【元祖】寝台特急あさかぜ【ブルートレイン】
なぜか「あさかぜ」のスレがないので立てました。 「あさかぜ」と言っても青函航路のフェリーでなく、ブルートレインのあさかぜです。 >>567 大まかに都市圏の所属車両基地が基準は共通運用、終着駅基準で別運用にされるのが間合い運用になるだろう。 例えば新幹線博多開業前の20系「あかつき」は品川の車両だった。 「はやぶさ」で西鹿児島・長崎に到着してから使用するので、間合い運用だろう。 583系なら「しらさぎ」が「金星」の、「にちりん」が「彗星」の間合い運用時期があった。 14系「さくら」「みずほ」「いなば・紀伊」や、24系・25型の「はやぶさ」「富士」「出雲」については、 国鉄時代の品川客車区基準にして共通運用。 >>568 国鉄時代の終盤からJR化以降の「さくら」「みずほ」や「はやぶさ」「富士」は さくらとみずほの品川の付属編成運用以外は間合い運用になる また下関や広島に配置していた下関あさかぜと瀬戸や 出雲支所に配置されているサンライズは瀬戸が出雲の間合い運用であり 特に同一編成化後のさくらと富士ぶさとサンライズは運用の関係で 下りと上りが通常の分割併合列車とは違うパターンの編成を組んでいる >>569 しかし下関あさかぜと瀬戸は間合い運用の表現をされなかったな! 利用客の中心軸が首都圏だったせいか? >>570 こちらは間合いの表現だったな。 仙台〜秋田を181系気動車で走ったあおばは、つばさの間合い運用とされていたから、 同様の雰囲気。 >>569-570 下関あさかぜと瀬戸も確かに間合い運用にも見えるから これらは共通運用とも間合い運用でも両方とも正しい運用かもしれない 別の話題になるけど 博多あさかぜと東日本出雲の金帯ハネが臨時おがにも連結されていたんだよな >>570 568視点に立てば、所属機関区の和歌山発はあすか よってあすかが本運用。 終着駅の名古屋で別運用のくろしおに入る よってくろしおが間合い運用。 くろしおも天王寺発着で和歌山機関区入庫だが 何を基準にあすかを間合い運用とみるのか判断がつかない 結局、共通運用と間合い運用は外形では判断できないのでは? おおよどのためにわざわざ日豊線全線電化後もにちりんのキハ80系残したくらいだが >>568 の主張に基づいて50・3以前の大ムコ485を 雷鳥、しらさぎ、はくたか、しおじ、みどり、 つばめ、はと、にちりん、なは、日向等 本運用と間合い運用を明確に分けられるのか? >>568 14系いなば.紀伊は東京到着後もいなば.紀伊で折り返す単独運用。24系25型も編成は同一でも運用は各々単独運用だ。 >>492 カラーであれだけふんだんに撮ってくれてるのがいいよね 手動の扉とか動き出してから飛び乗れたりしてるのが今見ると新鮮 >>579 ロケの為に東京〜長崎にロケ編成まで特発させた国鉄全面協力の名作。 >>579 〜>>581 映画を観るとロケの特発編成の@号車がナロネ20だ。おそらくナロネ20が長崎まで入線したのは最初で最後だろう。 >>577 難しいだろうな。東北新幹線開業前に青森の485系「ひばり」「やまびこ」が、 間合い運用と言われなかったのと同じような感じ。 ただ当時の「にちりん」については、間合いの雰囲気w >>579-582 昭和30年代は、今のように高性能なCG合成技術があった訳でも 高性能な4K/60P対応デジカメがあったわけでもないからな 当然、高画質カラー映像は少ない この映画は様々な意味で貴重な内容だ もし特急「あさかぜ」に自動放送があったら 本日は日本国有鉄道をご利用くださいましてありがとうございます。この列車は特急あさかぜ号 博多行きです。 途中、横浜、熱海、浜松、名古屋、京都、大阪、姫路、岡山、尾道、広島、徳山、三田尻、下関、門司に停まります。 車内のご案内をいたします。前から 1号車 2号車の順で 一番後ろが 12号車です。 二等A寝台車は1号車、二等B寝台車は2号車と3号車、2等座席車は4号車です。 三等寝台車は6号車、7号車、8号車、9号車、10号車。三等座席車は11号車、12号車です。 食堂車は5号車です。弁当や飲み物を販売する売店は11号車にあります。車掌室は12号車にございます。 喫煙は 灰皿が備えてある場所で お願い致します。 次は 横浜に停まります。 Leadies and gentleman. Welcome aboard the ASAKAZE Limited Express bound for Hakata. We will be stopping at Yokohama, Atami, Hamamatsu, Nagoya, Kyoto, Osaka, Himeji, Okayama, Onomichi, Hiroshima, Tokuyama, Mitajiri, Shimonoseki, and Moji, All commutations are reserved. The Cars second class A sleeper are in cars No.1. the second class B sleeper are in cars No. 2, 3. second-class seat car No.4. The third-class sleeping are in cars No. 6,7,8,9 and 10. third-class are in cars No.11,12. The dining car is car No.5. selling box lunches and drinks is Store is in car No.11. The conducter's room is in car 12, Smokers are asked to smoke only in areas where ashtray are in stole. The next stop will be Yokohama. We wish you a pleasant journey. Thank you. 金帯あさかぜのデュエットとカルテットは 他の定期列車への転用をなぜしなかったのだろうか >>858 あるよっ! 星空バーで出張の帰りに数人でウィスキーの水割りで乾杯しながら スモークサーモン・特製ソーセージ盛り合わせ(サワークラウト添え)・ ポークヒレカツレツなどをツマミにしながら飲んだよ。 確か1989年くらいだったと記憶してるが当時はスターダストラウンジ とか呼んでる人もいたと記憶している。 星空食堂車やオリエント急行風食堂車もよかったけど国鉄消滅で長い 期間を担当してた日本食道門司営業所から新博多営業所に変わって メニューが大幅に減って関門定食・ちゃんぽんなどの郷土料理が廃止 になったので古い食堂車でも国鉄時代の日本食道門司営業所がよかった。 >>588 新博多担当の後は上野担当になってそして仙台担当の時期もあった あと>>588 が乗った頃に星空バーのあさかぜ乗った人は 星空バーがラウンジ席の関係で出雲に担当されるようになっていたから 貴重な経験をしたかもしれない 吉野家鮭定食って、かつてのブルートレインの 和朝食に似てるよね? 朝にトーストとハム目玉食えるのは食堂車くらい、自宅では朝食はいつもご飯に漬物 ということで寝台車の和朝食は知らない 586 もし特急「あさかぜ」に自動放送があったら 151系では録音放送があったな 20系ではなかったが >>587 カルテットは一般にはあまり知られてなかったのか空気輸送の日が多かった。 横浜国立大学も夜間募集停止か 大学の夜間部がどんどん無くなっていくなあ。早稲田も関大も無くなったし、 横国の経営学部も、改組と同時に廃止。名工大も縮小してきてる。 夜間大学廃止の1つの理由は、「就業形態の変化」。終業後に大学に通える環境がない。 もう一つおまけにカキコすれば 俺は底辺広島大夜間へ行ったので、周りにはアナログ時計の時間が読めないヤツもいた。 そんなヤツの多くがアナデジはめてたんだよなあ。 大きなアナログ時計はおまけで、下のデジタルで時刻を読む。 大学生になれば時計くらいはめてなければカッコつかないという雰囲気もあったし。 ある私立大学の経済学部で西島秀俊が小出恵介のような不祥事や事件を起こしたら、被害や損害になる総額が1000億円は軽く超えるそうだ。 日本最大の家電メーカーであるパナソニックのCMなど社会的影響力が大きいからである。 西島秀俊の社会的影響力はSMAP解散後、日本国内最大最高の男性キャラクターにのし上がったからである。 今では、木村拓哉、草g剛、香取慎吾、中居正広のマスコミ露出が少なくなった2017年現在ではCM、ドラマ、映画で見ない日は無いくらい西島秀俊は働いている。 今の日本国内の男性キャラクターで西島秀俊を見ない日は無いくらい活躍しているが、西島秀俊の次は長谷川博己あたりが出て来ているのも現実である。 今年から来年にかけて西島秀俊が公私ともに休まる日は無いくらい、活躍が期待されているのかもしれない。 ロシアの俳優でいうならば、西島秀俊と同世代でセルゲイ・ベズルコフが相当する存在である。 >>588 東京駅発車の寝台特急食堂車は1981年くらいまでがよかったと思われ 更に国鉄時代でも1983年くらいでは日食門司営業所のメニューから 沿線の郷土料理も消えていたと記憶する。 皿うどんとおこわ定食は上野時代もあったはず あときじの定食もあった >>586 >途中、横浜、熱海、浜松、名古屋、京都、大阪、姫路、岡山、尾道、広島、徳山、三田尻、下関、門司に停まります。 ちょっとバランス悪すぎだろwと思いきやマジだった。確かに20系客車で運行開始当初はこんな停車駅だった。 それにしても静岡、小郡はおろか、小倉までもノンストップにしてしまうとは… それなのに何故か小倉を飛ばしておいて、尾道、徳山、三田尻(現:防府)に停車するという だがしかし、当初東京=姫路、下関=門司以外の区間で牽引していたのは性能や燃料に制約だらけのSLで 広島→八本松の補機もSLだったはずだから停車駅設定に制約があったはず 少なくとも、当初は小倉に停車したくても無理だったんだろう >>597 上野営業所の皿うどんって餡はレトルトの奴だよ 長崎営業所や門司営業所は皿うどんの餡はフライパンで炒めて作ってたよ。 ここはあさかぜスレだから郷土料理的にはちゃんぽん(福岡市内にもちゃんぽん の店は多数あった)や関門定食になると思うのだが? きじ焼き御膳は郷土料理ではなく、コックが1名でも湯煎や電子レンジで 対応できる手抜き料理だよ。 皿うどんの餡が入ってるレトルトも同じ。 >>598 つばめ、はと、こだま、かもめと合わせて考えるとバランス取れてたんだと思われ 当時の時刻表表調べてみて >>599 あさかぜでグレードアップ後に旅路御膳と桜御膳があったよな >>600 当時の時刻表見たら納得した 当時、最小停車駅の東京・横浜・名古屋・京都・大阪をしていたのは 安倍川鉄橋上での乗務員交代をしていた「こだま」しかなかったようだ 最も戦前の「燕」は東京=名古屋間無停車・東京=大阪間を7時間30分で走行は「可能」だったんだが、乗務員の安全性を大幅に犠牲にしていた(炭水車と水槽車に渡り板と手すりをつけて、走りながら乗務員交替。どう考えても危ない) 京都、大阪停車が不可解すぎる 国電や地下鉄動いていたとしても誰がどっちの方向に乗るのだ? >>602 戦前の「燕」で東京-名古屋間無停車はさすがに無理だよ 御殿場まわり時代は東京や名古屋から補機連結しとかないといけないし 丹那トンネル出来てからは沼津で機関車交代は必須だ 丹那トンネル蒸機じゃ無理だろ? フォレスト風なんて書いてるのが昭和を感じさせるね 今なら直球でキノコハンバーグだ 〉595 うーむ 記憶とは大分違うな。 確かに配膳考えると、こういう幕の内弁当 っぽいお膳にしないと面倒だよね。 白ご飯と鮭の印象しか残ってなかった ということか。値段は800-900円位なの は間違いない。ひょっとしてはやぶさ だったか?だとしたらスレ違い。 なんにせよ今になってみれば貴重な経験 >>605 北斗星のメニューと比べたら、リーズナブルだった。 >>603 「あさかぜ」は戦後初の夜行特急として、1956年に登場したが、 大阪通過で大阪鉄道局と大いに揉めたからな・・・。 関西を深夜に通過する列車など、当時は前例がない、ありえないと。 そこで、大阪始発の急行を増発するのと、 深夜・未明ではあるものの、京都・大阪では客扱い停車するという妥協案と引き換えに、 関西深夜通過案は、採用されることになった >>584 あと渥美清主演の喜劇急行列車もロケがふんだんに入っていて貴重 昔の長崎駅や西鹿児島駅も出てくる もちろん東京駅も こちらもヒロインは佐久間良子 >>609 朝食がバイキングスタイルになって不評で止めた翌々年だと思う 朝食は中華粥・イタリアンスタイル(ミートソースパスタ)・洋朝食 のみで手数のかかる和朝食をやめて不評をかったので上りでは 静岡駅で幕の内弁当を仕入れてて車内販売で販売拡大してた。 東京発着ブルートレイン・食堂車の末期で完全に凋落していた。 >>612 朝食としては珍しいメニューばかりだな あと和朝食は仙台が担当したころには復活していた >>603 昭和30〜40年代は都会でも地方都市でも 特急でも急行でも寝台列車でも夜行列車でも 当たり前の事だろ。 寝台特急のみ深夜停車が減ったのはあけぼの 登場のころからじゃないか? 寝台急行でも深夜2時や3時の停車でも不思議ではない。 京都、大阪停車が不可解すぎる 国電や地下鉄動いていたとしても誰がどっちの方向に乗るのだ? でも東京発着のブルトレは京都や大阪に止まる列車が結構後でもそれなりにあった 昭和30年代、西鉄ライオンズ球団は、 あさかぜだのはやぶさだのかもめだのに乗って関西や関東へ遠距離通勤していたらしい。 西鉄はまだまし。スタメン選手や監督クラスなら寝台や2等車には乗れたらしいからな。 広島カープなんてもっと酷くて選手全員三等車の通路で雑魚寝だぞ。 国鉄スワローズには優先的に寝台割り当てて 他の球団には座席で徹夜させて選手を疲弊 させる戦略だったんだな >>617 いくら当時でも巨人や阪神あたりのカネ周りがいい球団は1等車か、2等車に乗せられたぞ 当時のプロ野球選手の羨望度は今では比較にならない。東映(現日本ハム)〜巨人などで強打者となった張本勲氏は、 広島戦でやってくる巨人の宿舎でビフテキを食べる選手に憧れ「強い選手になって稼いで家族を楽にさせる」と言う闘魂で結果夢をかなえ、 金田正一氏は国鉄(現ヤクルト)に入ったとき2等(現グリーン)車で移動が出来るのがまず夢だったという(もっとも新人は3等車で至極失望したとも言う)。 そして当時の広島カープは三等の普通車。 夜行列車の狭い席に4人が向かい合って座る。 東京までの15時間、難行苦行の旅だった。 昭和20〜30年代、球団創立当初の広島カープは「地域密着型スポーツチーム」のはしりではあるが まともな企業の後ろ盾がない状態で設立されたため、極端なほどの資金力不足で運営されていた。 連戦連敗が常で、勝ったと言う記憶そのものがない弱小球団だった。 球団幹部は野球連盟から呼び出され、「プロ野球は金が無いものがやるものではない」と言われたこともあるし しかも監督や選手たちの待遇は、全球団のなかで最低・最悪レベルだった。 だから選手の給料や遠征費がまるっきりでなくなるくらい貧乏な時期があったくらいだ。 ただし、ファンだけは腐るほどいて、当時の本拠地・広島総合球場は連日、満員に膨れ上がっていた。 当時の関係者曰く・・・・。 “当時のファンの熱狂ぶりは今では考えられない。 食うにも困る時代に、金を払ってまで野球を見に行っていたのだから” >>617 創成期の広島カープ球団は「あの」史上最弱球団の高橋ユニオンズよりカネが無かったからな 何でも初期の広島カープは東京に遠征するときには急行「安芸」に乗って一般客と同じ3等車で雑魚寝していた。 だから2等車や寝台車で移動することができた巨人に嫉妬していたのは当然だろう そりゃそんなキツい移動させられてたんなら勝てるわけないよな。 もちろんチーム力だってかなりの開きがあっただろうに、その上そんなハンデ厳し過ぎる。 15時間座席普通車で揺られて、仕事しろって言われたってできっこないよな。 板東英二氏が現役時代、広島への移動は「あさかぜ」や「さくら」で花札に夢中 になって、気が付いたら浜松や静岡まで何度も乗り過ごしたと著書に書いて いたな。 >>622 戻ってきた時の事じゃないか。 俺も「プロ野球これだけ知ったら」シリーズで読んだ記憶が有る。 >>620 漫画などによく見る典型的な連戦連敗ヘナチョコ貧乏プロ野球球団の元祖といえば 球団創立当初の広島カープのことだからなww 「プロジェクトX 挑戦者たち 史上最大の集金作戦 広島カープ 〜市民とナインの熱い日々〜」 でも言ってたけど遠征できても列車は三等くらいの劣悪な客車に一般客とともに詰めこむように座り、 旅館に泊まるカネもないから遠征先に選手の実家があったら そこにあの大人数が食事込みで泊まってたらしいね。 あさかぜ1・4号の食堂車といえばエビフライをつまみに瓶ビールを飲んで 〆に当時800円だった関門定食を食べるのがあさかぜ出張の楽しみだった 1978〜1979年くらいだったけど食堂車には活気があったよ >>625 夜行の食堂車ってその時代だと 東京発九州方面にしか なかったからな >>25 それでもブルトレ乗れるなら上等 貧乏人は急行津軽とかだろ >>625 もしそのころから朝食にバイキングスタイルや 朝食が中華粥・イタリアンスタイル(ミートソースパスタ)・洋朝食の対応になっていたら 受け入れられていたのだろうか(九州ブルトレ全体にこれを適応すると仮定) 1958年11月現在の国鉄特急列車 はつかり 上野=青森 1日1往復(旧型客車使用) こだま 東京=大阪 1日1往復(151系電車使用) こだま 東京=神戸 1日1往復(151系電車使用) つばめ 東京=大阪 1日1往復(展望車つき旧型客車使用) はと 東京=大阪 1日1往復(展望車つき旧型客車使用) あさかぜ 東京=博多 1日1往復(20系客車使用) 平和 東京=長崎 1日1往復(寝台車つき旧型客車使用) はやぶさ 東京=鹿児島 1日1往復(寝台車つき旧型客車使用) かもめ 京都=博多 1日1往復(旧型客車使用) ・・・なんと、全国でたったのこれだけ。 その中で全車冷房搭載で、3等車にも冷房がついているのは151系と20系のみで後は食堂車か展望車・寝台車の一部だけ冷房搭載。これだけでも当時20系客車での旅が憧れだったかがわかる。 当時の特急列車で移動出来たのはこれこそ巨人レベルの金持ち球団で、王・長嶋みたいな当時のスター選手なら2等寝台も乗れたはずだから、 急行列車の3等車で新聞紙敷いて移動していた広島カープ選手が嫉妬したくなるワケも納得。・・・か?! >>630 そうだな、151系になったのは1959年からだったな 下関あさかぜと瀬戸のラウンジカーは2種類あったんだよな >>621 静岡や浜松まで乗り過ごした後どうしたかが気になるな。 花札して乗り過ごしたでは誤乗扱いにならないだろうし、切符はマネージャーが 持っていたかもしれないし。 >>634 そりゃ列車の中じゃ起きているうちは花札くらいしかやる事ないからな。あと名古屋到着が早朝じゃ寝過ごすリスクはあるだろう 昔は車掌補ていうのがいてたよな 下車駅近づいたら起こしにきてくれた 車掌補、列車給仕(列車ボーイ)とも呼ばれていましたね。 チップをあげると革靴を磨いてくれたり、終着駅だと 赤帽を呼んで荷物をホームまで降ろしてくれました。 オレ旅館の女中さんとかうっとおしくて 放っておいてってタイプだけど、ブルートレインには車掌補が各車両に乗っているのがいいな。大勢で列車運行してる感じがいい。 >>637 確かに「列車給仕」はいまでいう「バトラーサービス」に近い事をしていたけれど・・・ 現在のホテルでも「バトラーサービス」が存在するホテルはセントレジス、旧軽井沢ホテル、sankara hotel&spa屋久島、ザ・ブセナテラスなど これこそ超最高級クラスのスーパーラグジュアリーホテルだけに限定されており 欧米のホテルの格付け制度ではバトラーサービスは高級格付けのホテル「必須」のサービスになっている(無いホテルは高級じゃ無い!!) つまりどこのホテルでも やっている大衆的でチープで安っぽいサービスではないのだ このスーパーラグジュアリーなサービスがいくら時代が違うとはいえ、公共交通機関で提供されていた事実は凄い事なのは間違い無い 殿様あさかぜだけじゃなくて 金帯あさかぜ時代(特に下関あさかぜのグレードアップ後)があさかぜにとって豪華な時代の一つでもあった 補足 下関あさかぜの開放B寝台は銀帯だけどラウンジカーとシングルデラックスが金帯になっていたから グレードアップ後と書いた 639氏とは反対に就寝中の窃盗事件とか多かったので各車両でボーイさんが目配せしてなければいけなかったらしい >>641 最後まで残った下関あさかぜはA寝台も他より広くシャワーも使え、ラウンジカーもあったんだよな〜 当時機会あればさくぶさ富士ばかり乗り鉄していたのが悔やまれる… >>644 窃盗犯らしき奴に 「お前が窃盗犯って分かってるよ。見張ってるからね」 と目配せして牽制してるのかも >>645 犯人に合図するの? 目配りならわかるけどw 昔何かの番組で見たが、列車給仕や車掌は15両編成300mを一晩で20から30往復 15km前後車内を歩いていたらしい。 >>647 それは、多分番組用の答えだろうと思う 基本、優等列車列車の全編成を受け持つことはなく、各レチ毎に担当する号車が決まってる カレチが総責任者になる為、要注意人物が乗り合わせてるなど、状況によっては巡回することはあるだろうが15kmというのは・・・ >639 20系客車までは乗降扉が手動ロックだったので閉める作業 寝台設備の朝の解体、昼仕様の座席にするのが主な仕事だったのでは 638ですが、すんまそん、目配りだよね。自分でもおかしい気がした。オレのオヤジは中学生位の姉弟で本土から満州に行ったりしてたんだけど、優等列車の優等車でボーイさんが面倒見てくれてたらあまり不安はなかったんだろうと推測 >>634 昭和30年代の寝台特急は、プロ野球。特に西鉄ライオンズの関係者が「常連」だった模様。 用途は長期遠征用。 野球選手という職業を選んでしまったら、シーズン中はずっと超遠距離通勤をすることを強いられる。 今でこそ、選手は新幹線や飛行機が使えるが、かつてのプロ野球選手の長期遠征は鉄ヲタでもやりたくないレベルのハードさだった。 特に一番西の端っこの西鉄ライオンズが最も過酷だった。 西鉄ライオンズは本拠地の福岡市から東京や大阪へ移動するのに、新幹線もなければ高速バスもない 飛行機の安全性が極めて怪しい時代だったから、必然的に列車による移動しかない。 当時の時刻表だと大阪へ約10時間、東京へは約17時間もかかったのだから、 こんな過酷な移動をした後でまともなプレーができる方が不思議だった。 こういった厳しい環境で西鉄は黄金時代を築いたのだから恐れ入る。 昭和30年代特に九州から東京への移動は100%確実に「あさかぜ」や「はやぶさ」での移動だったようだ。 ちなみに関西遠征のときには特急「かもめ」での移動が多かったという 長い道程に耐えうる強靭な体力と、遠征を楽しい旅と思えるようなプラス思考のハートがなければ、 とてもプロ野球選手など務まらないと言える。 ちなみに、現在、福岡に拠点があるソフトバンクは、他球団と比べたら飛行機での移動がケタ違いに多い。 昔と比べたらマシだが、これでも日程はハード。 「あさかぜ」に初めて乗ったのが1974年夏の「あさかぜ2号」(11レ)で14系寝台車が 14両連なっていた。2回目に乗ったのは1976年の8月で「あさかぜ51号」(8011レ)は 24系25形で自分にとって初めての2段ハネであったが結局20系の「あさかぜ」には 乗る事ができなかった。その後、臨時「あさかぜ51・52号」として走ったけど2段ハネ に慣れてしまった身にはベッド幅50pの3段ハネは乗る気がしなかった。 >>656 14系「あさかぜ」に乗ったのは貴重だと思うけど。 当時としては「殿様あさかぜ」と比べ、編成のバリエーションが物足りなかったのはあるかも。 ところで14系「あさかぜ」で食堂車は利用した? また「あさかぜ」「さくら」だけの、列車名記念スタンプもあったと思うが・・ 適当ビジネスニュース報道プロ級世代新社屋TRUMPTOWER左遷「仏」40代監視カメラ使用コンプライアンス速報駐車場 (入社拒否 トランプジョーカー切り(創価大学消防庁コストカットアイドルマスターパイナップル株式会社)30代好評人気連載漫画「ヒカルの碁お前ら何や」 NHKトランプ大統領ニュース(ヤフージャパン上院社員特別生活費支給旅行沖縄汚染水スキンケアテレビ東京ギャンブル依存症顧問職員稲田籠池豊田 40代社会人集団ストーカー対策ーhondasouichirouー 横浜マドリッドスペイン上西フライングファイアーウォーターサーバーダイビングドライブシュート川中 中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティー(反日飛行機雲農薬散布マスク女問題)駅内マスクオンNACNN向け原文ママニュース いいじゃん。面白い切り口で。 655の画像見て思ったんだけど、蒸機の機関士は自分の後ろで カニのディーゼルエンジンが軽油燃料にがーーと唸ってるの見て どう思ってたんだろう。もう世の中は石油の時代で蒸機は時代遅れ などと感じていたのか。 >>660 20系が走った時代は非電化区間ではDLでなくSL牽引区間が存在してたが 当時のDLはDF50が量産されていたが、これがとんだ大駄作でパワー不足に悩まされ続けた C62=1620ps DF50=1200ps しかもDF50についてもっと頭が痛い問題としてエンジンにスルザー社のライセンス生産品を使用を強いられた そのため、当時のカネがない日本にとって調達コストが高額だった。だから国鉄はDD51を開発した。 1958年「あさかぜ」がデビューして間もないころ3連敗4連勝の日本シリーズは 西鉄と巨人が同じ「あさかぜ」で移動していた 1、2戦後楽園で連勝した巨人ナインは畏まってて、 連敗したのに西鉄ナインは麻雀とかで賑やかだったとか。 >>662 2連敗後の移動はさちかぜだったかと あさかぜは3連敗後2連勝して後楽園に戻る時だったと思う いや、違う。「さちかぜ」は「あさかぜ」と似ていて紛らわしいため1958年10月で「平和」になっているはずだ 昔の西鉄のプレーヤーたちに聞くと、移動そのものには、それほどの問題はなかったという。 「そういうものだ」とあきらめていたらしい。問題だったのは、宿泊環境が、球団格差が酷くて巨人と他球団では、まるで違っていた。 青大将が引く20系あさかぜが赤沢トンネルを抜け根府川橋梁にかかるカーブ もう路線自体が無い >>664 巨人は高級ホテルor旅館 その他は2流旅館 read.cgi ver 07.5.0 2024/04/24 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる