懐かしの東武鉄道について語ろうパート5
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>>159 ドル箱?ジョークだろ
高麗川から坂戸まで、どの程度の旅客需要あるのかねえ? 東武和泉の側線跡もGoogleだと更地になってるね 写真で良ければ蒸機が貨車と電車崩れの混合牽いてるやつかな。 >>167 矢板線のさよなら運転とか?
550が3210をサンドイッチにした4両編成のように、昔はごった煮編成が結構あったようで。 更新前の32と更新3000の混結とか
8000にクヤ挟んだやつとか
ネット探せばまだありそうだけど 以前、どこかのHPで78×2+モニ+78×2が小菅〜五反野の高架線を怪走している写真をみたなぁ。
あと57×2+30×2+57×2もどこかのHPで見たなぁ。 広い意味でのカオスで考えればブツ10なんかは?
乗務員室の床面積合計が軽く客室面積1両分くらいいっちゃうんじゃない。 DRC+78は?
伝説の57が特急代走した時の
DRC踏切事故で西工に回送する際に走った 葛生の蒸機って東武の車籍だったの?
もしかして定期検査とか西新井委託? 今これが走ってたらしょっちゅう日光に行ってしまいそうだ 小学校の修学旅行で日光行ったけど、馬返にあったケーブルカーの廃駅見て何の施設だろう?と思ったものだ。 >>177
俺も小学校の修学旅行バスで日光だったけどガイドさんが廃止になったケーブルカーの跡だって説明してくれたよ 第二いろは坂は元々鉄道の予定だったという話も聞くけど、
実現してたら箱根登山なんて目じゃなかったよなぁ。 >>179
道路公団が鉄道建設する訳無いよ
国鉄の構想もなかったし
でも軌道線の専用軌道化、ケーブルの中禅寺湖延長が出来てたら劇的に変わってたかも知れんね
箱根登山は実際併用軌道を専用軌道にして、ケーブルカーの先にロープウェイ作ってるんだよな これ日光登山鉄道の計画線でしょ?明智平−中禅寺間に電気鉄道をうんぬんてやつ
日光軌道の改良とあわせて実現して盛況になってたら…と想像するとワクワクする
なお現実は >>180
道路公団とか国鉄がどうこうよりもっと昔の計画だよ。 >>182
つまり第二いろは坂とは全く関係ないわな 昔、3000系って停車の時に床下からパンパンパンパン…、停車直前にバチーン!と何かが折れる様な音がして驚いた…、
のは私だけか? >>181
いやそれとは別の戦後の話。
第一いろは坂と軌道+ケーブル+バスがパンクしだして、
今の第二いろは坂ルートを最初は軌道で計画したけど、
結局道路に変更されたという話だったはず。 >>119
1924年国鉄6200形6245〜6249→東武41〜45
1925年国鉄6236〜38、6242,6244→東武46〜50、
国鉄5541,5544,5549→東武54,55,56
1937年国鉄5531→東武59
1939年国鉄6253→東武60、国鉄5551→東武58
1940年国鉄6257,6260→東武62,61
1944年国鉄6251,6252→東武64,63 >>191
乙
でもぜんぶ国鉄じゃなくて鉄道省だけどね >>192
まあそれも含めて国鉄って事でいいじゃないか。 組織名称としての日本国有鉄道は戦後だが、形態としての国有鉄道は戦前からだしな 初期の8000系の車内にあった鏡。
冷房化の際に鏡を撤去したっけか? >>197
そんなのあったんだ。
貫通幌にマジックハンドみたいな金具が付いてた年式イコールかな? 8000の幌のマジックハンドとベロは平成まで残ってたよ
幌のマジックハンドとベロが最後まで残ったのは18型の格下げ車 8000系で幌にx字の金具つけて落成していたのは8181Fまで(2コテは判らん)
幌自体を内外で色分けしていたのも、白地幕もこの編成まで。 鉄ピク誌のニュースに「81107F塗装復元」ってあったけど、あの編成はセイジクリームで落成してるから厳密には「復元」じゃないよな なんというか更新顔にセイジクリームの似合わなさがガマンできない 来年は、634系を6000系の塗装にしてみたりして・・
1720系塗装のスペーシアが出てきたら・・? 今年6050の6000カラー運行がリアルにあるかも♪ >>210
6両編成すべて6000色ならまぁいいかもな。
でも6050は毎日組む相手がかわるだろ、変なまぜまぜ編成になっちゃうぞ。 2000系は……オールM時代、非常制動のあまりの効きの強さに
乗客全員将棋倒ししそうになって吃驚した思い出 パタッ、パタッパタッ、パタッパタッ、パタッ…、2000系 2000に関しては懐かしいと言うだけで思い出を美化しすぎなんじゃね?
加減速のショックは大きいし、夏は暑いし、雨の日は蒸れるは、北千住のダンパ線では後発の浅草行き普通に抜かれるはorz
あぁ、まだ78の方がマシだわw 2000は見た目・内装共に面白みが無かったなあ。
78はモーターの唸り、木の床、白熱灯と渋さ満点で大好きだった。
らくだ色のシートが懐かしいね! 2000系の正面デザイン、改造前の1700系に比べて非常にダサく感じられるのは何故だろう。
正面扉が非常口だから幌がないのと、運転席の所に通風口がついているからかな?
1700系をセージクリーム一色に塗っても、あそこまでダサくならないと思えるのだが。 1700は京急1000顔?2000は阪急顔?
そこに差がつく何かがあるんかな? 2000の前面の窓やドアの寸法、1700とは異なっているのか?
画像比較したが、ほとんど同じように見える。屋根のRが異なるのかな?
2000の方が角ばっているような感じ。 来年以降、20000系も思い出の車両になって行くのか・・・・・・。 20000はまだ使えるから、短編成化してローカル運用に回すのでは?
8000の置き換えとして。東上線の小川町以北とか越生線に入ってこないかな・・? 2000の正面は、通風口があるので お岩さんみたいで何処か怖かった。 でも2000て地中からモグラがサングラスかけて地上に出てきたみたいなユーモアある顔してんじゃんw
地上はまぶしいからな、仕方ないべw 18メートル車はホームドア導入の足かせとなる厄介者の存在だから、
20000系シリーズはすべて東武から追い出してほしい。 20000は地方私鉄が一括購入し、車種統一して経費節減につながるような活用方法
がいんじゃね?
あぁ、でも両端Tcとか…、やりづれぇな。 03と言うライバルがいるからなあ
地方私鉄に売りさばけるかどうかも分からんのに 蒸し暑いが雨が降っているため窓を開けられない時は、8000系の非冷房車と2000系のどちらが涼しかったのだろう?
扇風機式の場合、室内の蒸し暑い空気をかき回しているだけだよね。2000系の場合、ダクト付きのファンデリアだが、ダクトから空気を取り込んで強制送風機で車内に放出する方式だから、その方が涼しくなるように思えるのだが 暑い時期ならベンチレーター開けるだろうから同じようなもんだろ >>218
当時は減速時にモーター音がする車両が少なかったから、高速からの電制で悲鳴のような音を立てるのが印象に残っているよ。
美化はしていないけどお気に入りではあった。模型も作ったしな。鉄コレじゃないぞ。 上野の曲がったホームの隙間から熱風が噴き出すのは2000系だっけ? >>230 8000のほうがマシ
2000は地下対策で窓の開口部が小さい上に
電制つきだから減速時も抵抗熱がハンパなかった
頭上のファンデリア(?)は音のわりには
殆ど効いてないような感じだったなぁ。 東武2000はファンデリアだけだったけど、営団3000は扇風機のもあり、一編成で直接比較できた
結果は扇風機の方が暑かった
東武の運転士の中には加熱が激しい電気制動を嫌ってか、電気制動解除、空気ブレーキだけで停める人が居た
さらに腕自慢は自動ブレーキで停める人も
2000系のブレーキ弁は直通帯の後に自動ブレーキ帯があった
減速時に「ヒューン」と音がしないと、電制切ってるな、とわかったものだ 鉄板焼電車は103系1000番台と双璧だな、配線を焼いた103系と車体まで焼いた2000系。 でも103系のようなガサツさ、お下品さというか?そんなんはなかったよな。 >>237 幼い頃、地下鉄が火事になったというニュースを見て、地下鉄怖いと思った。
それから間もなく、親に連れられて丸ノ内線に乗ったときは、ホームで泣いて嫌がった。
しかし、乗ってみたらなんてことはない。むしろ、地下鉄が好きになった。
燃えたのは2000系だったのか、今になってわかった。 >>242
ドア5箇所も要らないだろ。
そのドアを埋めて座席置く改造のカネ考えたら、3ドアの車両買った方が。
20000系列だけじゃなくて、03も使い道がなくなる。
日本中の地方私鉄が20000と03の3ドア車に置き換えてもまだ余るんじゃないか? 真夏の営団3000で客室側の乗務員扉開けっ放しで運転する東武運転士見たことあるよ
よっぽど暑かったんだろうね
カーテンはしっかり降ろしてたけどね
8000系の冷改は若い番号から順番にが原則だったけど
8107Fの冷改は6連なのに随分後回しにされたし
東上線で2連4連の冷改車なんて数えるほどしかいなかった
本線の8000系は随分冷改が進んでいるなと
東上住民の自分がちょっとジェラシーを感じた昭和53年の夏 東武の運転士が営団3000で前面の貫通扉を開けて運転しているのは、
何度も見たことがあるな。
何故か自社の3000や2000でやってるのは見たことが無い。
ああいうのが普通に見られる会社だから何とも思わなかったけど、
今にして思えばフリーダムな時代だったんだな。 >>244
クーラーキセの形状が8111・13Fとそれ以外で異なってるので、この2本が後で冷房改造されたと思われる。
また、8179・81Fの投入で8170〜72Fを本線に召上げられたのは当時釈然としなかったものだw 東武越生線の吊り掛け
大好きだったなぁ
ゴーゴーいってて気持ちよかった 73・78も味わい深かったけど存在感があったのは非冷房5000系ですね
駅で待っててこれが来ると「うわー来たー!」って感じ
当時東上線は列車無線未整備だったけど本線さがりの5000系には
無線アンテナが付いていたのがちょっとカッコ良かった
鉄粉まみれの車体は同じ顔が並んでいてもこれ5000系ってすぐわかった
冷房付けてもらって綺麗になって戻ってきた時はこれが同じ5000系かと信じられなかった
車番も切り抜き文字に変わり東上線で側面表字幕が付いた鋼製車は初めてだった
8000系の種別表示はまだ前サボを使っていたので自動表字幕の5000系が優等運用に就いたら
表示方法はどうするんだろうと心配したけど結局池袋口に来ることがなかったのは残念だった >>248
5000系は床に台車と床下機器へのハッチみたいのがあったね
宇都宮線で乗ったのはいつ頃までだったろう
野田線の方が先になくなったかな >>248 非冷房時代の東上5000って、1が白幕、2が青幕だったな。
時々8両に組まれる時があったけど、その時は必ず4-2-2だった。 >>248
5000系冷房改造後も車番はペンキ書のはずだが。
>>250
クハ5602だけが青幕。 >>251冷改で切り抜き文字張り付け、
新塗装化で即撤去 僅か数年 >>250 方向幕
5102Fが青地白ヌキ文字
5101F・5501F・5502Fは白地黒文字だったね
この8両は本線からの転属組みだから転配時の幕交換で
古いストック品を付けさせられたと想像
更新は昭和54年度だったけど幌はジャバラ式が付いていたし
とてもチープ感ある車両だった ムック本買って来た
フラワーさん対談ツッコミ不足で答えもお茶を濁した感じ
新たな知見としてはときわ台の宅地開発は貨物ヤードを予定してたけど変更して転用した事でしょうか
時期と場所を考えると幻の西板線計画の一部ではと想像します
西板線の路線図を見ると東上線側の分岐点は上板橋
緩やかに分岐してときわ台手前で別れて環七沿いに至る計画
ちょうど今の住宅街の中を通る感じになります
西板線の免許失効が昭和7年ときわ台開業が昭和10年なので時期も矛盾しません
西板線計画での東上線側の予定(投資)は皆無と思ってただけに
計画が実現してときわ台横に広大なヤードが有る世界を想像するとちょっとワクワクしてしまいます >>254 その場合、下板橋の操車場はどうなるんだろうな。
2つも貨物ヤードが必要だったのだろうか?ときわ台付近に環状7号線が開通するのは戦後になってからだし、下板橋で十分捌けるのでは?
啓志線造って、群馬県太田の中島飛行機工場から成増飛行場まで航空機の部品を輸送するなど、軍需輸送用ということであれば意味があったのかもしれないが。 下板は国鉄との継送に必要なんじゃないかな。
常盤台増設で余力が出来るなら、車両基地としての機能を
増強するとかはあったかも知れない。 ☆☆☆☆☆
☆ 自民党、グッジョブですわ。 ☆
http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/index.html
☆ 日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、改憲の参議院議員が
3分の2以上を超えると日本国憲法の改正です。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。
私たちの日本国憲法を絶対に改正しましょう。☆ 常盤台の件は西板線についてのページが用意されてると思ったら
ときわ台駅の説明でちょっと書いてある程度であったでござる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています