懐かしの乗り入れ列車の思い出
国鉄から長野電鉄に乗り入れた急行信州や、茨城交通に乗り入れた急行あじがうらの思い出などを語りましょう。
勿論、国鉄からの乗り入れでなくてもOKです。 国鉄・JR西日本→地鉄の乗り入れはホントうまくいかないなぁorz 急行あじがうらは上野に最後まで来たディーゼルカーでしょうか? >>3
首都圏の通勤路線の乗り入れ廃止は珍しいですね 首都圏の通勤路線を見れば東横線⇔日比谷線とかもな。
撤退を入れればJR東海⇒小田急もだな。 >>9
長野電鉄の湯田中まで乗り入れていたのは169系ですね。
もっと昔は松本電鉄にキハ58が乗り入れたりもしていたそうですね。 須磨浦公園行きの阪急電車
&
阪急六甲行きの山陽電車 保安装置を完備しない地下鉄以外の乗り入れは衰退の一方。 >>13
「踊り子」の修善寺や下田乗り入れもいつまで続くかわからないですね >>14 伊東線と伊豆急線は運行的には1つの路線みたいなものだからマズ安泰。(分離することが逆に困難、不合理)
富士急への片乗り入れも富士急の財力とラッシュ救済の主旨もあるから当分安泰。
それと関連会社の 東武と野岩、会津 京成と北総・芝山 なんかも合併とかで解消はあっても運行そのものは無くならない。
新京成の京成への片乗り入れは、効果がなければ今後あっさり廃止になるかも
他の地方私鉄や三セクの対JR乗り入れは(特に車両が比較的古い地方私鉄側、3セク側からJRへは、)廃止が多いでしょ。 >>2
急行立山?
大阪から魚津まで乗ったことがあるが、
富山で地鉄経由の方が先に発車するのに
後から出る北陸本線経由の後ろのほうが魚津駅には25分くらい早く着いたから、
魚津に行く客には廃止で正解だと思う。 >>10
そうだ、横軽抜けてたから169系だったね
別件だけど秩父鉄道へは寄居から東武、熊谷から国鉄が乗り入れてたんだよな >>4
後年、大洗へ行く臨時快速が上野を気動車で出ていったぜ。
>>21
秩父鉄道へは国鉄から気動車も乗り入れたそうだけど、寄居から八高線の列車が乗り入れたんだろうね多分…。 車両面で富に国鉄追従模 倣が顕著だった昭和30−40年代の西武が
国鉄との乗り入れしなかったのは意外。
(就労環境、職場規律の乱れた国鉄職員との関わりを堤側嫌がっていたのだろうか?)
・・・乗り入れしてくると、多数の乗務員が使用するので車両の落書き(乗務員室内)とか懐中時計置き場を灰皿代わりにした
焦げアトとかでその会社の就業規律を感じ取れる。 大阪発近江今津行きの夜行があったな、江若時代だが。 大井川鉄道へは乗り入れてなかったっけ?
113系に千頭だったかの幕があった気がするんだけど >>17
新京成の千葉直通は京成側の都合もあるからなぁ。
SA線絡みで日中に電車が必要になった京成と、以前から日中に大量の電車を寝かせていた新京成との利害の一致、そして日中の京成津田沼構内の平面交差の解消。 茨城交通のディーゼルカーも勝田と水戸の1駅間ながら国鉄への乗り入れ実績がある。
あと、今のひたちなか海浜鉄道の「国鉄型」ディーゼルカーで本当に元国鉄車なのは1両だけだけど、他の元炭坑系の私鉄車もかつて羽幌線や留萌本線に乗り入れていたことがあり、国鉄の線路を走った実績があるのは興味深い。 >>25 していた。80系も。
能勢電の阪急乗り入れは、盛況なの?
水間も南海の昇圧前は、水間観音で祭事があるときは、南海から応援入線(乗り入れ)があったらしい。 今じゃ乗り入れどころか本線臨時もなく
三が日住吉大社臨時停車だけだからな。
1973年昭和48年10月の昇圧前の方が、
南海本線が充実してたのは実に残念だ。 小田急の御殿場乗り入れは、連絡線を作り、わざわざDC乗務員を養成してまで、乗務員ごと乗り入れした訳だが何故そこまで御殿場にこだわったのだろう。 御殿場ファミリーランド・・・・小田急は御殿場を自社てりt テリトリーにすることを目論んでいた。昭和30−40年代はレジャーブーム。
で対する国鉄は官業で国際観光地日光などごく一部の例外を除いて自分の縄張りを侵しかねない民鉄の事業拡張に無頓着。
この論理は、小田急による田園都市線の中央林間延伸拒絶に対する東急の町田覇権(横浜線町田に乗り入れるハナシがあった)にも見られる。
相鉄の小田急海老名乗り入れも表向きはATS施工や小田急の列車本数増加を理由にしているが、
東急絡み(背後で)の小田急による相鉄株買占めにたいする不快感、警戒感とかかも・・・。 >>25>>28 落成間もないサロン東京も入ったよ かつて武蔵野線建設中、資材搬入の貨物列車が常磐線馬橋駅から流鉄に乗り入れて、臨時に線路を敷いた所
から武蔵野線につなげて乗り入れていた。 名鉄の特急「北アルプス」なんか高山本線から地鉄に乗り入れていた時代もあったわけで そこへ行くと定鉄は乗入れ先の国鉄に架線を張って苗穂まで乗入れたのだからスゲー! >>7
もはや箱根登山鉄道の小田原-箱根湯本は小田急に乗っ取られた感じだな。
乗り入れどころか線路まで剥がされちゃって。 乗り入れは新松田発着各停で健在では?
急行の乗り入れがなくなっているのは、
10両編成乗り入れ単に無理だからでは? いや言いたかったのは小田原-強羅の列車ね。
箱根湯本で分断されちゃって。 >>42 それは国鉄になる前の既得権。(電化撤去の見返りが札幌駅1番線乗り入れ権)
同様に越後交通長岡線の寺泊のシーサス
有鉄の並行区間戦時供出見返りの乗り入れ
名鉄と飯田線の豊橋の共用区間(コレはマダマダ残りそう)
・・・こういうのは、フルシチョフが西ベルリンを解消したかったみたいに
旧国鉄にとっては運行管理上 奥歯に出来た虫歯みたいな厄介な代物だったのだろうな。 島原鉄道も忘れるな。観光シーズンだけだが上野発筑波行の臨時も。 >>47
西ベルリンで思い出したが信濃川に橋が作れず長岡駅に行けなかったの致命的。
越後交通だから田中角栄が鉄ヲタなら、
長岡駅まで行かせていたのに違いない。
長岡花火の輸送にも活躍しただろうに。 丹那トンネルのできる前から現御殿場線経由で修善寺乗り入れの列車があったそうだけど
歴史的に最古の乗り入れって何だったのだろう? 松電にはダム建設工事中(岳南に行った電機を使っていた時期)
国鉄からD51が貨物牽引に入線したそうだ。
他に確か登山客むけに客車の乗り入れもあったような・・・ 国鉄の長野駅で長電への乗入れをやっていた時代があったらしいが…。
何でも転線や入換に手間と時間を食うからやらなくなったとか?
長野駅で乗入れる
あと会社間の乗入れじゃないけど、東海道下り線から飯田線への乗入れも手間と時間食うよなぁ、EL+PCとか特に。 国鉄の銚子電鉄への乗り入れ。
新人物往来社の「乗入れ列車ハンドブック」にも出てない。
黒歴史? >>57
鉄ピク誌で何回か記述があるけどな。
最初は機械式気動車が入線したらしい。 東海道本線に並行する静岡鉄道静岡線?に終戦後の混乱期東海道本線に支障があり
夜間迂回で東海道本線の列車が経由して通過したのは此処でイイの? >>57
10系気動車が乗り入れしたらしい。あるとき20系が混じっていてホームを擦ったことが
あったって聞いた。 >>61 今津の一件ならソレは暴進。(無許可、当事者も予期していなかったハプニング)
奈良電時代からの継承で近鉄←→京阪の相互乗り入れが挙げられていたけど、
地下鉄ネットワーク構築以前で系列会社以外の大手民鉄同士乗り入れは他に
近鉄名古屋線→名鉄 以外ないような・・・地方私鉄同士は 井笠と神岡の相互、京都市電と買収前N電
(三線軌条だが)、叡電・合併前の京浜と湘南こんなものだろうか? >>57-58
あ、最近になって彩流社から発刊された「千葉の鉄道」(編著・白土貞夫)の本に、
1955年〜1960年に快速「房総の休日」号が、新宿(8時発)〜外川(11:26着)を走り、キハ17が使用され、
国鉄乗務員が銚子電鉄内もそのまま乗務した…とあったな。 >>59
並行してるように見えるが離れてるので、
事実ならどこで繋げたんだろう? >>61
阪神と阪急は持ち株会社で統一したのでいつの日にか車両も共通化するかもしれないね。 今、鉄道博物館にあるディーゼルカーの中に、国鉄から遠州鉄道に払い下げられて二俣線に乗り入れてた車両があるらしいね。 桜井線から近鉄小房線を通り橿原神宮駅への参拝者輸送
C58が客車牽いて入った 狭軌の鉄道会社は国鉄関連の車両が走ったことのない会社の方が少ないと思う >>69
国鉄と同ゲージにして貨車も含めて、乗り入れる事こそがメリットですからね…。 都電に乗り入れした私鉄路線といえば、玉電が戦前昭和12年まで行っていた位か?
京王は都電乗り入れしないまま、新宿三丁目までの路線廃止してしまったし。
東京市側が乗り入れ運転を好まなかったからかな・・? >>70
旅客列車の乗り入れは無くても貨車は相互に乗り入れていたし、狭軌の会社は
車両限界も国鉄と同じだったりするからな。 京浜は当初 標軌(1435mm)で開業したのに 都電に乗り入れで
馬鉄(1372mm)に改めたでしょ。
そのアト 湘南(1435mm)に乗り入れるため都電乗り入れを切り再度改軌
都電は元々民間の3社が一体となって発足したから 大阪市みたいに自分のエリアをガチガチに固めることに固執してないんじゃね?
>>70
首都圏で国鉄・JR関連の車両が走っていないのは、井の頭線とつくばエクスプレスくらいでしょうか? 戦前、1372oだった東京の私鉄線として京急、京王、玉電、それに京成があるわけだが、京成は都電との乗り入れ構想がなかったのかな?
当初は考えていたにしても、より高速かつ大型の車両での都心直通ルートを造りたかったから、都電乗り入れなんぞ時代錯誤ということになったのかもしれないが・・
上野へのルート造ったから、押上からの都心直通ルートは金もないから後回しということになったのかもしれないが。 >>75
過去のものだと、都電杉並線がそうだったね。
反則だけど、メトロ南北線と都営三田線は国鉄、JR型は入線してないけど、東急乗り入れ前はまさに孤立路線だったんね。
地方だと伊予鉄道や宮地岳線とかかな 昔、国鉄乗務員が車両とともに私鉄に乗り入れるケースはまぁよくあった話。
逆に私鉄乗務員が国鉄に乗り入れるためには、国鉄の様々な試験に合格し、資格を得なければならないはずですよね?
もちろん車両も装備品も国鉄車両に準拠したものでなければなりません。
が、しかし線区や区間を限って特認されていたり、管理局毎にその運用がまちまちであったりしてたんですかね? 豊橋鉄道田口線(旧田口鉄道)の鳳来寺まで、国鉄(飯田線)から80系電車が乗り入れていたのは驚き
田口鉄道の車両は豊川鉄道、鳳来寺鉄道時代に豊橋まで乗り入れていたが、国有化後はあったかな? >>78
小田急のDC御殿場乗り入れの時は、国鉄千葉気動車区に運転士を合宿させて送り込み資格を取らせた。 有田や鹿交って乗務員ごとでしたっけ?
そうそう、名鉄の鵜沼〜美濃太田とか名鉄乗務員でしたよね。 有田は多分乗務員ごと、
鹿交の当時の社会情勢や地域性(法規制がやかましくない、大都市圏でなく
地方線区の極限られた区間、当時の地方私鉄にはどこの会社にも国鉄OBが居た人的繋がり・・・要は当該の運転管理局と会社線のヒトの信頼関係によるナアナア)を考えれると乗務員ごとかと。
>>77 宮地岳線は、西鉄時代新車供給が途絶えて雑多な中古車購入を始めたけどその中には、木造国電や買収気動車が居たじゃん。 まだまだ国鉄(JR)乗務員が男性オンリーだった頃でも、乗り入れ先の中小民鉄で
いち早く女性乗務員を採用していたところがある。例えば富山地鉄。
485系のスーパー雷鳥が立山・宇奈月温泉に乗り入れていた当時、超ベテラン車掌から
乗り継いだ地鉄の車掌は、まるでギャルとでも言いたくなるような若い女のコ。
優等(看板)列車なんかに若僧が易々と乗務させてもらえなかったあの当時、ギャップ
も大きかった半面、羨ましさを覚えた。 >>82レスサンクス
かと思えば小田急キハ5000〜SSEの御殿場線乗入れは小田急乗務員の国鉄線内の運転資格を必要としたりとか…。
SSEの特殊な車両構造、連査閉塞と言う特殊性もあってこのような形になってはいたのだろうか…。
最近のケースで言えば松田からの甲種輸送のEL乗入れだって普通に車両入替として貨物会社にやって貰えばいいんじゃ
ないかと思ったりする。車両ではなく列車として扱うから小田急は小田急でELの乗務員をそれだけの為に育成したり、
信号を整備したりとか…。まぁ、趣味的に見ますと楽しくはありますが。 富士急行のキハ58だけど、自社所有車両用に給油やエンジン補修の設備を持っていたのだろうか?
小田急は経堂に、南海は住之江に、気動車用の給油・補修設備を設けていたわけだが、富士急の場合、たった3両の気動車のために専用の設備を設ける位なら、国鉄に委託する方を選択していたのではなかろうかと思ったもので。 >>86 鋭い質問だね。
富士急気動車の運行区間は国鉄線内も含めて電化だし。
当該区間(国鉄の)で八王子以外でそういうコトする場所ある?
八王子にあってもワザワザ送り込みでそんなコト(給油)しそうにないし・・
自動車事業も手広く行っている富士急なら自前で設備を設け、給油、ソコソコの整備(デカイものは大手でも外注してる)していたんじゃね?
小田急のSE車やHSE?車の東海道試運転って誰が運転したの?
当然国鉄のヒト?
試運転に小田急&車両メーカーの関係職員の立会いは勿論
事前に経堂や日車で車両の扱い方の下見、講習でもしたのだろうか? 国鉄時代の転属回送は自走が基本だったのでその管理局に縁の無い車両でも
講習だけは行っていた、特に静岡、岡山、広島とか。
だから小田急車のテストも国鉄の運転士が講習を受けて乗務したんじゃないか。 割と最近の例では、あぶくま急行に臨時(ぶらり○○シリーズ)で485系が乗り
入れた際、JRの運転士が便乗していたようだ。2シーズン10日間以上運転された
ので、最後までそうしたかどうかは知らないけど 全線電化の富士急が国鉄気動車の急行連結のためワザワザ気動車を新調したのは、
国鉄乗り入れ首都圏乗り入れの既得権を死守するためだったのだろうか?
南海の紀勢本線乗り入れの中止とか考えるとなあ・・・
だとすると、国鉄が気動車併結を乗り入れ条件にしたのなら この当時から
官の民間に対する嫌がらせは、強烈だな。(当時はマダ関東近県に限った出来事みたいだが)
茨城交通湊線の水戸乗り入れが廃止になったは、恐らく国鉄サイドの法外な要求があったのだろう。
関東鉄道も常総線と常磐線の乗り入れを持さちかけたら、逆に国鉄から筑波線の
新型気動車をラッシュ時に水戸線内に直通させる要求を突きつけられ
(要は新形気動車を十分水戸線に手当て出来ない水戸管理局のラッシュ対策に利用された。)
不本意だったようだし。
後年国鉄乗り入れを中止した(せざるえなくなった会社)にはどんな、提案という名の嫌がらせ要求が
あったのだろうか?少し気になる。
そんな中 遠鉄が旧型気動車キハ04(マアこれも結局長続きしなかったが)で二俣線乗り入れに漕ぎ着けられたのは
どのような政治力を使ったのか興味がある。 嫌がらせなんかは知らんけど
だいぶ後年の話だが大洗まで485がKRDに牽かれて
乗り入れる寸前までいったのに・・・ 信楽事故の影響と機運から、乗り入れの安全性に対する警戒感が広がった >>90
富士急は嫌がらせなんかじゃないね。
線路容量の問題があるし、何より富士急自社車両の短編成が新宿〜大月を走ったらどうなるよ?
ちょっと考えりゃ分かりそうなもの。 >>90 時系列で見ていけば?
1962年 富士急がキハ58を導入し、DC急行アルプスとの併結による直通急行運転開始。
1963年 165系製造開始
1969年 中央高速、調布・富士吉田全通。新宿からの河口湖行高速バス11往復、所要時間2時間10分
1975年 急行アルプスの全電車化に伴い、富士急キハ58は余剰化
1976年 中央高速と首都高がつながる。高速バスの所要時間1時間40分に短縮
この高速バスは富士急と京王の共同運行。DC直通急行の最大の競争相手は高速バスであり、69年以降、富士急にとって高速バスはドル箱。
中央線急行の165系化を待たずに、いち早くキハ58による直通急行を運転し始めたが、中央高速の整備に伴いバスの競争力が高まった。
富士急は、直通急行の電車化を図るよりも、高速バスへの投資を選択した。要するに富士急にとって優等列車乗り入れ運転をやる気がなくなってきたってこと。 富士急のキハ58って戸袋窓が大きいな。1ボックス分とは・・・ 富士急のキハ58が有田鉄道に譲渡された後に有田鉄道に乗る機会があったのだけど、
紀勢線で藤並の駅に降り立ったら眼前に停まっていたのがキハ07でがっくりした記憶がある
譲渡のニュースを見てから半年くらい経っていたのに金屋口で動く気配無く留め置かれた
キハ58の姿にえらく勿体無いと当時は思ったものだけど、やはり何か事情があったのかな 有田のキハ58003は認可がおりずにしばらく待機していたんだよね、確か。
それが寸法なのか建築限界なのか、重量なのかは不明です。
国鉄線内の運用実績はあり、紀勢線への乗入れの認可は容易だったのでしょうが、社線内がクリア出来なかったのかも。 ああ、あの時は驚いたものだった。当然、用途からして名鉄か島原に行くものだと思い込んでいた。有田?どこだ?それ・・・といった感じで。 小田急のキハの件。 以前、小湊五井機関区を見学させてもらった時、
車輪は相模大野に持ってってやってもらってる って言ってた
以前乗務員や検修の教習その他諸々で面倒みたんだと
それ以来小田急さんには色々と面倒みてもらってて
一時期キハに東海型ベンチレーター載せてたのも小田急からもらってきた
って人の良さそうな機関区のお爺さんに教えてもらったよ