【元祖】寝台特急あさかぜ【ブルートレイン】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
なぜか「あさかぜ」のスレがないので立てました。
「あさかぜ」と言っても青函航路のフェリーでなく、ブルートレインのあさかぜです。 それ言うなら「往年に栄華を極めた街&機関区」だな。
少なくとも「地味」ではない
後者は機関区、前者は旧住友銀行の経緯からもわかる。 Q:20系寝台特急「あさかぜ」がなぜ走るホテルなんですか?
相当にベッドは狭そうでそれも三段です。特に一番上は這って入るのがやっとのように見えますけど。
A:1958年当時、20系が当時の生活水準を遥かに上回る豪華設備だったからです。
この20系と、こだま型電車や近鉄ビスタカーが日本の鉄道業界で最初に冷房化された列車ですが
昭和30年代当時、家庭用エアコンは ほとんど普及していません。
職場にもクーラーが存在しないのが当たり前です。企業でもエアコンを設置してるところは極めて珍しく、
ホテルや旅館でも最高級ホテルや最高級旅館にしか存在しない設備でした。
当時は冷暖房が付いてるだけで高級ホテル・高級旅館と名乗れたため、
そこら辺のサービスが『当時』では【ホテル】並のグレードだったんです
鉄道車両に搭載するにはいくつかの壁がありました。まず1つ目の壁は「動力源」だった。
国鉄の「燕」で、冷房は食堂車と1等車に限られていたのは電源装置が原因である。
当時の南海電鉄は現在の鉄道車両と同じシステムだったがこれは、架線から動力源の電気が供給可能だったからである。
電化・非電化区間も両方可能な使用になるには、電源車があることが前提である20系客車を待たなければいけなかった。
・・・だが最大の壁は「冷媒」だった。
戦前に登場した冷房車ではアンモニア、クロロメタン、メチルクロライド、プロパンといった有毒・可燃性のガスを使用していた。
だがしかし、漏れ出すと死亡事故に繋がる危険性があった。南満州鉄道の「あじあ号」みたく蒸気を使うという方法があったが、
当時の技術力の限界で日本の高温多湿の環境では使い物にならない可能性が高かった。
冷房車がまともに使えるようになったのは、安全性が高く、マトモな性能がある冷媒である
ジクロロジフルオロメタン(通称フロンガス)が登場・普及してからの話。 >>343
ワロタ
このネタ会社で何かの時つかわせてもらうわw 普通、同じ路線に長距離特急と短距離特急とあると、
長距離特急のほうが「格上」とされたが、
博多行「あさかぜ」だけは違ったな。
「さくら」「はやぶさ」「みずほ」より格上。
ところでこの「あさかぜ」は1975年3月改正までは
グリーン車座席が1両連結していたのだが、これには
ちょっとした秘話がある。
夜行特急なのになぜ熱海に停車するか?
熱海は元々温泉街で、そこから寝台特急に乗って九州方面にいく需要はあまりないわけで、
実はこれは話は逆で、下りの熱海停車は実は下車需要を見込んでのことだった。
つまり、新幹線で堂々と(?)は行きづらいような需要を見込んでということ。
その受け皿が最後まで1両連結していたグリーン車というわけだ。 日豊線など鹿児島線や長崎線はおろか、山陰線や宇野線より格下 あさかぜはブルトレのパイオニアやからな。
北斗星信者に比べれば全然キモく無いぞ >>348
そもそも20系「あさかぜ」に座席車が存在するのが凄いが、1958年当時なら冷房装置をつけただけでも堂々と特急列車と名乗ることが可能だった。
なにしろ、特急「つばめ」には冷房は1等車と食堂車にしかついていなかったからな。
座席車があれば東京=熱海、広島=博多間でも使用可能。
つまりデビュー当時の「あさかぜ」は昼行特急としても機能していたわけだ。 >>343
下関の24系は末期までそこそこ綺麗だった 冷房は当時最強の12,800kcalを2基すべての乗客が乗る車両に搭載
車体には冷房の効きをマシにするため二重ガラス窓を埋め込み
そいつをまだ耐久性や信頼性では未知の領域だったディーゼル発電機2機で24時間駆動
それは・・
夢と希望と狂気が作りあげたマシーン
何のデータもなく
冷房の普及率は信じられないほど低く
しかもディーゼルエンジンの耐久性や信頼性もまた
いつブローしてもおかしくないくらい低く
現行型のエアコンを制御するマイクロプロセッサーや
半導体型温度センサーにヒートポンプは影も形もなく
誰も開発や設計のノウハウなどしらない
あまりにも現実離れした途方もないその数字
1958年10月1日───
本気でその領域へ・・
夜行列車全編成冷暖房化 1000キロオーバー運行
あの男たちは本気でそれを手にしようとした
https://www.youtube.com/watch?v=PFVuqB3u_KY 特急あさかぜ
日立製作所で完成した"あさかぜ"は8車種13輛からなる固定編成列車で,国鉄の代表列車として
初めてのデラックス列車である。この列車には多くの新しい日立製品を使用し,日立の総合技術を遺憾
なく発揮した。ここにこの列車の概要と各種試験について述べる。
昭和33年10月1日の国鉄の時刻改正を機会に,デビューしたあさかぜ号は,
日本の動脈,東京と博多を結ぶ新形の固定編成客車で,1編成とその予備車5輌は日立
製作所の総合技術によって完成された。
今までの国鉄の車輌と違っている点は,基本寸法や台車などを除く部分の設計が
大幅に製作会社にまかされたことである。
製作にあたっては特に乗心地をよくすることを主眼に,電化による冷暖房,
振動や動揺の防止,および防音に留意し,あらゆる近代設備を採り入れで快適な旅行が
できるよう考慮されている。室内設備のデザインは,新しい時代の列車にふさわしく,
三等を含めた全体をレべルアップするという考え方で,特に二等寝台車(Aロネ,Bロネ),
および食堂車は国鉄の代表列車として,外国の国際列車級に近いだいたんなデザインを採り入れ,
また室内の配色は夜間走る特急列車という点からも,けばけばしい派手さをやめ,
"明るくて,モダンで,落ち付いたもの"を選び,そのやわらかな,疲れない色調は車内設備によくマッチしている。
詳細・続きは↓
http://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1958/12/1958_12_10.pdf 今から39年前の今日1月31日、20系最後のあさかぜ1号が東京駅を後にする。 >>363
そうだったな。翌日から「富士」「はやぶさ」と同一編成の、平凡なブルートレインに。
しかし20系末期は、食堂車の朝食は既に防府あたりでクローズ。ある意味場末状態だった。
国鉄末期〜JR初期の頃が、かつての輝きを取り戻した感じだった。 >>361
広島駅っぽいかんじがするが。
背景の建物が広島ステーションビルのような気がする。 寝台特急あさかぜ号は「東洋一の動くホテル」とも呼ばれていて、
これに乗って移動するのは国内旅行の超一級のステータスだった
この理由は、1958年の時代背景にある。
寝台特急あさかぜ号がデビューしたのは1958年11月。だが、当時は家庭用エアコンなんて影も形も無かった。
職場にも冷房が存在しないのが当たり前です。企業でも冷房を設置してるところは極めて珍しく、
この頃冷暖房が入っているのは大都市の映画館、銀行、デパートくらいなものでした。
ホテルや旅館でも最高級ホテルや最高級旅館にしか存在しない設備でした。
20系客車が登場した、昭和33年当時は路線バスでも冷房がついていないのが普通。
自家用車でも冷房付きなんて輸入したアメリカ車だけ、しかも1ドル=360年の時代に
40%という強烈に高額な関税が設定されていた時代だったのです。
当時の洗面台は「お湯」が出て、「電気シェーバー用のコンセント」「冷水器」があったが、
今でこそ当たり前だが、1958年当時は当たり前の装備ではなかった。
さらに20系には電気レンジのほかに業務用電気冷蔵庫のある食堂車「ナシ20」があったが、
1958年当時の家庭用冷蔵庫の普及率は、3%だった。
大抵の一般庶民は冷房が無い旧型客車で長距離移動が当たり前だったのである。 男女別トイレ、コンセント、ちょっとしたフリースペース、アメニティや飲食物の自動販売機
最低限これくらいはないとな 銀帯と違ってゴールドラインは風格あった。でも中身は銀帯と同じでショボかったよな。食堂車もしかり。 シングル、デュエット(シャワー室とミニロビー)、カルテットの個室車、オリエント風・星空風の食堂車を連結
開放式B寝台も暖色系のモケットに張り替えられてカーペット敷きでスリッパのペタペタ音がしない
他のブルートレインとの比較なら格段に良かったと思うよ、ブルートレイン同士での比較なら・・・
ただ、北斗星やトワイライトのように乗ることが目的の列車にはなりようもなかっただけで 朝になったら通路の灰皿溢れかえって仕方ないから床でもみ消してたな
やっぱり寝台列車は野暮ったいよ >>371
国鉄末期だったのと、元々はビジネスユースに多く利用されたので、当時として精一杯の改造だろう。
北斗星・トワイライトは、既にビジネス需要は飛行機が主体だったのと、JR移行済だったので、
遊び心のある柔軟な発想にできたのがある。 運行開始当初の北斗星も個室化率は大したことなかったし
変わったことと言えばロイヤルがついたりしたていどで
あとはグレードアップあさかぜと大して変わらんかったろ
尤もシングル鉄ヲタにはソロの存在が何よりも大きかったのだろうな いやグランシャリオはあさかぜの食堂車よりはるかに雰囲気はあった
料理はなかなか来なかったが あさかぜオリエント>スシ24508>508以外の北海道もちグランシャリオ>東日本もちグランシャリオ中期+スシ24507登場時>東日本もちグランシャリオ末期>あさかぜ出雲星空バー>東日本もちグランシャリオ登場時
個人的にはこうかな >>375
グランシャリオはクルー少なすぎて寂しい印象だった、料理も…
ダイナープレヤデス堪能あとだと厳しいか 北斗星の食堂車の人数は少しずつ減らされていったとか何とか >>369 そりゃ、出現当時、中国、韓国など東アジアで20系レベルの寝台客車なんて、走ってなかったはずだよ。
中国東北部に満鉄のお古が走ってただろうけど。 >>374
そのロイヤルが凄かったわけよ!
それまでの日本最高級寝台が、博多あさかぜをも連結されていたオロネ25型・シングルデラックス
だったが、寝台の造りや居住性では登場当初から酷評されていた。
ロイヤルは部屋の広さや居住性、ウエルカムドリンクなど、付加価値はオロネ25型・シングルデラックス
とは雲泥の差。そのためそれまで東京発着ブルートレインが国鉄〜JRの看板列車だったのが、
看板列車は北斗星に変わっていき、九州ブルトレは注目されなくなっていった。
それが93年の食堂車全廃、その後の廃止につながっていった。 >>381
あと地味に1人用個室のソロが連結されたのも大きかった気がする
博多あさかぜも>>371が言っているように結構豪華だったけど
少人数で使用できる個室が半車分のデュエットと
リニューアルはしたものの国鉄時代からのシングルDXぐらいのままだったのも影響しているかも >>380
ハンコクが好きなら阪神国道線の専用スレがあるよ >>381-382
ちょっとでいいのでカルテットも気にしてやってください
4人向かい合わせでB寝台と変わらないと思われがちだが
ソファー転換機構のベッドの構造はツインDXとほぼ同じだった >>384
カルテットは4人用だから>>382からはあえて外したけど
構造は結構良かったんだよな
あと余談だけどあさかぜのカルテットとデュエットが
一時期臨時北斗星に連結されていたこともあった >>384-385
カルテットは「さくら」「みずほ」で始まったが、4人分の料金が必要だったからな。
人数が集まらないと敬遠されてしまう。
欧風・お座敷客車へ改造が流行った、国鉄末期はグループ・団体向けの車両が多かったからか?!
中国の軟臥車がカルテットとほぼ同じ設備だが、あれは個人毎に売ってる。
カルテットも部屋単位売りでなければどうだったか?と思う。 鉄オタと女子大生が一緒になったら大変だぞ
訳わからん話延々と聞かされるて気い狂いそうになる まったくだ
ファッションとかカフェとかこちらの知らないてめーらの身内の話とか
どうでもいい話を延々聞かされるからな 下関あさかぜと瀬戸のパンタ付きラウンジカーと荷物室付きオハネフは
トワイライトに間接的に関係しているんだよな >>389
トワイライトができて電源車がそっちに回った分の穴埋めで下関あさかぜと瀬戸に使用していた
電源車が宮原に行ってその分の電源車確保もかねてパンタ付きのラウンジカーができた
あとオハネフの荷物室付きはカニの荷物室分の役割を持っていた >>390
下関あさかぜ・瀬戸の電源車は100番台で、トワイライトの電源車に100番台はなかったが、
日本海・銀河に100番台が充当され、そこからシフトした電源車をトワイライトにだったか? >>382
ソロは北斗星登場1年後の「はやぶさ」「富士」に連結されたが、それで九州ブルトレの復権まで
いかなかったなorz
食堂車・ロビーカー・A個と同じく付属編成だったのもあり、終始割引きっぷで利用不可だったのもある。
それとソロ連結に伴い、設備・料金差でA個の存在価値に疑問が生じた。
列車としてはソロは満室で、A個・開放Bがガラガラだった現象は、廃止まで続いたけど。 あさかぜに初めて乗ったのは1971年4月だと思うが
当時博多までの二往復と下関までの一往復の計三往復
運行されており広島から東京までの乗車だったが
どの列車かは覚えていない。
恐らく広島で増結する1号(当時は上り列車でも
奇数番号を付けていた)ではないかと推測する
この時以降何度もあさかぜに乗ったが全てB寝台だった
もちろん最初のころは20系三段寝台で当時はそれが
当たり前だと思っていた
1970年代半ば以降になり二段寝台に改善され、寝台の幅が
10センチ以上広くなり、すこぶる快適に感じたものだ
その後30年余りの間、富士やはやぶさでは何回か
利用したがあさかぜでは一度も食堂車を利用する
機会がなかったのは心残りである >>391
トワイライトに0番台のカニを回したから
足りなくなってその分の新製時から下関所属の100番台のカニと
トワイライトの種車分の穴埋めで
広島と下関のオハネフの100番台が宮原に転属することになって
そのあと瀬戸のサンライズ化で下関のカニとオハネとオハネフとオロネが宮原に一部転属してきた 臨時あさかぜは20系使用便が有名だけど
14系使用便と24系使用便も実はさまざまな配置区にある客車を使用していたんだな 20系の中段て収納するとき手で押し上げてたらしいな 明日であさかぜ&さくら廃止何年だ?
って調べたら2005年…
もう12年か、はやいなぁ >>393
登場の順番が逆だった
まずあさかぜの1往復に寝台幅70センチの
14系が使用されその後最初に24系が臨時の
あさかぜに試験使用され、この時から2段
寝台が始まったように思う
記憶違いでなければこの試験使用は1974年
ではなかろうか 1974の2段ハネってあかつきと彗星だけじゃなかったっけ? >>402
その辺はうろ覚えなのだがあくまで臨時の
あさかぜなので悪しからず
それと14系の中段寝台は電動昇降が出来たが
この操作の場面には恐らく一度しか立ち会っていない
登場後しばらくして二段に改造されたり、走行距離の短い
急行に使用されたこともあり、この設備が有効に機能しなかった
ように思う
14系以前の寝台セットは確か二人一組で適当な時間帯に
乗り込んで来て作業していた
この間、乗客は狭い通路に押しやられ、立ってこの作業を
見守っていた それから残念ながら解体作業には立ち会った経験はない >>399
12年前の今頃は東京と下関それぞれの終着駅に向かって走ってたんだよね。
自分は東京行きの最終を下関駅、新下関駅、小郡駅で見送り、
翌朝、立席特急券で岩国→光まで乗車。
運良く機関車次位のオハネフ25−300の車端部が空席(調整席?)だったので着席することができた。
光駅で下車して見送ったけど、席が確保できたんだから下関駅まで乗車しておけばよかったと後から後悔したな。 >>400>>403
臨時あさかぜが二段式B寝台で運用されたのは、1976年夏。
その年10月改正から、富士・はやぶさ・出雲のB寝台が二段化された。
14系あさかぜは1972年からで、1975年3月改正で廃止された1往復。
その14系寝台は、いなば・紀伊に転用。なので時系列が違う。
あさかぜ1往復の14系化と同時に、さくら・みずほも14系化。
これら3列車は走行距離が長かったので、必ず寝台のセット・解体が行われていた。 >>406
臨時あさかぜって結局面白い事実があるんだよな
さくらとはやぶさの併合によって2000年になっても臨時あさかぜが走っていた >>403です
多少時期がずれていたが臨時で正しかったようだ
少々Wikipediaを参照させてもらっているが
後は実体験なもんで
しかし詳しい人がいるもんだね
それから最後に臨時あさかぜに乗った時は
80年代中頃と記憶しているが20系を使っていた
この時三段寝台がほぼ埋っていたから
お盆が終わった上りの様子だが、
まだまだ需要はあったようだ それと>>406さんによるとあさかぜでも
解体作業が行われたとあるが
この頃は広島〜東京若しくは広島〜横浜の
区間しか利用していないのと広島増結・
切り離しのあさかぜを主に使っていた
こともあって立ち会えなかったのだと思う もう一つあさかぜの思い出をあげると
70年代は“DISCOVER JAPAN”と銘打って
国鉄がキャンペーン中で、この一貫として
あさかぜの下りの場合でいえば
最後尾の車両に記念スタンプが置かれた
時期があり、“あさかぜ1号”と押印した紙を
今も保存している
東京タワーと鳥居ともみじをあしらっていて
鳥居からEF65 500番代と思われる機関車に牽引される
あさかぜが通り抜ける様子が描かれている >>410
DISCOVER JAPAN時代当時、時刻表のスタンプ設置駅と列車の一覧では「あさかぜ1・2号」と「さくら」の
設置が記載されていた。
確か食堂車喫煙室に設置と記載があったが、最後尾とはナハネフ22?もしそうなら意外な話。
スタンプ廃止は「1枚のきっぷから」スタンプ切替えの1977年あたりからかな?
確か77年や78年1月にスタンプは既に無かった。 >>408
臨時あさかぜは、皮肉にも殿様あさかぜ25型置換え後、20系にグレードダウンした。
丁度ブルートレインブームもあって、20系あさかぜ復活と喜んだ連中もいたけど、
オール三段B寝台で、寝台の解体や食堂車はなし。機関車のHMもなしでは利用者としては
大外れだっただろう。
臨時あさかぜの20系はJR化後も続き、90年代に入って臨時寝台急行「玄海」に改称された。 >>412
設備の関係で急行玄海になった臨時あさかぜであるが
今度はあさかぜ1.4号とみずほの臨時格下げによって
14系や24系を使用したあさかぜ81.82号として再び登場することになった
その臨時あさかぜも一度は運行をしなくなるが今度ははやぶさとさくらの併合運転開始により
旧はやぶさのダイヤを使用して再び走ることになった >>411
同乗者若しくは車掌に聞いて知ったか
どういう経緯でそこにあることが判ったか
今となっては判然としないが
確か非貫通車両(ナハネフ22?)の先端の
大きな2枚窓ガラスの内側すぐ下に棚があり
その上にスタンプが置かれていたと記憶
当時は未成年でタバコを吸わなかったし
食堂車も>>393で書いたようにあさかぜの
食堂車には一度も行った記憶がないことから
間違いないと思う
この頃はあさかぜには乗ることが目的ではなく
乗ったあとに何らかの目的を持って乗車して
いたが今思えばもう写真を撮るとか少し細かく
記録しておけばよかった
その後ブルトレ寝台に乗る目的で乗ったのは
なはのソロ、北斗星のロイヤルとカシオペアぐらい 「みずほ」のビュッフェて何だ、急行電車の奴か?半車ではなさそうだし 臨時繋がりで追記するが
しおじの臨時列車にも乗ったことがある
1973年か1974年のどちらかの夏で、
51号か52号か忘れた
レギュラ―のしおじは電車特急だが
この臨時は14系客車だった
座席は簡易式リクライニングで車内は
空席だらけのガラガラの状態だった >>418
車両は「さくら」と共通運用のオシ14だったが、
メニューが簡素で、食器もコンビニのおでん容器の
ような使い捨ての紙皿・紙コップ物だった。
一度利用したことがあるが、雰囲気もいまいちで、
もっと言うと、「みずほ」は列車全体の雰囲気も
他の九州特急より落ちる感じで、「さくら」や
「はやぶさ」が満席でも「みずほ」には空きがある
ことが多かった。
「みずほ」の簡易営業はググればたくさん出てくるよ。
例えば。Wikiの「はやぶさ」の候にも記述されている。
スレチになるが、食堂車廃止直前の「雷鳥」のサシ481も
一部の列車が簡易営業になっていた。 >>419 >>421
その当時の臨時特急は、概してガラガラだった。
臨時はノロい、食堂車・グリーン車がないのが相場だったのがある。
一番大きいのは当時のマルスが、定期列車満席の場合に臨時列車代替検索ができなかった。
今のマルスシステムなら、希望列車が満席でも臨時列車の空きが分かるようになっている。
もっとも今の在来線の臨時列車は、往年を偲ぶ本数はないがorz >>423
>>419です
申し訳ないがエルムにも乗車したことがある
B寝台だけのモノクラス編成で一応HMは
付けていた
函館本線の海岸支線に乗るため
上野から森まで乗車
乗り換えまで時間があるので駅を降り
イカメシを買った 確か300円だった 本題とは横に滑ってすまんが
ここにはかなりのマニアか専門家のような方が
登場されるので判れば教えて頂きたい
寝台列車に何度か利用された人で鉄道好きであれば
お気付きかと思うが
通路が真ん中のプルマン式A寝台や583系等の寝台車は
別にして、通路が左右どちらかに分かれる。
同じ一列車で車両ごとバラバラは有り得ないと思うが
この向きに何か決まりでもあったのだろうか? 自分の経験でいうと
海側が通路で山側が寝台というパターンが
一般的のような気がする
これは東海道山陽及び東北共通かもしれない
日本海側の寝台列車には電車急行きたぐにしか
乗ったことしかないのでどのような傾向か不明 >>426
全部書き込む前にレスが来たが
やはり規則はないのか
はやぶさのA個室に乗ったときは
山側が通路だったのでどうなのかと思った 24系24形の初期のころの編成や14系は一端の緩急車の向き変えて連結してたしな >>429?
緩急車の向きとブレーキ制御と何か関係するの? >>429
24系25型当初の、食堂車基本編成運用時の「富士」「はやぶさ」「出雲」は緩急車が
全部東京寄りの向きだった。そのため切り離した際の付属編成は、間抜け面だったw
博多「あさかぜ」25型化に伴い、食堂車を付属編成に移した際にオハネフ25・200番台が
連結されて、間抜け面はなくなった。 >>430
ブレーキは関係ないよ
単に折妻端を編成の端に持って来たかったんじゃね?
そうすると14系の場合確実に編成の両端で寝台の位置変わるわな >>431,>>432
レスサンクス、了解です
東京始発の九州山陽ブルトレはみずほ以外は
乗車したが14系は殆ど乗らなかったので
(上りのさくらに広島から一度だけ乗車、晩年の
はやぶさ・富士併結列車も乗車機会なし)
通路の位置がバラバラになる場合がある
という認識が足らなかったようだ 200番台は分割併合の時、現場ではやりやすかったのかな?模型で見るとかなり微々たる差だね。
この話題あながちスレチでもなく、下関あさかぜの逆向きは300だけじゃなく、100番台も可能に改造したヤツもあった。131とかだっけ? >>434
>分割併合の時、現場ではやりやすかったのかな?
やりやすかったのかもしれないけど
20系では問題にならなかったんでしょ?
だったら変な話だよね >>435
問題にならなかったらスハネフ14もオハネフ24も後退角のない切妻だったろ 二等座席車乗ったなナハ20だかナハフ20
売店が付いてた記憶がある >>424
エルムなんてそれこそ臨時あさかぜか、関西〜九州ブルトレの格で、食堂車もないモノクラスで
面白味なかったように思える。
機関車交換と方向転換で青森・函館に長時間停車したから、食料調達に困らなかったかもしれないけど。 おれは今、昭和30年代にタイムトラベルして西鉄ライオンズの選手と行く
20系「あさかぜ」の旅をほんのちょっぴりだが体験した!!
い…いや…体験したというよりはまったく理解を超えていたのだが……
,. -‐'''''""¨¨¨ヽ
(.___,,,... -ァァフ| あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
|i i| }! }} //|
|l、{ j} /,,ィ//| 『おれは飯を食おうと思って食堂車に行ったら、
i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ 西鉄ライオンズの選手たちが食堂車にあるメニューを片っ端から頼みまくっていて
|リ u' } ,ノ _,!V,ハ | アッという間にビール、ウイスキー、日本酒も食料も全部消えた』
/´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人
/' ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ な… 何を言っているのか わからねーと思うが
,゙ / )ヽ iLレ u' | | ヾlトハ〉 おれも何をされたのかわからなかった…
|/_/ ハ !ニ⊇ '/:} V:::::ヽ
// 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ 頭がどうにかなりそうだった…
/'´r ー---ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐ \
/ // 广¨´ /' /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ 飯が激マズだとか、相席した選手が酷いとか
ノ ' / ノ:::::`ー-、___/:::::// ヽ } そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
_/`丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::... イ
もっと恐ろしいプロスポーツ選手の暴飲暴食の片鱗を味わったぜ…
http://dk4130523.hatenablog.com/entry/2014/10/29/011701 >>356
あと昔の映画を見てると代議士役の人が個室で寝て昼は座席車だった
急ぎの用で飛び乗った人も座席車だったり 20系時代の「あさかぜ」は「動く最高級ホテル」といっても大げさではなかった
なにしろ2等寝台の利用者は政財界の大物や有名芸能人・プロスポーツ選手のどれかだったんだから客層が違う 24系以降のあさかぜの編成としての全盛期は
下関あさかぜのラウンジカー&A寝台個室連結後だろうな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています