【元祖】寝台特急あさかぜ【ブルートレイン】
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なぜか「あさかぜ」のスレがないので立てました。
「あさかぜ」と言っても青函航路のフェリーでなく、ブルートレインのあさかぜです。 かいこ棚と言われた3段式の奴隷船より、
駅前ルートインの安いビジネスホテルの方が快適だからね
寝台車は廃れるんです >>69
物が有りすぎて何が贅沢かすら解らない世代に育ってるね。 >>69はヒドイな。
現代ゆとり脳より、さらに以下。
同時代目線のごちゃまぜ基準で比較するとか・・ >>70-71
20系も知ってる世代だけど
>>69の言うことは間違ってないと思うけどな
>>67で「寝台幅52cmの3段式で満席なら漸く採算取れるレベルだった」と言ってるだろ?
それ前提に考えたら「かいこ棚と言われた3段式の奴隷船より、駅前ルートインの安いビジネスホテルの方が快適」
というのは、間違った指摘じゃないよな
現在の設備じゃ採算にのらんのだから 「時代」までも超越して同列比較しているのは、やっぱりちがうと思う。 >>73
時代じゃなくてさ
実際今でも3段ハネ定員いっぱいくらいの乗車がないとペイしないのは変わらないんじゃないの? 2段寝台にした時点で料金を採算あうレベルまで引き上げるべきだった
その高い料金での需要がないなら2段寝台にしたのが失敗 >>75
東京口に二段寝台が登場して間もなく昭和51年秋の運賃.料金大幅値上げそれまで1600円だった二段寝台の料金が4000円と倍以上になった。 ちょっとまとめてみる。
やはりブルトレの絶頂期は20系の頃だった。
新幹線岡山開業でも平日でも九州行は連日満席だった。
それが一変したのは新幹線博多開業。
お袋の実家が九州なのだが法事に行って終わったその日に帰ってきてびっくりした。
飛行機の乗り方は分からないが新幹線なら乗れる。同じ時間に乗ってその日に帰れるか
翌日に帰れるかは大きな差だ。
しかしまだブルトレの需要はあった。途中駅からの乗車や朝一の現地入りなど。
それが崩れたのが航空機の安売りとビジネスホテルの台頭。
これがネットで予約できるようになってブルトレの需要は終わった。
富士はやぶさが廃止される2年前のお盆に乗ったら1車両に2人しか乗っていなかった。
最後の1年くらいは葬式需要で結構、乗っていたが。
残念だが時代の変化に飲み込まれて消えるべくして消えた。
あちこちで観光目的で復活の兆しがあるが、
それもこの先、どうなるかわからない。 上りのあさかぜのプルマンで一夜を過ごし食堂車で朝食を済ました帰りナロ20のゆったりした席に腰を下ろして朝の東海道の車窓を楽しむ。車掌氏も了解していて東京到着までの一時をゆったり優雅に過ごさせてもらった。 20系博多あさかぜ最終メンバー…カニ21 3.11.15.51ナロネ22 103.153.155ナロネ21 113.129.134.551ナシ20 18.19.20.24ナハネ20 55.104.132.133.216.217.218.219.230.238.239.240.242.247.305.306.311.312.338.339.343ナハネフ22 2.13.14ナハネフ23 5.6.7.8 プルマンのプライベートスペース感って、正直どんな感じなんでしょうね
広いベッドであっても、カーテン一枚の向こう側は通路という仕様 全く乗ったことないの?2013年年明けまで、
日本海(オロネ24)と、きたぐに
(583系にもともとロネないので国鉄時代の改造で誕生したが一応国鉄スタイル)
で乗れたのに。 偶然の事情で乗り合わせた北陸のオハネ25しか経験がない
でも端っこで向かいは壁だったし(17上・下)、友人と二人だったから
簡易二段個室を独占状態のようで楽しかったよ 殿様あさかぜの博多あさかぜが一番遅くまで20系で残ったのはA個室をどうするかとか食堂車の問題で25型置き換えが後回しにされたからかな? らしいね
あとは乗車率が高かった列車は3段で残ったなあ >>83 しかしながら例の昭和51年(1976)の運賃.料金大幅値上げの影響大でさほど考慮の必要はない方向で置き換えられてしまった。 >>83
新幹線と全面的に被る東京〜博多よりも熊本以南特に鹿児島から利用落ち込みが予想以上に早かった。 >>80
近年ではプライバシーを云々してるが当時はカーテン一枚でもさほど気になる問題ではなかったね。プルマンの広い空間で十分満足で贅沢だったよ。 >>87
なるほど、より体の自由が利く広さと解放感が
過剰にプライバシーを意識させない要因なんですね プルマン式寝台って扉はないけど個室により近い感覚やから カーテン開けると赤の他人5人と共用する空間があるよりも
カーテンの向こうは共用通路、その方がプライベート感はありますね 下段は特に当時特急の大きな窓一枚を独占出来るってのも相当贅沢な事だった なんだか本当に乗りたくなってきましたよ、プルマン寝台w ガキのころ20系のプルマン乗った記憶がある。
寝台が解体だれてから誰か隣に乗ってくるのでは?と心配した。
結局誰も乗ってこなかったけど1等のヒルネなんかあるはずないよね。 プルマン式は銀河のA寝台で一度だけ経験した
そりゃまやっぱりサンライズのB個室の方が鍵も
かかっていいけど、なんだかんだでA寝台だったよ ナロネ20のルーメットやコンパーメントは勿論贅沢で居心地も抜群だったけどプルマンの広いベッドの中で大きな一枚窓から20系同士の夜中のすれ違いを眺めるのが鉄道ファンとしての1つの醍醐味でした。 実際に乗った人も、そうでない人も、
思いをはせることのできる
誠に雰囲気のよいスレだ >>98
25でなければ15だと思う
1995年頃の話 >>93
あけぼのの青森秋田間は(たぶん日本海も)A寝台のヒルネあったんじゃなかったっけ?
もちろん、ブルートレイン以前のマロネ41なんか普通に昼間の1等車になっていただろうし。
しかしプルマン型座席は、横幅が通常の2人掛け席よりかなり狭いから、
大人2人は辛いものがあっただろうね。 82、99ですが二段化したスハネ14かもしれません
とにかく二段、ドアから最初のブロックであったことは間違いありません >>101
あったかも知れないが空席に1人でしょうね。
あれに2人座らせてはA寝台料金もグリーン料金も取れないでしょう。 プルマンのヒルネのグリーン券てたしか上段、下段で出てくるよね。
向かい合わせの席の上に“上段”“下段”て表示されてて、その席に座るようになってるんだよな。 プルマンのヒルネのグリーン券てたしか上段、下段で発券されると思ったよ。
向かい合わせの席の上に“上段”“下段”て表示されてて、その席に座るようになってるんだよな。
ちなみにB寝台のヒルネの指定席も上段、下段で発券されるが、席に表示がないので「下段と書かれた指定席特急券は窓際へ、
上段と書かれた指定席特急券は通路側にお掛け下さい」と車内放送されていたけど。 >>103
たぶんそうですね
14と15ではオハネとオハネフの二人区画の有無が逆転していますから
リサーチ不足でした
スレチネタを引っ張るような原因を作ってしまって申し訳ありません >>106
電車寝台のB寝台座席使用のときは、上段中段下段D席という具合に発売されていた。 電車寝台時代の「きりしま」は、寝台解体していたらしいけど、
よくあの複雑な構造のものを車内で解体できていたよなあ。
すんげー人手がかかったんじゃないか? >>109
乗務員は2車1だったし寝台解体の応援があった時代だからね。 >>110
それでも14・24系の三倍、20系の倍の時間がかかったろうね>電車寝台の解体 寝台の解体の時には、みんな通路に出てその様子を見ていたもんだね。
20系や10系寝台だと意外と簡単に解体できるから、確か1人が3両を受け持っていたはず。
583系の解体・セットは、見ていると感心してしまうくらいうまく考えられていたよね。
寝台のセットは、始発駅を概ね19時くらいまでに発車する列車、解体は終着駅に9時以降に到着する列車で実施されていたと思う。
青森を日付が変わる寸前に発車して、上野に9時過ぎに到着する「はくつる」でも解体をしていた。
なんかすごく損した気分になるから、敬遠していたよ。
14系や24系に変わってからそんなことも見られなくなったけど、反面、上段にいるといつまでも寝ていられたのは良かったね。 20系「きたぐに」に乗った時に
「寝台の解体は絶対に自分で行わないで下さい。係員が来るのをお待ちください」
というアナウンスがあった。そして
「ご自分でなされて大怪我をしたお客様がいらしゃいます」と言っていた。
恐らく中段を勝手にあげて下段に座っていた客に中段が落ちてきたのだろう。
フックが完全にかかっていなくて、安全ロックバーも降ろしていなかったのだろう。
下手したら首の骨が折れて死んでいたかもしれない。 >>113
20系「きたぐに」なんて存在しないだろ >>92
岩泉の寝台車ホテルへGO
オロネ24に泊まれるぜ >>115
そういや、昔のRJ誌に「あおもり」のルポがあって、
駆け込み乗車しようとしたサラリーマンが車内設備を見て絶句、
や、やめときますと言ったというふうなエピソードが出ていたな。
20系B寝台はやっぱそんなに酷いものだったんか? >>117
列車で横になれることがどれだけありがたく贅沢なことだったことを知らない世代はそう思うだろうね。 しかし昔のナハネ10の定員が60名、今の在来線昼行特急のトイレ付き車輌の定員が56〜60名程度だから、
すごいものがあったんだよなあ。 >>116
あの岩泉ですか
遠いけど廃線散策を兼ねてぜひとも行って見たいですねえ
冬なら熊とか出てこないかな? >>117
東京駅で臨時のあさかぜ見たくらいしかないけど
ホームから見ただけだけど二段式の14系や24系と比べて物凄く狭苦しくて薄暗かった印象 >>119 >>121
平成も四半世紀を過ぎた現代の目線ではなく何故"動くホテル"とまで言われて持て囃されたか?当時の社会情勢.常に逼迫していた国鉄の輸送事情を考慮しないと正しい理解は得られないだろう。 20系の中段は跳ね上げ式で中途半端な格納は危険だった。
10系の中段は下に降ろして背吊にしたから勝手にやっても問題なかった。
ところが碓井にやってきた10系寝台は3段の状態で解放されていた。
この状態では寝台前後にある中段の支え金具を引き出して置かなければならないが、
半分近くが外れていて、転落防止のベルトで支えられていた。
金具を全部戻して係員に注意しようと思ったが誰もいなかった。
今はどうなっているか知らないがそのままだと危険。
下段に座っている内に中段が落ちてくる。
まあ、多分今は中には入れないようになっていると思うけど、
特別に人を入れる時には注意が必要。 >>122
学生がトイレ共同風呂なし4畳半に下宿し、
5階建新築マンションがエレベーターなし
そんな時代だ
限られた家しかエアコンはなかったし あさかぜを始めとする寝台特急の食堂車の朝の洋朝食の中のオートミール。
食堂車で覚えたメニュで以来家でも愛食している。 へぇ〜、オートミールが好きだって言う人がいるんだな。
自分はあれ大嫌いだったな。
「北海」の食堂車で初めて口にして、もう二度と食べたくないと思ったら、寝台特急の朝洋定食にはこれが付き物で困ったよ。
普段から好き嫌いなく食べる人間だけど、あれだけは脱脂粉乳と並ぶくらいまずいと思った。
オートミールを「ウマい!」というあなたは凄い! >>126
オートミールが嫌いな向きにはコーンフロストのシリアルに替えてくれてましたね。 ガキの頃、はやぶさの食堂車に行ったら、テーブルの真ん中にフルーツが盛ってあって、
びっくりしたな。母親から絶対に手を出すな、と厳命された。
今考えると、銀座のクラブと同じ手法。 >>125
ちなみに
九州ブルトレの食堂車の朝食は
一時期バイキングスタイルになっていた >>129
あったなあ。
嫁さんと二人貸切だったこともあった。
しかし、内容のわりにはいい値段だったような気が。
和洋の朝定食のほうがよかった。 あさかぜ最初にして最後の利用はバブル時代91年に、東京から広島までの修学旅行にて。
北斗星のベースになったゴールドあさかぜだったが、修学旅行なら当然解放Bネ。
俺以外知る限り周りに鉄はいなかったが、友人連れていろいろ車両を探索したが、レトロムードオシ24-700以外印象に残っていない。
食堂車で晩メシ食いたがったが、既に東京タワーレストランで食事済みで残念だった。
その後わずか3年で消滅したのはバブル崩壊もあったが、詳しい俺が乗車しても印象が薄かったのは、北斗星に比べてあきらかにグレードアップがハンパだったのも要因だろう。 >>131
あんたとこの修学旅行、行きも帰りも夜行寝台か?
3段式の中段乗ったのは帰りか >>131
ゴールドラインになった以後の昭和63年頃でもロネは4〜5人、ハネは下段がサーッと埋まってる程度の日がかなりあったよ。 そうですv
だから新旧のあさかぜ車両を一度の旅行で体験できたんだから、今考えれば貴重だったな。 50.3の新幹線博多開業で廃止になった14系のあさかぜ2.3号。ちょうど20年前の12月に博多あさかぜ廃止後の年末年始臨で19年半ぶりに14系あさかぜ81.82号として運転されたにもかかわらずさして話題にもならなかったのは不思議だった。 フルーツ盛合わせは時価だからね。食堂長が客を見て決めるんでしょ
まあ相場は2万ですね >>135
昭和40年代半ばくらいだったと思う。
もちろんナシ10の時代。
父親を東京に残して、母親と妹がA寝台下段、私が上段で帰省するというパターンだった。
上段の小窓が非常に嬉しかった記憶がある。 >>138
下段の大窓を独占できるのもいいけど上段の小窓から流れ行く夜景を眺めるのも中々いい!! >>132
流石にゴールドラインに中段は無いだろう。
しかし>131の学校は内部にブルトレオタクがいたのかな?
もう新幹線はあったからせいぜい片道利用と思うが。
往復利用の方が東京での滞在時間が有効的だったのかな。
九州ブルトレ末期のころも結構、広島からの利用は多かった。 >>141
>>134で、そうだと答えてるやん
20系スレで中段乗ったと書いてるし だから91年なんかに20系あさかぜなんか走っていないって。
>134は下段の女子生徒の上に乗って中段とか言っているのでは? 東京タワーレストランてのも間違ってるんだよな
東京タワーにあったレストランは東急タワー大食堂な >>143
それはお前がおかしい
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1410584215/185
>その次の20系最後になる乗車は91年で、西の修学旅行団体列車だったが
あさかぜだなんて書いてないぞ あさかぜで登場した金帯25形の帯って、オリジナルみたいな金属帯じゃなくて、
シールみたいなもんだったんだな。 >>145
なるほど「あさかぜ型」と書いてあって「あさかぜ」とは書いていないな。
団体用「あさかぜ型」20系は確かに存在した。
下りは21時ころ品川にいたので乗り込んだことある。
山口まで帰るというおばちゃんが、明日の夕方ころ着くと言っていた。
いったいどんなスジで上りはどうだったのだろう。
でもこれが91年まで本当に走っていたんだろうか? >>147
当時臨時急行玄海がお盆や年末年始に走ってたし
団臨もあったんじゃね?
山口に明日の夕方ころ着くってのはないなあ
10時過ぎには小郡に着く筈 >>148
山口のおばちゃんが小郡とか下関近隣に住んでいるとは限らんからな。
そこからバスで数時間かかれば夕方だ。 >>149
小郡から萩まででもお昼過ぎには着く
山口県内で夕方になるってのは有り得んよ 東海道ブルトレに止めを刺したのは公立校の修学旅行の航空利用が解禁になったことが大きい。
全盛期の主な客層だったビジネス客や観光客が航空機や新幹線に移った後、修学旅行の団体が東海道ブルトレの主な客層になったが、
その修学旅行団体の航空利用解禁が東海道ブルトレに引導を渡したようなもの。
最後の安定した大口利用だった修学旅行団体にまで見放されたことは、東海道ブルトレにとって大きな痛手となった。 >>150
田舎の婆さんは、言うことがいちいち大げさだから、
それをいちいち検証していたら、疲れるだけだがや。 >>152
10時に着いて御飯食べて買い物なんかして4時に家に着いたら夕方だ。
そんなものだろう。
さすがに12時に家に着けば夕方とは言わんだろう。 ゴールドラインのあさかぜが廃止になって今年で20年になる。更に16年遡った昭和53年2月1日20系博多あさかぜ最後の日。粉雪舞い降りる中で静かに博多駅を東京に向けて離れて行った。あさかぜを見送りながらひとつの時代が確実に終ったのを痛感した。 東京タワー(の)レストランじゃなくて、なんかタワーの中にあった、修学旅行団体客専用室だと思うけど、宴会場みたいなとこで食べて、ステーキとお代わり自由なライスが出たな。
俺たち世代はアホ団塊のジュニアだからバカ人数多くて、金帯あさかぜに全員乗り切れず、次の下関あさかぜにも残りが乗った。
帰りは大阪から日本海縦貫ルートだったが、また同じようにひとクラスだけ日本海の二段ハネで快適移動して、後のクラスはカイコ棚でしんどいお帰り(>_<) 新幹線博多開業前の博多あさかぜの上りのナロ20って岡山辺りまでかなり混んでましたね。当時16時が最終の岡山行つばめ8号だったからその後を受けて最最終の昼行特急の役割も担っていたわけだろう。 下関あさかぜ廃止の頃に発刊された惜別あさかぜの本の中に現門司鉄道記念館館長宇都宮照信氏撮影で下関駅停車中のナハフ21を最後部にしたあさかぜの珍しい写真が掲載されている。撮影月日を見るとナハフ20→ナハネフ20の改造時期と合致する。 >>157
珍しいと言えば、全検時に一般色で誤塗装されたEF60-500(二燈機)もありましたね
それにヘッドマークの付けて牽引する姿は、EF58やEF61のブドウ2号のそれよりも
違和感を感じます
塗装の話で言えば、最後の直流牽引機EF66も、
60/65のような特急色仕様を見てみたかったですね 15年くらいの前のお盆に臨時あさかぜに乗った記憶がある。
高松の花火を見て0時位に岡山から乗ったが翌朝に東京に戻った。
これはあさかぜだからこそ出来たスジだった。
飛行機では翌朝まで泊まらなければならないし、
バスでは渋滞で翌日何時に到着したかわからない。
サンライズも出発が早すぎて花火は見れない。
ちなみにこれが最後の臨時あさかぜだったようだ。
一緒に酒を汲み合いながら花火を見た親友も
これが最後で数年後に若くしてこの世を去った。 15年前は1999年か
既にはやぶさ・さくらになって繁忙期の臨時列車も一切なくなってた頃だよ
臨時があったのは20系が廃車される1996年頃までで内科医? 15年前だと臨時特急「あさかぜ」でなくて臨時急行「玄海」だと思われ
臨時「あさかぜ」81・82号が臨時急行「玄海」に格下げになったのは1990年 94/12/1博多あさかぜ定期終了後は臨時であったよ
99年に走ってたかは記憶にない
ちなみに玄海(20系)は92年で終了 >159ですが20系ではなく24系でした。急行ではなく特急でした。
そのころはもう20系玄海は無くなっていました。
>>162
多分それです。それの最後でした。翌年に乗ろうと思ったら無くなっていました。
臨時の最後は寂しく消えていきます。 やっとこさプレミアムボックスの本を読んでるとこ。
昭和50年生まれの俺には事実確認できない箇所も多いけど、でも間違いあるね。
「あさかぜ2・1号」に「あかつき2・1号」ってなんやねん!?
あ、どうも2・4号の事か。しかしあかつきツーって…(笑)
他にも間違いあるんでしょうか?まとめてるサイトとかないですかねえ あさかぜがゴールドラインになった直後から気になっていたのがオハネ24-700のカルテット。一般客へのアピールが無いせいか毎度空気輸送状態だった。4人個室だけど上段の位置が三段寝台時代のままだったしあまり居心地のいい感じはしなかった。 >上段の位置が三段寝台時代のままだった
そうなのか。
写真で見ると、二段式よりは高いようだが、三段式ほどには高くないようにも見えるが。 >>167
窓は25形0番台(上段昇降)タイプに見えるけど
だとしたらどうして上段を収納位置で固定にしちゃったんだろ? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています