懐かしの北陸特急&急行2号
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1001目前でスレが落ちたみたい
来年3月14日は北陸新幹線が開業
開業すると大きく様変わりする北陸本線
その北陸路を駆け抜けた特急と急行を語り合い懐かしみましょう
主な対象列車
日本海縦貫「白鳥」・雷鳥・スーパー雷鳥・しらさぎ(485系時代)・加越・白山・はくたか(上野〜金沢間時代)・北越(大阪〜新潟間時代)
立山・くずりゅう・ゆのくに・能登路・日本海・つるぎ・北陸・きたぐに・能登
その他、北陸路を駆け抜けた特急・急行なら何でも良いです
北陸新幹線開業後は現はくたか・現北越・トワイライトエクスプレスも可能になります >>230
あったな停車駅問題
金沢の次に富山停車案が浮上していたようだけど高岡の反対にあって高岡停車に落ち着いた
新幹線のかがやき停車駅をギリギリまで引っ張ったのも高岡の反対が怖かったのかも知れないね 揉めたワケでは無かったみたいだが
当時、京都の次が福井と敦賀が通過になり敦賀の行政が
金沢支社に敦賀に止める様に要望したと聞いた事があるな
あと、芦原温泉と加賀温泉に関しては各温泉の旅館組合が不満を持っていたみたい 昔は湖西線内無停車だったので迂回してもただの遅れ運転だったんじゃよ 国鉄時代は迂回していた記憶が無いのだが…
JR化されてからだと思う 米原迂回は餘部事故か、東のいなほ事故以降の
風速規制が厳しくなってからでは?
それまでは少し位の風なら止まらなかったし、
台風並みでも徐行規制かかる程度だった。
迂回最初の頃は、まず上下1本が湖西線内で抑止されて、
閉じ込められてから、次の列車から迂回してたが、
最近は風が強くなりそうなら、
規制かかってなくても迂回してる様だな。 >>242
羽越本線の転覆事故前から湖西線の迂回はしてた
俺の記憶では国鉄時代から湖西線の風速規制はあったから
国鉄時代には迂回処置はあったと思う
強風による米原迂回だが
以前は、台風の他に春先によく起こる比叡や比良の吹きおろしの風ぐらいだった思う
羽越本線の事故で風の規制が強化されてから頻繁に起きるようになった これはここ10年程前の事だが
上りの迂回サンダーバードが米原で客扱いするって放送があったから
敦賀から米原までしらさぎの代わりに飛び乗ったことがあったなぁ〜
京都で新幹線に乗り継ぎ予定?だったのか
「車掌に噛み付いたる!」って嫁さん相手に息巻いてるオヤジがいたわ
湖西線に旧客鈍行って入線したことあるのかな? ああ、全くの別話題です
スレチなんでスルーして頂いても構わんですたい 北越489系代走のとき、HM無しと有りのときがあったな。 >>243
でも国鉄晩年においても松の木が折れるくらいの強風でも止めなかったくらいじゃん。
(餘部事故のときの話)
だから、湖西線開業後(〜国鉄時代)
よほどのことでないと迂回しなかったのでは? >>248
知らんのだろ?
想像で意固地になるなよ >>244-246
開業時から米原口ローカルと共用のキハ20系だったので無い
キハニ5000やキハニ36450の投入、ルート変更による柳ヶ瀬線の分離・廃止と
あのへんの気動車運転は大変由緒正しいもの >>250
ありがとう
当時の基本として、EF70は敦賀、EF81は富山がベース
この辺も気動車を使用し続けた要因の一部だったのでしょうかね?
エンド交換も楽だろうし
47X系はあの頃最短で6両だしちょっと輸送過剰過ぎ?
いや、つーか47X系が普通運用に就いたのっていつからなんでしょう???
先日R365の椿坂トンネルが開通してから初めて通りました
柳ヶ瀬トンネルで信号待ちしてる車が何台か居ましたね
敦賀からのR476を通る時もそうですが
当時D51はこれくらいの速度で走っていたのかな?と
色々妄想しながら走行しています 44.10の快速こしじ登場が鮮烈だったのは確か
朝の富山送り込みがいつから存在していたか、
つるぎが末端普通の客レから電車化された時どうだったかは
記憶に無いな 自レス
輸送過剰過ぎ?って何だよ
輸送力過剰?でいーじゃねかバカ >>254
自分の
いや、つーか47X系が普通運用に就いたのっていつからなんでしょう???
これに答えてくれているのでは?
自分はスレチとは思わないですが… しらさぎの683をどこぞに供出し
なりふり構わぬ体を感じる今日この頃
ジリ貧、先細り
そろそろ終末かの? やるかやらないかは自由!!
超本命で暇なときに遊んでみて
何となくやってみたらウハウハですた↑
□をsに変換、※を削除する
□nn2ch.n※et/s12/83arisa.jpg 上越新幹線開通前のはくたか(長岡回り) と白山(長野回り)って高崎〜直江津でどのくらい所要時間に差があったんですかね?
たしか高速道路だと長岡経由関越と長野経由上信越で長岡の方が30キロ遠回りで20分違うって言いますが >>258
昭和56年10月号
白山1 0916-1611
白山3 1116-1810
白山5 1446-2138
白鷹1 0819-1504
白鷹3 1619-2304
時間のかかる白山のほうが数多いのは所要時間僅差で
長岡-直江津の途中駅需要より、長野-直江津の途中需要が圧倒的に大きかったからだろうね 2往復対3往復で圧倒的というw
直江津〜長岡ははくたか以外にも白鳥、雷鳥、北越で相応の本数があったからねぇ 急行能登(14系)のテールサインは「急行」だったね。
他の夜行急行客車はみんなイラスト入りだったのに。 客車時代の能登に乗りたかったな
EF62に引かれてウトウトして、ふと目が覚めると深夜の横川駅。
EF63が連結されてゆっくりと碓氷峠を上る。
朝になって目が覚めると直江津駅。ここでEF81に交代。
ここからは日本海で乗ったことがあるので略。
想像でこんな旅情だったか。 あげついでに
>>262
碓氷峠はもちろん、妙高越えの時も寝台に横になってるとはっきりと傾斜がわかった。その度合いは板谷のあけぼの、上越国境の北陸の比じゃなかったよ。
朝目覚めると耳ツンしてたりとか。 目覚めないもんかね
ハザでは空き缶は転がるだろうし >>264
夜行往復の弾丸ツアーが定番だったからね、自分。 上りの特急の窓枠にポリ容器のお茶を置き
北陸トンネルに突入して1分少々
11.5‰の下りになったとポリ容器内のお茶で分かった 「スーパー特急かがやき」
「スーパー特急きらめき」
この「スーパー特急」、結局まったく定着しなかったね
駅の案内も時刻表も指定券もふつうに「かがやき」「きらめき」だったし
ヘッドマークは意地なのか、最後まで「スーパー」の文字入ってたけど 当時のJRの定着なのかスーパー=速達タイプと言うイメージがあったからだと思う
まぁ、まだ「かがやき」は速達性を維持していたけど
晩年の「きらめき」は停車駅増やして完全に「加越」の一員って言う感じだったもんな
今では今では全国にスーパーの名前の付いた特急列車ってたくさんあるが
最初にスーパーの愛称名付けたのってスーパー雷鳥?
それともスーパーひたち?どっちだ? >>268
スーパー雷鳥1986年3月11日
スーパーひたち1989年3月11日 え?
だんらんかなんかじゃねえのかそれ
スーパー雷鳥は90年だろ 新幹線て車内の英語案内ではスーパーエクスプレスだろ?
じゃあ在来にスーパーって付けたらあかんやろ スーパー特急方式って
スーパー○○号とかだと思っていた スーパービュー踊り子のスーパーは速さがスーパーなんじゃなくて、景色がスーパーってこと? >>277
いちおう「スーパー踊り子」の役目もあるでしょ
専用車両、A料金(185系「踊り子」はB料金)という違いも歩けど、川崎、大船、
小田原(一部停車)、湯河原といった185系「踊り子」が停車する駅も通過するし
「ビュー」は眺望もあるけどどうだろ?
というのは215系の「ビューやまなし」は2階席の眺望でわかるけど、255系の
「ビューわかしお」「ビューさざなみ」(のちに「ビュー」はずされる)は眺望はとくに
よかったとはいえなかったし、「ビュー」はJR東に本のブランド名みたいなもんだし 1990年台辺りに杉津や親不知などが旧線ルートだったら
スーパーワイドビュー雷鳥なんてのが登場してたんだろうか? ×杉津や親不知などが旧線ルートだったら
○杉津や親不知などの旧線がまだ本線だったら 日本屈指の地すべり地帯だから
早くも新ルートに切り替えたかったからなぁ シンキロウが居なければその計画自体も無かったわけで 国鉄が存続してれば振り子ハイパーサルーンになってただろうね
381系に783系(後の)の頭くっつけたような想像図だけ出てた交直流振子特急車487系は、
九州向けの後で他地域への投入も考慮されてた
九州以外で置き換えるべき古い485系が多かったのは北陸か常磐系統 >>279
流石に90年代に旧ルートはありえないだろ>北陸線
旅客利用もさることながら北東北や北海道から関西方面への貨物利用が多かった
わけだしな(もしかすると九州新幹線より先に北陸新幹線が全線開通してたかも?) 敦賀〜金沢は20〜30分おきで食堂車が来てたんだよなあ
新幹線前の食堂車頻度は上野〜福島>敦賀〜金沢かな? 北越、白山、はくたかに食堂車があった頃だと敦賀〜金沢より金沢〜富山になるのでは?
金沢始発着の雷鳥、しらさぎより金沢始発着の上信越系統の方が多いのでは? 福井発の白鳥でどこか遠くへ消えてしまいたいと思った辛い恋 681を造る前に、白鳥を新型車両に置き替える構想なんて無かったんだろうなぁ 大阪〜青森を乗り通す人自体が皆無だったからね
JR化されてからの白鳥はダイヤ改正毎に新潟分断されるのでは無いかと言われ続けらていたからな >>280
親不知はともかく、杉津はあくまで杉津だけが唯一のビューポイントだったからなぁ。
あとは鬱蒼とした山の中、隧道だらけの区間だったし。
旧線跡を車で走ってみても、大した爽快感はない。
杉津駅跡は北陸道杉津PAに蹂躙されていて何がなんだか分からん状態で
駅があった当時の地形など知る由もない状態だが。
杉津駅の残滓として今なお異彩を放つのは、海沿いの国道8号から杉津PAに至る急坂の道路
“県道杉津停車場線”ぐらいだろう、なぜ未だに変わらないのかは不明。
ゴメン、列車とは何の関係もないな… >>294
昔はその杉津駅から海水浴客が歩いて坂を下りて行ったらしいのだが >>295
死んだ今庄出身のバーチャンが子供の頃海水浴で登り降りしたらしい
京都の帰りに湖西線内の雷鳥でわらび餅をカーチャンに買ってもらって食った記憶がある
わらび餅なんて初めて食ったんだが、餅のイメージがガキながらに強かったのか今一旨くなかった 餅では無いが白鳥や雷鳥の車内販売で新潟の笹だんごをたまに買ったな 特急「白山」の食堂車のメニューにあった「能登定食」のイイダコは絶品だったとか 夏に「白山」乗車中での話
直江津を出て谷浜駅を過ぎた辺りでたぶん関東辺りの若い2人組のおねーちゃんが
おねーちゃんA「これって日本海?」
おねーちゃんB「じゃない?」
おねーちゃんA「全然荒れて無いね、日本海っていつも荒れてるイメージ何だけど」
おねーちゃんB「うん、本当だね」
そりゃー、冬と違って夏は時化る事なんてまず無いぞ
時化た時って言えば台風が来た時ぐらいだぞ
日本海は常に荒れてるって…
おねーちゃんは演歌のイメージで日本海をイメージしてたのかな? >>299
日本海じゃなくてトンヘだ、と絡んでくる韓国人の
おっさんが登場する流れかと思ったw 海水浴へ行くのに列車を使う人もへった。
ウチも北陸道が出来てからは専らクルマだったもんね。 >>302
うちは毎年伊豆の民宿3泊4日が定番だったけど、父ちゃんが渋滞嫌いと疲れて居眠りしたらかなわん、
という理由で必ず列車だったな
行きは「あまぎ」、帰りは「伊豆」、「踊り子」一本化後は往復「踊り子」
そんなおれは海水浴はいかないなあ
もっぱら山だ 小浜線には68X系入線したことあるんだし
大阪、名古屋から海水浴臨出てもいいと思うがなぁ
エメラルド復活でさ >>304
そいや舞鶴・小浜線電化のときは山陰特急(「まいづる」?)が両線経由で敦賀まで乗り入れたんだよな
すぐに、乗り入れたことなかったかのようにやめちゃったけど >>305
敦賀では無く小浜までな
確か海水浴シーズンのみだったと思うけど
でも2〜3年ぐらいしか続かなかった様な気がする たまに往時を偲んで大阪から福井まで特急に乗る。とんぼ返りなんだけど 485雷鳥のみの全盛期、すごく飛ばしてたイメージがある
681サンダーバードが出来てから485の走りがおっとりしたような
まあ気のせいだろうけど >>308
それよりも盛アオ時代の白鳥の方がカッ飛んでたイメージがある 当時の白鳥って盛アオの中でも専用編成で走らせるくらいだから特別扱いされていたんだよね 2号車がGの13両編成かな?
80系時代の白鳥は、北陸線内は14両編成のG×2+D×2だもんな
それが晩年は急行のような体であった 急行型45X系〜47X系にも鉄道唱歌オルゴールあったんだね 車販で売ってたエル特急スプーンを覚えてる人、いる?
雷鳥の1本だけ買った、今でも使っている L特急キーホルダーはガキの頃買ってもらったことがある
透明樹脂が半分ずつの貼り合わせ
樹脂の長さは10センチ程で箸の持ち手の二倍程の太さの四角柱
貼り合わせた中にヘッドマーク、反対側に走行区間だったかな
一番好きだった「しらさぎ」をねだった
ホルダー部分が壊れた後は行方不明 683系4000番台のリニュアール車が出たが、完全リニュアール終了後は4000番台はここになるんかいな?
先日、部屋を掃除していたらJNRの雷鳥ヘッドマークのオレンジカードが出て来た
雷鳥廃止からもう4年半が過ぎたのか… つるぎってさ
A個を3両、ゴロンとを5両、更衣室とシャワールームと喫煙室等だけの車を2両
AAA更ゴゴゴ更ゴゴ
みたいな編成だったら良かったんじゃないかとふと妄想してみた 深夜の北陸本線を一気に走り抜けるから
横になるだけで十分っぽいけど。
急行きたぐに追いかける感じで走っていたけど、
いかんせん客車だから追いつけなかったw 客車ってのもあるだろうけど
乗務員交代がある直江津、金沢、敦賀以外にも時間調整の為に富山と福井に数分停まっていたしな
確か、上りの「つるぎ」は敦賀で機関車交換で20分近く止まっていた様な気がする
あと、日本海ほどのスピードは出して無かった気がする
北陸本線内では「きたぐに」は110〜120km前後で「つるぎ」は90km前後だったような… 早く到着しちゃうからか
ムーンライトえちごみたいだなぁ
本気で走ると新潟〜新宿間4時間弱で着いちゃうところ、馬鹿停車して所要時間6時間を調整 中距離夜行はどれも似たり寄ったりだったよ。会津若松行きとか仙台行きなんかも。 時間調整で運転停車するんなら客扱いしてくれてもいいのにな
ホントにつるぎのターゲットは京阪⇔越後だったんだな
きたぐにとの住み分けって意味もあったのかな? かつての大垣夜行も特に下りは静岡や浜松で長時間停車していたな。
豊橋以西で朝の一番電車の役割も兼務していたのも影響したんだろうが。 特急が急行を淘汰する時代に
つるぎが廃止になりきたぐにが生き残るとはね
まあ走行区間が同じってだけで性格は全然違うけど そんな使い分けをやるぐらい需要が太かったことにまず驚くよ そりゃあ北前船、もっと遡れば山椒大夫の頃から人も物も確かな流れがあったわけだから。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています