【元祖】寝台特急あさかぜ【ブルートレイン】
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なぜか「あさかぜ」のスレがないので立てました。
「あさかぜ」と言っても青函航路のフェリーでなく、ブルートレインのあさかぜです。 ナロネ20があった時代のあさかぜと、それ以降では全く別物ですよ
以降の大衆あさかぜは鉄道マニアの子供が乗るくらいですからね 品川客車区の組成作業合理化の賜物とは言えナロネ22が博多あさかぜに集約され"殿様あさかぜ"とか"ゴージャストレイン"等と言われるようになったがそれ以降ルーメットの切符が割りに取りやすくなったことは朗報であった。 あけぼのが秋田の出世列車ならあさかぜは山口の出世列車。
時間帯的に山口県でのほうが利用しやすかった。
福岡方面はさくらのほうが利用しやすかった。 あけぼのは出稼ぎ列車が正解でしょう
あさかぜの殿様列車とは格式が違いますね >>25
あさかぜは博多の田舎っぺが東京に憧れて上京するために乗る列車。チューリップの"心の旅"大田博美"木綿のハンカチーフ" あさかぜ神格化厨、きもいわ。
たしかにロネを複数両つないでいたし、20系を最初にデビューさせた名列車(列車名)にはちがいないけど、
そういう主張するほどまで至上扱いするのはどうかと思う。 いくら個室ロネを何両繋げようが列車としての格式は戦前の富士には及ばないだろうね、
殿様あさかぜに1等展望車が加わったらどうだろ? それでも戦前の富士には及ばないね
富士のほうは国際列車だからねえ。実質、政財界人しか乗れないし >>29 >>30
戦前の富士の格式については文献その他で十分聞いていますので乗車された時の車内の様子とかの体験を語ってくださいな…。 >32
夜は高級クラブの雰囲気が漂う
防音窓にエアコン完備、 間接照明の効果と乗客の質がそうさせるのか
体を包み込むような大きなリクライニングシート、エアサスが効いていて300キロ走行も滑るよう
笑顔で出迎えてくれるアテンダントもまたいい 子供の頃、殿様あさかぜに乗った記憶がある。
2等寝台だったが翌朝に探検に前方に出かけると、だんだん豪華になっていき、
蝶ネクタイを締めた同年齢のガキが1等個室の通路にいたりした。
これは凄い。興奮しながら最後のドアを開けた。
そこには貨物のような荷物室があり床で腹の出たオヤジが寝ていた。
一つドアを開けたら別世界だった。
勿論、今思えばカニだったのだが鍵くらい閉めてほしかった。
舞台裏を見せないという概念は当時は無かったんだな。
逆に考えればいい体験だったが。 >>33
そうかぁ(笑)〜生まれるのが少し遅かったな。乗って見たかった(笑) >>34
カニの見学は乗務員さんの手が空いていれば随時案内してくれてました。
ナハネフの展望とはまた趣の違うカニの3枚窓からの眺めも堪能させてもらいましたよ。しかしカニって結構横振れが大きかった。 当時、「殿様あさかぜ」って誰が言い出したんだろうね。
きもちわるい俗語だよなあ。 >>40
ナロネ22が3両になって以降かな〜それから鉄道友の会のRAIL FAN誌や鉄道ファンのブルートレイン特集(1975年1月号)などに"殿様あさかぜ"なる俗語がちょくちょく見られるようになった。出所は鉄道友の会だろう。 >>41
ありがとう。
うわぁー、「出世列車」とかみたいに一般(メディア含む)が言い出したんじゃなかったんだ。。
道理で気持ち悪いわけだ。。Thx。 >>42
個人的にはプルマンが列なっていた頃の方が編成としては綺麗だったと思うけど。 それはそれで、そうだと思う。
呼び名とは別個のことだからねw >>39
そうですか。頼めば見学できたのですか。
でも消防の俺は寝ているオヤジを起して頼む勇気は無かった。
東海道で横揺れするとは重心が高かったせいですかね。 下関どまりの3・1号に広島までよく乗った。
乗りながら「ああ、これって急行安芸なんだよなぁ」と、呉線のC59・C62に間に合わなかった世代 >>47
直接頼むんじゃなくて車掌か乗客係に頼むんじゃね? >>49
検札の時に専務さんか乗客掛さんに声をかけておくと手が空いた時に迎えに来てくれました。 >>50
そういえば映画「喜劇急行列車」で、
乗客掛の鈴木やすしが子供を肩車して
機関車の心臓部を見せているシーンがありました。 >>51
喜劇仕立ての映画になっているけど寝台特急の良き時代が凝縮されているいい作品ですね。そこには今の時代には無いマニュアルと違って人の心と言うサービスがあったのですね。 今から46年前の今日,昭和43年(1968)10月1日(ヨン・サン・トウ)から2本目のあさかぜの運転が始まった。7号車にナハネフ21が組み込まれたそれまでのはやぶさを貰い受けたような編成だが博多側の車両基地,狭い竹下客車区も一層賑やかになってきた。 DISCOVER JAPANのキャンペーン中にあさかぜの車内にも
スタンプが設置されており一度記念に押し、今も保存している。 >>54
ええっ!それは初耳。どんな絵柄なのでしょう?
そういえば私もスタンプ帳が何冊かあるはずなので探してみます。
DISCOVERスタンプ帳。今はもう無い駅とかいっぱいありそう。 >>55
DISCOVER JAPAN あさかぜ
でぐぐれば普通に出てくるよ 昭和50年代ごろにはお盆や年末年始に臨時のあさかぜが1往復設定されており、
新型の24系若しくは20系で運行されていた。
1980年の夏ではないかと思うが一度だけ広島から横浜まで利用したことがあり、
この時は20系であった。
上段から下段まで全て満席で実に賑やかな車内であったことが思い出される。 あさかぜは、長崎や西鹿児島までいかないので
格下の列車だと思っていた のぞみが鹿児島に行かないのと一緒で、
博多までだから格上なのだ。 第一希望〜あさかぜ、第二希望さくら、第三希望はやぶさ、第四希望みずほ…と言うのが当時窓口で申込書に書く際常だった。 「さくら」や「はやぶさ」乗ろうと思ったら、
かなり早く仕事切り上げて会社抜けださないといけないから
自ずとそうなる、列車の格の話でなないだろ >>61
時間帯などと贅沢を言える以前の時代の話だ。九州行の特急に乗れるかどうかが一番の問題だったのだ。 ブルトレブームの時でも平日は切符とれてたはず
週末や学校休みは満席続出だったが >>63
ブルトレブームの時って実は大幅値上げ後で乗客的には多くない時期 ブルトレブームの頃は寝台特急は既に全盛時の輝きを失ってたなあ >>63
ブルトレブームの時期の満席は全盛期の7割程度。ブーム期に言われていた年間平均乗車率70〜80%に到っては全盛期の5割でしかない。全盛期は週末はおろか平日でも切符の入手は困難だった。 >>66
そもそもB寝台が2段式になった時点で満席でも利益出なくなっただろ。
寝台幅52cmの3段式で満席なら漸く採算取れるレベルだったとか。 かいこ棚と言われた3段式の奴隷船より、
駅前ルートインの安いビジネスホテルの方が快適だからね
寝台車は廃れるんです >>69
物が有りすぎて何が贅沢かすら解らない世代に育ってるね。 >>69はヒドイな。
現代ゆとり脳より、さらに以下。
同時代目線のごちゃまぜ基準で比較するとか・・ >>70-71
20系も知ってる世代だけど
>>69の言うことは間違ってないと思うけどな
>>67で「寝台幅52cmの3段式で満席なら漸く採算取れるレベルだった」と言ってるだろ?
それ前提に考えたら「かいこ棚と言われた3段式の奴隷船より、駅前ルートインの安いビジネスホテルの方が快適」
というのは、間違った指摘じゃないよな
現在の設備じゃ採算にのらんのだから 「時代」までも超越して同列比較しているのは、やっぱりちがうと思う。 >>73
時代じゃなくてさ
実際今でも3段ハネ定員いっぱいくらいの乗車がないとペイしないのは変わらないんじゃないの? 2段寝台にした時点で料金を採算あうレベルまで引き上げるべきだった
その高い料金での需要がないなら2段寝台にしたのが失敗 >>75
東京口に二段寝台が登場して間もなく昭和51年秋の運賃.料金大幅値上げそれまで1600円だった二段寝台の料金が4000円と倍以上になった。 ちょっとまとめてみる。
やはりブルトレの絶頂期は20系の頃だった。
新幹線岡山開業でも平日でも九州行は連日満席だった。
それが一変したのは新幹線博多開業。
お袋の実家が九州なのだが法事に行って終わったその日に帰ってきてびっくりした。
飛行機の乗り方は分からないが新幹線なら乗れる。同じ時間に乗ってその日に帰れるか
翌日に帰れるかは大きな差だ。
しかしまだブルトレの需要はあった。途中駅からの乗車や朝一の現地入りなど。
それが崩れたのが航空機の安売りとビジネスホテルの台頭。
これがネットで予約できるようになってブルトレの需要は終わった。
富士はやぶさが廃止される2年前のお盆に乗ったら1車両に2人しか乗っていなかった。
最後の1年くらいは葬式需要で結構、乗っていたが。
残念だが時代の変化に飲み込まれて消えるべくして消えた。
あちこちで観光目的で復活の兆しがあるが、
それもこの先、どうなるかわからない。 上りのあさかぜのプルマンで一夜を過ごし食堂車で朝食を済ました帰りナロ20のゆったりした席に腰を下ろして朝の東海道の車窓を楽しむ。車掌氏も了解していて東京到着までの一時をゆったり優雅に過ごさせてもらった。 20系博多あさかぜ最終メンバー…カニ21 3.11.15.51ナロネ22 103.153.155ナロネ21 113.129.134.551ナシ20 18.19.20.24ナハネ20 55.104.132.133.216.217.218.219.230.238.239.240.242.247.305.306.311.312.338.339.343ナハネフ22 2.13.14ナハネフ23 5.6.7.8 プルマンのプライベートスペース感って、正直どんな感じなんでしょうね
広いベッドであっても、カーテン一枚の向こう側は通路という仕様 全く乗ったことないの?2013年年明けまで、
日本海(オロネ24)と、きたぐに
(583系にもともとロネないので国鉄時代の改造で誕生したが一応国鉄スタイル)
で乗れたのに。 偶然の事情で乗り合わせた北陸のオハネ25しか経験がない
でも端っこで向かいは壁だったし(17上・下)、友人と二人だったから
簡易二段個室を独占状態のようで楽しかったよ 殿様あさかぜの博多あさかぜが一番遅くまで20系で残ったのはA個室をどうするかとか食堂車の問題で25型置き換えが後回しにされたからかな? らしいね
あとは乗車率が高かった列車は3段で残ったなあ >>83 しかしながら例の昭和51年(1976)の運賃.料金大幅値上げの影響大でさほど考慮の必要はない方向で置き換えられてしまった。 >>83
新幹線と全面的に被る東京〜博多よりも熊本以南特に鹿児島から利用落ち込みが予想以上に早かった。 >>80
近年ではプライバシーを云々してるが当時はカーテン一枚でもさほど気になる問題ではなかったね。プルマンの広い空間で十分満足で贅沢だったよ。 >>87
なるほど、より体の自由が利く広さと解放感が
過剰にプライバシーを意識させない要因なんですね プルマン式寝台って扉はないけど個室により近い感覚やから カーテン開けると赤の他人5人と共用する空間があるよりも
カーテンの向こうは共用通路、その方がプライベート感はありますね 下段は特に当時特急の大きな窓一枚を独占出来るってのも相当贅沢な事だった なんだか本当に乗りたくなってきましたよ、プルマン寝台w ガキのころ20系のプルマン乗った記憶がある。
寝台が解体だれてから誰か隣に乗ってくるのでは?と心配した。
結局誰も乗ってこなかったけど1等のヒルネなんかあるはずないよね。 プルマン式は銀河のA寝台で一度だけ経験した
そりゃまやっぱりサンライズのB個室の方が鍵も
かかっていいけど、なんだかんだでA寝台だったよ ナロネ20のルーメットやコンパーメントは勿論贅沢で居心地も抜群だったけどプルマンの広いベッドの中で大きな一枚窓から20系同士の夜中のすれ違いを眺めるのが鉄道ファンとしての1つの醍醐味でした。 実際に乗った人も、そうでない人も、
思いをはせることのできる
誠に雰囲気のよいスレだ >>98
25でなければ15だと思う
1995年頃の話 >>93
あけぼのの青森秋田間は(たぶん日本海も)A寝台のヒルネあったんじゃなかったっけ?
もちろん、ブルートレイン以前のマロネ41なんか普通に昼間の1等車になっていただろうし。
しかしプルマン型座席は、横幅が通常の2人掛け席よりかなり狭いから、
大人2人は辛いものがあっただろうね。 82、99ですが二段化したスハネ14かもしれません
とにかく二段、ドアから最初のブロックであったことは間違いありません >>101
あったかも知れないが空席に1人でしょうね。
あれに2人座らせてはA寝台料金もグリーン料金も取れないでしょう。 プルマンのヒルネのグリーン券てたしか上段、下段で出てくるよね。
向かい合わせの席の上に“上段”“下段”て表示されてて、その席に座るようになってるんだよな。 プルマンのヒルネのグリーン券てたしか上段、下段で発券されると思ったよ。
向かい合わせの席の上に“上段”“下段”て表示されてて、その席に座るようになってるんだよな。
ちなみにB寝台のヒルネの指定席も上段、下段で発券されるが、席に表示がないので「下段と書かれた指定席特急券は窓際へ、
上段と書かれた指定席特急券は通路側にお掛け下さい」と車内放送されていたけど。 >>103
たぶんそうですね
14と15ではオハネとオハネフの二人区画の有無が逆転していますから
リサーチ不足でした
スレチネタを引っ張るような原因を作ってしまって申し訳ありません >>106
電車寝台のB寝台座席使用のときは、上段中段下段D席という具合に発売されていた。 電車寝台時代の「きりしま」は、寝台解体していたらしいけど、
よくあの複雑な構造のものを車内で解体できていたよなあ。
すんげー人手がかかったんじゃないか? >>109
乗務員は2車1だったし寝台解体の応援があった時代だからね。 >>110
それでも14・24系の三倍、20系の倍の時間がかかったろうね>電車寝台の解体 寝台の解体の時には、みんな通路に出てその様子を見ていたもんだね。
20系や10系寝台だと意外と簡単に解体できるから、確か1人が3両を受け持っていたはず。
583系の解体・セットは、見ていると感心してしまうくらいうまく考えられていたよね。
寝台のセットは、始発駅を概ね19時くらいまでに発車する列車、解体は終着駅に9時以降に到着する列車で実施されていたと思う。
青森を日付が変わる寸前に発車して、上野に9時過ぎに到着する「はくつる」でも解体をしていた。
なんかすごく損した気分になるから、敬遠していたよ。
14系や24系に変わってからそんなことも見られなくなったけど、反面、上段にいるといつまでも寝ていられたのは良かったね。 20系「きたぐに」に乗った時に
「寝台の解体は絶対に自分で行わないで下さい。係員が来るのをお待ちください」
というアナウンスがあった。そして
「ご自分でなされて大怪我をしたお客様がいらしゃいます」と言っていた。
恐らく中段を勝手にあげて下段に座っていた客に中段が落ちてきたのだろう。
フックが完全にかかっていなくて、安全ロックバーも降ろしていなかったのだろう。
下手したら首の骨が折れて死んでいたかもしれない。 >>113
20系「きたぐに」なんて存在しないだろ >>92
岩泉の寝台車ホテルへGO
オロネ24に泊まれるぜ >>115
そういや、昔のRJ誌に「あおもり」のルポがあって、
駆け込み乗車しようとしたサラリーマンが車内設備を見て絶句、
や、やめときますと言ったというふうなエピソードが出ていたな。
20系B寝台はやっぱそんなに酷いものだったんか? >>117
列車で横になれることがどれだけありがたく贅沢なことだったことを知らない世代はそう思うだろうね。 しかし昔のナハネ10の定員が60名、今の在来線昼行特急のトイレ付き車輌の定員が56〜60名程度だから、
すごいものがあったんだよなあ。 >>116
あの岩泉ですか
遠いけど廃線散策を兼ねてぜひとも行って見たいですねえ
冬なら熊とか出てこないかな? >>117
東京駅で臨時のあさかぜ見たくらいしかないけど
ホームから見ただけだけど二段式の14系や24系と比べて物凄く狭苦しくて薄暗かった印象 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています