国鉄101系スレB
>>140
小田急3000はろくに使われないまま朽ち果てた罠 秩父鉄道1000系は先頭車に分散型冷房を取り付ける手法を用いたが廃車発生品のAU75を譲り受けて冷房化という手法を用いても良かったのに
広島の115系で153系の廃車発生品のAU13で冷房化したのはあるが >>142
あれは結構重いので、非冷房車の改造には車体の補強が必須で、その分工期も費用も余計にかかる。
なのでJR化後の冷房改造は補強しなくて済むように、軽いのを複数載せるのが主流になった。
1000に冷房をのせるくらいなら、101系の冷房改造車や
103系の非更新の冷房車も徐々に廃車が出始めていた時期なんだし、
そっちを貰ってくるという選択肢もあった筈だけど、それは結局しなかったね。 >>143
国鉄時代101系の冷房改造は概ね1962年製以降の後期形のみなんだが改造に際して補強が必要なことに加えて経年が比較的浅いのを選んだんだろうけど、初期や中期の101系と後期では何らかの車体構造の違いがあるということはない? クハ101にAU75冷房改造車いなかったので、既存と同じ編成は組めないだろうね。 >>145
確か組成上の都合でクハ101の冷房改造車が存在しなかったんだよね?
クハ101は過半数が後期形なのになんか不運だな。 >>143
101系冷房車が廃車された平成3〜4年頃に秩父線に3両丸々電気バカ食いAU75クーラー車を導入したら秩父線の
変電所持たないでしょ?東武8000や西武4000やJRの臨時が時たま入線していたけども数少ないから何とかなったけども 中央線の101系の端クモハモハクハの3連って分割されて、青梅とか五日市でこの3両で運用されることってあったん? >>148
高尾-相模湖間のハイキング臨時列車で走らなかったか?
短い「金魚」を山道から眺めた記憶が微かにある。 >>148
五日市線は3連で乗り入れてたな。
快速あきかわ?も拝島で分割 >>149 >>150
レスサンクス。調べてみたら例いくつかみつけることができたよ。
調べてる途中見つけたけど、五日市線103の"5"連とかがはしってたとか驚きだわー もう知ってるかもしれないが、朝の青梅五日市行き→
拝島で分割。4連は五日市線を機織り、6連は青梅で惰眠をむさぼる→
4連は夕方に一旦拝島入庫、東京行きで出てきた6連に併合→再び中央線へ戻る、って運用が、
五日市線の完全6連化まであったのよ。
当然101系時代からの伝統運用で、末期は確か79H→89Hだったかと。
あと、早朝にあった奥多摩発東京行きも101系時代からの運用で、青梅まで3連。
あと、青梅線で101系の付属3連×2の23H運用っていうのも聞いたことがある。
武蔵小金井へ当初投入された201系は4両の半端があった(のちの四季彩)んだけど、
これは当該運用向けだったらしい。 >>146
101系はなぜか先頭車がクモハばかり。クハが先頭にでるのは何か都合が悪いのか?
総武線ではクハが先頭に出てる編成は千葉以東乗り入れと区別はしていたし、中央快速線でも
クハ101が先頭に出ている編成があったけども、冷房改造の対象から外れていたのも何か理由があったのか?
>>143
あの当時廃車になった冷房車のAU75やインバータークーラーは千葉や長野や新潟の非冷房車に流用していないか? >>153
元々101系はオールMを前提としていたからどうしても先頭Mcが中心になるけど国鉄の電車としてはむしろ例外だよね。
国鉄はどうも先頭をTcとすることが分散動力方式、つまり電車としてあるべき姿と考えてたふしがある。
急行形では結構Mcが多いけど短編成を組むにあたり仕方なく設定したようなもの。
101系はオールMを断念した段階で先頭をTcのみにする発想はなかったんかな? >>154
2段階あって、当初は「全電動車方式」を指向した電装準備サハが有ったのを、
まずはそのまま電装準備サハを増やし、後に非電装サハ増備に切換、総武でTc+Tc'追加にする。
継ぎ当てだから「のみにする」発想はなかったろう。
Tcじゃ圧力計の遅れ込め動作も観測できなかったから、正規の使用とは思ってなかったんじゃないか?
中央快速はサハ1、TcかTc’を加えて3連+7連化、McMTc'かTcMMc'の3連+「McM'+3T+MMc’」
更に総武-中央10連化時にはTc+Tc'を新製して増結して3連+7連 >>155
101系の時代のブレーキシステムは
遅れ込め
とは違うでしょ。
T車は最初から所要ブレーキを負担している。
単にM車が発電制動が有効な間だけ直通ブレーキを解放しているだけ。 >>156
101系は締切電磁弁制御が不完全だった
ブレーキハンドル角度67度以上で電動車に空制補助が入る仕様
103系は常用最大でも電動車に空制補助は入らないが >>157
そういう事ではなく
>>155が言っているのはクモハなら双針圧力計のブレーキシリンダー圧が電制立ち上がりと共に一旦上昇した圧力が落ちるのが目視出来る…という事だと思う。
もっともその場合でも確認出来るのは先頭ユニットだけの筈だけどね。 >>158
その通り!
101系8連20編成の新車が投入されたのは、中古車センターだった総武線では初めてのこと。
速度計も電気式で、チクタクいう時限爆弾型wじゃなかったし、101系は画期の車だった。
後から山手線のお古の時限爆弾速度計車が大量に入ってきて旧国を駆逐したけどね。クモニ以外。 総武線のクハは千葉以東のATSの関係があったんじゃなかったっけ? どこかの掲示板で中央快速にクハ103ATCが居たことで中央快速もATC化計画があったの?という話題やってたけど仮に中央快速をATC化するとしたら先頭がMcなのが殆どな101系をどうするかで最大の障壁になってた気がする。
国鉄はATCをやる場合先頭は必ずTcにしないと駄目と考えてたし。
もしかしたらMcのTc化、それで発生した電装品をM車化準備工事しているT車に移してM化する改造があったかも知れない。 >>160
電車区間がB型で、千葉以東がS型なんで、直通車には両方積んでるのが要ったが、
10連化に後で挿入したTc+Tc’は直接は関係ないはず。
何両かがSを積むというのはあるだろうが。
津田沼での切り離し運用は旧国の時代の6+2までで、101が入線した頃には無くなってた。 >>161
中央線のATC化は、あまりの過密ダイヤで停止2区間は取れず輸送力減が許容できなくて流れた。
ATS-Pはその点車上演算方式で非常に優れていて採用できた。
京浜東北はATC化したけどMc103は居たでしょう?それならMc原因説は当たらない。 >>163
京浜東北には確かにMcが居たがATC化で阪和線など他線に追い出されたり残ったのも中間に押し込められたりした。
後は山手・京浜東北とも先頭Tc、もしくは編成両端3両を新車に置き換えて発生したポンコツ103系を関西に転属させるのが基本だった。
中央快速101系の場合こういう芸当は出来ないからもしもATCを採用するなら全編成103系置き換えもしくは既存101系の改造が必要だったと思う。 >>164
そういう車種側の都合じゃなくて、ATC採用での輸送容量が減少するのを
過密中央線は許容できなくて他の都心電車線が総てATC化するなか中央・総武だけがATS-Bのまま
残ることになって1988/12東中野駅追突事故に繋がった!という話。
ATCだと停止信号閉塞区間が2個(疑似でも2個)要るでしょ。
これで必要な車間が拡がって輸送力が落ちるんだよ。
新幹線だって30km/h区間というのは実質第1停止区間で、閉塞終了手前150mにA点地上子を置いて
第2停止にして次区間手前に止めてるでしょう。ここがATC導入で輸送力が落ちる弱点。
ATS-Pは車上演算で信号手前10m〜20mまで放物線特性で進入できるから、輸送力ダウンがない!
ということはATS-Bで警報が鳴った場合、運転規則通りの一旦停止など誰も守ってなかった!って話になるのだが。 >>165
× > 新幹線だって30km/h区間というのは実質第1停止区間で、閉塞終了手前150mにA点地上子を置いて
○ > 新幹線だって30km/h区間というのは実質第1停止区間で、閉塞終了手前150mにP点地上子を置いて >>161
中央快速線にいたATCクハ103-311〜316はその後横浜線のATC化で南カマに転属してるよ 中央快速だと昔のATCでは東京駅の過走余裕距離(ポイントかえて稼いでいたな)も足りなかったかな、
って、ここ101系スレ… 秩父の1000系は1両くらいは顔だけでもポッポの丘に持っていってほしかった
津田沼所属の車両もあったし、千葉とも縁があった 南武支線の101系は唯一ATS-P搭載だったはず
しかしどこに搭載したんだろうか
103系はクモハでは運行番号幕を潰して設置したが
他にも最後までの生き残りで唯一尽くしで唯一の妻窓閉鎖、唯一のAU712冷房改造(103系編入車も含めるとサハ103‐775も該当)、唯一の優先席モケット変更、唯一の外幌取り付け、唯一のワンマン化とかあったし
車両更新工事は未施工であったはず 秩父鉄道1000系は半自動対応に改造してるんだな
しかも国鉄の半自動化改造車とは違い半自動・全自動の切り替えが可能
しかし115系とは違い左右が連動している上に取っ手が小さく扱いにくいのでは?
仙石線の初期の103系もドアが重く蹴っ飛ばして開ける人がいたとか トラックで運搬された秩父の元101系はどこいったんだろ? 行田市の解体業者にいったらしいよ
JR西の新しい博物館の展示車両としてもよかったのにね
103系と並べて大阪環状線を走った車両として 101系の貫通幌は他の形式とは違い旧型国電と同じものを使ってたんだな
車体側にV字型の吊りフックがある モハ90試作車のデザインが量産車に反映されなかったのが残念
フラットな側面となった埋め込め式雨どい、箱型ベンチレーター、金属押さえ込みガラス支持枠と
どれを取っても斬新なデザイン。モハ90試作車の登場した1年前はまだ3段窓でプレスドアだったモハ72600番台
を造っていたから衝撃的なデザインだったはず。あのデザインでのちにAU75型クーラー載せていたらカッコ良かったろうな 前面のJRマークの位置がずれていたのが多かった最晩年の鶴見線の101系 >>179
埋め込み雨トイは、なぜかモハ72920では量産車まで継承されたのに
この点については退化したな
全電動車で高くつくので、旧型よりもコストを厳しく見る必要があった
のかも知れない ありし日の東京駅風景。
ジリリリリリリン!
『2番線より 快速豊田行きが発車しまーす』
ピリリリ〜リピッ!
クスー ガラララララララ バン!
クカー!
ツァツァツァツァクイーンチャチャチャチャチャチャ…
ヒュ〜〜(タ タン)〜 パコン ヒュ〜(タタン タタン)〜
クオォォ〜〜 (タタン)ン (タタン タタンタタン) 先頃引退した秩父車は、いつの間にかCPやブレーキ制御弁を換装しちゃってたからね。
音の面白味は落ちていた。 埋め込み雨樋は腐食の補修に手間がかかるから
外付け樋にしたんじゃなかったっけ? 101系に限らずMT46モーターの車両は1個の出力が100KWだがMM'ユニット当たりの出力は何故か800KWではなく775KW(モーター1個当たり97KW)になってるんだな
MT54搭載車はきちんと120KW*8=960KWになってるのに MT46は100kWで定格計算したら151系がMT比1:1で関ヶ原越えるときのランカーブが熱容量越えちゃったとかで
僅かにパワーを殺した計算をしてるんじゃなかったっけ
MT54は絶縁の熱耐性が上がったから165系6M7Tでも上越国境越え、2M3Tでも身延線走行ができるが。 101系は本来MT比1:1禁止だったが末期の総武線で6+4があったな
それどころか10両貫通とか3+4+3とか7+3とかいろんな編成が入り混じってた 初期車の機械式速度計は何か蒸気機関車みたいだな
JR東のSLはATS-Pに対応できないために電気式に交換されたが 昭和60年ごろ、大阪梅田のコンテナヤードで行われていたイベント会場で、
関西線101系の先頭車の運転室部分が販売されていたが、購入した人はいるのだろうか 101系をはじめとする国鉄のHSC車は自動ブレーキ帯でブレーキハンドルを抜き取る仕様になってたんだな
JR東日本や私鉄では非常ブレーキで抜き取る仕様になってるが
JR東日本ではATS-Pの関係で非常抜き取りに改造したために末期の南武支線のやつは103系と同じブレーキ弁に交換されていた 中央快速線の冷房改造車はせめて弱め界磁率を35%に変更すればよかったのに
こうすればスジを寝かせずに済んだはず
但し加速度は変わらない(かといって103系みたいに限流値を無闇に上げるとモーターが焼ける)ので根本的な解決にはならない
8M2TにするかモーターをMT54に交換すれば非冷房車と同一スジで運転可能だったはず 101系は特別保全工事を施工した車両が無かったような
南武支線のやつも最後まで未更新だったはず >>193
ふーん、調整の工期は何日間くらいで消費電力はどのくらい低減できたんでしょうか。
追加や換装すべき機器はありそうでしたか。
あと運転上の変更・注意点はどんなものがあったでしょうか。
となると組合との話し合いも必要でしたね。 >>193
同じモーターの励磁電流比率(通称弱界磁率)を変えても、既に磁気飽和領域まで励磁しているからほとんど特性が変わらない。
真の弱界磁率は、起動時の磁束=並列フルステップ時の磁束と、弱界磁制御最終段の磁束の比で、
これは定電力制御領域=弱界磁制御領域上下端の速度比として現れるから、
それが40km/hと60km/h前後である101系の真の弱界磁比率は約67%と言うわけだ。
この辺が鉄ヲタには誤って伝えられて伝説を生んでいる。
103系のそれがおおよそ36km/hと54km/hというのも、真の弱界磁率は67%くらいと推定できて、
公称の値は界磁の磁気飽和を無視した励磁電流比率で、それはモータ回転特性には直結していない。
弱界磁比率19%とかいうモータも、モロに電流比率で、現実に弱界磁領域が5倍幅もある車両など存在していない。
直流モータの励磁電流の比率を「弱界磁率」と呼んでいるのは鉄道業界だけと違う? 試作車の運転台をよくよく見ると、何だか中学の技術科(金工や木工)教室を思い出してしまう。
コンソールになった209系辺りからは、もうオペレーションルームって感じだな。 101系試作車が最初積んでたMT46は高回転型だったので本気出せば110キロ運転可能だったのでは?
量産車のMT46Aはトルクを若干上げたが高速域の伸びが低下した 台車換えてまで高速試験やったんだからたくさんだろう。
ワンメイクでレースやってるんじゃなく、日常で走らせるクルマを造るんだぞ。
エポック作品であり、前進のために失敗を認められたのが101系なのだよ。 鉄道伝説
8/3 (日) 22:30 〜 23:25 (55分)
BSフジ
「国鉄101系〜通勤形新性能電車のパイオニア」
朝夕を中心に、乗客を運ぶ通勤電車。その原型となった車両がモハ90形。後の称号改正で国鉄101系と改番される車両である。
大量の人員を効率的に乗降させることができる1300mmの両開扉。乗り心地を飛躍的に良くした中空軸平行カルダン駆動方式の採用。
そして今ではお馴染みとなった路線ごとによる車両カラーの色分け。国鉄101系は、 今回はそんな国鉄101系の伝説に迫る。 101系開発当初は「省エネ」という概念が無かったんだな
省エネが叫ばれるようになったのはオイルショックの頃から >>203
そりゃ省エネって言葉はまだなかったけど
概念自体はあったよ 103系試作冷房車も最初の頃はギンギンに冷やしてて冷蔵庫みたいになってたとかいう話
流石に電気代の無駄や寒いというクレームから温度センサーを付けて26度でストップするようにしたが
家庭用エアコンと違い温度調整が出来ず弱冷房車は温度センサーを改造してたような 101系はブレーキハンドル角度67度以上だと電動車に空制補助が入る仕様だったな
締切電磁弁制御が不完全だった
103系は常用最大でも電動車は電制しか使わないが
JR北海道の車両は雪噛み防止のためにあえて空制補助を入れてるとか それを常に頭に入れて運転されてたんですか
素晴らしいですね >>207
頭に入れるというか、何千回も操作するうちに体が覚えてしまう
そんな事より、同じ形式の車両でもかなり差があり、そちらの方が重要
詰所でもよく話題になる
by関東大手私鉄、現役運転士 秩父鉄道1000系はコンプレッサがC-2000に交換されてたな
空気供給スピード上げるためか?
115系初期車みたくC-1000×2台でも良かったのに >>209
1台で済めばそれに越したことはない
余剰品もゴロゴロあったし C-1000は本来2両に1台搭載するべきだが101系だと3両編成では編成中1台しかなかったために空気供給に凄く時間が掛かってたのでは? 南武支線のやつはブレーキ弁を103系と同じのに交換してたような
ATS-Pに対応できなかったためとか また「…なら…よかったのに」様か。
>>17>>142>>193と同じ人物か?
なぜそうならなかったか、もう一段踏み込めばよかったのにww
後付けでC1000で2基化したら、場所はとるし配管・配線の引き直しが要るじゃん。 >>209>>211
単なる部品供給上の問題かも知れない。
>>210の言うように、C2000ならJRの廃車車両から山ほど出てきてただろうし。
「交換部品がない」はビンテージマシンを維持していく上で最大の難関だ。
SLなら客寄せパンダとして申し分ないからコストかけてもペイできるけど、
「たかだか半世紀前の」電車ではちょっと訴求力がな。
日本はまだまだ産業遺産に対する認知度・理解度が低いのも確かだが、
維持する側はあくまで営利企業である事も忘れちゃいけない。 勾配線区だと稼働率が高まり、イコール故障の確率も高まるから、容量でかくして稼働率を下げたのかも知れんな。
逆に、東武6050みたいに小容量を2機掛けしていざという時のバックアップにする考え方もある。 昔の南武線6連の101系試作冷房車はクモハ100にある210kVAのMGだけで
AU75を6台動かしてたな
消費電力35kVA×6できっかり210kVAで常に全力運転のマージンゼロ
走行用補機電源はクモハ101とモハ101のそれぞれ5kVAから供給だったから影響なかったが
よく冷房用MGは故障しただろうなとは思う
ところでこの編成のMGなしモハ100の重量誰かご存じない?
冷房付きモハ100は42.3dってピクトリアルには書いてあるけど
これは量産冷房の160kVAMG装備車の話で
試作210kVAMG装備車とMGなしで冷房だけ乗せたのの重量は不明
出来ればこの二つとも教えてくださったらありがたい MT46の出力20%増のMT54プロトタイプの実験も101系でやったな
しかし熱容量の問題が解決しなかったため新規にMT55が開発されたとか
101系でMT54化された車両は存在しない
471系やクモヤ145ではMT54化された車両があるが そう 交通科学館にあったのはレプリカだし
旧型国電といい 通勤車保存の扱いはいつたってもひどいな >>226
オレンジのがトラックに乗せられて道路を走っている画像を観ましたが、どこに運ばれたのでしょうか? >>224
交通科学博物館のモックアップはドアエンジンが不調で変なドアの閉まり方してたよな
どっかで引っ掛かりながら閉まる感じだった
実車だとすぐ工場送りになるはず 103より少しだけ天井が高くて好きだった。
モーターも103より静か、出力ギヤ比車輪径の違いを知ったのはずっと後。 もし101系登場時にローレル賞の制度があったら受賞してそう。
流石にブルーリボン賞は無理かも知れないが。 >>231
登場年がブルーリボン賞の最初の年ですね >>232
その年、つまり初代ブルーリボン賞は小田急SEだったから地味な通勤車ではどのみちブルーリボン賞受賞は無理かw
てかローレル賞は通勤車がブルーリボン賞を受賞しにくいために新設されたカテゴリーだったような。
新技術は通勤車で先に採用することが多いのもローレル賞の基準の技術面での評価とピッタリ。
とはいえ101系の場合国鉄としては初の新性能とはいってもパンタが旧形のままだったがw
パンタスレにもあったけど101系の試作編成や量産初期まではPS13だったのは本来は試作編成製造の段階でPS16にしたかったのだが開発が遅れてやむ無くPS13を使う破目になったのとPS13の在庫処分の為に量産初期でも採用した、という説が出てた。 >>232
>>233
実態は小田急に賞を与えるための口実だがな>初代ブルーリボン賞
第二回以降、システム自体は何度か変わってるものの、基本会員(という名のヲタ共)
の投票数がベースとなってるけど、あれだけは一部幹部会員による鳩首協議で決まっ
てるからな(疑おうとすればなんぼでも疑えるしな)。
最もあの年に投票したとしても他にふさわしいのがあるかといえば否だが。
>>233
>新技術は通勤車で先に採用することが多いのもローレル賞の基準の技術面での評価とピッタリ。
最も既に他の大手私鉄で採用されてるものがほとんどだろうしな。 >>234
ブルーリボン嘗を与えるために、毎年持ち回りで組織票の貸し借りやってたもんな。
それが破綻したのがスペーシア事件だったが、この一件で東を怒らせて対立した事もあったな。 >>228
リサイクル工場
鉄博にほんとは101系bフ量産車として涛�錘x線のを持bチていく予定だbチたけど
血エ型とはあまりbノもかけ離れてb驍ゥら 試作車を持って行ったらしいね
乳鉄101系の置き換えがもう数年早く始っていれば量産車が鉄博に行ったかもしれないのに >>236
鉄道博物館に収蔵する際に登場時に近い姿に復元出来なかったんかな?
ガラスの金属押さえとか雨樋の処理方法は103系の特別保全工事とか西日本の体質改善工事の応用で再現出来そうな気がするが。 2月まで弁天橋の博物館にあった101系は今どうなってるのかな?
あれも初期車? >>238
あれは完全なレプリカだよ ところどころ本物の部品使ってるらしいけど
レプリカであそこまでできるなら 80系の湘南顔と153の低運車も造ってほしいと個人的には
思うね >>238
弁天橋に博物館あったっけ?
確かに101系は昔はあったけど