【仮乗降場】【臨時乗降場】を語ろう
今月末、原生花園駅に行く予定
でも、彼処とラベンダー畑駅は、他の仮乗降場とは
毛色が違うやうな希ガス 富山港線の競輪場前駅はレース開催日のみ営業の仮乗降場から
15分毎に電車が停まる駅に出世した >>155系
仮乗降場に停まる元急行型475系という構図も面白かった >>159系
富山港線の最後の頃(2006年頃)は475系が走ってた ただ厳密に言うと最後の頃(2006年頃)は競輪場前は臨時駅なんで「仮乗降場に停まる元急行型475系という構図」には該当しない
457系と競輪場前仮乗降場の組み合わせは2年くらいしかない 73系から475系への置き換えは1985/3/13 釧網本線の原生花園駅は10月31日を以て、とりあえず今年度の営業を終えて半年間の眠りにつく。営業再開は来年の5月1日からとなる(-ω-)
釧網本線は実に魅力的だとボクは思う(-ω-)北浜駅の停車場や川湯温泉駅のオーチャードグラスでは何回か食事をしたことがあるが止別駅のえきばしゃや、
藻琴駅のトロッコは、まだ食事をしたことがない(-ω-)浜小清水駅に隣接している道の駅も是非立ち寄りたいとボクは思う(-ω-)
来年の2月、流氷の時期に訪れたいのだが(-ω-) >>151
1982年に行った時の工程
・稚内1258→(726D)→1507浜頓別1526→(927D)→1612北見枝幸1617→1701浜頓別泊
・浜頓別740→(722D)→904音威子府<撮影>音威子府1307→(324レ)→1351美深1358→(923D)→1428仁宇布
仁宇布1500→(924D)→1500美深1511→天北上(302D)→1534名寄1651→(629D)→1832興部
興部1837→(829D)→1907雄武2105→(832D)→2134興部2205→(1633D)→2350遠軽
・遠軽018→大雪6号(516レ)→453砂川
雄武で2時間ほど何をしていたか、全く記憶にないです どうしてギャンブル客に便宜を図るのだ
余計に時間がかかってる
料金倍にできないのか 本州以南では数えるほどしかないな
伯備線布原や三江線長谷とか
北海道に限りなく近いのは長谷だが布原は信号場のついでに客扱いしてた感じ 三江線みたいに小駅だらけだとなんで長谷だけ(仮)なの?って思う 信号場ついでに客扱いだと常紋信号場があった
上目名駅は駅長家族の通学のためだけに駅として営業してた感じ 運行面における絶対的な客扱いではなく、
車掌への事前申し出で降りられたような
そういうユルい扱いで乗り降りできたラストの
信号場&乗降場って、いつ何処が最後? 旧型客車だと理論上信号場から乗るなんてことも可能だったが扱い的にどこの駅から乗ったのかが分からず車掌が困惑しそう 174などは実際あった
173は、停車時に前方注視してるからバレバレ。
現代でも、特急とかで終着付近の停車駅から乗り込む奴とか
俺らが思う以上にチョンバレだから。人数まで判る
顔見知りの特A組の車掌が話してた >>175
じゃあそいつらにちゃんと特急券売りにいけよって話だけどな 四国でも仮乗降場同然の営業してた駅があった
ホーム有効長不足が原因だったため民営化後ホーム延長工事して停車列車が増えた
やる気のない営業してた駅があったんだなw 四国のやる気なし営業は通学需要に的を絞ってたか?
山の中にあったとかじゃないが 町の中にあるのに殆ど停車せず勿体ない使い方してて路線バスに乗客吸われてただろうな そういうのって現代視点ではと。
国鉄時代って、国鉄側も利用客側も、
予讃線レベルの路線でも「電車」=こまめな通勤路線ってイメージではなく、
どちらかといえば国鉄はキシャ=長距離移動メインってイメージだった
だから全国的に駅間とか長いままだった。
駅をもっと増やして、こまめに・・って考え方や施策へ方向転換したのは
民営化以降だと思うよ。 >>183
昔の国鉄の発想です
駅もそうですが、列車の運転間隔も同じ
その意識が変わり始めたのが、1982年ころから、広島で一部改善で始まりました
汽車から国電へ、とか
シティー電車は20分間隔、とか
本当に改善すれば乗客が増えそうな線区は、駅激増/運転本数激増(ただし短距離が多い感じ)
特に極端と思ったのは、札沼線、仙山線、越後線、豊肥本線、など
札沼線は、駅増加、区間運転増加、電化、複線化、と、昔の頃とは激変
時刻表を比較して、うなってしまいます
1982/09時刻表から、石狩当別発上り(*は始発、篠路発着等の区間運転は無し)
638/714/*748/921/*951/1034/1116
*1308/1425/1628/*1723/1858/*1959/2059
当時はそれでも本数は多めと感じていました
同じく仙山線、愛子発上り(普通)
646/732/954/1059/1517/1725/1932
上記以外に830発の急行仙山2号仙台行があり
大路市近郊の通勤路線とは全く思えないレベルでした
ご参考 大阪のアマチュア鉄道研究家が阪急京都線相川・正雀間に吹田観音前という名の臨時駅を新京阪時代の1941年3月10日から4月11日の間に開設していたことをつきとめた、と話題になっているそうです。 東塩尻は信号場だったはずだけど、どういう根拠で客扱いできたのだろう?
入場券も発売していたらしい。 >>195
磐越西線のさらしな信号場も客扱いしていたので、普通にあったことかと。停留所扱いなので乗車券は次の駅まで購入する必要がありました。東塩尻は晩年駅に格上げされませんでしたっけ? 入場券があったのはそのせいでは。 信号所というのは信号扱い所のことで
駅構内に見晴らしのよい建屋として存在し、
構内に関する信号てこ、機械てこを集中的に管理操作する作業場にすぎない
信号場は信号所ではない
停車場の一種で列車の行き違いのためにやむを得ずつくった施設 >>160
富山港線末期
昼間限定で高山線間合いのキハ120も走ってたんで競輪開催日は475代走とかでなければ
>>169の長谷、布原と競輪場前
JR西の仮乗降場上がりの駅は全て制覇してそうなキハ120 >>202
30年前、渓流釣り行くのに布原駅使ってました
3月から5月まで月3回程度
いわれてみたら自分以外の乗降客を一度も見たことがなかった