「しらさぎ」がデビューした当時、中京⇔北陸の結びつきはそれほど強いものではなく、実際に準急のしろがね、こがねだけでほぼ需要は足りていた。
雷鳥のデビューに際し車両運用のことだけを考えれば、大阪午前発、富山夕方発とすれば単純な往復で済んでいた。
ところがこのスジだと先輩特急の白鳥とやや被ってしまうこともあり、温泉観光客の利用も考慮して大阪発、富山発とも午後になり、結果富山での車両滞留時間が増えることに。
この間合いを利用する形でしらさぎが誕生したわけだが、これが意外に好評で中京⇔北陸の需要の掘り起こしにもつながり、急行兼六やその後のしらさぎの増発となっていく。
この流れに乗って中日新聞は北陸進出を強化し、傘下の中日ドラゴンズも毎年北陸開催をするようになった。