【北九州】西鉄路面電車、筑鉄総合【福岡】 [転載禁止]©2ch.net
昭和60年代前半に北九州線の部分廃止に伴う電停や車両の廃品部品の即売会があった。
方向幕とか電停看板とか買った。
梱包してしまいこんでいて、ぜんぜん眺めてないw
そのとき、バスの廃品も売られてた。
吊革がたくさんぶら下がった5、6メートルはありそうな長いパイプを買っているオジサンを見たけど、
あんな大物、そのあとどうしたんだろう。 >>169
北方線廃止のだろ
プラ製の全路線の運賃表やら、電車についてた西鉄の車輪マークを買った >>174
戸畑線・枝光線・門司 - 砂津間廃止後の放出だったと思います。
会場はかしいかえんでした。 >>175
>>174だが、そうでしたか。
自分は福岡から北九州まで赴いて買った記憶。多分小倉の井筒屋だかの特設会場だったような気がする >>176
それ、西日本新聞に載っていませんでしたか?
当時は、ネットもないし、先輩や友人からたまたま話を聴いたとかあるけど、
学校で会わなければそれまでだし、新聞の片隅に載っていた記事で、しかも、夕刊だったりすると、
本当の偶然でした。 カメラのドイの全面広告車は車体が白ベースだったから派手で軽薄に感じられた。
彩度を抑えた赤茶と肌色のツートンカラーは大人の色ですなあ。 白ベースにお絵描きしたような、到津遊園の広告車なかった? いとうづゆうえんの夏は林間学校。
西鉄グランドホテルの夏はハロースイム。 あの遊園地がまさか市に引き取られて公園になるとはなあ >>178
なんだパンダかんだパンダ、カメラのドイだ!
大洋の土井監督がCMに出てたな。
到津遊園の輪姦学校。妄想してた。 魚町の線路末端が、アスファルトに埋もれていた感じが何とも言えなかった。 北方線の魚町電停は線路が1線。
北方電停も車止めがなく、レールがぶっきらぼうに終わっていた。
西鉄の併用軌道の電停で安全地帯に屋根があるところはありましたかね? >>185
安全地帯ではなかったと思う。
回数券売り場の横にベンチと屋根があったのが、本線のどっかにあった気がする。
ま、バスの回数券も売ってたけど。 戸畑電停は屋根があった気がするけど、
あれはあの電停の部分だけ専用軌道と見做すのかな?
>>186
砂津ですか? >>187
いえ、砂津ではないと思います。砂津は車庫があったのですぐに思い出すけど、
魚町から八幡の間のどこかで下車して撮影したので、記憶にあり、
元々博多の人間なので正確に覚えてないです。
記憶違いかもしれず、自信がなくなってきた。
>>187
幸町のデルタ電停を思い出して、戸畑終点を思い返すと、屋根があった。
片面ホームで、ベンチもあった気がする。
最初に乗ったのが昭和54年だったが、次は昭和57年で、当時でも運転間隔がかなり開いていた。
廃止から10年後くらいに行っても、電停の屋根だけ残っていて、柱に中古レールが使われていた。
今みたいにデジカメがあればもっと撮影できただろうが、フィルム代を節約するために、1日で10枚くらいしか撮っていない。 >>188
幸町!
あの三角形の安全地帯の中央に小さな円形の屋根がありましたね。
>>189
なるほど、本線上なら到津車庫前の可能性がありますね。 魚町の北方線電停側に面した雑居ビルの中にあった眼科兼コンタクトレンズ屋に通ってました
北方線最後の日はお別れ運転に乗りました
最終便は蛍の光が流れ皆さん泣いてました モノレールができて道路も変わって、面影がないのが寂しい。 自動車が一方通行だが真ん中の併用軌道の電車だけ逆行できる道路はなんだか楽しかった。 ワンマンカーでも運転手の肉声で案内していた…。
連接車では車掌さんが首から黒鞄をぶら下げて切符を売っていた…。
車内の塗装がベージュと淡緑の二種があった…。
電車道沿いには商店が並ぶ街がつづいてました(小倉黒崎間)けど、今はどうなって
いるのでしょう。
懐かしいですね。 戸畑線を残して若松から筑豊線をLRT化してほしかった。
199は市営バスもJRもどんづまりで厳しいし https://i.imgur.com/lXrJLNs.jpg
福岡市内を走っていた西鉄の路面電車(福岡市内線)が1979年2月に全廃されてから、今年でちょうど40年になる。
この機会に西鉄路面電車の歴史を調べていたところ、興味深い出来事があったのを知った。
廃止の10年ほど前、福岡市が西鉄に対して「路面電車の経営権をよこせ」と要求したことがあったのだ。
当然ながら西鉄は強く拒否。蜜月と言われる現在とは違い、両者は厳しく対立していた。
民間企業に資産をよこせとはずいぶん横暴な話だが、これには一応の理由があった。
西鉄路面電車の前身企業の一つ、福博電気軌道が1907年(明治40)、福岡市との間で報償契約なるものを結び、この中に「開通から50年後、経営権の一切を市に譲る」という項目があったのだ。
福博電気軌道の営業開始は1910年3月なので、50年後とは1960年に当たる。
福岡市はこれを盾に取り、1969年頃から経営権譲渡を強く西鉄に迫り始めた。
西鉄側は、報償契約はその後何度も結び直しているが、新たな契約には譲渡の項目はなく、もはや無効だと反論していた。
今、両者の主張を見比べてみると、西鉄側の主張の方に理があるように思えるが、福岡市側には「裁判に訴えてでも」という強硬論があったほどだから、それなりに勝算があったのかもしれない。
それにしても、福岡市はなぜ、路面電車の経営権などを欲しがったのだろうか。
1979年には全廃されることでもわかるように、すでに路面電車は西鉄にとってもお荷物となっており、1968年7月の記者会見で当時の社長は
「西鉄の市内電車は、急場しのぎの運賃値上げをいくらやっても、立ち直れなくなっている」(『西日本鉄道百年史』2008、以下『百年史』)と事実上の降参宣言をしていたほどだ。
ピーク時の1959年度には1億人を超えていた年間利用客も70年代にはほぼ半減し、当時の報道によると、年間の赤字は十数億円にも上っていた。
西鉄社内には「そんなに市が欲しがるのならば、従業員ごと路面電車をくれてやればいい」という声さえあったという(実際に路面電車廃止後、西鉄の余剰人員300人を市が引き受けている)。 >>197
市は特に西鉄の市内の経営権を「現実的に」欲していたわけではない。
ただ、建前では六大都市のように欲しいていた。
公営事業法が施行されたのが施行されたのが戦後で、公営に拠る鉄道や水道等の事業の根拠となった。
それに基づいて、各都市で条例を造り、交通局を造る契機となった。
福岡市ほどの規模で、公営でないことを、快く思っていなかった連中はいたと思われる。
福岡市営地下鉄の計画は、昭和40年代に萌芽が見られるが、
市内の鉄道軌道交通一元化を考えていたのが福岡市で、
そのブラフとして、西鉄に経営権譲渡を迫ったものと思う。
地下鉄建設の地ならしである。 昭和48年頃には、地下鉄建設の事業許可を運輸省から得ていると思うので、
昭和40年代前半には具体化していたと思う。 ちなみに、西鉄路面電車の職員は、希望者は、福岡市交通局に就職したので、
福岡市は別に横暴ではない。
西鉄は、軌道経営のやる気がなく、渡りに船だった。
バスを走らせることが、命の西鉄だ。 西鉄がバスに傾倒したのはなんで?
広電のような生き方もありえたろうに。 西鉄の電車代替バスシステムの購入整備費用を
誰が出すのかという駆け引きがあったのではないだろうか。 >>201
ない。
福岡市が高速地下鉄道の建設を計画していたので、そもそも路面電車は存続しない。
道路交通を阻害し、渋滞の原因となる害悪とみなされていたから、西鉄にも、渡りに船。
西鉄などのように妙に、路面電車意外に食い扶持があると、路面電車経営に本気にならない。
広電のような生き方は生易しくない。
ベースとして、鉄道軌道は、運輸省、建設省の許認可に拠る監督行政と、
道路管理の警察行政でがんじがらめであることだ。
広電も苦労したが、路面電車優先信号の設置、交差点にある電停の配置替え、
広電側ではトロコンの位置調整や操車が絡む。
警察としては、渋滞だけでなく、事故防止などの安全確保を求めるので、
広電のような路面電車優先信号全てを容認できないから、せめぎあいになる。
広電は西鉄のような大会社でもなく、路面電車を廃止すれば自活存続できなくなるという意識があって、
西鉄は、片手間で経営していた福岡の路面電車。 因みに北九州は、昭和40年代後半に、モノレールによる代替を構想していたので、
廃止につながった。小倉〜八幡〜黒崎
北九州市は責任を取らなったが。
そもそも、路面電車のような少量〜中量輸送機関で地下鉄の大量輸送機関に代替することができないし、
路面電車のようなきめ細かなネットワークを形成できない。 >>203 広島電鉄、昭和40年代に広島バスとの経営統合を図っていたんだけどな。そうすれば路面電車なしでもやっていけただろう。だが、公正取引委員会から待ったがかかり実現しなかった。
西鉄がバス部門で何故独占禁止法違反にならないのか、よくわからんが、赤字路線を多く抱え公共交通維持のため内部補填でやっていかなくてはならないのなら、違法とならないこともある。 >>205
この公取の基準って、いつも恣意的でよく分からん。
当然、運輸省、建設省の官庁の意向のみでなく、政治的意向を斟酌していたんだろう。 >>206 ケースバイケースだけどな。広電が広島バスの経営支配図ってたし、独占してたんまり儲けようとする意図が見え見えだったのでは? >>205
> 西鉄がバス部門で何故独占禁止法違反にならないのか、よくわからんが
独禁法出来る前に戦時統合で一県一社のバス運行会社になってたから >>208 そうであっても、独占的地位に胡座をかいて新規参入阻止などやってたら違法とされ、会社分割もされかねないのだが。まあ、そこまで違法なことやってなかった、独占認めないと過疎地のバス路線維持できなかったのだろうけど。 >>209
日本の独禁法ってそういうの無いよ
そもそも許認可事業で西鉄に決定権ないし >>210 許認可対象のバス事業で広島電鉄と広島バスの経営統合は独占禁止法による規制対象になったんだが。西鉄との違いを推測してるわけで >>211
西鉄って戦後どこかと統合しようとしたっけ? 都市交通審議会北部九州部会の答申は禍根を残し過ぎなのでは。
北九州なんてモノレール1本だけで軌道は全廃、人口減と末吉市政でもはや余裕の道路容量。小倉到津大蔵中央町ルートは軌道かモノレールがあってよいのに。
もともと計画以前だし(構想では東西線より黒崎線が優先だった)。
逆に福岡市には道路が足りない。 >>216
北方線の代替モノレールなんて、はっきり言ってどうでもよく、小倉から黒崎まで貫通する路線がないと駄目だったな。
建設しやすいところで、しかも、西鉄が手を引きやすいタイミングの路線から、手をつけた結果なんだろうけど。 昭和40年代当時では、北九の方が人口も多かったし、ここまで斜陽化し、福岡の人口爆発は読めなかったか。
北九州線は、JR発足前のマイタウン電車増発頃から勝負にならなくなっていた。
せっかく専用軌道がありながら、西鉄が路面電車はやる気が無かったので、勿体ないが、存続は無理だったな。 戦時統合した西鉄が戦後分割されなかったのは何故なんだぜ。 >>220 宮地岳線、戦後になって分離してたらもっと早い時期に廃止されていたかもな。 というか分離があったのって
大東急
阪急京阪
近鉄南海
くらいだよね 福北連絡ルートが戦前にできてたら、名鉄みたいになったのかね。ルートにもよるが。 >>221
一度も黒字になったことがないというしな
>>222
今は違うけど、福岡なんて普通の地方都市だったからね。合併時は北九州が本社だったし、西鉄。 >>224 旧帝大に高裁、それに国の主要出先機関が幾つもある所が普通の地方都市なのかなあ?北九州と違い福岡には都市の核がある。北九州は工業都市を合併させて図体がでかくなっただけの都市 >>225,226
北九州市はなかったが
北九州工業地帯とか北九州外語大学(→北九州大学→北九州市立大学)なんて言葉は存在してた
で、西鉄成立時から西鉄北九州線だよ >>228
「西鉄成立時から西鉄北九州線だよ」
参考までに、出典を教えてもらえませんか。
戦時合併時に、既に使用していたとは初耳です。 >>230
文献ではないのですか。
このサイトの元ネタは西鉄社史と思われるのですが、そこに疑問があるので、聞いたのですが、
出典はご存じありませんか。 >>231
後出しで何言ってるんだw
自分で社史確認すりゃあいいだろ
俺の質問はスルーかよw >>233
じゃあ他人に聞く意味ないじゃん
訳の分からん人だ >>230
奈良崎博保氏の本に書いてある
小倉線と書かれた当時の定期券の写真も >>235
> 奈良崎博保氏の本に書いてある
何て? >>234
あの間違いだらけの社史が全てと思っているんですか。
別に、社史の誤りはを責めでいるわけではありませんので、誤解なきよう。 >>227
そりゃあまあ、県庁所在地だから、それくらいあることは普通では?
熊本だって似たようなもんだし。
言いたいのは人口規模 福岡を始め他地域では〇〇市内線と総称することがあるが、
北九州線は最後まで北九州市内線とは言われなかったな
若松以外の旧四市を結ぶ路線だったから >>239 九州大学や福岡高裁といった旧帝大や高裁が全国に何個あるかわかってる? >>239 熊本大学が旧帝大で熊本高裁があると考えてるのかあ? >>240
旧帝大は40万弱の市にあったりするからねえ >>243 40万弱の市に大学本部がある旧帝大ってどこよ? >>245
阪大
>>246
高松
両方あるとは言ってない >>247 阪大の歴史的経緯を無視して言われましても…
そもそも四国に旧帝大あったっけ?
まあ、国の他の重要出先機関所在地も調べれば、福岡の地位がわかるんだけどな 歴史的経緯は関係ないわなw
後出しで言われても
四国に旧帝大があるなんて言ってないし >>249
帝大なんだから、歴史的経緯が関係あるだろ。
その後の移転は、戦後はるか年月を経たことで、どこに設置したかが重要なんだから。 高雄でなく台北、釜山でなく京城に設置した全体の設計思想、構想が重要なんだから、移転は捨象して良い。 全体の設計思想なんてないよ
福岡民って発想が結構田舎なんだなw もと門司区民だけど
1985年の部分廃止時に門司〜砂津も廃止になったが、
この区間が門司線と書かれて驚いたよ
本線というのは門司〜折尾だったんじゃねーの??、とな
あと、Wikipediaの西鉄北九州線の項目には、北九州本線という記述もあって驚く
少なくとも西鉄がそんな表記をしたのは1度も見たことがない
大抵、西鉄が北九州地区の車内や停留所掲示物で案内表記したのは「西鉄電車」と「西鉄バス」
これは一貫していたよ
戸畑線と枝光線というのも到津回りと比べて、という意味で出てくる程度のワードで、
乗車目標としては幸町・中央町の停留所名の方が重視されていた >>255
路面電車の路線名ってあまり案内上で使われないからね
電車の系統で十分 系統表示すらしなくて地元民以外は使いにくいんじゃなかったですか? >>257
まあでも中央町-大門間で幸町回りは行き先表示に幸町って入ってたし >>257
自分の当時の生活環境だと、
広石(祖母の家)〜大里東口(自宅)〜門司駅前(お買い物)〜室町(小倉お買い物の西限)
の一本道だった
玉屋がご健在だった頃です
魚町から乗れば行先は砂津か門司しかないので、迷うことはなかったね
しかし主力となる魚町〜黒崎駅前の利用者はよーく方向幕を見ないと大変だったと思う
全線で行先番号の表示がされず、連接車は前面方向幕が異常に小さいという謎仕様だった
メインの[門司][砂津][戸畑][折尾]の他に、
[中央町→幸町][幸町→中央町]の意味も読み取らないといけないので、
よそ者には使いづらい路面電車だったかもしれない 中央町は行き先が多彩で混乱しやすかったのではないかなと思う。
にしても、北九州線が生き延びることができてたとしたらどういう施策が必要だっただろうか… wikipediaより
社内では系統番号で管理していたようだ
1973年9月時点 日中の運転系統
1:砂津 - 折尾 連接車(車掌乗務) 10分間隔
2:門司 - 幸町 - 折尾 ボギー車(ワンマン) 15分間隔
3:門司 - 戸畑 ボギー車(ワンマン) 30分間隔
4:戸畑 - 折尾 ボギー車(ワンマン) 30分間隔
5:砂津 - 幸町 - 中央町 - 門司 ボギー車(ワンマン) 15分間隔
6:門司 - 中央町 - 戸畑 ボギー車(ワンマン) 30分間隔
11:砂津 - 筑豊直方 連接車(車掌乗務) 15分間隔
14:八幡駅前 - 筑豊直方 連接車(車掌乗務) 15分間隔
20:魚町 - 北方 連接車(ラッシュ時のみボギー車も運行・共に車掌乗務) 5分間隔 こうしてみると片道の1時間あたりの運転本数がわかるね
門司〜砂津…8本
砂津〜大門…26本(うち、5系統は重複分4本が追加)
大門〜中央町…16本
中央町〜八幡駅前…16本
八幡駅前〜熊西…20本
熊西〜折尾…12本
熊西〜筑豊直方…8本
大門〜幸町…10本
幸町〜戸畑…6本
幸町〜中央町…12本
魚町〜北方…12本 >>260
スピードうp
もしくはモノレールへの切り替え >5:砂津 - 幸町 - 中央町 - 門司 ボギー車(ワンマン) 15分間隔
これが謎の[幸町→中央町][中央町→幸町]の方向幕のやつ
謎といえば門司発だと[大門]もあった
大門には渡り線があったが使用はされず、大門止めではない
その先の中央町方面に行くか戸畑線に行く
行先が確定するのは運転整理を行う砂津
大門で乗り換え券を受け取って降車すれば、
電車が行きたい方向と違う行先にされても、後続の行きたい方向の電車で運賃を通算できた 45秒ヘッドの黄金期なんかアナログでよく運転整理できてたなと思う。砂津なんぞ一日中電車渋滞だったとしても驚かん >>260
>北九州線が生き延びることができてたとしたらどういう施策が必要だっただろうか…
国鉄廃線跡地の転用
城野〜(旧日田線跡地)〜砂津〜金田付近〜(旧大蔵線跡地)〜黒崎
それにより、併用軌道区間を砂津〜金田付近だけにする
ま、1970年代後半までにやっとかないとダメだったな