懐かしの三重交通
三重交通に鉄道があったことを知らない人も多くなったこともあり立てました 小笠原&おでかけ阻止序でに
220形って保存車あったよね? >>2
そういえば、内部・八王子線には220形の成れの果てがまだいるんと違う? 神都線の読みは、しんと、でいいの?
常識なのかフリがな振ってあるのを見ない。 5箇所に分散しいて路線展開していた私鉄って、三重交通のほかに思い浮かばないな。
4箇所でも大関東鉄道時代の関東鉄道ぐらいしか思い浮かばないから、考えてみるとすごい私鉄だったんだね。 …北陸鉄道…
石川総線+能美線+金名線
金石線
浅野川線
小松線
加南線
能登線
片山津線
粟津線 >>12
神都、松阪、志摩、北勢、三重(現在の湯の山線/内部線/八王子線)だなw 37/17 × 35/37 × 45/13 = 7.12 >>16
ありがとう。
大正時代には他社に先駆けて?車軸で動かすコンプレッサーつきの電車をいれたけど、
しばらく走らないと空気制動が使えないので手ブレーキで止めてたという伝説の路線ですね。 >>12
大分交通も5箇所に分散だったよ。
別大線、国東線、宇佐参宮線、耶馬溪線、豊州線
>>13
直通運転はできなくても、北陸鉄道同士で乗り換え可能だから、
石川線+能美線+金名線+松金線+金沢市内線+金石線+浅野川線
小松線
加南線(山中線+動橋線+連絡線+粟津線)+片山津線
能登線
の4箇所分散だな。 戦前
電動客車…762mmのは200代、1067mmのは500代
昭和33年以降
電動客車…762mmのは4000代、1067mmのは5000代
ともに百位はモーターの数
付随客車…2000代
制御客車…3000代 4400のブレーキ弁はセルフラップ式だったんだな。
270につなげるときには、自動ブレーキになってたんだろうな。
北勢線の電車も今はHSCになってるとは知らなかった。 真珠港駅ってどんな感じだったんだろう?
写真見ると、台風と満潮が重なるとヤバげだったが。 湯の山線の廃止された中間駅たちってどんなだったんだろう
写真とかもう残ってないのかなあ 俺の地域の28日付けY新聞夕刊が伊勢神宮の式年遷宮特集で、
三重交通の古い電車の写真入りの広告が出てた。 >>10 そう。
垂直カルダンとか、とんでもな構造は、塩浜で面倒は見れない。
神鋼が止めた時点で廃れゆく技術。
車体更新車や改造TCも出力不足とか制御器の相違で虚制。
収容力が小さいのに箱が、比較的新しいため生き残れただけ御の字。 その(現)200形が、三重交通時代の色に塗られたそうだ。クリームと濃緑色なんだな。 画像
https://www.google.co.jp/search?q=%E7%A5%9E%E9%83%BD%E3%83%90%E3%82%B9&hl=ja&rlz=1T4ADBF_jaJP319JP319&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=2et8Upv4KMuAkgX0mYHYDA&ved=0CDEQsAQ&biw=1904&bih=853 色のデータってどうやって残してたんだろ
まさか写真じゃあるまいし
いわゆる日塗工とかマンセルで番号化されてた? 今日松阪線の跡地を松阪駅から辿って行ったけど
線路跡は道路をトレースするだけで簡単に分かったが
平生町駅と茶與町駅の跡地がよく分からんかった
「なべや」の看板を目印にしたのだが、あの近辺に駅跡らしき
スペースがどうも見当たらなかったんだよなあ
松阪観光協会のサイトの「松電跡」の写真も参考にしたんだけどなあ… とりあえず乙。
平生町は、線路敷以外の駅跡地部分に店が建て込んでしまってるので、
「らしきスペース」を目当てに探したら多分わからない。
ちょっとしたスナック街みたいになってたとこ、記憶ないか?
その辺のはず。
なべやより1本北、一升びんの平生町店から北側が駅の範囲。
ただし、そう分かっていても、昔の空中写真か何か持参してないと
駅跡スペースがどこまでだったか、推認も出来そうにないぐらいの状態。
茶与町は、自民党の支部&駐車場になってるあたり。
建物も駐車場も、廃線跡と隣接の土地とを一体化してしまってるので、
これまた地割りだけで「らしきスペース」を探そうとしたら分からない。 >>35
レスありがとうございます。
そう言われてみれば、松阪駅から緩く右カーブする線路跡の道路を歩いていると、
進行方向右手に飲食店が数軒連なってる箇所がありましたね。
カーブを曲がり切ったらずっと一直線で、前方に例の「なべや」の看板が見えたのですが、
なべやの手前にあったのですね。
茶與町も、自民党支部の建物辺りまでは探索したのですが、これと言った遺構も見つけられず…
でも貴重な情報有難うございました。また機会があったら探訪することにします。 大石から松坂までバスに乗ったらずっと貸切状態だったな
まだバスが存続してるのかな 廃線跡ルート(いわゆる「庄・射和経由」)は、
ほとんどの時間帯で1時間1本になっちゃって、
最盛期の半分って感じではあるが、とりあえずまだ存続はしている。 学生の頃(と言っても30年前だが)
三交バスで香肌峡温泉に行った時、
大石の駅舎がまだ残っていたような記憶がある。
尾小屋では三重交通から来た客車に乗ったな。 >>39
超遅レスすまん。
大石の駅舎は、90年前後まで鉄道当時と同じ姿で残っていた。
旧改札口上のホーム側には、右書きの「石大」という駅名標も残っていたよ。 最晩年の大石駅の入口に掲げられてた篇額には
「三重電気鉄道大石駅」と書き直されていた。
余命僅かでもちゃんと改めたんだね。 いや、観光協会のサイトで見ただけ。
紛らわしくてすまん。 別にいいけど
松阪線にまつわる写真・画像でまとまったものといえば、あのHPしかないのかな?
車窓からの写真もいいが走行中の電車(できればミキストで)の写真があったら、
と無い物ねだりしてます 某私立大学の鉄研のサイトが写真の数は多いかな。
ただ、そんなに興味が引かれるようなものではない。 ネットでググったらいくつかのサイトにヒットするので
大体の画像は見たつもりだが少し前にCBCテレビで特集やってた時に紹介された写真は
今まで見たことの無いもので、まだまだどこかに眠ってるのかも知れないね 「鉄道ファン」の254号?か何かに、ちょっとした紀行が載ってたはず。
下茅原(駅で言うと大師口のちょっと西側あたり)で、
伊勢街道との間に柵も何もなくて、道の脇を走ってるような走行写真が印象的だった。 当時利用客がそれなりにあったのは花岡くらいまで?
そこを過ぎると田んぼと畑ばかりになる >>49
町の規模として言えば、射和の需要はそこそこあったんじゃないかと思うけど、
実際どうだったんだろうね?
橋の向こうの相可の人も使えただろうし。 射和駅前にはプレハブ建てのパチンコ屋があったらしい 逆に射和の住民が橋を渡って相可駅を利用してたのではないかな >>52
自治体が出してる統計書等を見てると松阪線が残ってた昭和30年代で
既に松阪市内外には10店以上のパチ店があったというから、
そんなに珍しくなかったかもね
今みたいにチェーン展開じゃなくて、
個人でも割合に容易く店が始めることが出来た時代だったと推測 国鉄の方が速かった
でもフリークエンシーの面では松電が優位 >>53
駅へ近付くほど町外れになる相可の状況から言って、
国鉄相可駅が、射和の住民までを取り込む吸引力を持っていたとは考えがたい。 まあ、50年前に駅前にパチンコ店が建つくらいだから
射和の方が栄えていたのだろうよ パチンコ屋と言えば、大石からちょっと入った横野の町にも
小さなパチンコ屋があったっけな。
昭和50年代中頃までは、今みたいな郊外型の大規模なものは少なくて、
駅前とかのパチンコ屋は、今で言うとコンビニ程度の店舗面積で
商売してるとこも多かった。横野のもそんな感じだったと記憶してる。
松電関係なくてすまんw 国土地理院がネットで昔の空撮写真や地図を公開してるけど
三重交通時代の湯の山線がはっきり出てるな
線形改良前の桜駅や廃止された小生駅などもちゃんと書いてある 松阪線は何気に難読駅が多い
射和、御麻生薗、平生町、茶與町
廃止された旧駅だが横綱級は「駅部田」 三重県にとりわけニブロクナローが多かったのは何故だろうな ちょっと反省
北海道は面積が違いすぎるから比べても意味ないなw
福岡県も軽便鉄道は多かったぞ 数の多さよりも、改軌されずにナローのままで
生き永らえた線区が多かった事の方が興味深いだろ? え?
だから結局同じことじゃん?
数が多いのが不思議なんだろ 「駅」はもともと「うまや」の意味だから、「まや」のが語源には近い…はず。
ちなみに、現在は「まえのへた」と読む郵便局名も、
20年ぐらい前まで「まやのへた」が正式名称だったらしい。 へぇー
みんなよく知ってるねえ
なんだかここだけ鉄懐板じゃないみたいだな 茶與町という字を見ると茶屋町(下津井電鉄)を思い出す 駅名にはならなかったが阪急梅田の近くにも茶屋町という場所がある。 >>46
多分同じサイトと思うが、そこに収録されてる茶與町駅舎の写真は
軽便にしては立派な造りで廃止時まで古さを感じさせなかった 充実した設備は才賀藤吉の先行投資の賜物
お陰で戦後永らく改修することなく運営することができた むかしは駅員が住み込みで働いていた
駅舎兼住居だったら幾分は確りした造りにしておこうということで民家風スタイルになった
伝聞ですけど 松阪線の写真・資料ってなかなか纏まったものがないね 軽便を扱った文献で手軽に購入できたのは保育社カラーブックス。
ただ三交は松阪線ではなく内部線と北勢線しか載ってなかったのにはガッカリした。 戦後二十年で消えてしまった路線と
経営体が変われど今も存続してる路線とでは
自ずと注目度が違うし、記録(写真、映像など)の数も違う 松阪線なんてあったっけ?
大型書店で現物を見られるのは神都線ばかり >>84
いや、その通りなのだが
田舎なら何処でも似たようなもの。
これぞ究極の職住接近。 >>93
いやいや、>>92で自分が言いたかったのは
松阪線の存在自体ではなくて、
ネコパブリッシングの「RMライブラリー」シリーズの中に
松阪線特集は無かったのではないか、という意味 ああ、そういう意味ね、これは失礼こいた m(_ _;)m 神都線みたいに歴史や特徴(右側通行等)が松阪線にはないので一巻持たないだろ >>88
松阪線を載せてないくせに西武山口線みたいな軽便もどきを載せてるし、
性格的には軽便とは全く異なる北海道の簡易軌道も載せてるなど、
まったくバランスを欠いた内容。
あとは日鉱佐賀関線、神岡軌道も掲載漏れか 近鉄志摩線が三重交通の路線で狭軌だったころ、同線で運用されていた三重交通時代に登場したモ5941型電車は、
ノーシル、ノーヘッダー、固定クロスシートの近代的な観光路線にふさわしい車両で、線内急行の運用されることもあった >>103
唐突に何?w
そんなに松阪線の話題が堪えられない人? 真珠港は客扱いしてないが、
海水浴シーズンに臨時的に営業したことがあったのかな 詳しくは知らんけど、多分なかったんじゃないの?
だいたい、いくら海水浴シーズンとか多客期とか言っても、
真珠港みたいな貨物駅・貨物港へ延長する意義があるとは思えんし。
あそこまで行ってもいい浜がある訳じゃないし、
和具・御座とかへ行くなら賢島の方が港に便利なわけで。 したよ。
ただ、改軌で貨車直通が不可能になったので、貨物駅としては終了、
この部分の路線も、名義上は廃線になった。以後は、構内の扱いになり、
駅跡は検車支所(明星検車区賢島検車作業場)として長年使われた。 例の写真を頼りにした駅跡探しのせいで、このスレでだけ突出して知名度が高い「なべや」w おーこわっw
迂闊に軽口も言えんスレなんすか?ここ 軽便時代の湯の山線が詳細に紹介されてる本ないかなあ ああ、なるほど。
「真珠港」と「南島」を見たかった、って事か。
「真珠港と南島」と思って、ちょっと混乱した。 >>119>>120 地元 電機メーカー神鋼のセールスに負けたんでしょ。
(北勢の垂直カルダン・・・ナロー故 選択肢がない との互換や使用実績とか)
三重交通時代(奈良電も)って近車じゃなくて何故、ナニワや木南、日車製が多いの?
昭和30年代半ばまで 近車って製造能力(両数を造れない)が他社に較べ低かったの? 直角、平行があるから垂直でもできるんじゃないか?みたいなノリで作ってみたら
実用に耐えうる出来栄えになったのでわが社の新製品としてセールスし始めたと ノリというか、特許逃れでしょう。
製造能力というよりも、発注者が支払い能力があるかどうかを見極めたものだと思います。
自社発注車が多いわりに有名メーカーが少ない鉄道会社は疑われていたんですよ。
そして三流メーカーが出す見積もりは安かった
日本車両というのは何でも作るゲテモノメーカーですよね。鉄道省から土木機械まで、レールの上に乗るものならなんでも。
近年のJR東海による買収で企業体質が大きく変わっていますが、昔は中小鉄道が見積もりを取れる、唯一に近い大手メーカーでした。
三流と比べると値段は高かったようですが、成約の見通しの小さい見積もりを作ってよこしてくれるだけでも貴重な大手メーカーだった。 >日本車両というのは何でも作るゲテモノメーカーですよね。
>鉄道省から土木機械まで、レールの上に乗るものならなんでも。
いや、レールの上どころかw
35年ほど前の話。
死んだうちのオヤジは、精米機最大手メーカーの営業マンだったんだが、
仕事柄日車の営業マンが知り合いだから、おまえ、そんなに鉄道好きなら、
カレンダーぐらいもらって来てやろうか?と言っていた時期がある。
日車???精米機屋じゃないでしょ?なんでつながりあんの?と聞くと、
日車は、オヤジのいた会社のお家芸であるカントリーエレベータ
(乾燥施設とサイロを併設した大型穀物貯蔵施設)にも食い込もうとしてたんだそうで、
いろんなとこの入札で日車といっしょになるんだ、と。
へぇ〜、と思った。当時高校生ぐらいだったおれには、
日車と言えば車両のイメージしかなかった。けど、実は何でも屋なんだなぁ、と。
今でも日車のサイトを見ると、一ジャンルを築いてるのが分かる。
余談ですまそ。 ウチのおかんが阿波曽の住民で良く電車乗っていた話をしてくれてた。射和の小学校に通ってたので
同級生に奥田務さんがいた ウィキ見た。これか。
>戦争によって母方の祖母が住んでいた飯南郡上蛸路(松阪市)に疎開し、
>祖母の家の近くで借家住まいを続けた。 当時はこれでも採算が取れる路線として計画され、半世紀近く営業を続けられたんだね 桑名電気軌道もここの一員になってれば、戦後まで延命できたかな 中勢はレール撤去と共に会社も解散させられたので三重交通合併は望むべくもないが
安濃は休止の形をとり戦後も会社は存続してたというから妄想レベルだが全くゼロというわけでもない http://stat.ameba.jp/user_images/20120824/16/1010-melon/8d/0b/j/o0320041812152681329.jpg
http://gazoo.com/my/sites/0001455818/parkclint/Lists/GazooAssetLibrary/%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%82%B9%E4%BA%8B%E6%95%85.jpg?1452818442942
https://blog-imgs-88-origin.fc2.com/i/n/t/intouch/120407044.jpg
↑
犀川スキーバス転落事故(さいがわスキーバスてんらくじこ)は、1985年1月28日、国道19号を走行していたバスが長野市の犀川に転落した事故である。
1985年1月28日、日本福祉大学の学生ら総勢46名を乗せた三重交通バスは、北志賀高原の竜王スキー場へ向かっていた。
同校では1月28日から1月30日まで、体育科の授業の一環としてスキー教室を実施する予定であった。
事故発生時刻は午前5時45分。犀川に架けられた大安寺橋にさしかかる手前の左カーブで、バスはガードレールを破り水深4メートル、水温4度という極寒の犀川に転落。
転落地点は下流に建設された笹平ダムのダム湖にあたる。総勢46名のうち、乗客の大学生22名、教員1名、運転手ら2名、合計25名の命が失われた。
助かった21名のうち8名も重軽傷を負った。
現場は雪が積もり路面が滑りやすくなっており、バスのスピードの出し過ぎが直接の原因であった。
しかし、死亡した運転手は事故当日までの二週間を連続して出勤し乗務に当たっており、バスの運行を担当する三重交通の責任が問われた。 伊勢平野にニブロクナローがやたら多く開業したわけを研究した人はいる? >>144 軌間は違うが、筑後平野に朝倉軌道及び両筑軌道等系列会社の軽便鉄道網があったのと似たようなものなんでは。
建設途上の官鉄線の路線網では不便な地域の交通需要を賄うため、早急かつ低コストでできる軽便鉄道を選択した。
石炭輸送のような重量物貨物輸送がなく、官鉄線との貨物列車乗り入れを行う必要が無いため、軽便で十分。
で、筑後平野の場合、久大線など官鉄線の延伸で朝倉軌道は経営不振となり廃止されたが、伊勢平野の場合、官鉄線やより大型の車両を走らせる私鉄線の路線網では不便な区間で軽便が生き延びた。
というか、近鉄が早急に傘下の軽便路線を改軌して大型車両を乗り入れさせる必要性があまり無かった。
後には、やってるけど。 >>143
まずは自身の研究結果を出さなきゃ誰も食いついては来ないぜ 津市の市場行きバスってあるけど、昔はもっと先まで延びてたらしいんだがどこまで走ってたか分かる人いる?
所々バス停跡らしき小屋が残ってるけど、終点がどこだったのか知りたい >>132
桑名が日本最短の路面電車といわれてるがじつは阪急北野線が最短? >>153
「とにかく企業は合同しろ」の大号令だからあり得なくはなかったかも かつていろんな私鉄線があったというのがなんか信じらない 安濃、中勢、伊勢電、参急、省線とか津市内のターミナルがバラバラだったのがまずかった気もします。特に中勢の岩田橋駅や安濃の新町駅の跡地は今では球場や住宅地になってますしね。埋もれて 新町小学校の北東(八町3丁目)らしいです。
伊勢電が参急ではなく名岐愛電に合併されていたら三交の状況はかなり変わっていたでしょうね。戦後計画があった津市内の路面電車も開通していれば街も違った姿になったでしょう。 了解です。ずいぶん中途半端な場所に駅があったんですね。 郡役所があったはず
小学校の前あたり
当然それなりの商店街も形成されていた 三交といえばスキーバス事故を思い出すな
鉄道は古すぎて無理 学生で満員の客車がカーブでゴロンゴロンと転覆
電機は外れて走って行っちゃった
バス鉄道の2大事故か デパートを忘れるなかれ
これも跡形もなく消えちゃったけどな(泣 ナロー線区の木造車サ100形は日之出車輌工業と大平車輌で1950.6製造されたのですが、
他社線区に製造例があるのかがわかりません。
すぐあとの1950.11には近車、帝車という大手メーカーで半鋼製のサ150形が作られています。
不明なところの多い日之出、大平についてご存じの方がいらっしゃいましたら、教えてほしいです。 湯の山線電化百周年だけど、
最初の電車は東京のヨト形の譲受車だったらしいね。
足回りはどのようにしたのかな。 湯の山線改軌時の写真はネットでも書物でも多く見られるが
ナローの外側に余裕で新レールを置けたので名古屋線改軌よりも簡単だったのかな なぜダイレクトに近鉄に合併されずに、一旦三重電気鉄道に譲渡してから近鉄に合併などという手間をかけたのでしょうか 譲渡というより三重交通の鉄道部門を取り分けて分社化されたんじゃないんか?
もちろん近鉄に合併が前提の整理だったろうけど 三岐の救援車ワム229が、
日之出車輌製だった。
唯一の生き残りかな。 >>174
短命に終わった三重電気鉄道の社名が冠された駅名標が大石駅にあった 三重交通の略称は「三交」でデパートの屋号にもなったが
三重電気鉄道時代は「三電」と呼ばれたのかしら 三重電気鉄道時代も三重交通は存在していたよ
三重電気鉄道は三重交通の鉄道部門を近鉄に譲渡するために分社化したのだから。 今から思えばデパートを持っていたとは信じられないものがある 白井良和氏のピクトリアル誌への寄稿を読んだことがあるが
神都線は修学旅行客がお得意様で
路面電車では珍しい永久連結車を持っていたが
マンモス校の貸切になると一編成では到底運びきれず
3連続や4連続の続行がたびたび見られたらしい 大正末時点
北勢鉄道 桑名町~阿下喜
揖斐川電気 揖斐~大垣~桑名
四日市鉄道 四日市市~湯ノ山
三重鉄道 四日市市~日永~内部・日永~八王子村
伊勢鉄道 四日市~津市
中勢鉄道 岩田橋~阿漕~久居~大仰
安濃鉄道 新町~安東~林・安東~片田
松阪鉄道 松阪~平生町~大石・平生町~大口
伊賀鉄道 伊賀上野~上野町~阿保~名張
合同電気 山田~二見・山田~内宮・二見~内宮 残っていたら三重県には軽便鉄道がいっぱいあると有名になれたかもしれない >>183
そのころはバスとの競合はなかったのかな 家屋の軒先をかすめるような狭い路地にも連結車を乗り入れさせていたようだが
沿線からのクレームはなかったのかな 近鉄になってから、八王子線が八王子まであった頃に八王子まで
乗ったことがあったが、踏切が全て第4種だった。 旅館のすぐ前に軌道敷があって、朝の水まきを終えた後電車が来てまた砂埃を立てると従業員が文句を言ってる逸話は聞いたことがある 松阪線も戦前はライトが脱着可能ときいたことがあるが
写真はすべて固定式だな