形式名を踏襲しているのかね? >>350
富士急のキハ58は、何かを種車に改造したわけじゃ無いよ。
最初からあの形態で新製された車輌。
国鉄車と同じ形式なのは、当時の私鉄の国鉄乗り入れDCの類、みんなほとんど同じ。
国鉄の基本設計をそのまま採用していたからね。島原・南海・富士急。
独自形式で乗り入れていたのは、小田急くらいか。 国鉄のキハ56→キハ53の改造車(両運化)見た時にはぶったまげた思いだった。
キハ53に編入するってのが理解し難い思いだったり。 >>353
ちなみに急行運用にも使用されていて
増結車として札幌発着の急行にも担当されていた >>353
旧国鉄のDCの形式符番の法則を考えたら、両運転台にしたからには
56を名乗り続けるのもおかしいんだよな。 >>355
確かに、当時新型車両のキハ54も登場してたから、
結局、2エンジン両運車用の空いた形式がなかった、って事にはなるか。 実際キハ23形の2エンジン型がキハ53-0番台として既にあった。車体はキハ23と同じ両運転台で2扉の両開きだが。
本州型はキハ58に両運転台にしたキハ53-200番台で、東北では只見線や氷見 城端線で使われていた。
会津若松にいた只見線型は非冷房車だが氷見 城端線型は冷房車だった。
(無論電源機関のあるキハ28がいないと使用不可)
オリジナルのキハ23車体で作られたけど財政難で安くあがるキハ58改造のが経済的にもよかったからだろうか。
ちなみに道央〜道南周回急行「いぶり」や東北の1両編成の急行である「いなわしろ」や「なつどまり」は
キハ22やキハ52等が使われていた。
急行「いぶり」にキハ53-500やキハ24(キハ23の北海道型)を使っていた話も全くないし。 気動車の形式付番については矛盾も多い。
形式の1の位、0〜4が両運転台、5〜9が片運転台のはずなのに、
キハ60(片運)、キハ65(片運)、キハ80などの特急形がその基準に合致しない、
キハ50、キハ51も片運。大出力の通勤形がもし出来たら、適当な形式を割り当てられない等。
本来、キハ56や58の両運化改造車が出来たら、キハ59あたりを名乗らせるしかないのだが、
ジョイフル車に使っていたためか、59と29をジョイフル系にリザーブしてしまい、
本来近郊形である53に編入しながら、北海道では急行にも使用とか、矛盾を重ねる
ことになってしまった。
100番台の形式と10番台の形式で新形と旧形(制御電圧の違い)としてわけたのだが、
それも混乱の元に。 そもそも形式1の位の付番方式は明文化された規定だったのだろうか?という疑問は置いておくとして、キハ50や51が登場した頃は二台エンジン車がまだ手探り状態だったから例外的な付番になったんだろうか
あと例外的といえばキハ60もそうね キハ56の両運化がキハ53、ていうのは、
晩年の113系のグリーン車を何でもかんでも「サロ110」にしてた事に通じるような…。
元サロ152を「サロ112」にしたのは何だったんだって感じ。 >>360
純粋に113系のグリーン車で新造したのが最初サロ111で、サロ110の0番台はサロ153からの改造車で、
そのあとサロ111以降がサロ113とサロ110-1200しか全く新造して作っていなくてほとんど改造車ばかり。
サロ112らがあった当時リクライニングしたのはサロ110とサロ112とサロ113だけで111は
回転するだけの座席だけでリクライニングすらしなかった。
サロ113は定員48人と少なすぎで17両で生産打ち切りされた挙げ句に一時期全部大阪の新快速に追い出されてる。 >>360>>362
サロ110-300・350・400・1300・1350番台は、定員からは本来サロ112か113だが、後者は113系本来の新造車だし、前者は廃形式済で再利用したくなかったんだろう >>361
キハ60と65が、同じ片運大出力なのに、整合が取れてないことを言っているんだよ。
気動車の体系は、形式十の位0は機械式、電気式、1〜2が1エンジン、3が通勤形、
4〜5が2エンジン、6が大出力エンジン、8が特急形、9が試作など。
一の位は上に書いたとおり(国鉄の職員が書いた雑誌記事などに依拠)。
十の位に上位概念(車輌のタイプなど)と、下位概念(エンジンの数など)が混在
するように制定されているのがそもそも問題。特急形のエンジン数の違うものを、
上手に形式分け出来なかったりするのだが、どうも5と6については、当初運転台を
考慮しなかったふしも?。
>>362
サロ110の0番台は、153系のリクライニング化で捻出されるサロ153を有効活用
するためと、サロ111に乗務員室が無いのを補完するため。イスもリクライニング
しない。
サロ113は成田空港開港に向けて、総武快速に連結し、外人観光客の体位を考慮し
特急形なみのシートにしたものだが、当時の編成数が17編成だったためらしい。 サシ489→スシ24。
「北斗星」登場当初は東海道〜九州のオシ24が現役だったから、
それを編成に組み入れるのは不可能だったとはいえ、
この食堂車は違和感ありまくりだった。 >>366
その当時東海道〜九州口のブルトレの食堂車だったオシ14(24)は食堂の営業を休止して売店機能と
車内販売準備室目的になっていたために安易に編成から抜けなかった。
ただし当時北斗星は1・2号が北海道と3・2号と5・6号が東日本とで編成が別々で、この時にロビーカーに
車内販売準備室機能つけていたら九州口の列車のオシを全部外してそのまま東日本の編成の北斗星に回せた。
そうすればサシ481/489のスシ24化は北海道の編成の最小限になるし、出雲1・4号 みずほ 瀬戸がなくなった際に
出たオシを北海道の編成に回せたかも知れない。
なおスシ24は種車のサシ481/489次第で冷房がキノコ型のAU12S型があるが、トワイライトに使っていた車は
そのまま使って全うしたが、北海道と東日本の北斗星に使っていた車は晩年14系から抜いたAU13Eに全て交換していて
キノコ冷房車のスシはいなかった。 >>367
客車用はAU13Aで、電車用がAU13Eじゃない? 当時せめてサシ581がまとまった台数残っていたらなぁー
>>367
北斗星のスシはキノコ型を交換したんじゃなくて、
種車自体がAU13装備。 >>369
サシ581を客車化するとなると、屋根上のクーラーが車両限界を侵しているので、
そのままだとダメなんじゃない?
それと、むだに重くてマシになってしまいそう。 どうでもいいが、客車の記号
ス すごく大きい
マ ますます大きい
カ 限りなく大きい
何かで読んだ気がするが、これマジ? で、スロ54は、冷房改造しても重量増抑えようってんで、台車を旧式のに変えたとか。
「マロ」になっちゃまずいって?
しかし、例えば元々42.4tの車両が0.2t重くなったら「ス」が「マ」に変わる。
一方、42.5tが47.4tになっても(4.9t増)、「マ」は変わらず、
なんだから、合理性を疑いたくなったり…。 >>372
諸説あるけど、
スはスチールカーだったのが、少し重い
マはますます重い、マキシマム
カはかなり重い
昔の図鑑に書いてあったのはこんな説。
>>373
客車の重量記号は、乗客や積み荷の重さも加えたものになっている。
マニ60が救援車になるとオエ61になるのはそのためだろう。 >>373
32系とかを使って作ったオハネ17も電気暖房を入れる際にそのまま重量がかさんでス級になっちゃうからと
寝台車なのにTR23/34のままにしてる。
冷房を付ける話になって重量がかさんでス級になったが、台車をスハ43からTR47をトレードしてもらってる。
逆にスハ43で作ったのにオ級に軽量だったからと何もいじらずオハ46にしちゃった車もある。 誕生し損ねたEF61-100。
もし日の目を見てたら、どんな機関車になってただろう。 >>351
小田急は当時、国鉄の準急形が制式化される以前だから、社形20mの2エンジン
名鉄も独創的なキハ8000(国鉄キハ82系相当?)を高山本線に投入
乗り入れの都合上、国鉄設計を踏襲する私鉄気動車は
キハ22タイプの羽幌と留萌があるな
>>352
常総筑波→関鉄も社形が水戸線に乗り入れてた >>379
小湊も千葉まで乗り入れしてなかったっけ?
計画だけだったっけ?
おかげさまで今でも国鉄キハ20の面影が味わえる サハ489→クハ183-100
サハ481→クハ188
折角種車に備わってる横軽協調機構を生かさず(それが不要な車両に改造)、
元々備わっていない車両に新たに付加。
何やってんだって言いたくなる。 >>381
引通の一本程度なら運転台増設工事に比べりゃたいしたことないし 60-3や61-11に向けた改造車は、とんでもない両数だったからな
改造や捻出の時期はもちろん、工場の能力や回送経路など様々な制約があった
数年前のピク誌、確か国鉄特急形の特集に裏話が載っていたか 元サハシ455-18のクハ455-201は、
車長が種車と同じ20mしかないって説と、
通常の先頭車と同じ20.4mって説と両方あるらしいが、
どっちなんだろうか…。 >>385
結局わかってないんだよね。
乗車した人がシートピッチが異なっていたと言ってもいるようなのだが、
実際にメジャー当てた訳では無いのだろうしねぇ。
サハに運転台を付けたクハ165やクハ455と比べると、
201号は本来のクハと車体長に違いは無さそうなので、車体新製ではないかと思えるけれど、
それも感覚的なものだしなぁ。 付けた座席がどっかで発生した
似てるようで微妙に背の厚み違うとかの
ものなら、シートピッチ違うとか
言われてもおかしくなさそうかな
あと、種車の台枠を行かして先頭改造するとして
オーバーハングが40センチ詰またらあからさまだろうとか、
それを回避するために台車中心間
わざわざ詰めるのかとか、
だったら連結器前に出す形のほうが
車端強度補強しやすそうとか
考えてしまいますな。 車体新造だとして
どこかで見込みで作って死蔵してた
クハの車体を引き取ってきて付けたが
そこらへん帳簿的に誤魔化しておきたい
事情があったとかの方が面白いかな 長野電鉄の601・602→611・612。
湯田中方の運転室が広がって(多分)、そっちにのみ乗務員室扉が付いた。
併せて、先頭の窓がR付で且つHゴム支持式に。 今も不思議に思っているその客車が改造車かどうか?
昭和30年頃の北海道では長距離の普通列車に
(1,2,3等があった時代で)2等3等が半分づつの客車が連結されていた。
出入り口のデッキは両端に合って、2等3等の境にトイレと洗面台があった。
2等車はゆったりしたボックス席で窓もピッチは合って広かった。
3等車の方は狭いピッチのボックス席で窓ピッチと合っていた。
2等車が普通列車に連結された理由は後年分かったのが、
当時の役人(公務員)の出張旅費規定で、
役付きだと2等車だったからと聞いた。
車両全体が2等車では大きすぎるので半車合造車だったと。 ただしこれはデッキが中央にあるから。記憶ちがいでは・・ >>393-394
これは合造寝台車なので、
私の記憶とは違います。
私のコメントは座席車です。 >>391
便所が中央にあるのは最初から新製の二三等合造車
スロハ31(32系)・スロハ32(35系)の類
窓の感じからすると32のほうか
寝台車を改造したスロハ38は便所が端部 >>393
ナロハネ10〜オロハネ10の
2等3等合造寝台車は、
夜行急行「かいもん」(小倉・)門司)〜博多〜西鹿児島に
連結されていました。 屁理屈だけど、その種の車両、本来は「オ(ロハ)ネ」みたいな表記にすべきじゃないかとか思ったり。
「オロハネ」じゃ、「グリーン車(座席)+B寝台車」とも取れなくはないから…。 >>398
二等座席車+三等寝台車だったら、オハネロ、ってなるんじゃないか? マロネロ38があったジャマイカ(Cロネ+ロザ)。
>>398
の「グリーン車(座席)+B寝台車」なら、
オハネロになると思われる。寝台が座席より上らしい。
北海道に一時期オハネ14の寝台1画をグリーン席に改造したものがあったが、
あれはまあ、オハネロ14とするべきだったんだろうなぁ。 サシ489-12 → サシ481-83 → サシ489-83。
形式は戻ったが番号は戻らず。 169系の座席を簡リクシート(元新幹線)に置き換えた車両。
客室とデッキの仕切り扉も新幹線風になったが、自動化はされなかった。
それにしても、あの車両がもうちょっと早く登場してたら、
到底その名に値するとは思えんような特急の濫造、は回避されたような気がする…。 1970年頃だったか?
急行形の製造が中止になった時点で、特急格上げがみえていた
中には、快速格下げもあったが そう言えば、先のサハシ455-18以外にも、
営業を終えたビュフェを普通車に改造する話があったとかいうが、
実現してたらどんな車両になってだだろう。 サロ489-1004からMG・CPを撤去した同101。
設置なら分かるけど、撤去の必要性って何処にあるんだろう?
重くなるから? >>406
サハシ165で見ると、まずビュッフェ側に運転室というのは、資材搬入ドアの戸袋が
車端部方向なので無理っぽい。
ハ室側に運転室を取り付け、中央ドアをそのまま、旧ビュッフェの資材搬入ドアを
自動ドア化して流用。食堂部分に窓新設と、通路側だった部分の窓高さ下げ、
全然ピッチが合わない座席取り付けで、クハ165-500番台。元の冷房MGが生かせる。
窓配置はクロハ49みたいな変則的なものになるだろうねぇ。 >>408
何か、車体そっくり新製するより面倒そうだな…。
出来てたら、間違いなく「珍改造車」だったと思えるけど。 サロ165(455)→クハ455-600も車体やドアや窓から座席までそのまま使って運転台部分をくっ付け。
東北にいた車は座席を近郊化の際にセミクロスとロングにしちゃったが、九州は座席は座席は変えず
ロングをつける等の近郊仕様にせずに使って終わった車も多い。
冷房はAU12S車が大半で13Eは九州にいた車しかいなかった。
(種車の内サロ165はAU13E車は130〜133の4両だけで種車に使ってない)
何故かあれだけ急行型がいた北陸にはグリーン車改造がいなかったのは珍しい(クハ165らの300と400番台はいたが)。 珍改造車というより、存在自体が珍奇だったキロ58だけど、
これは冷房化されたんだろうか…? キロ58は、製造から約5年で冷房化
冷房化から10年で廃車
あまり目立たない存在だった >>412
サンクス。
結局、中央東線の電化(キハ65の登場)で、キロ58は厄介者になったんだろうな…。 ED73は、22両全てが高速用1000番代に改造されたが、「新番号=旧番号+1000」、でなかった。
改造が製造番号順でなく、且つ新番号を改造順に付けたからだろうが、
律儀というか、杓子定規というか。 >>412
電源機関ないから冷房あってもキハ28から貰わないと使えないしまして運転台がない中間グリーン車だし
使い勝手の悪さが祟ったなあ。なくなったっていうよりキハ40の車体に替えてキニ58になって
常磐線の荷物列車用で暴走運用しておしまいだしなあ。 外吊式のドアから引戸式に改められた、初期の交直流型急行電車。
後年の車両は最初から引戸式になったが。 >>415
4VK付けたキハ28や65が多数配置されていた高山線に転用されたけど、
あまりうまく使われなかったようだよね。
>>416
枕梁部分に前ドアのステップがかかって、強度が不安だったからと言われていたが。
あまり問題なかったようだね。
>>417
キモ