国鉄101系スレB
>>51
集中式クーラー単品は確か1トン程度じゃないかな。
但し101系の場合は車体補強も実施しているからその分も重くなっている。
10両編成でトータルT車1両分位の重量増だから走行性能は厳しかった。
中央快速は特快メインだったのもその為。 冷房化で重くなってスジを寝かしたのは東武8000系の例があるはず
冷房化で2.5km/h/sから2.23km/h/sに落ちた
103系は限流値アップでカバーしたが101系はモーターが焼ける為MT54に交換しない限り不可能
8M2TにするかMT54に交換すれば非冷房車と同じスジで運転出来たのでは? 残念ながらそこまでして101系に固執する理由はなかった訳ですよ。 >>55
阪急3100系も
冷房化で重くなってスピードが出なくなって宝塚本線を追い出された しかし44.3tって重さはその辺の耐寒耐雪構造の車より重たいなあ
これでモーター非力ときたらそらかなわんわい >>56
1972年当時で既に101系は先が短いと判断していたんだろうか?
電動車ラストイヤーである1966年製でこの時点で車齢6年、試作車で15年目なのは今の基準で見たらまだまだ若いけど当時は違ったんだろか。 当時の国鉄が「高加速」に価値を見出していたとは思えない。 >>59
101系は失敗策と国鉄は判断していました。だからこそ103系に切り替えた訳ですね。
爆発的な輸送需要増大に対し経済的な車両を大量生産して対応していくという方針です。 M車の最末期は151系の181系化で余った部品の再利用じゃなかったっけ?
いくら特急形の性能アップのためとは言え10年も使ってない部品を瑕疵もないのにただ捨てるのは許されなかったんでは。 昭和40年度車からは一部発生品のMT46Bになってるね
でも集中台険で循環したから最初MT46Aから46Bに積み替えられたのもあるし
その逆もあったり
そういや101系のモーターで思い出したが910番台のMT50ってどんなモーターだったんだ?
75kwまでパワー落ちたとか噂だが・・・ 昭和30年代は技術革新が著しい時代だったから比較的保守的な国鉄でも
相互的に経済性を鑑みた場合(本来 新たに性能が異なり互換性のない通勤電車でも)機構面でのモデルチェンジに踏み切らざるえなかったんじゃね? >>64
でも昭和40年代、1970年代に入ってからは組合問題からか超保守的に逆戻りしたな。
本来例えばエアサスなんかは1972年の103系の一改車辺りから採用されてなければならないレベルなのに結局はラストまでコイルサスだった。
オレの場合関西、とりわけ京阪と片町線に近い所に住んでたから早くからエアサス採用していた京阪と比べて国鉄がなんと遅れてたかと思ってた。 70年代といえば団塊世代の就職、結婚出産(第2次ベビーブーム)
人口増加による輸送力増強で数年前まで7〜8連が主体だった首都圏の国電は
10両が当たり前になってきたのもこの時代 >>67
関西は国電よりも私鉄のほうがどんどん編成が長くなった感じがする。
国電→アーバンの通勤形では大阪環状線の8両に追い付いたのは関西線と阪和線で通勤形の8両編成があるくらいか。
本線緩行や福知山線も8両編成は一時期あったのみ、片町線は計画のみで終わってしまった。 横浜線は101系は入らずに73系→103系と世代交代したんだね。 >>69
当時は4連導入だから103系しか選択肢がなかったよん。 >>68
片町線の場合は101系入った当時は5両だったのが長尾複線化で6両、
JR化直前に7両になってるけどな。
後8両化が中止になったのはワイドボディの207系に置き換えられたのが
要因ではないかと? 1963〜69年の間は101系と103系両方作ってたの? >>69
新性能化の過程で101系を挟まずに最初から103系を投入した路線って横浜線のほかに京浜東北線(後から101系は来たが)、京阪神緩行、阪和線が挙げられるね。
>>72
その間は103系に準じたマイチェンもしていた。
例えばドアのステンレス化や車内のナンバープレートのアルミステッカー化など(1967年頃以降)。
それ以前の1965年頃に101、103系共々それまで直書きだった車内のナンバーがプラのプレート化された。
もしも101系が1972年、或いは1973年以降も作られてたら101系版の一次改良形や新製冷房車、或いは高運転台車もあったか? ふと思ったがMT46を歯車比6.07で使ったらどうなってただろう
車輪径は860mmのままで
103より高速悪くなりそうだが
MT比1:1で組めるようにはなってたんじゃない? >>74
青梅線は五日市線と共に中央快速の絡みで101系で旧国置き換えしてなかったか? 101系の小さい幕で武蔵小金井や府中本町←→新松戸はかなり窮屈だった >>77
101系の幕で
特別快速|武蔵五日市
なんてやったら判別不能になるかw >>78
101系の特別快速は幕に表示されていなかったでしたっけ? >>76
101系は朝イチの東京行きと一部線内運用だけじゃない?
103系は最初はブルーが続々と入ってきた。やたら混色が増えたのは冷房車になってから。 >>80
101系では幕表示に種別はなし。特快も快速も各停も行先だけ表示。
特快のみヘッドマーク(というか鉄板)を掲げていた。 「特快あきかわ」とかのヘッドマークもあったな。
あのヘッドマークでなく、西武451系のような車内設置式の幕表示にしていたら・・? 南武支線の101系は方向幕が2種類あったんだな
「尻手⇔浜川崎」と2行で表示されてるのと「尻手・浜川崎」と1行で表示されてるのがあった 中央線から青梅線に入ってくる101系は基本、西ムコ車だけだった。
朝イチのみならず日中でもふつうに、青梅行として青梅線内に入ってた。
ただし今みたいな特快が入ってくることはなかった。
たしか多くの場合、7両+3両で入ってきて、拝島で3両を切り離すってのが
いつものパターンだったと憶えている。
青梅線内の103系で混色にぎやかだったのは、たしか85年か86年あたり
ではなかったかと思う。
オレンジ、スカイブルー、カナリア、ウグイス、エメラルドと
そろってた気がする。 >>82
特快が登場した頃は方向幕に種別と行き先を一緒に表示する発想はなかったんだろうね。
ところで101系の幕ってそれぞれの路線で独自のものだったんかな?
103系の冷房車では首都圏幕とか何かで全ての路線を網羅したものがあったそうな。
だから山手線で「特別快速|高尾」なんて誤表示があったとかw
関西の場合は101系幕(103系非冷房車でも使用)は大阪環状線、桜島線と片町線が一緒になっていて(関西線は独自の細い文字)103系冷房車では大阪環状線、桜島線、片町線、本線緩行を網羅した大鉄局管内の幕と阪和線、関西線それぞれの幕だった気がする。
ちなみに大鉄局幕は1981年以降は福知山線の駅名が追加された。
RFで広野と表示したイエローの103系が表紙を飾った。 85です。
そうだ、特快は休日だけ入ってきてたね。失礼しました。
青梅線には「おくたま」と「みたけ」で、五日市線が「あきがわ」か。
たしか青梅マラソンのときは、さらに臨時の便も出てたんじゃなかったかな >>86
各路線で独自どころか、中央線でも2種類みたことがある。
東京競馬場前、国分寺⇔北府中が入っているタイプと、甲府、塩山が入っているタイプ。
通常の運用範囲で使うところは共通で入ってたので、問題無かったのだろうけど。
あと、103系の共通幕は、総武線、南武線が入っているタイプと入ってないタイプの2種類があって、
どっちでも問題ない青梅線あたりでは、クモハ先頭の編成が無くなるあたりまで、編成によって入っている幕が違ってた。 101系の方向幕は布製なんだな
他車ではプラスチックフィルムが主流 >>90
それは何年ごろまでそうでした?最後まで?
30年前に鹿児島市電で見たな…
横浜市電も布だったな… 布と言っても表面はペンキかエナメル塗装がしてあって、裏から見ないと分からない。
年季の入った幕は表面の塗装が細かくひび割れしていた。 >>85
23Hみたく付属2本併結なんて運用もあったべ?
1986年3月改正で武蔵野線E編成が青梅線、五日市線の6連で走る運用を掛け持つようになった時に消滅したはずの101系奇跡の復活を果たしたっけね。
ちなみに中央快速最終運用(29H)は朝ラッシュが終わると一旦武蔵小金井に入庫して昼に再度出庫、午後は東京〜青梅2往復してた。E233系初運用が101系最終運用とほぼ同じスジだったのは偶然かスジ屋の確信犯か‥‥
そういえば201系の最終運用も午後に青梅線2往復(青梅特快1往復半と上り片道快速)だったな。 205系や209系が廃車になる今、元101系がまだ現役なのは奇跡だと思う >>95 35年位前は72系が廃車されていく中で、地方私鉄に17m旧国が現役だったりしたからなあ。
それ考えると奇跡でも何でもない。 関東では103や201系もとっくになくなってるのに101系はないわ 宇部・小野田線から車歴70年の40系が無くなったとき、同線と同じ鉄道会社は新幹線にN700走らせてなかったっけ?
こっちの方が奇跡だろ。銚子電鉄の元京王車やら熊本の青ガエルも「奇跡」だわな。 >>96
35年前だと最初期の101系は廃車になってた頃ですか? もしも101系にも延命N40工事車があったらどうなっていたか
サハ103-750番台では戸袋窓を潰したのはあるが延命工事は未施工だった >>100
そうです。
鉄ファン誌の写真記事に大船工で解体中のサハ100とかあったね。
当時は経25年ほどでも、半鋼旧国なんかボロのクソ電車としか思えなかった。
今じゃ経40年でも、更新されてれば乗って気分が暗くなることはないもんなあ。 >>101
モリのT762〜765、ヨトの777,778,780は延命N施工してたような。
101系(片町線用7連2編成を仮定)に延命N40やるとしたら103系での施工メニューに加えて
・電動機をMT54に交換
・これに伴い4M3T化、編成をTcMM'TMM'T'cとする
・前面方向幕を103系と同じサイズに拡大して電動化、側面にも電動方向幕取り付け
・ドアエンジンを新品に交換
・非冷房車は他形式の廃車発生のAU75クーラーで冷房化
こんなとこかな? 南武支線の生き残りは車両更新工事やってたっけ?
外幌付けたり妻窓潰したりAU712で冷房改造したり色々いじってたが >>103
さしずめ101系2000番台ってとこか。
クモハのクハ化はやらないでしょ。
中間の非冷房ユニットの電装解除だろうね。
113系や103系に非冷房がいた位だからAU75の発生品は無いと思われるので、冷房化は153系発生品のAU72とか、WAU102でどうよ?
>>104
Hゴムがグレーな通り、更新はしてません。 延命N工事って、耐候性高張力鋼採用車体が前提なのでは…?
101系だと1963年までに正規に量産されたものはアウト。
1966年の余剰MT46活用で増備されたものしか、対象にできなかったのでは…?
秩父に正規量産タイプがほぼ原型でここまで長く残ったのは、ある意味奇跡的なことと言えるかも知れない。
乗れば、相当ガタが来ているのはわかったけれど…。 反社会的企業「JR東日本」が行った男性客に対する悪質な乗車拒否作戦
JR東日本の本社職員・支社職員・駅員が行った
寝台特急あけぼののレディースゴロンとシートに乗車者する男性客への乗車拒否バリケードです。
男性を侮辱した人権侵害の一連の模様をご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=taqjOajeu5E&list=PLZFU6ES8QfYprxusuhSXsAQcvu5y6y40q >>103
>>105
今更ながら、京阪神緩行線に201系か205系をもう少し投入して、関西圏から
101系を完全に淘汰したほうが良かったと思うんだがな。
60年3月時点で6両3本、61年11月時点で7両2本にまで減ったものの、
そこまでして101系にこだわる必要があったのだろうか、って思えるんだがな。
(冷房改造車であっても、関西独自のメニューはあったのだろうが、基本的な
内容は現在と違ってそんなに差はないから扱えるとは思えるのだが) 確かに冷房改造車は南武線に集結させて良かったよな
代わりに南武線から103系冷房車を片町線に転属させておけば冷房化率も変わらなかったろうに
それと301系を廃車にした時に廃棄された箱型ベンチレーターを鉄博の101系試作車に載せ代えてほしかったよ >>110
国鉄末期の南武線の103系冷房車って1973年製以降の新製冷房車なんか居てなかったような。
もしそうなら大鉄局としては「そんなポンコツ要るかヴォケ!それなら101系使い潰すわ!」って思うだろうね。 >>111
いたよ。M413-M'569、M749-M'2006、T338、T339。
ただ、この国鉄末期の大転配って、基本的に関西へ先頭車が転属、関東へ中間車が転属というのが
大きな流れ(当然Tc13・14のような例外有り)なので、中間車に新しい車があっても意味が無いと言えば無い。
ちなみに、国鉄末期の南武線103系は基本的に京浜東北線→中央快速と流れた車で、
中央快速時代までに全車冷房改造済(JR化直前に初めて非冷房のが来た)。
この時代なら経年15〜20年ぐらいで保全車も多かったし、
まだ山手線にすら非冷房車が残っていた時代背景を考えれば、ポンコツと言われるほどポンコツでも無い。
この時にもし片町線の冷房車が南武線に来ていたらどうなっていたかな、とは思う。 >>112
当時(1985〜1986頃)の片町線って6連から7連への過渡期で増結用のT103を確保するのに苦労してなかった?
元々片町線の103系は本線緩行が201系化されたことで転用された編成が中心だけどその際中間に入っていたTは他線区に転用されてしまったから残留していたTが不足していた。
そのために101系冷房編成のTを103系化する必要も発生した。
仮に南武線の103系冷房編成を転用するとしても7連にするためにTも調達せねばならなくなる。
既存編成に挿入するT103をかき集めるのも難儀していたからあの段階で101系を片町線から撤退させるのは困難だったと思う。
本線緩行103系の片町線転用と片町線7両化が同時進行だったら良かったんだよね。 >>113
そういや本当にする気だったのかどうかはわからないけど、当時余剰と
なってた元仙石線の72系アコモ改造車のモハを片町線向けのサハに改造する、
とかいう記事をジャーナルだったかで見た記憶があるな。
あの時期緩行線への201系投入で捻出した103系のサハは、当初阪和線快速の
8両化に使われたけど、数年で編成短縮&増強を図るために京浜東北線の
封じ込めクモハ編成と組み替えられたんだよな。
当時の編成表で確認したら85年3月改正の時は201系投入分を、86年11月改正
の時は205系投入分をそれぞれそのまま転用していたんだな(これで足りない分を
サハ101の103系改造でしのいだわけだが)>本線緩行から片町線へのサハ103転用 101系の最高のステージは総武緩行線だったな。
長い間異系列との混運用もなく101系天国と言えたな。
反面冷房化が遅く利用者からは非難された訳だが。 もしや秩父鉄道1000系引退で日本国内からMT46搭載車が全て消えた?
元愛知環状鉄道100形のえちぜん鉄道6000系はMT54に交換されたが >>116
同じえちぜんの元阪神3300の下回りはどうだったかな?これも阪神から移籍時に
101の台車等を転用したと聞いてるが。
事業用車両だと東と海にクモヤ145残ってたら、あれはMT46のままじゃなかったっけ?
(西はMT54に換装されてるが) >>115
西ムコの101系も良かったよ。初期車、800番台、試作の900と910番台があったしな
一桁ナンバーもよく見かけた。サハ100もバリエーション多いいし、PS13パンタ搭載車や運用も分割運用や青梅、五日市線、相模湖臨もあったし
欲を言えば冷房改造車がいたら完璧 初期車でPS13のまま残ってたのは関東より関西のほうが目立ってた印象がある。
関西でPS16に載せ替えた車両って関西線で水害廃車の代替に転属してきた車両しか居てなかったような。
その代表格がM'c5かな? 3/21〜23に秩父鉄道にさよなら運転があったんだけど、さよならと本当に言いたかったが、秩鉄スレ自体が荒れてるものだから、後味が悪いこと。
ブログに書けよと言いたかったなw >>120
関西の水没廃車で思い出したのだけど、あの当時、機器故障で関東から大量移籍したのかな? 会社自体が赤字だから仕方ないけど
101系の生き残りを動態保存しなかったのは勿体なかった
近代産業遺産に指定してもいいほどのものなのに >>122
1982年だったか、王寺駅付近の川が台風で溢れて王寺駅に留置されていた101系約60両、113系約40両が水没。
113系は修復されたが101系は経年がタダでさえ古い上に床が水を吸って修復不能になったことで廃車となった。
その頃丁度首都圏では201系に置き換えられて廃車直前の101系が偶々あったので急遽関西線に転属となった。
このような転属は国鉄時代でしかも偶々廃車直前の車両があったから可能なことで仮に今このようなことが起これば恐らく新車に置き換えるしかないかも。 >>123
冷房改造時の埼玉県が出した補助金絡みで、知事が予備として残す事すら首を縦に振らなかったのが原因。
民主党の鉄ヲタ元国土交通大臣が一言、産業遺産に認定すると言えば良かったんだが、何やってたんだろうね?
パレオ撮り鉄してさっさと逃げちまったけど。
まぁオレンジ先頭車は引き取り手が現れたみたいだから、それに期待するしか‥‥ こないだの大雪でもだったけど、埼玉県知事の人アレだね・・・ >>125
県の支出が伴うとなぜ残せないの?
実動できるならもらい逃げの保有とは思えないけど。 >>127
秩父が保有可能な両数に上限がある。
だから置き換え完了=全滅しか答えは無い。
1000系を徹底更新して使い倒すという選択肢もあったが、中古車を買った方が安上がりという結論に‥‥ 南武線を走った101系の最後の生き残りはチョコバナナだったんですね 秩父鉄道は累積は黒字だろ?
バックも堤んトコだしな。
あ、そうか。堤にとって101系は元商売ガタキだから、ヨイショしたくないわけか!ww >>131
えちぜんもMT54に換えちゃったんだっけ? しなの鉄道169系、秩父鉄道1000系、関東鉄道キハ100…とどんどん元国鉄車が運用離脱していく
これも時代の流れか? >>128
三峰口では最低1両はおけるよ。3両分のスペースはあるんじゃないか?1000置き換えの理由は、老朽化だけでなく、利用者減少だから。
三峰口まで池袋からは最低夜8時には出なくてはからない「平日」 >>118を見よう。
秩父鉄道スレの>>431-446を見よう。私からは話したくない話が入ってきた。 もう閉館しちゃったけど 交通科学館にもMT46あったね
梅小路に移してくれるかどうかわからないけど 金のない私鉄に渡すと貴重な車両もすべて使うだけ使って最後は>>139の運命になる
大井川鉄道に行った小田急3000形もトップナンバーが雨ざらしの上に解体という >>140
小田急3000はろくに使われないまま朽ち果てた罠 秩父鉄道1000系は先頭車に分散型冷房を取り付ける手法を用いたが廃車発生品のAU75を譲り受けて冷房化という手法を用いても良かったのに
広島の115系で153系の廃車発生品のAU13で冷房化したのはあるが >>142
あれは結構重いので、非冷房車の改造には車体の補強が必須で、その分工期も費用も余計にかかる。
なのでJR化後の冷房改造は補強しなくて済むように、軽いのを複数載せるのが主流になった。
1000に冷房をのせるくらいなら、101系の冷房改造車や
103系の非更新の冷房車も徐々に廃車が出始めていた時期なんだし、
そっちを貰ってくるという選択肢もあった筈だけど、それは結局しなかったね。 >>143
国鉄時代101系の冷房改造は概ね1962年製以降の後期形のみなんだが改造に際して補強が必要なことに加えて経年が比較的浅いのを選んだんだろうけど、初期や中期の101系と後期では何らかの車体構造の違いがあるということはない? クハ101にAU75冷房改造車いなかったので、既存と同じ編成は組めないだろうね。 >>145
確か組成上の都合でクハ101の冷房改造車が存在しなかったんだよね?
クハ101は過半数が後期形なのになんか不運だな。 >>143
101系冷房車が廃車された平成3〜4年頃に秩父線に3両丸々電気バカ食いAU75クーラー車を導入したら秩父線の
変電所持たないでしょ?東武8000や西武4000やJRの臨時が時たま入線していたけども数少ないから何とかなったけども 中央線の101系の端クモハモハクハの3連って分割されて、青梅とか五日市でこの3両で運用されることってあったん? >>148
高尾-相模湖間のハイキング臨時列車で走らなかったか?
短い「金魚」を山道から眺めた記憶が微かにある。 >>148
五日市線は3連で乗り入れてたな。
快速あきかわ?も拝島で分割 >>149 >>150
レスサンクス。調べてみたら例いくつかみつけることができたよ。
調べてる途中見つけたけど、五日市線103の"5"連とかがはしってたとか驚きだわー もう知ってるかもしれないが、朝の青梅五日市行き→
拝島で分割。4連は五日市線を機織り、6連は青梅で惰眠をむさぼる→
4連は夕方に一旦拝島入庫、東京行きで出てきた6連に併合→再び中央線へ戻る、って運用が、
五日市線の完全6連化まであったのよ。
当然101系時代からの伝統運用で、末期は確か79H→89Hだったかと。
あと、早朝にあった奥多摩発東京行きも101系時代からの運用で、青梅まで3連。
あと、青梅線で101系の付属3連×2の23H運用っていうのも聞いたことがある。
武蔵小金井へ当初投入された201系は4両の半端があった(のちの四季彩)んだけど、
これは当該運用向けだったらしい。 >>146
101系はなぜか先頭車がクモハばかり。クハが先頭にでるのは何か都合が悪いのか?
総武線ではクハが先頭に出てる編成は千葉以東乗り入れと区別はしていたし、中央快速線でも
クハ101が先頭に出ている編成があったけども、冷房改造の対象から外れていたのも何か理由があったのか?
>>143
あの当時廃車になった冷房車のAU75やインバータークーラーは千葉や長野や新潟の非冷房車に流用していないか? >>153
元々101系はオールMを前提としていたからどうしても先頭Mcが中心になるけど国鉄の電車としてはむしろ例外だよね。
国鉄はどうも先頭をTcとすることが分散動力方式、つまり電車としてあるべき姿と考えてたふしがある。
急行形では結構Mcが多いけど短編成を組むにあたり仕方なく設定したようなもの。
101系はオールMを断念した段階で先頭をTcのみにする発想はなかったんかな?