【元祖】寝台特急あさかぜ【ブルートレイン】
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なぜか「あさかぜ」のスレがないので立てました。
「あさかぜ」と言っても青函航路のフェリーでなく、ブルートレインのあさかぜです。 >>468
経験から言うと昭和47年3月の新幹線岡山開業の頃から比較的東京〜九州直通の寝台券の入手がしやすくなってきた。関西発の寝台特急の増発もあるが電車寝台〜岡山乗り継ぎ新幹線で博多〜東京の到達時間が12時間を切ったのが意外に大きい。 第一希望が寝台特急で座席急行は第5希望くらい
均一周遊券利用者は別として昭和30年代からすでに特急志向なんだよな
急行利用が一般的で特急が特別な列車で高嶺の花というのは切符がとりにくかっただけの話みたい >>470
さらも1972年頃には東京−九州のA寝台客なんかは飛行機転移が結構進んでた。
ナロネ20の凋落が始まったのもその頃からで、3年後の博多開業と同時に廃止。 >>472
とはいえその当時は開放A寝台料金でも4000円以下で、76年大幅値上げ後のB寝台料金と同程度だから、
客離れまではなかっただろう。
ただ同時期に登場した14系は、付属編成にA寝台が無かったのは、それなりの減少があったかもしれない。 >>472
ナロネ20の凋落?観念的に語るなよ。資料 コピペで語っているのがバレバレ。 どこかで書かれてたけど同じ(3等級時代の)1等の末裔であるナロネ20と151系のパーラーカーであるクロ151と比べたら前者のほうが幸せな生涯だったと思う。
でも格的にはナロネ20とクロ151とではどっちが上なんだろ? >>476
クロ151の区分室は、ナロネ20の二人用個室と通じそう。
ただ昼行運用と、夜行寝台で前提条件が違うと、どちらが格上かを比べるのは無理があるのでは? >>455
そもそも50〜60年代の飛行機はまだ未熟だった時代で1〜2年に1回デカい事故をやらかしていた
例えカネがあっても、速くても「空飛ぶロシアンルーレット」そのものだったからとてもとても一般的じゃない 20系「あさかぜ」は昭和30年代が黄金時代だったが・・・。1958年11月当時、高速道路は日本には存在しない。これは大きい。
日本の道路はかなり遅れていた。なにしろ当時の日本は貧乏国だったのと、日本の道路は欧米先進国と異なり、馬車交通等を経なかったため、強烈に遅れていた。
そのため当時の道路事情は主要国道でさえ、舗装されている区間は非常に少なかった。昭和33年の舗装率は国道27.3%、都道府県道4.3%、市町村道0.6%、全体で1.7%。あとはすべて未舗装だった。
日本初の本格的な都市間高速道路である「名神高速道路」栗東IC - 尼崎IC間の開業は1963年7月16日、舗装区間が劇的に増加するのは昭和40年以降の話
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/image/hpaa196201/fb4.17.9.gif
http://www.npa.go.jp/hakusyo/s48/s480600.html
http://www.taikasha.com/doko/chapt33.htm
そんなわけで20系「あさかぜ」は平行する幹線道路がダートなんてのもザラだからそりゃみんな鉄道使うよ >>476>>477
格付けはともかくとして実際に利用されていた点では文句なしにナロネ20。何年か前の鉄ピク誌に東海道当時のパーラーカー区分室の年間乗車率3.6%と言う驚愕の数字が発表されていたがナロネ20ではさすがにそんなことは無かった。 >>479
ブルトレで殿様商売できた時代だな。
他の優等列車も同様だが >>482
修正、並行私鉄がない場合は優等列車で殿様商売だ。長距離は独占状態 まだ高速道路もなく飛行機も上流層限定の時代だったからな 14系時代と24系時代の臨時あさかぜはあまり話題になってない気がする >>487
やはり「あさかぜ」といえば、東京〜博多を走った元祖1・2号(78年10月から1・4号)だろうw >>486
1950〜1960年代の飛行機乗りたくないよな
安全性が確立してない時代だったから空飛ぶロシアンルーレットだもん >>489
乗りたくても乗れないだろ?
その時代に行けるのか?
行けるならもっと他の事するw ___ _
ヽo,´-'─ 、 ♪
r, "~~~~"ヽ
i. ,'ノレノレ!レ〉 ☆ 衆参の両院のそれぞれで、改憲議員が3分の2を超えております。☆
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ゝン〈(つY_i(つ いよいよ日本国憲法改正の、国民投票が実施されます。お願い致します。☆
`,.く,§_,_,ゝ,
~i_ンイノ >>306
『大いなる驀進』は今見たらすごい映画だな
本作は黄金時代の鉄道を記録した映像として価値が高い。
国鉄の全面協力は大きく、映ってる列車の車内は、セットではない。実物だ。
EF58特急色や山陽本線のC62、東海道本線の80系湘南電車などが
ゾロゾロ登場するというのも要チェックです
鉄道がメインの交通手段だった時代の記録として本作は間違いなくトップクラスの作品だと思います。
http://shop.toei-video.co.jp/products/detail.php?product_id=16099&transactionid=5fd3b3fb057d43a3571bcb58e73083c08ce4fc97
↓がワンカット。↓の画質の映像として残ってるだけで見る価値は高い
https://pbs.twimg.com/media/CIMmI5BUEAAT8NQ.jpg
https://pbs.twimg.com/media/CIMmI5HUsAA8z-Y.jpg >>463
>>466
昭和35年当時の公務員初任給は約13,000円、理髪160円、映画館入場券200円、米10Kgが870円という時代だぞ
1泊1000円以上は当時の物価水準だと最高級ホテルそのものになるぜ
>>476-477
クロ151、儲かってなさそうで、実は真っ黒
グランクラスより儲かった国鉄の「特別座席」
1カ月ちょっとで元が取れた「パーラーカー」
http://toyokeizai.net/articles/-/167132
新幹線開業前の東海道本線なんて、超ドル箱路線で
高速道路がなくて飛行機がまだ安全性が怪しい時代だったから、
減価償却なんて簡単にできたんだろうな。 >>477
最初の16両には列車公衆電話の需要を見越した電話室も設置されていましたが、
使用実績もなくその後の計画もなかったことから車内販売準備室に変更されました。
これはある意味正解だった。
151系では、「列車電話」が開発されたんだけど・・・・。
東海道沿線14箇所に基地局を設置し、それを介して一般回線へ繋いだ。
電話機にはダイヤルはなく、口頭で交換手に電話番号を直接伝えた上で相手先に繋いでもらう方式
固定電話から交換手を通じて列車へ電話をかけることも可能だったけど・・・。
電話が使える区間は、沿線である東京圏・名古屋圏・大阪圏限定であった。
これを「あさかぜ」にあてはめたら
電話が使えるのは下りなら出発時の午後6時半から午前1時半まで、
上りなら午前2時半から終着の午前10時までと
強烈に使い勝手が悪い代物に化けていたからな・・・。 >>493
東海道以外では客乗ってなかったのか?
儲かるなら「とき」や「雷鳥」「はつかり」や「つばさ」にはパーラーカーが繋がれなかったのが不思議 >>495
山陽では全くのられなかったろ?
東海道でも満席までは行ってない >>480
当時のナロネ20、ナロネ21は岸首相など山陽線沿線に選挙区がある議員が地元と東京を往復するために乗っていた
誰が言ったか知らないが「動く執務室」なんてあだ名もあった 内田百閧ヘマイネ40に乗っても昼間は鬱陶しいのでロ座に
移動していた。
ナロネ20利用の客はナロ20や座席に直したナロネ21に移動
できたのかな? 20系銀河に乗れた時は最高
その後、20系あさかぜに乗れた時はショックで
食堂車で元に気分を落ち着かせ
24系あさかぜになったとき 悔しい思いをした。 初めて上りあさかぜ1号の20系ナロネに乗った時は天佑だった。 >>498
20系誕生当時、電化区間は東京=姫路・下関=門司間だけで、それ以外は非電化区間だったからな〜。
そして1958年当時非電化区間を牽引していた機関車はSLだった。だから、そんなに速くない。
だけど、昭和30年代当時の特別急行列車の機関士、機関助士、乗客専務車掌などの乗務員は、
今のように若くて経験も浅い職員が気安く乗務できる列車などではありませんでした。
もっとも、いくら優秀な乗務員が運転していて、石炭も良質なものを使用していたとはいえ、
今の基準からすれば快適さからは程遠いスパルタンな乗り心地だったことは想像に難くありません。 >>494
>電話が使える区間は、沿線である東京圏・名古屋圏・大阪圏限定であった。
これは圏内走行中にその圏内に電話をかける事しかできなかったの?
例えば東京〜横浜間を走行中に名古屋圏や大阪圏に電話するとかは出来なかったのかな。
各圏内間を相互にかける事ができないのならまったく意味がない気がするけど。 >>502
今と時代が違うからねえ
遠距離通話なんて、交換手に頼んで数時間回線空くまで待つような時代だから
・・・だがしかし、「動くモノに電話が付いている」というだけでも、圧倒的なステータスだった。
20系食堂車「ナシ20」の初期の16両には列車公衆電話の需要を見越して
準備工事を施工した電話室が設置されていたが、
昭和30年代当時は無線通信技術が発達しておらず、
交換手と基地局の拡充が避けられなかったため、断念した。
その後、ナシ20の増備車は車内販売準備室に設計変更されることになる。
・・もし実現していたら、東京〜大阪間しか使えないという代物になっていたかもしれない。 自分はまったく知らない世代だけど
かつては列車内から専務車掌等に依頼して電報取扱駅から電報打つことができるサービスがあったらしいけど
当然20系時代のあさかぜでもやってたはずだろうし、
むしろ当時の実情だと電話より実用的で利用する人も結構いたんじゃないのかな。 >>495
>>496の述べるパーラーカー利用者が激減した山陽本線在来線特急でさえ、583系を除き
グリーン車2両連結されていた。
まして在来線時代の東北特急は、基本グリーン車1両だったからな。
在来線特急でグリーン車2両だった「とき」「雷鳥」も温泉レジャー利用客も多かったので、
パーラーカー利用は見込めなかっただろう。
あと現在でも東海道新幹線がグリーン車3両繋げているのに、上越新幹線は基本1両なのも需要の違いが明白だろう。 >>506
で、あさかぜのナハ20の座席車で
九州へ帰ると… >>498
別にナロネ20の乗客じゃなくてもロネの乗客だったら食堂車で朝食を済ませた帰りにナロに座って一息いれる位のことは車掌さんから咎められるようなことはありませんでした グランクラスの客が車販を求めて車両を移動して
空いてるグリーン車で一服したら車掌に咎められそう。 >>513
はやぶさ・かがやきに自由席はない!
やまびこ・はくたかの自由席は遠い! >>515
うん時代だね。ナロにも座らせて貰えたし乗務員氏の手が空けば電源車に案内してくれたしね。 旧客急行でネの客は寝るまでの時間
空いてる座席車自由席に移動して
飲んだり食ったりしたもんだ。
最後の経験は急行あおもりハネ利用の際
フリースペースの解放ロ座で過ごした。 ルーメットには給仕(今でいう、バトラー)を呼ぶためのベルボタンが付いていました。
このボタンを押すと給仕が来て食堂の予約を頼み、
食事中に寝台セットを完了して、就寝前に朝刊手配と靴磨を頼むことが可能でした。
ホテルと同じで特に給仕にお世話になるとチップも渡していたようです。
とにかく次元の違う存在が「あさかぜ」です。 >>518
とごのコピペだか?
あさかぜが20系になった時代食堂車は予約制ではなかったし寝台設営時に食堂車に行くのは極々一般的なことでした。朝刊はルーメットじゃなくてもプルマンの乗客にも配られてましたよ。下り列車の場合、岡山発行の朝日新聞が通例でした。 >>518
あさかぜに限らない。呼出ベルは20系客車としての設備だし、ボーイも当時はまだまだふつうであさかぜに限ったことではない。 >>518-520
やはり戦後はアメリカに占領されたせいで、アメリカの風習を踏襲してたのだね。 >>524
車掌補?随分新しいねぇ…。2段ハネが登場してから出来た職制だね。乗務員1車1の頃はボーイって言われてたけど乗務員が2車1になってボーイが国鉄の正規職員になってからは乗客掛。 >>525
そうすると車掌補の職制は短かったのだな。
1976年10月改正で、東京口の三列車を二段B寝台化と同時に廃止された。
20系博多行きあさかぜ1号も、それと同時に東京駅で寝台がセットされた状態で発車となった。 2段B寝台の上段て格納できたっけ?
作り付けだった気もするし 24系25形の0番台は製造当初は格納
ただし固定型の100番台以降や14系15形に準じて
0番台ものちに固定化された >>519-520
「列車給仕」はいまでいう「バトラーサービス」に近い事をしていたけれど
このサービスがいくら時代が違うとはいえ公共交通機関で提供されていた事実は凄い事である
なぜなら現在のホテルでも「バトラーサービス」が存在するホテルは
超最高級クラスのホテルだけに限定されているからだ
つまりどこのホテルでも やっている大衆的で庶民的なサービスではないのだ
ここらへんを考えたら20系時代、昭和30年代のあさかぜが「走るホテル」と言われたのも納得できる…。か?! >>526
>>525だけどついでに言えば1976年〜77年の年末年始のあさかぜ51号も24系25型の3車1の乗務員に合わせた為20系で運転ながら@号車にナハネフ23を組込編成でした。因みに編成はカニ21@ナハネフ23A〜Eハネ.増EハネFナハネフ23GHハネIナハネフ22。 バスには車掌が乗っていて駅には赤帽がいてセルフサービスやバイキングなどなかった時代
小田急ロマンスカーには大勢の女性係員が乗っていて扉を開けてた時代
「あさかぜ」がそんなに特別だったのかなあ >>531
東海道線全線電化と同時に新設の九州特急で、日本で最初の20系特急だったから。
人的サービスなら、客車時代の「つばめ」「はと」の方が上だったような。 >>529
前半はそのとおりだが、後半どうしてもアサカゼに結びつけたいんだな。
サービス面は当時の優等列車全般にあった話であって
あさかぜが格別というわけではない
単に新型客車が最初に導入したのがあさかぜというだけ >>531
大勢の女性係員〜っと言っても1車1じゃないだろう? >>531-532
やっぱりそう感じるよね。なんか529はあさかぜが好きなのはよく伝わってくるが、何でもかんでもあさかぜだけ特別なことにしたい印象を受ける 20系時代がB寝台個室があればどうなっていたのだろうか >>525
2段ハネ登場時には車掌補は廃止されたのでは?
たしか1975年頃の鉄道ジャーナルのあさかぜの列車追跡ルポでも車掌補と呼ばれていたはず >>534
小田急は走る喫茶室の女性従業員がおおむね各車両にひとり乗ってたみたい
座席に注文をとりに行って茶菓を座席まで運び
駅では扉の開け閉めと、お辞儀しての送迎を行っていた >>537
ジャーナルの76年7月号でしたね。この年の10月に東京口に2段ハネが登場した時に車掌補が廃止されました。最初の2段ハネが登場した74年4月の時には車掌補の制度は残っていました。いずれにしても短い間の制度でした。 RJ1974年7月号のルポですね。
白井朝子嬢が登場する熊本行あかつきだったかな >>540
RJ74年7月号は2段ハネ彗星の運転初日のルボ。 昭和47年(1972)7月の品川客車区の編成作業合理化の為ナロネ22があさかぜに集約されて俗にいう 殿様あさかぜ の登場と成る訳だがこれによって1人個室のルーメットの切符が取りやすくなった。この時以降にルーメットに乗車された方も多いのではないか? >>541
それ持ってたな懐かしい
引っ越しでどこかに行っちゃって無いけど あさかぜは25形0番台がほとんど使われていなかったな >>545
使われたのは昭和51年(1976)夏に運転された25型100の早期落成車主体のあさかぜ51号のJ号車に組まれたオハネフ25(47.49大ミハ)ゴールドラインになってからのオハネ25(37.38)さくら.はやぶさが併結後に運転された最後のあさかぜ81号の時熊クマのオール0番代の時だけ。 14系と24系時代の臨時あさかぜは結構意外な編成が多かったな
白帯とあさかぜのイラストマークの組み合わせもあった 大阪駅で見た上り臨時あさかぜは
ヘッドマーク無しで格落ち感あり >>547>>548
博多あさかぜ廃止直後の平成6年暮の臨時あさかぜ、14系8連絵入りマーク。九州内EF81には臨時にも関わらずヘッドマークを付けていた。何かの思い入れかな? >>547
当時定期運用のなかった熊本の14系15形も使用されていたんだよな >>542
72年当時のA個室料金は、5400円だったと思う。
今にしてみれば安い価格だが、他の料金と比べ敷居が高かった。
全般的に国鉄運賃・料金が安価で、三段式B寝台料金が1600円程度。
グリーン車は3000円出せば、打ち切り制でないので相当な距離に乗れた。
それでも300円の急行料金だけで乗れる、長距離急行の自由席が満員の日は多かった。
そんな世相から寝台料金だけで5400円は、結構覚悟の出費だっただろう。 >>551
ルーメットに5400円出すと東京〜福岡の航空機より高くなった。 時刻表の地方名産品の「時価」
一体幾らだったのか気になる 14系あさかぜってやっぱ黒歴史なのかねw
まるで記憶も印象に残るものもない。。
さくら/みずほの間合いだったっけ?? >>555
黒歴史ではないがあさかぜと言えば博多あさかぜ1.2号に代表されて14系の2.3号急行安芸格上げの3.1号は地味な存在だった。寝台幅の広い14系にも関わらず切符の入手は20系の1.2号より容易だった。 >>555
多客期につかえるものは総動員した結果じゃないの?
一般の客は形式なんか気にしないだろう、気づくのは新車かボロか、ベッド幅の違いくらいじゃない >>557
定期時代の14系と臨時時代の14系で意味合いが変わる
臨時あさかぜの14系24系時代は様々な車両区の編成を使用していた >>555
間合いでなく、共通運用が適切だろ。
14系あさかぜ廃止後車両は、いなば・紀伊に転用。 14系・24系25形の「さくら・はやぶさ」も「富士」の間合い運用ということになってしまうなぁ
黒歴史とか使っちゃう子だから仕方がないか 「臨時あさかぜ」とはそのまま列車名だと思ってこのスレ読んでいた…
http://i.imgur.com/9awR5B4.jpg >>560
富士はさくら・はやぶさの間合い運用で正しいかも
東京発着の寝台特急で間合い運用といえるのは
下関あさかぜの間合い運用の瀬戸
熊本みずほの間合い運用の長崎さくら
鹿児島・熊本24系はやぶさの間合い運用の宮崎・大分24系富士
長崎さくらの間合い運用の佐世保さくら
長崎さくら・熊本はやぶさの間合い運用の富士
14系はやぶさの間合い運用の14系富士
サンライズ出雲の間合い運用のサンライズ瀬戸 >>562
言葉覚えたからとりあえず、コスパ、コスパ言うバカに近いものがあるのぅ。 ただ>>562の例だと車両基地の関係で間合い運用ともいえる
14系あさかぜといなば・紀伊は品川担当だから共通運用が正しい 結局、間合い運用と共通運用の明確な違いってなによ? >>567
大まかに都市圏の所属車両基地が基準は共通運用、終着駅基準で別運用にされるのが間合い運用になるだろう。
例えば新幹線博多開業前の20系「あかつき」は品川の車両だった。
「はやぶさ」で西鹿児島・長崎に到着してから使用するので、間合い運用だろう。
583系なら「しらさぎ」が「金星」の、「にちりん」が「彗星」の間合い運用時期があった。
14系「さくら」「みずほ」「いなば・紀伊」や、24系・25型の「はやぶさ」「富士」「出雲」については、
国鉄時代の品川客車区基準にして共通運用。 >>568
国鉄時代の終盤からJR化以降の「さくら」「みずほ」や「はやぶさ」「富士」は
さくらとみずほの品川の付属編成運用以外は間合い運用になる
また下関や広島に配置していた下関あさかぜと瀬戸や
出雲支所に配置されているサンライズは瀬戸が出雲の間合い運用であり
特に同一編成化後のさくらと富士ぶさとサンライズは運用の関係で
下りと上りが通常の分割併合列車とは違うパターンの編成を組んでいる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています