【元祖】寝台特急あさかぜ【ブルートレイン】
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なぜか「あさかぜ」のスレがないので立てました。
「あさかぜ」と言っても青函航路のフェリーでなく、ブルートレインのあさかぜです。 もう一つあさかぜの思い出をあげると
70年代は“DISCOVER JAPAN”と銘打って
国鉄がキャンペーン中で、この一貫として
あさかぜの下りの場合でいえば
最後尾の車両に記念スタンプが置かれた
時期があり、“あさかぜ1号”と押印した紙を
今も保存している
東京タワーと鳥居ともみじをあしらっていて
鳥居からEF65 500番代と思われる機関車に牽引される
あさかぜが通り抜ける様子が描かれている >>410
DISCOVER JAPAN時代当時、時刻表のスタンプ設置駅と列車の一覧では「あさかぜ1・2号」と「さくら」の
設置が記載されていた。
確か食堂車喫煙室に設置と記載があったが、最後尾とはナハネフ22?もしそうなら意外な話。
スタンプ廃止は「1枚のきっぷから」スタンプ切替えの1977年あたりからかな?
確か77年や78年1月にスタンプは既に無かった。 >>408
臨時あさかぜは、皮肉にも殿様あさかぜ25型置換え後、20系にグレードダウンした。
丁度ブルートレインブームもあって、20系あさかぜ復活と喜んだ連中もいたけど、
オール三段B寝台で、寝台の解体や食堂車はなし。機関車のHMもなしでは利用者としては
大外れだっただろう。
臨時あさかぜの20系はJR化後も続き、90年代に入って臨時寝台急行「玄海」に改称された。 >>412
設備の関係で急行玄海になった臨時あさかぜであるが
今度はあさかぜ1.4号とみずほの臨時格下げによって
14系や24系を使用したあさかぜ81.82号として再び登場することになった
その臨時あさかぜも一度は運行をしなくなるが今度ははやぶさとさくらの併合運転開始により
旧はやぶさのダイヤを使用して再び走ることになった >>411
同乗者若しくは車掌に聞いて知ったか
どういう経緯でそこにあることが判ったか
今となっては判然としないが
確か非貫通車両(ナハネフ22?)の先端の
大きな2枚窓ガラスの内側すぐ下に棚があり
その上にスタンプが置かれていたと記憶
当時は未成年でタバコを吸わなかったし
食堂車も>>393で書いたようにあさかぜの
食堂車には一度も行った記憶がないことから
間違いないと思う
この頃はあさかぜには乗ることが目的ではなく
乗ったあとに何らかの目的を持って乗車して
いたが今思えばもう写真を撮るとか少し細かく
記録しておけばよかった
その後ブルトレ寝台に乗る目的で乗ったのは
なはのソロ、北斗星のロイヤルとカシオペアぐらい 「みずほ」のビュッフェて何だ、急行電車の奴か?半車ではなさそうだし 臨時繋がりで追記するが
しおじの臨時列車にも乗ったことがある
1973年か1974年のどちらかの夏で、
51号か52号か忘れた
レギュラ―のしおじは電車特急だが
この臨時は14系客車だった
座席は簡易式リクライニングで車内は
空席だらけのガラガラの状態だった >>418
車両は「さくら」と共通運用のオシ14だったが、
メニューが簡素で、食器もコンビニのおでん容器の
ような使い捨ての紙皿・紙コップ物だった。
一度利用したことがあるが、雰囲気もいまいちで、
もっと言うと、「みずほ」は列車全体の雰囲気も
他の九州特急より落ちる感じで、「さくら」や
「はやぶさ」が満席でも「みずほ」には空きがある
ことが多かった。
「みずほ」の簡易営業はググればたくさん出てくるよ。
例えば。Wikiの「はやぶさ」の候にも記述されている。
スレチになるが、食堂車廃止直前の「雷鳥」のサシ481も
一部の列車が簡易営業になっていた。 >>419 >>421
その当時の臨時特急は、概してガラガラだった。
臨時はノロい、食堂車・グリーン車がないのが相場だったのがある。
一番大きいのは当時のマルスが、定期列車満席の場合に臨時列車代替検索ができなかった。
今のマルスシステムなら、希望列車が満席でも臨時列車の空きが分かるようになっている。
もっとも今の在来線の臨時列車は、往年を偲ぶ本数はないがorz >>423
>>419です
申し訳ないがエルムにも乗車したことがある
B寝台だけのモノクラス編成で一応HMは
付けていた
函館本線の海岸支線に乗るため
上野から森まで乗車
乗り換えまで時間があるので駅を降り
イカメシを買った 確か300円だった 本題とは横に滑ってすまんが
ここにはかなりのマニアか専門家のような方が
登場されるので判れば教えて頂きたい
寝台列車に何度か利用された人で鉄道好きであれば
お気付きかと思うが
通路が真ん中のプルマン式A寝台や583系等の寝台車は
別にして、通路が左右どちらかに分かれる。
同じ一列車で車両ごとバラバラは有り得ないと思うが
この向きに何か決まりでもあったのだろうか? 自分の経験でいうと
海側が通路で山側が寝台というパターンが
一般的のような気がする
これは東海道山陽及び東北共通かもしれない
日本海側の寝台列車には電車急行きたぐにしか
乗ったことしかないのでどのような傾向か不明 >>426
全部書き込む前にレスが来たが
やはり規則はないのか
はやぶさのA個室に乗ったときは
山側が通路だったのでどうなのかと思った 24系24形の初期のころの編成や14系は一端の緩急車の向き変えて連結してたしな >>429?
緩急車の向きとブレーキ制御と何か関係するの? >>429
24系25型当初の、食堂車基本編成運用時の「富士」「はやぶさ」「出雲」は緩急車が
全部東京寄りの向きだった。そのため切り離した際の付属編成は、間抜け面だったw
博多「あさかぜ」25型化に伴い、食堂車を付属編成に移した際にオハネフ25・200番台が
連結されて、間抜け面はなくなった。 >>430
ブレーキは関係ないよ
単に折妻端を編成の端に持って来たかったんじゃね?
そうすると14系の場合確実に編成の両端で寝台の位置変わるわな >>431,>>432
レスサンクス、了解です
東京始発の九州山陽ブルトレはみずほ以外は
乗車したが14系は殆ど乗らなかったので
(上りのさくらに広島から一度だけ乗車、晩年の
はやぶさ・富士併結列車も乗車機会なし)
通路の位置がバラバラになる場合がある
という認識が足らなかったようだ 200番台は分割併合の時、現場ではやりやすかったのかな?模型で見るとかなり微々たる差だね。
この話題あながちスレチでもなく、下関あさかぜの逆向きは300だけじゃなく、100番台も可能に改造したヤツもあった。131とかだっけ? >>434
>分割併合の時、現場ではやりやすかったのかな?
やりやすかったのかもしれないけど
20系では問題にならなかったんでしょ?
だったら変な話だよね >>435
問題にならなかったらスハネフ14もオハネフ24も後退角のない切妻だったろ 二等座席車乗ったなナハ20だかナハフ20
売店が付いてた記憶がある >>424
エルムなんてそれこそ臨時あさかぜか、関西〜九州ブルトレの格で、食堂車もないモノクラスで
面白味なかったように思える。
機関車交換と方向転換で青森・函館に長時間停車したから、食料調達に困らなかったかもしれないけど。 おれは今、昭和30年代にタイムトラベルして西鉄ライオンズの選手と行く
20系「あさかぜ」の旅をほんのちょっぴりだが体験した!!
い…いや…体験したというよりはまったく理解を超えていたのだが……
,. -‐'''''""¨¨¨ヽ
(.___,,,... -ァァフ| あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
|i i| }! }} //|
|l、{ j} /,,ィ//| 『おれは飯を食おうと思って食堂車に行ったら、
i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ 西鉄ライオンズの選手たちが食堂車にあるメニューを片っ端から頼みまくっていて
|リ u' } ,ノ _,!V,ハ | アッという間にビール、ウイスキー、日本酒も食料も全部消えた』
/´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人
/' ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ な… 何を言っているのか わからねーと思うが
,゙ / )ヽ iLレ u' | | ヾlトハ〉 おれも何をされたのかわからなかった…
|/_/ ハ !ニ⊇ '/:} V:::::ヽ
// 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ 頭がどうにかなりそうだった…
/'´r ー---ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐ \
/ // 广¨´ /' /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ 飯が激マズだとか、相席した選手が酷いとか
ノ ' / ノ:::::`ー-、___/:::::// ヽ } そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
_/`丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::... イ
もっと恐ろしいプロスポーツ選手の暴飲暴食の片鱗を味わったぜ…
http://dk4130523.hatenablog.com/entry/2014/10/29/011701 >>356
あと昔の映画を見てると代議士役の人が個室で寝て昼は座席車だった
急ぎの用で飛び乗った人も座席車だったり 20系時代の「あさかぜ」は「動く最高級ホテル」といっても大げさではなかった
なにしろ2等寝台の利用者は政財界の大物や有名芸能人・プロスポーツ選手のどれかだったんだから客層が違う 24系以降のあさかぜの編成としての全盛期は
下関あさかぜのラウンジカー&A寝台個室連結後だろうな >>443
その頃時代はもっと進んでいたから、相対的には見劣りしていた >>444
ただその頃は先にグレードアップされていた
博多あさかぜでまだ食堂車が営業していた時期だったから
その後よりはまだよかった >>441
昭和30年代の「あさかぜ」は「動く最高級ホテル」といっても大げさではなかった
理由は新幹線がない・飛行機も未発達だけでなく、高速道路は日本にはまだ存在しない。
当時の道路事情は今のベトナムと大差ない道路で、主要国道でさえ、舗装されている区間は少なかった
舗装区間が劇的に増加するのは昭和40年以降の話
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/image/hpaa196201/fb4.17.9.gif >>442 >>446
昭和30年代のあさかぜのナロネ20なんかは本当に選ばれた階層しか利用できなかったからな。
今のななつ星・四季島・瑞風みたいにお金さえ持ってたら平民でも乗れるという訳ではなかった。
まだ戦前の身分制度が残ってた時代だったしな。 >>448の訂正・補足
× 戦前の身分制度が残ってた時代
◎ 戦前の身分制度はなくなったけど、人々の意識の上ではまだ残ってた時代 >>446
それ以上に動くホテルを支えていたのは多くの人手が掛けられていたことだ。1車1名の乗務員、10数名に上る食堂車クルーによるかいがいしい人によるサービスで動くホテルが成り立っていたのだ。 昭和30年代には鉄道以外ににまともな交通手段がなかったという事情もある
航空機は安全性が低く1年に1〜3回深刻な事故をおこしていた
道路は高速道路なんてなかったんだし未舗装も珍しくなかった >>450 機関車の運転関係要員も含めれば、戦前の超特急燕の方が人手かかってるだろ
御殿場線経由だった頃は、SL補機の要員も必要だったし >>450
ナロネ20、ナロネ21にはセントレジスのバトラーサービスみたいなのがあったからな 「走るホテル」というが、昭和30年代から40年代前半で二段ベッドでトイレ共用、風呂無しだったら市中の安ホテルの部類だろ。
三段ベッドなんてユースホステルにも無かった。部屋に詰め込んで冷房なしで特急料金に二等寝台料金取ったら、当時でもぼったくりと言われただろうな。 当時は移動手段が在来線しかなかった
新幹線がなかったから、在来線という概念も無いが…
必然的に、長距離移動ではどこかで夜をまたいだ
寝台車も贅沢品、帰省時など大衆は夜行急行の座席に殺到
飛行機は限られた高級旅客だけ、一般人には雲の上の存在
社会情勢が、今と全く違うわな >>454
時代背景を理解してないヤロジタの類い。 >>454
飛行機国際線のビジネスクラスと似たようなもんだよ
限られた空間でパーソナルスペースを提供するのはそれなりの料金を取らにゃ ヨーロッパなら簡易寝台車レベルのナハネで「走るホテル」と言われてもなあ・・ >>454
Q:20系寝台特急「あさかぜ」がなぜ「動くホテル」なんですか?
実車を大宮の鉄道博物館で見たんですが、相当にベッドは狭そうでそれも三段です。
特に一番上は這って入るのがやっとのように見えますけど・・・・・。
A:1958年11月当時、20系客車が当時の日本の庶民の生活水準を遥かに上回る
これこそ当時の最高級ホテルに近い設備だったからです。
1958年11月当時、冷暖房があるホテルや旅館はあったことはあったんですが
「帝国ホテル」レベルの 最高級グレードのホテルや最高級旅館のみに限定されていました。
当時、家庭用エアコンなんて影も形も無かった。職場にも冷房が存在しないのが当たり前です。
企業でも冷房を設置してるところは極めて珍しく、 この頃冷暖房が入っているのは
大都市の映画館、銀行、デパートくらいなものでした。 一般家庭では扇風機があれば良い方であった
大抵の一般庶民は、冷房が無い旧型客車で長距離を移動するのが当たり前だったのである。
なお、ホテル業界で日本初の全室冷暖房完備のホテルは1938年に開業した新橋の第一ホテルで
夏になったら避暑地代わりに使用する金持ちが多かったそうです。
http://www.hankyu-hotel.com/hotel/dhtokyo/other/rekisi/special.html
http://zexy.net/wedding/c_7770001895/blog/article/807568.html >>459 だから、ヨーロッパでいう簡易寝台車に冷房取り付けたら、最高級ホテル並みの料金ぼったくることができたってわけね。 >>454
あさかぜ20系化される前は2等C寝台繋いでただろ?
>>460
当時としてはぼったくりじゃないのさ
最高級ホテル並みの料金じゃないし 1966年当時、軽井沢万平ホテル、3食付きで2700円。
同年、東京・博多間、二等寝台下段利用で二等特急料金1000円+寝台料金1000円=2000円。
運賃は除外。
万平ホテルの食事なし、素泊の宿泊料よりも、ナハネの下段料金(運賃除外)の方が高そうだ。
このホテル、今では3食付きで2万円以上する高級ホテルだよ。 そんだけ取っても儲けにならなかったから消えただけのことなのに
それをお前が払えなかったからといってぼったくりとか言われてもなあ
あんたが高いと感じている料金も必要な対価だったんですよ
それでも足りなかったから続けることが出来なくなった
むしろ安売りしすぎたくらいだった
だから今は適正価格のクルーズをどこの会社もやってる >>464
特急料金は含まれないよ(寝台のみ)
家にナロネ20デビュー
1958-10時刻表があった!
新橋第一ホテル(現在、第一ホテル東京)
広告と比較して判断願います。
http://i.imgur.com/DgSfdJr.jpg
http://i.imgur.com/smFkI5a.jpg 寝台車のほうが先に売り切れていた気がするが
寝台特急がとれなくて夜行座席急行で行ったとかよくある話 座席と寝台で、定員が全く違うな
14系以降の3段が48、2段が34
20系はどうだったっけ?
座席車は特急型が68〜72、急行だと84〜88ぐらいか
新幹線博多開業辺りまでは寝台の供給数が足りなかった、そりゃあ寝台券が取れんわな >>468
経験から言うと昭和47年3月の新幹線岡山開業の頃から比較的東京〜九州直通の寝台券の入手がしやすくなってきた。関西発の寝台特急の増発もあるが電車寝台〜岡山乗り継ぎ新幹線で博多〜東京の到達時間が12時間を切ったのが意外に大きい。 第一希望が寝台特急で座席急行は第5希望くらい
均一周遊券利用者は別として昭和30年代からすでに特急志向なんだよな
急行利用が一般的で特急が特別な列車で高嶺の花というのは切符がとりにくかっただけの話みたい >>470
さらも1972年頃には東京−九州のA寝台客なんかは飛行機転移が結構進んでた。
ナロネ20の凋落が始まったのもその頃からで、3年後の博多開業と同時に廃止。 >>472
とはいえその当時は開放A寝台料金でも4000円以下で、76年大幅値上げ後のB寝台料金と同程度だから、
客離れまではなかっただろう。
ただ同時期に登場した14系は、付属編成にA寝台が無かったのは、それなりの減少があったかもしれない。 >>472
ナロネ20の凋落?観念的に語るなよ。資料 コピペで語っているのがバレバレ。 どこかで書かれてたけど同じ(3等級時代の)1等の末裔であるナロネ20と151系のパーラーカーであるクロ151と比べたら前者のほうが幸せな生涯だったと思う。
でも格的にはナロネ20とクロ151とではどっちが上なんだろ? >>476
クロ151の区分室は、ナロネ20の二人用個室と通じそう。
ただ昼行運用と、夜行寝台で前提条件が違うと、どちらが格上かを比べるのは無理があるのでは? >>455
そもそも50〜60年代の飛行機はまだ未熟だった時代で1〜2年に1回デカい事故をやらかしていた
例えカネがあっても、速くても「空飛ぶロシアンルーレット」そのものだったからとてもとても一般的じゃない 20系「あさかぜ」は昭和30年代が黄金時代だったが・・・。1958年11月当時、高速道路は日本には存在しない。これは大きい。
日本の道路はかなり遅れていた。なにしろ当時の日本は貧乏国だったのと、日本の道路は欧米先進国と異なり、馬車交通等を経なかったため、強烈に遅れていた。
そのため当時の道路事情は主要国道でさえ、舗装されている区間は非常に少なかった。昭和33年の舗装率は国道27.3%、都道府県道4.3%、市町村道0.6%、全体で1.7%。あとはすべて未舗装だった。
日本初の本格的な都市間高速道路である「名神高速道路」栗東IC - 尼崎IC間の開業は1963年7月16日、舗装区間が劇的に増加するのは昭和40年以降の話
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/image/hpaa196201/fb4.17.9.gif
http://www.npa.go.jp/hakusyo/s48/s480600.html
http://www.taikasha.com/doko/chapt33.htm
そんなわけで20系「あさかぜ」は平行する幹線道路がダートなんてのもザラだからそりゃみんな鉄道使うよ >>476>>477
格付けはともかくとして実際に利用されていた点では文句なしにナロネ20。何年か前の鉄ピク誌に東海道当時のパーラーカー区分室の年間乗車率3.6%と言う驚愕の数字が発表されていたがナロネ20ではさすがにそんなことは無かった。 >>479
ブルトレで殿様商売できた時代だな。
他の優等列車も同様だが >>482
修正、並行私鉄がない場合は優等列車で殿様商売だ。長距離は独占状態 まだ高速道路もなく飛行機も上流層限定の時代だったからな 14系時代と24系時代の臨時あさかぜはあまり話題になってない気がする >>487
やはり「あさかぜ」といえば、東京〜博多を走った元祖1・2号(78年10月から1・4号)だろうw >>486
1950〜1960年代の飛行機乗りたくないよな
安全性が確立してない時代だったから空飛ぶロシアンルーレットだもん >>489
乗りたくても乗れないだろ?
その時代に行けるのか?
行けるならもっと他の事するw ___ _
ヽo,´-'─ 、 ♪
r, "~~~~"ヽ
i. ,'ノレノレ!レ〉 ☆ 衆参の両院のそれぞれで、改憲議員が3分の2を超えております。☆
__ '!从.゚ ヮ゚ノル 総務省の、『憲法改正国民投票法』、でググって見てください。
ゝン〈(つY_i(つ いよいよ日本国憲法改正の、国民投票が実施されます。お願い致します。☆
`,.く,§_,_,ゝ,
~i_ンイノ >>306
『大いなる驀進』は今見たらすごい映画だな
本作は黄金時代の鉄道を記録した映像として価値が高い。
国鉄の全面協力は大きく、映ってる列車の車内は、セットではない。実物だ。
EF58特急色や山陽本線のC62、東海道本線の80系湘南電車などが
ゾロゾロ登場するというのも要チェックです
鉄道がメインの交通手段だった時代の記録として本作は間違いなくトップクラスの作品だと思います。
http://shop.toei-video.co.jp/products/detail.php?product_id=16099&transactionid=5fd3b3fb057d43a3571bcb58e73083c08ce4fc97
↓がワンカット。↓の画質の映像として残ってるだけで見る価値は高い
https://pbs.twimg.com/media/CIMmI5BUEAAT8NQ.jpg
https://pbs.twimg.com/media/CIMmI5HUsAA8z-Y.jpg >>463
>>466
昭和35年当時の公務員初任給は約13,000円、理髪160円、映画館入場券200円、米10Kgが870円という時代だぞ
1泊1000円以上は当時の物価水準だと最高級ホテルそのものになるぜ
>>476-477
クロ151、儲かってなさそうで、実は真っ黒
グランクラスより儲かった国鉄の「特別座席」
1カ月ちょっとで元が取れた「パーラーカー」
http://toyokeizai.net/articles/-/167132
新幹線開業前の東海道本線なんて、超ドル箱路線で
高速道路がなくて飛行機がまだ安全性が怪しい時代だったから、
減価償却なんて簡単にできたんだろうな。 >>477
最初の16両には列車公衆電話の需要を見越した電話室も設置されていましたが、
使用実績もなくその後の計画もなかったことから車内販売準備室に変更されました。
これはある意味正解だった。
151系では、「列車電話」が開発されたんだけど・・・・。
東海道沿線14箇所に基地局を設置し、それを介して一般回線へ繋いだ。
電話機にはダイヤルはなく、口頭で交換手に電話番号を直接伝えた上で相手先に繋いでもらう方式
固定電話から交換手を通じて列車へ電話をかけることも可能だったけど・・・。
電話が使える区間は、沿線である東京圏・名古屋圏・大阪圏限定であった。
これを「あさかぜ」にあてはめたら
電話が使えるのは下りなら出発時の午後6時半から午前1時半まで、
上りなら午前2時半から終着の午前10時までと
強烈に使い勝手が悪い代物に化けていたからな・・・。 >>493
東海道以外では客乗ってなかったのか?
儲かるなら「とき」や「雷鳥」「はつかり」や「つばさ」にはパーラーカーが繋がれなかったのが不思議 >>495
山陽では全くのられなかったろ?
東海道でも満席までは行ってない >>480
当時のナロネ20、ナロネ21は岸首相など山陽線沿線に選挙区がある議員が地元と東京を往復するために乗っていた
誰が言ったか知らないが「動く執務室」なんてあだ名もあった 内田百閧ヘマイネ40に乗っても昼間は鬱陶しいのでロ座に
移動していた。
ナロネ20利用の客はナロ20や座席に直したナロネ21に移動
できたのかな? 20系銀河に乗れた時は最高
その後、20系あさかぜに乗れた時はショックで
食堂車で元に気分を落ち着かせ
24系あさかぜになったとき 悔しい思いをした。 初めて上りあさかぜ1号の20系ナロネに乗った時は天佑だった。 >>498
20系誕生当時、電化区間は東京=姫路・下関=門司間だけで、それ以外は非電化区間だったからな〜。
そして1958年当時非電化区間を牽引していた機関車はSLだった。だから、そんなに速くない。
だけど、昭和30年代当時の特別急行列車の機関士、機関助士、乗客専務車掌などの乗務員は、
今のように若くて経験も浅い職員が気安く乗務できる列車などではありませんでした。
もっとも、いくら優秀な乗務員が運転していて、石炭も良質なものを使用していたとはいえ、
今の基準からすれば快適さからは程遠いスパルタンな乗り心地だったことは想像に難くありません。 >>494
>電話が使える区間は、沿線である東京圏・名古屋圏・大阪圏限定であった。
これは圏内走行中にその圏内に電話をかける事しかできなかったの?
例えば東京〜横浜間を走行中に名古屋圏や大阪圏に電話するとかは出来なかったのかな。
各圏内間を相互にかける事ができないのならまったく意味がない気がするけど。 >>502
今と時代が違うからねえ
遠距離通話なんて、交換手に頼んで数時間回線空くまで待つような時代だから
・・・だがしかし、「動くモノに電話が付いている」というだけでも、圧倒的なステータスだった。
20系食堂車「ナシ20」の初期の16両には列車公衆電話の需要を見越して
準備工事を施工した電話室が設置されていたが、
昭和30年代当時は無線通信技術が発達しておらず、
交換手と基地局の拡充が避けられなかったため、断念した。
その後、ナシ20の増備車は車内販売準備室に設計変更されることになる。
・・もし実現していたら、東京〜大阪間しか使えないという代物になっていたかもしれない。 自分はまったく知らない世代だけど
かつては列車内から専務車掌等に依頼して電報取扱駅から電報打つことができるサービスがあったらしいけど
当然20系時代のあさかぜでもやってたはずだろうし、
むしろ当時の実情だと電話より実用的で利用する人も結構いたんじゃないのかな。 >>495
>>496の述べるパーラーカー利用者が激減した山陽本線在来線特急でさえ、583系を除き
グリーン車2両連結されていた。
まして在来線時代の東北特急は、基本グリーン車1両だったからな。
在来線特急でグリーン車2両だった「とき」「雷鳥」も温泉レジャー利用客も多かったので、
パーラーカー利用は見込めなかっただろう。
あと現在でも東海道新幹線がグリーン車3両繋げているのに、上越新幹線は基本1両なのも需要の違いが明白だろう。 >>506
で、あさかぜのナハ20の座席車で
九州へ帰ると… ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています