【元祖】寝台特急あさかぜ【ブルートレイン】
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なぜか「あさかぜ」のスレがないので立てました。
「あさかぜ」と言っても青函航路のフェリーでなく、ブルートレインのあさかぜです。 >>113
20系「きたぐに」なんて存在しないだろ >>92
岩泉の寝台車ホテルへGO
オロネ24に泊まれるぜ >>115
そういや、昔のRJ誌に「あおもり」のルポがあって、
駆け込み乗車しようとしたサラリーマンが車内設備を見て絶句、
や、やめときますと言ったというふうなエピソードが出ていたな。
20系B寝台はやっぱそんなに酷いものだったんか? >>117
列車で横になれることがどれだけありがたく贅沢なことだったことを知らない世代はそう思うだろうね。 しかし昔のナハネ10の定員が60名、今の在来線昼行特急のトイレ付き車輌の定員が56〜60名程度だから、
すごいものがあったんだよなあ。 >>116
あの岩泉ですか
遠いけど廃線散策を兼ねてぜひとも行って見たいですねえ
冬なら熊とか出てこないかな? >>117
東京駅で臨時のあさかぜ見たくらいしかないけど
ホームから見ただけだけど二段式の14系や24系と比べて物凄く狭苦しくて薄暗かった印象 >>119 >>121
平成も四半世紀を過ぎた現代の目線ではなく何故"動くホテル"とまで言われて持て囃されたか?当時の社会情勢.常に逼迫していた国鉄の輸送事情を考慮しないと正しい理解は得られないだろう。 20系の中段は跳ね上げ式で中途半端な格納は危険だった。
10系の中段は下に降ろして背吊にしたから勝手にやっても問題なかった。
ところが碓井にやってきた10系寝台は3段の状態で解放されていた。
この状態では寝台前後にある中段の支え金具を引き出して置かなければならないが、
半分近くが外れていて、転落防止のベルトで支えられていた。
金具を全部戻して係員に注意しようと思ったが誰もいなかった。
今はどうなっているか知らないがそのままだと危険。
下段に座っている内に中段が落ちてくる。
まあ、多分今は中には入れないようになっていると思うけど、
特別に人を入れる時には注意が必要。 >>122
学生がトイレ共同風呂なし4畳半に下宿し、
5階建新築マンションがエレベーターなし
そんな時代だ
限られた家しかエアコンはなかったし あさかぜを始めとする寝台特急の食堂車の朝の洋朝食の中のオートミール。
食堂車で覚えたメニュで以来家でも愛食している。 へぇ〜、オートミールが好きだって言う人がいるんだな。
自分はあれ大嫌いだったな。
「北海」の食堂車で初めて口にして、もう二度と食べたくないと思ったら、寝台特急の朝洋定食にはこれが付き物で困ったよ。
普段から好き嫌いなく食べる人間だけど、あれだけは脱脂粉乳と並ぶくらいまずいと思った。
オートミールを「ウマい!」というあなたは凄い! >>126
オートミールが嫌いな向きにはコーンフロストのシリアルに替えてくれてましたね。 ガキの頃、はやぶさの食堂車に行ったら、テーブルの真ん中にフルーツが盛ってあって、
びっくりしたな。母親から絶対に手を出すな、と厳命された。
今考えると、銀座のクラブと同じ手法。 >>125
ちなみに
九州ブルトレの食堂車の朝食は
一時期バイキングスタイルになっていた >>129
あったなあ。
嫁さんと二人貸切だったこともあった。
しかし、内容のわりにはいい値段だったような気が。
和洋の朝定食のほうがよかった。 あさかぜ最初にして最後の利用はバブル時代91年に、東京から広島までの修学旅行にて。
北斗星のベースになったゴールドあさかぜだったが、修学旅行なら当然解放Bネ。
俺以外知る限り周りに鉄はいなかったが、友人連れていろいろ車両を探索したが、レトロムードオシ24-700以外印象に残っていない。
食堂車で晩メシ食いたがったが、既に東京タワーレストランで食事済みで残念だった。
その後わずか3年で消滅したのはバブル崩壊もあったが、詳しい俺が乗車しても印象が薄かったのは、北斗星に比べてあきらかにグレードアップがハンパだったのも要因だろう。 >>131
あんたとこの修学旅行、行きも帰りも夜行寝台か?
3段式の中段乗ったのは帰りか >>131
ゴールドラインになった以後の昭和63年頃でもロネは4〜5人、ハネは下段がサーッと埋まってる程度の日がかなりあったよ。 そうですv
だから新旧のあさかぜ車両を一度の旅行で体験できたんだから、今考えれば貴重だったな。 50.3の新幹線博多開業で廃止になった14系のあさかぜ2.3号。ちょうど20年前の12月に博多あさかぜ廃止後の年末年始臨で19年半ぶりに14系あさかぜ81.82号として運転されたにもかかわらずさして話題にもならなかったのは不思議だった。 フルーツ盛合わせは時価だからね。食堂長が客を見て決めるんでしょ
まあ相場は2万ですね >>135
昭和40年代半ばくらいだったと思う。
もちろんナシ10の時代。
父親を東京に残して、母親と妹がA寝台下段、私が上段で帰省するというパターンだった。
上段の小窓が非常に嬉しかった記憶がある。 >>138
下段の大窓を独占できるのもいいけど上段の小窓から流れ行く夜景を眺めるのも中々いい!! >>132
流石にゴールドラインに中段は無いだろう。
しかし>131の学校は内部にブルトレオタクがいたのかな?
もう新幹線はあったからせいぜい片道利用と思うが。
往復利用の方が東京での滞在時間が有効的だったのかな。
九州ブルトレ末期のころも結構、広島からの利用は多かった。 >>141
>>134で、そうだと答えてるやん
20系スレで中段乗ったと書いてるし だから91年なんかに20系あさかぜなんか走っていないって。
>134は下段の女子生徒の上に乗って中段とか言っているのでは? 東京タワーレストランてのも間違ってるんだよな
東京タワーにあったレストランは東急タワー大食堂な >>143
それはお前がおかしい
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1410584215/185
>その次の20系最後になる乗車は91年で、西の修学旅行団体列車だったが
あさかぜだなんて書いてないぞ あさかぜで登場した金帯25形の帯って、オリジナルみたいな金属帯じゃなくて、
シールみたいなもんだったんだな。 >>145
なるほど「あさかぜ型」と書いてあって「あさかぜ」とは書いていないな。
団体用「あさかぜ型」20系は確かに存在した。
下りは21時ころ品川にいたので乗り込んだことある。
山口まで帰るというおばちゃんが、明日の夕方ころ着くと言っていた。
いったいどんなスジで上りはどうだったのだろう。
でもこれが91年まで本当に走っていたんだろうか? >>147
当時臨時急行玄海がお盆や年末年始に走ってたし
団臨もあったんじゃね?
山口に明日の夕方ころ着くってのはないなあ
10時過ぎには小郡に着く筈 >>148
山口のおばちゃんが小郡とか下関近隣に住んでいるとは限らんからな。
そこからバスで数時間かかれば夕方だ。 >>149
小郡から萩まででもお昼過ぎには着く
山口県内で夕方になるってのは有り得んよ 東海道ブルトレに止めを刺したのは公立校の修学旅行の航空利用が解禁になったことが大きい。
全盛期の主な客層だったビジネス客や観光客が航空機や新幹線に移った後、修学旅行の団体が東海道ブルトレの主な客層になったが、
その修学旅行団体の航空利用解禁が東海道ブルトレに引導を渡したようなもの。
最後の安定した大口利用だった修学旅行団体にまで見放されたことは、東海道ブルトレにとって大きな痛手となった。 >>150
田舎の婆さんは、言うことがいちいち大げさだから、
それをいちいち検証していたら、疲れるだけだがや。 >>152
10時に着いて御飯食べて買い物なんかして4時に家に着いたら夕方だ。
そんなものだろう。
さすがに12時に家に着けば夕方とは言わんだろう。 ゴールドラインのあさかぜが廃止になって今年で20年になる。更に16年遡った昭和53年2月1日20系博多あさかぜ最後の日。粉雪舞い降りる中で静かに博多駅を東京に向けて離れて行った。あさかぜを見送りながらひとつの時代が確実に終ったのを痛感した。 東京タワー(の)レストランじゃなくて、なんかタワーの中にあった、修学旅行団体客専用室だと思うけど、宴会場みたいなとこで食べて、ステーキとお代わり自由なライスが出たな。
俺たち世代はアホ団塊のジュニアだからバカ人数多くて、金帯あさかぜに全員乗り切れず、次の下関あさかぜにも残りが乗った。
帰りは大阪から日本海縦貫ルートだったが、また同じようにひとクラスだけ日本海の二段ハネで快適移動して、後のクラスはカイコ棚でしんどいお帰り(>_<) 新幹線博多開業前の博多あさかぜの上りのナロ20って岡山辺りまでかなり混んでましたね。当時16時が最終の岡山行つばめ8号だったからその後を受けて最最終の昼行特急の役割も担っていたわけだろう。 下関あさかぜ廃止の頃に発刊された惜別あさかぜの本の中に現門司鉄道記念館館長宇都宮照信氏撮影で下関駅停車中のナハフ21を最後部にしたあさかぜの珍しい写真が掲載されている。撮影月日を見るとナハフ20→ナハネフ20の改造時期と合致する。 >>157
珍しいと言えば、全検時に一般色で誤塗装されたEF60-500(二燈機)もありましたね
それにヘッドマークの付けて牽引する姿は、EF58やEF61のブドウ2号のそれよりも
違和感を感じます
塗装の話で言えば、最後の直流牽引機EF66も、
60/65のような特急色仕様を見てみたかったですね 15年くらいの前のお盆に臨時あさかぜに乗った記憶がある。
高松の花火を見て0時位に岡山から乗ったが翌朝に東京に戻った。
これはあさかぜだからこそ出来たスジだった。
飛行機では翌朝まで泊まらなければならないし、
バスでは渋滞で翌日何時に到着したかわからない。
サンライズも出発が早すぎて花火は見れない。
ちなみにこれが最後の臨時あさかぜだったようだ。
一緒に酒を汲み合いながら花火を見た親友も
これが最後で数年後に若くしてこの世を去った。 15年前は1999年か
既にはやぶさ・さくらになって繁忙期の臨時列車も一切なくなってた頃だよ
臨時があったのは20系が廃車される1996年頃までで内科医? 15年前だと臨時特急「あさかぜ」でなくて臨時急行「玄海」だと思われ
臨時「あさかぜ」81・82号が臨時急行「玄海」に格下げになったのは1990年 94/12/1博多あさかぜ定期終了後は臨時であったよ
99年に走ってたかは記憶にない
ちなみに玄海(20系)は92年で終了 >159ですが20系ではなく24系でした。急行ではなく特急でした。
そのころはもう20系玄海は無くなっていました。
>>162
多分それです。それの最後でした。翌年に乗ろうと思ったら無くなっていました。
臨時の最後は寂しく消えていきます。 やっとこさプレミアムボックスの本を読んでるとこ。
昭和50年生まれの俺には事実確認できない箇所も多いけど、でも間違いあるね。
「あさかぜ2・1号」に「あかつき2・1号」ってなんやねん!?
あ、どうも2・4号の事か。しかしあかつきツーって…(笑)
他にも間違いあるんでしょうか?まとめてるサイトとかないですかねえ あさかぜがゴールドラインになった直後から気になっていたのがオハネ24-700のカルテット。一般客へのアピールが無いせいか毎度空気輸送状態だった。4人個室だけど上段の位置が三段寝台時代のままだったしあまり居心地のいい感じはしなかった。 >上段の位置が三段寝台時代のままだった
そうなのか。
写真で見ると、二段式よりは高いようだが、三段式ほどには高くないようにも見えるが。 >>167
窓は25形0番台(上段昇降)タイプに見えるけど
だとしたらどうして上段を収納位置で固定にしちゃったんだろ? >>168
24系0番代からの改造だよ
だから改造内容は中段抜き取って下段ソファー化、インテリア変更 >>169
あけぼのに運用していたオハネ24からの改造だけど大人4人ならまだしも例えば子供2人の家族4人だとしたら上段に子供は寝かしづらいな。 ユーロライナーみたいな構造だと、安心して寛げただろうにな。
ユーロライナーは乗ったことないが、フェリーの小上がりつき個室は、
子ども連れに本当に便利。 >>165
俺は一度乗ってみたかった。
九州のおばあさんに孫の顔を見せるために。
でも子供3人生まれてバタバタしているうちに無くなってしまった。
おばあさんも亡くなってしまった。
今でもあれば使うけどね。
俺は通路で新聞紙で十分だけど、
それには普通のB寝台券を確保しておかないと認められないだろうね。 >>172
子供連れの家族と言えばプルマンでの光景が思い出される。旦那さんと息子さんが上段で寝て奥さんと娘さんが下段で寝る。息子を寝かした旦那さんが梯子を降りてと缶ビールを片手に喫煙室で一服。日常的に見られたありふれた光景だが…。 >>173
そいうい家族いたなあ。
でも子供ってこういう時、上段で寝たがるんだよなあ。
仕方ない。親は下段で寝る訳で。
エマニエルやったやつもいるだろうなあ。 >>174
列車設立時に大阪通過で大いに揉めたらしいからね。
でも運転停車していたと思うし数分の時間稼ぎにしかならないし。
「大阪通過してでも九州に早く行ける列車」
このうたい文句を重視したのではないかなあ? >>176
あさかぜは登場当時大阪で客扱い停車してたけど
通過というか運転停車になったの昭和47年な
事実関係知らんのに妄想で語るのはよくないぜ 博多あさかぜの廃止で余剰になったカルテット・デュエット車をエルムや北斗星に使用できなかったのが残念だ 大阪局ではブンむくれて報復措置まで考えたらしいからね
有効時間帯でないなら北方貨物線でも通りやがれ、と ID:fp2a3CcP=ID:ZlBjvu0yかな?
妄想大爆発 >>180
同じ人ではありませんよ
>>176の人は設定側の「大阪通過」を前提にお話しをしていますから
むしろ私のコメントとは逆だと考えますが
それに妄想ではありませんよ
何かといえば噛みついて揚げ足を取って悦に入りたいようですけど、
そんなことしても迷惑なだけですから止めてください まあ大鉄局は国鉄本社と無茶苦茶仲が悪かった(今で言えばJR西日本と阪急の関係みたいなもん)から大阪無視の列車設定したら怒るのは当たり前だと思う。 >>178
はくつるに置き換えたんじゃなかったっけ
まあシンデラ以外は外されて余剰になったけど。 >>181
通過と停車で全く違うのに揚げ足取り?
凄え >>184
>通過と停車で全く違うのに揚げ足取り?
バカですか?
私が「現実の大阪停車」を否定した事実などございませんが
噛みつくなら噛みつくで、最低限その文意を理解してからにしてください
どうにも前々から、やたら理不尽な言い掛かりを付ける方がおられますけど
どうせまともに見境もつけられないような御仁でもありますから、
いっそのことそのお点前と同じように一絡げにして
「全部おまえだろ」と同一犯認定して差し上げましょうか? >>179
この件東京〜大阪間に昼行の急行列車(なにわ)一本を新設することで解決。 >>187
キミに勝手に怖いと思われて、それで迷惑行為が止むのであれば
いくら怖い認定されたところでこちらは一向に構わんのだ
もっともこれまでのキミの執着を思えば、
その「凄え怖え」を額面通りに受け取るお人よしなどおりませんよ
まあ結局はその程度のぞんざいな捨て台詞に奔る訳ですから
そのもっともらしい卑下認証、如何に空疎な虚勢であるかは明白ですね >176だけど勘違いしてごめんな。でも妄想とは違う。
大阪が猛反対したというネタを読んだのが昭和48年以降。
すでに大阪通過だったから勘違いしたんだ。
ここはちゃんと時代考証をしないと気楽に書き込めないな。
俺は素人だから当面、書き込みは自粛するわ。 >>189
そうやって間違いを認められるなら問題ないじゃん
ID:YFAaTDRrとは質がちゃうわな
上等上等
ぜひこれからも書き込んでな 間違いを認めることが質であるなら、
いまだ同一認定の誤りに詫びの一つ入れられない190様の
「質」というものも窺い知れますね
なんせそれこそが他でもない190様の拘る「質」なのですから
その「下劣な質」というものは疑いようがありませんよね
誤りに詫びを入れることよりも先に、
ご自身の下等な質というものを自らの判断基準で晒し上げる
その神経はまったく理解できません
ああ、ただの仕切りたがり屋のバカですかwww >>190
そもそもの話として、「誤りの指摘」を受けて反論した事実はございません
私はあくまで「同一認証」という言い掛かりと、
さらには言い掛かりの補強目的の文意を捻じ曲げた曲解、
これに反論申しあげておりますから
わざわざ別のコメントを引き合いにしてまで
同一認証をしたり、妄想呼ばわりをしたり
そんな蛇足をする道理も必要がどこにあるんですか?
誤りの指摘であるなら、コメントを否定すれば済むお話でしょ?
要するにキミは何かにつけて仕切りたいだけでしょ
相手の誤りを見つければ論って悦に入る
当時を知る方のコメントに、自身の「知らない」を見れば
片言隻句に噛みついて、不愉快を露骨に表す
つまりキミの行動はキミは子供、お子ちゃまなんですよ 質の程であれば
いくら晒しても
恥ずかしくないと
意味がわかりませんwww >>194
>意味がわかりませんwww
そこが君の限界なんだね 内ゲバはこの辺りで止めてくれないか?この12月で博多あさかぜが廃止されて早20年になる。大いにあさかぜを語ろうではないか!! 大いに語られる様子もないようだから、
全角さんには申し訳ないが続けさせてもらう
>>195
言い掛かりが「言い掛かり」であることが証明された以上、
間違いを認めることが「人の質」と公言する以上、
自らが考える「人と質」とやらを実践するのは当然のことでしょ
だってキミは「人」なんだろ?
>そうやって間違いを認められるなら問題ないじゃん
つまり間違いを認めないキミの言動は問題アリということ
しかもその問題はキミが解決すべきこと
自ら模範を示したらどうかね 20年前のちょうど今日、最後のあさかぜ1号と4号がそれぞれ博多と東京を目指して出発したんだよな。
20年なんてあっという間だったな・・・ >>198
博多あさかぜ廃止から20年。東京〜九州間の寝台特急のフラッグシップが失われた日。 あさかぜに限らず九州特急でプルマンに乗っていると時々思わぬお歴々と相席になることがある。意気投合すればそのまま食堂車で異業種交流の食事会へと発展だ。その場だけでなく後に大きな仕事に繋がるもあった。 >>202
いつの時代の話だ?
新幹線博多開業前の昭和40年代か 20年前のまさに今の時間、最後のあさかぜ1号に使用された金帯編成が品川に向けて回送中。
自分は下関駅で回送列車を撮影したが、牽引してきたEF81にはあさかぜのHMが装着されててラッキーだった。
下関からは牽引機は、現在も貨物会社で現役のEF66の52号機だった。
当時回送列車の釜交換の一部始終を撮影していたのは自分ひとり、今じゃそんなことはありえないだろうな。
回送列車が下関駅のホームをゆっくりと離れ、テールランプが見えなくなるまで見送ったけど、
この編成が2度と下関の地を踏むことがないのかと思うと、胸がジーンときた。 >>203
それだけ乗客同士がインチメントな時代だったんだな。 とうとう「北斗星」も廃止が決定した。
“ブルートレイン”が過去の話になるのもあと僅か…
「あさかぜ」で“ブルートレイン”という言葉が生まれて半世紀余り。
トータルすれば150回くらい“ブルートレイン”にお世話になった。
20系から14系、24系、24系25形と全ての系列、大部分の設備に乗ってきたから、“ブルートレイン”は自分の鉄ちゃん人生でいつも花形だった。
廃止されるのは定年退職の日が迫ってきたようで寂しいね。
退勤時間に東海道線を次々と下って行くブルートレインを眺めて旅に出たくなったのも、
ついこの前のことのように思い出すけど、もうずいぶん昔の話。
歳を取ったということだ。 >>207
九州ブルトレ末期になって東京口でも見れるようになったという… >>207
定期.臨時を通してあさかぜに運用されることのなかった唯一の系列でした。 15形って必要最小限って言うの?日本の特急形車両の中で、なぜか一番薄っペライ感じがしたなぁ。 昔小学舘だったか?の「ブルートレイン入門」という書籍でブルトレ使用客車の概説の中での15形の記述に「A寝台がまだない」というのがあった。
ブルトレ衰退がもっと遅かったら15形の増備もあってA寝台車の登場もあったかも知れない。 20系はともかく、24系と14系はなんで電源方式が違うだけで形式も分けたのかな。
ロネやハネ、食堂車や緩急車は共通で使えるようした上で、列車の使用方式の違いで、
電源を電源荷物車にするかスハネフかで良かったような。
九州ブルトレなら、基本編成は九州方に電源荷物車、付属編成は両端にスハネフ。
あさかぜ、はやぶさ、富士は付属編成スハネフの電源エンジンは使用しないけど、
さくらやみずほでは基本から鳥栖や肥前山口から付属の電源エンジン起動とか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています