【381系】思い出の中央東・西線を語ろう【EF64】No2
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中央東線と西線の昔話や思い出を語るスレです。
なお、中央東線・西線の乗り入れ列車やの受け持ち区の話題(例:南チタ)や、
接続している近隣線区の話題もOKとします。
例:武蔵野線、南武線、八高線、相模線、富士急行線、身延線、小海線、松電、
大糸線、飯田線、明知線、太多線等の話題も歓迎します。
前スレ:【381系】思い出の中央東・西線を語ろう【EF64】
http://maguro.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1364980646/l50 >>27-30
それ、一時はまことしやかにささやかれていたが、基本的にまったくの出鱈目。
ちゃんと、距離率に応じて乗車券や料金券の収入は分配されていた。
また、周遊券収入なども利用実態調査をもとに分配率が決められていた。
たとえば、国鉄末期の高千穂線の(ワイド、ルート、ミニ)周遊券収入は5億円が計上されていたそうだ。
いい加減な噂を正しいものとして持ち込むべきではない。 >>106
昭和50年代初めにほとんどの普通列車が電車化されても
中央東線沿線の長野や山梨の家では普通に汽車といってたぐらいだからな 寧ろ、急行(型気動車)を差し置いて冷房が設置された事の方が話題性があったか…。 風向きからして高山本線のほうが影響するのでは
まあ多治見あたりは少しは影響するのかもしれんが かつては「おんたけ」って愛称の列車があったけどいまはなくてよかったな。
噴火で事故があったら走ってられない。 キハ181のラジエーターとエアクリーナーが詰まって大変なことに… 熊本行急行が「阿蘇」ならば
さらに近づく急行が「火の山」だったりしたな。
意外と知られていないけど,駅名に「火」のつく駅は皆無。
建物につける名前としては縁起悪いとされるんだろうな
と思いきや「火」で始まる地名もほとんどない。 近いところで「あさま」「のりくら」もだな。遠いが「雲仙」も。
ちょっとWiki見たらBCランク含めて結構な数の火山が愛称になっているな。 御嶽山が79年まで死火山と思われていたほど活動しなかったから、王滝の森林鉄道が75年まで存続し得たということかも。
噴火に長野県西部地震のような大地震による山体崩壊が生じていたら、ボールドウィンは噴石や土砂に埋もれていたかもしれない。 >112 頂上部が噴火で吹き飛んで山麓に多大の被害を及ぼした磐梯山が、かつての磐越西線乗入急行の愛称になってたぞ 今日は休みだったので,久々に立川から中央線の快速電車に乗った。
普段はライナーか特別快速しか使わないので・・・本当に「久々」だった。
国立駅でかれこれ10年以上ぶりに下車。もともと「高架駅」だったのが
さらに「高架駅」になって改札口がすごく遠くなったが・・・・
知識としては頭にあったが,時が経てば駅もかわり,電車もかわる。
昔この駅をよく利用していたときは常に時刻を確認してから改札口を通ったもんだが,
いまじゃそんな必要もない。ちゃんと屋根付ベンチもあり,待つのも苦痛じゃない。
それに停車する電車の数もかなり増えた。時刻確認を要しない。
昔はひどかった,1時間に4本程度。しかもランダムダイヤ。ホームの屋根も
ほとんどなく・・・雨の日は悲惨だった。 >>119
上りホーム東京寄りの桜を覚えてないか? 覚えていないな。ただ,北口ロータリーが目の前に見えて,
そして上り島式ホームの3番線にはいつ動くとも知れないトラが何両も停車していて・・・。
あと,下りホームの高尾方には車椅子専用の出入り口があった。
といっても下りホームに入れるだけで,また他駅で車椅子対応を
している駅なんてまずなかったわけで,無用の長物だった。 武蔵小金井駅のジレンマ。
下り電車から北口方面へいく場合,
最後尾東京方の改札を出て,すぐ踏み切りを渡れば北口まで楽にいけた。
狭い階段昇降もなければ,上り電車に乗る人波をかきわける必要もない。
ただし,踏み切りをスンナリ通ることができれば・・・という条件付だった。
国分寺駅での「覗き」
中央線島式ホームから上を見上げると
ピンク色の電車がいつも鎮座していて,
スカートの中身を拝むことができた。
武蔵境駅北口のバスの流れ
いまは駅前を西から東方面へ流れるが,
かつては東から西方面へ流れていた。
その頃の南口といえば,小田急バスの乗り場はあったが
あたりは草ボウボウの荒地であった。 1988・12・1に特別快速が「中央特快」と「青梅特快」の2本立てになったが、
全車が新たに停車するようになった国分寺を後者は通過してた。
あれは何でだったんだろうか…?その後、1993・4・10のダイヤ改正で停まるようになったが。 >>123
新宿〜立川間で
中央特快3,青梅特快1,快速6〜7,あずさ1,かいじ1というのを
基本として,「あずさ」の速達性を守るために,
特急他がなければ特快1,快速2にできるところを,快速を削り,
それにより青梅特快は国分寺での快速待避がなくなるので通過させた
というような話を聞いたことがある。
当時のダイヤだと
新宿〜八王子で,三鷹立川通過の「あずさ」が30分,
三鷹立川停車の「かいじ」が40分。2駅停車で10分差というのは
停車ロスだけではないだろうと思われる。 >>124じゃわかりづらいから訂正。
もし特急(や貨物)がなければ,
1時間あたり特快4,快速8にできる。
ところがこれに特急を30分に1本挿れると,
特急の速達性を尊重するなら特急1本につき快速1本を削ることになり,
快速の運転本数を尊重するなら,特急の速達性が犠牲になるという
ジレンマがあった。
ということで,1つの妥協として,「あずさ」は守って「かいじ」に泣いてもらう
ということに落ち着いたわけ。
そこで特別快速3本は国分寺と三鷹で緩急接続
1本は三鷹での接続で国分寺では接続しないというのを基本とした。
それで中央特快3,青梅特快1として,案内をしやすいように
青梅特快の方を国分寺通過ということにした。
ただし,その後たとえ緩急接続をしないにしても,全ての特快は
国分寺に停車してもいいだろうということで停車するようになった。 新宿〜三鷹、立川〜八王子、ともに国電区間内で10分程度。
地元の要望や急行時代からの流れがあるにせよ、停める必要性を感じない。
赤羽や浦和も同じだけどね。 中央西線のきそや赤倉などに使われたキハ91は試作要素が強い車両だったのかな?
キハ91ヒートシンクの部分がキハ181に似てるけど。
西線にキハ181はのちの電化前のしなので使用され、その後キハ181‐1は四国から
里帰りしたね。
キハ91は4枚折戸で異端だったね。
キハ91は使いづらかったのかな? >>128
試作要素が強い車両ではなくて試作車両そのものです >>126
こまめに停めた方が利便性上がるからな
特に都会の駅は大きめの駅ならそれだけで需要あるし乗り換えの利便性も高い >>126
赤羽は特急列車以外は急行列車は全部停車、
各駅停車については回送を除いて通過なんてありえない。 >>132
>赤羽は特急列車以外は急行列車は全部停車
下り夜行は通過だったろ? >>133
下り夜行だけでなく,
「あづま」,日光那須方面へ特化していた時代の「日光」「なすの」も
赤羽だったよ。 >>134
日光準急はさすがに話の流れ的に古過ぎる
1972年か73年辺りに全部停まるようになってるから
あづまだけど上野発18時半過ぎると赤羽通過みたいね
1980年の時刻表見たら信州7号も通過してる
軽井沢から普通になっちゃう奴
18時半過ぎても赤城5号・ゆけむり11号だけ停車してるが浦和停車なんで赤羽もついでに停めたのかもしれないな >>126は
浦和と赤羽を一諸くたにしてるよな、
その頃だと浦和は中電は全部通過してたけど、
流石に赤羽は全部停まってたよ。
まだ埼京線も湘南新宿ラインも無い頃の話。 つうか立川なんて特急通過でええ
三鷹なんて言語道断。 今じゃ八王子以東だけの区間で特急に乗せようとしてる。
だからその区間の停車駅が増加の一途、って側面もあるような…。 昔115系の中電が新宿―立川間(27.2km)ノンストップだったが、
これは、東京―横浜間(28.8km)、上野―大宮間(26.9km;尾久経由の実際の値)、等とほぼ等しい距離だった。
ごく僅かな本数だったとは言え、よくこんな事が出来たもんだと思える。 >>140
昔の客レがそうだったからとか?
だから新宿〜立川が無停車でも別にサービス低下と言われたりする事はなかったのかと。
複線時代、乗降にも時間を要し、加減速度も遅い客レの表定速度を極力、電車列車に合わせ、列車密度の高い区間で
より多くの列車本数を確保するために採られる手法の一つでもあり、その客車列車の役割を引き継いだのが71形、115系
だと言うだけの事だと思うけど…どぉだろ?あとはサバーが汽車、インターが電車がと言う都市鉄道の役割分担なんだろうね。 スーパーあずさ1号なんてオールで飲んでた朝帰りの泥酔客が勢いで八王子まで
使うから新宿〜大月間ノンストップでいいよ。
510円掛かるって知らないで犬が来て、しばらくしらばっくれてんだから。
もう車内酒臭いし、
おまけにアベックで乗ってくるもんだからデッキはラブホ状態だし・・・・ >>140
要するに
かつての「電車の切符で汽車には乗っていけない」時代の名残りかと。 >>143
或る意味、真にそうすべきかも知れないという気もする。
>>142が言及してるような事態を考えると。 >>144 車内検札やって、特急券持っているかチェックすればいいじゃん。
上野の列車線ホーム(常磐線特急)のように、新宿駅のホームで特急券チェックができれば防止できるが・・ いまの「あずさ」「かいじ」の車内改札の厳しさはハンパないぞ。
かつては新宿駅の特急ホームは新幹線と同じようにホーム入口に改札があったが,
いまじゃ,ホームに至る通路が多すぎて,無理なんだろうが。 >>145-146
以前の新宿駅は特急ホームの階段の入口に改札があってそうしてたけど
いつの間にか無くなってしまったよ。
人件費削減なんだろうか?
新幹線みたいに自動改札化にすれば無問題なような気がする。
改札をなくしたのは、将来の特急列車全廃を見越した処置なんだろうか? 出場に関しては約30分に一度しか仕事が無いからな
入場はまばらだしそのために人員を割くのは無駄ってことなのでは。 駅の構造、ホームに至る通路の問題考えずに、特急全廃と電波垂れ流している馬鹿 >>147
天下の新宿駅で「あずさ」「かいじ」要員を減らしたからといって
どれほどの人件費削減になるかわからないが,
特急ホームが1〜2番線の時代は,上に1箇所,下に1箇所で事足りた。
3〜4番線になったとき当時の最も南側からの通路(これは1〜4番線しか連絡していない)
ができたが,最初はここからの乗換えについては改札がなかった。
その後,小田急方式の乗車口改札をしたが,これだとおそらく繁忙期が捌ききれなかったのだろう。
小田急と違って自由席券は無制限に売るので,人数予想が立てにくかったのだろう。
1年足らずで終了。その後,再度改札口に係員が立つなど試行錯誤があって,今に至っている。
いま新幹線方式にしたら,夕方〜夜は最少15分間隔で列車が出発するから
パニックになるな。 >乗車口改札
一時あったの覚えてる
183、189時代に1扉締め切って、入り口で切符確認してた
あの頃は自由席の列のトップ並ぶ為に気合い入ってたな >>145-146
昔は検札を行うのは下りは八王子発車時から、上りは甲府発車直後。
上りも下りも甲府以北はフリーパスだったなww
>>147-151
あの改札のお蔭で、特急券を回収されて手元に残らないので、経費節減を兼ねて
上りは特急券や急行券を立川か八王子まで買って、快速で新宿まで戻って、特急
券を手元に残した。 >>152
上りは夜遅い到着だと新宿での出入り口回収も無く改札も無人だったような
記憶違いかもしれない 確かに
宿題の日記に貼るため、切符を手元に残せないか色々考えたな だがしかし,
「あずさ2号」は5番線発だったから,自由に拝むことができたけどな。
確か幕張から車両がくるから,1〜2番線に入れようとすると,上り快速線を塞ぐことになるためそうなったなんだよな。 1975年5月号の時刻表(交通公社B5版)の中央東線の頁を見ると、上り「あずさ10号」だけ
「エル特急」のマークが表示されていなかった。
この頃、上り「あずさ10号」は季節列車で、1975年の大型連休には5月5日にのみ運転されたが、
同日は全車指定席のため、自由席付を旨とする「エル特急」には該当せず、
って判断だったんだろうな。
実に律儀というか堅物というか、そんな感じがした。 >>156
まあ,いつも欠勤の下り1号,上り10号だったからな。
そもそも,臨時列車より運転日の少ない「季節列車」だったからな。
そのおかげで2M以下はあるのに1M不在の路線だった。 仮に複数日運転で5/5のみ全車指定席だったら、別列車として記載されたのだろうか…
スレチになるが、14系「つばさ」がL特急だったことを思い出した。
L特急のイメージとは趣を異にするものの、理には適っていたことになる。 >>159
そうなんだけど,
当時の「あずさ」は下り1号上り10号は「季節列車」で,
たいがいどちらも常に【運休中】だったんだよ。1975年3月改正以降は,
ごくたま(それも年に数回程度)に運転されるのだが,その時期が
たいがいは,エル特急の全車指定席時期に当たるというような変な列車だったんだよね。
>>158
そもそも「つばさ」がエル特急になった頃って,寝台特急以外は
すべての特急に自由席が連結した頃だから,エルがあってもなくても
どうでもいい時代だったじゃないか。それに14系というのは
臨時列車だろ。 今CXのヨルタモリで、タモリさんが11月の中央線、塩尻〜松本に思い出があるって言ってたけど、
中央線で帰郷してたのかな? 子供の頃よく中央西線に乗っていたが
73系の最晩年?にオレンジ色に塗られたことってありませんでしたっけ
何かとゴッチャになっちゃってるのかなあ 80系と間違えてない?
先頭形状はほぼ同じだし、朝の上り快速で名古屋まで来たり、松本発神領行
で顔を出したりしてた。 オレンジの旧国=片町線
オレンジの可部線=105系
>>165がみたの=クハ85
ってこと? ☆☆☆☆☆
☆ 自民党、グッジョブですわ。 ☆
http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/index.html
☆ 日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、改憲の参議院議員が
3分の2以上を超えると日本国憲法の改正です。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。
私たちの日本国憲法を絶対に改正しましょう。☆ 381系の特急が走っていた頃、自由席、指定席とも満席でデッキに立っていた。
カセットウォークマンの時代でそれを聴いていたんだけど、
あんまり暇なんで、車販のおねえちゃんに話しかけてみた。
見知らぬ女子に話しかけるのは、生まれてはじめてだったが、
案外に話が弾んで、木曽福島あたりから名古屋までずっと話していた。
その間、車販はなかったわけだが、今考えると彼女も仕事に飽き飽きしていたんだろうな。 >>171
当時の中央東線の車販は売上ノルマもなく、車輌先頭から最後尾まで
区間ごとにビュフェから出て戻る一往復すればそれであがりだった
逆に一往復するためにはどんなに通路の立ち客が邪魔していても
それをかきわけてカートを進めていくのであった
西線は知らない 今日の朝日夕刊に、50年前の3月19日夜、夜行列車を待つスキー客で混雑する新宿駅ホームの写真が載っている。
急行第二白馬23時発、松本経由糸魚川行に、0時25分発各停岡谷行きの表示が。
18時ころから客が並び始め、22時にはホームは満員という状況だったそうだ。 ビッ区カメラ札幌店の
副店長の佐藤伸弦が暴行事件を起こしていた。
コピ・ペで拡・散希・望 最終の80系乗ったなあ…TVのカメラも
記念切符なんてのも持ってるが価値有るのかな 80系は2枚窓が1両も保存車がいないorz
当時の設計図面で本物そっくりに作った小山病院も解体されたorz
JR東海が設計図面をもとにモックアップでも作らないのかな? >>171
381系の頃、車販のバイトをしていた
名古屋を出てしばらくしたら1往復
木曽福島あたりで1往復
松本手前で1往復
楽チンで楽しいバイトだった
ただスキー団体客がいると暗算が大変だったな
81年ごろ 日給4500円程度だった
塩尻でスイッチバックしていたころの話ね 真夏に長野駅に紫煙吐きながら入線してくるDC 急行赤倉
お盆でもちろん超満員、デッキでも身動き取れなかった思い出有り >>180
名古屋発が10時ころだから,ちょうどいい時間だったわけだよな。 >>69
少しでも住居表示が実施されてるだけまだマシじゃないか
(スレチになるが)京都市なんて住居表示率0パーセントだからな… 京都は地番表示ですらごく最近の話だからなー。
京都市○○区ヨコタテ東西入る(上る下る)がデフォだったわけで。 今朝新宿から189系に乗ったよ。
バッタンシートに激しい横揺れ。
昭和気分満喫でした。
ただし立川まで。 >>186
ボケにマジレスしちゃうけど、ホリデー快速富士山に乗ったんだろ アルプス54号ってのが新宿発0:40の超満員の夜行に乗った事がある。朝まで通路立ち客でギッシリ >>188
俺は大学時代ヨドバシカメラの無料でもらえる黄色い新聞を沢山貰って来て、
夜行の115系普通電車か、旧客のアルプス54号に乗った
115系の車内の通路にヨドバシの黄色い新聞紙を敷詰めて、大学の先輩後輩たちと
寝食を共にした、かれこれもう37年前の話だけど。 45年位前、高坊の頃に小海線のC56撮りに新宿からオハネフ繋いだ
EF13牽引の夜行急行に乗った。
真夏の夜、鈍足で窓を開けても風が入らず車内は山男達の男のフェロモンが
ムンムンでその気のある人には最高の列車だった。
表定速度≒30km/hで愛称は[白樺]か[穂高]か[乗鞍]だった様に思う。 俺はそのC56が小淵沢から牽く「八ヶ岳高原号」ではなくて、冬場の「霧ヶ峰スキー・八ヶ岳スケート号」に新宿から乗ったよ。たぶんEF13が牽いてたのだろうけどフィルムもったいなくて何も撮っていなかった。小淵沢で半分切り離されてC56149が連結されたっけ。 連カキ失礼
オハネフ…×
オロハネ…◎
俺が乗ったのは二文字愛称の松本or長野行で小海線併結ではなかったよ
コンコースに並ばされて号車ごとに職員の引率で6番線(下り快速用・
当時は結構早い時間に快速は終わっていた)から乗車したよ 中央東線の夜行ってさ、見事にお客の入れ替わりというか棲み分けがされていたね。
その列車の発車時間帯や行き先にもよるけど、新宿そ遅く出て松本あたりで夜明になる場合
長野行鈍行とか急行アルプスとか)だと立川〜八王子、高尾までは終電代わりのサラリーマン、
大月で河口湖や富士山方面へ向かう軽装のグループ、塩山で大菩薩峠への下車、甲府から今度は少しずつ南アルプスへの
山男・山女達が起きてきてもそもそし始める。小淵沢で小海線へのハイカー中心客、茅野でいよいよ南アルプス登山客、
だいたい夜が明けて上諏訪・下諏訪では霧ヶ峰、塩尻で木曽路方面、松本でそのまま大糸線に入る場合も含めて北アルプス縦走の人たち…。
それなりに乗車の暗黙のルールみたいなのがあってあまりトラブルもなく、皆明日への行程の楽しみを抱いて車中を過ごしていたね。
なお山行以外にもちろん蒸気機関車撮影旅の鉄道ファンも小海線、木曽路ほかへの道のり乗車していました。 192だけど、あの頃の新宿駅は西口のフォーク集会とか学生運動とか
・・・何とも言えない何か・・・今の様に社会システムに組み込まれ
ないエネルギーがくすぶっていて良かったなぁー
帰りは小淵沢から甲府行EF13牽引普レだったが回復運転だったのか下り勾配を
100km/h近く出してTR11着用オハ60の乗り心地が「おー!モーレツ!」だった。
勿論デッキでドア全開で・・手すりを握り締めながらステップに立ち
全身で受けた風の味は未だに忘れられない。 その新宿駅だが,パトカーが何台も止まって刑事が現場検証していたりしていたもんだから,
なんだろうと思っていってみると,そこにいるのは山村刑事以下の面々が・・・・。 >>194
フォークゲリラだね、あそこが広場から通路になった経緯の事件だ。
西口広場から通路に成った。
先日加瀬邦彦氏が自殺したのは衝撃的だったな、
49年間も活動していてフォークの第一人者だったのに。 >>195
その光景を思い浮かべたら、山さん主役回の「噂」を思い出した。
噂は181系とき号で新潟へ行く話で、まだあの頃はあずさと共通運用だったので
中央東線の低トンネル対策で、運転席上のライトとタイフォンを撤去した181系だった。 「高原へいらっしゃい」のOPの最初は
小淵沢を出た直後のあのカーブだよな?
車両はかわったが,今も同じだ。 今日の朝も新宿から189系に乗ったよ・・・
といいたかったのだが、時刻は同じ8時45分発だったが,
車両は257系で,しかも全車指定席だったから諦めた。
来週はあらかじめ指定券用意して乗ろうかな。 201系
塗りの車両からステンレス車両に変わって雰囲気のすべてが無機質になった気がする 205系
おれからかわったんだよな。
あんたまでが違っていた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています