懐かしの三重交通
三重交通に鉄道があったことを知らない人も多くなったこともあり立てました いや、観光協会のサイトで見ただけ。
紛らわしくてすまん。 別にいいけど
松阪線にまつわる写真・画像でまとまったものといえば、あのHPしかないのかな?
車窓からの写真もいいが走行中の電車(できればミキストで)の写真があったら、
と無い物ねだりしてます 某私立大学の鉄研のサイトが写真の数は多いかな。
ただ、そんなに興味が引かれるようなものではない。 ネットでググったらいくつかのサイトにヒットするので
大体の画像は見たつもりだが少し前にCBCテレビで特集やってた時に紹介された写真は
今まで見たことの無いもので、まだまだどこかに眠ってるのかも知れないね 「鉄道ファン」の254号?か何かに、ちょっとした紀行が載ってたはず。
下茅原(駅で言うと大師口のちょっと西側あたり)で、
伊勢街道との間に柵も何もなくて、道の脇を走ってるような走行写真が印象的だった。 当時利用客がそれなりにあったのは花岡くらいまで?
そこを過ぎると田んぼと畑ばかりになる >>49
町の規模として言えば、射和の需要はそこそこあったんじゃないかと思うけど、
実際どうだったんだろうね?
橋の向こうの相可の人も使えただろうし。 射和駅前にはプレハブ建てのパチンコ屋があったらしい 逆に射和の住民が橋を渡って相可駅を利用してたのではないかな >>52
自治体が出してる統計書等を見てると松阪線が残ってた昭和30年代で
既に松阪市内外には10店以上のパチ店があったというから、
そんなに珍しくなかったかもね
今みたいにチェーン展開じゃなくて、
個人でも割合に容易く店が始めることが出来た時代だったと推測 国鉄の方が速かった
でもフリークエンシーの面では松電が優位 >>53
駅へ近付くほど町外れになる相可の状況から言って、
国鉄相可駅が、射和の住民までを取り込む吸引力を持っていたとは考えがたい。 まあ、50年前に駅前にパチンコ店が建つくらいだから
射和の方が栄えていたのだろうよ パチンコ屋と言えば、大石からちょっと入った横野の町にも
小さなパチンコ屋があったっけな。
昭和50年代中頃までは、今みたいな郊外型の大規模なものは少なくて、
駅前とかのパチンコ屋は、今で言うとコンビニ程度の店舗面積で
商売してるとこも多かった。横野のもそんな感じだったと記憶してる。
松電関係なくてすまんw 国土地理院がネットで昔の空撮写真や地図を公開してるけど
三重交通時代の湯の山線がはっきり出てるな
線形改良前の桜駅や廃止された小生駅などもちゃんと書いてある 松阪線は何気に難読駅が多い
射和、御麻生薗、平生町、茶與町
廃止された旧駅だが横綱級は「駅部田」 三重県にとりわけニブロクナローが多かったのは何故だろうな ちょっと反省
北海道は面積が違いすぎるから比べても意味ないなw
福岡県も軽便鉄道は多かったぞ 数の多さよりも、改軌されずにナローのままで
生き永らえた線区が多かった事の方が興味深いだろ? え?
だから結局同じことじゃん?
数が多いのが不思議なんだろ 「駅」はもともと「うまや」の意味だから、「まや」のが語源には近い…はず。
ちなみに、現在は「まえのへた」と読む郵便局名も、
20年ぐらい前まで「まやのへた」が正式名称だったらしい。 へぇー
みんなよく知ってるねえ
なんだかここだけ鉄懐板じゃないみたいだな 茶與町という字を見ると茶屋町(下津井電鉄)を思い出す 駅名にはならなかったが阪急梅田の近くにも茶屋町という場所がある。 >>46
多分同じサイトと思うが、そこに収録されてる茶與町駅舎の写真は
軽便にしては立派な造りで廃止時まで古さを感じさせなかった 充実した設備は才賀藤吉の先行投資の賜物
お陰で戦後永らく改修することなく運営することができた むかしは駅員が住み込みで働いていた
駅舎兼住居だったら幾分は確りした造りにしておこうということで民家風スタイルになった
伝聞ですけど 松阪線の写真・資料ってなかなか纏まったものがないね 軽便を扱った文献で手軽に購入できたのは保育社カラーブックス。
ただ三交は松阪線ではなく内部線と北勢線しか載ってなかったのにはガッカリした。 戦後二十年で消えてしまった路線と
経営体が変われど今も存続してる路線とでは
自ずと注目度が違うし、記録(写真、映像など)の数も違う 松阪線なんてあったっけ?
大型書店で現物を見られるのは神都線ばかり >>84
いや、その通りなのだが
田舎なら何処でも似たようなもの。
これぞ究極の職住接近。 >>93
いやいや、>>92で自分が言いたかったのは
松阪線の存在自体ではなくて、
ネコパブリッシングの「RMライブラリー」シリーズの中に
松阪線特集は無かったのではないか、という意味 ああ、そういう意味ね、これは失礼こいた m(_ _;)m 神都線みたいに歴史や特徴(右側通行等)が松阪線にはないので一巻持たないだろ >>88
松阪線を載せてないくせに西武山口線みたいな軽便もどきを載せてるし、
性格的には軽便とは全く異なる北海道の簡易軌道も載せてるなど、
まったくバランスを欠いた内容。
あとは日鉱佐賀関線、神岡軌道も掲載漏れか 近鉄志摩線が三重交通の路線で狭軌だったころ、同線で運用されていた三重交通時代に登場したモ5941型電車は、
ノーシル、ノーヘッダー、固定クロスシートの近代的な観光路線にふさわしい車両で、線内急行の運用されることもあった >>103
唐突に何?w
そんなに松阪線の話題が堪えられない人? 真珠港は客扱いしてないが、
海水浴シーズンに臨時的に営業したことがあったのかな 詳しくは知らんけど、多分なかったんじゃないの?
だいたい、いくら海水浴シーズンとか多客期とか言っても、
真珠港みたいな貨物駅・貨物港へ延長する意義があるとは思えんし。
あそこまで行ってもいい浜がある訳じゃないし、
和具・御座とかへ行くなら賢島の方が港に便利なわけで。 したよ。
ただ、改軌で貨車直通が不可能になったので、貨物駅としては終了、
この部分の路線も、名義上は廃線になった。以後は、構内の扱いになり、
駅跡は検車支所(明星検車区賢島検車作業場)として長年使われた。 例の写真を頼りにした駅跡探しのせいで、このスレでだけ突出して知名度が高い「なべや」w おーこわっw
迂闊に軽口も言えんスレなんすか?ここ 軽便時代の湯の山線が詳細に紹介されてる本ないかなあ ああ、なるほど。
「真珠港」と「南島」を見たかった、って事か。
「真珠港と南島」と思って、ちょっと混乱した。 >>119>>120 地元 電機メーカー神鋼のセールスに負けたんでしょ。
(北勢の垂直カルダン・・・ナロー故 選択肢がない との互換や使用実績とか)
三重交通時代(奈良電も)って近車じゃなくて何故、ナニワや木南、日車製が多いの?
昭和30年代半ばまで 近車って製造能力(両数を造れない)が他社に較べ低かったの? 直角、平行があるから垂直でもできるんじゃないか?みたいなノリで作ってみたら
実用に耐えうる出来栄えになったのでわが社の新製品としてセールスし始めたと ノリというか、特許逃れでしょう。
製造能力というよりも、発注者が支払い能力があるかどうかを見極めたものだと思います。
自社発注車が多いわりに有名メーカーが少ない鉄道会社は疑われていたんですよ。
そして三流メーカーが出す見積もりは安かった
日本車両というのは何でも作るゲテモノメーカーですよね。鉄道省から土木機械まで、レールの上に乗るものならなんでも。
近年のJR東海による買収で企業体質が大きく変わっていますが、昔は中小鉄道が見積もりを取れる、唯一に近い大手メーカーでした。
三流と比べると値段は高かったようですが、成約の見通しの小さい見積もりを作ってよこしてくれるだけでも貴重な大手メーカーだった。 >日本車両というのは何でも作るゲテモノメーカーですよね。
>鉄道省から土木機械まで、レールの上に乗るものならなんでも。
いや、レールの上どころかw
35年ほど前の話。
死んだうちのオヤジは、精米機最大手メーカーの営業マンだったんだが、
仕事柄日車の営業マンが知り合いだから、おまえ、そんなに鉄道好きなら、
カレンダーぐらいもらって来てやろうか?と言っていた時期がある。
日車???精米機屋じゃないでしょ?なんでつながりあんの?と聞くと、
日車は、オヤジのいた会社のお家芸であるカントリーエレベータ
(乾燥施設とサイロを併設した大型穀物貯蔵施設)にも食い込もうとしてたんだそうで、
いろんなとこの入札で日車といっしょになるんだ、と。
へぇ〜、と思った。当時高校生ぐらいだったおれには、
日車と言えば車両のイメージしかなかった。けど、実は何でも屋なんだなぁ、と。
今でも日車のサイトを見ると、一ジャンルを築いてるのが分かる。
余談ですまそ。 ウチのおかんが阿波曽の住民で良く電車乗っていた話をしてくれてた。射和の小学校に通ってたので
同級生に奥田務さんがいた ウィキ見た。これか。
>戦争によって母方の祖母が住んでいた飯南郡上蛸路(松阪市)に疎開し、
>祖母の家の近くで借家住まいを続けた。 当時はこれでも採算が取れる路線として計画され、半世紀近く営業を続けられたんだね 桑名電気軌道もここの一員になってれば、戦後まで延命できたかな 中勢はレール撤去と共に会社も解散させられたので三重交通合併は望むべくもないが
安濃は休止の形をとり戦後も会社は存続してたというから妄想レベルだが全くゼロというわけでもない http://stat.ameba.jp/user_images/20120824/16/1010-melon/8d/0b/j/o0320041812152681329.jpg
http://gazoo.com/my/sites/0001455818/parkclint/Lists/GazooAssetLibrary/%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%82%B9%E4%BA%8B%E6%95%85.jpg?1452818442942
https://blog-imgs-88-origin.fc2.com/i/n/t/intouch/120407044.jpg
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犀川スキーバス転落事故(さいがわスキーバスてんらくじこ)は、1985年1月28日、国道19号を走行していたバスが長野市の犀川に転落した事故である。
1985年1月28日、日本福祉大学の学生ら総勢46名を乗せた三重交通バスは、北志賀高原の竜王スキー場へ向かっていた。
同校では1月28日から1月30日まで、体育科の授業の一環としてスキー教室を実施する予定であった。
事故発生時刻は午前5時45分。犀川に架けられた大安寺橋にさしかかる手前の左カーブで、バスはガードレールを破り水深4メートル、水温4度という極寒の犀川に転落。
転落地点は下流に建設された笹平ダムのダム湖にあたる。総勢46名のうち、乗客の大学生22名、教員1名、運転手ら2名、合計25名の命が失われた。
助かった21名のうち8名も重軽傷を負った。
現場は雪が積もり路面が滑りやすくなっており、バスのスピードの出し過ぎが直接の原因であった。
しかし、死亡した運転手は事故当日までの二週間を連続して出勤し乗務に当たっており、バスの運行を担当する三重交通の責任が問われた。 伊勢平野にニブロクナローがやたら多く開業したわけを研究した人はいる?