懐かしの【架線下DC】について語ろうVol1
>>211
もちろんそういう意味だけど確りと定義付けしてできた言葉じゃないということ
だから違う意味で使う人がいても責められないよ
それに例えばしらゆきは全線架線下だがひめかわは大糸北線走るわけでそういうのでも意見は別れる 上野〜福島〜山形〜秋田をキハ25・58で走っていた急行おが1号
グリーン車以外にエアコンがなくて夏は暑い列車だった 急行羽越や急行しらゆき越後など架線下
DCという言葉には電車になりたかったが
457系不足なれなかった負け犬イメージ急行越後の場合は急行立山が富山からは快速電車として電車化されたから尚更。 架線下DCは直流区間でのデットセクションとか交直切り替え区間とか関係ないから、
ウテシにとってはDC運転の方が、信号とATSだけ注意すればいいのだから、
少しは運転が楽なのかもしれないな。 大阪-金沢間のDC急行「越前」が速いのと金沢-大阪間の時間帯が良いので何時も上下とも満員だった。
「越前」が運転し出してから503レ「立山」が空いて来て、富山行きの客も金沢で
鈍行に乗り換える人々が大勢居た。
金沢から大阪への時間帯が物凄く良かったし、4-5時間のビジネスでは日帰りが
可能だった。 宇和海は1時間ヘッドでもゲロ込みで今度増車するんですが
鉄道マニアは1回自分の乗った時の印象を線区の実情として語るからいけない
しかも特急券は通算なんですけどね…
鉄道マニアは電車大好きで制度に興味を持たないからいけない 架線下DC・・・電車がメインで高速運転していると、DCの運転士は常に加速運転を強いられ苦労する。 かつての急行「たかやま」の東海道本線の走りっぷりは圧巻だった。
新快速とのデッドヒートは、フルノッチでエンジン喘ぎながらの力走と言う悲愴感は、今でも忘れない。
高槻に新快速停車しても京都の手前で軽くちぎられたがwww 急行「きのくに」や「赤倉」は振り子式の急行型を新製すべきだったな >>221
DMH17だとフルノッチ連続5分で火吹くけどな >>222
南海はきのくにを電車化しようとしたが
485系でしようとしたが駄目だったなorz >>223
電GO2だったかな?上りの「たかやま」ダイヤがあったけど、まさに火を吹くダイヤでしたww ええ?急行「たかやま」が京阪神で爆走してた?
俺は新快速で抜いた時に相手は止まっているように見えた。 たかやまは一応キハ65が入った時代もあったけど、最終的にはキハ58+28だったんだよなあ。
インディ500の新快速にハコ車の58が挑むようなもんだった。仮に65が入ったって大して変わらんだろうな。 >>226
川上哲治じゃないんだからw
「たかやま」の晩年に乗車した時の記憶では、優等列車なのに緩行線を走ってた。ややもすると、緩行電車にもつつかれてたかも?
>>>>>>>>>>>>>>>>>> 広域運用スレに出てたが、金沢・青森間の「しらゆき」と仙台・青森間(北上線経由)の「きたかみ」って共通運用してたんだな。時期によって異なるだろうけど。
分割併合容易で、非電化区間含め広域運用できることがDCの特徴。
だから、架線下DCが結構な数、存在した。 「しらゆき」には坂町→大館間の乗車だったが、停車駅が多かったし普通車指定席
でも冷房無しで、秋田から「あけぼの」に併結だったが羽後本荘近くまで暑かった。 まあ国鉄時代のDCがあまりに非力だったから問題だった。
82系や58系は加速が悪いし、どんなに頑張っても100キロ以上出なかった。
65系で本当に燃えたやつあったよね。電車と協調運転だったからかな。 >>231
「マリンビュー」て臨時列車扱いじゃなかったっけ?
それより、福塩線のことを忘れないでください。 神辺―福山間に井原鉄道が
3往復ばかり乗り入れているんですけど。 非電化区間から電化区間に乗り入れるのは仕方ないし
これからも残ると思う。
始発から終点まで架線下を走り通すのはもうネタ切れかな?
あと架線下を走るSLも残ると思う。 ちょっと前まで広島〜新山口間に1往復するキハ47系6連の普通列車あったな
元は気動車のやりくりの関係で回送運転してたのを営業列車に仕立てたものだが貨物列車に抜かれまくるやたら寝たスジだった >>233
土日運行の快速扱い。ダイヤにも載っている。 旧国の巣窟だった時代でも可部線の電化区間に冷房付きのDC列車が殆ど乗り入れなかったのは、
加減速性能の所為? >>238
だってその時代、加減速どうのより、冷房付きの一般型気動車なんてキハ66・67くらいじゃんて。 国鉄線上を走る冷房付き気動車で特急型や急行型「ではない」と言う条件付きなら島鉄のキハ2600が居るけどな
一応 >>234
肥薩おれんじ鉄道や、えちごトキめき鉄道もあるからねぇ
電車はコスト高杉だわ >>242 JR貨物の場合は知らん(JR貨物は当該三セク事業者の線路を借りて貨物輸送を行う)が、
基本 乗り入れる場合は、(相手社のクルマを借りる)でしょ。
その為の電気設備の維持管理&電力使用 費用とかで相殺、若しくは収支的に車両保有会社に支払うなるんじゃね? >>243
JRFの場合乗り入れじゃなくて自社線
二種鉄道事業者だから
この場合では一種鉄道事業者の三セクに線路使用料を払う
その時、電化設備を貨物専用とするとそれは丸々貨物走行用の設備ってことになるから電化維持の費用すべてをJRFに負担してもらうことが出来るんだよ
もし、肥薩おれんじ鉄道が電車だったら、その電車の運行に必要なものだから、貨物が通ることによる維持費増加分しか負担してもらえなくなる アボイダブルコスト方式でググれって言った方が早いな
気動車の方が車両単体の運行経費は2割ほど高い >>245 ふ〜ん?
旧式化した電車を使い続けるか、高くつく電車を新製する場合に比べ、軽量小型の気動車を新製する方が運行コスト考えても全体で見て安くつく、ということなんでは?
肥薩おれんじにせよ、名鉄のレールバスにせよ、そういう発想なんだけどね。 >>245
アボイダブルコスト方式はJR貨物と旅客会社間での話ね
JR貨物は取り敢えず、フルコストに基づく費用負担を行っているんだよ
フルコストとアボイダブルコストとの差額を調整金としてもらってるけど
>>246
肥薩おれんじの場合は特殊なんよ
名鉄や近江とは違う
名鉄や近江は結局失敗だったし >>245
国鉄時代の「数字で見た国鉄』1979版より:−
動力費(10t牽引で100km走行時)
新幹線@¥639.-、気動車@¥523-、電車@¥508-、DL@\483-,EL@¥282-
蒸気機関車は出ていないが破格で高いはず。
この費用はは現在の数値でも順番に余り変化が無いのではなかろうか?
皮肉なのは消滅しつつある電気機関車+客車列車の動力費が一番安い事だ。 肥薩おれんじの場合、交流電化ゆえに営業用だと1両に機器を積みきれず最低2連になるそうなので
ちょうど中間地点の出水にある車両基地で単行DCを柔軟に増解結した方がいいってことなんだろう 肥薩おれんじの場合、中間地点の出水で客の流れが分かれるというか学生なので出水境に混雑する時間分かれるからね。 >>248
もっと昔のたぶん1970年ころに1万円の動力費でどこまでいけるか?
という大きなポスターが何故か駅構内に出ていた。
やはりEL+客車がダントツで東京から静岡くらいまで行っていた。
次がDL+客車、EC、DCだったと思うから合っているね。
あとDCは維持費がかかると思うが、
最近のバスのエンジン使ったような軽快気動車は結構、維持費安いのかも。 >>251
というか今の交流電車など電子機器の塊のようなものだから、田舎の中小企業には
手が出せないでしょ。だから結局メンテはJRかメーカーに外注するしかない。
気動車なら地元のバス会社の技術も使えるんでないの。 >>248
北近畿タンゴ鉄道が電車導入を検討した時のデータに数値が出てる
>>252
最新NDCやキハ122・127は電車と同じ完全ブラックボックス かなり横道だけど、動力集中が効率的ということはわかるけど、編成両数にもよるでしょ。欧州でも短編成では昔から電車気動車が主流だったし。
それから電気車でも直流・交流・交直流ではどうかという論点もあるね。 国鉄末期だったかなぁ、日中の日光線で宇都宮〜鹿沼の区間列車が数本設定された事があった。
たしか供用期間中の乗客の多寡によってその後も残すかどうかと言う列車で“α”の記号を付していたと思うが、
そこのところはちょっと自信がないorz。
僅かな期間と区間であったが、関東地方で見られた“全区間架線下DC”でした。 >>254
確かに機関車一両に客車一両じゃ効率一番悪くなるね。
日本の在来線は長大編成は大都市近辺に限られ地方に行けば1〜2両が殆ど。
つまりDCが一番効率がいいということになる。
それが都市部に乗り入れて架線下DCとなっているのが現状と思う。
スレタイにもあるようにあくまで「懐かしの」であるから、
やはりここは昔話で盛り上がるのが楽しい。 国鉄〜JR初期はローカル幹線は客車も多かったからね
機関車用意するなら、架線下DCの方が楽という面もあったろう >>257
国鉄時代の交流電化幹線のローカル列車は、ほとんど客車か気動車だった
交流・交直流電車は都市近郊に限られ、当時から交流・交直流電車はローカル用には高コストと見られていたんだろう 交流、交直流電車が高コストに見られていたと言う考えもあったかもしれないが、従来のPCやDCをECに置き換えるには
EC基地を拡張したり、新設する事が必要となる。電車は都市輸送に適しており、回送の経費や手間を抑制するために
都市部や始発駅至近に設置する事が理想とされ、現にそうなっていると思う。
そうなると地価が高額な都市部のEC基地の拡張や新設のための建設費や用地取得を含めたコストも見積る必要が出てくる。
従来からあるELやPC、DCの基地設置も残し、まだ使えるEL+PCやDCの列車を残した方が最良と当時のソロバンはこう
はじき出したのだと思う。 交流や交直流の場合、旧国に相当する車両がない。
直流区間は中古の旧国通勤車を、そのままローカル運用に転用することができた。
交流ないし交直流のローカル輸送用車両を新製するにしても、それは時期早尚とみなされた。 米原口ローカルは電化のはるか前に蒸気動車を導入してる
電化後は当然架線下DC
間接接続やら柳ヶ瀬線やらで非電化区間が絡んでいたから
純然たる全線架線下DCになったのは結構遅いが ところで何で交直切り替えは黒磯方式が普及しなかったんだ? >>262
設備費、維持費が高い!
構内作業が複雑!
通過列車には選別装置が必要! 日豊線の佐伯〜延岡なんて
わざわざ大分から運用組んでまで
単コロのキハ220使ってるよなあ。
あれこそ復旧を手伝う代わりに
高千穂鉄道の車両でも借りてやれば良かったのに。 高千穂鉄道復旧するより単行新車作る方が圧倒的に安いですわ そういえば一昔前の門司、小倉間は山陽線の直通は殆ど無くて、
山陰に入るDCが多かった。これもデットセクション問題だろうね。
今でも多分そうだと思う。 >>266 ふと思ったが、何故、山陰線から関門トンネル経由で九州に入るDCに、塩害に強いキハ35のステンレス(900番台)入れなかったんだろう?
千葉地区が電化された後、八高線で使うよりも、こちらに持ってきた方が有効ではなかったか? >>260
国鉄も誘導機にトルコンを組み合わせたクモヤ790とか、旧国に電源車付加した
クモヤ490とか、それなりに低コストの交(直)流電車の開発を模索した形跡もあるが
結局客車列車や気動車に叶わなかったんだろう
>>262-263
直通列車は車上切り替えでも、ローカル列車は直通を止めて、ホームによって直流専用、
交流専用の番線に停車するようにすれば交直流電車は不要になるね >>267 通勤形だからねー
急行形じゃないので、当該鉄道管理局欲しなかったんじゃね?
関東に居たのは製造元のアフター対応もあるのでは?
房総方面と云うコトで十分塩害耐久試験の環境下にある訳だし・・・。
視認性の為とは云え前面だけにすれば良いのに、車体全体をタラコ塗装したのは、サロ153 900の成れの果て
サロ111 の全面湘南色塗装と共に国鉄末期の労働争議、組織混迷時代の負の象徴。 架線下DLも考えれば北海道はデフォだが、昔は山線経由の列車でも小樽〜札幌は律儀にもED76-500に替えていたよな。
でも普通、あれくらいの距離だとDL乗り入れだよね。東京からだと戸塚や立川、上野からだと上尾くらいだ。
ただし関門間は別としてだよ。 >>271 小樽・札幌間と上野・我孫子間、距離は両方とも35q位だが、後者はDL、その前はSL乗入れだったな。
過密ダイヤのため、我孫子で機関車付け替える余裕がないからだろうか。
キハ30系による架線下DCとすることなく、電化までPC列車で残った。 >>272
>電化までPC列車で残った
成田線電化までって書かないと知らない人には伝わらないな そういえば懐かしくない全線架線下DCが北海道にはあったな
昼間に山線で使うと輸送力過多なので手稲江別間などの札幌近郊運用 地下鉄道の架線下DCって覚えてる?新千歳空港に乗り入れたリゾートDC。
構内の排ガス充満の問題もあったらしく折返しは確か4分しかなかったように記憶している。
ダイヤの都合もあったのかも知れないけど。
客が乗らなかったのか、排ガスの充満で懲りたのかわからないけど、イッパツ屋列車になってしまったorz >>275 名鉄北アルプス号の新名古屋駅乗り入れは、駄目ですか?
あとは、神戸電鉄の旧型車に元相鉄にガソリンカー改造Tc車が居たけどそのクルマの神戸高速線新開地駅乗り入れとか。 >>276
北アルプス出すなら真の意味での架線下ディーゼルである名鉄の「ディーゼル特急」の方が相応しいかもしれん >>274
東室蘭〜苫小牧間の普通列車が全てDC化されてしまって電車は特急すずらんのみになってしまったらしい
新たな架線下DC路線の誕生ですな そのうち室蘭電化もやめてしまいそうだな。
ここまで左前だと軌道で手一杯になり、次は頭上が手抜きに…。 架線下DLなら毎日でも小名木川の越中島レールセンターから輸送される。
新小岩〜金町間で見られるよ。 オランダ村特急は架線下DCなのにわざわざ専用車を新造した上に485系と協調運転までしたのは謎
あれは石井さんの趣味だったと唐池さんが講演で言ってるの聞いた事はあるが >>281
石井元社長は国鉄時代、内燃車が専門だった時期があったからね。
経営や鉄道事業の発展に寄与できる技術屋らしいセンスと言うか、発想と言うか…。 トロリーバスの架線の下を走る内燃車のバスはあったのかな? >>281 当初から、九州各地の非電化区間を含めた運用にも使用できることを目的としていたからでは?
wikiに書いてあるわな。オランダ村宣伝のために造られた車両であるわけなんだから。 >>284
結局持て余すんだがな
唐池会長とか石井元社長の事を只の鉄ヲタ扱いだから
唐池会長が企画した初代ゆふ森みたいにその後は見た目重視中味は二の次政策が今に続く DC+EC協調運転がその後もほとんど広がっていないことを見ると
そもそも協調運転の需要はなかったというべきだな
その意味では、確かに技術者のための技術で、用途は後から考えろ
ということだったのかもしれん >>287 ミニ新幹線の三線軌区間もほとんど広がっていないから、需要はなかった。技術者のための技術だった・・
ということなんですかねえ?アプト式なんてのも・・
特定地域、区間に限定されてようが、その技術を必要とする需要が存在するんでは? EC+DC協調はシーズ先行ではなくニーズ先行なんだがな
>>287は当時を知らない若い人かね 話は横道に少し逸れるが、581・583系の貫通扉も併結運転を考慮して折角作られたのに、
技術先行型だったのは否めないな・・・・・
その後何十年か後に、西日本のシュプール号でやっと用途を見ることになるのだが。 >>290
これも突っ込みどころがありすぎてどうしようもない発言だな… >>277
豊橋や津島までのアルバイト運用。乗りたかったよな。 南海のキハ55を使って昇圧後も水間鉄道直通運転や国鉄介在で貴志川線乗り入れの臨時イベント列車をやって欲しかった。 >>292 キハ8000は、富山地方鉄道のアルペン特急として、レンタルの架線下DCともなったわけで・・ >>289 15〜20年くらい早く、EC、DC協調運転が実用化されてたらと思う。
板谷のような勾配地ではEL補機との協調運転で。
そうすれば、ECの「ときわ」と併結され、他の電車急行に劣らない速度で水戸まで協調運転するDC急行「奥久慈」が実現していたのかも。
ニーズが最大だった時期を逃したという感はある。 上野〜水戸、ECとDCでそれほど差はないんだけど… >>283
多分あったと思うよ。
でも始発から終点までではなくて他の路線から入り込む。
まあ列車もバスも同じだね。 トロリーバスは何故やめてしまった?
電気のほうが有利ではないの? >>298 トロリーポールが架線から外れやすいという問題点。無軌条電車であるから、パンタが使えない。
バスの性能が向上し、架線不要で小回りが効くから、トロリーバスの優位性が薄れた。 >>283
黒部のあそこにも普通のバス入ってたんだっけか >>296 上野・水戸間で485系の特急ひたちが1時間20分位で、電車の急行ときわより15分早い。
急行に比べ停車駅が少ないものの、たった15分の時間短縮と車内設備が良いために、特急料金を支払わされていたわけだ。
同じ値段の急行料金取られるのに、電車に比べ10分遅く、しかも音や振動が大きいというのであれば、水郡線方面まで乗り換えなしで直行したいという客を除き、「はずれ」と感じるんではないかな? >>298
>299の言う通りなのだがもう一つ追加。
トロリー線とそれを支えるワイヤーで道路の上はクモの巣のようだった。
「東京には空がない」と千恵子が言ったのはそのせいです。
というのは嘘です。 >>292
豊橋から朝の通勤特急に新名古屋まで乗ったよ。 >>301
気になってDCときわ、ECときわを昔の時刻表で見比べて見ましたけど、ECときわでもDCときわと大差ないものもありますよ。
しかし、振動や騒音もそんなに気になるか? >>305 74年夏のダイヤ、臨時は除外し定期列車だけ、上野発の下りで途中停車駅が我孫子、土浦、石岡、友部というのが、EC3本、DC2本あるので、これで比較。
ECがときわ1号、6号、10号。DCが同5号と8号。
上野・我孫子間(33.5q) EC 27〜28分、DC 28〜29分
我孫子・土浦間(26.5q) EC 23〜25分、DC 25分〜28分
土浦・水戸間(51.5q) EC 39〜40分、DC 44分〜45分
土浦まではあまり差がつかないが、土浦より先で差が開く。
上野・水戸間(117.5q)では、EC 90〜91分、DC 98〜101分。
土浦・水戸間の表定速度 EC:77.3〜79.2Km/h、DC:68.7〜70.2Km/h
勾配やカーブの少ない常磐線であっても、ECとDCでこれだけの差がつく。
「ときわ」でないが、「陸中・よねしろ」に乗ったとき、エンジンの音がうるさいこともあって、ズーズー弁でしゃべる隣の客の声がききうらかった。
>>298-299
でも旧社会主義国を中心にトロリーバスは健在だよ
トロリーバスは架線が2本必要なのは欠点だけど、路面電車よりも自由が利くし加速もよい点は評価してよいと思う
ただ当然地上設備が必要だし、経路の変更等も簡単ではない。また日本ではもともと普及していなかったため車両価格も高かったのではないかな
その点ではローカル列車で交流電車がコスト面や地上設備等で、NDCに負けるのと同じ理由だろう >>306
区間117Kmに対して10分しか違わないのに、電車との協調運転なんて考える?
これを問題視していたなら、まずはキハ58やキハ65主体の編成にするでしょ。
1974年がどんな状況だったか思い出してごらんよ。
考え方が現代に寄り過ぎじゃない? >>309 当時の技術では難しく、コスト・パフォーマンスが悪かったから強調運転は実現しなかった、ということだと思いますよ。
急行から特急主体へと転換図っていた時期でもあるしね。実現可能性が低かったことは百も承知。
それとは別に、架線下DC急行がEC急行に比べて「遜色」であったということ。 >>310
あなたの言う「遜色」とは騒音や振動のこと?
私は>>305氏と同様、特に気にしたことはなかった。
その時間に特急ではないその列車が存在すること、これが最も重要だったかと。
あえて気動車の「遜色」を挙げるなら、電車と比べて冷房化が遅かったことか。
夏季はなるべく電車急行を選んでいましたね。 当時常磐の荷物輸送もキロ58の成れの果てのキニ58で単独行動だしな。
仮にクモヤ440を使ってもし常磐にもクモユニ クモヤがあったら多少変わってくるからな。
403系 415系の後ろにクモユニ441とかクモニ441とか連結さるてればなあ。