【元祖】寝台特急あさかぜ【ブルートレイン】
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2段寝台にした時点で料金を採算あうレベルまで引き上げるべきだった その高い料金での需要がないなら2段寝台にしたのが失敗 >>75 東京口に二段寝台が登場して間もなく昭和51年秋の運賃.料金大幅値上げそれまで1600円だった二段寝台の料金が4000円と倍以上になった。 ちょっとまとめてみる。 やはりブルトレの絶頂期は20系の頃だった。 新幹線岡山開業でも平日でも九州行は連日満席だった。 それが一変したのは新幹線博多開業。 お袋の実家が九州なのだが法事に行って終わったその日に帰ってきてびっくりした。 飛行機の乗り方は分からないが新幹線なら乗れる。同じ時間に乗ってその日に帰れるか 翌日に帰れるかは大きな差だ。 しかしまだブルトレの需要はあった。途中駅からの乗車や朝一の現地入りなど。 それが崩れたのが航空機の安売りとビジネスホテルの台頭。 これがネットで予約できるようになってブルトレの需要は終わった。 富士はやぶさが廃止される2年前のお盆に乗ったら1車両に2人しか乗っていなかった。 最後の1年くらいは葬式需要で結構、乗っていたが。 残念だが時代の変化に飲み込まれて消えるべくして消えた。 あちこちで観光目的で復活の兆しがあるが、 それもこの先、どうなるかわからない。 上りのあさかぜのプルマンで一夜を過ごし食堂車で朝食を済ました帰りナロ20のゆったりした席に腰を下ろして朝の東海道の車窓を楽しむ。車掌氏も了解していて東京到着までの一時をゆったり優雅に過ごさせてもらった。 20系博多あさかぜ最終メンバー…カニ21 3.11.15.51ナロネ22 103.153.155ナロネ21 113.129.134.551ナシ20 18.19.20.24ナハネ20 55.104.132.133.216.217.218.219.230.238.239.240.242.247.305.306.311.312.338.339.343ナハネフ22 2.13.14ナハネフ23 5.6.7.8 プルマンのプライベートスペース感って、正直どんな感じなんでしょうね 広いベッドであっても、カーテン一枚の向こう側は通路という仕様 全く乗ったことないの?2013年年明けまで、 日本海(オロネ24)と、きたぐに (583系にもともとロネないので国鉄時代の改造で誕生したが一応国鉄スタイル) で乗れたのに。 偶然の事情で乗り合わせた北陸のオハネ25しか経験がない でも端っこで向かいは壁だったし(17上・下)、友人と二人だったから 簡易二段個室を独占状態のようで楽しかったよ 殿様あさかぜの博多あさかぜが一番遅くまで20系で残ったのはA個室をどうするかとか食堂車の問題で25型置き換えが後回しにされたからかな? らしいね あとは乗車率が高かった列車は3段で残ったなあ >>83 しかしながら例の昭和51年(1976)の運賃.料金大幅値上げの影響大でさほど考慮の必要はない方向で置き換えられてしまった。 >>83 新幹線と全面的に被る東京〜博多よりも熊本以南特に鹿児島から利用落ち込みが予想以上に早かった。 >>80 近年ではプライバシーを云々してるが当時はカーテン一枚でもさほど気になる問題ではなかったね。プルマンの広い空間で十分満足で贅沢だったよ。 >>87 なるほど、より体の自由が利く広さと解放感が 過剰にプライバシーを意識させない要因なんですね プルマン式寝台って扉はないけど個室により近い感覚やから カーテン開けると赤の他人5人と共用する空間があるよりも カーテンの向こうは共用通路、その方がプライベート感はありますね 下段は特に当時特急の大きな窓一枚を独占出来るってのも相当贅沢な事だった なんだか本当に乗りたくなってきましたよ、プルマン寝台w ガキのころ20系のプルマン乗った記憶がある。 寝台が解体だれてから誰か隣に乗ってくるのでは?と心配した。 結局誰も乗ってこなかったけど1等のヒルネなんかあるはずないよね。 プルマン式は銀河のA寝台で一度だけ経験した そりゃまやっぱりサンライズのB個室の方が鍵も かかっていいけど、なんだかんだでA寝台だったよ ナロネ20のルーメットやコンパーメントは勿論贅沢で居心地も抜群だったけどプルマンの広いベッドの中で大きな一枚窓から20系同士の夜中のすれ違いを眺めるのが鉄道ファンとしての1つの醍醐味でした。 実際に乗った人も、そうでない人も、 思いをはせることのできる 誠に雰囲気のよいスレだ >>98 25でなければ15だと思う 1995年頃の話 >>93 あけぼのの青森秋田間は(たぶん日本海も)A寝台のヒルネあったんじゃなかったっけ? もちろん、ブルートレイン以前のマロネ41なんか普通に昼間の1等車になっていただろうし。 しかしプルマン型座席は、横幅が通常の2人掛け席よりかなり狭いから、 大人2人は辛いものがあっただろうね。 82、99ですが二段化したスハネ14かもしれません とにかく二段、ドアから最初のブロックであったことは間違いありません >>101 あったかも知れないが空席に1人でしょうね。 あれに2人座らせてはA寝台料金もグリーン料金も取れないでしょう。 プルマンのヒルネのグリーン券てたしか上段、下段で出てくるよね。 向かい合わせの席の上に“上段”“下段”て表示されてて、その席に座るようになってるんだよな。 プルマンのヒルネのグリーン券てたしか上段、下段で発券されると思ったよ。 向かい合わせの席の上に“上段”“下段”て表示されてて、その席に座るようになってるんだよな。 ちなみにB寝台のヒルネの指定席も上段、下段で発券されるが、席に表示がないので「下段と書かれた指定席特急券は窓際へ、 上段と書かれた指定席特急券は通路側にお掛け下さい」と車内放送されていたけど。 >>103 たぶんそうですね 14と15ではオハネとオハネフの二人区画の有無が逆転していますから リサーチ不足でした スレチネタを引っ張るような原因を作ってしまって申し訳ありません >>106 電車寝台のB寝台座席使用のときは、上段中段下段D席という具合に発売されていた。 電車寝台時代の「きりしま」は、寝台解体していたらしいけど、 よくあの複雑な構造のものを車内で解体できていたよなあ。 すんげー人手がかかったんじゃないか? >>109 乗務員は2車1だったし寝台解体の応援があった時代だからね。 >>110 それでも14・24系の三倍、20系の倍の時間がかかったろうね>電車寝台の解体 寝台の解体の時には、みんな通路に出てその様子を見ていたもんだね。 20系や10系寝台だと意外と簡単に解体できるから、確か1人が3両を受け持っていたはず。 583系の解体・セットは、見ていると感心してしまうくらいうまく考えられていたよね。 寝台のセットは、始発駅を概ね19時くらいまでに発車する列車、解体は終着駅に9時以降に到着する列車で実施されていたと思う。 青森を日付が変わる寸前に発車して、上野に9時過ぎに到着する「はくつる」でも解体をしていた。 なんかすごく損した気分になるから、敬遠していたよ。 14系や24系に変わってからそんなことも見られなくなったけど、反面、上段にいるといつまでも寝ていられたのは良かったね。 20系「きたぐに」に乗った時に 「寝台の解体は絶対に自分で行わないで下さい。係員が来るのをお待ちください」 というアナウンスがあった。そして 「ご自分でなされて大怪我をしたお客様がいらしゃいます」と言っていた。 恐らく中段を勝手にあげて下段に座っていた客に中段が落ちてきたのだろう。 フックが完全にかかっていなくて、安全ロックバーも降ろしていなかったのだろう。 下手したら首の骨が折れて死んでいたかもしれない。 >>113 20系「きたぐに」なんて存在しないだろ >>92 岩泉の寝台車ホテルへGO オロネ24に泊まれるぜ >>115 そういや、昔のRJ誌に「あおもり」のルポがあって、 駆け込み乗車しようとしたサラリーマンが車内設備を見て絶句、 や、やめときますと言ったというふうなエピソードが出ていたな。 20系B寝台はやっぱそんなに酷いものだったんか? >>117 列車で横になれることがどれだけありがたく贅沢なことだったことを知らない世代はそう思うだろうね。 しかし昔のナハネ10の定員が60名、今の在来線昼行特急のトイレ付き車輌の定員が56〜60名程度だから、 すごいものがあったんだよなあ。 >>116 あの岩泉ですか 遠いけど廃線散策を兼ねてぜひとも行って見たいですねえ 冬なら熊とか出てこないかな? >>117 東京駅で臨時のあさかぜ見たくらいしかないけど ホームから見ただけだけど二段式の14系や24系と比べて物凄く狭苦しくて薄暗かった印象 >>119 >>121 平成も四半世紀を過ぎた現代の目線ではなく何故"動くホテル"とまで言われて持て囃されたか?当時の社会情勢.常に逼迫していた国鉄の輸送事情を考慮しないと正しい理解は得られないだろう。 20系の中段は跳ね上げ式で中途半端な格納は危険だった。 10系の中段は下に降ろして背吊にしたから勝手にやっても問題なかった。 ところが碓井にやってきた10系寝台は3段の状態で解放されていた。 この状態では寝台前後にある中段の支え金具を引き出して置かなければならないが、 半分近くが外れていて、転落防止のベルトで支えられていた。 金具を全部戻して係員に注意しようと思ったが誰もいなかった。 今はどうなっているか知らないがそのままだと危険。 下段に座っている内に中段が落ちてくる。 まあ、多分今は中には入れないようになっていると思うけど、 特別に人を入れる時には注意が必要。 >>122 学生がトイレ共同風呂なし4畳半に下宿し、 5階建新築マンションがエレベーターなし そんな時代だ 限られた家しかエアコンはなかったし あさかぜを始めとする寝台特急の食堂車の朝の洋朝食の中のオートミール。 食堂車で覚えたメニュで以来家でも愛食している。 へぇ〜、オートミールが好きだって言う人がいるんだな。 自分はあれ大嫌いだったな。 「北海」の食堂車で初めて口にして、もう二度と食べたくないと思ったら、寝台特急の朝洋定食にはこれが付き物で困ったよ。 普段から好き嫌いなく食べる人間だけど、あれだけは脱脂粉乳と並ぶくらいまずいと思った。 オートミールを「ウマい!」というあなたは凄い! >>126 オートミールが嫌いな向きにはコーンフロストのシリアルに替えてくれてましたね。 ガキの頃、はやぶさの食堂車に行ったら、テーブルの真ん中にフルーツが盛ってあって、 びっくりしたな。母親から絶対に手を出すな、と厳命された。 今考えると、銀座のクラブと同じ手法。 >>125 ちなみに 九州ブルトレの食堂車の朝食は 一時期バイキングスタイルになっていた >>129 あったなあ。 嫁さんと二人貸切だったこともあった。 しかし、内容のわりにはいい値段だったような気が。 和洋の朝定食のほうがよかった。 あさかぜ最初にして最後の利用はバブル時代91年に、東京から広島までの修学旅行にて。 北斗星のベースになったゴールドあさかぜだったが、修学旅行なら当然解放Bネ。 俺以外知る限り周りに鉄はいなかったが、友人連れていろいろ車両を探索したが、レトロムードオシ24-700以外印象に残っていない。 食堂車で晩メシ食いたがったが、既に東京タワーレストランで食事済みで残念だった。 その後わずか3年で消滅したのはバブル崩壊もあったが、詳しい俺が乗車しても印象が薄かったのは、北斗星に比べてあきらかにグレードアップがハンパだったのも要因だろう。 >>131 あんたとこの修学旅行、行きも帰りも夜行寝台か? 3段式の中段乗ったのは帰りか >>131 ゴールドラインになった以後の昭和63年頃でもロネは4〜5人、ハネは下段がサーッと埋まってる程度の日がかなりあったよ。 そうですv だから新旧のあさかぜ車両を一度の旅行で体験できたんだから、今考えれば貴重だったな。 50.3の新幹線博多開業で廃止になった14系のあさかぜ2.3号。ちょうど20年前の12月に博多あさかぜ廃止後の年末年始臨で19年半ぶりに14系あさかぜ81.82号として運転されたにもかかわらずさして話題にもならなかったのは不思議だった。 フルーツ盛合わせは時価だからね。食堂長が客を見て決めるんでしょ まあ相場は2万ですね >>135 昭和40年代半ばくらいだったと思う。 もちろんナシ10の時代。 父親を東京に残して、母親と妹がA寝台下段、私が上段で帰省するというパターンだった。 上段の小窓が非常に嬉しかった記憶がある。 >>138 下段の大窓を独占できるのもいいけど上段の小窓から流れ行く夜景を眺めるのも中々いい!! >>132 流石にゴールドラインに中段は無いだろう。 しかし>131の学校は内部にブルトレオタクがいたのかな? もう新幹線はあったからせいぜい片道利用と思うが。 往復利用の方が東京での滞在時間が有効的だったのかな。 九州ブルトレ末期のころも結構、広島からの利用は多かった。 >>141 >>134 で、そうだと答えてるやん 20系スレで中段乗ったと書いてるし だから91年なんかに20系あさかぜなんか走っていないって。 >134は下段の女子生徒の上に乗って中段とか言っているのでは? 東京タワーレストランてのも間違ってるんだよな 東京タワーにあったレストランは東急タワー大食堂な >>143 それはお前がおかしい http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1410584215/185 >その次の20系最後になる乗車は91年で、西の修学旅行団体列車だったが あさかぜだなんて書いてないぞ あさかぜで登場した金帯25形の帯って、オリジナルみたいな金属帯じゃなくて、 シールみたいなもんだったんだな。 >>145 なるほど「あさかぜ型」と書いてあって「あさかぜ」とは書いていないな。 団体用「あさかぜ型」20系は確かに存在した。 下りは21時ころ品川にいたので乗り込んだことある。 山口まで帰るというおばちゃんが、明日の夕方ころ着くと言っていた。 いったいどんなスジで上りはどうだったのだろう。 でもこれが91年まで本当に走っていたんだろうか? >>147 当時臨時急行玄海がお盆や年末年始に走ってたし 団臨もあったんじゃね? 山口に明日の夕方ころ着くってのはないなあ 10時過ぎには小郡に着く筈 >>148 山口のおばちゃんが小郡とか下関近隣に住んでいるとは限らんからな。 そこからバスで数時間かかれば夕方だ。 >>149 小郡から萩まででもお昼過ぎには着く 山口県内で夕方になるってのは有り得んよ 東海道ブルトレに止めを刺したのは公立校の修学旅行の航空利用が解禁になったことが大きい。 全盛期の主な客層だったビジネス客や観光客が航空機や新幹線に移った後、修学旅行の団体が東海道ブルトレの主な客層になったが、 その修学旅行団体の航空利用解禁が東海道ブルトレに引導を渡したようなもの。 最後の安定した大口利用だった修学旅行団体にまで見放されたことは、東海道ブルトレにとって大きな痛手となった。 >>150 田舎の婆さんは、言うことがいちいち大げさだから、 それをいちいち検証していたら、疲れるだけだがや。 >>152 10時に着いて御飯食べて買い物なんかして4時に家に着いたら夕方だ。 そんなものだろう。 さすがに12時に家に着けば夕方とは言わんだろう。 ゴールドラインのあさかぜが廃止になって今年で20年になる。更に16年遡った昭和53年2月1日20系博多あさかぜ最後の日。粉雪舞い降りる中で静かに博多駅を東京に向けて離れて行った。あさかぜを見送りながらひとつの時代が確実に終ったのを痛感した。 東京タワー(の)レストランじゃなくて、なんかタワーの中にあった、修学旅行団体客専用室だと思うけど、宴会場みたいなとこで食べて、ステーキとお代わり自由なライスが出たな。 俺たち世代はアホ団塊のジュニアだからバカ人数多くて、金帯あさかぜに全員乗り切れず、次の下関あさかぜにも残りが乗った。 帰りは大阪から日本海縦貫ルートだったが、また同じようにひとクラスだけ日本海の二段ハネで快適移動して、後のクラスはカイコ棚でしんどいお帰り(>_<) 新幹線博多開業前の博多あさかぜの上りのナロ20って岡山辺りまでかなり混んでましたね。当時16時が最終の岡山行つばめ8号だったからその後を受けて最最終の昼行特急の役割も担っていたわけだろう。 下関あさかぜ廃止の頃に発刊された惜別あさかぜの本の中に現門司鉄道記念館館長宇都宮照信氏撮影で下関駅停車中のナハフ21を最後部にしたあさかぜの珍しい写真が掲載されている。撮影月日を見るとナハフ20→ナハネフ20の改造時期と合致する。 >>157 珍しいと言えば、全検時に一般色で誤塗装されたEF60-500(二燈機)もありましたね それにヘッドマークの付けて牽引する姿は、EF58やEF61のブドウ2号のそれよりも 違和感を感じます 塗装の話で言えば、最後の直流牽引機EF66も、 60/65のような特急色仕様を見てみたかったですね 15年くらいの前のお盆に臨時あさかぜに乗った記憶がある。 高松の花火を見て0時位に岡山から乗ったが翌朝に東京に戻った。 これはあさかぜだからこそ出来たスジだった。 飛行機では翌朝まで泊まらなければならないし、 バスでは渋滞で翌日何時に到着したかわからない。 サンライズも出発が早すぎて花火は見れない。 ちなみにこれが最後の臨時あさかぜだったようだ。 一緒に酒を汲み合いながら花火を見た親友も これが最後で数年後に若くしてこの世を去った。 15年前は1999年か 既にはやぶさ・さくらになって繁忙期の臨時列車も一切なくなってた頃だよ 臨時があったのは20系が廃車される1996年頃までで内科医? 15年前だと臨時特急「あさかぜ」でなくて臨時急行「玄海」だと思われ 臨時「あさかぜ」81・82号が臨時急行「玄海」に格下げになったのは1990年 94/12/1博多あさかぜ定期終了後は臨時であったよ 99年に走ってたかは記憶にない ちなみに玄海(20系)は92年で終了 >159ですが20系ではなく24系でした。急行ではなく特急でした。 そのころはもう20系玄海は無くなっていました。 >>162 多分それです。それの最後でした。翌年に乗ろうと思ったら無くなっていました。 臨時の最後は寂しく消えていきます。 やっとこさプレミアムボックスの本を読んでるとこ。 昭和50年生まれの俺には事実確認できない箇所も多いけど、でも間違いあるね。 「あさかぜ2・1号」に「あかつき2・1号」ってなんやねん!? あ、どうも2・4号の事か。しかしあかつきツーって…(笑) 他にも間違いあるんでしょうか?まとめてるサイトとかないですかねえ あさかぜがゴールドラインになった直後から気になっていたのがオハネ24-700のカルテット。一般客へのアピールが無いせいか毎度空気輸送状態だった。4人個室だけど上段の位置が三段寝台時代のままだったしあまり居心地のいい感じはしなかった。 >上段の位置が三段寝台時代のままだった そうなのか。 写真で見ると、二段式よりは高いようだが、三段式ほどには高くないようにも見えるが。 >>167 窓は25形0番台(上段昇降)タイプに見えるけど だとしたらどうして上段を収納位置で固定にしちゃったんだろ? >>168 24系0番代からの改造だよ だから改造内容は中段抜き取って下段ソファー化、インテリア変更 >>169 あけぼのに運用していたオハネ24からの改造だけど大人4人ならまだしも例えば子供2人の家族4人だとしたら上段に子供は寝かしづらいな。 ユーロライナーみたいな構造だと、安心して寛げただろうにな。 ユーロライナーは乗ったことないが、フェリーの小上がりつき個室は、 子ども連れに本当に便利。 >>165 俺は一度乗ってみたかった。 九州のおばあさんに孫の顔を見せるために。 でも子供3人生まれてバタバタしているうちに無くなってしまった。 おばあさんも亡くなってしまった。 今でもあれば使うけどね。 俺は通路で新聞紙で十分だけど、 それには普通のB寝台券を確保しておかないと認められないだろうね。 >>172 子供連れの家族と言えばプルマンでの光景が思い出される。旦那さんと息子さんが上段で寝て奥さんと娘さんが下段で寝る。息子を寝かした旦那さんが梯子を降りてと缶ビールを片手に喫煙室で一服。日常的に見られたありふれた光景だが…。 >>173 そいうい家族いたなあ。 でも子供ってこういう時、上段で寝たがるんだよなあ。 仕方ない。親は下段で寝る訳で。 エマニエルやったやつもいるだろうなあ。 >>174 列車設立時に大阪通過で大いに揉めたらしいからね。 でも運転停車していたと思うし数分の時間稼ぎにしかならないし。 「大阪通過してでも九州に早く行ける列車」 このうたい文句を重視したのではないかなあ? >>176 あさかぜは登場当時大阪で客扱い停車してたけど 通過というか運転停車になったの昭和47年な 事実関係知らんのに妄想で語るのはよくないぜ 博多あさかぜの廃止で余剰になったカルテット・デュエット車をエルムや北斗星に使用できなかったのが残念だ 大阪局ではブンむくれて報復措置まで考えたらしいからね 有効時間帯でないなら北方貨物線でも通りやがれ、と ID:fp2a3CcP=ID:ZlBjvu0yかな? 妄想大爆発 >>180 同じ人ではありませんよ >>176 の人は設定側の「大阪通過」を前提にお話しをしていますから むしろ私のコメントとは逆だと考えますが それに妄想ではありませんよ 何かといえば噛みついて揚げ足を取って悦に入りたいようですけど、 そんなことしても迷惑なだけですから止めてください まあ大鉄局は国鉄本社と無茶苦茶仲が悪かった(今で言えばJR西日本と阪急の関係みたいなもん)から大阪無視の列車設定したら怒るのは当たり前だと思う。 >>178 はくつるに置き換えたんじゃなかったっけ まあシンデラ以外は外されて余剰になったけど。 >>181 通過と停車で全く違うのに揚げ足取り? 凄え >>184 >通過と停車で全く違うのに揚げ足取り? バカですか? 私が「現実の大阪停車」を否定した事実などございませんが 噛みつくなら噛みつくで、最低限その文意を理解してからにしてください どうにも前々から、やたら理不尽な言い掛かりを付ける方がおられますけど どうせまともに見境もつけられないような御仁でもありますから、 いっそのことそのお点前と同じように一絡げにして 「全部おまえだろ」と同一犯認定して差し上げましょうか? >>179 この件東京〜大阪間に昼行の急行列車(なにわ)一本を新設することで解決。 >>187 キミに勝手に怖いと思われて、それで迷惑行為が止むのであれば いくら怖い認定されたところでこちらは一向に構わんのだ もっともこれまでのキミの執着を思えば、 その「凄え怖え」を額面通りに受け取るお人よしなどおりませんよ まあ結局はその程度のぞんざいな捨て台詞に奔る訳ですから そのもっともらしい卑下認証、如何に空疎な虚勢であるかは明白ですね >176だけど勘違いしてごめんな。でも妄想とは違う。 大阪が猛反対したというネタを読んだのが昭和48年以降。 すでに大阪通過だったから勘違いしたんだ。 ここはちゃんと時代考証をしないと気楽に書き込めないな。 俺は素人だから当面、書き込みは自粛するわ。 >>189 そうやって間違いを認められるなら問題ないじゃん ID:YFAaTDRrとは質がちゃうわな 上等上等 ぜひこれからも書き込んでな 間違いを認めることが質であるなら、 いまだ同一認定の誤りに詫びの一つ入れられない190様の 「質」というものも窺い知れますね なんせそれこそが他でもない190様の拘る「質」なのですから その「下劣な質」というものは疑いようがありませんよね 誤りに詫びを入れることよりも先に、 ご自身の下等な質というものを自らの判断基準で晒し上げる その神経はまったく理解できません ああ、ただの仕切りたがり屋のバカですかwww >>190 そもそもの話として、「誤りの指摘」を受けて反論した事実はございません 私はあくまで「同一認証」という言い掛かりと、 さらには言い掛かりの補強目的の文意を捻じ曲げた曲解、 これに反論申しあげておりますから わざわざ別のコメントを引き合いにしてまで 同一認証をしたり、妄想呼ばわりをしたり そんな蛇足をする道理も必要がどこにあるんですか? 誤りの指摘であるなら、コメントを否定すれば済むお話でしょ? 要するにキミは何かにつけて仕切りたいだけでしょ 相手の誤りを見つければ論って悦に入る 当時を知る方のコメントに、自身の「知らない」を見れば 片言隻句に噛みついて、不愉快を露骨に表す つまりキミの行動はキミは子供、お子ちゃまなんですよ 質の程であれば いくら晒しても 恥ずかしくないと 意味がわかりませんwww >>194 >意味がわかりませんwww そこが君の限界なんだね 内ゲバはこの辺りで止めてくれないか?この12月で博多あさかぜが廃止されて早20年になる。大いにあさかぜを語ろうではないか!! 大いに語られる様子もないようだから、 全角さんには申し訳ないが続けさせてもらう >>195 言い掛かりが「言い掛かり」であることが証明された以上、 間違いを認めることが「人の質」と公言する以上、 自らが考える「人と質」とやらを実践するのは当然のことでしょ だってキミは「人」なんだろ? >そうやって間違いを認められるなら問題ないじゃん つまり間違いを認めないキミの言動は問題アリということ しかもその問題はキミが解決すべきこと 自ら模範を示したらどうかね 20年前のちょうど今日、最後のあさかぜ1号と4号がそれぞれ博多と東京を目指して出発したんだよな。 20年なんてあっという間だったな・・・ >>198 博多あさかぜ廃止から20年。東京〜九州間の寝台特急のフラッグシップが失われた日。 あさかぜに限らず九州特急でプルマンに乗っていると時々思わぬお歴々と相席になることがある。意気投合すればそのまま食堂車で異業種交流の食事会へと発展だ。その場だけでなく後に大きな仕事に繋がるもあった。 >>202 いつの時代の話だ? 新幹線博多開業前の昭和40年代か 20年前のまさに今の時間、最後のあさかぜ1号に使用された金帯編成が品川に向けて回送中。 自分は下関駅で回送列車を撮影したが、牽引してきたEF81にはあさかぜのHMが装着されててラッキーだった。 下関からは牽引機は、現在も貨物会社で現役のEF66の52号機だった。 当時回送列車の釜交換の一部始終を撮影していたのは自分ひとり、今じゃそんなことはありえないだろうな。 回送列車が下関駅のホームをゆっくりと離れ、テールランプが見えなくなるまで見送ったけど、 この編成が2度と下関の地を踏むことがないのかと思うと、胸がジーンときた。 >>203 それだけ乗客同士がインチメントな時代だったんだな。 とうとう「北斗星」も廃止が決定した。 “ブルートレイン”が過去の話になるのもあと僅か… 「あさかぜ」で“ブルートレイン”という言葉が生まれて半世紀余り。 トータルすれば150回くらい“ブルートレイン”にお世話になった。 20系から14系、24系、24系25形と全ての系列、大部分の設備に乗ってきたから、“ブルートレイン”は自分の鉄ちゃん人生でいつも花形だった。 廃止されるのは定年退職の日が迫ってきたようで寂しいね。 退勤時間に東海道線を次々と下って行くブルートレインを眺めて旅に出たくなったのも、 ついこの前のことのように思い出すけど、もうずいぶん昔の話。 歳を取ったということだ。 >>207 九州ブルトレ末期になって東京口でも見れるようになったという… >>207 定期.臨時を通してあさかぜに運用されることのなかった唯一の系列でした。 15形って必要最小限って言うの?日本の特急形車両の中で、なぜか一番薄っペライ感じがしたなぁ。 昔小学舘だったか?の「ブルートレイン入門」という書籍でブルトレ使用客車の概説の中での15形の記述に「A寝台がまだない」というのがあった。 ブルトレ衰退がもっと遅かったら15形の増備もあってA寝台車の登場もあったかも知れない。 20系はともかく、24系と14系はなんで電源方式が違うだけで形式も分けたのかな。 ロネやハネ、食堂車や緩急車は共通で使えるようした上で、列車の使用方式の違いで、 電源を電源荷物車にするかスハネフかで良かったような。 九州ブルトレなら、基本編成は九州方に電源荷物車、付属編成は両端にスハネフ。 あさかぜ、はやぶさ、富士は付属編成スハネフの電源エンジンは使用しないけど、 さくらやみずほでは基本から鳥栖や肥前山口から付属の電源エンジン起動とか。 きたぐにの北陸トンネル事故を受けて、分散電源方式から集中電源方式に戻すことになったけど、 先にシステム確立しちゃった12系と14系が登場しちゃったから、 「じゃあ中間車は共通で、電源はスハ(ネ)フの代わりに電源車を連結」とか 簡単には出来なかったんだろうなあ。 12系&14系と24系の登場が逆だったら、簡単に共通化できたのかも知れんが。 >>211 民営化でさくらとみずほの基本編成が熊本に移管されたから、 東京口にも14系15形が来るようになったんだよね。 昭和43年6月さくら.はやぶさからナロ20が外れて以降専務車掌室を持たないナロネ21の初期形は当面、博多あさかぜに限定運用されることになった。しかし程なく専務車掌室設置の改造が行われ限定運用は解消した。 >>56 トホホすぎるショボデザインでワロタwww 40年程前なら年末年始のあさかぜ51号の季節になる。各地の20系の予備車をかき集めての運転だが盛アオ.秋アキ車は当時の6404レ(おが)のスジで大ムコ.広セキ.広ヒロ車は8102レか8106レのスジで回送され南シナに集結されていた。 懐かしのあさかぜを残ってる24系14系みんな集結させてやれ あさかぜと言えば博多駅。九州新幹線博多乗り入れの大改装の直前まで4番ホームには朽ち果て掛けながらも20系時代の乗車位置表示が残っていました。 >>227 根府川ですね。 山側にも線路があったのですね。昭和40年代の撮影ですか? >>228 私が40年生まれなんで、50年あたりの写真だと思います。 友達3人で行って、下の川で川遊びした思い出があります。 今日は下関あさかぜが東京と下関から最終便発車してからちょうど10年やね。 下関駅では8番9番ホームの屋根下に、あさかぜラストランの横断幕を掲出して最終日を演出してたなぁ。 ホームには地元民の人々と鉄オタがたくさん集まって、最後の別れを惜しんでた。 自分は新幹線で追いかけて新下関と小郡でも見送った。 下関あさかぜ廃止から丸10年か。 最終下関行に立席特急券で、岩国から光まで乗車したっけ。 一番機関車に近い区画(簡易個室風)が調整席だったのか未使用だったので、 ちゃっかり座って短時間だったけど周防灘の景色を堪能したのは良き思い出。 東京で仕事について、週末にどんなに疲れていても、 目が覚めれば故郷に・・・。夜明けを楽しみにできる大事な時間だった。 盆暮れ正月だけでも、お願いできないでしょうか。わかるかな、分かんないだろうな。 >>232 週末仕事に疲れて、「夜明けの海が見たい」という願いを 何度もかなえてくれた。 竹輪とビールを持って眠れなかったもんだ・・・ 8月で北斗星が臨時運行を終えたら、 使える客車集めて、あさかぜリバイバルやって欲しい。 あけぼので使ってたA個、B個は、もう潰しちゃったのかな? >>235 青森の24系は運用離脱でもう無理なんだけど? てかリバイバルあさかぜなんてやらんでよらしい。 >>236 同〜意!!幕だけ あさかぜにしたところでどうしようもないよ。 11・12列車 、2号車17番上下 ピンと来た人、いる? >>240 あさかぜ2.1号(45-10以降2号)のナハネ20の2号車でデッキ寄り最端の席。 コロタン文庫やケイブンシャの大百科、ビコムのビデオで見て幼心に一番憧れたのが(国鉄民営化前後の頃の)これ 国鉄分割民営化直前からゴールドライン化されリニュアルされたがデュエットが一部鉄道ファンの間で話題にはなったが全体的に見ると乗車率の向上には結びつかず平成3年の食堂車営業休止の時点で完全にアウトだったと思う。 初めて乗った寝台が20系あさかぜの静岡→広島だった。 とにかく狭かった。 でもナハネフ22からの展望には感激した。 おれは今、昭和30年代にタイムトラベルして20系時代のブルートレインの世界をほんのちょっぴりだが体験した!! い…いや…体験したというよりはまったく理解を超えていたのだが…… あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ! ,. -‐'''''""¨¨¨ヽ (.___,,,... -ァァフ| 『おれは東京駅では電気機関車で引っ張る冷房が効いた個室つきのブルトレに載った。 |i i| }! }} //| さすが、走るホテルだと思って寝たら、「ポォ━━━━━━━━━━━───────────ッ!!」という音で |l、{ j} /,,ィ//| たたき起こされた。うるせーなと思って停車時に機関車を見たら、牽引していたのは蒸気機関車だった』 i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ |リ u' } ,ノ _,!V,ハ | な… 何を言っているのか わからねーと思うが /´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人 おれも何をされたのかわからなかった… /' ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ ,゙ / )ヽ iLレ u' | | ヾlトハ〉 頭がどうにかなりそうだった… |/_/ ハ !ニ⊇ '/:} V:::::ヽ // 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ ブルトレらしからぬポンコツだとかいくらミスマッチだとか /'´r ー---ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐ \ 特急列車なのに性能足りない鈍速機関車使うなとか / // 广¨´ /' /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ ノ ' / ノ:::::`ー-、___/:::::// ヽ } _/`丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::... イ もっと恐ろしい前近代的風景の片鱗を味わったぜ… 解説:初期のブルートレインはSL牽引でした https://www.youtube.com/watch?v=SzvSRVU2UnI https://www.youtube.com/watch?v=YEBhSQG8bWU http://www.tetsudo.com/images/kakenuke/kakenuke-66.jpg 女性専用のシャワー室、更衣室、パウダールーム、トイレありましたか? >>246 貴方がタイムトラベルしたことを私はリアルに体験した世代です。 連投ごめん 120キロ出るんなら、ブルトレ特急引いても全然問題無いよねw。 ああ〜、あの時博多駅で見たのが、最後の20系動くホテルだったとは・・・・・ 『大いなる驀進』を見てると、20系時代は政治家とか金持ちはルーメットとグリーン車の両方をとってたみたいね。 そういう乗り方をすると殿様あさかぜはかなり贅沢な旅ができたんだよな。 だから大物政治家の番記者も同じような切符の取り方をしてたとか 昭和も40年代後半あさかぜでロネの寝台券を持っていたら朝の食堂車の帰りに隣のガラガラになったナロの座席で食後の一息で暫し座らせて貰える秘かなサービスがありました。 「あさかぜ作戦」 やらかしたのは国労 方法:上り「あさかぜ」が東京駅に着く頃、現場長に電話で「すみません、風邪なので休みます!」 結果:要員が足りなくなり駅長以下管理職が下職代行(要するに尻拭い) まあ突発休だね。 11 :回想774列車:2014/09/24(水) 03:56:18.91 ID:awZ6TGyL >>8 14系のあさかぜ81.82号は平成6年年末年始の1回のみ24系24型の あさかぜ51号は昭和50年の春期.夏期.年末年始に20系と交互運転。 24系25型は昭和51年の夏期昭和52年夏期の運転でした。 何回か2ちゃんで書いてるけど昭和51年の臨時あさかぜは24系25型0番代 だよね?宮原の予備車を借りたということだったと思う。東京駅で撮った写真がある。 当時20系あさかぜも健在だったはずだが撮ってない。 当時でも関西の大鉄局の車両を東鉄局あるいは門鉄局の売上に使うというのは どういう損得勘定だったのか?この発想がJRになってからのものなのか? はやぶさやみずほに混ざって臨時あさかぜがあるからダイヤは定期20系 あさかぜよりだいぶ遅かった? >>257 昭和51年の夏期臨のあさかぜ51号、大ミハから予備車を借りたと言ってもオハネフ25が2両だけで他は100番台早期落成車でカニ込みの12連で運転されました。 >>257 定期 博多あさかぜ東京18:25→博多10:53 博多16:58→東京09:30 あさかぜ51号東京18:43→博多11:25 博多17:30→10:00 新幹線博多開業後は旧あさかぜ下り2号上り3号のダイヤを引き継いでいるので到達時間はさほど変わらない。 40余年前ならそろそろ年末年始期のあさかぜ51号の運転時期になってくる処だ。毎期各区の20系がかき集められて運転されるのだが日頃東京には姿を見せない形式や番号の車輌が組成されているのが楽しみだった。 そういえば 20系最終日のあさかぜ(定期)の写真があった様な・・・ >>242 タモさまに言ったらいじめられること必須 新幹線岡山開業の昭和47年3月ダイヤ改正で東京発着の南シナ受持ちの20系寝台特急は全列車編成が異なる現象となった。それを解消するために昭和47年7月に出現したのがナロネ22を集約した俗に言う"殿様あさかぜ"だ。 「朝風と共に着くんだ!!」 この名台詞を残して「あさかぜ」の愛称を決定したのは 当時、国鉄常務理事で、後に日本食堂代表取締役となられた石井昭正氏。 …この時点まで、夜行列車といえば夜をイメージした愛称の列車名ばかりだったところを 型破りにも「あさかぜ」と命名された由来。 逆転の発想。 8歳の頃に九州旅行の帰りに、ロビーカー付きのあさかぜに乗った 客車なのにパンタが付いてることが不思議で仕方なかった 【迷列車で行こう 世代交代編】第1話 栄光のEF66 http://www.& ;#110;icovideo.jp/watch/sm21273701 二@AロネAABロネBBロネCBロネDBロネE1指座F食堂G2寝H2寝I2寝J2寝K2寝L2寝M2寝 >>269 ←ゆとり?ロビーカーがいつから付いたか知ってる? >>267 新幹線もパンタグラフついてるからどこが不思議かと >>274 そっちはべつにおかしくない 詳しくない人間なら電車でないのに何でパンダが付いてるんだって思うわな 客車って基本機関車が牽く無動力のもんだし 殿様あさかぜと北斗星ってどっちが豪華だったんだろう? >>282 編成の豪華さでは、A寝台が5両とグリーン車を繋いでいた殿様あさかぜ。 しかしロイヤルの豪華さは、20系A個室よりも格段に上回る。 それは寝台特急が実用的な利用をされていたあさかぜと、既に北海道へは飛行機利用が ほとんどで、民営化後設定のため、目玉商品を作れた北斗星の違いになる。 その意味で北斗星のツインデラックスは、国鉄時代に改造されたのもあって、 中途半端な設備になってしまった。 内装はナロネ20の二人用個室より悪くなかったが・・ 星空食堂車って食堂車営業時はサロン部分でも食事出来たのかな? なんかあそこすごく食べ難そうな席だよね >>284 食事なら優先的にテーブル席に誘導されただろうが、「星空バー」の異名があったので、 飲酒とおつまみが中心だっただろう。 無論テーブル席が塞がってしまえばそこに誘導されただろうが、満席の日はあったのか? JR化して間もなくレトロ調食堂車が落成したので、「あさかぜ」に星空は短命だったけど。 詳しい方いましたらご教示ください あさかぜ1.4号の食堂車が日本食堂門司営業所から日本食道 新博多営業所変わった時っていつごろでしたっけ? その後、上野営業所に変更はなかったですよね? >>286 門司営業所から新博多営業所に変わったのは事実上のJR移行ダイヤ改正になった昭和61年11月からその後平成に入り食堂車営業休止の平成3年までに上野営業所そして最末期はなんと仙台営業所となって最後を迎えてます。 >>285 あそこは宴会席になりそうだよね。食堂車はただでさえテーブルが少ないから普通に食べたい人にとってはあんま良くないよね。 まあ後の出雲のサロン扱い的には良かったのだろうけども。 >>287 上野営業所と仙台営業所の頃はどういう感じだったの? 仙台営業所とは知らなかった、 仙台から博多まで来てたのね、ご苦労様です。 20系のB寝台は狭かったなあ、 乗り心地は24系より良かった気がするけど。 >>282 時代もちがうならば利用目的者層もちがうし、 列車の存在が用務客主軸のインフラ列車か 用務客車内滞在重視型の観光客主眼の列車かでも全く異るから 単純比較そのものが無意味 2回目に出てくる「用務客」の3字は誤記(削除忘れ) 抜いてくれ ”殿様あさかぜ”のルーメットに乗ってみたかったな 食堂車の日立と日車の違いも乗って比べてみたかった。 でも最末期でも、当時5歳w 乗ってても覚えて無いかw。 >>294 オーストラリアの「インディアン・パシフィック」「ザ・ガン」の1等1人用個室や、 カナダ「カナディアン」の1等1人用個室が、20系ルーメットに近い設備なので、 機会があれば渡航して乗ってみれば? 値段は結構高いけど、道中の食事は全部込みなので、充実の旅が楽しめるw 「殿様あさかぜ」の語がきもい。 どこの趣味誌が初出だ? ななつ星(笑)はしょぼいwwww 風呂がある 南ア:ブルートレイン、ロボスレイル インド:マハラジャエクスプレス 日本:四季島、瑞風、夢空間 が最高峰 >>297 部屋は大して広くない。但しななつ星より値段は全然安いw >>299 トワイライトのスイートは忘れられた存在かorz 風呂がないから カシ展望スイート、トワ展望スイート、ななつ星デラックススイートは 1段劣るわ >>298 ”殿様あさかぜ”という愛称は1970年代から言われ始めたらしいよ。 >>303 承知ですが、呼び始めたのは趣味側ですよね? 非デコイチの「なめくじ」だってそうですし… 0系新幹線を「だんご鼻」と呼ぶのマスコミだけだよな 鉄オタも鉄オタでない人もそうは呼ばない >>295 「大いなる驀進」という映画では代議士先生はルーメットで寝て昼はグリーン車に座ってた >>296 食事代全部込みなのはいいよな どれだけ食べてもいいけど車内で動かないし向こうのボリュームなので普通に食べるだけでお腹いっぱいだけどw アルコールの料金は別だよね 博多では、大分だの長崎だの西鹿児島だのへの近距離特急に比べて別格の威厳が有ったな〜、 4番ホームに24系25形14両編成の堂々たる真っ青な列車が入って来る、 行き先を見れば遥か彼方、別世界の東京、少年の心は夢が膨らむ一方だった。 初めて乗れた時は嬉しかったな、食堂車も楽しみだったし夢心地だったw。 「あさかぜ」は福岡市民の自分には有り難かった、博多終点だから降り損ねが無いw 博多始発だから好きなポジションを取れる。 >>309 二階の客に先に一階の窓際取られてたら癪だからよ。 >>257 14系のあさかぜは臨時化何回も使われたはず 寝台車で熟睡できた経験ありますか? おれはダメだった、一度もまともに眠れたことがない >>307-308 しかしそのせいで、東京〜九州ブルトレでは「みずほ」と一緒に一番早い廃止憂き目になった。 廃止理由は九州内ガラガラで、JR九州の実入りが少ない。分割民営化の悲劇orz あさかぜ、中学高校の時は+(0゚・ω・) + wktk!!して 乗ってたけど大学生になってからはもう眠くて眠くて朝起きるのかったるくて今は品川、あと5分寝られるって一瞬寝て、とうとう東京駅に到着して品川客車区まで連れて行かれたら大変だと光の速さで着替えて下車した。 あさかぜ4号 博多から東京まで乗って 寝るのはSANYOのラジカセみたいな大きな建物がある所近辺 起きるのは食堂車営業時は熱海近辺 食堂車廃止後は横浜。 4号 B寝台ボックスの向かいの客が韓国人のお爺さんだった 片言の日本語で、山手線への乗り継ぎを尋ねてきた 緑色もグリーンも通じない、途方に暮れたが 最終的には山手線のホームまで連れて行ってあげた ありがとう、ありがとうと何回も言われて照れくさかったw ”さちかぜ” B寝台は10系 A寝台は旧客みたいですね、 A寝台に乗ってみたかった、でも生まれて無い。 鉄道映画 20系特急あさかぜ 日立製作所 昭和33年に登場した固定編成客車20系。ナロネ20、ナロ20、ナシ20の車内風景。 1958年当時、「陸上を移動する交通手段に冷房装置をつける」は非常に大きな壁だった。 日本で最初に冷房を装備した列車は、南海鉄道(現南海電鉄)が、南海本線の特急車2001型が最初です。 大阪金属工業(現ダイキン)製の集中型空調機を搭載していましたが、冷媒や電源の問題で永くはなかったようです ちなみに当時、冷房車に乗客が集中してしまい、逆に非冷房車より暑かったという話もあるそうです。 ・・・電源車のナンバーがスニ20−51となっていました。 当初は全長19 m・荷物室荷重4 tのスニ20として設計されたが、製造途中で騒音対策強化を行った関係で重量が増加し、 列車重量が400 tに収まらなくなったため全長を縮小して、マニ20として落成した 編成表などの資料を見る限りスニ20という形式は存在しないことから、 落成した段階でマニにランクアップしてしまったのでしょう。 映像としてそういう場面が残っているというのがすばらしいです。 https://www.youtube.com/watch?v=PFVuqB3u_KY …………………… 上野東京ライン常磐線E531系が田町電車区を抜け出て東海道線へ合流 https://www.youtube.com/watch?v=trn3mxwB-jU …………………… やっぱり博多人としてはブルートレインと言えば”あさかぜ”だなあ。 子供の頃は夕方の博多駅4番ホームは憧れのホームだったな。 博多駅4番ホームには東筑軒?のうどん屋もあったし(かしわうどん美味かったなあ)。 でも、JR直営になってセコくなったな 普通に”うどんください”って頼んだらかしわが入って無いし 全体的に値段も上がった気がするし、味もちょっと落ちた・・・・・・かな? 寿軒じゃ博多駅ですら採算取れんの?寿軒が良かったなのにな〜 あ、分かった!駅ビル建て替えの時に寿軒をJRが追い出したんやろ! いい商売だから自前でと思って!けしくりからりん! >>337 全国的にそう。 こないだも天王寺駅で在来業者が追い出されたよ。 今頃B寝台で仲良くなった出張の連中と 周りに迷惑を掛けない様に静かに飲んでる時間帯だな 尾道に糸崎…、地味な停車駅で乗降するワビ、サビになぜか酔いしれた。 名門ブルトレだからこそ味わえるワビ、サビなんだろうな。 塗装がめくれあがりサビが浮き出てワビしかったな 末期は老朽化と手入れが手抜きでボロボロだった それ言うなら「往年に栄華を極めた街&機関区」だな。 少なくとも「地味」ではない 後者は機関区、前者は旧住友銀行の経緯からもわかる。 Q:20系寝台特急「あさかぜ」がなぜ走るホテルなんですか? 相当にベッドは狭そうでそれも三段です。特に一番上は這って入るのがやっとのように見えますけど。 A:1958年当時、20系が当時の生活水準を遥かに上回る豪華設備だったからです。 この20系と、こだま型電車や近鉄ビスタカーが日本の鉄道業界で最初に冷房化された列車ですが 昭和30年代当時、家庭用エアコンは ほとんど普及していません。 職場にもクーラーが存在しないのが当たり前です。企業でもエアコンを設置してるところは極めて珍しく、 ホテルや旅館でも最高級ホテルや最高級旅館にしか存在しない設備でした。 当時は冷暖房が付いてるだけで高級ホテル・高級旅館と名乗れたため、 そこら辺のサービスが『当時』では【ホテル】並のグレードだったんです 鉄道車両に搭載するにはいくつかの壁がありました。まず1つ目の壁は「動力源」だった。 国鉄の「燕」で、冷房は食堂車と1等車に限られていたのは電源装置が原因である。 当時の南海電鉄は現在の鉄道車両と同じシステムだったがこれは、架線から動力源の電気が供給可能だったからである。 電化・非電化区間も両方可能な使用になるには、電源車があることが前提である20系客車を待たなければいけなかった。 ・・・だが最大の壁は「冷媒」だった。 戦前に登場した冷房車ではアンモニア、クロロメタン、メチルクロライド、プロパンといった有毒・可燃性のガスを使用していた。 だがしかし、漏れ出すと死亡事故に繋がる危険性があった。南満州鉄道の「あじあ号」みたく蒸気を使うという方法があったが、 当時の技術力の限界で日本の高温多湿の環境では使い物にならない可能性が高かった。 冷房車がまともに使えるようになったのは、安全性が高く、マトモな性能がある冷媒である ジクロロジフルオロメタン(通称フロンガス)が登場・普及してからの話。 >>343 ワロタ このネタ会社で何かの時つかわせてもらうわw 普通、同じ路線に長距離特急と短距離特急とあると、 長距離特急のほうが「格上」とされたが、 博多行「あさかぜ」だけは違ったな。 「さくら」「はやぶさ」「みずほ」より格上。 ところでこの「あさかぜ」は1975年3月改正までは グリーン車座席が1両連結していたのだが、これには ちょっとした秘話がある。 夜行特急なのになぜ熱海に停車するか? 熱海は元々温泉街で、そこから寝台特急に乗って九州方面にいく需要はあまりないわけで、 実はこれは話は逆で、下りの熱海停車は実は下車需要を見込んでのことだった。 つまり、新幹線で堂々と(?)は行きづらいような需要を見込んでということ。 その受け皿が最後まで1両連結していたグリーン車というわけだ。 日豊線など鹿児島線や長崎線はおろか、山陰線や宇野線より格下 あさかぜはブルトレのパイオニアやからな。 北斗星信者に比べれば全然キモく無いぞ >>348 そもそも20系「あさかぜ」に座席車が存在するのが凄いが、1958年当時なら冷房装置をつけただけでも堂々と特急列車と名乗ることが可能だった。 なにしろ、特急「つばめ」には冷房は1等車と食堂車にしかついていなかったからな。 座席車があれば東京=熱海、広島=博多間でも使用可能。 つまりデビュー当時の「あさかぜ」は昼行特急としても機能していたわけだ。 >>343 下関の24系は末期までそこそこ綺麗だった 冷房は当時最強の12,800kcalを2基すべての乗客が乗る車両に搭載 車体には冷房の効きをマシにするため二重ガラス窓を埋め込み そいつをまだ耐久性や信頼性では未知の領域だったディーゼル発電機2機で24時間駆動 それは・・ 夢と希望と狂気が作りあげたマシーン 何のデータもなく 冷房の普及率は信じられないほど低く しかもディーゼルエンジンの耐久性や信頼性もまた いつブローしてもおかしくないくらい低く 現行型のエアコンを制御するマイクロプロセッサーや 半導体型温度センサーにヒートポンプは影も形もなく 誰も開発や設計のノウハウなどしらない あまりにも現実離れした途方もないその数字 1958年10月1日─── 本気でその領域へ・・ 夜行列車全編成冷暖房化 1000キロオーバー運行 あの男たちは本気でそれを手にしようとした https://www.youtube.com/watch?v=PFVuqB3u_KY 特急あさかぜ 日立製作所で完成した"あさかぜ"は8車種13輛からなる固定編成列車で,国鉄の代表列車として 初めてのデラックス列車である。この列車には多くの新しい日立製品を使用し,日立の総合技術を遺憾 なく発揮した。ここにこの列車の概要と各種試験について述べる。 昭和33年10月1日の国鉄の時刻改正を機会に,デビューしたあさかぜ号は, 日本の動脈,東京と博多を結ぶ新形の固定編成客車で,1編成とその予備車5輌は日立 製作所の総合技術によって完成された。 今までの国鉄の車輌と違っている点は,基本寸法や台車などを除く部分の設計が 大幅に製作会社にまかされたことである。 製作にあたっては特に乗心地をよくすることを主眼に,電化による冷暖房, 振動や動揺の防止,および防音に留意し,あらゆる近代設備を採り入れで快適な旅行が できるよう考慮されている。室内設備のデザインは,新しい時代の列車にふさわしく, 三等を含めた全体をレべルアップするという考え方で,特に二等寝台車(Aロネ,Bロネ), および食堂車は国鉄の代表列車として,外国の国際列車級に近いだいたんなデザインを採り入れ, また室内の配色は夜間走る特急列車という点からも,けばけばしい派手さをやめ, "明るくて,モダンで,落ち付いたもの"を選び,そのやわらかな,疲れない色調は車内設備によくマッチしている。 詳細・続きは↓ http://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1958/12/1958_12_10.pdf 今から39年前の今日1月31日、20系最後のあさかぜ1号が東京駅を後にする。 >>363 そうだったな。翌日から「富士」「はやぶさ」と同一編成の、平凡なブルートレインに。 しかし20系末期は、食堂車の朝食は既に防府あたりでクローズ。ある意味場末状態だった。 国鉄末期〜JR初期の頃が、かつての輝きを取り戻した感じだった。 >>361 広島駅っぽいかんじがするが。 背景の建物が広島ステーションビルのような気がする。 寝台特急あさかぜ号は「東洋一の動くホテル」とも呼ばれていて、 これに乗って移動するのは国内旅行の超一級のステータスだった この理由は、1958年の時代背景にある。 寝台特急あさかぜ号がデビューしたのは1958年11月。だが、当時は家庭用エアコンなんて影も形も無かった。 職場にも冷房が存在しないのが当たり前です。企業でも冷房を設置してるところは極めて珍しく、 この頃冷暖房が入っているのは大都市の映画館、銀行、デパートくらいなものでした。 ホテルや旅館でも最高級ホテルや最高級旅館にしか存在しない設備でした。 20系客車が登場した、昭和33年当時は路線バスでも冷房がついていないのが普通。 自家用車でも冷房付きなんて輸入したアメリカ車だけ、しかも1ドル=360年の時代に 40%という強烈に高額な関税が設定されていた時代だったのです。 当時の洗面台は「お湯」が出て、「電気シェーバー用のコンセント」「冷水器」があったが、 今でこそ当たり前だが、1958年当時は当たり前の装備ではなかった。 さらに20系には電気レンジのほかに業務用電気冷蔵庫のある食堂車「ナシ20」があったが、 1958年当時の家庭用冷蔵庫の普及率は、3%だった。 大抵の一般庶民は冷房が無い旧型客車で長距離移動が当たり前だったのである。 男女別トイレ、コンセント、ちょっとしたフリースペース、アメニティや飲食物の自動販売機 最低限これくらいはないとな 銀帯と違ってゴールドラインは風格あった。でも中身は銀帯と同じでショボかったよな。食堂車もしかり。 シングル、デュエット(シャワー室とミニロビー)、カルテットの個室車、オリエント風・星空風の食堂車を連結 開放式B寝台も暖色系のモケットに張り替えられてカーペット敷きでスリッパのペタペタ音がしない 他のブルートレインとの比較なら格段に良かったと思うよ、ブルートレイン同士での比較なら・・・ ただ、北斗星やトワイライトのように乗ることが目的の列車にはなりようもなかっただけで 朝になったら通路の灰皿溢れかえって仕方ないから床でもみ消してたな やっぱり寝台列車は野暮ったいよ >>371 国鉄末期だったのと、元々はビジネスユースに多く利用されたので、当時として精一杯の改造だろう。 北斗星・トワイライトは、既にビジネス需要は飛行機が主体だったのと、JR移行済だったので、 遊び心のある柔軟な発想にできたのがある。 運行開始当初の北斗星も個室化率は大したことなかったし 変わったことと言えばロイヤルがついたりしたていどで あとはグレードアップあさかぜと大して変わらんかったろ 尤もシングル鉄ヲタにはソロの存在が何よりも大きかったのだろうな いやグランシャリオはあさかぜの食堂車よりはるかに雰囲気はあった 料理はなかなか来なかったが あさかぜオリエント>スシ24508>508以外の北海道もちグランシャリオ>東日本もちグランシャリオ中期+スシ24507登場時>東日本もちグランシャリオ末期>あさかぜ出雲星空バー>東日本もちグランシャリオ登場時 個人的にはこうかな >>375 グランシャリオはクルー少なすぎて寂しい印象だった、料理も… ダイナープレヤデス堪能あとだと厳しいか 北斗星の食堂車の人数は少しずつ減らされていったとか何とか >>369 そりゃ、出現当時、中国、韓国など東アジアで20系レベルの寝台客車なんて、走ってなかったはずだよ。 中国東北部に満鉄のお古が走ってただろうけど。 >>374 そのロイヤルが凄かったわけよ! それまでの日本最高級寝台が、博多あさかぜをも連結されていたオロネ25型・シングルデラックス だったが、寝台の造りや居住性では登場当初から酷評されていた。 ロイヤルは部屋の広さや居住性、ウエルカムドリンクなど、付加価値はオロネ25型・シングルデラックス とは雲泥の差。そのためそれまで東京発着ブルートレインが国鉄〜JRの看板列車だったのが、 看板列車は北斗星に変わっていき、九州ブルトレは注目されなくなっていった。 それが93年の食堂車全廃、その後の廃止につながっていった。 >>381 あと地味に1人用個室のソロが連結されたのも大きかった気がする 博多あさかぜも>>371 が言っているように結構豪華だったけど 少人数で使用できる個室が半車分のデュエットと リニューアルはしたものの国鉄時代からのシングルDXぐらいのままだったのも影響しているかも >>380 ハンコクが好きなら阪神国道線の専用スレがあるよ >>381-382 ちょっとでいいのでカルテットも気にしてやってください 4人向かい合わせでB寝台と変わらないと思われがちだが ソファー転換機構のベッドの構造はツインDXとほぼ同じだった >>384 カルテットは4人用だから>>382 からはあえて外したけど 構造は結構良かったんだよな あと余談だけどあさかぜのカルテットとデュエットが 一時期臨時北斗星に連結されていたこともあった >>384-385 カルテットは「さくら」「みずほ」で始まったが、4人分の料金が必要だったからな。 人数が集まらないと敬遠されてしまう。 欧風・お座敷客車へ改造が流行った、国鉄末期はグループ・団体向けの車両が多かったからか?! 中国の軟臥車がカルテットとほぼ同じ設備だが、あれは個人毎に売ってる。 カルテットも部屋単位売りでなければどうだったか?と思う。 鉄オタと女子大生が一緒になったら大変だぞ 訳わからん話延々と聞かされるて気い狂いそうになる まったくだ ファッションとかカフェとかこちらの知らないてめーらの身内の話とか どうでもいい話を延々聞かされるからな 下関あさかぜと瀬戸のパンタ付きラウンジカーと荷物室付きオハネフは トワイライトに間接的に関係しているんだよな >>389 トワイライトができて電源車がそっちに回った分の穴埋めで下関あさかぜと瀬戸に使用していた 電源車が宮原に行ってその分の電源車確保もかねてパンタ付きのラウンジカーができた あとオハネフの荷物室付きはカニの荷物室分の役割を持っていた >>390 下関あさかぜ・瀬戸の電源車は100番台で、トワイライトの電源車に100番台はなかったが、 日本海・銀河に100番台が充当され、そこからシフトした電源車をトワイライトにだったか? >>382 ソロは北斗星登場1年後の「はやぶさ」「富士」に連結されたが、それで九州ブルトレの復権まで いかなかったなorz 食堂車・ロビーカー・A個と同じく付属編成だったのもあり、終始割引きっぷで利用不可だったのもある。 それとソロ連結に伴い、設備・料金差でA個の存在価値に疑問が生じた。 列車としてはソロは満室で、A個・開放Bがガラガラだった現象は、廃止まで続いたけど。 あさかぜに初めて乗ったのは1971年4月だと思うが 当時博多までの二往復と下関までの一往復の計三往復 運行されており広島から東京までの乗車だったが どの列車かは覚えていない。 恐らく広島で増結する1号(当時は上り列車でも 奇数番号を付けていた)ではないかと推測する この時以降何度もあさかぜに乗ったが全てB寝台だった もちろん最初のころは20系三段寝台で当時はそれが 当たり前だと思っていた 1970年代半ば以降になり二段寝台に改善され、寝台の幅が 10センチ以上広くなり、すこぶる快適に感じたものだ その後30年余りの間、富士やはやぶさでは何回か 利用したがあさかぜでは一度も食堂車を利用する 機会がなかったのは心残りである >>391 トワイライトに0番台のカニを回したから 足りなくなってその分の新製時から下関所属の100番台のカニと トワイライトの種車分の穴埋めで 広島と下関のオハネフの100番台が宮原に転属することになって そのあと瀬戸のサンライズ化で下関のカニとオハネとオハネフとオロネが宮原に一部転属してきた 臨時あさかぜは20系使用便が有名だけど 14系使用便と24系使用便も実はさまざまな配置区にある客車を使用していたんだな 20系の中段て収納するとき手で押し上げてたらしいな 明日であさかぜ&さくら廃止何年だ? って調べたら2005年… もう12年か、はやいなぁ >>393 登場の順番が逆だった まずあさかぜの1往復に寝台幅70センチの 14系が使用されその後最初に24系が臨時の あさかぜに試験使用され、この時から2段 寝台が始まったように思う 記憶違いでなければこの試験使用は1974年 ではなかろうか 1974の2段ハネってあかつきと彗星だけじゃなかったっけ? >>402 その辺はうろ覚えなのだがあくまで臨時の あさかぜなので悪しからず それと14系の中段寝台は電動昇降が出来たが この操作の場面には恐らく一度しか立ち会っていない 登場後しばらくして二段に改造されたり、走行距離の短い 急行に使用されたこともあり、この設備が有効に機能しなかった ように思う 14系以前の寝台セットは確か二人一組で適当な時間帯に 乗り込んで来て作業していた この間、乗客は狭い通路に押しやられ、立ってこの作業を 見守っていた それから残念ながら解体作業には立ち会った経験はない >>399 12年前の今頃は東京と下関それぞれの終着駅に向かって走ってたんだよね。 自分は東京行きの最終を下関駅、新下関駅、小郡駅で見送り、 翌朝、立席特急券で岩国→光まで乗車。 運良く機関車次位のオハネフ25−300の車端部が空席(調整席?)だったので着席することができた。 光駅で下車して見送ったけど、席が確保できたんだから下関駅まで乗車しておけばよかったと後から後悔したな。 >>400 >>403 臨時あさかぜが二段式B寝台で運用されたのは、1976年夏。 その年10月改正から、富士・はやぶさ・出雲のB寝台が二段化された。 14系あさかぜは1972年からで、1975年3月改正で廃止された1往復。 その14系寝台は、いなば・紀伊に転用。なので時系列が違う。 あさかぜ1往復の14系化と同時に、さくら・みずほも14系化。 これら3列車は走行距離が長かったので、必ず寝台のセット・解体が行われていた。 >>406 臨時あさかぜって結局面白い事実があるんだよな さくらとはやぶさの併合によって2000年になっても臨時あさかぜが走っていた >>403 です 多少時期がずれていたが臨時で正しかったようだ 少々Wikipediaを参照させてもらっているが 後は実体験なもんで しかし詳しい人がいるもんだね それから最後に臨時あさかぜに乗った時は 80年代中頃と記憶しているが20系を使っていた この時三段寝台がほぼ埋っていたから お盆が終わった上りの様子だが、 まだまだ需要はあったようだ それと>>406 さんによるとあさかぜでも 解体作業が行われたとあるが この頃は広島〜東京若しくは広島〜横浜の 区間しか利用していないのと広島増結・ 切り離しのあさかぜを主に使っていた こともあって立ち会えなかったのだと思う もう一つあさかぜの思い出をあげると 70年代は“DISCOVER JAPAN”と銘打って 国鉄がキャンペーン中で、この一貫として あさかぜの下りの場合でいえば 最後尾の車両に記念スタンプが置かれた 時期があり、“あさかぜ1号”と押印した紙を 今も保存している 東京タワーと鳥居ともみじをあしらっていて 鳥居からEF65 500番代と思われる機関車に牽引される あさかぜが通り抜ける様子が描かれている >>410 DISCOVER JAPAN時代当時、時刻表のスタンプ設置駅と列車の一覧では「あさかぜ1・2号」と「さくら」の 設置が記載されていた。 確か食堂車喫煙室に設置と記載があったが、最後尾とはナハネフ22?もしそうなら意外な話。 スタンプ廃止は「1枚のきっぷから」スタンプ切替えの1977年あたりからかな? 確か77年や78年1月にスタンプは既に無かった。 >>408 臨時あさかぜは、皮肉にも殿様あさかぜ25型置換え後、20系にグレードダウンした。 丁度ブルートレインブームもあって、20系あさかぜ復活と喜んだ連中もいたけど、 オール三段B寝台で、寝台の解体や食堂車はなし。機関車のHMもなしでは利用者としては 大外れだっただろう。 臨時あさかぜの20系はJR化後も続き、90年代に入って臨時寝台急行「玄海」に改称された。 >>412 設備の関係で急行玄海になった臨時あさかぜであるが 今度はあさかぜ1.4号とみずほの臨時格下げによって 14系や24系を使用したあさかぜ81.82号として再び登場することになった その臨時あさかぜも一度は運行をしなくなるが今度ははやぶさとさくらの併合運転開始により 旧はやぶさのダイヤを使用して再び走ることになった >>411 同乗者若しくは車掌に聞いて知ったか どういう経緯でそこにあることが判ったか 今となっては判然としないが 確か非貫通車両(ナハネフ22?)の先端の 大きな2枚窓ガラスの内側すぐ下に棚があり その上にスタンプが置かれていたと記憶 当時は未成年でタバコを吸わなかったし 食堂車も>>393 で書いたようにあさかぜの 食堂車には一度も行った記憶がないことから 間違いないと思う この頃はあさかぜには乗ることが目的ではなく 乗ったあとに何らかの目的を持って乗車して いたが今思えばもう写真を撮るとか少し細かく 記録しておけばよかった その後ブルトレ寝台に乗る目的で乗ったのは なはのソロ、北斗星のロイヤルとカシオペアぐらい 「みずほ」のビュッフェて何だ、急行電車の奴か?半車ではなさそうだし 臨時繋がりで追記するが しおじの臨時列車にも乗ったことがある 1973年か1974年のどちらかの夏で、 51号か52号か忘れた レギュラ―のしおじは電車特急だが この臨時は14系客車だった 座席は簡易式リクライニングで車内は 空席だらけのガラガラの状態だった >>418 車両は「さくら」と共通運用のオシ14だったが、 メニューが簡素で、食器もコンビニのおでん容器の ような使い捨ての紙皿・紙コップ物だった。 一度利用したことがあるが、雰囲気もいまいちで、 もっと言うと、「みずほ」は列車全体の雰囲気も 他の九州特急より落ちる感じで、「さくら」や 「はやぶさ」が満席でも「みずほ」には空きがある ことが多かった。 「みずほ」の簡易営業はググればたくさん出てくるよ。 例えば。Wikiの「はやぶさ」の候にも記述されている。 スレチになるが、食堂車廃止直前の「雷鳥」のサシ481も 一部の列車が簡易営業になっていた。 >>419 >>421 その当時の臨時特急は、概してガラガラだった。 臨時はノロい、食堂車・グリーン車がないのが相場だったのがある。 一番大きいのは当時のマルスが、定期列車満席の場合に臨時列車代替検索ができなかった。 今のマルスシステムなら、希望列車が満席でも臨時列車の空きが分かるようになっている。 もっとも今の在来線の臨時列車は、往年を偲ぶ本数はないがorz >>423 >>419 です 申し訳ないがエルムにも乗車したことがある B寝台だけのモノクラス編成で一応HMは 付けていた 函館本線の海岸支線に乗るため 上野から森まで乗車 乗り換えまで時間があるので駅を降り イカメシを買った 確か300円だった 本題とは横に滑ってすまんが ここにはかなりのマニアか専門家のような方が 登場されるので判れば教えて頂きたい 寝台列車に何度か利用された人で鉄道好きであれば お気付きかと思うが 通路が真ん中のプルマン式A寝台や583系等の寝台車は 別にして、通路が左右どちらかに分かれる。 同じ一列車で車両ごとバラバラは有り得ないと思うが この向きに何か決まりでもあったのだろうか? 自分の経験でいうと 海側が通路で山側が寝台というパターンが 一般的のような気がする これは東海道山陽及び東北共通かもしれない 日本海側の寝台列車には電車急行きたぐにしか 乗ったことしかないのでどのような傾向か不明 >>426 全部書き込む前にレスが来たが やはり規則はないのか はやぶさのA個室に乗ったときは 山側が通路だったのでどうなのかと思った 24系24形の初期のころの編成や14系は一端の緩急車の向き変えて連結してたしな >>429 ? 緩急車の向きとブレーキ制御と何か関係するの? >>429 24系25型当初の、食堂車基本編成運用時の「富士」「はやぶさ」「出雲」は緩急車が 全部東京寄りの向きだった。そのため切り離した際の付属編成は、間抜け面だったw 博多「あさかぜ」25型化に伴い、食堂車を付属編成に移した際にオハネフ25・200番台が 連結されて、間抜け面はなくなった。 >>430 ブレーキは関係ないよ 単に折妻端を編成の端に持って来たかったんじゃね? そうすると14系の場合確実に編成の両端で寝台の位置変わるわな >>431 ,>>432 レスサンクス、了解です 東京始発の九州山陽ブルトレはみずほ以外は 乗車したが14系は殆ど乗らなかったので (上りのさくらに広島から一度だけ乗車、晩年の はやぶさ・富士併結列車も乗車機会なし) 通路の位置がバラバラになる場合がある という認識が足らなかったようだ 200番台は分割併合の時、現場ではやりやすかったのかな?模型で見るとかなり微々たる差だね。 この話題あながちスレチでもなく、下関あさかぜの逆向きは300だけじゃなく、100番台も可能に改造したヤツもあった。131とかだっけ? >>434 >分割併合の時、現場ではやりやすかったのかな? やりやすかったのかもしれないけど 20系では問題にならなかったんでしょ? だったら変な話だよね >>435 問題にならなかったらスハネフ14もオハネフ24も後退角のない切妻だったろ 二等座席車乗ったなナハ20だかナハフ20 売店が付いてた記憶がある >>424 エルムなんてそれこそ臨時あさかぜか、関西〜九州ブルトレの格で、食堂車もないモノクラスで 面白味なかったように思える。 機関車交換と方向転換で青森・函館に長時間停車したから、食料調達に困らなかったかもしれないけど。 おれは今、昭和30年代にタイムトラベルして西鉄ライオンズの選手と行く 20系「あさかぜ」の旅をほんのちょっぴりだが体験した!! い…いや…体験したというよりはまったく理解を超えていたのだが…… ,. -‐'''''""¨¨¨ヽ (.___,,,... -ァァフ| あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ! |i i| }! }} //| |l、{ j} /,,ィ//| 『おれは飯を食おうと思って食堂車に行ったら、 i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ 西鉄ライオンズの選手たちが食堂車にあるメニューを片っ端から頼みまくっていて |リ u' } ,ノ _,!V,ハ | アッという間にビール、ウイスキー、日本酒も食料も全部消えた』 /´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人 /' ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ な… 何を言っているのか わからねーと思うが ,゙ / )ヽ iLレ u' | | ヾlトハ〉 おれも何をされたのかわからなかった… |/_/ ハ !ニ⊇ '/:} V:::::ヽ // 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ 頭がどうにかなりそうだった… /'´r ー---ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐ \ / // 广¨´ /' /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ 飯が激マズだとか、相席した選手が酷いとか ノ ' / ノ:::::`ー-、___/:::::// ヽ } そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ _/`丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::... イ もっと恐ろしいプロスポーツ選手の暴飲暴食の片鱗を味わったぜ… http://dk4130523.hatenablog.com/entry/2014/10/29/011701 >>356 あと昔の映画を見てると代議士役の人が個室で寝て昼は座席車だった 急ぎの用で飛び乗った人も座席車だったり 20系時代の「あさかぜ」は「動く最高級ホテル」といっても大げさではなかった なにしろ2等寝台の利用者は政財界の大物や有名芸能人・プロスポーツ選手のどれかだったんだから客層が違う 24系以降のあさかぜの編成としての全盛期は 下関あさかぜのラウンジカー&A寝台個室連結後だろうな >>443 その頃時代はもっと進んでいたから、相対的には見劣りしていた >>444 ただその頃は先にグレードアップされていた 博多あさかぜでまだ食堂車が営業していた時期だったから その後よりはまだよかった >>441 昭和30年代の「あさかぜ」は「動く最高級ホテル」といっても大げさではなかった 理由は新幹線がない・飛行機も未発達だけでなく、高速道路は日本にはまだ存在しない。 当時の道路事情は今のベトナムと大差ない道路で、主要国道でさえ、舗装されている区間は少なかった 舗装区間が劇的に増加するのは昭和40年以降の話 http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/image/hpaa196201/fb4.17.9.gif >>442 >>446 昭和30年代のあさかぜのナロネ20なんかは本当に選ばれた階層しか利用できなかったからな。 今のななつ星・四季島・瑞風みたいにお金さえ持ってたら平民でも乗れるという訳ではなかった。 まだ戦前の身分制度が残ってた時代だったしな。 >>448 の訂正・補足 × 戦前の身分制度が残ってた時代 ◎ 戦前の身分制度はなくなったけど、人々の意識の上ではまだ残ってた時代 >>446 それ以上に動くホテルを支えていたのは多くの人手が掛けられていたことだ。1車1名の乗務員、10数名に上る食堂車クルーによるかいがいしい人によるサービスで動くホテルが成り立っていたのだ。 昭和30年代には鉄道以外ににまともな交通手段がなかったという事情もある 航空機は安全性が低く1年に1〜3回深刻な事故をおこしていた 道路は高速道路なんてなかったんだし未舗装も珍しくなかった >>450 機関車の運転関係要員も含めれば、戦前の超特急燕の方が人手かかってるだろ 御殿場線経由だった頃は、SL補機の要員も必要だったし >>450 ナロネ20、ナロネ21にはセントレジスのバトラーサービスみたいなのがあったからな 「走るホテル」というが、昭和30年代から40年代前半で二段ベッドでトイレ共用、風呂無しだったら市中の安ホテルの部類だろ。 三段ベッドなんてユースホステルにも無かった。部屋に詰め込んで冷房なしで特急料金に二等寝台料金取ったら、当時でもぼったくりと言われただろうな。 当時は移動手段が在来線しかなかった 新幹線がなかったから、在来線という概念も無いが… 必然的に、長距離移動ではどこかで夜をまたいだ 寝台車も贅沢品、帰省時など大衆は夜行急行の座席に殺到 飛行機は限られた高級旅客だけ、一般人には雲の上の存在 社会情勢が、今と全く違うわな >>454 時代背景を理解してないヤロジタの類い。 >>454 飛行機国際線のビジネスクラスと似たようなもんだよ 限られた空間でパーソナルスペースを提供するのはそれなりの料金を取らにゃ ヨーロッパなら簡易寝台車レベルのナハネで「走るホテル」と言われてもなあ・・ >>454 Q:20系寝台特急「あさかぜ」がなぜ「動くホテル」なんですか? 実車を大宮の鉄道博物館で見たんですが、相当にベッドは狭そうでそれも三段です。 特に一番上は這って入るのがやっとのように見えますけど・・・・・。 A:1958年11月当時、20系客車が当時の日本の庶民の生活水準を遥かに上回る これこそ当時の最高級ホテルに近い設備だったからです。 1958年11月当時、冷暖房があるホテルや旅館はあったことはあったんですが 「帝国ホテル」レベルの 最高級グレードのホテルや最高級旅館のみに限定されていました。 当時、家庭用エアコンなんて影も形も無かった。職場にも冷房が存在しないのが当たり前です。 企業でも冷房を設置してるところは極めて珍しく、 この頃冷暖房が入っているのは 大都市の映画館、銀行、デパートくらいなものでした。 一般家庭では扇風機があれば良い方であった 大抵の一般庶民は、冷房が無い旧型客車で長距離を移動するのが当たり前だったのである。 なお、ホテル業界で日本初の全室冷暖房完備のホテルは1938年に開業した新橋の第一ホテルで 夏になったら避暑地代わりに使用する金持ちが多かったそうです。 http://www.hankyu-hotel.com/hotel/dhtokyo/other/rekisi/special.html http://zexy.net/wedding/c_7770001895/blog/article/807568.html >>459 だから、ヨーロッパでいう簡易寝台車に冷房取り付けたら、最高級ホテル並みの料金ぼったくることができたってわけね。 >>454 あさかぜ20系化される前は2等C寝台繋いでただろ? >>460 当時としてはぼったくりじゃないのさ 最高級ホテル並みの料金じゃないし 1966年当時、軽井沢万平ホテル、3食付きで2700円。 同年、東京・博多間、二等寝台下段利用で二等特急料金1000円+寝台料金1000円=2000円。 運賃は除外。 万平ホテルの食事なし、素泊の宿泊料よりも、ナハネの下段料金(運賃除外)の方が高そうだ。 このホテル、今では3食付きで2万円以上する高級ホテルだよ。 そんだけ取っても儲けにならなかったから消えただけのことなのに それをお前が払えなかったからといってぼったくりとか言われてもなあ あんたが高いと感じている料金も必要な対価だったんですよ それでも足りなかったから続けることが出来なくなった むしろ安売りしすぎたくらいだった だから今は適正価格のクルーズをどこの会社もやってる >>464 特急料金は含まれないよ(寝台のみ) 家にナロネ20デビュー 1958-10時刻表があった! 新橋第一ホテル(現在、第一ホテル東京) 広告と比較して判断願います。 http://i.imgur.com/DgSfdJr.jpg http://i.imgur.com/smFkI5a.jpg 寝台車のほうが先に売り切れていた気がするが 寝台特急がとれなくて夜行座席急行で行ったとかよくある話 座席と寝台で、定員が全く違うな 14系以降の3段が48、2段が34 20系はどうだったっけ? 座席車は特急型が68〜72、急行だと84〜88ぐらいか 新幹線博多開業辺りまでは寝台の供給数が足りなかった、そりゃあ寝台券が取れんわな >>468 経験から言うと昭和47年3月の新幹線岡山開業の頃から比較的東京〜九州直通の寝台券の入手がしやすくなってきた。関西発の寝台特急の増発もあるが電車寝台〜岡山乗り継ぎ新幹線で博多〜東京の到達時間が12時間を切ったのが意外に大きい。 第一希望が寝台特急で座席急行は第5希望くらい 均一周遊券利用者は別として昭和30年代からすでに特急志向なんだよな 急行利用が一般的で特急が特別な列車で高嶺の花というのは切符がとりにくかっただけの話みたい >>470 さらも1972年頃には東京−九州のA寝台客なんかは飛行機転移が結構進んでた。 ナロネ20の凋落が始まったのもその頃からで、3年後の博多開業と同時に廃止。 >>472 とはいえその当時は開放A寝台料金でも4000円以下で、76年大幅値上げ後のB寝台料金と同程度だから、 客離れまではなかっただろう。 ただ同時期に登場した14系は、付属編成にA寝台が無かったのは、それなりの減少があったかもしれない。 >>472 ナロネ20の凋落?観念的に語るなよ。資料 コピペで語っているのがバレバレ。 どこかで書かれてたけど同じ(3等級時代の)1等の末裔であるナロネ20と151系のパーラーカーであるクロ151と比べたら前者のほうが幸せな生涯だったと思う。 でも格的にはナロネ20とクロ151とではどっちが上なんだろ? >>476 クロ151の区分室は、ナロネ20の二人用個室と通じそう。 ただ昼行運用と、夜行寝台で前提条件が違うと、どちらが格上かを比べるのは無理があるのでは? >>455 そもそも50〜60年代の飛行機はまだ未熟だった時代で1〜2年に1回デカい事故をやらかしていた 例えカネがあっても、速くても「空飛ぶロシアンルーレット」そのものだったからとてもとても一般的じゃない 20系「あさかぜ」は昭和30年代が黄金時代だったが・・・。1958年11月当時、高速道路は日本には存在しない。これは大きい。 日本の道路はかなり遅れていた。なにしろ当時の日本は貧乏国だったのと、日本の道路は欧米先進国と異なり、馬車交通等を経なかったため、強烈に遅れていた。 そのため当時の道路事情は主要国道でさえ、舗装されている区間は非常に少なかった。昭和33年の舗装率は国道27.3%、都道府県道4.3%、市町村道0.6%、全体で1.7%。あとはすべて未舗装だった。 日本初の本格的な都市間高速道路である「名神高速道路」栗東IC - 尼崎IC間の開業は1963年7月16日、舗装区間が劇的に増加するのは昭和40年以降の話 http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/image/hpaa196201/fb4.17.9.gif http://www.npa.go.jp/hakusyo/s48/s480600.html http://www.taikasha.com/doko/chapt33.htm そんなわけで20系「あさかぜ」は平行する幹線道路がダートなんてのもザラだからそりゃみんな鉄道使うよ >>476 >>477 格付けはともかくとして実際に利用されていた点では文句なしにナロネ20。何年か前の鉄ピク誌に東海道当時のパーラーカー区分室の年間乗車率3.6%と言う驚愕の数字が発表されていたがナロネ20ではさすがにそんなことは無かった。 >>479 ブルトレで殿様商売できた時代だな。 他の優等列車も同様だが >>482 修正、並行私鉄がない場合は優等列車で殿様商売だ。長距離は独占状態 まだ高速道路もなく飛行機も上流層限定の時代だったからな 14系時代と24系時代の臨時あさかぜはあまり話題になってない気がする >>487 やはり「あさかぜ」といえば、東京〜博多を走った元祖1・2号(78年10月から1・4号)だろうw >>486 1950〜1960年代の飛行機乗りたくないよな 安全性が確立してない時代だったから空飛ぶロシアンルーレットだもん >>489 乗りたくても乗れないだろ? その時代に行けるのか? 行けるならもっと他の事するw ___ _ ヽo,´-'─ 、 ♪ r, "~~~~"ヽ i. ,'ノレノレ!レ〉 ☆ 衆参の両院のそれぞれで、改憲議員が3分の2を超えております。☆ __ '!从.゚ ヮ゚ノル 総務省の、『憲法改正国民投票法』、でググって見てください。 ゝン〈(つY_i(つ いよいよ日本国憲法改正の、国民投票が実施されます。お願い致します。☆ `,.く,§_,_,ゝ, ~i_ンイノ >>306 『大いなる驀進』は今見たらすごい映画だな 本作は黄金時代の鉄道を記録した映像として価値が高い。 国鉄の全面協力は大きく、映ってる列車の車内は、セットではない。実物だ。 EF58特急色や山陽本線のC62、東海道本線の80系湘南電車などが ゾロゾロ登場するというのも要チェックです 鉄道がメインの交通手段だった時代の記録として本作は間違いなくトップクラスの作品だと思います。 http://shop.toei-video.co.jp/products/detail.php?product_id=16099& ;transactionid=5fd3b3fb057d43a3571bcb58e73083c08ce4fc97 ↓がワンカット。↓の画質の映像として残ってるだけで見る価値は高い https://pbs.twimg.com/media/CIMmI5BUEAAT8NQ.jpg https://pbs.twimg.com/media/CIMmI5HUsAA8z-Y.jpg >>463 >>466 昭和35年当時の公務員初任給は約13,000円、理髪160円、映画館入場券200円、米10Kgが870円という時代だぞ 1泊1000円以上は当時の物価水準だと最高級ホテルそのものになるぜ >>476-477 クロ151、儲かってなさそうで、実は真っ黒 グランクラスより儲かった国鉄の「特別座席」 1カ月ちょっとで元が取れた「パーラーカー」 http://toyokeizai.net/articles/-/167132 新幹線開業前の東海道本線なんて、超ドル箱路線で 高速道路がなくて飛行機がまだ安全性が怪しい時代だったから、 減価償却なんて簡単にできたんだろうな。 >>477 最初の16両には列車公衆電話の需要を見越した電話室も設置されていましたが、 使用実績もなくその後の計画もなかったことから車内販売準備室に変更されました。 これはある意味正解だった。 151系では、「列車電話」が開発されたんだけど・・・・。 東海道沿線14箇所に基地局を設置し、それを介して一般回線へ繋いだ。 電話機にはダイヤルはなく、口頭で交換手に電話番号を直接伝えた上で相手先に繋いでもらう方式 固定電話から交換手を通じて列車へ電話をかけることも可能だったけど・・・。 電話が使える区間は、沿線である東京圏・名古屋圏・大阪圏限定であった。 これを「あさかぜ」にあてはめたら 電話が使えるのは下りなら出発時の午後6時半から午前1時半まで、 上りなら午前2時半から終着の午前10時までと 強烈に使い勝手が悪い代物に化けていたからな・・・。 >>493 東海道以外では客乗ってなかったのか? 儲かるなら「とき」や「雷鳥」「はつかり」や「つばさ」にはパーラーカーが繋がれなかったのが不思議 >>495 山陽では全くのられなかったろ? 東海道でも満席までは行ってない >>480 当時のナロネ20、ナロネ21は岸首相など山陽線沿線に選挙区がある議員が地元と東京を往復するために乗っていた 誰が言ったか知らないが「動く執務室」なんてあだ名もあった 内田百閧ヘマイネ40に乗っても昼間は鬱陶しいのでロ座に 移動していた。 ナロネ20利用の客はナロ20や座席に直したナロネ21に移動 できたのかな? 20系銀河に乗れた時は最高 その後、20系あさかぜに乗れた時はショックで 食堂車で元に気分を落ち着かせ 24系あさかぜになったとき 悔しい思いをした。 初めて上りあさかぜ1号の20系ナロネに乗った時は天佑だった。 >>498 20系誕生当時、電化区間は東京=姫路・下関=門司間だけで、それ以外は非電化区間だったからな〜。 そして1958年当時非電化区間を牽引していた機関車はSLだった。だから、そんなに速くない。 だけど、昭和30年代当時の特別急行列車の機関士、機関助士、乗客専務車掌などの乗務員は、 今のように若くて経験も浅い職員が気安く乗務できる列車などではありませんでした。 もっとも、いくら優秀な乗務員が運転していて、石炭も良質なものを使用していたとはいえ、 今の基準からすれば快適さからは程遠いスパルタンな乗り心地だったことは想像に難くありません。 >>494 >電話が使える区間は、沿線である東京圏・名古屋圏・大阪圏限定であった。 これは圏内走行中にその圏内に電話をかける事しかできなかったの? 例えば東京〜横浜間を走行中に名古屋圏や大阪圏に電話するとかは出来なかったのかな。 各圏内間を相互にかける事ができないのならまったく意味がない気がするけど。 >>502 今と時代が違うからねえ 遠距離通話なんて、交換手に頼んで数時間回線空くまで待つような時代だから ・・・だがしかし、「動くモノに電話が付いている」というだけでも、圧倒的なステータスだった。 20系食堂車「ナシ20」の初期の16両には列車公衆電話の需要を見越して 準備工事を施工した電話室が設置されていたが、 昭和30年代当時は無線通信技術が発達しておらず、 交換手と基地局の拡充が避けられなかったため、断念した。 その後、ナシ20の増備車は車内販売準備室に設計変更されることになる。 ・・もし実現していたら、東京〜大阪間しか使えないという代物になっていたかもしれない。 自分はまったく知らない世代だけど かつては列車内から専務車掌等に依頼して電報取扱駅から電報打つことができるサービスがあったらしいけど 当然20系時代のあさかぜでもやってたはずだろうし、 むしろ当時の実情だと電話より実用的で利用する人も結構いたんじゃないのかな。 >>495 >>496 の述べるパーラーカー利用者が激減した山陽本線在来線特急でさえ、583系を除き グリーン車2両連結されていた。 まして在来線時代の東北特急は、基本グリーン車1両だったからな。 在来線特急でグリーン車2両だった「とき」「雷鳥」も温泉レジャー利用客も多かったので、 パーラーカー利用は見込めなかっただろう。 あと現在でも東海道新幹線がグリーン車3両繋げているのに、上越新幹線は基本1両なのも需要の違いが明白だろう。 >>506 で、あさかぜのナハ20の座席車で 九州へ帰ると… >>498 別にナロネ20の乗客じゃなくてもロネの乗客だったら食堂車で朝食を済ませた帰りにナロに座って一息いれる位のことは車掌さんから咎められるようなことはありませんでした グランクラスの客が車販を求めて車両を移動して 空いてるグリーン車で一服したら車掌に咎められそう。 >>513 はやぶさ・かがやきに自由席はない! やまびこ・はくたかの自由席は遠い! >>515 うん時代だね。ナロにも座らせて貰えたし乗務員氏の手が空けば電源車に案内してくれたしね。 旧客急行でネの客は寝るまでの時間 空いてる座席車自由席に移動して 飲んだり食ったりしたもんだ。 最後の経験は急行あおもりハネ利用の際 フリースペースの解放ロ座で過ごした。 ルーメットには給仕(今でいう、バトラー)を呼ぶためのベルボタンが付いていました。 このボタンを押すと給仕が来て食堂の予約を頼み、 食事中に寝台セットを完了して、就寝前に朝刊手配と靴磨を頼むことが可能でした。 ホテルと同じで特に給仕にお世話になるとチップも渡していたようです。 とにかく次元の違う存在が「あさかぜ」です。 >>518 とごのコピペだか? あさかぜが20系になった時代食堂車は予約制ではなかったし寝台設営時に食堂車に行くのは極々一般的なことでした。朝刊はルーメットじゃなくてもプルマンの乗客にも配られてましたよ。下り列車の場合、岡山発行の朝日新聞が通例でした。 >>518 あさかぜに限らない。呼出ベルは20系客車としての設備だし、ボーイも当時はまだまだふつうであさかぜに限ったことではない。 >>518-520 やはり戦後はアメリカに占領されたせいで、アメリカの風習を踏襲してたのだね。 >>524 車掌補?随分新しいねぇ…。2段ハネが登場してから出来た職制だね。乗務員1車1の頃はボーイって言われてたけど乗務員が2車1になってボーイが国鉄の正規職員になってからは乗客掛。 >>525 そうすると車掌補の職制は短かったのだな。 1976年10月改正で、東京口の三列車を二段B寝台化と同時に廃止された。 20系博多行きあさかぜ1号も、それと同時に東京駅で寝台がセットされた状態で発車となった。 2段B寝台の上段て格納できたっけ? 作り付けだった気もするし 24系25形の0番台は製造当初は格納 ただし固定型の100番台以降や14系15形に準じて 0番台ものちに固定化された >>519-520 「列車給仕」はいまでいう「バトラーサービス」に近い事をしていたけれど このサービスがいくら時代が違うとはいえ公共交通機関で提供されていた事実は凄い事である なぜなら現在のホテルでも「バトラーサービス」が存在するホテルは 超最高級クラスのホテルだけに限定されているからだ つまりどこのホテルでも やっている大衆的で庶民的なサービスではないのだ ここらへんを考えたら20系時代、昭和30年代のあさかぜが「走るホテル」と言われたのも納得できる…。か?! >>526 >>525 だけどついでに言えば1976年〜77年の年末年始のあさかぜ51号も24系25型の3車1の乗務員に合わせた為20系で運転ながら@号車にナハネフ23を組込編成でした。因みに編成はカニ21@ナハネフ23A〜Eハネ.増EハネFナハネフ23GHハネIナハネフ22。 バスには車掌が乗っていて駅には赤帽がいてセルフサービスやバイキングなどなかった時代 小田急ロマンスカーには大勢の女性係員が乗っていて扉を開けてた時代 「あさかぜ」がそんなに特別だったのかなあ >>531 東海道線全線電化と同時に新設の九州特急で、日本で最初の20系特急だったから。 人的サービスなら、客車時代の「つばめ」「はと」の方が上だったような。 >>529 前半はそのとおりだが、後半どうしてもアサカゼに結びつけたいんだな。 サービス面は当時の優等列車全般にあった話であって あさかぜが格別というわけではない 単に新型客車が最初に導入したのがあさかぜというだけ >>531 大勢の女性係員〜っと言っても1車1じゃないだろう? >>531-532 やっぱりそう感じるよね。なんか529はあさかぜが好きなのはよく伝わってくるが、何でもかんでもあさかぜだけ特別なことにしたい印象を受ける 20系時代がB寝台個室があればどうなっていたのだろうか >>525 2段ハネ登場時には車掌補は廃止されたのでは? たしか1975年頃の鉄道ジャーナルのあさかぜの列車追跡ルポでも車掌補と呼ばれていたはず >>534 小田急は走る喫茶室の女性従業員がおおむね各車両にひとり乗ってたみたい 座席に注文をとりに行って茶菓を座席まで運び 駅では扉の開け閉めと、お辞儀しての送迎を行っていた >>537 ジャーナルの76年7月号でしたね。この年の10月に東京口に2段ハネが登場した時に車掌補が廃止されました。最初の2段ハネが登場した74年4月の時には車掌補の制度は残っていました。いずれにしても短い間の制度でした。 RJ1974年7月号のルポですね。 白井朝子嬢が登場する熊本行あかつきだったかな >>540 RJ74年7月号は2段ハネ彗星の運転初日のルボ。 昭和47年(1972)7月の品川客車区の編成作業合理化の為ナロネ22があさかぜに集約されて俗にいう 殿様あさかぜ の登場と成る訳だがこれによって1人個室のルーメットの切符が取りやすくなった。この時以降にルーメットに乗車された方も多いのではないか? >>541 それ持ってたな懐かしい 引っ越しでどこかに行っちゃって無いけど あさかぜは25形0番台がほとんど使われていなかったな >>545 使われたのは昭和51年(1976)夏に運転された25型100の早期落成車主体のあさかぜ51号のJ号車に組まれたオハネフ25(47.49大ミハ)ゴールドラインになってからのオハネ25(37.38)さくら.はやぶさが併結後に運転された最後のあさかぜ81号の時熊クマのオール0番代の時だけ。 14系と24系時代の臨時あさかぜは結構意外な編成が多かったな 白帯とあさかぜのイラストマークの組み合わせもあった 大阪駅で見た上り臨時あさかぜは ヘッドマーク無しで格落ち感あり >>547 >>548 博多あさかぜ廃止直後の平成6年暮の臨時あさかぜ、14系8連絵入りマーク。九州内EF81には臨時にも関わらずヘッドマークを付けていた。何かの思い入れかな? >>547 当時定期運用のなかった熊本の14系15形も使用されていたんだよな >>542 72年当時のA個室料金は、5400円だったと思う。 今にしてみれば安い価格だが、他の料金と比べ敷居が高かった。 全般的に国鉄運賃・料金が安価で、三段式B寝台料金が1600円程度。 グリーン車は3000円出せば、打ち切り制でないので相当な距離に乗れた。 それでも300円の急行料金だけで乗れる、長距離急行の自由席が満員の日は多かった。 そんな世相から寝台料金だけで5400円は、結構覚悟の出費だっただろう。 >>551 ルーメットに5400円出すと東京〜福岡の航空機より高くなった。 時刻表の地方名産品の「時価」 一体幾らだったのか気になる 14系あさかぜってやっぱ黒歴史なのかねw まるで記憶も印象に残るものもない。。 さくら/みずほの間合いだったっけ?? >>555 黒歴史ではないがあさかぜと言えば博多あさかぜ1.2号に代表されて14系の2.3号急行安芸格上げの3.1号は地味な存在だった。寝台幅の広い14系にも関わらず切符の入手は20系の1.2号より容易だった。 >>555 多客期につかえるものは総動員した結果じゃないの? 一般の客は形式なんか気にしないだろう、気づくのは新車かボロか、ベッド幅の違いくらいじゃない >>557 定期時代の14系と臨時時代の14系で意味合いが変わる 臨時あさかぜの14系24系時代は様々な車両区の編成を使用していた >>555 間合いでなく、共通運用が適切だろ。 14系あさかぜ廃止後車両は、いなば・紀伊に転用。 14系・24系25形の「さくら・はやぶさ」も「富士」の間合い運用ということになってしまうなぁ 黒歴史とか使っちゃう子だから仕方がないか 「臨時あさかぜ」とはそのまま列車名だと思ってこのスレ読んでいた… http://i.imgur.com/9awR5B4.jpg >>560 富士はさくら・はやぶさの間合い運用で正しいかも 東京発着の寝台特急で間合い運用といえるのは 下関あさかぜの間合い運用の瀬戸 熊本みずほの間合い運用の長崎さくら 鹿児島・熊本24系はやぶさの間合い運用の宮崎・大分24系富士 長崎さくらの間合い運用の佐世保さくら 長崎さくら・熊本はやぶさの間合い運用の富士 14系はやぶさの間合い運用の14系富士 サンライズ出雲の間合い運用のサンライズ瀬戸 >>562 言葉覚えたからとりあえず、コスパ、コスパ言うバカに近いものがあるのぅ。 ただ>>562 の例だと車両基地の関係で間合い運用ともいえる 14系あさかぜといなば・紀伊は品川担当だから共通運用が正しい 結局、間合い運用と共通運用の明確な違いってなによ? >>567 大まかに都市圏の所属車両基地が基準は共通運用、終着駅基準で別運用にされるのが間合い運用になるだろう。 例えば新幹線博多開業前の20系「あかつき」は品川の車両だった。 「はやぶさ」で西鹿児島・長崎に到着してから使用するので、間合い運用だろう。 583系なら「しらさぎ」が「金星」の、「にちりん」が「彗星」の間合い運用時期があった。 14系「さくら」「みずほ」「いなば・紀伊」や、24系・25型の「はやぶさ」「富士」「出雲」については、 国鉄時代の品川客車区基準にして共通運用。 >>568 国鉄時代の終盤からJR化以降の「さくら」「みずほ」や「はやぶさ」「富士」は さくらとみずほの品川の付属編成運用以外は間合い運用になる また下関や広島に配置していた下関あさかぜと瀬戸や 出雲支所に配置されているサンライズは瀬戸が出雲の間合い運用であり 特に同一編成化後のさくらと富士ぶさとサンライズは運用の関係で 下りと上りが通常の分割併合列車とは違うパターンの編成を組んでいる >>569 しかし下関あさかぜと瀬戸は間合い運用の表現をされなかったな! 利用客の中心軸が首都圏だったせいか? >>570 こちらは間合いの表現だったな。 仙台〜秋田を181系気動車で走ったあおばは、つばさの間合い運用とされていたから、 同様の雰囲気。 >>569-570 下関あさかぜと瀬戸も確かに間合い運用にも見えるから これらは共通運用とも間合い運用でも両方とも正しい運用かもしれない 別の話題になるけど 博多あさかぜと東日本出雲の金帯ハネが臨時おがにも連結されていたんだよな >>570 568視点に立てば、所属機関区の和歌山発はあすか よってあすかが本運用。 終着駅の名古屋で別運用のくろしおに入る よってくろしおが間合い運用。 くろしおも天王寺発着で和歌山機関区入庫だが 何を基準にあすかを間合い運用とみるのか判断がつかない 結局、共通運用と間合い運用は外形では判断できないのでは? おおよどのためにわざわざ日豊線全線電化後もにちりんのキハ80系残したくらいだが >>568 の主張に基づいて50・3以前の大ムコ485を 雷鳥、しらさぎ、はくたか、しおじ、みどり、 つばめ、はと、にちりん、なは、日向等 本運用と間合い運用を明確に分けられるのか? >>568 14系いなば.紀伊は東京到着後もいなば.紀伊で折り返す単独運用。24系25型も編成は同一でも運用は各々単独運用だ。 >>492 カラーであれだけふんだんに撮ってくれてるのがいいよね 手動の扉とか動き出してから飛び乗れたりしてるのが今見ると新鮮 >>579 ロケの為に東京〜長崎にロケ編成まで特発させた国鉄全面協力の名作。 >>579 〜>>581 映画を観るとロケの特発編成の@号車がナロネ20だ。おそらくナロネ20が長崎まで入線したのは最初で最後だろう。 >>577 難しいだろうな。東北新幹線開業前に青森の485系「ひばり」「やまびこ」が、 間合い運用と言われなかったのと同じような感じ。 ただ当時の「にちりん」については、間合いの雰囲気w >>579-582 昭和30年代は、今のように高性能なCG合成技術があった訳でも 高性能な4K/60P対応デジカメがあったわけでもないからな 当然、高画質カラー映像は少ない この映画は様々な意味で貴重な内容だ もし特急「あさかぜ」に自動放送があったら 本日は日本国有鉄道をご利用くださいましてありがとうございます。この列車は特急あさかぜ号 博多行きです。 途中、横浜、熱海、浜松、名古屋、京都、大阪、姫路、岡山、尾道、広島、徳山、三田尻、下関、門司に停まります。 車内のご案内をいたします。前から 1号車 2号車の順で 一番後ろが 12号車です。 二等A寝台車は1号車、二等B寝台車は2号車と3号車、2等座席車は4号車です。 三等寝台車は6号車、7号車、8号車、9号車、10号車。三等座席車は11号車、12号車です。 食堂車は5号車です。弁当や飲み物を販売する売店は11号車にあります。車掌室は12号車にございます。 喫煙は 灰皿が備えてある場所で お願い致します。 次は 横浜に停まります。 Leadies and gentleman. Welcome aboard the ASAKAZE Limited Express bound for Hakata. We will be stopping at Yokohama, Atami, Hamamatsu, Nagoya, Kyoto, Osaka, Himeji, Okayama, Onomichi, Hiroshima, Tokuyama, Mitajiri, Shimonoseki, and Moji, All commutations are reserved. The Cars second class A sleeper are in cars No.1. the second class B sleeper are in cars No. 2, 3. second-class seat car No.4. The third-class sleeping are in cars No. 6,7,8,9 and 10. third-class are in cars No.11,12. The dining car is car No.5. selling box lunches and drinks is Store is in car No.11. The conducter's room is in car 12, Smokers are asked to smoke only in areas where ashtray are in stole. The next stop will be Yokohama. We wish you a pleasant journey. Thank you. 金帯あさかぜのデュエットとカルテットは 他の定期列車への転用をなぜしなかったのだろうか >>858 あるよっ! 星空バーで出張の帰りに数人でウィスキーの水割りで乾杯しながら スモークサーモン・特製ソーセージ盛り合わせ(サワークラウト添え)・ ポークヒレカツレツなどをツマミにしながら飲んだよ。 確か1989年くらいだったと記憶してるが当時はスターダストラウンジ とか呼んでる人もいたと記憶している。 星空食堂車やオリエント急行風食堂車もよかったけど国鉄消滅で長い 期間を担当してた日本食道門司営業所から新博多営業所に変わって メニューが大幅に減って関門定食・ちゃんぽんなどの郷土料理が廃止 になったので古い食堂車でも国鉄時代の日本食道門司営業所がよかった。 >>588 新博多担当の後は上野担当になってそして仙台担当の時期もあった あと>>588 が乗った頃に星空バーのあさかぜ乗った人は 星空バーがラウンジ席の関係で出雲に担当されるようになっていたから 貴重な経験をしたかもしれない 吉野家鮭定食って、かつてのブルートレインの 和朝食に似てるよね? 朝にトーストとハム目玉食えるのは食堂車くらい、自宅では朝食はいつもご飯に漬物 ということで寝台車の和朝食は知らない 586 もし特急「あさかぜ」に自動放送があったら 151系では録音放送があったな 20系ではなかったが >>587 カルテットは一般にはあまり知られてなかったのか空気輸送の日が多かった。 横浜国立大学も夜間募集停止か 大学の夜間部がどんどん無くなっていくなあ。早稲田も関大も無くなったし、 横国の経営学部も、改組と同時に廃止。名工大も縮小してきてる。 夜間大学廃止の1つの理由は、「就業形態の変化」。終業後に大学に通える環境がない。 もう一つおまけにカキコすれば 俺は底辺広島大夜間へ行ったので、周りにはアナログ時計の時間が読めないヤツもいた。 そんなヤツの多くがアナデジはめてたんだよなあ。 大きなアナログ時計はおまけで、下のデジタルで時刻を読む。 大学生になれば時計くらいはめてなければカッコつかないという雰囲気もあったし。 ある私立大学の経済学部で西島秀俊が小出恵介のような不祥事や事件を起こしたら、被害や損害になる総額が1000億円は軽く超えるそうだ。 日本最大の家電メーカーであるパナソニックのCMなど社会的影響力が大きいからである。 西島秀俊の社会的影響力はSMAP解散後、日本国内最大最高の男性キャラクターにのし上がったからである。 今では、木村拓哉、草g剛、香取慎吾、中居正広のマスコミ露出が少なくなった2017年現在ではCM、ドラマ、映画で見ない日は無いくらい西島秀俊は働いている。 今の日本国内の男性キャラクターで西島秀俊を見ない日は無いくらい活躍しているが、西島秀俊の次は長谷川博己あたりが出て来ているのも現実である。 今年から来年にかけて西島秀俊が公私ともに休まる日は無いくらい、活躍が期待されているのかもしれない。 ロシアの俳優でいうならば、西島秀俊と同世代でセルゲイ・ベズルコフが相当する存在である。 >>588 東京駅発車の寝台特急食堂車は1981年くらいまでがよかったと思われ 更に国鉄時代でも1983年くらいでは日食門司営業所のメニューから 沿線の郷土料理も消えていたと記憶する。 皿うどんとおこわ定食は上野時代もあったはず あときじの定食もあった >>586 >途中、横浜、熱海、浜松、名古屋、京都、大阪、姫路、岡山、尾道、広島、徳山、三田尻、下関、門司に停まります。 ちょっとバランス悪すぎだろwと思いきやマジだった。確かに20系客車で運行開始当初はこんな停車駅だった。 それにしても静岡、小郡はおろか、小倉までもノンストップにしてしまうとは… それなのに何故か小倉を飛ばしておいて、尾道、徳山、三田尻(現:防府)に停車するという だがしかし、当初東京=姫路、下関=門司以外の区間で牽引していたのは性能や燃料に制約だらけのSLで 広島→八本松の補機もSLだったはずだから停車駅設定に制約があったはず 少なくとも、当初は小倉に停車したくても無理だったんだろう >>597 上野営業所の皿うどんって餡はレトルトの奴だよ 長崎営業所や門司営業所は皿うどんの餡はフライパンで炒めて作ってたよ。 ここはあさかぜスレだから郷土料理的にはちゃんぽん(福岡市内にもちゃんぽん の店は多数あった)や関門定食になると思うのだが? きじ焼き御膳は郷土料理ではなく、コックが1名でも湯煎や電子レンジで 対応できる手抜き料理だよ。 皿うどんの餡が入ってるレトルトも同じ。 >>598 つばめ、はと、こだま、かもめと合わせて考えるとバランス取れてたんだと思われ 当時の時刻表表調べてみて >>599 あさかぜでグレードアップ後に旅路御膳と桜御膳があったよな >>600 当時の時刻表見たら納得した 当時、最小停車駅の東京・横浜・名古屋・京都・大阪をしていたのは 安倍川鉄橋上での乗務員交代をしていた「こだま」しかなかったようだ 最も戦前の「燕」は東京=名古屋間無停車・東京=大阪間を7時間30分で走行は「可能」だったんだが、乗務員の安全性を大幅に犠牲にしていた(炭水車と水槽車に渡り板と手すりをつけて、走りながら乗務員交替。どう考えても危ない) 京都、大阪停車が不可解すぎる 国電や地下鉄動いていたとしても誰がどっちの方向に乗るのだ? >>602 戦前の「燕」で東京-名古屋間無停車はさすがに無理だよ 御殿場まわり時代は東京や名古屋から補機連結しとかないといけないし 丹那トンネル出来てからは沼津で機関車交代は必須だ 丹那トンネル蒸機じゃ無理だろ? フォレスト風なんて書いてるのが昭和を感じさせるね 今なら直球でキノコハンバーグだ 〉595 うーむ 記憶とは大分違うな。 確かに配膳考えると、こういう幕の内弁当 っぽいお膳にしないと面倒だよね。 白ご飯と鮭の印象しか残ってなかった ということか。値段は800-900円位なの は間違いない。ひょっとしてはやぶさ だったか?だとしたらスレ違い。 なんにせよ今になってみれば貴重な経験 >>605 北斗星のメニューと比べたら、リーズナブルだった。 >>603 「あさかぜ」は戦後初の夜行特急として、1956年に登場したが、 大阪通過で大阪鉄道局と大いに揉めたからな・・・。 関西を深夜に通過する列車など、当時は前例がない、ありえないと。 そこで、大阪始発の急行を増発するのと、 深夜・未明ではあるものの、京都・大阪では客扱い停車するという妥協案と引き換えに、 関西深夜通過案は、採用されることになった >>584 あと渥美清主演の喜劇急行列車もロケがふんだんに入っていて貴重 昔の長崎駅や西鹿児島駅も出てくる もちろん東京駅も こちらもヒロインは佐久間良子 >>609 朝食がバイキングスタイルになって不評で止めた翌々年だと思う 朝食は中華粥・イタリアンスタイル(ミートソースパスタ)・洋朝食 のみで手数のかかる和朝食をやめて不評をかったので上りでは 静岡駅で幕の内弁当を仕入れてて車内販売で販売拡大してた。 東京発着ブルートレイン・食堂車の末期で完全に凋落していた。 >>612 朝食としては珍しいメニューばかりだな あと和朝食は仙台が担当したころには復活していた >>603 昭和30〜40年代は都会でも地方都市でも 特急でも急行でも寝台列車でも夜行列車でも 当たり前の事だろ。 寝台特急のみ深夜停車が減ったのはあけぼの 登場のころからじゃないか? 寝台急行でも深夜2時や3時の停車でも不思議ではない。 京都、大阪停車が不可解すぎる 国電や地下鉄動いていたとしても誰がどっちの方向に乗るのだ? でも東京発着のブルトレは京都や大阪に止まる列車が結構後でもそれなりにあった 昭和30年代、西鉄ライオンズ球団は、 あさかぜだのはやぶさだのかもめだのに乗って関西や関東へ遠距離通勤していたらしい。 西鉄はまだまし。スタメン選手や監督クラスなら寝台や2等車には乗れたらしいからな。 広島カープなんてもっと酷くて選手全員三等車の通路で雑魚寝だぞ。 国鉄スワローズには優先的に寝台割り当てて 他の球団には座席で徹夜させて選手を疲弊 させる戦略だったんだな >>617 いくら当時でも巨人や阪神あたりのカネ周りがいい球団は1等車か、2等車に乗せられたぞ 当時のプロ野球選手の羨望度は今では比較にならない。東映(現日本ハム)〜巨人などで強打者となった張本勲氏は、 広島戦でやってくる巨人の宿舎でビフテキを食べる選手に憧れ「強い選手になって稼いで家族を楽にさせる」と言う闘魂で結果夢をかなえ、 金田正一氏は国鉄(現ヤクルト)に入ったとき2等(現グリーン)車で移動が出来るのがまず夢だったという(もっとも新人は3等車で至極失望したとも言う)。 そして当時の広島カープは三等の普通車。 夜行列車の狭い席に4人が向かい合って座る。 東京までの15時間、難行苦行の旅だった。 昭和20〜30年代、球団創立当初の広島カープは「地域密着型スポーツチーム」のはしりではあるが まともな企業の後ろ盾がない状態で設立されたため、極端なほどの資金力不足で運営されていた。 連戦連敗が常で、勝ったと言う記憶そのものがない弱小球団だった。 球団幹部は野球連盟から呼び出され、「プロ野球は金が無いものがやるものではない」と言われたこともあるし しかも監督や選手たちの待遇は、全球団のなかで最低・最悪レベルだった。 だから選手の給料や遠征費がまるっきりでなくなるくらい貧乏な時期があったくらいだ。 ただし、ファンだけは腐るほどいて、当時の本拠地・広島総合球場は連日、満員に膨れ上がっていた。 当時の関係者曰く・・・・。 “当時のファンの熱狂ぶりは今では考えられない。 食うにも困る時代に、金を払ってまで野球を見に行っていたのだから” >>617 創成期の広島カープ球団は「あの」史上最弱球団の高橋ユニオンズよりカネが無かったからな 何でも初期の広島カープは東京に遠征するときには急行「安芸」に乗って一般客と同じ3等車で雑魚寝していた。 だから2等車や寝台車で移動することができた巨人に嫉妬していたのは当然だろう そりゃそんなキツい移動させられてたんなら勝てるわけないよな。 もちろんチーム力だってかなりの開きがあっただろうに、その上そんなハンデ厳し過ぎる。 15時間座席普通車で揺られて、仕事しろって言われたってできっこないよな。 板東英二氏が現役時代、広島への移動は「あさかぜ」や「さくら」で花札に夢中 になって、気が付いたら浜松や静岡まで何度も乗り過ごしたと著書に書いて いたな。 >>622 戻ってきた時の事じゃないか。 俺も「プロ野球これだけ知ったら」シリーズで読んだ記憶が有る。 >>620 漫画などによく見る典型的な連戦連敗ヘナチョコ貧乏プロ野球球団の元祖といえば 球団創立当初の広島カープのことだからなww 「プロジェクトX 挑戦者たち 史上最大の集金作戦 広島カープ 〜市民とナインの熱い日々〜」 でも言ってたけど遠征できても列車は三等くらいの劣悪な客車に一般客とともに詰めこむように座り、 旅館に泊まるカネもないから遠征先に選手の実家があったら そこにあの大人数が食事込みで泊まってたらしいね。 あさかぜ1・4号の食堂車といえばエビフライをつまみに瓶ビールを飲んで 〆に当時800円だった関門定食を食べるのがあさかぜ出張の楽しみだった 1978〜1979年くらいだったけど食堂車には活気があったよ >>625 夜行の食堂車ってその時代だと 東京発九州方面にしか なかったからな >>25 それでもブルトレ乗れるなら上等 貧乏人は急行津軽とかだろ >>625 もしそのころから朝食にバイキングスタイルや 朝食が中華粥・イタリアンスタイル(ミートソースパスタ)・洋朝食の対応になっていたら 受け入れられていたのだろうか(九州ブルトレ全体にこれを適応すると仮定) 1958年11月現在の国鉄特急列車 はつかり 上野=青森 1日1往復(旧型客車使用) こだま 東京=大阪 1日1往復(151系電車使用) こだま 東京=神戸 1日1往復(151系電車使用) つばめ 東京=大阪 1日1往復(展望車つき旧型客車使用) はと 東京=大阪 1日1往復(展望車つき旧型客車使用) あさかぜ 東京=博多 1日1往復(20系客車使用) 平和 東京=長崎 1日1往復(寝台車つき旧型客車使用) はやぶさ 東京=鹿児島 1日1往復(寝台車つき旧型客車使用) かもめ 京都=博多 1日1往復(旧型客車使用) ・・・なんと、全国でたったのこれだけ。 その中で全車冷房搭載で、3等車にも冷房がついているのは151系と20系のみで後は食堂車か展望車・寝台車の一部だけ冷房搭載。これだけでも当時20系客車での旅が憧れだったかがわかる。 当時の特急列車で移動出来たのはこれこそ巨人レベルの金持ち球団で、王・長嶋みたいな当時のスター選手なら2等寝台も乗れたはずだから、 急行列車の3等車で新聞紙敷いて移動していた広島カープ選手が嫉妬したくなるワケも納得。・・・か?! >>630 そうだな、151系になったのは1959年からだったな 下関あさかぜと瀬戸のラウンジカーは2種類あったんだよな >>621 静岡や浜松まで乗り過ごした後どうしたかが気になるな。 花札して乗り過ごしたでは誤乗扱いにならないだろうし、切符はマネージャーが 持っていたかもしれないし。 >>634 そりゃ列車の中じゃ起きているうちは花札くらいしかやる事ないからな。あと名古屋到着が早朝じゃ寝過ごすリスクはあるだろう 昔は車掌補ていうのがいてたよな 下車駅近づいたら起こしにきてくれた 車掌補、列車給仕(列車ボーイ)とも呼ばれていましたね。 チップをあげると革靴を磨いてくれたり、終着駅だと 赤帽を呼んで荷物をホームまで降ろしてくれました。 オレ旅館の女中さんとかうっとおしくて 放っておいてってタイプだけど、ブルートレインには車掌補が各車両に乗っているのがいいな。大勢で列車運行してる感じがいい。 >>637 確かに「列車給仕」はいまでいう「バトラーサービス」に近い事をしていたけれど・・・ 現在のホテルでも「バトラーサービス」が存在するホテルはセントレジス、旧軽井沢ホテル、sankara hotel&spa屋久島、ザ・ブセナテラスなど これこそ超最高級クラスのスーパーラグジュアリーホテルだけに限定されており 欧米のホテルの格付け制度ではバトラーサービスは高級格付けのホテル「必須」のサービスになっている(無いホテルは高級じゃ無い!!) つまりどこのホテルでも やっている大衆的でチープで安っぽいサービスではないのだ このスーパーラグジュアリーなサービスがいくら時代が違うとはいえ、公共交通機関で提供されていた事実は凄い事なのは間違い無い 殿様あさかぜだけじゃなくて 金帯あさかぜ時代(特に下関あさかぜのグレードアップ後)があさかぜにとって豪華な時代の一つでもあった 補足 下関あさかぜの開放B寝台は銀帯だけどラウンジカーとシングルデラックスが金帯になっていたから グレードアップ後と書いた 639氏とは反対に就寝中の窃盗事件とか多かったので各車両でボーイさんが目配せしてなければいけなかったらしい >>641 最後まで残った下関あさかぜはA寝台も他より広くシャワーも使え、ラウンジカーもあったんだよな〜 当時機会あればさくぶさ富士ばかり乗り鉄していたのが悔やまれる… >>644 窃盗犯らしき奴に 「お前が窃盗犯って分かってるよ。見張ってるからね」 と目配せして牽制してるのかも >>645 犯人に合図するの? 目配りならわかるけどw 昔何かの番組で見たが、列車給仕や車掌は15両編成300mを一晩で20から30往復 15km前後車内を歩いていたらしい。 >>647 それは、多分番組用の答えだろうと思う 基本、優等列車列車の全編成を受け持つことはなく、各レチ毎に担当する号車が決まってる カレチが総責任者になる為、要注意人物が乗り合わせてるなど、状況によっては巡回することはあるだろうが15kmというのは・・・ >639 20系客車までは乗降扉が手動ロックだったので閉める作業 寝台設備の朝の解体、昼仕様の座席にするのが主な仕事だったのでは 638ですが、すんまそん、目配りだよね。自分でもおかしい気がした。オレのオヤジは中学生位の姉弟で本土から満州に行ったりしてたんだけど、優等列車の優等車でボーイさんが面倒見てくれてたらあまり不安はなかったんだろうと推測 >>634 昭和30年代の寝台特急は、プロ野球。特に西鉄ライオンズの関係者が「常連」だった模様。 用途は長期遠征用。 野球選手という職業を選んでしまったら、シーズン中はずっと超遠距離通勤をすることを強いられる。 今でこそ、選手は新幹線や飛行機が使えるが、かつてのプロ野球選手の長期遠征は鉄ヲタでもやりたくないレベルのハードさだった。 特に一番西の端っこの西鉄ライオンズが最も過酷だった。 西鉄ライオンズは本拠地の福岡市から東京や大阪へ移動するのに、新幹線もなければ高速バスもない 飛行機の安全性が極めて怪しい時代だったから、必然的に列車による移動しかない。 当時の時刻表だと大阪へ約10時間、東京へは約17時間もかかったのだから、 こんな過酷な移動をした後でまともなプレーができる方が不思議だった。 こういった厳しい環境で西鉄は黄金時代を築いたのだから恐れ入る。 昭和30年代特に九州から東京への移動は100%確実に「あさかぜ」や「はやぶさ」での移動だったようだ。 ちなみに関西遠征のときには特急「かもめ」での移動が多かったという 長い道程に耐えうる強靭な体力と、遠征を楽しい旅と思えるようなプラス思考のハートがなければ、 とてもプロ野球選手など務まらないと言える。 ちなみに、現在、福岡に拠点があるソフトバンクは、他球団と比べたら飛行機での移動がケタ違いに多い。 昔と比べたらマシだが、これでも日程はハード。 「あさかぜ」に初めて乗ったのが1974年夏の「あさかぜ2号」(11レ)で14系寝台車が 14両連なっていた。2回目に乗ったのは1976年の8月で「あさかぜ51号」(8011レ)は 24系25形で自分にとって初めての2段ハネであったが結局20系の「あさかぜ」には 乗る事ができなかった。その後、臨時「あさかぜ51・52号」として走ったけど2段ハネ に慣れてしまった身にはベッド幅50pの3段ハネは乗る気がしなかった。 >>656 14系「あさかぜ」に乗ったのは貴重だと思うけど。 当時としては「殿様あさかぜ」と比べ、編成のバリエーションが物足りなかったのはあるかも。 ところで14系「あさかぜ」で食堂車は利用した? また「あさかぜ」「さくら」だけの、列車名記念スタンプもあったと思うが・・ 適当ビジネスニュース報道プロ級世代新社屋TRUMPTOWER左遷「仏」40代監視カメラ使用コンプライアンス速報駐車場 (入社拒否 トランプジョーカー切り(創価大学消防庁コストカットアイドルマスターパイナップル株式会社)30代好評人気連載漫画「ヒカルの碁お前ら何や」 NHKトランプ大統領ニュース(ヤフージャパン上院社員特別生活費支給旅行沖縄汚染水スキンケアテレビ東京ギャンブル依存症顧問職員稲田籠池豊田 40代社会人集団ストーカー対策ーhondasouichirouー 横浜マドリッドスペイン上西フライングファイアーウォーターサーバーダイビングドライブシュート川中 中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティー(反日飛行機雲農薬散布マスク女問題)駅内マスクオンNACNN向け原文ママニュース いいじゃん。面白い切り口で。 655の画像見て思ったんだけど、蒸機の機関士は自分の後ろで カニのディーゼルエンジンが軽油燃料にがーーと唸ってるの見て どう思ってたんだろう。もう世の中は石油の時代で蒸機は時代遅れ などと感じていたのか。 >>660 20系が走った時代は非電化区間ではDLでなくSL牽引区間が存在してたが 当時のDLはDF50が量産されていたが、これがとんだ大駄作でパワー不足に悩まされ続けた C62=1620ps DF50=1200ps しかもDF50についてもっと頭が痛い問題としてエンジンにスルザー社のライセンス生産品を使用を強いられた そのため、当時のカネがない日本にとって調達コストが高額だった。だから国鉄はDD51を開発した。 1958年「あさかぜ」がデビューして間もないころ3連敗4連勝の日本シリーズは 西鉄と巨人が同じ「あさかぜ」で移動していた 1、2戦後楽園で連勝した巨人ナインは畏まってて、 連敗したのに西鉄ナインは麻雀とかで賑やかだったとか。 >>662 2連敗後の移動はさちかぜだったかと あさかぜは3連敗後2連勝して後楽園に戻る時だったと思う いや、違う。「さちかぜ」は「あさかぜ」と似ていて紛らわしいため1958年10月で「平和」になっているはずだ 昔の西鉄のプレーヤーたちに聞くと、移動そのものには、それほどの問題はなかったという。 「そういうものだ」とあきらめていたらしい。問題だったのは、宿泊環境が、球団格差が酷くて巨人と他球団では、まるで違っていた。 青大将が引く20系あさかぜが赤沢トンネルを抜け根府川橋梁にかかるカーブ もう路線自体が無い >>664 巨人は高級ホテルor旅館 その他は2流旅館 あさかぜと言えばこの列車“さちかぜ”定期列車としては昭和32年10月から33年9月までの僅か1年だけという短命列車 あさかぜの続行ダイヤで運転された上、名前が似ているという事から誤乗が多発したため、 1年と3ヶ月で“平和”に名称が変更になった。 名称変更直前の「さちかぜ」に乗ってる巨人選手 http://www.hochi.co.jp/entertainment/20171002-OHT1T50213.html http://www.hochi.co.jp/entertainment/garticle.html?id=20171002-OHT1I50158 列車系統が続いていれば短命列車としてあまりラインナップされない件は どうお考えで? その考えだと初代と二代目のへいわ、平和は短命列車じゃなくなるなあ あれ? 三代目も初代へいわ号の後身のつばめ号になった訳だから短命列車じゃなくなるのか >>671 このあさかぜが結局かなり後まで存続していた ちなみに上りのあさかぜのダイヤはまだある >>666 1958年当時の「あさかぜ」でありそうな球団格差 【巨人】 個室寝台車(ナロネ20)=首脳陣・エース投手など数名 二段寝台車(ナロネ21)=スタメン選手 三段寝台車(ナハネ20)リクライニングする座席車(ナロ20)=入団数年目のルーキー 【西鉄】 二段寝台車(ナロネ21)=首脳陣・エース投手など数名 三段寝台車(ナハネ20)=スタメン選手 ノンリクライニングの座席車(ナハ20・ナハフ20)=入団数年目のルーキー >>674 1958年当時だと読売でナロネ20は正力さんじゃないと無理じゃないかな 務台さんでもどうだろってレベルかと >>675 昭和40年代になると俺でも乗れた!(笑) >>676 40年代前半は無理だろう? 等級廃止後だな 等級制時代は上等クラス(ここでは例えばナロネ20のルーメット)はいくら金を出しても一般には切符を売らなかったという話あるけどマジ話? >>678 それは有り得ない、しかし一等車に乗ればそれなりの所作、振舞いを暗黙の内に求められていたものだ。 >>678 みどりの窓口開設後も、ナロネの個室はマルスに入ってなかったので、有り得る話かもなw >>681 有り得ない。マルスに入っていないと云えば24系二段ハネのオロネ25も登場当初はマルスに入っていなかった。 >>682 100系新幹線の個室も当初はマルスになかったはず 盆暮れになると あさかぜ51号まで繰り出す大盛況だったがこの時季、以外に個室の空きが多く切符の入手がしやすかった。ビジネス客の移動が少なくなったからだろう。 個室寝台って出張で使えた人おるん? うちの規定見ても使えた形跡ないお 会社が用意してくれたプルマンの切符を乗変して差額を手出ししてルーメットに乗ってました。 >>687 二等寝台に変更じゃ無いのかw 昔名古屋から関東に出張で 新幹線代は出るので 大垣鈍行で前日に出て 差額GETはよくやった 昔はちょこまかせる手段が色々あったんだな ウラヤマシス >>691 前日に乗り込み現地宿泊できて費用が会社持ちなら 風呂もテレビもなく食料さえ手に入らないこともある寝台列車を選択することなどあり得ないだろ >>692 東京から仙台→札幌の経路で 飛行機可能(仙台→札幌)だった。 通しで東京→札幌の乗車券を購入 仙台から新青森まで新幹線で行き、はまなすを利用していた。 650円の急行券とドリームカー300円はお得だった。 >>692 航空機や新幹線の影響もあるけど地方都市の宿泊施設が整備されたことも寝台列車の衰退に大きく影響しているな。新幹線博多開業前は博多辺りでもホテルの確保は結構大変だった、今の乱立振りとは隔世の感だね。 乱立しててもイベントの時に宿の供給不足になる博多地区 >>694 時刻表の巻末にビジネスホテルのほとんどは掲載がなかったから余計そう思うのかもな、俺はいつもビジネスホテル一覧の全国版ガイドブックを鞄にいれていた 時刻表よりもビジネスホテルガイドブックの方が売り上げ急減してるよなあ >>696 大型時刻表の巻末に2ページ程あったが、それでは物足りなかった? まあホテル広告の要素が大きかったけどw >>697 ホテルもサイトから予約する方が安くなったり、事前に空室状況が把握できるからなw >>695 だから昔はホテルの確保がもっと大変だったんだ。 >>698 満員になるときは時刻表に乗ってるホテルは軒並みダメ、それと所在地がよくわからないのが不便すぎた 初めての町ならとくに、時刻表、地図、ガイドブックなどでしっかり情報をつかんでおかないと混雑時はえらい目にあう >>701 昔は交番に行くと、親切に宿に電話を掛けて聞いてくれたりした。 今では交番に人が居ないからなぁ 地方の主要駅なんかでは、駅前は賑やかだったがそれも19時頃まで、何か食い物をと思っても駅弁、市場、駄菓子屋、パン屋全て閉店でコンビニないほか弁ないの世界だった 銭湯は大概見つかったな 宿がなくても駅の待合室が開いていたので助かった。 冬場の水上や敦賀、富山でもお世話になった。 「本日は接続列車がございませんので明朝まで 駅の待合室でお待ちください」 昔の言葉 パークホテル → 公園で野宿 ステーションホテル → 待合室で野宿 乗り鉄だと食事に困ったな。 駅弁は高い、駅そばも夜間は閉店、 キオスクで買えるのは三色食パンや 5つ?入りのザラメをまぶしたぱさぱさの ドーナツ、それもなければ100円のカルビー ポテトチップス。 臨時あさかぜは20系・14系14形・14系15形・24系24形・24系25形どれも使用経験があるけど その点はあまり触れられていない それはあかつきや彗星も同じ。 臨時あさかぜといえば旧客で編成された熊本行き。 昭和30年代の寝台特急は、プロ野球。特に西鉄ライオンズの関係者が「常連」だった模様。 用途は長期遠征用。 野球選手という職業を選んでしまったら、シーズン中はずっと超遠距離通勤をすることを強いられる。 今でこそ、選手は新幹線や飛行機が使えるが、かつてのプロ野球選手の長期遠征は鉄ヲタでもやりたくないレベルのハードさだった。 特に一番西の端っこの西鉄ライオンズが最も過酷だった。 西鉄ライオンズは本拠地の福岡市から東京や大阪へ移動するのに、新幹線もなければ高速バスもない 飛行機の安全性が極めて怪しい時代だったから、必然的に列車による移動しかない。 当時の時刻表だと大阪へ約10時間、東京へは約17時間もかかったのだから、 こんな過酷な移動をした後でまともなプレーができる方が不思議だった。 こういった厳しい環境で西鉄は黄金時代を築いたのだから恐れ入る。 昭和30年代特に九州から東京への移動は100%確実に「あさかぜ」や「はやぶさ」での移動だったようだ。 ちなみに関西遠征のときには特急「かもめ」での移動が多かったという 長い道程に耐えうる強靭な体力と、遠征を楽しい旅と思えるようなプラス思考のハートがなければ、 とてもプロ野球選手など務まらないと言える。 ちなみに、現在、福岡に拠点があるソフトバンクは、他球団と比べたら飛行機での移動がケタ違いに多い。 昔と比べたらマシだが、これでも日程はハード。 >>712 だろうな ファイターズは全部飛行機だろ? ホークスは広島行きだけは 新幹線かも まあ札幌延伸になれば仙台は新幹線でも 行けなくはないか 特に飛行機嫌いの人は… >>713 関西も新幹線じゃね? 知らんけど 確か常宿が新神戸のホテルだったかと 名古屋はどうだろうか ちなみに二軍は基本新幹線、三軍ともなるとオールバスらしい >ファイターズは全部飛行機だろ? 札幌からまたは帰る日程ならね でもビジからビジも多いから 巨人軍甲子園遠征時の定宿は 芦屋の竹園旅館だったが、今も あるのかな? >>715 今もあるよ ホテルになってるけど ホテル竹園芦屋 今でも巨人の定宿だよ >>714 近鉄の2軍は名古屋来るのに 近鉄特急使ってたな… >>711 寝台列車でバッチリ休養出来たから西鉄は強かったのかもよ? 小説「張込み」より 「張込み」は、2人の刑事が、東京目黒で起こった二人組の強盗殺人のうち、まだ捕らわれていない殺害犯を追って、列車で九州へ向かうところから、物語が始まる。 東京駅から乗車しなかったのは、顔見知りの新聞記者に見つかるとまずいと思ったからである。当然、汽車は満員である。2人は通路に新聞紙を敷いて、 尻を下ろして一夜を明かした。京都で下岡がやっと座れ、大阪で、柚木も腰をかけることができた。太陽が上る中、2人とも、欲もトクもなく眠りこけた。 岡山や尾道の駅名を夢うつつのうちに聞き、はっきり目が覚めたのは、広島あたりであった。岩国で駅弁を買い、昼食とも夕食ともつかぬ飯を食った。 物語の冒頭、20数行でこれだけのことが語られ、当時の列車事情がよくわかる。 映画化は、昭和33年1月封切り、松竹映画(橋本忍脚本、野村芳太郎監督、大木実、高峰秀子、田村高広出演)で、これはDVDで観られる。 原作冒頭の列車の旅を、映画でもタイトルが出る前、えんえん12分間にわたって描き、それだけでも、当時の鉄道事情がうかがえる貴重な資料である。 松竹映画「張込み」 の長〜い導入部 https://www.youtube.com/watch?v=-7p3OYYH7lA 舞台になった列車は急行「さつま」急行「筑紫」、特急「はやぶさ」の先代にあたる。 1956年11月に「急行筑紫」を改称して誕生した列車である。 東京21:45発、翌々日鹿児島5:46着の気が遠くなるような超長距離列車だった。 「急行筑紫」は、博多行きとして残った。ロケは、「急行筑紫」の1車両を借り切って、行われたという。 http://ameblo.jp/kyuzho/entry-11709963126.html 昭和33年10月、全車冷暖房完備の20系特急「あさかぜ」が東京⇔博多間を走るまで、 旅は楽しいものでも快適なものでなく、ケツが悲鳴をあげる劣悪な環境で苦痛に満ちたものだった。 >>715 NPBでは巨人が最も待遇がよかったからな、今でも巨人の選手の待遇はいいほう 重要な試合の前夜には重要な選手ならばナロネに乗せてくれる可能性が高かったはず 逆に最悪なのは、広島カープ >>712 かつて12球団の多くが関西と関東に集中していたのも、移動事情が影響していたのかもしれません。 飛行機網の発達がなければ、北海道の本拠地なんか考えられなかったことでしょう。 >>718 そんなわけない。 座席の質も今と比べるとよくないし、ベットも狭いので移動だけで選手たちは疲労が溜まる。 だから昭和30年代の西鉄にとって最大の敵は「遠征」による疲労で どれくらい最悪かといえば選手寿命を縮めるくらい酷かった >>723 狭くてもハネなら座席車よりは 格段に楽だとは思うけどね >>723 狭くてもハネなら座席車よりは 格段に楽だとは思うけどね >>722 単に親会社になるような企業が地方になかったってのもあるし 集客の問題もある 当時は今と比べりゃ格段に移動手段は劣悪だけど それは社会水準そのものの低さでもあったから 軍隊帰りがゴロゴロしてた時代だし 今の基準で考えちゃ駄目 >>727 元祖あさかぜのB寝台70cmベッド化は東京発着特急ブルトレでは最後になったけど20系使用末期は評判悪かったんかな? あれはルーメットと食堂車があるために25形置き換えが後回しにされてB寝台利用者が割りを食ったようなものだったが。 >>729 20系使用よりも、大幅値上げした国鉄全体の評判の悪さが先立っていた。 20系はB寝台が狭い分、日中の居心地は14・24系より良かった一面もある。 また20系の寝台幅を嫌うなら、大幅値上げ後は「さくら」「はやぶさ」「富士」でも確保は困難でなかった。 少なくとも「みずほ」は当時でも取りやすかった。 最終的に20系急行「銀河」と東京〜大阪は区間がダブってたけど、 利用者層は「銀河」と競合しなかった。 国鉄財政上の問題と、食堂車・A寝台をどうするか?の課題があった原因が大だったろうね。 >>731 このスレにいるお前もジジイだろw 元祖あさかぜ廃止からもう23年経ってるし >>730 なぜ「みずほ」がとりやすかったのか理解に苦しむ 3段式だから「はやぶさ」より快適性に劣るだろうが、「さくら」と比べて時間帯も悪くないし不思議。 「さくら」より停車駅が少なかったから利用チャンスが少なかったからか? 乗客の多い長崎行きにA寝台がなかったから? まさか車内でのアベック心中があったとか? >>734 九州ブルトレの中で、補完列車的位置づけだったから。 つまり「さくら」「はやぶさ」が取れない場合の、第二希望的列車。 設定時も、他のブルトレが取りづらく増発されたところ。 そんな「みずほ」が、九州新幹線で「のぞみ」同等の位置付けになったのは意外だった。 >>741 >>742 同感。知識だけでリップゲームに終始する鉄ヲタの悪習!! 歴史など無関係に目の前の料理が美味ければ人は食べるし、今月号が面白ければ月刊誌は売れる 登場時期がどうか知らないが昭和50年代の時刻表を見る限り「みずほ」は2段寝台の「はやぶさ」や「富士」との差はわかっても「さくら」との差は確認できない 744の1行目が何を言いたいのか いまひとつわからない。 >>744 「さくら」と「みずほ」は、同じ14系編成で共通運用。設備の差はない。それは1994年「みずほ」廃止まで続いた。 >>739 が触れているように列車のブランド差で、「みずほ」第一希望者は少なかった。 全廃された今となってはブランドで何故そこまで人気に差が出るのか分からんという意味じゃろ 「みずほ」を「さくら2号」にすれば客が分散したわけか 当時は団体利用でみずほを使いやすかったとか、そういう需要にも対応してたっぽい 列車名の影響はいなば→出雲3号の例もある。 あれも、出雲に人気が偏っていたこともあったから。 >>750 EF58牽引でヘッドマークなかったらしいな まあでもヘッドマーク掲出縮小の時代だったから仕方がないよ >>746 みずほの話題が出たけど 臨時あさかぜの14系はみずほの車両がメインだったんだよな 後に他の14系も借りるようになったけど 東京区EF65の寝台特急専用運用が特別だっただけで たとえば浜松区EF58は荷物列車で東奔西走するのが本業で合間にいなば・紀伊を牽いてたようなもんだし 運転士は国労とは別に動労を組織してたりって事情もあったな 昔は他区の乗務員は始業前点呼に出なくで良い、なんて風習が残っていて、飲酒運転もしてたりとか 元祖あさかぜ、20系下り最終列車から40年! そのA個室に、RJ編集長だった故竹島氏が乗っていた。 14系や24系の臨時あさかぜの編成は結構短かったな あさかぜラストランから今日で丸13年。 最終東京行きを下関駅、新下関駅、新山口駅で見送ったっけ。 そして翌3月1日は岩国駅から光駅まで立席特急券でさよなら乗車。 しかし月日が経つのは早いな・・・ >>759 >最終東京行きを下関駅、新下関駅、新山口駅で見送ったっけ すまん 新下関駅での見送りってどうやって下関駅から新下関駅まであさかぜより速く移動したの? 下関駅であさかぜの発車を見送ったあと次の電車で新下関駅に移動、新幹線で新山口駅であさかぜに追いついてまた見送りってこと? >>760 ゴメン、書き方が悪かった。下関ではホーム入線まで見届け在来線で新下関に移動。 新下関で見送りした後、新幹線で新山口に移動して新山口でも見送ったよ。 >>739 どう見てもJR九州が山陽新幹線乗り入れの九州新幹線の最優等列車をはやぶさにするつもりだったんだろうが JR東日本に盗られちゃったからね だから慌ててさくらとみずほを確保 富士あぶれちゃったね。 新幹線に漢字はあわないのかな。 栄華を誇ったのは戦前の話だしな。 「富士」はもともと四国相手の特急、連絡船を挟んで接続するのは特急ではなくローカル急行 表舞台に出るような列車ではないよ >>764 こんな過疎スレで釣りとか…。 まさか日本初の特別急行だった戦前の富士を知らぬはずもなかろうし。 764の知見はさておくとして 山・川・旧国名等は本来急行・準急の愛称、 151系特急でも対九州寝台特急でも富士は亜流だな。 鹿児島本線、長崎本線がAランク 日豊本線、筑豊本線はBランクてとこか >>766 特急の愛称の第一は「日本を象徴するもの」だろ >>763 富士だと富士山近辺を通過する列車に限定されるんじゃない? リニアが使うんじゃないかと踏んでるんだけど 「あさかぜ82号」や「玄海」についても、宜しくお願いします。 >>766 あのね、 特急は特別急行列車の略称なの 現在と違い、急行が存在するのが前提だったんですよ。 富士命名時は急行に名称は無かったので、格上であるがゆえ名前がついた 5歳くらいのとき、東京―西鹿児島を「あさかぜ」と同じ20系「はやぶさ」で往復した 覚えはある。 >>776 特急はやぶさ、前身は「急行筑紫」「急行さつま」という「2晩夜行」だった。 寝台特急「はやぶさ」 、前身は「急行筑紫」「急行さつま」という「2晩夜行」だった。 しかも東京ー鹿児島間には「きりしま」という急行列車があって 急行で愛称を名乗る最初の列車としても知られていました 寝台や2等座席もありますが、今もあるリクライニングしない膝がぶつかるような、 座席でかしこまって、2昼夜汽車に揺られる旅も可能だったのです。食堂車も付いているところが泣かせます。 当時は九州に用事があったら、他に選択肢が少ないので2夜行でも仕方が無かったし、 それなりに乗客がいたと思います。 しかしそんな旅では体に悪すぎるということで、 全車寝台・冷房つきの寝台特急になったのでしょう。 こんな列車が設定された理由としては 「鹿児島からの奄美・沖縄航路連絡を担っている列車」 1954年、毎月3の倍数日の午前11時に、那覇と鹿児島双方の港から、 定員200人クラスの貨客船「沖縄丸」「那覇丸」が出港していました。 しかも当時は飛行機の信頼性がゼロでいつ落ちてもおかしくない乗り物だった 飛行機が本土と沖縄を結ぶ主要な交通機関になるまで那覇港から東京・鹿児島へは海路が主力だった ttp://www.tt-museum.jp/cold_0185_rk1968.html だがしかし、奄美諸島は1945から1953年まで、沖縄県は1945年から1972年まではアメリカが統治する「飛び地」だった。 >>778 >急行で愛称を名乗る最初の列車としても知られていました 銀河 飛行機の信頼性ゼロ? 高かったから使われなかっただけだよ。 あさかぜ 喪失 さくら 新幹線復活 はやぶさ 新幹線流出 富士 見込み薄 みずほ 新幹線復活 >>781 大昔の飛行機は高額なだけではなく、今の飛行機より遥かに霧や悪天候に弱かったし、1年に1〜2回は墜落事故をやらかしてたぞ いわば「空飛ぶロシアンルーレット」と同じレベル >>784 その大昔っていつの話?成田開港前? すでにその頃でも国内定期航空会社輸送実績は年間2800万人を超えてたんだが。 信頼性ゼロの乗り物にそんなに人が乗るのかい? >>786 「日本の航空事故 1950年代」「日本の航空事故 1960年代」ググってみな、 この時代の飛行機は墜落死亡事故だらけだから 事故が多い理由は簡単。技術的に未熟だから 究極の航空機事故は、33年前の御巣鷹山事故だろうな。 当時長距離は既に飛行機の守備範囲だったが、あの事故をきっかけに新幹線・寝台特急が持ち直した。 特に犠牲者になった坂本九の奥さんは、日本各地移動で飛行機に乗らないよう心掛けてたようだ。 今はどうか知らんが。 持ち直したのに何で次の年に早速あかつきが減便されてるんですかね 飛行機と列車は持ちつ持たれつ 日航機事故の後は新幹線が繁盛 阪神大震災の時は飛行機嫌いも飛行機へ流れた ま、夜行は蚊帳の外だな >>792 大阪〜福岡の高速バス「ムーンライト」が前年から走ってた。 関西〜九州は当時でも寝台特急は飛行機より高かったし、フェリーの選択肢もあった。 >>791 の持ち直した寝台特急は、東京〜九州だろう。こちらは減便がなかった。 >>791 デタラメ書くなよw坂本夫妻はもともとANAユーザーだ、それがさらに顕著になっただけ そんなこと書くから鉄ヲタは排他的って言われるんだ サンライズをベースにしたのをやってもらいたい 形式は585あたりでw 基本的に昔は飛行機は運賃が高かった 国鉄は安かったから寝台車が繁盛してた それが国鉄の値上げで飛行機に人が流れた その後、格安航空の参入で飛行機の運賃が下がった そして、のぞみの投入で飛行機嫌いの人も新幹線の方に流れてトドメを刺された 懐かし板に出入りするようなおっさんなら なるほど、につづいてザ・ワールドだろうが! >>794 実際減便が落ち着いたのも事実 関西発着の九州ブルトレも86年の明星あかつき減便以降 00年のあかつき彗星併合化まで減便がなかった 東京発着の九州ブルトレよりも関西ブルトレは乗車率は悪くなかった印象 >>801 新幹線博多開業前や、翌年の国鉄大幅値上げ前まではそうだったかもしれない。 国鉄が高くなってコスパが悪くなった。 特急・寝台料金部分が、東京からでも関西からでも差異はなかったので、 国鉄大幅値上げ後は航空機より高くなってしまった。 >>804 関西と聞いて叩かないと気が済まないんだなぁ お国自慢でどうぞ。 メモメモ 点と線 東京駅シーン 10分あたり スロ54 5号車 15番線 ロケは昭和32年5月から9月の間 新大阪発着だったあかつきが京都まで延伸したように、あかつきが大宮まで延伸してたらどうなってたかな それではここで一曲 【教養学部】福岡人は娘を福岡女子大学入れるくらいなら埼玉大学入れたほうがいい【博多美人】 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/joke/1569506288/ 主題歌 一、 陽は昇り 蒸し暑い 福岡で 知性ありそうな君を見た 夏服 制服 美しく しゃべりは かわいい博多弁 AhAhAh 埼大 最強 最高 令和元年70周年 君も飛び込もう 教養学部 埼大 WowWowWow最強 WowWowWow最高 さあ行こう! 二、 空青く 息白い 受験シーズン 浦和の街で君を見た 誰もが 入れる わけじゃない けれども せめて君だけは… AhAhAh 埼大 最強 最高 令和元年70周年 君も飛び出そう 博多から 埼大 WowWowWow最強 WowWowWow最高 さあ行こう! AhAhAh 埼大 最強 最高 令和元年70周年 君も飛び出そう 博多から 埼大 WowWowWow最強 WowWowWow最高 さあ行こう! 埼大 WowWowWow最強 WowWowWow最高 WowWowWow最強 WowWowWow最高 さあ行こう! あさかぜは 福岡から早慶等首都圏の大学へ進学した方も重宝してた事だろう 【福岡女子大】どうしたら慶應義塾大学に福岡出身の女の子が増えるのか【狙い撃て】 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/student/1505182285/ 主題歌 ※慶應!(売り込めよ!) 慶應!(君の番!) 慶應!博多へ…※ 慶應はそこまで遅れてる 慶應は女性を軽く見る このまま行けば早稲田とは やがて差が開く 学内を穢す敵は その手で叩き伏せろ それが 慶應の使命 それが 慶應の課題 地元福岡女子大 目指すコとその親に 必ず 必ず 売り込めよ慶應 慶應が呼ぶ声響けば 慶應に今すぐ答えて 夜行バスとか飛行機で すぐに飛んで来て 美人が多い街で 魅力アピール続く そんな 慶應を見たか そんな 慶應が好きか 地元福岡女子大 目指すコとその親に 必ず 必ず 売り込めよ慶應 (※くり返し) こんな写真があった・・ http:// blog-imgs-61.fc2.com/a/l/l/allxa/kaizuka-blue15.jpg 子供の頃、上り「あさかぜ」のこの小窓から、赤沢トンネルの窓の音を聴いていた。 もしも、あさかぜが千葉発着で横須賀線経由だったらと思うと… 【国際教養学部】福岡人は娘を福岡女子大学入れるくらいなら千葉大学入れたほうがいい【博多美人】 http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/joke/1582467619/ 主題歌 一、 博多女 博多女 千葉県まで飛んできゃいいのに 千葉市民は博多から 届けられる出逢い待ってる 始めたばかりの キャンパスライフ 東京が近い 千葉の街 近付いてみたい 福岡育ち なにげに多いよ 綺麗な人が 博多女 博多女 千葉県まで飛んできゃいいのに しゃべりは しゃべりは かわいい博多弁 二、 博多女 博多女 千葉県まで飛んできゃいいのに 地元出るの怖がって 生きてるのはもうつまらない 国際教養 キャンパスライフ 東京近くの 千葉に住む ディズニーランドと 成田の間 なにげに多いよ 優しい男 博多女 博多女 千葉県まで飛んできゃいいのに しゃべりは しゃべりは かわいい博多弁 しゃべりは しゃべりは かわいい博多弁 かわいい博多弁 西村京太郎のトラベルミステリーの第一弾は、 「あさかぜ」が舞台の「寝台特急殺人事件」。 「あさかぜ」を選んだ理由は適当と思われるけど、 この作品は西村京太郎自選のベスト5に入っている。 ttps://hcj.jp/EF66/home.html アシェットより9/9(水)創刊の模様。取り敢えず創刊号だけでも買っておくか… 「朝風とともに目的地に着くんだ!」ということで、夜行列車の愛称として画期的な命名だったんだって。 (当時国鉄常務理事だった故・石井昭正氏が命名者) 博多発18時23分の「あさかぜ82号」に乗り込んだ。 「あさかぜ82号」が出発してから、約1時間後の19時25分に「みずほ」が、そして、19時43分には、「さくら」が博多駅を出ます。 あさかぜ82号とみずほが共存してるのって1986年の年末から1990年の年始までって物凄く短い期間なのな >>808 あれ京都まで延伸ではなく、早岐と宮原の客車区が喧嘩しちゃって、 宮原が「早岐の客車なんて面倒看るか!」となってしまい『あかつき』編成は野洲まで回送。そこで整備って事になったのが原因。 なので営業部は「ほならついでと言っちゃなんやが京都まで営業しよか」ってなったと。 いまだに山陽新幹線みずほ&さくらですら京都延伸がないのに あかつきだけがそんな特別待遇なのはそういう事情があったからか 山陽特急はそもそも京都始発だからなあ 1953年3月 京都-博多間特急かもめ運転開始 その当時の急行も 天草 京都-熊本 玄海 京都-長崎(大村線経由) だしね 喧嘩とか妄想だろうしな。実際は他区の客車を留置する場所がないからでしょ >>834 新大阪発着列車が宮原区に絡むなんてのはホント戯言だわさ >>832 新幹線は新大阪より向こうは会社違う 東海は16両編成以外は入れさせてくれない レチが九州じゃん。 当時リアルで知ってるとはいえ、今あらためて見たら信じられん >>839 はやぶさの事だろう。はやぶさは国鉄時代からの伝統で博多車掌区だった。 福岡県警の父が警察庁へ出張するときはあさかぜのB寝台に乗っていたなあ。 一度博多駅へ見送りに行った。 昭和48年だったと思う。 平成元年の博多あさかぜ。満席だったとは隔世の感が! この当時は既に、博多〜下関でEF81が通しで牽引だった? https://youtu.be/sBmpmZS-5AI あさかぜ この列車は二段の寝台です、お好きな時間にご自由にお休みください さくら ただ今より、寝台セットの作業員が、寝台のセットにお邪魔します ご面倒でも、通路でお待ちください うちにある音より 20系あさかぜで赤沢トンネル・・50年以上前か 58の覚えはないが、65-500が引っ張ってたな >>844 臨時が出されてた時代だから満席状態なのは当然でしょ。 当時俺は臨時の20系のほうに乗ったけどね 編成表の記録がワープロのフロッピーに入ってて見れないけど 機関車は関門間だけだったと思うが。 1986年にEF81の基本番台から改造された400番台がある程度投入された時から、下りは一番最後・上りは一番最初の関門トンネル通過ブルトレとなる博多あさかぜ(1・4)で門司付け替えなし運用が始まった wikiではED75(300番台)牽引があったとあるが、それはEF81 400番台による門司付け替えなし運用が始まる前の話 20系臨時あさかぜが下関で3両増解結するようになったのはなぜだろうか? >>847 しかしそんな時代なのに、その数年後に食堂車が無くなるまで衰退したのは何だろう? 当時日本食堂勤務の知合いが、食堂車廃止前に既に陰りがあった雰囲気だったが。 >>849 帰省ラッシュの時はどんな特急でもだいたい混むでしょ >>850 食堂車廃止後の九州ブルトレは、そうでもなくなった。 確か1990年1月7日? あたりに博多から東京まであさかぜに乗ったけどガラガラだった記憶。。 ビデオHi 8で発車シーンと下関の機関車 交換まで撮ったけど、テープはどこに行ったやら >>852 1月7日だと繁忙期が終わってないか? 当時はまだ成人の日が1月15日だったし。 1990年1月7日だったとして この日は日曜日 この日まで正月休みという職場も結構あったかもしれないが 正月休み最終日に乗車する人は少なくて当たり前かな もっとも?付いてるから本当に7日だったか分からないが >>854 東京到着が9時30分だったので、月曜日にその到着時間は、会社勤めにはきついだろうな。 静岡地区ならいい時間帯だっただろうが、利用パイが恐らく少ない。 それ言い出したら現役のサンライズ関東圏到着時間帯も同じくらいなんだが そりゃ夜行列車を会社勤めに都合のいい時間帯に東京着にすると それ以外の大多数の会社勤めに大迷惑になるからな 会社に行きたい奴は熱海あたりで降ろして 羽沢か高島あたりでバカ停させても良かったのかもしれんが >>857 それなら浜松町付近の元大汐線にブルトレ&カートレイン兼用ホームを設置すればいいだけ といいたいところだが、朝ラッシュ時長距離列車運転禁止区間に差し掛かるから貨物線経由となり、横浜駅停車が不可能 さらに夕方発車の送りこみが下り本線逆走とか大汐線分岐−品川駅間の東海道本線下り本線から東側にて次発回送が線路をふさいで品川機関区への出入り不可能などなど >>858 9時半と7時じゃ別次元だよな 何でこういうこと書く奴が湧くんだろ >>860 九州ブルトレ全盛期に乗れなかった事に対してのひがみかもなw 20系全盛期、カニとナハネフが横並びで写真に納まるって事は絶対になかった? 大ミハ辺りでは九州方面の編成と『日本海』『つるぎ』の編成が入出庫の都合で逆向きで入線して・・・とかありそうだけど・・・。 >>862 新大阪発着の九州方面行き20系は向日町入出区で宮原へは入らないよ >>864 そういう場合、人へ「僻みだ」と言うようなヤツ自身が僻んでる場合が大半 >>864 出雲・銀河からさくらまで、東京駅を6時台から11時台まで到着列車があった時代を 知らないのだろうw >>866 知らないのかもしれないが 何で僻みになるのか意味不明だ 852 だけど 博多発が7日だったかはあまり自信がない。8,9日かもしれん。ただしそこまでいたら居候先のおばさんにいい加減いやがら れたかもなあって思う。年末からいたからね。 ビデオが出てくれば日付が入ってるんだが。 ちなみに下関出たら、上段寝台に潜り込んで そのままぐっすり眠って新橋出てから降りる 準備開始。東京駅降りたら早速そのまま まっすぐ秋葉原ラジオセンター地下一階の タンゴトランスに行って、オーディオ用の トロイダルトランスをおばさんから貰った小遣いで買って帰った。ボンクラ大学生だった頃ののお話 >>868 ガラガラなら下段を好む者が多かったけど、上段の方が好きだった? 下段の方が物理的には確かにいいんだけど、 人が来るんじゃないかとか、朝になったら 寝台空けなきゃとか気を使う必要ないから 上段の方がいいかも。 でも小中高何回も乗って、その度に同じボックスの人とずっとおしゃべりして過ごして来たから、果たして自分は人間嫌いにいつの間にか なって劣化したのかと思う事はあるよね >>870 確かに上段は自分だけのプライベート空間で、気兼ねしないのはあるね。それに荷物置き場に手が届くのは良かった。 梯子を昇り降りするのと、車窓を楽しみにくいデメリットはあったが、車窓なら通路の折り畳み椅子に座って眺めることはできたので。 >>872 583系パンタ下以外、進んで中段を選ぶ奴は聞かなかった。 もっとも中段のカテゴリーが、いち早くレアになったが。 >>874 ・梯子を昇り下りしないで済む。 ・583系は幅が広い >>876 開放A寝台は上下で幅が同じなのに、そのくらいの差があったけどな。 あさかぜに限らず関西民にとっては東京発ブルトレは憧れだったわ 当時の大阪発ブルトレはヘッドマークなしのEF58牽引か583系だったからEF65ヘッドマーク付きの神々しかったこと よく深夜に写真とりにいった >>874 >>876-877 重要な項目を忘れとるぞ 側窓独占 >>878 山陽末端沿線民にとっては関西ブルトレは見ることも乗ることも困難だった 通過する時間帯は非有効時間帯もしくはその前後に集中していたから写真撮影は困難だった 583系そのものは「金星」で撮影はできたけど、「彗星」「明星」「なは」は実質不可能だった 東京発のブルトレは夏至に近い時期ならなんとか撮影はできたが、4倍増感でないと厳しかった 「西海・雲仙」「阿蘇・くにさき」が廃止されなければ駅に入場しての撮影も出来ただろうけど MonoMaster(モノマスター) 2022年 11月号 11月号の特別付録は、鉄道開業150周年記念!!!!ブルートレイングッズ豪華3点セットが登場!!!!! ★懐かしいブルートレインそっくりポーチ ★懐かしヘッドマークのステッカーシール8点 ★ステッカーも飾れる!トレイン顔キーホルダー ポーチには切符がそのまま入るメッシュポケットや、列車旅をともにしたいアイテムを収納できる! ヘッドマークのステッカーは以下8路線 ★あさかぜ ★さくら ★はやぶさ ★みずほ ★富士 ★あかつき ★彗星 ★なは monomax.jp/archives/136108/ tkj.jp/monomaster/202211/ トワイライトみたいな車輌の博多あさかぜが今あれば面白い 16時間掛けて東京ー博多を走行 一夜限りの復活だったらどのぐらい客を集められるだろうか クルーズトレインであれだでの値段付けてくるから 片道一人100万円くらい? 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read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる