【元祖】寝台特急あさかぜ【ブルートレイン】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
なぜか「あさかぜ」のスレがないので立てました。
「あさかぜ」と言っても青函航路のフェリーでなく、ブルートレインのあさかぜです。 >>687
二等寝台に変更じゃ無いのかw
昔名古屋から関東に出張で
新幹線代は出るので
大垣鈍行で前日に出て
差額GETはよくやった 昔はちょこまかせる手段が色々あったんだな
ウラヤマシス >>691
前日に乗り込み現地宿泊できて費用が会社持ちなら
風呂もテレビもなく食料さえ手に入らないこともある寝台列車を選択することなどあり得ないだろ >>692
東京から仙台→札幌の経路で
飛行機可能(仙台→札幌)だった。
通しで東京→札幌の乗車券を購入
仙台から新青森まで新幹線で行き、はまなすを利用していた。
650円の急行券とドリームカー300円はお得だった。 >>692
航空機や新幹線の影響もあるけど地方都市の宿泊施設が整備されたことも寝台列車の衰退に大きく影響しているな。新幹線博多開業前は博多辺りでもホテルの確保は結構大変だった、今の乱立振りとは隔世の感だね。 乱立しててもイベントの時に宿の供給不足になる博多地区 >>694
時刻表の巻末にビジネスホテルのほとんどは掲載がなかったから余計そう思うのかもな、俺はいつもビジネスホテル一覧の全国版ガイドブックを鞄にいれていた 時刻表よりもビジネスホテルガイドブックの方が売り上げ急減してるよなあ >>696
大型時刻表の巻末に2ページ程あったが、それでは物足りなかった?
まあホテル広告の要素が大きかったけどw
>>697
ホテルもサイトから予約する方が安くなったり、事前に空室状況が把握できるからなw >>695
だから昔はホテルの確保がもっと大変だったんだ。 >>698
満員になるときは時刻表に乗ってるホテルは軒並みダメ、それと所在地がよくわからないのが不便すぎた
初めての町ならとくに、時刻表、地図、ガイドブックなどでしっかり情報をつかんでおかないと混雑時はえらい目にあう >>701
昔は交番に行くと、親切に宿に電話を掛けて聞いてくれたりした。
今では交番に人が居ないからなぁ 地方の主要駅なんかでは、駅前は賑やかだったがそれも19時頃まで、何か食い物をと思っても駅弁、市場、駄菓子屋、パン屋全て閉店でコンビニないほか弁ないの世界だった
銭湯は大概見つかったな 宿がなくても駅の待合室が開いていたので助かった。
冬場の水上や敦賀、富山でもお世話になった。
「本日は接続列車がございませんので明朝まで
駅の待合室でお待ちください」 昔の言葉
パークホテル → 公園で野宿
ステーションホテル → 待合室で野宿 乗り鉄だと食事に困ったな。
駅弁は高い、駅そばも夜間は閉店、
キオスクで買えるのは三色食パンや
5つ?入りのザラメをまぶしたぱさぱさの
ドーナツ、それもなければ100円のカルビー
ポテトチップス。 臨時あさかぜは20系・14系14形・14系15形・24系24形・24系25形どれも使用経験があるけど
その点はあまり触れられていない それはあかつきや彗星も同じ。
臨時あさかぜといえば旧客で編成された熊本行き。 昭和30年代の寝台特急は、プロ野球。特に西鉄ライオンズの関係者が「常連」だった模様。 用途は長期遠征用。
野球選手という職業を選んでしまったら、シーズン中はずっと超遠距離通勤をすることを強いられる。
今でこそ、選手は新幹線や飛行機が使えるが、かつてのプロ野球選手の長期遠征は鉄ヲタでもやりたくないレベルのハードさだった。
特に一番西の端っこの西鉄ライオンズが最も過酷だった。
西鉄ライオンズは本拠地の福岡市から東京や大阪へ移動するのに、新幹線もなければ高速バスもない
飛行機の安全性が極めて怪しい時代だったから、必然的に列車による移動しかない。
当時の時刻表だと大阪へ約10時間、東京へは約17時間もかかったのだから、
こんな過酷な移動をした後でまともなプレーができる方が不思議だった。
こういった厳しい環境で西鉄は黄金時代を築いたのだから恐れ入る。
昭和30年代特に九州から東京への移動は100%確実に「あさかぜ」や「はやぶさ」での移動だったようだ。
ちなみに関西遠征のときには特急「かもめ」での移動が多かったという
長い道程に耐えうる強靭な体力と、遠征を楽しい旅と思えるようなプラス思考のハートがなければ、
とてもプロ野球選手など務まらないと言える。
ちなみに、現在、福岡に拠点があるソフトバンクは、他球団と比べたら飛行機での移動がケタ違いに多い。
昔と比べたらマシだが、これでも日程はハード。 >>712
だろうな
ファイターズは全部飛行機だろ?
ホークスは広島行きだけは
新幹線かも
まあ札幌延伸になれば仙台は新幹線でも
行けなくはないか
特に飛行機嫌いの人は… >>713
関西も新幹線じゃね?
知らんけど
確か常宿が新神戸のホテルだったかと
名古屋はどうだろうか
ちなみに二軍は基本新幹線、三軍ともなるとオールバスらしい
>ファイターズは全部飛行機だろ?
札幌からまたは帰る日程ならね
でもビジからビジも多いから 巨人軍甲子園遠征時の定宿は
芦屋の竹園旅館だったが、今も
あるのかな? >>715
今もあるよ
ホテルになってるけど
ホテル竹園芦屋
今でも巨人の定宿だよ >>714近鉄の2軍は名古屋来るのに
近鉄特急使ってたな… >>711
寝台列車でバッチリ休養出来たから西鉄は強かったのかもよ? 小説「張込み」より
「張込み」は、2人の刑事が、東京目黒で起こった二人組の強盗殺人のうち、まだ捕らわれていない殺害犯を追って、列車で九州へ向かうところから、物語が始まる。
東京駅から乗車しなかったのは、顔見知りの新聞記者に見つかるとまずいと思ったからである。当然、汽車は満員である。2人は通路に新聞紙を敷いて、
尻を下ろして一夜を明かした。京都で下岡がやっと座れ、大阪で、柚木も腰をかけることができた。太陽が上る中、2人とも、欲もトクもなく眠りこけた。
岡山や尾道の駅名を夢うつつのうちに聞き、はっきり目が覚めたのは、広島あたりであった。岩国で駅弁を買い、昼食とも夕食ともつかぬ飯を食った。
物語の冒頭、20数行でこれだけのことが語られ、当時の列車事情がよくわかる。
映画化は、昭和33年1月封切り、松竹映画(橋本忍脚本、野村芳太郎監督、大木実、高峰秀子、田村高広出演)で、これはDVDで観られる。
原作冒頭の列車の旅を、映画でもタイトルが出る前、えんえん12分間にわたって描き、それだけでも、当時の鉄道事情がうかがえる貴重な資料である。
松竹映画「張込み」 の長〜い導入部
https://www.youtube.com/watch?v=-7p3OYYH7lA
舞台になった列車は急行「さつま」急行「筑紫」、特急「はやぶさ」の先代にあたる。
1956年11月に「急行筑紫」を改称して誕生した列車である。
東京21:45発、翌々日鹿児島5:46着の気が遠くなるような超長距離列車だった。
「急行筑紫」は、博多行きとして残った。ロケは、「急行筑紫」の1車両を借り切って、行われたという。
http://ameblo.jp/kyuzho/entry-11709963126.html
昭和33年10月、全車冷暖房完備の20系特急「あさかぜ」が東京⇔博多間を走るまで、
旅は楽しいものでも快適なものでなく、ケツが悲鳴をあげる劣悪な環境で苦痛に満ちたものだった。 >>715
NPBでは巨人が最も待遇がよかったからな、今でも巨人の選手の待遇はいいほう
重要な試合の前夜には重要な選手ならばナロネに乗せてくれる可能性が高かったはず
逆に最悪なのは、広島カープ >>712
かつて12球団の多くが関西と関東に集中していたのも、移動事情が影響していたのかもしれません。
飛行機網の発達がなければ、北海道の本拠地なんか考えられなかったことでしょう。 >>718
そんなわけない。
座席の質も今と比べるとよくないし、ベットも狭いので移動だけで選手たちは疲労が溜まる。
だから昭和30年代の西鉄にとって最大の敵は「遠征」による疲労で
どれくらい最悪かといえば選手寿命を縮めるくらい酷かった >>723
狭くてもハネなら座席車よりは
格段に楽だとは思うけどね >>723
狭くてもハネなら座席車よりは
格段に楽だとは思うけどね >>722
単に親会社になるような企業が地方になかったってのもあるし
集客の問題もある
当時は今と比べりゃ格段に移動手段は劣悪だけど
それは社会水準そのものの低さでもあったから
軍隊帰りがゴロゴロしてた時代だし
今の基準で考えちゃ駄目 >>727
元祖あさかぜのB寝台70cmベッド化は東京発着特急ブルトレでは最後になったけど20系使用末期は評判悪かったんかな?
あれはルーメットと食堂車があるために25形置き換えが後回しにされてB寝台利用者が割りを食ったようなものだったが。 >>729
20系使用よりも、大幅値上げした国鉄全体の評判の悪さが先立っていた。
20系はB寝台が狭い分、日中の居心地は14・24系より良かった一面もある。
また20系の寝台幅を嫌うなら、大幅値上げ後は「さくら」「はやぶさ」「富士」でも確保は困難でなかった。
少なくとも「みずほ」は当時でも取りやすかった。
最終的に20系急行「銀河」と東京〜大阪は区間がダブってたけど、
利用者層は「銀河」と競合しなかった。
国鉄財政上の問題と、食堂車・A寝台をどうするか?の課題があった原因が大だったろうね。 >>731
このスレにいるお前もジジイだろw
元祖あさかぜ廃止からもう23年経ってるし >>730
なぜ「みずほ」がとりやすかったのか理解に苦しむ
3段式だから「はやぶさ」より快適性に劣るだろうが、「さくら」と比べて時間帯も悪くないし不思議。
「さくら」より停車駅が少なかったから利用チャンスが少なかったからか? 乗客の多い長崎行きにA寝台がなかったから?
まさか車内でのアベック心中があったとか? >>734
九州ブルトレの中で、補完列車的位置づけだったから。
つまり「さくら」「はやぶさ」が取れない場合の、第二希望的列車。
設定時も、他のブルトレが取りづらく増発されたところ。
そんな「みずほ」が、九州新幹線で「のぞみ」同等の位置付けになったのは意外だった。 >>741>>742
同感。知識だけでリップゲームに終始する鉄ヲタの悪習!! 歴史など無関係に目の前の料理が美味ければ人は食べるし、今月号が面白ければ月刊誌は売れる
登場時期がどうか知らないが昭和50年代の時刻表を見る限り「みずほ」は2段寝台の「はやぶさ」や「富士」との差はわかっても「さくら」との差は確認できない 744の1行目が何を言いたいのか
いまひとつわからない。 >>744
「さくら」と「みずほ」は、同じ14系編成で共通運用。設備の差はない。それは1994年「みずほ」廃止まで続いた。
>>739が触れているように列車のブランド差で、「みずほ」第一希望者は少なかった。 全廃された今となってはブランドで何故そこまで人気に差が出るのか分からんという意味じゃろ 「みずほ」を「さくら2号」にすれば客が分散したわけか 当時は団体利用でみずほを使いやすかったとか、そういう需要にも対応してたっぽい 列車名の影響はいなば→出雲3号の例もある。
あれも、出雲に人気が偏っていたこともあったから。 >>750
EF58牽引でヘッドマークなかったらしいな まあでもヘッドマーク掲出縮小の時代だったから仕方がないよ >>746
みずほの話題が出たけど
臨時あさかぜの14系はみずほの車両がメインだったんだよな
後に他の14系も借りるようになったけど 東京区EF65の寝台特急専用運用が特別だっただけで
たとえば浜松区EF58は荷物列車で東奔西走するのが本業で合間にいなば・紀伊を牽いてたようなもんだし 運転士は国労とは別に動労を組織してたりって事情もあったな
昔は他区の乗務員は始業前点呼に出なくで良い、なんて風習が残っていて、飲酒運転もしてたりとか 元祖あさかぜ、20系下り最終列車から40年!
そのA個室に、RJ編集長だった故竹島氏が乗っていた。 14系や24系の臨時あさかぜの編成は結構短かったな あさかぜラストランから今日で丸13年。
最終東京行きを下関駅、新下関駅、新山口駅で見送ったっけ。
そして翌3月1日は岩国駅から光駅まで立席特急券でさよなら乗車。
しかし月日が経つのは早いな・・・ >>759
>最終東京行きを下関駅、新下関駅、新山口駅で見送ったっけ
すまん
新下関駅での見送りってどうやって下関駅から新下関駅まであさかぜより速く移動したの?
下関駅であさかぜの発車を見送ったあと次の電車で新下関駅に移動、新幹線で新山口駅であさかぜに追いついてまた見送りってこと? >>760
ゴメン、書き方が悪かった。下関ではホーム入線まで見届け在来線で新下関に移動。
新下関で見送りした後、新幹線で新山口に移動して新山口でも見送ったよ。 >>739
どう見てもJR九州が山陽新幹線乗り入れの九州新幹線の最優等列車をはやぶさにするつもりだったんだろうが
JR東日本に盗られちゃったからね
だから慌ててさくらとみずほを確保 富士あぶれちゃったね。
新幹線に漢字はあわないのかな。
栄華を誇ったのは戦前の話だしな。 「富士」はもともと四国相手の特急、連絡船を挟んで接続するのは特急ではなくローカル急行
表舞台に出るような列車ではないよ >>764
こんな過疎スレで釣りとか…。
まさか日本初の特別急行だった戦前の富士を知らぬはずもなかろうし。 764の知見はさておくとして
山・川・旧国名等は本来急行・準急の愛称、
151系特急でも対九州寝台特急でも富士は亜流だな。 鹿児島本線、長崎本線がAランク
日豊本線、筑豊本線はBランクてとこか >>766
特急の愛称の第一は「日本を象徴するもの」だろ >>763
富士だと富士山近辺を通過する列車に限定されるんじゃない?
リニアが使うんじゃないかと踏んでるんだけど 「あさかぜ82号」や「玄海」についても、宜しくお願いします。 >>766
あのね、
特急は特別急行列車の略称なの
現在と違い、急行が存在するのが前提だったんですよ。
富士命名時は急行に名称は無かったので、格上であるがゆえ名前がついた 5歳くらいのとき、東京―西鹿児島を「あさかぜ」と同じ20系「はやぶさ」で往復した
覚えはある。 >>776
特急はやぶさ、前身は「急行筑紫」「急行さつま」という「2晩夜行」だった。 寝台特急「はやぶさ」 、前身は「急行筑紫」「急行さつま」という「2晩夜行」だった。
しかも東京ー鹿児島間には「きりしま」という急行列車があって
急行で愛称を名乗る最初の列車としても知られていました
寝台や2等座席もありますが、今もあるリクライニングしない膝がぶつかるような、
座席でかしこまって、2昼夜汽車に揺られる旅も可能だったのです。食堂車も付いているところが泣かせます。
当時は九州に用事があったら、他に選択肢が少ないので2夜行でも仕方が無かったし、
それなりに乗客がいたと思います。
しかしそんな旅では体に悪すぎるということで、
全車寝台・冷房つきの寝台特急になったのでしょう。
こんな列車が設定された理由としては
「鹿児島からの奄美・沖縄航路連絡を担っている列車」
1954年、毎月3の倍数日の午前11時に、那覇と鹿児島双方の港から、
定員200人クラスの貨客船「沖縄丸」「那覇丸」が出港していました。
しかも当時は飛行機の信頼性がゼロでいつ落ちてもおかしくない乗り物だった
飛行機が本土と沖縄を結ぶ主要な交通機関になるまで那覇港から東京・鹿児島へは海路が主力だった
ttp://www.tt-museum.jp/cold_0185_rk1968.html
だがしかし、奄美諸島は1945から1953年まで、沖縄県は1945年から1972年まではアメリカが統治する「飛び地」だった。 >>778
>急行で愛称を名乗る最初の列車としても知られていました
銀河 飛行機の信頼性ゼロ?
高かったから使われなかっただけだよ。 あさかぜ 喪失
さくら 新幹線復活
はやぶさ 新幹線流出
富士 見込み薄
みずほ 新幹線復活 >>781
大昔の飛行機は高額なだけではなく、今の飛行機より遥かに霧や悪天候に弱かったし、1年に1〜2回は墜落事故をやらかしてたぞ
いわば「空飛ぶロシアンルーレット」と同じレベル >>784
その大昔っていつの話?成田開港前?
すでにその頃でも国内定期航空会社輸送実績は年間2800万人を超えてたんだが。
信頼性ゼロの乗り物にそんなに人が乗るのかい? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています