【381系】思い出の中央東・西線を語ろう【EF64】No2
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中央東線と西線の昔話や思い出を語るスレです。
なお、中央東線・西線の乗り入れ列車やの受け持ち区の話題(例:南チタ)や、
接続している近隣線区の話題もOKとします。
例:武蔵野線、南武線、八高線、相模線、富士急行線、身延線、小海線、松電、
大糸線、飯田線、明知線、太多線等の話題も歓迎します。
前スレ:【381系】思い出の中央東・西線を語ろう【EF64】
http://maguro.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1364980646/l50 >>456
松本運転所のやつがアルプス2往復してた
小海線・飯田線・大糸線にも足を伸ばしたりもあった スマン、中央西線のスレだと思ってた<(_ _)>
【思い出の中央東・西線を語ろう】了(;^_^A >>457
乗ったなぁ、ディーゼルアルプス、塩尻から小渕沢間、夏休み期だから満員だった。
なぜか松本の気動車急行は煤でめっちゃ汚れていたな。 東線のDC急行は急勾配を爆音たてながら必死に駆け上がるから煤煙もそりゃ出るでしょ
小仏峠・笹子峠・七里岩・善知鳥峠と急勾配がだらだら長く続くのもあるし >>460
東線に比べ西線のキハ58はまだきれいだった。
断面が狭く長い小仏・笹子の両隧道をくぐることあるんだろうな。 181系DC時代の【しなの】は良かったなあ
キサシつきの10両編成は、特別急行の名に恥じぬ雄姿だった
ただ、カーブの度にテーブルの上の皿やコップが右往左往したのは秘密だ 今年、はまかいじを懐かしの急行アルプスに見立てて乗ったら感動できた。密閉窓でないMT54 いいね スレチだが185は普通電車なのにロマンスシートで当時やったと思った
小田原の鯛めし弁当が350円だった頃だったか
アルプスね、プラレールの急行電車(屋根が成形色緑)の表示シール DC急行赤倉、懐かしいねえ
名古屋から新潟へ、直で行けたなんて信じられないな・・・
今なら何度乗り継がなきゃならねんだ?
つーか同一経路だと、一枚のきっぷでさえ無理なんだよな
*新幹線での超遠回りは論外、それなら飛行機のほうがマシ 新潟発8:40→名古屋着17:26
名古屋発11:00→新潟着19:34
1970/10/1現在
これ便利というより、苦行と思うんだが >>469
この程度で苦行?
まさか乗り鉄語ってないよな?
お前にテツを語る資格ないぞ 苦行ねえ・・・
門司港〜福知山間を乗り通したオイラは仙人かね?w
ちなみに1980年の赤倉
2801D 名古屋10:03→18:17新潟
2802D 新潟 9:13→17:51名古屋 名古屋から東京経由で新潟へ行くより
長野、高崎経由の方が距離が短くなるんだよね。
あ、新幹線は論外?ご無礼・・・ >新幹線での超遠回りは論外
まあ当時から新幹線で東京
乗り換えて上野からときが普通だったんだけどね >>474
いい加減なこと言わないでね。
うちの親父は(もちろん非鉄)仕事で、よく名古屋〜新潟を往復してたけど
そんな行程(上越新幹線開通まで)一度もとらなかったよ。
赤倉か、若しくは
しなの、あさま(白山他急行)、雷鳥(はくたか他急行)で行き来するのが定番だった。 >>475
>しなの、あさま(白山他急行)、雷鳥(はくたか他急行)で行き来するのが定番だった
おいおい
にわか丸出しじゃないか
いい加減過ぎる >>476
にわかも何も、うちの親父は(もちろん非鉄)
と書いてあるように読めるが?
>>477
>そんな行程(上越新幹線開通まで)
と書いてあるように読めるが? >>478
はくたかとか書いちゃう人だよ
バレないと思って適当に書いちゃったんじゃないの? >>471
新潟840 → 名古屋1750
名古屋1105 → 新潟2000
家にあった1967-10 >>479
私も名古屋にいたから分かるが
当時、新潟へ行くのに東海道は選択肢なかったよ。
上越新幹線が開通して(時短という意味で)ようやくだったね。
>>480
はくたかを北越と間違えたか
あるいは
はくたか→ときor佐渡と乗り継いだか…
まあ、475に聞かんと分からんが 昔は東京から新潟に行くのは
郡山か長野廻りしかなかった。
名古屋からだと、長野→直江津が妥当
高山、米原廻りは遠回り
http://i.imgur.com/FNrpzNg.jpg
http://i.imgur.com/a6j5Vsx.jpg はいはい、疑惑の475ですよ〜
にわか呼ばわりしてくれたり、みんな好き勝手いじってくれて、ありがとね。
さて、結論から言うと482が近い。と言うか、ほぼ正解。
あさま(白山)から、いつも雷鳥(北越)に乗り継げた訳じゃない。
それで、はくたかも長岡まで使ったということなんだよ。間違えたわけじゃないよ。
長岡から先は、たぶん482がフォローしてくれた感じだったんだろうね。
あと新幹線は高いからというコメがあったけど仕事だからね。
会社の金だから高いから使わなかった、ということはなかったでしょ。
しかも当時は好景気の真っ只中だったんだだから
単純に東京経由なんて無駄な遠回りはしたくなかったんだろうね。
>>482 >>483 Thank You! >>484
こういう奴いるんだよなあ、気に入らないからって自演にしちゃう奴w
上越新幹線ができてからならともかく
昔っから名古屋〜新潟間は中央・信越経由が常道だよ
どっちが俄なんだか…w もしや、非鉄の親父さんが『はくたか』を『白鳥』と勘違いしたんじゃなかろうか? 名古屋→新潟であれば
古から中央本線、信越本線が主流
急行「赤倉」ルート
北陸本線や高山本線は、一旦東海道本線を西に下ることになる。
年代にもよるが、
名古屋→長野「しなの」が第一候補
昼間は長野→新潟直行がないため、
直江津または長岡乗り替え
上越線の名前通り本線ではないんだよ
歴史が浅い >>471
>>481
名古屋1100 → 新潟2007
新潟840 → 名古屋1745
1966-10
ちなみに「きたぐに」(気動車急行、のちの越後)
大阪1100 → 新潟2105
新潟735 → 大阪1755
>>469
この頃、名古屋新潟、名古屋長岡を往復した。当時はごく当たり前のこと。
電車化寸前の1982-10頃でも、新潟名古屋間を利用する人は結構いた。
当方は中津川から乗ったが、向かい側の老夫婦は新潟から利用、越後弁でしゃべっていた。
今でも名古屋の新潟県人会の方に、赤倉の廃止を惜しむ声がある。 また話を戻して悪いが
やっぱり、キハ58時代の長編成の赤倉は良かったよな。
出発時、10両余から一斉に排気があがるんだぜ?
10連のときと12連のときがあったが、理由分かる人いる?
繁忙期だから増結、という単純なことではなかったと思う。
なぜなら、1月下旬という超閑散期に12連に乗った記憶がある。 所定12両、2両減車で10両だと思うけどスキー客や温泉客もいるから超閑散期というわけでもなかったんじゃないかと想像
キハ58赤倉の欠点はやっぱり冷房だね
名古屋持ちにしてキハ65入れるわけには行かなかったのだろうか? >>496
なるほど
でも、自由席は文字通りの空気満載だったんだけどね
まあ、よくある増結空振り列車だったのかもしれんが
自由席は見事に天然クーラー効いてたな
新潟につく頃には、汽車に乗ってきたのか?と言われたこともあったよw 田中誠が粘着して個人情報を抜き出そうとする不正アクセス行為という犯罪を行っております >>496
新潟や新津工場では無配置だからキハ65の整備経験は皆無だろ。経由地の長野ならキハ91の経験が
有るから何とかなったろうけど。 >>499
キハ65は『越後』で新潟行ってるはずだから、整備経験はあるんじゃ? >>495
12両なら22エンジンだな、4VKor4DQも含めると24エンジンか。
去った後の残り香はなんとも言えなんだが、体にゃ悪いなw
>>496
登場時よりずっと新潟持ちだな、昭和40年代後半からは新潟の気動車運用のエースだったと思う。
(運用番号1を貰っていた)
12両だと、キハ58系長大編成対応車(初期車も後に対応)限定になるから、比較的新しめの車両でそろえていた。
名古屋持ちの件、当時名古屋も手一杯だったと思う。
赤倉が名古屋持ちになれば、全国的に急行の運用を見直さなきゃならなくなる。
もっとも、名古屋地区の気動車急行がほぼ全部冷房化されたのは1978年(昭和53年)ごろだが、
赤倉が名古屋持ちなら50.3頃には冷房化されていただろう。
ただ、当時名古屋局はキハ65を嫌っていて、仕方なく使っていた、とのこと。
>>499 >>500
新潟で「仕業検査」はやっていたと思うが、それ以上はやっていないはず。
トラブルがあった時どうしていたんだろう、やれる範囲でやって、あかにゃお手上げ、か。
なお経由地の長野は「越後」の配置区。 赤倉かぁ、中央西線経由で新潟ー名古屋って凄いなw
どうして急行「ちくま」の話題が無いの???
ちくま51号が浜松のEF58牽引だったね。
定期ちくまは篠ノ井のEF64牽引だった、愛知機関区なんてまだ無い頃、
稲沢には機関区あったけどゴハチ配置は無し、
名古屋地区にどうしてEF58の配置がなかったんだろう?
いまだに「愛」の区名札に違和感が有るw
国鉄時代なら稲沢第二機関区のEH10にでも牽引させたら良かったな。
EH10は昭和55年には全機引退してるしなorz
61号機が最後まで残って保存されてるけど、61号機は吹田所属だったからなぁorz 連投スマヌ
ちくま51号のEF58牽引は1982年頃だったと思う、
早朝早くて夜行扱いだったので早朝撮影に行ったのでよく覚えてますよ。
定期のちくまがEF64牽引に対して臨時ちくまはどうしてEF58牽引だったんだろう?
EF58牽引でもEF64牽引のどちらでも中央西線って良かったのかな? >>501
もしやOB?と思えるほど詳細なレス、ありがとう。
名古屋局が、キハ65を嫌っていたというのは聞いた記憶があるな。
山岳路線抱えてたし、加太越えもあった。
キロを入れない代わりに、渋々キハ65使ったという話も聞き覚えが…
>>502
なぜ51号なのか解せぬ。元々定期夜行の「ちくま」でいいんじゃない?
稲二は貨物機ばっかだったな。ヤードに隣接してたし スマン、勘違いしてた。
ちくま51号云々は忘れてくれ(;^ω^) >>502
ゴハチだけど、名古屋局管内なら当時は米原(現在は西日本)に配置されてただろ。 >>506
でも、ちくま51号は浜松のEF58が担当していたよ。
当時浜松区のゴハチがちくま51号を牽引して着たときにガッカリしたもんだった。
浜松は今では贅沢だろうけど、形態がHゴム車ばかりだったし、
米原区のゴハチなら綺麗な原型小窓のゴハチも居たし異端児w36号機も居たから
毎日ワクワクして撮影に行ったろうなぁ(笑) >>506-507
スレチだけど
金星51・52号を、東機のPFが曳いてきたときはビックリしたな。
今みたいに、事前に情報がなかった時代だったから新鮮だったなあ >>504
当時の中の人からの聞きかじりです
>>502
50.3改正から53.10までは、夜行「客車きそ」が篠ノ井、夜行の季節「ちくま」が稲沢第二のEF64の担当だった。
>>502 >>506
スレチになるが、米原のEF58は北陸方面〜関西が主な担当だったと思う。
47.10〜53.10の間は米原〜大阪地区〜関西九州夜行で使用、米原以東まで来るようになったのは53.10から。
名古屋から一番近い電気機関車配置区は稲沢第二だが、貨物の機関区のため配置されなかった。
そのかわり、同じ中部支社(中部輸送計画室)内の浜松のEF58を主に使用していた。
稲沢の電気機関車が旅客列車にも使用されるようになったのは国鉄末期じゃなかったかなあ。
>>503
中央西線内だと、多治見で付け替えてきたんじゃないかなあ。
昭和40年代半ば、名古屋多治見間に下り1本(午後)だけEF58+DD51の重連が牽引する普通列車があった。
上りの客車普通を牽引してきたDD51(EF64だったかも)が多治見からの貨物列車に充当されるため、
名古屋で急行阿蘇の牽引用としてあいていたEF58(浜)を充当したということだったかと。
>>508
スレチついでに、JR化後の金星51・52号はEF65一般型牽引、さらに6両だったな。
末期感が半端なかった。 八王子支社エリア、特急あずさ50周年グッズ発売中。高い缶クッキーに初代絵が無いのは萎え。藤色で察して。 東京新聞夕刊にあずさ50周年記事。初代写真つき。
一面が福島宮城鉄路つながる・で購入した。 >>502
ちくまといえばEF64のユーロ色がけん引したこともあったな >>514
俺は団体を牽引したユーロ色を名古屋へ返却する際に上りちくまの次位(稲沢機の)にいたのを見たことがあるよ。ここぞとばかりに総括重連してたw 上野原と長坂が特急停車駅でなくなるとか。
長坂の特急停車ルーツをさぐると、
急行「甲斐駒」(甲府〜小諸)のみ一往復停車している時期があり、
これが廃止されると、
急行「アルプス」が一往復停車するようになり、
急行が淘汰されて、特急が一往復停車するようになったみたいだ。
わらしべ長者というか、吉宗みたいというか、運がいいというか
北杜市の市制施行時点では小淵沢町が参加してないことをいいことに
「特急停車」を看板に市代表駅になっている。
ちゃっかりした駅だな。 駅舎新築し、かいじの起点に昇格した竜王(甲斐市代表)もちゃっかりしてますな >>517
アルプス時代初期は長坂は一本も停まらないときがあった
準急があったころは、周囲に村落も少ない日野春には停車しても長坂には止まらないとか国鉄時代は長坂はあまり重視されてなかった
須玉町と長坂町は町の格からすると圧倒的に須玉のほうが上だった
中央道長坂ICができたころから長坂は多少なりとも活性化し、
ほかの町村が極端に停滞したために相対的に北杜市の中枢に成り上がったが、現在は再び少子高齢化の渦に流されて下降線 乗降客数や停車駅の間の距離から見て、甲府・小淵沢間で韮崎以外に特急停車駅を1ないし2増やそうとすれば、竜王と長坂が妥当なところなんでは?
駅に接続する道路網の整備や経済的環境の変化に対応してこうなったということでしょ。 >>520
>甲府・小淵沢間で韮崎以外に特急停車駅を1ないし2増やそうとすれば
これの必然性って? >>521 列車の平均時速をできるだけ落とさずに、停車駅1ないし2増やして旅客増を図る、という営業政策でしょ。
収入増の効果が見込まれなくなったら、その駅の停車を止めればよい。
そのうち、中央線の通勤電車に二階建てグリーンが併結され、大月まで1時間に1本運転されるようになれば、新宿・大月間の特急停車駅も修正されるのかもね。 >>522
>列車の平均時速をできるだけ落とさずに、停車駅1ないし2増やして旅客増を図る、という営業政策でしょ
一般論じゃなくて >>523
他の路線だけど、常磐線の特急で、東海、大甕、常陸多賀、日立と4駅連続して各駅停車する理由について、営業政策以外の理由でもあるのかなあ? 新しいカメラを買ったんで、練習がてら多摩川鉄橋で「撮り鉄」した。
101や103に混じって111やら181やら183
やら165やら、果ては65やら73やらやってきた少年時代を思い出した。運賃が30 40 50だった昭和49年頃。 あずさは新宿−八王子−甲府−松本でよかった
残りは特急停車駅からの緩急接続もしくは急行対応で
下手に停めると周囲の駅にも停めろとなって収拾がつかなくなるから >>526 中央線の特急、急行って観光客が主な対象だから、主要観光地への入り口ないし接続駅にも停めなくてはならないのでは?
小淵沢、それに上諏訪、岡谷、といった所を無視するわけにはいかないんだろうなあ 茅野市、諏訪市、岡谷市って嘗ては市制施行順に人口も岡谷市>諏訪市>茅野市だったのが知らん間に人口が茅野市>諏訪市>岡谷市で逆転になったな…
しかし岡谷ジャンクション付近から眺める諏訪湖は最高ね。 甲府ー松本 保存機関車めぐりの旅(駅に比較的近いもの 非公開除く)
甲府 C125(韮崎へ移設) ED17(鉄道博物館へ)
韮崎 C125 EF15
小淵沢 C56126
茅野 C1267
上諏訪 D51824
下諏訪 C12171
岡谷 D51349
辰野 D5159
塩尻 D51155
松本(最寄りは南松本だが)D51172
「あずさ」の甲府以遠の主要停車駅近くに必ず蒸気機関車が保存されていますね。ほとんどが信州地縁のカマというのもいい。辰野だけは「かつての」になってしまったけど。 >>529
明治22年の町村制施行をスタートラインと据えると、
当時諏訪郡には、上諏訪村、下諏訪村、平野村(岡谷)、永明村(茅野)他があり、
上諏訪村、下諏訪村、平野村はそれ以前から諏訪湖の領有をめぐって争いがあった。
明治24年 上諏訪村が上諏訪町に
明治26年 下諏訪村が下諏訪町に
昭和11年 平野村が単独で市制施行。岡谷市に改称。
この時点では製糸業で成功した岡谷市の1人勝ちだったといっていいだろう。
はっきりいえば、他の諏訪郡全体から恨まれたでしょうね。
昭和16年 上諏訪町が豊田村と四賀村を仲間に入れて市制施行。上諏訪市。
下諏訪町は・・・といえば東は上諏訪西は岡谷で、合併する相手もいなく、市制できず。
昭和23年 永明村が単独で町制施行。ちの町に改称。
昭和30年 上諏訪に対抗すべく岡谷市が湊村・川岸村を編入。
ちの町も負けておらず、ちの町・宮川村・金沢村・玉川村・豊平村・泉野村・北山村・湖東村・米沢村が合併。茅野町。
市制施行への布石か?
すると今度は上諏訪市も、中州村・湖南村を編入。
さらに富士見も黙っていません。富士見村・境村・本郷村・落合村が合併。富士見町。
激動の昭和30年。なんか列強の植民地ブン取りあいみたいなものすごさですね。
昭和32年 岡谷市が長池村を編入。
昭和33年 なんとか市制施行したい下諏訪町は岡谷市に一部(東町・東山田)をおねだりして編入。
茅野町が市制施行。茅野市。
昭和58年 上諏訪市・下諏訪町・岡谷市の諏訪湖部分の境界がやっとこ確定。
こんな歴史があるところなわけです。
ちなみに明治22年からどことも合併せず、編入もされずただひたすら独立を守っているのが
原村。
というわけで現在は
諏訪郡原村、諏訪郡富士見町、上諏訪市、諏訪郡下諏訪町、岡谷市
となっております。 >>519
準急=単線時代は長坂はスイッチバック、日野春は平面駅という差があったからな
こちらは北巨摩郡日野春村→長坂町と、町制施行時に名を改めた
>>531
諏訪郡平野村は東京荏原郡平塚村(今の品川区の一部)が町になった後、岡谷市になるまで
国勢調査ベースで全国最多人口を誇る「村」だったからね 43−10前後の時代とはいえ、200キロ程度の短距離昼行便では
甲府〜松本間に一つ停車駅を挟まなければ席が埋まらんかったでしょ >>531
諏訪湖周辺の自治体の変遷について詳しい解説を有難うございます。
他所から見ると、平成の大合併の頃、諏訪湖周辺(辰野あたりまで)で一つの自治体になったらどうか、
というように見えたのですが、この調子だととてもそんな空気にはなりそうにないですね。
諏訪大社御柱で、柱の受け持ち割りの多くは旧村単位によるものが多いように感じます。
茅野上諏訪下諏訪岡谷4駅で優等列車の停車駅の取り合いなどもあったのでしょうか? >>531を訂正。
上諏訪町は市制施行で諏訪市な。
どうも鉄ヲタ脳だと、上諏訪市といったほうがピンとくる。 >>534
各駅周辺の観光地、名所、それに霧ヶ峰などの観光地行きのバスの接続地点、調べてみたら?
その方が有効だと思うよ。 1975年3月には、下り9号が4駅連続停車していますね。この頃は、茅野と上諏訪は全停車。下諏訪は下り1本、岡谷は1往復停車。ついでにいえば、小淵沢は1往復のみ季節停車(春〜秋)。 朝の上りの急行アルプス富士見に停まりながら小淵沢を通過とかは理不尽に思えた
あとは夜中の長野発富士見止まり
小淵沢までいけよ、と 小淵沢はただの乗換駅だからな。
確か、特急の長坂停車が始まった頃は
小淵沢通過長坂停車だったよな。 大合併とやらで
甲州市とか甲斐市とか北杜市とかおかしな市名が増えすぎた
駅名も
浅川→高尾
与瀬→相模湖
初鹿野→甲斐大和
勝沼→勝沼ぶどう郷
日下部→山梨市
別田→春日居町
石和→石和温泉
− →すずらんの里
− →みどり湖
三留野→南木曽
とか改悪や安易なのが多すぎ >>540
みたいなバカってなんでもイチャモンつけるタイプなんだろうな。
自治体にどういう名前をつけようともそれは住民の勝手。
駅名改称は、たいがい自治体あたりと鉄道会社の折衝で決まる。
よそ者は黙っておれ。 >>541
ちなみにあなたはどちらのご自身でしょうか? >>541
観光地を抱えた自治体ほどDQNネームつけたがるんだよなぁ
余所者は黙るかもしれないが、行くこともなくなるねw 国分寺と立川の間にあるから「国立」って、古くからの地名を完全に無視したDQN駅名の典型なんじゃね?
こちらを「谷保」として、南武線の方を「本谷保」とすべきだったのかも・・まあ、文句はあれこれとつけられる。
ま、 谷保が田舎臭い、野暮ったいと思われたんでしょ。
個人的には、紀和なんてのも同じような駅名の付け方と思う(当時の隣駅は紀伊中ノ島と和歌山市)。 もっと遡れば、亀無では縁起が悪いから亀有に地名改変した例もあるわけだから、元々の地名無視してセンスよさそうなものにしてしまうのが、当たり前に行われてきている。
駅名も同様。 センスがいいなら良いんだけど
最近の付け方はDQNの方が・・・ 良い地名の旧名が禁忌のケース、水絡みの漢字はその伝承とか
>>540指摘の旧駅名に少し怖い歴史があったり その昔、「大口菊名」と同類の「浅川与瀬」というのがあったとか
(山梨の国中には浅川姓がそこそこ多い)
>>549
武田終焉の地だけに、いろいろあるら 先日、リニア鉄道館(名古屋市)へ行った際、懐かしいクハ381に再会?した。
昭和50年代後半、三重県出身の俺が東京での学生時代に中央線経由や信越線経由
で帰省する時に何度も利用したことを近くにいた若いスタッフに話すと非常に喜んでくれた。
ただ当時の車内は初期の簡易リクライニング(固定しないタイプ)で、リニューアルされて
いる展示車とは多少雰囲気が違ったけど。 酔った覚えはある。吐いていた人もいた。不思議だった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています