【元祖】寝台特急あさかぜ【ブルートレイン】
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なぜか「あさかぜ」のスレがないので立てました。
「あさかぜ」と言っても青函航路のフェリーでなく、ブルートレインのあさかぜです。 >>375
グランシャリオはクルー少なすぎて寂しい印象だった、料理も…
ダイナープレヤデス堪能あとだと厳しいか 北斗星の食堂車の人数は少しずつ減らされていったとか何とか >>369 そりゃ、出現当時、中国、韓国など東アジアで20系レベルの寝台客車なんて、走ってなかったはずだよ。
中国東北部に満鉄のお古が走ってただろうけど。 >>374
そのロイヤルが凄かったわけよ!
それまでの日本最高級寝台が、博多あさかぜをも連結されていたオロネ25型・シングルデラックス
だったが、寝台の造りや居住性では登場当初から酷評されていた。
ロイヤルは部屋の広さや居住性、ウエルカムドリンクなど、付加価値はオロネ25型・シングルデラックス
とは雲泥の差。そのためそれまで東京発着ブルートレインが国鉄〜JRの看板列車だったのが、
看板列車は北斗星に変わっていき、九州ブルトレは注目されなくなっていった。
それが93年の食堂車全廃、その後の廃止につながっていった。 >>381
あと地味に1人用個室のソロが連結されたのも大きかった気がする
博多あさかぜも>>371が言っているように結構豪華だったけど
少人数で使用できる個室が半車分のデュエットと
リニューアルはしたものの国鉄時代からのシングルDXぐらいのままだったのも影響しているかも >>380
ハンコクが好きなら阪神国道線の専用スレがあるよ >>381-382
ちょっとでいいのでカルテットも気にしてやってください
4人向かい合わせでB寝台と変わらないと思われがちだが
ソファー転換機構のベッドの構造はツインDXとほぼ同じだった >>384
カルテットは4人用だから>>382からはあえて外したけど
構造は結構良かったんだよな
あと余談だけどあさかぜのカルテットとデュエットが
一時期臨時北斗星に連結されていたこともあった >>384-385
カルテットは「さくら」「みずほ」で始まったが、4人分の料金が必要だったからな。
人数が集まらないと敬遠されてしまう。
欧風・お座敷客車へ改造が流行った、国鉄末期はグループ・団体向けの車両が多かったからか?!
中国の軟臥車がカルテットとほぼ同じ設備だが、あれは個人毎に売ってる。
カルテットも部屋単位売りでなければどうだったか?と思う。 鉄オタと女子大生が一緒になったら大変だぞ
訳わからん話延々と聞かされるて気い狂いそうになる まったくだ
ファッションとかカフェとかこちらの知らないてめーらの身内の話とか
どうでもいい話を延々聞かされるからな 下関あさかぜと瀬戸のパンタ付きラウンジカーと荷物室付きオハネフは
トワイライトに間接的に関係しているんだよな >>389
トワイライトができて電源車がそっちに回った分の穴埋めで下関あさかぜと瀬戸に使用していた
電源車が宮原に行ってその分の電源車確保もかねてパンタ付きのラウンジカーができた
あとオハネフの荷物室付きはカニの荷物室分の役割を持っていた >>390
下関あさかぜ・瀬戸の電源車は100番台で、トワイライトの電源車に100番台はなかったが、
日本海・銀河に100番台が充当され、そこからシフトした電源車をトワイライトにだったか? >>382
ソロは北斗星登場1年後の「はやぶさ」「富士」に連結されたが、それで九州ブルトレの復権まで
いかなかったなorz
食堂車・ロビーカー・A個と同じく付属編成だったのもあり、終始割引きっぷで利用不可だったのもある。
それとソロ連結に伴い、設備・料金差でA個の存在価値に疑問が生じた。
列車としてはソロは満室で、A個・開放Bがガラガラだった現象は、廃止まで続いたけど。 あさかぜに初めて乗ったのは1971年4月だと思うが
当時博多までの二往復と下関までの一往復の計三往復
運行されており広島から東京までの乗車だったが
どの列車かは覚えていない。
恐らく広島で増結する1号(当時は上り列車でも
奇数番号を付けていた)ではないかと推測する
この時以降何度もあさかぜに乗ったが全てB寝台だった
もちろん最初のころは20系三段寝台で当時はそれが
当たり前だと思っていた
1970年代半ば以降になり二段寝台に改善され、寝台の幅が
10センチ以上広くなり、すこぶる快適に感じたものだ
その後30年余りの間、富士やはやぶさでは何回か
利用したがあさかぜでは一度も食堂車を利用する
機会がなかったのは心残りである >>391
トワイライトに0番台のカニを回したから
足りなくなってその分の新製時から下関所属の100番台のカニと
トワイライトの種車分の穴埋めで
広島と下関のオハネフの100番台が宮原に転属することになって
そのあと瀬戸のサンライズ化で下関のカニとオハネとオハネフとオロネが宮原に一部転属してきた 臨時あさかぜは20系使用便が有名だけど
14系使用便と24系使用便も実はさまざまな配置区にある客車を使用していたんだな 20系の中段て収納するとき手で押し上げてたらしいな 明日であさかぜ&さくら廃止何年だ?
って調べたら2005年…
もう12年か、はやいなぁ >>393
登場の順番が逆だった
まずあさかぜの1往復に寝台幅70センチの
14系が使用されその後最初に24系が臨時の
あさかぜに試験使用され、この時から2段
寝台が始まったように思う
記憶違いでなければこの試験使用は1974年
ではなかろうか 1974の2段ハネってあかつきと彗星だけじゃなかったっけ? >>402
その辺はうろ覚えなのだがあくまで臨時の
あさかぜなので悪しからず
それと14系の中段寝台は電動昇降が出来たが
この操作の場面には恐らく一度しか立ち会っていない
登場後しばらくして二段に改造されたり、走行距離の短い
急行に使用されたこともあり、この設備が有効に機能しなかった
ように思う
14系以前の寝台セットは確か二人一組で適当な時間帯に
乗り込んで来て作業していた
この間、乗客は狭い通路に押しやられ、立ってこの作業を
見守っていた それから残念ながら解体作業には立ち会った経験はない >>399
12年前の今頃は東京と下関それぞれの終着駅に向かって走ってたんだよね。
自分は東京行きの最終を下関駅、新下関駅、小郡駅で見送り、
翌朝、立席特急券で岩国→光まで乗車。
運良く機関車次位のオハネフ25−300の車端部が空席(調整席?)だったので着席することができた。
光駅で下車して見送ったけど、席が確保できたんだから下関駅まで乗車しておけばよかったと後から後悔したな。 >>400>>403
臨時あさかぜが二段式B寝台で運用されたのは、1976年夏。
その年10月改正から、富士・はやぶさ・出雲のB寝台が二段化された。
14系あさかぜは1972年からで、1975年3月改正で廃止された1往復。
その14系寝台は、いなば・紀伊に転用。なので時系列が違う。
あさかぜ1往復の14系化と同時に、さくら・みずほも14系化。
これら3列車は走行距離が長かったので、必ず寝台のセット・解体が行われていた。 >>406
臨時あさかぜって結局面白い事実があるんだよな
さくらとはやぶさの併合によって2000年になっても臨時あさかぜが走っていた >>403です
多少時期がずれていたが臨時で正しかったようだ
少々Wikipediaを参照させてもらっているが
後は実体験なもんで
しかし詳しい人がいるもんだね
それから最後に臨時あさかぜに乗った時は
80年代中頃と記憶しているが20系を使っていた
この時三段寝台がほぼ埋っていたから
お盆が終わった上りの様子だが、
まだまだ需要はあったようだ それと>>406さんによるとあさかぜでも
解体作業が行われたとあるが
この頃は広島〜東京若しくは広島〜横浜の
区間しか利用していないのと広島増結・
切り離しのあさかぜを主に使っていた
こともあって立ち会えなかったのだと思う もう一つあさかぜの思い出をあげると
70年代は“DISCOVER JAPAN”と銘打って
国鉄がキャンペーン中で、この一貫として
あさかぜの下りの場合でいえば
最後尾の車両に記念スタンプが置かれた
時期があり、“あさかぜ1号”と押印した紙を
今も保存している
東京タワーと鳥居ともみじをあしらっていて
鳥居からEF65 500番代と思われる機関車に牽引される
あさかぜが通り抜ける様子が描かれている >>410
DISCOVER JAPAN時代当時、時刻表のスタンプ設置駅と列車の一覧では「あさかぜ1・2号」と「さくら」の
設置が記載されていた。
確か食堂車喫煙室に設置と記載があったが、最後尾とはナハネフ22?もしそうなら意外な話。
スタンプ廃止は「1枚のきっぷから」スタンプ切替えの1977年あたりからかな?
確か77年や78年1月にスタンプは既に無かった。 >>408
臨時あさかぜは、皮肉にも殿様あさかぜ25型置換え後、20系にグレードダウンした。
丁度ブルートレインブームもあって、20系あさかぜ復活と喜んだ連中もいたけど、
オール三段B寝台で、寝台の解体や食堂車はなし。機関車のHMもなしでは利用者としては
大外れだっただろう。
臨時あさかぜの20系はJR化後も続き、90年代に入って臨時寝台急行「玄海」に改称された。 >>412
設備の関係で急行玄海になった臨時あさかぜであるが
今度はあさかぜ1.4号とみずほの臨時格下げによって
14系や24系を使用したあさかぜ81.82号として再び登場することになった
その臨時あさかぜも一度は運行をしなくなるが今度ははやぶさとさくらの併合運転開始により
旧はやぶさのダイヤを使用して再び走ることになった >>411
同乗者若しくは車掌に聞いて知ったか
どういう経緯でそこにあることが判ったか
今となっては判然としないが
確か非貫通車両(ナハネフ22?)の先端の
大きな2枚窓ガラスの内側すぐ下に棚があり
その上にスタンプが置かれていたと記憶
当時は未成年でタバコを吸わなかったし
食堂車も>>393で書いたようにあさかぜの
食堂車には一度も行った記憶がないことから
間違いないと思う
この頃はあさかぜには乗ることが目的ではなく
乗ったあとに何らかの目的を持って乗車して
いたが今思えばもう写真を撮るとか少し細かく
記録しておけばよかった
その後ブルトレ寝台に乗る目的で乗ったのは
なはのソロ、北斗星のロイヤルとカシオペアぐらい 「みずほ」のビュッフェて何だ、急行電車の奴か?半車ではなさそうだし 臨時繋がりで追記するが
しおじの臨時列車にも乗ったことがある
1973年か1974年のどちらかの夏で、
51号か52号か忘れた
レギュラ―のしおじは電車特急だが
この臨時は14系客車だった
座席は簡易式リクライニングで車内は
空席だらけのガラガラの状態だった >>418
車両は「さくら」と共通運用のオシ14だったが、
メニューが簡素で、食器もコンビニのおでん容器の
ような使い捨ての紙皿・紙コップ物だった。
一度利用したことがあるが、雰囲気もいまいちで、
もっと言うと、「みずほ」は列車全体の雰囲気も
他の九州特急より落ちる感じで、「さくら」や
「はやぶさ」が満席でも「みずほ」には空きがある
ことが多かった。
「みずほ」の簡易営業はググればたくさん出てくるよ。
例えば。Wikiの「はやぶさ」の候にも記述されている。
スレチになるが、食堂車廃止直前の「雷鳥」のサシ481も
一部の列車が簡易営業になっていた。 >>419 >>421
その当時の臨時特急は、概してガラガラだった。
臨時はノロい、食堂車・グリーン車がないのが相場だったのがある。
一番大きいのは当時のマルスが、定期列車満席の場合に臨時列車代替検索ができなかった。
今のマルスシステムなら、希望列車が満席でも臨時列車の空きが分かるようになっている。
もっとも今の在来線の臨時列車は、往年を偲ぶ本数はないがorz >>423
>>419です
申し訳ないがエルムにも乗車したことがある
B寝台だけのモノクラス編成で一応HMは
付けていた
函館本線の海岸支線に乗るため
上野から森まで乗車
乗り換えまで時間があるので駅を降り
イカメシを買った 確か300円だった 本題とは横に滑ってすまんが
ここにはかなりのマニアか専門家のような方が
登場されるので判れば教えて頂きたい
寝台列車に何度か利用された人で鉄道好きであれば
お気付きかと思うが
通路が真ん中のプルマン式A寝台や583系等の寝台車は
別にして、通路が左右どちらかに分かれる。
同じ一列車で車両ごとバラバラは有り得ないと思うが
この向きに何か決まりでもあったのだろうか? 自分の経験でいうと
海側が通路で山側が寝台というパターンが
一般的のような気がする
これは東海道山陽及び東北共通かもしれない
日本海側の寝台列車には電車急行きたぐにしか
乗ったことしかないのでどのような傾向か不明 >>426
全部書き込む前にレスが来たが
やはり規則はないのか
はやぶさのA個室に乗ったときは
山側が通路だったのでどうなのかと思った 24系24形の初期のころの編成や14系は一端の緩急車の向き変えて連結してたしな >>429?
緩急車の向きとブレーキ制御と何か関係するの? >>429
24系25型当初の、食堂車基本編成運用時の「富士」「はやぶさ」「出雲」は緩急車が
全部東京寄りの向きだった。そのため切り離した際の付属編成は、間抜け面だったw
博多「あさかぜ」25型化に伴い、食堂車を付属編成に移した際にオハネフ25・200番台が
連結されて、間抜け面はなくなった。 >>430
ブレーキは関係ないよ
単に折妻端を編成の端に持って来たかったんじゃね?
そうすると14系の場合確実に編成の両端で寝台の位置変わるわな >>431,>>432
レスサンクス、了解です
東京始発の九州山陽ブルトレはみずほ以外は
乗車したが14系は殆ど乗らなかったので
(上りのさくらに広島から一度だけ乗車、晩年の
はやぶさ・富士併結列車も乗車機会なし)
通路の位置がバラバラになる場合がある
という認識が足らなかったようだ 200番台は分割併合の時、現場ではやりやすかったのかな?模型で見るとかなり微々たる差だね。
この話題あながちスレチでもなく、下関あさかぜの逆向きは300だけじゃなく、100番台も可能に改造したヤツもあった。131とかだっけ? >>434
>分割併合の時、現場ではやりやすかったのかな?
やりやすかったのかもしれないけど
20系では問題にならなかったんでしょ?
だったら変な話だよね >>435
問題にならなかったらスハネフ14もオハネフ24も後退角のない切妻だったろ 二等座席車乗ったなナハ20だかナハフ20
売店が付いてた記憶がある >>424
エルムなんてそれこそ臨時あさかぜか、関西〜九州ブルトレの格で、食堂車もないモノクラスで
面白味なかったように思える。
機関車交換と方向転換で青森・函館に長時間停車したから、食料調達に困らなかったかもしれないけど。 おれは今、昭和30年代にタイムトラベルして西鉄ライオンズの選手と行く
20系「あさかぜ」の旅をほんのちょっぴりだが体験した!!
い…いや…体験したというよりはまったく理解を超えていたのだが……
,. -‐'''''""¨¨¨ヽ
(.___,,,... -ァァフ| あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
|i i| }! }} //|
|l、{ j} /,,ィ//| 『おれは飯を食おうと思って食堂車に行ったら、
i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ 西鉄ライオンズの選手たちが食堂車にあるメニューを片っ端から頼みまくっていて
|リ u' } ,ノ _,!V,ハ | アッという間にビール、ウイスキー、日本酒も食料も全部消えた』
/´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人
/' ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ な… 何を言っているのか わからねーと思うが
,゙ / )ヽ iLレ u' | | ヾlトハ〉 おれも何をされたのかわからなかった…
|/_/ ハ !ニ⊇ '/:} V:::::ヽ
// 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ 頭がどうにかなりそうだった…
/'´r ー---ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐ \
/ // 广¨´ /' /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ 飯が激マズだとか、相席した選手が酷いとか
ノ ' / ノ:::::`ー-、___/:::::// ヽ } そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
_/`丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::... イ
もっと恐ろしいプロスポーツ選手の暴飲暴食の片鱗を味わったぜ…
http://dk4130523.hatenablog.com/entry/2014/10/29/011701 >>356
あと昔の映画を見てると代議士役の人が個室で寝て昼は座席車だった
急ぎの用で飛び乗った人も座席車だったり 20系時代の「あさかぜ」は「動く最高級ホテル」といっても大げさではなかった
なにしろ2等寝台の利用者は政財界の大物や有名芸能人・プロスポーツ選手のどれかだったんだから客層が違う 24系以降のあさかぜの編成としての全盛期は
下関あさかぜのラウンジカー&A寝台個室連結後だろうな >>443
その頃時代はもっと進んでいたから、相対的には見劣りしていた >>444
ただその頃は先にグレードアップされていた
博多あさかぜでまだ食堂車が営業していた時期だったから
その後よりはまだよかった >>441
昭和30年代の「あさかぜ」は「動く最高級ホテル」といっても大げさではなかった
理由は新幹線がない・飛行機も未発達だけでなく、高速道路は日本にはまだ存在しない。
当時の道路事情は今のベトナムと大差ない道路で、主要国道でさえ、舗装されている区間は少なかった
舗装区間が劇的に増加するのは昭和40年以降の話
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/image/hpaa196201/fb4.17.9.gif >>442 >>446
昭和30年代のあさかぜのナロネ20なんかは本当に選ばれた階層しか利用できなかったからな。
今のななつ星・四季島・瑞風みたいにお金さえ持ってたら平民でも乗れるという訳ではなかった。
まだ戦前の身分制度が残ってた時代だったしな。 >>448の訂正・補足
× 戦前の身分制度が残ってた時代
◎ 戦前の身分制度はなくなったけど、人々の意識の上ではまだ残ってた時代 >>446
それ以上に動くホテルを支えていたのは多くの人手が掛けられていたことだ。1車1名の乗務員、10数名に上る食堂車クルーによるかいがいしい人によるサービスで動くホテルが成り立っていたのだ。 昭和30年代には鉄道以外ににまともな交通手段がなかったという事情もある
航空機は安全性が低く1年に1〜3回深刻な事故をおこしていた
道路は高速道路なんてなかったんだし未舗装も珍しくなかった >>450 機関車の運転関係要員も含めれば、戦前の超特急燕の方が人手かかってるだろ
御殿場線経由だった頃は、SL補機の要員も必要だったし >>450
ナロネ20、ナロネ21にはセントレジスのバトラーサービスみたいなのがあったからな 「走るホテル」というが、昭和30年代から40年代前半で二段ベッドでトイレ共用、風呂無しだったら市中の安ホテルの部類だろ。
三段ベッドなんてユースホステルにも無かった。部屋に詰め込んで冷房なしで特急料金に二等寝台料金取ったら、当時でもぼったくりと言われただろうな。 当時は移動手段が在来線しかなかった
新幹線がなかったから、在来線という概念も無いが…
必然的に、長距離移動ではどこかで夜をまたいだ
寝台車も贅沢品、帰省時など大衆は夜行急行の座席に殺到
飛行機は限られた高級旅客だけ、一般人には雲の上の存在
社会情勢が、今と全く違うわな >>454
時代背景を理解してないヤロジタの類い。 >>454
飛行機国際線のビジネスクラスと似たようなもんだよ
限られた空間でパーソナルスペースを提供するのはそれなりの料金を取らにゃ ヨーロッパなら簡易寝台車レベルのナハネで「走るホテル」と言われてもなあ・・ >>454
Q:20系寝台特急「あさかぜ」がなぜ「動くホテル」なんですか?
実車を大宮の鉄道博物館で見たんですが、相当にベッドは狭そうでそれも三段です。
特に一番上は這って入るのがやっとのように見えますけど・・・・・。
A:1958年11月当時、20系客車が当時の日本の庶民の生活水準を遥かに上回る
これこそ当時の最高級ホテルに近い設備だったからです。
1958年11月当時、冷暖房があるホテルや旅館はあったことはあったんですが
「帝国ホテル」レベルの 最高級グレードのホテルや最高級旅館のみに限定されていました。
当時、家庭用エアコンなんて影も形も無かった。職場にも冷房が存在しないのが当たり前です。
企業でも冷房を設置してるところは極めて珍しく、 この頃冷暖房が入っているのは
大都市の映画館、銀行、デパートくらいなものでした。 一般家庭では扇風機があれば良い方であった
大抵の一般庶民は、冷房が無い旧型客車で長距離を移動するのが当たり前だったのである。
なお、ホテル業界で日本初の全室冷暖房完備のホテルは1938年に開業した新橋の第一ホテルで
夏になったら避暑地代わりに使用する金持ちが多かったそうです。
http://www.hankyu-hotel.com/hotel/dhtokyo/other/rekisi/special.html
http://zexy.net/wedding/c_7770001895/blog/article/807568.html >>459 だから、ヨーロッパでいう簡易寝台車に冷房取り付けたら、最高級ホテル並みの料金ぼったくることができたってわけね。 >>454
あさかぜ20系化される前は2等C寝台繋いでただろ?
>>460
当時としてはぼったくりじゃないのさ
最高級ホテル並みの料金じゃないし 1966年当時、軽井沢万平ホテル、3食付きで2700円。
同年、東京・博多間、二等寝台下段利用で二等特急料金1000円+寝台料金1000円=2000円。
運賃は除外。
万平ホテルの食事なし、素泊の宿泊料よりも、ナハネの下段料金(運賃除外)の方が高そうだ。
このホテル、今では3食付きで2万円以上する高級ホテルだよ。 そんだけ取っても儲けにならなかったから消えただけのことなのに
それをお前が払えなかったからといってぼったくりとか言われてもなあ
あんたが高いと感じている料金も必要な対価だったんですよ
それでも足りなかったから続けることが出来なくなった
むしろ安売りしすぎたくらいだった
だから今は適正価格のクルーズをどこの会社もやってる >>464
特急料金は含まれないよ(寝台のみ)
家にナロネ20デビュー
1958-10時刻表があった!
新橋第一ホテル(現在、第一ホテル東京)
広告と比較して判断願います。
http://i.imgur.com/DgSfdJr.jpg
http://i.imgur.com/smFkI5a.jpg 寝台車のほうが先に売り切れていた気がするが
寝台特急がとれなくて夜行座席急行で行ったとかよくある話 座席と寝台で、定員が全く違うな
14系以降の3段が48、2段が34
20系はどうだったっけ?
座席車は特急型が68〜72、急行だと84〜88ぐらいか
新幹線博多開業辺りまでは寝台の供給数が足りなかった、そりゃあ寝台券が取れんわな >>468
経験から言うと昭和47年3月の新幹線岡山開業の頃から比較的東京〜九州直通の寝台券の入手がしやすくなってきた。関西発の寝台特急の増発もあるが電車寝台〜岡山乗り継ぎ新幹線で博多〜東京の到達時間が12時間を切ったのが意外に大きい。 第一希望が寝台特急で座席急行は第5希望くらい
均一周遊券利用者は別として昭和30年代からすでに特急志向なんだよな
急行利用が一般的で特急が特別な列車で高嶺の花というのは切符がとりにくかっただけの話みたい >>470
さらも1972年頃には東京−九州のA寝台客なんかは飛行機転移が結構進んでた。
ナロネ20の凋落が始まったのもその頃からで、3年後の博多開業と同時に廃止。 >>472
とはいえその当時は開放A寝台料金でも4000円以下で、76年大幅値上げ後のB寝台料金と同程度だから、
客離れまではなかっただろう。
ただ同時期に登場した14系は、付属編成にA寝台が無かったのは、それなりの減少があったかもしれない。 >>472
ナロネ20の凋落?観念的に語るなよ。資料 コピペで語っているのがバレバレ。 どこかで書かれてたけど同じ(3等級時代の)1等の末裔であるナロネ20と151系のパーラーカーであるクロ151と比べたら前者のほうが幸せな生涯だったと思う。
でも格的にはナロネ20とクロ151とではどっちが上なんだろ? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています