【元祖】寝台特急あさかぜ【ブルートレイン】
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なぜか「あさかぜ」のスレがないので立てました。
「あさかぜ」と言っても青函航路のフェリーでなく、ブルートレインのあさかぜです。 >>598
つばめ、はと、こだま、かもめと合わせて考えるとバランス取れてたんだと思われ
当時の時刻表表調べてみて >>599
あさかぜでグレードアップ後に旅路御膳と桜御膳があったよな >>600
当時の時刻表見たら納得した
当時、最小停車駅の東京・横浜・名古屋・京都・大阪をしていたのは
安倍川鉄橋上での乗務員交代をしていた「こだま」しかなかったようだ
最も戦前の「燕」は東京=名古屋間無停車・東京=大阪間を7時間30分で走行は「可能」だったんだが、乗務員の安全性を大幅に犠牲にしていた(炭水車と水槽車に渡り板と手すりをつけて、走りながら乗務員交替。どう考えても危ない) 京都、大阪停車が不可解すぎる
国電や地下鉄動いていたとしても誰がどっちの方向に乗るのだ? >>602
戦前の「燕」で東京-名古屋間無停車はさすがに無理だよ
御殿場まわり時代は東京や名古屋から補機連結しとかないといけないし
丹那トンネル出来てからは沼津で機関車交代は必須だ
丹那トンネル蒸機じゃ無理だろ? フォレスト風なんて書いてるのが昭和を感じさせるね
今なら直球でキノコハンバーグだ 〉595 うーむ 記憶とは大分違うな。
確かに配膳考えると、こういう幕の内弁当
っぽいお膳にしないと面倒だよね。
白ご飯と鮭の印象しか残ってなかった
ということか。値段は800-900円位なの
は間違いない。ひょっとしてはやぶさ
だったか?だとしたらスレ違い。
なんにせよ今になってみれば貴重な経験 >>605
北斗星のメニューと比べたら、リーズナブルだった。 >>603
「あさかぜ」は戦後初の夜行特急として、1956年に登場したが、
大阪通過で大阪鉄道局と大いに揉めたからな・・・。
関西を深夜に通過する列車など、当時は前例がない、ありえないと。
そこで、大阪始発の急行を増発するのと、
深夜・未明ではあるものの、京都・大阪では客扱い停車するという妥協案と引き換えに、
関西深夜通過案は、採用されることになった >>584
あと渥美清主演の喜劇急行列車もロケがふんだんに入っていて貴重
昔の長崎駅や西鹿児島駅も出てくる
もちろん東京駅も
こちらもヒロインは佐久間良子 >>609
朝食がバイキングスタイルになって不評で止めた翌々年だと思う
朝食は中華粥・イタリアンスタイル(ミートソースパスタ)・洋朝食
のみで手数のかかる和朝食をやめて不評をかったので上りでは
静岡駅で幕の内弁当を仕入れてて車内販売で販売拡大してた。
東京発着ブルートレイン・食堂車の末期で完全に凋落していた。 >>612
朝食としては珍しいメニューばかりだな
あと和朝食は仙台が担当したころには復活していた >>603
昭和30〜40年代は都会でも地方都市でも
特急でも急行でも寝台列車でも夜行列車でも
当たり前の事だろ。
寝台特急のみ深夜停車が減ったのはあけぼの
登場のころからじゃないか?
寝台急行でも深夜2時や3時の停車でも不思議ではない。
京都、大阪停車が不可解すぎる
国電や地下鉄動いていたとしても誰がどっちの方向に乗るのだ? でも東京発着のブルトレは京都や大阪に止まる列車が結構後でもそれなりにあった 昭和30年代、西鉄ライオンズ球団は、
あさかぜだのはやぶさだのかもめだのに乗って関西や関東へ遠距離通勤していたらしい。
西鉄はまだまし。スタメン選手や監督クラスなら寝台や2等車には乗れたらしいからな。
広島カープなんてもっと酷くて選手全員三等車の通路で雑魚寝だぞ。 国鉄スワローズには優先的に寝台割り当てて
他の球団には座席で徹夜させて選手を疲弊
させる戦略だったんだな >>617
いくら当時でも巨人や阪神あたりのカネ周りがいい球団は1等車か、2等車に乗せられたぞ
当時のプロ野球選手の羨望度は今では比較にならない。東映(現日本ハム)〜巨人などで強打者となった張本勲氏は、
広島戦でやってくる巨人の宿舎でビフテキを食べる選手に憧れ「強い選手になって稼いで家族を楽にさせる」と言う闘魂で結果夢をかなえ、
金田正一氏は国鉄(現ヤクルト)に入ったとき2等(現グリーン)車で移動が出来るのがまず夢だったという(もっとも新人は3等車で至極失望したとも言う)。
そして当時の広島カープは三等の普通車。 夜行列車の狭い席に4人が向かい合って座る。
東京までの15時間、難行苦行の旅だった。
昭和20〜30年代、球団創立当初の広島カープは「地域密着型スポーツチーム」のはしりではあるが
まともな企業の後ろ盾がない状態で設立されたため、極端なほどの資金力不足で運営されていた。
連戦連敗が常で、勝ったと言う記憶そのものがない弱小球団だった。
球団幹部は野球連盟から呼び出され、「プロ野球は金が無いものがやるものではない」と言われたこともあるし
しかも監督や選手たちの待遇は、全球団のなかで最低・最悪レベルだった。
だから選手の給料や遠征費がまるっきりでなくなるくらい貧乏な時期があったくらいだ。
ただし、ファンだけは腐るほどいて、当時の本拠地・広島総合球場は連日、満員に膨れ上がっていた。
当時の関係者曰く・・・・。
“当時のファンの熱狂ぶりは今では考えられない。
食うにも困る時代に、金を払ってまで野球を見に行っていたのだから” >>617
創成期の広島カープ球団は「あの」史上最弱球団の高橋ユニオンズよりカネが無かったからな
何でも初期の広島カープは東京に遠征するときには急行「安芸」に乗って一般客と同じ3等車で雑魚寝していた。
だから2等車や寝台車で移動することができた巨人に嫉妬していたのは当然だろう そりゃそんなキツい移動させられてたんなら勝てるわけないよな。
もちろんチーム力だってかなりの開きがあっただろうに、その上そんなハンデ厳し過ぎる。
15時間座席普通車で揺られて、仕事しろって言われたってできっこないよな。 板東英二氏が現役時代、広島への移動は「あさかぜ」や「さくら」で花札に夢中
になって、気が付いたら浜松や静岡まで何度も乗り過ごしたと著書に書いて
いたな。 >>622
戻ってきた時の事じゃないか。
俺も「プロ野球これだけ知ったら」シリーズで読んだ記憶が有る。 >>620
漫画などによく見る典型的な連戦連敗ヘナチョコ貧乏プロ野球球団の元祖といえば
球団創立当初の広島カープのことだからなww
「プロジェクトX 挑戦者たち 史上最大の集金作戦 広島カープ 〜市民とナインの熱い日々〜」
でも言ってたけど遠征できても列車は三等くらいの劣悪な客車に一般客とともに詰めこむように座り、
旅館に泊まるカネもないから遠征先に選手の実家があったら
そこにあの大人数が食事込みで泊まってたらしいね。 あさかぜ1・4号の食堂車といえばエビフライをつまみに瓶ビールを飲んで
〆に当時800円だった関門定食を食べるのがあさかぜ出張の楽しみだった
1978〜1979年くらいだったけど食堂車には活気があったよ >>625
夜行の食堂車ってその時代だと
東京発九州方面にしか
なかったからな >>25
それでもブルトレ乗れるなら上等
貧乏人は急行津軽とかだろ >>625
もしそのころから朝食にバイキングスタイルや
朝食が中華粥・イタリアンスタイル(ミートソースパスタ)・洋朝食の対応になっていたら
受け入れられていたのだろうか(九州ブルトレ全体にこれを適応すると仮定) 1958年11月現在の国鉄特急列車
はつかり 上野=青森 1日1往復(旧型客車使用)
こだま 東京=大阪 1日1往復(151系電車使用)
こだま 東京=神戸 1日1往復(151系電車使用)
つばめ 東京=大阪 1日1往復(展望車つき旧型客車使用)
はと 東京=大阪 1日1往復(展望車つき旧型客車使用)
あさかぜ 東京=博多 1日1往復(20系客車使用)
平和 東京=長崎 1日1往復(寝台車つき旧型客車使用)
はやぶさ 東京=鹿児島 1日1往復(寝台車つき旧型客車使用)
かもめ 京都=博多 1日1往復(旧型客車使用)
・・・なんと、全国でたったのこれだけ。
その中で全車冷房搭載で、3等車にも冷房がついているのは151系と20系のみで後は食堂車か展望車・寝台車の一部だけ冷房搭載。これだけでも当時20系客車での旅が憧れだったかがわかる。
当時の特急列車で移動出来たのはこれこそ巨人レベルの金持ち球団で、王・長嶋みたいな当時のスター選手なら2等寝台も乗れたはずだから、
急行列車の3等車で新聞紙敷いて移動していた広島カープ選手が嫉妬したくなるワケも納得。・・・か?! >>630
そうだな、151系になったのは1959年からだったな 下関あさかぜと瀬戸のラウンジカーは2種類あったんだよな >>621
静岡や浜松まで乗り過ごした後どうしたかが気になるな。
花札して乗り過ごしたでは誤乗扱いにならないだろうし、切符はマネージャーが
持っていたかもしれないし。 >>634
そりゃ列車の中じゃ起きているうちは花札くらいしかやる事ないからな。あと名古屋到着が早朝じゃ寝過ごすリスクはあるだろう 昔は車掌補ていうのがいてたよな
下車駅近づいたら起こしにきてくれた 車掌補、列車給仕(列車ボーイ)とも呼ばれていましたね。
チップをあげると革靴を磨いてくれたり、終着駅だと
赤帽を呼んで荷物をホームまで降ろしてくれました。 オレ旅館の女中さんとかうっとおしくて
放っておいてってタイプだけど、ブルートレインには車掌補が各車両に乗っているのがいいな。大勢で列車運行してる感じがいい。 >>637
確かに「列車給仕」はいまでいう「バトラーサービス」に近い事をしていたけれど・・・
現在のホテルでも「バトラーサービス」が存在するホテルはセントレジス、旧軽井沢ホテル、sankara hotel&spa屋久島、ザ・ブセナテラスなど
これこそ超最高級クラスのスーパーラグジュアリーホテルだけに限定されており
欧米のホテルの格付け制度ではバトラーサービスは高級格付けのホテル「必須」のサービスになっている(無いホテルは高級じゃ無い!!)
つまりどこのホテルでも やっている大衆的でチープで安っぽいサービスではないのだ
このスーパーラグジュアリーなサービスがいくら時代が違うとはいえ、公共交通機関で提供されていた事実は凄い事なのは間違い無い 殿様あさかぜだけじゃなくて
金帯あさかぜ時代(特に下関あさかぜのグレードアップ後)があさかぜにとって豪華な時代の一つでもあった 補足
下関あさかぜの開放B寝台は銀帯だけどラウンジカーとシングルデラックスが金帯になっていたから
グレードアップ後と書いた 639氏とは反対に就寝中の窃盗事件とか多かったので各車両でボーイさんが目配せしてなければいけなかったらしい >>641
最後まで残った下関あさかぜはA寝台も他より広くシャワーも使え、ラウンジカーもあったんだよな〜
当時機会あればさくぶさ富士ばかり乗り鉄していたのが悔やまれる… >>644
窃盗犯らしき奴に
「お前が窃盗犯って分かってるよ。見張ってるからね」
と目配せして牽制してるのかも >>645
犯人に合図するの?
目配りならわかるけどw 昔何かの番組で見たが、列車給仕や車掌は15両編成300mを一晩で20から30往復
15km前後車内を歩いていたらしい。 >>647
それは、多分番組用の答えだろうと思う
基本、優等列車列車の全編成を受け持つことはなく、各レチ毎に担当する号車が決まってる
カレチが総責任者になる為、要注意人物が乗り合わせてるなど、状況によっては巡回することはあるだろうが15kmというのは・・・ >639
20系客車までは乗降扉が手動ロックだったので閉める作業
寝台設備の朝の解体、昼仕様の座席にするのが主な仕事だったのでは 638ですが、すんまそん、目配りだよね。自分でもおかしい気がした。オレのオヤジは中学生位の姉弟で本土から満州に行ったりしてたんだけど、優等列車の優等車でボーイさんが面倒見てくれてたらあまり不安はなかったんだろうと推測 >>634
昭和30年代の寝台特急は、プロ野球。特に西鉄ライオンズの関係者が「常連」だった模様。 用途は長期遠征用。
野球選手という職業を選んでしまったら、シーズン中はずっと超遠距離通勤をすることを強いられる。
今でこそ、選手は新幹線や飛行機が使えるが、かつてのプロ野球選手の長期遠征は鉄ヲタでもやりたくないレベルのハードさだった。
特に一番西の端っこの西鉄ライオンズが最も過酷だった。
西鉄ライオンズは本拠地の福岡市から東京や大阪へ移動するのに、新幹線もなければ高速バスもない
飛行機の安全性が極めて怪しい時代だったから、必然的に列車による移動しかない。
当時の時刻表だと大阪へ約10時間、東京へは約17時間もかかったのだから、
こんな過酷な移動をした後でまともなプレーができる方が不思議だった。
こういった厳しい環境で西鉄は黄金時代を築いたのだから恐れ入る。
昭和30年代特に九州から東京への移動は100%確実に「あさかぜ」や「はやぶさ」での移動だったようだ。
ちなみに関西遠征のときには特急「かもめ」での移動が多かったという
長い道程に耐えうる強靭な体力と、遠征を楽しい旅と思えるようなプラス思考のハートがなければ、
とてもプロ野球選手など務まらないと言える。
ちなみに、現在、福岡に拠点があるソフトバンクは、他球団と比べたら飛行機での移動がケタ違いに多い。
昔と比べたらマシだが、これでも日程はハード。 「あさかぜ」に初めて乗ったのが1974年夏の「あさかぜ2号」(11レ)で14系寝台車が
14両連なっていた。2回目に乗ったのは1976年の8月で「あさかぜ51号」(8011レ)は
24系25形で自分にとって初めての2段ハネであったが結局20系の「あさかぜ」には
乗る事ができなかった。その後、臨時「あさかぜ51・52号」として走ったけど2段ハネ
に慣れてしまった身にはベッド幅50pの3段ハネは乗る気がしなかった。 >>656
14系「あさかぜ」に乗ったのは貴重だと思うけど。
当時としては「殿様あさかぜ」と比べ、編成のバリエーションが物足りなかったのはあるかも。
ところで14系「あさかぜ」で食堂車は利用した?
また「あさかぜ」「さくら」だけの、列車名記念スタンプもあったと思うが・・ 適当ビジネスニュース報道プロ級世代新社屋TRUMPTOWER左遷「仏」40代監視カメラ使用コンプライアンス速報駐車場 (入社拒否
トランプジョーカー切り(創価大学消防庁コストカットアイドルマスターパイナップル株式会社)30代好評人気連載漫画「ヒカルの碁お前ら何や」
NHKトランプ大統領ニュース(ヤフージャパン上院社員特別生活費支給旅行沖縄汚染水スキンケアテレビ東京ギャンブル依存症顧問職員稲田籠池豊田
40代社会人集団ストーカー対策ーhondasouichirouー 横浜マドリッドスペイン上西フライングファイアーウォーターサーバーダイビングドライブシュート川中
中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティー(反日飛行機雲農薬散布マスク女問題)駅内マスクオンNACNN向け原文ママニュース いいじゃん。面白い切り口で。
655の画像見て思ったんだけど、蒸機の機関士は自分の後ろで
カニのディーゼルエンジンが軽油燃料にがーーと唸ってるの見て
どう思ってたんだろう。もう世の中は石油の時代で蒸機は時代遅れ
などと感じていたのか。 >>660
20系が走った時代は非電化区間ではDLでなくSL牽引区間が存在してたが
当時のDLはDF50が量産されていたが、これがとんだ大駄作でパワー不足に悩まされ続けた
C62=1620ps
DF50=1200ps
しかもDF50についてもっと頭が痛い問題としてエンジンにスルザー社のライセンス生産品を使用を強いられた
そのため、当時のカネがない日本にとって調達コストが高額だった。だから国鉄はDD51を開発した。 1958年「あさかぜ」がデビューして間もないころ3連敗4連勝の日本シリーズは
西鉄と巨人が同じ「あさかぜ」で移動していた
1、2戦後楽園で連勝した巨人ナインは畏まってて、
連敗したのに西鉄ナインは麻雀とかで賑やかだったとか。 >>662
2連敗後の移動はさちかぜだったかと
あさかぜは3連敗後2連勝して後楽園に戻る時だったと思う いや、違う。「さちかぜ」は「あさかぜ」と似ていて紛らわしいため1958年10月で「平和」になっているはずだ
昔の西鉄のプレーヤーたちに聞くと、移動そのものには、それほどの問題はなかったという。
「そういうものだ」とあきらめていたらしい。問題だったのは、宿泊環境が、球団格差が酷くて巨人と他球団では、まるで違っていた。 青大将が引く20系あさかぜが赤沢トンネルを抜け根府川橋梁にかかるカーブ
もう路線自体が無い >>664
巨人は高級ホテルor旅館
その他は2流旅館 あさかぜと言えばこの列車“さちかぜ”定期列車としては昭和32年10月から33年9月までの僅か1年だけという短命列車
あさかぜの続行ダイヤで運転された上、名前が似ているという事から誤乗が多発したため、
1年と3ヶ月で“平和”に名称が変更になった。
名称変更直前の「さちかぜ」に乗ってる巨人選手
http://www.hochi.co.jp/entertainment/20171002-OHT1T50213.html
http://www.hochi.co.jp/entertainment/garticle.html?id=20171002-OHT1I50158 列車系統が続いていれば短命列車としてあまりラインナップされない件は
どうお考えで? その考えだと初代と二代目のへいわ、平和は短命列車じゃなくなるなあ
あれ?
三代目も初代へいわ号の後身のつばめ号になった訳だから短命列車じゃなくなるのか >>671
このあさかぜが結局かなり後まで存続していた
ちなみに上りのあさかぜのダイヤはまだある >>666
1958年当時の「あさかぜ」でありそうな球団格差
【巨人】
個室寝台車(ナロネ20)=首脳陣・エース投手など数名
二段寝台車(ナロネ21)=スタメン選手
三段寝台車(ナハネ20)リクライニングする座席車(ナロ20)=入団数年目のルーキー
【西鉄】
二段寝台車(ナロネ21)=首脳陣・エース投手など数名
三段寝台車(ナハネ20)=スタメン選手
ノンリクライニングの座席車(ナハ20・ナハフ20)=入団数年目のルーキー >>674
1958年当時だと読売でナロネ20は正力さんじゃないと無理じゃないかな
務台さんでもどうだろってレベルかと >>675
昭和40年代になると俺でも乗れた!(笑) >>676
40年代前半は無理だろう?
等級廃止後だな 等級制時代は上等クラス(ここでは例えばナロネ20のルーメット)はいくら金を出しても一般には切符を売らなかったという話あるけどマジ話? >>678
それは有り得ない、しかし一等車に乗ればそれなりの所作、振舞いを暗黙の内に求められていたものだ。 >>678
みどりの窓口開設後も、ナロネの個室はマルスに入ってなかったので、有り得る話かもなw >>681
有り得ない。マルスに入っていないと云えば24系二段ハネのオロネ25も登場当初はマルスに入っていなかった。 >>682
100系新幹線の個室も当初はマルスになかったはず 盆暮れになると あさかぜ51号まで繰り出す大盛況だったがこの時季、以外に個室の空きが多く切符の入手がしやすかった。ビジネス客の移動が少なくなったからだろう。 個室寝台って出張で使えた人おるん?
うちの規定見ても使えた形跡ないお 会社が用意してくれたプルマンの切符を乗変して差額を手出ししてルーメットに乗ってました。 >>687
二等寝台に変更じゃ無いのかw
昔名古屋から関東に出張で
新幹線代は出るので
大垣鈍行で前日に出て
差額GETはよくやった 昔はちょこまかせる手段が色々あったんだな
ウラヤマシス >>691
前日に乗り込み現地宿泊できて費用が会社持ちなら
風呂もテレビもなく食料さえ手に入らないこともある寝台列車を選択することなどあり得ないだろ >>692
東京から仙台→札幌の経路で
飛行機可能(仙台→札幌)だった。
通しで東京→札幌の乗車券を購入
仙台から新青森まで新幹線で行き、はまなすを利用していた。
650円の急行券とドリームカー300円はお得だった。 >>692
航空機や新幹線の影響もあるけど地方都市の宿泊施設が整備されたことも寝台列車の衰退に大きく影響しているな。新幹線博多開業前は博多辺りでもホテルの確保は結構大変だった、今の乱立振りとは隔世の感だね。 乱立しててもイベントの時に宿の供給不足になる博多地区 >>694
時刻表の巻末にビジネスホテルのほとんどは掲載がなかったから余計そう思うのかもな、俺はいつもビジネスホテル一覧の全国版ガイドブックを鞄にいれていた 時刻表よりもビジネスホテルガイドブックの方が売り上げ急減してるよなあ >>696
大型時刻表の巻末に2ページ程あったが、それでは物足りなかった?
まあホテル広告の要素が大きかったけどw
>>697
ホテルもサイトから予約する方が安くなったり、事前に空室状況が把握できるからなw >>695
だから昔はホテルの確保がもっと大変だったんだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています