【東京急行】懐かしの東急沿線風景 Part.2
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>>2
入れてもよいですので、何か7915にまつわるエピソードなどお願いします。 8000系2パンタ車
田園都市線終日4連化用だったかな >>2
東急初のIGBTインバーターとシングルアームパンタ搭載 先行落成した7815を組み込んだ7912Fの変態っぷりも楽しかったね
パンタ畳んでTc代用とした7712の車内で、空回転するモーター音に耳を済ませた >>6
7912Fがワンマン改造開始後は7902Fに組み込まれ7702がTc代用になった 7915?は、その姿インパクトと云い正味10年ソコソコしか存在しなかったので後世のマニアに迷車として語られそうだな。
これとか8001は社内で残せないならフロントのみカットしてマニア向けをしても良かったような気がする。 総合車両の保存車は7052保存なら8001保存して欲しかった。
ちなみに大井町8000の生き残りは8049と8003F すまん、ちょっと知りたいんだが
保存車って税金掛かるの? 静態か動態かによる
償却が終わり廃車手続き後 静態保存されたものに対しては保存物そのものへ課税はされない
動態保存の場合は当局が資産と判断すれば課税されるし、維持費に予算を組むのであれば株主の理解が必要だ 「東急時刻表」の索引地図に、お手洗いのある駅の記号があった時期があった 平成二年ぐらいまで池上線走っていた車両は
なんて言う型式? 引退後折角 東急車輛に運び込んだ 最初の製作車両80形と伊豆急100形は結局解体
そして渋谷の路頭に放り出された5000 この間に何かあったのか? 深刻な経営不振による債務整理
もはや保存などに金を使う余裕すらなかった
鉄道会社は付加価値の高い優等列車製作で収益を上げるもの
通勤用車両製作のみでは構造的赤字体質になるのは必至
すれ違い須磨祖 ステンレスがバッド社との関連で独占出来てたが、205作った時当時の国鉄から川重や他の車両会社にその技術渡せ、のお達し命令あってから傾いたもんな。今ならパテントで大問題だ。国鉄もひでー事やったもんだ。他の車両会社は、良い思いしたな。 実に面白いスクープな動画です。
この動画に高評価をください。
京王線の女性専用車両内で起きた事件のスクープ映像で
痴漢被害を受けるわけがないようなブスな女が男性客を追い出そうとするという、
なんとも本末転倒な珍事です。
http://www.youtube.com/watch?v=7QyHmAe2c-0&list=PLzeFCSP7xRziIIipBhtKgGQ-aCrLXq8Hi
男性のお客様に対して接客精神に欠けた無礼な車掌と
下品な女の暴言をご覧ください そのステンレスの技術を外国に転売したメーカーもあったとかなかったとか 川重だな。結局、国鉄のバカ管理者のせいで、ステンレス技術が垂れ流し、やった本人達は高額退職金かよ。この国滅ぶな。 >>22
東急にも信託車両あったのか
営団N1500は知ってたが 東武でも見たことある >信託車両
返し終わればプレート外すだろうもんなぁ 信託車両。確か小田急のSEから始まったハズ。当座の金がない昭和30年頃は天の声。 信託車両。返すまで自社所有じゃないからな。税金の面では有利だけどな。もっとも朝、夕だけ出払って昼間寝てる車両に、税金かかってるの考えはな。阪急は売っぱらってリースだっけ。 伊豆急とか相鉄にも一時期リースがあったらしいが、車両にはその旨の表記がなかったような。 デハ3501はサレジオ学院に寄付せずモハ1001に復元すべきだったと思う >>35
海坊主前に復元して、電車とバスの博物館入りさせて欲しかった。 海坊主
あの醜態はなんだったのだろう?
何かの罰ゲームか!?
まあ当初の設計通り、貫通扉の上に行き先表示機を設けていれば、もうちょっと格好が付いたんだろうがなあ・・・ ライトユニットを装備、張上げ屋根で近代化したつもりが、壮絶な失敗作となった例。
3500形の前に3650形、その前には3850形に装着されていたが、
海坊主の仇名は後年、名付けられたんだろう。3850形で名付けられていたら、
恐らく3650形や3500形には装着されなかっただろうし。 3500・3650・3800・3850は張り上げ屋根にするのは構わないが前照灯は在来の位置にすべきだったと思う チョコレート色の車内色、油ぎった板張りの床、そして保護棒付きの窓
そんないかつい顔つきの3600系、好きだったなー 保護棒で思い出したが、6000系や7000系のつるべ式側窓を操作してみたかった あまり知られていないが、デヤ3001の内装は、一番最後まで古色蒼然として昔
(昭和40年代半ば)そのままのたたずまいだった。 > 6000系や7000系のつるべ式側窓を操作してみたかった
6000系や5200系のはケーブルが延びてサッシュが斜めになるなど気を使う必要がある、あまり良いものではありませんでした。
ケーブルの代わりに薄いステンレスの帯を使っていたものがありましたが、あれは7000系でしたっけ?
そちらは軽く操作できて調子が良かったです。 >>48
元3551だからね
床は木製、ひさしは鎧戸だ
ちなみにデヤ7290のシートは座面ふかふかのオリジナル・ワインレッド 7200-7500のアルミコンビは、アルミドアがガタついて、とってもうるさかったな
後年の8090系もうるさかったが、比べようもないくらいアルミ車はうるさかった
と言っても、共感してくれる人はここにいるかな >>51
JRの301や203もうるさかったなぁ。 懐かしの車両と言えば3470号乗ってみたかった@1980年3月生まれ >>51
7209-7509+7200-7500の頃
アルミ車は俺的には当りだったよ だからドアのガタツキ位は気にならなかった もっと酷いのがいたし
冷房車なんて無かった頃 どの車両も夏場は必ず窓を全開にしていたでしょ
煩さかったのは6000の起動音とか、モーターが唸り過ぎて足の裏が痒くなった3000とか
ニコタマの鉄橋を渡っているときとか 梶ヶ谷から鷺沼方面のトンネル通過時とか........
トンネル通過時は地下水の飛沫が車内に入ってきた >>51
>>54
私的には7200系はステンレスとの耐用比較で全車アルミで製造しても良かったのではないかと思います 走りましたよ。
例の、東横ー田園都市ー大井町の大シャッフルで東横線に移籍しました。
自分はその時しか知りませんが、他にもあったかも知れません。 あのアルミ車が通勤通学客ぎゅうぎゅうに詰めて走ってた時があったんだね >>59
その後アルミ車は1989年までこどもの国線専用車となり7500を電動車化する際7402の機器をもらい7402はVVVF化され7673となり7603Fに組み込まれた。
7402を編成から抜かれた7254Fは7603-7653の上り先頭車7255を組み込み7255-7254-7554となった 昭和61年の旧5000・5200系引退と7200系の目蒲・池上移籍時に3742F・3474F・3484F・3493F・3494Fが池上から目蒲に移った時目蒲の旧3000は当時3500で統一されてたから池上から目蒲に移る旧3000は3500と3650を移籍させるべきだったと思う こんなところに統一厨!
形式や番号云々より検査切れ車両の廃車が常識でしょう 3000グループの中でも3450形は、汎用車(例外もあるが、機器分散をしていない車が多い)としての活用の意味合いがあった。
3500形は3250,3370等T車と機器分散が行われていた。
3650形も3350形相手に同様の機器分散が行われていただけでなく広幅貫通路で連結していた。
・・・で定期入場も車両単位行われていた。
このことが、統一を阻んだ要因だと思う。
ただし、3500形と(T車を1両入れて3両固定ユニット)
3650形広幅貫通路で当初の予定では後年中間のT車を廃車にして4連(オールM?)を組むため
上り側前面は貫通化とか・・・何故に各形式で微妙に後年まで使用構想に相違があったのは俺にも不可解。
(これは、海坊主更新を完遂した3500,3650,3850※3800に至っては 中古購入先希望か?早期に消滅)と
全車海坊主更新を免れた3450も最後まで残ったこととかは?????? >>65
8000形末期では製昨年度より危機不具合や検査切れの車両が優先して廃車されてたでしょ
3000形末期も同様で全般検査の中でも国鉄のB検査に相当するものに引っかかった車両は
高コストの割にその後の寿命が短さが災いして廃車された
また3連車の蒲田寄りに貫通型が多く見られたのは下り側だとMcの他に豊富なTcも増結できたため
当時4連の田都線と互換性をとる目的もあった
当時 3467-3364-3468+3499と3653-3362-3654+3499の営業を田都線で確認している
3508は中間車組み込み考慮が貫通化の理由だが3652.3654.3656非貫通車の
貫通化の理由はここにある >>68
廃車候補から見事に息吹きを吹き返した車両と言えば8039F、3450形のデハ3457も昭和56年に後に廃車された車両と一緒に休車になってたが後に3484Fの中間車で復活してた >>70
結局8039Fも3457も最後の方まではしったよね。
8039Fは帯無し、3457は旧塗装に復元されたよね。
さらに8039Fは2両が伊豆急譲渡、残りが解体予定だったけど
伊豆急の計画変更に伴い8両全車がインドネシアに譲渡されたもんな。 >>73
8039Fは2003年の廃車時は伊豆急行く予定だったんですね、初めて知りました。
ちなみにデハ3457は自分の調べた限りでは3470Fの中間車から外されて休車になりその後3485の代わりに3484Fに組み込まれたみたいです。
3457も8039Fも引退時リバイバルつながりもありますね >>73
ちなみに3457を中間に挟み最後は旧塗装になった3484Fはかつてこどもの国線専用だった3866も組み込んだ。
3484F調べたらかなり長い間池上線で走ってた模様。 小田藁線に63形はいったときはまだ大東急でしたっけか? >>82
ID:9lcZzSVlはお漏らし野郎。構うな。 そう言えば池上線時代の3452Fと7205Fは徹底的にコキ使われてたイメージある >>86
ID:9lcZzSVlはお漏らし野郎。構うな。 >>7205Fって最後に目蒲に転籍して2M2Tで目蒲線の最終期まで殆ど使わなかったヤツだっけ?
・・・だと、すればこの時点で走行距離を調整していたのか?
・・・な訳ないよな
・・・7200の3M1T目蒲線転籍も東急でありがな情勢の変化(当時も1000系新車導入凍結)? 小さい頃池上線の7205Fは冷房&側面方向幕と東横や田都に対抗できると思ってました せっかく7251Fに側面方向幕が設置されたのに7551だけが身売りされてしまったね ステンレス板で塞がれた7551の側サボ跡は無残であったな 長年疑問に思い続けていたのだが、
混血混用していた(可能)な7200系は日立・東洋で改番までして区分けしたのに
肝心の7000系は何故、改番変更による区分けはしなかったのだろう?
もう134両製造してしまい社内の混乱を回避したかったのだろうか?
昨今の5000系の編成差し替えや、以前の運転系統大変更に伴う車両交換、編成換えは行ったのに不可解? あくまで推測になるけど、7000系134両のうち先頭車が64両、中間車70両で、特に東洋製は中間車だけでも
50両(先頭車は42両)となり、7200系のように50番代で区切りよく分類するには車両数が多すぎたのかな? 単に7000生産中にそういう発想が無かっただけだったり
例えば京急1000も電装が東洋と三菱とで区分されてないし >>96
その通りだと思う
3450系も、日車・川崎で別れていないし、7000系の後輩7200系も、初めは日立・東洋混在の連番だった お前の論理は、矛盾していると思う。
製造メーカーの相違は、性能に無関係。
事実7200系は、手間を承知で途中で方針転換。
馬鹿が湧くから書きたくなかったが、戦災国電等復旧のクハ3670形と3770形は、
昇圧準備車と未対策車(無論後年昇圧工事したのだが、)でつまり電機部品的理由で区分けしていた。 ●●●100円で関節痛を直す方法●●●
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馬鹿に構うのは本意ではないが
>お前の論理は、矛盾していると思う。
どのレスに対するものか分らん
>製造メーカーの相違は、性能に無関係。 事実7200系は、手間を承知で途中で方針転換
だからぁ その理由が知りたいのだよ
>戦災国電等復旧のクハ3670形と3770形は・・・・
誰も話題にしてないのだが、
上から目線で読解力に乏しいキミは100年ロムの刑だ! >>98
読解力がまるでないな
>>97は>>96で7000系製造時には、番号を別ける認識が無かったとのレスに対してのものだろ
なんでそれを矛盾しているととるの?
頭悪すぎだろ
また、3670・3770については、そもそも走行出来る路線がそれぞれ限定されていたので、7000系や7200系のそれとは同列に比較するのは安直、というか具の骨頂 >>100>>101 馬鹿なの?
車両を管理保守する側からみれば、車体のメーカーの相違(機能的に)は無関係。
他社(京急)なんて例に持ち出すの論外だろ!
当初 3670,3770は、・・・それぞれ?・・・同じ線区で使っていたの分かる?
(一部の車体新造や大井町線の改修が進まない時点では目蒲、東横のみしかし 昇圧対応の準備の有無で区別)
車両性能、運用上異なり紛らわしい車に対して区分け行うのが、本来理想的であるのに、
7200系以上に性能や使用方法に相違のある7000系も後年改番区分けの対象にしなかったのは何故ということだ! >>103
>昇圧対応の準備の有無で区別
おまえバカだろ
昇圧対応の有無で区別されたんだから、それぞれ路線が限定されていたんだよ
東横線が昇圧された後、次の目蒲線昇圧完了まで、3年かかってんだぞ
その間、同じ元住吉に籍を起きながら、東横・目蒲線で運用が固定されていた訳で、そのための番号分けだ
それともおまえは、東急全路線が一斉に昇圧されたとでも思っていたのか?
それにだいたい昇圧対応準備車じゃない、昇圧対応工事完了車両だ
知ったかぶるのはよせ
7000系の件は>>96の言う通りなんじゃないのか 昭和50年代の3452-3451の下り先頭車の変化が頻繁
3452-3451-3671
↓
3452-3451-3672
↓
3452-3451-3860
↓
3452-3451-3861 >>98
> 製造メーカーの相違は、性能に無関係。
へー、永久直列60kWの東洋と直並列70kWの日立が
同じなんですかそうですか 7000系の東横線全盛時代、急行運用に日比直用の東洋車が入ることはあっても、ATC非装備の日立車(東洋車の一部も)
が日比直運用に就くことは不可能だったが、7200系のように明確な区別方法がないとすると、ダイヤ乱れのときなどの
運用調整は至難の業だったろうね。それとも番号以外でも一目で識別できるものがあったのかな? 車両に全く興味がなくて話についていけないので
出来れば東急グループの歴史とかの話をおながいします >>107
>明確な区別方法がないとすると、ダイヤ乱れのときなどの運用調整は至難の業だったろうね。
別にどうってことない
当時は種別が変わるなんてことは無かったんだから、乱れていても、急行は急行、日比直は日比直
ただ遅れるだけか間引きするだけの話しだよ
>それとも番号以外でも一目で識別できるものがあったのかな?
運行中なら運行番号見りゃ解るし、乗務員室に入ればATC装置の有無がすぐに解るし、東洋と日立ではマスコンの形も計器類の文字の大きさも違うし…
てか、そもそもそんな必要ない
番号見りゃ解るんだから
なのになぜ番号以外にと限定するの?
1番見易いし解り易いんだから、番号見りゃいいだけじゃん
レスの意味が良くワカランよ > それとも番号以外でも一目で識別できるものがあったのかな?
「109」にて語られてますが、編成そのものが少なかったので、現場では暗記してました。
8連になったころは渋谷側7023、7031、7033、7037、7047、7051が日立、7011、7013、7015、7019、7021、7025、7027、7029、7035が東洋で日々直対応、それ以外が東洋の地上専用といった具合. 私が一人で乗り鉄と撮り鉄できた頃の旧7000は東洋車は東横、日立車は大井町(東洋車の7001Fと7005Fは大井町所属)でした、一時期大井町線に東横から7027Fと7035Fの東洋車が走ってました。 自分も日立・東洋は暗記してたな
数字と音が紐付けされる記憶感覚が楽しかった 側面の急行板を一時 全車両に取付けない時期があった。
6両編成は2枚、8両で3枚だった、苦情が来たのかほどなく全車に取り付けに戻った 【不買運動】パルシステムは男性を侮辱した女性専用車両広告を使う反社会的企業です
パルシステは女性専用車両という卑劣な男性排除によって生じた女性のみの状態に広告を出して金儲けをしようとする反社会的企業です。
http://www.youtube.com/watch?v=fimLUILsMdI&feature=channel&list=UL
(パルシステの広告)
男性の人権を毀損したこの企業の製品・サービスに対して不買を心がけと情報拡散をしましょう! >>114
折り返しで列車種別が変わることは多かったのでしょうか? 急行は急行のまま折り返してました。
夕方ぐらいに本数が減って急行は21時ぐらいで終了でしたね 生まれて初めて乗った東急の電車は東横線の7200系の急行 東横線に7200が来た時は6両で 日比谷線は8連化されており、短い6両の急行はちょっと恥ずかしかった >>120
その頃はまだ5000系6連の急行がまだいたよ
それに、7000(7055F)の6連急行もたまにあった 7001F+7003F急行はよく利用した
東横が18m8連のみに固定された頃6+2組成が4+4組成に変更されていた
6連3.4号車を2連側に ただ移動させたようなものが多く番号が揃ってないのが気になった
V化や譲渡の兼ね合いがあったのだろうか? 東横線7000系の地上専用車(主に日立車)は、8連の急行と6連の各停のどちらにも就けるように、6+2だった(日比直用は8連固定)
ただし7001Fは、田園都市線及び目蒲線の区間運用用にも使えるように4+4だった
晩年のV化と同時期の、日比直用7000系6+2から4+4への組み替えは、1000系就役によって7000系が日比直車から順次目蒲線へ移行し、その過程においての共通予備車と使用するための処置 晩年の7035+7017は目蒲に1010+1011が行くと交換で東横線走ってた。
あと旧7000の7001こと現在の7910と7005こと7908、7023こと7903は旧7000時代から中間に回されたことなさそうな気した >>125
そう、目蒲線。
といっても、目黒ー田園調布の区間運用用ね。
あの頃は区間運用用として、7000系のほか、6000や5200も4連で目蒲線を走っていたんだよ。
ただし、5000系だけは使われなかったんだよね。
5000系は、寸法では7000系より小さいし、機器は5200と同一だなのだから、入線は可能なはずなんだが…
理由知っている方います? > 旧7000の7001こと現在の7910と7005こと7908、7023こと7903は旧7000時代から中間に回されたことなさそうな気した
その7005、1970年代に日立車4連の下り側に7005+7006の2連を加えた6連がしばらく見られた記憶が鮮明にある。
その時7106と7105は7003編成4連の中に組み込まれて6連となっていた。 > 5000系は、寸法では7000系より小さいし、機器は5200と同一だなのだから、入線は可能なはずなんだが… 理由知っている方います?
知ってます、5000系は車体長が1両につき50センチずつ長いので、目蒲線のホームに入らなかった。のちに5000系の3連を向かえるに辺り、一部の駅では1〜2メートルほどだけどホーム延長工事をしていた。 >>129
目黒ー田園調布間は当時7000系が営業運転されていたんだけど、5000系は車両限界を超えて不可だったんだ
つまり、5000系4連の方が7000系4連より長いって言っているんだよね? >>130
>>129ではないがyes 5000は全長18.5m
5200・6000・7000は18.0m
7200は先頭車が5cm位長かった希ガス なら5200系を池上線で走らせても良かったと思います >>131
それ、5cmじゃないだろ、50cmだろ(笑) >>132 そんなことしたら早くから5211が、あぶれる 放置か? >>131
それ連結器を含めた全長だろ。
5000系は車体長18.000、
5200系・6000系・7000系は車体長17.500だろ。 1988年頃8001F〜8005Fと8011F〜8015Fの先頭車交換で東横線走った8001と8003と8005はお気に入りだった。 > 先頭車交換で東横線走った8001と8003と8005
当時渋谷寄り先頭車に専ら冷房に使うためのMGやSIVを装備してましたが、冷改した1次車8001〜8009編成が170KVAのSIVを搭載していた以外すべて6両分まで対応の140KVAのMGでした。
ですから夏季のみ強力SIV搭載の先頭車に振り替えていたわけです。この処置も下り側から3両目のデハ8200に下り側3両分のSIVを搭載することにより解消しました。 「138」に附帯することですが、8000系列と8500系列では冷房電源引通線容量が異なり、容量が少ない8500系では編成端に設けられた電源からすべての車両に電力供給が出来ません。
ですから田園都市線8000系5連登場時にM車8100形を下り側2両目から4両目の電源搭載クハの隣に移し、もともと8100形だった位置に8500系M車8700を組み込むといった手法が採られました。 8640Fと8641Fは新製から大井町線走ってたが8090の大井町投入、大井町線から18m車撤退と同じ位の時期に田都に没収された 8500系の中間車に供されたやつか
かっこいいというよりは、無理やり引っ付けたゲテモノ感がたまらなかった 8035F(旧)は編成がバラされるまでの間 幌付きで営業してたけど
メリハリ感があって好きだったな
確かさいとうさんのホトグラに写真があったな 8035-8135-8218-8136-8036
↓
8619-8725+8035-8818-8135-8519
8620-8726-8036+8218-8136-8520 誘導無線を外した穴の跡 子供心にも、溶接ではなくビス留めでショボサというか、ステンレスの加工技術の限界みたいなものを感じた。 先日、東横線内で西武6000系に初めて乗ったが、中目黒〜祐天寺間など勾配登坂時の加速の悪さは相当なもので、
正直、往年の7000系東洋車の加速感を思い出さずにいられなかった。 東武9000はモーターの音程が7000の東洋車を彷彿とさせる 7001Fの一番最初のマスコン旧6000のにそっくり 東急線内に唯一残る
7200系と8001F〜8009F非冷房車特有の通風器積載で
旧5000形以降新性能車の証しであるフカフカでワインレッドの落ち着いた色彩のシートを搭載した
7200-7290解体ですか
先輩7000形より先に絶滅とは感慨深いっス >>155
あの通風機って現存してるのデヤ7200系だけだよね
それだけでも保存してくれないかな。車両一両置くのに比べれば場所取らないし マニアックすぎるwww
7000系のベンチレーターや8000系のクーラー着せも好きだな
あの造形と配列に「東急」のイメージを見ていたと言っても過言ではない 7000とかの非冷房車のベンチレータって外気を取り入れる所の網の部分に鉄板を
挿入する溝があって、昔は冬季になると鉄板を入れて外気を遮断してたんだよね。
末期は保守の手間の都合で、扇風機の所の外気取入れ口のシャッターを閉める
だけになってしまったけど。冬季になると扇風機にカバーをかけてたのも昔語りだね。
(日本興業銀行のリットー・ワリチョーとかの広告が付いてたね…) >>158
興銀はリッキーとワリコーだ。
リットー(ワリトー)は東銀
リッチョー(ワリチョー)は長銀
リツノウ(ワリノー)は農林中金 東京生命だったかの広告もあった記憶
・・・消えた会社ばかりだな TDA(東亜国内航空)
JAS(日本エアシステム)なんかのもあったよな。 TDA→JASは確か東急が資本参加していたんじゃなかったっけ。 >>163
その名残で、JMB機能付きのTOPカードや
TOP発行のJALカードとかがある。 確か7000系は、日比谷線に入ると回生ブレーキが働かないように、SWをオフしていたと思うけど、
アレを失念して中目黒を発車したらどうなるの?(発車できないの?)
マスコンキーのないツーハンドルだからブレーキ不緩解というわけでもないだろうし
、日比谷線は車内信号じゃないから出発信号の現時が出ないとか防止できるわけでもなさそうだし・・・
営団の変電所が飛ぶの?架線への影響は?
誘導無線が入らないの? 東急ATSから営団ATCに切り替えると、回生もカットされるようになっていたんじゃない? 唯一あった、営団のATO車両は中目黒で切って、東横に乗り入れてたの?知っている人いる。 でも北千住側でそういう事態(状況)に直面するワケだが・・・・。
何故?突っまない・・・ 数十年ぶりにワインレッドのシートに座りました
ありがとう#7200 昔、祐天寺の近くの鉄道グッズがたくさん並んだカレー屋さんに行ったことがあるのですが、今もあるのでしょうか? >>174
場所は少し移動したけど、現在も在りますよ。 >>175
まだあるんだ?
店主が20年くらい前でも結構なおじさんだったけど、今でも元気かな? ガキの頃に一度だけ行ったなぁ・・・
帰るときにパスネットとか大量にもらった思い出w 追悼 ナイアガラレーベル
青春の一齣が消えてしまった 7700系が大井町線で走ってたのって何時ぐらいまでだろうか 目蒲線・池上線から3000系が引退する平成元年までじゃなかったかな >>180
6両で充当されてたのが懐かしい…VVVFの変調音も今と違ってたよね。 >>183
起動時にパルス変調音と床板が共振して、派手にビビっていた。 7600もV車なのにツーハンドルな時代があったよね。結局ワンマン化でみんな
ワンハンドルになったけど…こどもの国の7000なんかはブレーキの制御方式は
そのままでワンマン用にワンハンドルになったけど器用なことするよね。 ワザワザ7915なんて編成改造で作らないで、こどもの国線の通勤路線化まで
待てば(もう少し)よかったのに・・・タイミング悪すぎ
マア結果 東急に改造車とは云え7000系が残りコレが最終的に産業遺産として保存されるコトになったのだが・・・
ところで総合製作所で保存の件の車ワンハンドルのままなの? すみません。質問です。
たまプラーザ駅〜江田駅間の踏み切りって
どこにあったんでしょうか?
たまプラーザ駅を出てすぐという事で下記のリンク先の
場所と思っていたのですが、踏み切りは無いですよね?
どこにあったのでしょうか?
http://www.hirotarian.ne.jp/backno/1508-konjya1.jpg 前スレより
> 371 名前:回想774列車[sage] 投稿日:2011/11/11(金) 23:16:35.31 ID:WBhKXWs9
> たまプラーザ〜江田(たまプラーザからトンネル抜けたところ)にも踏み切りあったね
>
> 372 名前:回想774列車[sage] 投稿日:2011/11/12(土) 13:45:16.19 ID:P/6FNxlj
> マジで?ってちょっと見てみたけど
>
> http://g.co/maps/fgmfv
> コレが名残?
俺もその時興味もって、この372が何を隠そうこのワタシなんだけど反応がなかったな・・ >>191
どうも有難うございます。
下記のサイトの9番目、たまプラーザ〜江田間の8000系の音が聴ける
(デハ8200の所をクリック)のですが、1:24あたりで僅かに聞こえるのは
踏み切りの音?
http://www.geocities.jp/natsukashi_ressha/SoundGallery/soundpage.html
国土交通省の空中写真で昭和49年のものを見ると、該当箇所にちょっと踏み切りは
見当たらないような……(余談ですがたまプラーザ付近のトンネルと該当箇所の間に
4両編成が見えます)。
http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/74/ckt-74-15/c39a/ckt-74-15_c39a_12.jpg
でも溝の口〜長津田間開通が昭和41年4月という事で、撮影時点より前には
該当箇所に踏切があったのかも。
自分でももっと調べてみたいと思います。 >>192
昔はその踏切の写真を載せてるサイトがあったんだけど・・・
たしか第四種で、人しか通れない幅だったかと 昭和42年発行の2万5000分の1地形図を見られるサイトがあるんだけど、そこでは当該場所に踏切が見当たらない
ということはもし踏切があったとしても、地図に載らないレベルのあぜ道に毛が生えた程度の狭い道だったんだろう 横浜線十日市場〜長津田にある北門踏切みたいなのかな
獣道的なとこ抜けたところにひょんとある感じの たまプラーザ〜江田ですね。開通時にありましたが、1年も経ずしてなくなりました。
場所は・・・ 長津田向かって左側に茅葺きの家があったあたり。(今のあざみ野駅のちょっとたまプラ側) > こどもの国の7000なんかはブレーキの制御方式は そのままでワンマン用にワンハンドルになったけど
77700系の01〜10編成もHSCのままワンハンドル、後に11編成同様電気式に改造です。 非常制動は改造前から電気指令だったから終点に着いても気づきにくかったのか >>198 計器パネルの色や材質も違っていたよな。
01〜10は、アズキ色 11〜は、1000,9000に準じたレンガみたいなヤツ。 鉄コレの7700系なんて出てたのかよ!
知ってたら買ったのに、もう売切れかよ。 戦後の大東急解消以降の東急線内で、車輌が全損になるような事故って、今回の東横線が初めてじゃないか?
二子橋の併用軌道でのデハ3472は修理扱いだっけ? 歳がバレるが、物心ついた昭和40年頃から東急線で大規模な踏切事故や列車同士の衝突(追突)といった
衝撃的な事故は記憶にない。国鉄やATS設置前の大手民鉄ではたまに起きていたような気もするが… >>205 自由が丘で最新車の頃の8641がクルマと衝突。
対車両事故ではないが、8500、8600は何気にお面交換している車が数両。 クハ3676が蒲田〜矢口渡で大型トラックと衝突し大破
事故廃車になった模様 横浜で、デビューして間もない9000系が脱線したこともあったな。 >>189
個人的だが7915Fの魔改造振りに痺れたねえ…。顔は1000系、改造運転室と未改造の
ステンレスの輝きの違い、サハ時代のクーラー配置をかわす為のパンタ位置と配管。
ある意味、模型の自由型車両なノリで改造したようなモンだなあ。
無論あんな変形車になったのは相応の理由があるのだけど、7700系で最も興味深い
編成だった。GMキットで改造始めたけど挫折してしもうたがwww。 東急と言えば黒柳徹子の著書「窓際のトットちゃん」でも大岡山とか九品仏と東急沿線の地名が出てきたよね。 ついに・・・、さよなら7005F
685 名無し野電車区 2014/04/24(木) 04:17:09.83 ID:jD71OKAd0
>>680
残念である。
http://m.youtube.com/watch?v=Kkvv1eG0D20 青葉台駅前をトレーラーにけん引されてドナドナされる鉄道車両ってシュールだな >>213
1970年代に田園都市線沿線で育った俺は、7000系と言えば
7005-7106-7105-7006
7033-7058+7057-7034
だけだった
さようなら 今日から3日間CSのT豚Sちゃんねる2で ドラマ私鉄沿線やっているぞ!
,70年代末(昭和53,54年)の田園都市線(大井町〜つきみ野)の頃風景見たいやつは観ろ! ごめん タイトル間違えた 沿線地図 だ。
某板に撮影許可が下りなかった伝々書いてたヒトが居たが、協力 東京急行 の テロップもあったぞっ。 冬だっけか 元住吉の駅で衝突事故があってテレビ映ってたけど、
ありゃ、ピカピカの立派な駅になったな。おいらが大学時代下宿していた
ときの元住の下町風の駅とは大違い 昔の元住吉は、何処ぞの地方駅みたいな風景、駅の直側に駅前踏切があったな。 元住吉駅ホームの桜木町寄りにあったクロッシングポイントを立て続けに通過するときの轟音が懐かしい 昔は多摩川鉄橋を渡って最初のカーブを過ぎると元住吉の車両区が終るまで綺麗な直線だった。
新丸子が島式になったり高架複々線化で中線側にも微妙なカーブが増えた 下って登ってまた下ってって
アップダウンが忙しかったね 新丸子〜元住吉間に途中駅がなかった頃、坂を上がって南武線を越えて一旦地上に下り、再び上って
府中街道を越えてからまた下って元住吉へ向かっていた時期もあったらしい。
今でも新丸子〜菊名間は東海道新幹線がほぼ並行して走っていることからも東横線の中では比較的
線路形状の良い区間だね 今の大井町線って昔の東横線に似てるよね
急行=6000系 各停=8500系、9000系って車両が完全に分かれていて、
急行が15分サイクル。
昔の東横線は
急行=9000系・8090系 各停=8000系、9000系 だった。
特に8000系は最初から各停専用車として設計されたせいか8500系と違って前面に種別表示幕がなかったな。
東横特急運転開始によって急行と各停で車両を分ける運用がなくなったのだが、
8090系が各停についてたり8000系が特急・急行の運用についてるのは違和感あったわ。
特に8000系は前面に種別表示窓がないから種別と行き先を同じ窓に表示してて、窮屈というかダサさを感じた。
LRD車ならまだいいが、8000系の幕車が優等の運用つくともうカオスだったw。 8000は各停専用車として設計されたとか初耳なんですがw >>226
8000系に種別表示窓がないのは当時は種別はサボ表示が主流だったからみたい。
鉄道車両板の東横線スレに書いてあった。 東横は5000導入以前は、基本最新鋭車を急行に使いたがる傾向が強かった。 >>225
側面に急行と快速の行燈式の種別表示器があったから、各停専用ではないでしょう。 8090がデビューする直前は8000の7連が急行運用の主力だったような 当時は18m車か20m車と両数で運用分かれてましたよね。
急行が18m8連がメインの時代には8000形は急行運用がほぼなかったような。
その後田都から出戻った8033などの編成は、当初急行用に使われたんじゃなかったかな? 18m車と20m車で編成長の長い方が急行、短い方が各停って使われ方じゃないか?
理由はもちろんホーム長との絡み >>234
あの渋谷でさえ、大型8両が入れないホームがあったそうですからねぇ 何かの都合で日比谷線直通用の7000×8連が渋谷に行った時
「8連の長編成が渋谷駅へ」との見出しで鉄道雑誌のニュース記事になっていた 代官山や九品仏や神泉(他社だけど)のドアカットはまあしゃあないとしても、緩急接続のある急行停車駅且つ乗換駅の菊名でのドアカットは少々みっともないものがあったな。 菊名や代官山などはホームを改良してドアカットを回避したけど、鵜の木は減車によりそれを回避したレアケースだった
しかし九品仏はまだまだ残りそうだね TBS まんがはじめて物語 #208(A)「踏切」より
昭和24年6月、日本で最初の自動遮断機が、東急電鉄の自由が丘駅の近くの踏切に登場。 ドアーカットがようやく解消したと思ったら編成増結で再びカットと、昭和40年代の東急はつねに成長してました。 またもや代官山のせいで各停10連化の障害になっている >>241
その番組のスポンサー東急じゃなかったか? 編成的に田園都市線が副都心線、東横線が半蔵門線の方がよかったんだね 8000、ちょっと前まで大量にいたのに。
今や影も形もない。 >>207
蒲田で当時、包帯をした子供がいて、
店員か誰か忘れたが質問したら、あの事故で怪我をしたと言っていた。 地上時代の田園調布-多摩川園間って踏切がまったくないですが、田園調布駅周辺
とか駅の東西を行き来する道路ってなかったんですか?
当時の
田園調布-多摩川園
http://www.youtube.com/watch?v=H2GxUXCSh_0&t=3m05s
多摩川園-田園調布
http://www.youtube.com/watch?v=PqvTZYXPz0A&t=1m05s 多摩川手前の道は、いまもあるね
ttp://a-draw.com/src/a-draw.com_22452.jpg 昭和30年代 当初高性能車として登場した5000系はMT編成
6000系は、名目こそオールMだが、1台車1モーターでMT並
で、その後登場した7000系は完全オールM・・・で中でも途中から加わった日立車は、高出力
他鉄道会社の新車事情を見るとオールMの7000系が登場しだした時期だと逆にそこそこオールM信仰を
諦めだした処も散見するのだが、京阪2000系,国鉄101系・・・・
東急は、新線開業延伸、新技術投入とかには積極的だが、既存設備の維持管理、保守設備のコストにはシビアだったのに・・・
オールMの新車投入に新線建設等お金かかる時期よくOKが出たものだ・・・
変電設備的にも苦しくなかったのだろうか? >>252
日比谷線の路線要件に合わせた仕様ってことじゃね?
東武もオールM投入してきたし。 >>252
地下鉄は故障編成を別編成が押し上げられないといけないという規定があったから、抵抗制御時代のM車比は高いよ
半蔵門線乗り入れの8500が確か5M1T→6M2T→8M2T、他線だと東西線に確か6M1Tがあった
日比谷線以前の地下鉄はオールMだし、モーター出力とか三ノ輪の急勾配考えると6両オールM→8両オールMでも何らおかしくない >>254
なるほど。確かにパワー半導体制御になった6000以降出力が上昇してってるね。
VVVF以降は交流モーターの特性による穏やかな起動トルクによって粘着特性がアップしたので
動力車集約してコスト削減がトレンドですね。
抵抗制御時代でハイパワーなモーターって在来線電車だとどんなやつがあるっけ?
東武8000とか小田急2600の130Kwが辺りがmax?
東西線の7両編成。あったあったw
千代田線も乗り入れ組の9000系と103系1000番代は8M2TでM多めだった。 >>169
営団3000系のATO装備車は3035〜3036の編成と3073〜3074の編成の2本だが、
(その前には、3057〜3058の編成にも装備していたらしい)この3本はすべて
東横線のみ乗り入れ可能な編成で、東武線には乗り入れていなかった。
>>225
元号が昭和から平成になった頃に、8090系が8590系や9000系に置き換えられて
東横線→大井町線に転出していたが、その関係からか、8590系が東横線の各停
運用に入っていたのを見たことがある。特急の運転が開始されるまで8590系の
各停運用を見たのはこの1回だけだった。 >>225 の8000が各停専用車って本当? 単に種別表示が幕化される前の時代だった
ってだけじゃないの。側面は種別表示灯ついてたし。 首都圏で一番最初に黒字白文字の駅名標や行き先表示を取り入れたのは東急だったと思う。
京王線沿線在住だった俺は、なんと洒落ているのかと子どもながらに思った。
しかし今、首都圏の駅で一番昭和なのは、東急五反田だな。
7000系も健在だし。五反田駅&7000系の風景ラブ。 側面幕といえば、25〜30年位前の8500東横急行は側面幕は種別のみの「急行」だった
「急行渋谷」はあったはずだけど使ってなかった 単色LEDはもちろん、今のフルカラーLED標示よりも黒地幕の方が見やすかった。
LEDのギザギザに見える字体や光量の違いのせいかもしれないが https://www.youtube.com/watch?v=U62ucAK5BTs
↑2003年3月まで使われてた東横線旧放送。
上り学芸大学到着前にだけあった「祐天寺には止まりません」の放送が伝説として語り継がれてる。
声は違うが2013年3月の副都心線直通開始にともなう放送更新で「〜には止まりません」の言い回しがまさかの復活をしたな。 池上線沿線にある我が区立小学校では遠足に「こどもの国」行きの電車をチャーターした。
3000系で蒲田まで行き、目蒲線から田園都市線に乗り入れこどもの国に乗りいれ。
そんな経験したやついない? >>262
「か」くえき停車を、ご利用ください
の放送、もう消えてから11年も経つのか・・・ >>263 俺の知っている時代 田都(当時の二子以南)が未だATSの時ですら(およそ四半世紀前)は既に 混・乗〜です!
(通勤客で混んだ電車に押し込まれ子供たち可哀想だったな。)
田園都市線のダイヤに余裕が無くなった事や、長津田の乗務員でツーハンドル経験者の確保が難しくなった事、
目蒲、池上沿線小学校が比較的小規模で専用列車の設定をするまでもない判断だったのかも? こどもの国行き遠足専用列車って、新玉川線〜田園都市線直通運転開始以前の話じゃないか?
当時は大井町からこどもの国への直通快速もあったくらいだし。
昭和60年ごろにはすべて混乗だった。これは間違いない。 >>266 その当時(昭和56年以前)は、よそ者から診れば、こどもの国線は、 田園都市線の支線くらいのイメージしかなかったなあ。
沿線に引越し、運賃体系や運行方法、休園日等リリーフで投入する予備車や代走車にすら こどもの国協会のマークを掲示することで
この路線が特別(委託)路線であることを知った。 >>265
なにそれ。目黒と大岡山でスイッチバックかますってこと?
鉄ヲタ的にはドリームトレインだなw アンカー間違った。スマソ
>>263
なにそれ。目黒と大岡山でスイッチバックかますってこと?
鉄ヲタ的にはドリームトレインだなw >>269
スイッチバックは蒲田と大岡山だよ。
目黒まで行くことは無い。
当時は田園都市線は3000系4連あったから、3連が入ってきても問題ない。
多摩川も道路併用だった気がする。歳がばれるなあ。
今は遠足貸切って殆ど無くなったな。ガキも先生も大変そうだが、
通勤客にとっても大迷惑。どこの鉄道も遠足団体は遠慮しているらしい。 >>270
そうそう蒲田ですた。
3両でロングラン… ドリームw
むーさんのページにその頃の田奈駅写真あったの思い出しました。
http://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link156.html
その他のあらゆる懐かしコレクションがまた凄い…
子供時代鉄ヲタだったが、鉄道団体旅行はつまんなかったw
自分の好きな列車乗れないし、齧り付きなんてできるわけないし。
でもこのドリームトレインなら乗りたい。って今だから思えるんだろうなー。
当時目線なら
「ピカピカの7000カッケー。うちらは… ちぇっ、おんぼろかよ」
ってなるに違いないwwwww >>271 子供の頃 西武沿線に育った俺は、遠足の場合大抵 専用列車だったので、
混乗の苦労はあまりないな。(皆無ではない、記憶は数回ある) 2,3学年合同や沿線他校と一緒(乗車車号分け)
西武の場合 都市間鉄道でなく車庫も郊外にあるので、ラッシュ輸送の回送を 不定期で専用スジに充てていたのかもしれない
(この辺のノウハウが後年 状況により弾力的に変更をしなくてはいけない野球ダイヤ生かされたんだろうな。)
帰路の上りが混乗の場合 急行でも通常は各駅停車しか止まらない俺の街の駅にも臨時停車した。
駅通過とか失念による非常制動とかそういう事件は不思議と全く訊いたこがない。(やはり駅通過防止には停止定位の出発信号のほうが安全だな)
スレ地 失礼
>>271 ケースバイケースで、目蒲、池上両線が7260F1本以外 旧型車掃き溜めの時代でも、
遠足臨電には、田園都市線の7200を呼んで来たコトもあるらしいよ。 https://pbs.twimg.com/media/B3sshDtCAAI9TBP.jpg:large
話に割り込んで申し訳ございませんが、この電車の詳細わかりますか?
って皆様にとっては失礼かもしれませんね。
たぶん当時は珍しいものでも何でもなかったんでしょうか?
30年くらい前?東京出張の際、適当に撮って帰りました。
場所とかも全く覚えていませんが、駅名標からすると目黒ですかね? あ、ごめんなさい、
拡大したらホーム柱にしっかりと「めぐろ」とありました。
ご容赦、大東急万歳! >>272
7200出てきた頃か
ピカピカ新車貸切とかウラヤマシス
>>273
目黒にもいろいろあってだな。それは裏目黒だな
表目黒 大都心を跋扈するウグイス編隊がひっきりなしに飛び交う
裏目黒 3両編成抹茶色のロートルが余生をひっそり過ごす
中目黒 銀ピカの気取った連中が都心部とハマから集う ピカピカの地下ホームに発着する7200はなんだか居心地が悪そうだった >>273
おお、ナツカシス。東急目蒲線の目黒駅だね。
このホームは1997年頃まで使われて、今は
目黒線に生まれ変わって、地下化されたよ。
今、地上はアトレ2になった。 >>273
電車は通称「海坊主」こと、3500系。
30年くらい前なら、目蒲線で最も使われた車両。
連投スマソ。 >>273
懐かしいなあ。
これが出てきた頃、新車だと思って喜んでいるガキがいた。
おお、乗り心地もいいとか言っていた。
俺もガキだったけど普通はだまされないよなあ。 >>273 映り込んでいる車掌のカッタルそうなポーズに時代を感じさせるな。
・・・コレでも他社より就業規律良い方だったよな。
今のご時世なら苦情が来そうだな。
当時は確かホームに軽食(ハンバーガー?ホットドック?)スタンドがあったよな。 3500も他の3000系と同じように更新前はデコッパチじゃなかったんだな
https://pbs.twimg.com/media/B3sshDtCAAI9TBP.jpg:large
ちなみにこの車両ってもともと貫通車で、
非貫通ー>デコッパチと2回改造してるよね?
>>279
更新車のこと?
地元線以外見たことさえない子供なら勘違いするかもなw >>280
1980年代は、確か売店・立ち食いそば・軽食スタンド
が写真左側に並んでいた。
軽食スタンドからベンチ挟んで、国電乗り換え切符の
売り場が残っていたかも。
ちなみに、立ち食いそば屋は今、
JR目黒駅の道路を挟んで西側、
パレットプラザの並びに移転して営業してる。 >>280
当時の京急に比べればマシ
京急の車掌はパーマ頭にズック靴のかかとを潰して履くのがデフォだったから >>273
目黒懐かしす
停車位置の2両くらい手前に「ゆっくり入れ」
1両手前辺りに「目の前終点」(「目」の部分は目の絵)
ってのがあったの覚えてる >>284
当時の相鉄に比べればマシ
相鉄の駅員はアイパーやリーゼントに傾斜の付いた眼鏡(名前は知らない)はデフォ
日中だと居眠りしている者さえいた。 どちらも、交通局(東京、横浜市共)に較べたらマシ
そして民鉄では東武鉄道が頂点。 3000系(3000番台旧型各 独立形式の俗称)の営業車では、
雪が谷で緊急予備として唯一3471F(記憶では一度も通常運行使わず性能確認試運転時のみ走行)が残った
全廃になったのが平成元年(1989年)5月位?(・・・たしか オールステンレス元年!PRの7000※-2000系まで並んだPRポスターが掲示されたから年度は間違いない)
だからカレコレ四半世紀以上前なのは間違いないあ〜。
※この時点 3000より維持費のかかる5000は、云う及ばず セミステンレスで5000の亜種5200,
性能的、機構的に特殊な6000は、既に3000より先に淘汰されたいた。
3000も結局最後までのこったのは、張り上げ屋根更新しなかった3450形。 皆さま、ありがとうございます。
こんな下手な写真でも楽しんでいただけて幸いでございます。
調子に乗ってこんなのもありましたのでご笑覧ください。
これは本当にどこのあたりなのかも覚えていません、世田谷線というのはわかりますが。
電車も当時はありきたりの車両だったのでしょうね、今は300形ですか?
https://pbs.twimg.com/media/B33OiiLCcAAzQSO.jpg
https://twitter.com/hananokiyama >>289
ぜんぜんオッケーです。
どんどん調子こいてください。
>こんな下手な写真
撮る人はみんな言いますけど、いままでみたもので下手だなぁと思った
ものは一枚も無いですね。いつもニヤついたり時には感動しながら見てます。
撮影テクにまで気がまわりません。写真が残ってるというそれだけですでに
価値あるものなんです。 >>289
写真は世田谷駅かなぁ。
三軒茶屋方面に向かって直線に伸びてる。
駅の割とすぐ先に踏切りがある。
当時の面影は
https://maps.google.co.jp/maps?dg=optperm&output=classic
ないですねw
駅前の踏切は道路拡充で拡張されました&プラットフォーム嵩増し&スロープ工事
周りの建物も新しいマンションとかちらほらとって感じですね。
車両はここに映ってる70形と80形というのが当時の標準車ですね。
ここに良いレポートがありました。
http://www2e.biglobe.ne.jp/~alf/railway/report/setagaya/
>70形電車の車内はこんな感じ。レトロ風じゃなくて本当にレトロなのが凄い。
ホントコレ。そしてチンチンという昔ながらの音がすると重厚な吊りかけの
音と共にガタガタとゆれながら心地良いスピードでそして心地良い風が
運転席の窓を通り抜けて前から後ろへと抜けてゆく。趣き深い車両でした。 >>281
3500系は、新車当時から正面非貫通でしょ 東横線の変革
「横浜線、新幹線ご利用の方はお乗り換えです。」 ←東横特急新設の2001年3月に消滅
「祐天寺には止まりません」 ←2003年3月の新放送で消滅
「東横特急をご利用下さいましてありがとうございます。」「○○には止まりません」
↑副都心線直通開始の2013年3月から導入
変な放送は東横線のお家芸か? もう1つあった
「根岸線連絡乗車券をお持ちの方は横浜でお乗り換え下さい」 ←横浜〜桜木町間廃止の2004年1月に消滅 >>295
「電車が止まりましたら押し合わずご順にご乗車ください」 田園調布の渋谷方、環八との交点は踏切だったらしいけど、
道路と線路の高度差が大きすぎて、俄かに当時を想像しづらいな
線路降下と同時に環八もかさ上げされているのだろうか >>297
昭和7年ごろ、だとか(下のほう)
ttp://touyoko-ensen.com/syasen/ohtaku/ht-txt/ohtaku01.html
まぁ、しばらくはそこのサイトで楽しんでくだされw >>298
ページ真ん中編のデカイ写真「昭和7年、西口の家並みの」
の一番上のとこに交点が見えますね。
他の東急沿線地域もいっぱいあって面白いですね
http://touyoko-ensen.com/ 東横線と旧目蒲線区間で開業時と同じ(面影を残す)区間って何処があるのかな?
沼部? 東白楽? 代官山の非扱い解消で潰れた踏切の辺り(面影だが・・・)? >>301
日吉〜綱島〜大倉山あたりはいくらかでも過去の面影が残っているんじゃないのかなぁ。
勿論沿線の風景は変わってはいるが、それでも他の区間に比べればまだマシだと思う、 昔から変わってないのは、代官山トンネルの中目黒側ぐらいだったりして 擁壁や築堤が比較的開通当時のものと思われるのは菊名〜東白楽間くらいかな
鶴見川橋梁も橋脚や橋桁部分は開通当時のままなのでは? >>303
日比谷線開通で、思いっ切り変わっているだろw 目黒線は田園調布だけ東横線と別ホームにして、
多摩川線は田園調布まで運転で田園調布で旧目蒲線ホーム(現目黒線ホーム)に発着
にすれば便利だったし、急行を多摩川に停める必要もなかったんだよな。
まあ金かかるし無駄だったんだろうな 東急の車両が最新技術の導入に積極的な理由
5000 軽量モノコック、カルダン
5200 ステンレス
6000 一軸駆動
7000 ディスクブレーキ
8000 チョッパ
9000 vvvf
車両製造の事業後発組の東急車輛を他社に売り込むための実験場&ショールームという
役割を担っていたからだそうな。5000辺りからその流れをつくりその実績が認められた結果
新幹線5社の一角を占めるまでに成長(めでたしめでたし)
近鉄がビスタカーを作ったのも近畿車輛売り込みという目的があったそうな。
詳しくは
https://books.google.co.jp/books?id=2Tf3AgAAQBAJ&pg=PA146&lpg=PA146#v=onepage&q&f=false
139ページ〜 日吉地上駅
田園調布地上駅
まっこうクジラ
━━━━━━━━━━━━━━━━↑平成生まれが知らないライン
目蒲線
特急がない東横線
日吉待避ダイヤと終点まで先着の各停
「横浜線、新幹線ご利用の方はお乗り換えです。」
━━━━━━━━━━━━━━━━━↑平成生まれがギリギリ知ってるライン
東横線旧放送
祐天寺には止まりません
桜木町行き
女性専用車がない東横線
女性専用車終日実施
元住吉地上駅
日吉待避
━━━━━━━━━━━━━↑平成生まれ学生時代、21世紀生まれが知らないライン
乗り換えがない日吉
日比谷線直通
渋谷地上駅
━━━━━━━━━━━━━━━━━↑21世紀生まれがギリギリ知ってるライン TKKのイニシャルに、二子橋併用軌道に、乗り換え客で大混雑する自由が丘は、平成生まれにとっては神話の世界か?
抹香鯨や青ガエルが東横線走っていたことは、平成生まれも結構、知っているんじゃね? 初代5000系が、今の大井町線系統(当時の田園都市線 大井町ー溝の口・・・長津田・・・)に転入したのは、
二子橋併用橋分離後で昭和39年東横線の編成両数増に追いつけなかった5200は一足先に田園都市線に左遷になった訳だが、
(併用橋の時代は工場も元住吉 故に初代5000系は、渡っていない!)何故か二子橋の併用軌道を渡る記録写真がない!
後輩の6000や、ほんの極限られた期間 方向幕に字幕がないのでサボまで使って7000系は通った記録写真があるのは何故?
やはり5200は、二子玉川園折り返し電車専用の限定運用だったのだろうか?
・・・そしてその理由は?
コレは俺の長年の疑問。 昔東横線の接近放送で日比谷線直通がなぜか
「日比谷線直通、北千住行きがまいります。」ではなく
「日比谷線直通列車がまいります。」と行き先を伏せたたんだよね。
半蔵門線が三越前で終点だったころ、田園都市線内の接近放送では「三越前行き」と言わず、
「半蔵門線直通列車がまいります。」と案内してたという噂があるが、それに合わせたのかな?
(三越前行きは生まれる前なので真相不明、ちなみに三越前行きと言わなかったのは言うまでもなく東急デパートのライバルだから) 「間もなく、渋谷・半蔵門線方面行きの電車が参ります」 だったのか
chakuwikiの半蔵門線の項目で確認。 >>312 有難うございます!感動!!
駅の自動接近放送って当初は今よりコスト高だっただろうから、
行き先ごとの音声用意や設定がメンドだからコレで善し!の横着な発想もあったのでは?
余談だが、更新前のメトロ8000の自動放送が自線のみで東急線内で機能しなかったのは、東急が蹴ったかららしい。
で、メトロ8000更新でメトロの腹心算を、理解し今度は勘念?!
営団管理時代だけど、(新)渋谷駅の 田園都市線急行接近時の自動放送が、(オトコの人の声・・合成音)
全停車駅を早口コトバの如くダラダラ読み上げるのを聞くのが好きだった。 東急グループ共通デザインのマークが定められたのが、1973年5月。
この頃から、順次、TKKのマークが外されていった
75年頃には、全部切り替わっていたような… 「環状線でわかる東京の鉄道網」って本に目蒲線は放射線でもあって環状線でもあるって書いてあったな。
確かに目黒から多摩川までは山手線から東西に伸びる放射線、しかしそこから南に向きを変えて蒲田まで多摩川沿いを南北に進む。
多摩川〜蒲田は東横線と京浜東北線を結ぶ環状線のような路線だな(環状線ってほどの規模じゃないけど)。
今は放射線の目黒線と、環状線の多摩川線に分かれたわけか。
似たように「放射線でもあって環状線でもある」のは西武新宿線かな。
西武新宿〜所沢は山手線から東西に伸びる放射線、所沢〜本川越は西武池袋線と東武東上線を南北に結ぶ環状線。
開業当初は国分寺〜所沢〜本川越を南北に結ぶ環状線的路線だった。
その後国分寺〜東村山は国分寺線として独立したわけだが、今でも国分寺から本川越行きはある。 となると横浜線は環状線か。
そういえば「東京メガループ」なんて言葉があったっけな。 渋谷の移り変わりを振り返る
ttp://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20150122/4846531.html
若者文化の発信地として発展してきた渋谷の街の移り変わりを、ジオラマや写真などで振り返るギャラリーが、ことし3月に閉館する渋谷駅前の商業施設に設けられました。
このギャラリーは渋谷駅周辺の再開発にともない、49年間の営業を終えてことし3月に閉館する「東急プラザ渋谷」に設けられたもので、22日午後から一般に公開されます。
会場では、1960年代から90年代まで若者文化の発信地として発展してきた渋谷の街の移り変わりを、駅周辺のジオラマや当時の写真などで紹介しています。
1960年代の写真には、都電や東急玉川線など路面電車が行き交う様子が写っていて、街の様子が大きく様変わりしてきたことがわかります。
このギャラリーは22日午後2時から「東急プラザ渋谷」で、店舗が閉館する3月22日まで公開されます。 昭和30年代の日本映画には、東急線沿線は度々登場するが・・・
関東でも西武や東武東上、京成はサッパリ・・・
その中でも東宝のクレジーキャッツの映画シリーズ(の中でも・・)「ニッポン無責任野郎」の
オープニングは最高だな。
渋谷方面から自由が丘駅に進入する展望視界映像、自由が丘西口の改札を素通りし、そのまま自由が丘大井町線一号踏切道を横断する植木等様の勇士と意外にも現在も面影が残る
風景に感動! >>323 多摩川沿いにある撮影スタジオに近くて便利だったからでは。 >>326 盛大なセレモニーなんか無用だが、歌舞伎を止めたのは好かった。
7653のときも歌舞伎は止めてから逝って欲しかった。 >>325
ようやく再開発だわ
ttp://www.asahi.com/articles/ASH3T5JB0H3TULOB01B.html これでようやく
『 松下通信前 』 と 『 松下通信脇 』 のバス停も消えるのかな
かつて北綱島町だった頃に住んでた社宅も今は駐車場になっちまった そういえば昔、東急の電車のドアに貼られていた
「ドアが開くとき、手が引きこまれることがあります。手をつかないで下さい」のステッカー、
ケンタッキーフライドチキンで「クラッシャーズ東急ドアツカ」に、
ミスタードーナツで「東急ドアツカパイ」に、
ロッテリアで「東急ドアツカシェーキ」にされちまったよな それに、1970年代後半ごろから1980年代前半ごろに東急の電車のドアの下半分に貼られていた
「あぶないドアーがひらくとき」のステッカーも、
ケンタッキーフライドチキンで「クラッシャーズ東急あぶドア」に、
ミスタードーナツで「東急あぶドアパイ」に、
ロッテリアで「東急あぶドアリブサンド」にされちまったよな >>331 方々に似たようなイミフの書き込みをしている基地外は相手にするな。 電鐘式の踏切警報機っていつ頃まで残っていたんだろう?
新丸子駅付近の踏切が高架切替直前までチンチン鳴っていたような記憶はある 聞くところでは80年代前半までの、ドアに注意のステッカーのデザインは、
子どもが泣いている内容らしく、トラウマだったという人もいるとのこと。
自分が初めて東急のドアステッカーを見たのは、86年2月で、
既に、くまさんの絵と「あぶないヨ」と書かれた、コミカルなステッカーに替わっていた。
80年代前半までのステッカーを見たことある人、もしくはアップロード出来るかたがいらっしゃったら、
ぜひお聞かせ・お見せいただければ…。 今日(昨日か)BSのTwellVでやってた「泣いてたまるか」で、開業間もない青葉台駅が出てきてビックリした。 >>335 少しリアルな子供の絵で妙に細い手が印象にあるな。
3000形は、クマさんじゃんくて不二家のペコちゃんみたいな お河童頭のマンガ的な女の子の絵
で下半分の広告は、パチンコ弘来?・か中華料理の池上苑?とかだったような・・・。 子供泣き顔ステッカーは昭和53年頃は、付いていた。 良く見えないや
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org261754.jpg
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org261755.jpg
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org261756.jpg そういえば、梶が谷駅がまだ自動改札になる直前に、改札口の頭上の看板が紀文の豆乳だった時期が、あったと思うですが、知ってる方いますでしょうか?。 >>340 駅の時計の隣でしょ。
梶ヶ谷だけじゃないよ 方々の駅がそうだった。
時計の文字盤が未だオロナミンC色になる前 平成元年前後の出来事。 昔の注意喚起看板ってリアルというか残酷なのが多かったよね。
釣竿が架線に引っ掛かって感電してる子供や鉄塔に登って感電してる子供や線路内で電車にひかれる直前の子供等々…
まあ本当に死につながる危ない事だからトラウマになる位の方がいいんだろうが
最近は動物等の楽しそうなイラストを使ったり表現もマイルドになってるのは苦情とかが多いからなのかな? >>337
実物で見たことはないけど、河童を思わせるようなキャラのドアステッカーがあったらしいですね。
>>339
ありがとうございます。
ステッカーがあまり見えないのは残念だけれど、泣いていそうな顔に見えますね。
「まんがはじめて物語」のモグタンが懐かしかったな! かつて東急沿線新聞に新幹線の渋谷誘致の記事があったと記憶している >>345 アレ系列企業じゃないから・・・・でも駅で無料配布? 記憶では、改札も手動と自動が混在していた気がした。
窓口とかそういうのじゃなくて。 >>348
田都だと有人ラッチが2ブース(4列、1列が入口で3列が出口)って駅が多かった記憶 あと自動改札の投入口が定期券に対応してなかった覚えが。
エド券しか入れられなかった覚えもある。
これはすぐに変えられたと思うが。 都立大学が最初だっけ?
>自動改札
あれ子供心に怖かった覚えが
(いきなりバン!と閉まる) 渋谷駅改札口に自動券売機があった、買うと自動改札が開いたのかな。ほどなく消えたようだ 東急は、自動改札入れるのかなり遅かったけど。
地下化工事はどこよりも熱心にやったな。 >>353 高架化されたところは割と少ないんでは?最初から高架で造られた区間は別として。
新玉川線も、一部区間で高架にする計画だったのが、住民の反対で全面地下化され工期が長引いたわけで。
大井町線を京急のように高架化するなんて、無理な話だろう。 中目黒−都立大学とか新丸子・元住吉・綱島、二子玉川−溝の口は高架化だよな
南武線との交差地点も、開業当初は平面交差だったし 何故6000系は冷遇されたのか?
ずっと先輩の3000系より先に引退したし 試作的要素が多く、特殊構造の割に高速性能が著しく劣っていて、両数も総勢20両と
中途半端だったからかな?もっともそのお蔭でVVVFの試験車両に抜擢されたけど >>357 とにかく高速性能が低い!
東横線で急行に使ったのは、加速も悪いから・・・
当時の目蒲(多摩川園〜矢口渡のホーム有効長が足りない!)、池上線(車幅・・・当時は)転用できない!
他社で吊り掛けの加速性能の劣る車を準急に使うと同じ趣旨
だが、その東横の急行運用には、東急歴代随一の加速性能を誇る7000の日立車が主体だった。
後は判るな。
とにかく昔 関わったヒトに訊いたハナシだと運転中はオフブレーキ常用、
1台車1モーター故整備の際のモーター組み込みも最悪。 東急は東横線と目蒲線が思い出深いが、
中でも田園調布の二階建ての駅舎と、田園コロシアムは懐かしい。
それと駅舎とホームの壁や柱が何処も大体白く塗られていて、
それが如何にも山の手の洗練された雰囲気を漂わせていた。 >>359
当時90キロだった東横のスジにも乗れなかったの? 旧6000。 桜木町の自動改札はかなり早かったような?
東急といえば多摩川園の遊園地。 >>362
桜木町は常に最新の設備だった覚えがある。
ただ、高島町と東白楽はほぼ最後の方だったな。 「回数券のみ鋏を入れます」の看板をふと思い出した
切符の「入鋏省略」とか >>361 TKK(とても混んで・・・)だし、隔・駅停車の当時の東横急行だぜっ! >>362-363
桜木町と学芸大学,祐天寺が昭和46年2月だったと思う。
その次が都立大学でそれ以降かなり空いて、二子玉川園だったような・・・ 6000は田園都市線オール5連化の時 東横線へ転籍。8両と6両2本で 最後の花道だった。
6000+6200の急行は貴重でした
田園線6連化で戻った >>365
つまり現在スジに乗れないで喘いでるバカ殿みたいなものだ。
(バカ殿も6000系だw) 武蔵小杉下りホームのアートコーヒー
あと南武線連絡の地下(?)通路
昔の方が便利とは何事か(横浜も)! 東急ジャンボー、キュート、アートコーヒー みんな無くなってしまった。 今も東急の駅にあるしぶそばは、
都営地下鉄が1995年ごろに掲出した「閉まりかけたら赤信号」のポスターを
「閉まりかけ赤信号そば」「閉まりかけ赤信号うどん」にしてしまっているからな 東急のあぶないドアーがひらくときのステッカーや、
京急の注意ドアーが開くときのステッカーが怖がられていると言うことは、
LIXIL・INAXの前身である伊奈製陶の「Ina」マークが怖がられていると言うことに似ているからな 追記
374
(ほかに、NHKテレビで朝7時や昼12時、夜7時の時報が流れるときに出てきた
NHK時計(黒い円形で、周りがレンガのやつと、黒い円形で、周りが楕円形のもの(青・木目調とも)、
それに黒い円形で、周りが九対が12個ついたやつ)も針がとがっていて怖がれれている) 追記
375
(他に、小田急の1980年代後半から2008年夏ごろまでの上半分が青いひらくドアにご注意のステッカーも指先の部分に
赤い爆発のような模様があるとかで怖がられている) 昔、戸塚に東急ドライブインっていうのがあったが、あれも東急系? >>374
NHK時計はアプリであったと思うよ
なんとなく怖いというのはわかるw
80年代の思い出だな
http://youtu.be/HXO9jrpQdvI 東横線なんて変わりすぎてしまって往時を忍ぶものは何もなくなってしまった 往時がいつのつもりか知らんが、白楽ー東白楽あたりは昭和末期と大差ないのでは? >>190
それって区画整理が終わってなかったからあった仮設。たまプラの駅出てすぐのとこだと終われ >>381
大型7両、中型8両の時代ですな。
急行はほとんどが非冷房、たまに来る7200のブツ8冷房車が神だった
速度は全然出なかったけど 本数少ないながら、東横に8500が入っていたり、8090の試作車がスネークのように8000に紛れていたりした時代だな 冷房車だってよろこんで乗ったら外面だけの偽物だとわかってがっかり 急行の元住吉での車両変更が懐かしい それまで座っていた連中が椅子取り競争に参加できず敗退w 8500系も冷房車は一回目の8501〜8510編成だけで、8511〜8515編成は電源搭載のサハを含まない電動車の4両編成でデビューしたからクーラーは使えなかった。
8516編成は8500-8700-8800-8700-8700-8600のオールMだから九へラーは使えず、8517編成は両端のみ8500系で中間4両は8043編成をばらし、
8043と8044が中央で向き合ってしたが8043に電源があったからクーラーは使えた。8518〜はいろいろあって覚えてない。
冷房はカラッポだったり積んでいても使えないものが多かった状態は、新玉川線が開通した後も続いていたようだが、東横線利用者だから詳しくはない。 当時の田園都市線8500系は4Mでは出力が高すぎてMCOSを操作し、M2
車の動力カットにより実質3M1Tとしていたが、その反面旧型車3450形
がオールM編成で8500系に匹敵する高加速を発揮していたのは面白かった。 目蒲線試運転時のアオガエルはオールMオールパンタだった
結局営業時はMTMだったけど アオガエルのオールMは知らなかったけど、湯たんぽ5200形は目蒲線時代は終始オールMの3両編成でした。 >>392
あー5200のオールMを忘れてた
アオガエル試運転時、チャリで追っかけて鵜の木で見たのは
ケツが踏切(目黒寄り)からはみ出して、警報機が誤作動的に再度鳴ったのを覚えてる 青蛙 実は池上線に実際に入れて走れるか試しているんだよな。
・・で 結果 ガリガリガリク損・・・事後処置はどうしたのか?(強行突破?退行?破損車体の修復)訊きそびれた。
>>361 当時はATSだよ。
当時でもラッシュ 遅延がデフォの東急のこと回復運転できないクルマは糞。 中間の8800は車番を編成番号に合わせる為、8811から先に製造されて、8801〜はあとから製造された あの頃(新玉川線開直前通)の8500系の編成替えは目まぐるしかったね。
東横線で8500-8700-8600のオールM3両編成の試運転も見たよ。
カメラを持ってなくて悔しかった。 みんなよく知ってるな
8500の編成は中間の8000系系の狭い行先方向幕が印象に残ってる 8000系の方向幕と言えば、所定位置ではないところに着いてた8100が1両ありましたね。 >>389
8611F〜と、8616Fデビュー時に若干の誤り有り。
また、8617Fは8043Fと組む前に、8033Fの三連と組んでいた。
8033-8133-8034=8617-8717-8517。
よって>>396が正解。
>>398
それって何でしょうか?
kwsk! 新玉開通直前に8500を使って
東横渋谷→田園調布→大岡山→二子玉
という経路のイベント列車があったみたい >>396 昔から箱物投資や航空害社出資の犠牲で煩雑で不合理、場当たりな編成替え
5000だって折角5100から号車順に番号つけたのに6ドア挿入!
更に追加挿入!!編成替え!!!で挙句ホームドアで6ドア廃止再度4ドア新造投入
馬鹿云うか愚の骨頂!!!!! >新玉開通直前に8500を使って東横渋谷→田園調布→大岡山→二子玉川という経路のイベント列車があったみたい
それ多分ローレル賞をいただいたときの記念列車だと思います。暑い夏のことでした。 >>399 8033-8133-8034=8617-8717-8517
↑は知らなかったです。8043編成を組み込んだときは
8617-8143-8044=8043-8222-8517だったです。 昭和50年頃の田園都市線は、3000・5000・5200・6000・7000・7200・8000・8500系と実にバラエティに
富んでいて「走る見本市」的な路線だった。その中でも6000系と最新の8500系では運転性能の差が激し
く、特に6200番台の性能の悪さは半端ではなく、出だしこそまともな加速をするがすぐに頭打ちとなり、
釣掛車にも劣っていた印象が強い。同じ6000系でも現在の大井町線走る6000系とは雲泥の差だな >>404
6200は市が尾→藤が丘で、市が尾駅出発から藤が丘手駅前までずっとフルノッチのままでの走行にもかかわらず、藤が丘駅手前ではスピードが62〜3km/hまで落ちてしまっていたからなあ… 6200系は本当に遅かったですね。出発の時ノッチを入れても起動するまで時間がかかり、乗務員には蛍光灯と言われてました。
でもいつもフルノッチで走らせても壊れないんだから、かなりタフだったようで、誰がなんと言ってもゆっくり走り、我関せずな電車でした。
ところで当時の鷺沼車庫は今のメトロの車庫の場所でしたが、掘割の下を走る田園都市線に一番近い線路に収容された6200系をよく見たものです。
何かあったら一番先に落ちる場所ですが、あるとき大雨による地滑りで地盤がくずれ、その場所で休んでした6200系が流されました。
落ちる寸前でしたが見事復活、10年後にインバータ試験車に改造されて役目を終えましたが、あの性能のままよく23年も頑張ったものです。 >>403
8617Fはそれ以前の編成に対して、随分と不安定な編成&配置だったね。
特に中間車の8717は、あちこちにたらい回しにされていた。
8616F&8617Fデビュー時
↓
8616-8716-8816-8516、4連で田園都市線にデビュー。
8617-8717-8517、3連で東横線に配置。
→3連で試運転の後、8033F3連と6連を組み東横線でデビュー。
→すぐに編成をバラされ、8717を抜かれて8043Fと6連を組む(8617-8143-8044=8043-8222-8517)。
→8717は8616Fへ編入。
→8717は8616Fから抜かれ、8023Fへ編入。
→8717は8023Fから抜かれ、8043Fへ編入。
→8043Fは編成をバラされて、8717は8602Fへ編入。 6200はフルノッチでマスコン180度回転しましたよね。6200+6000で東横線急行で走ったのが最後の花道だったか スタイル的には同時期に登場した伊豆急100系に相通じるものがあり、鈍足さを除けば好感の持てる車両でもあった。 6200のマスコンがフルノッチで180度回転?? そうでしたっけ、3450形など旧型車のマスコンみたいだったことは覚えてるけど。加速の都度180度も動かすなんて、運転するのもたいへんでしたね。 >>409 俺は伊豆急の100は、塗装のお陰で軽快感や斬新さも感じたが、
6000のデザインは微妙に感じる陳腐で柔らかいというより力が無さそうな如何にも存在感の薄いような・・・。
同じように車体側面にRがあり、正面貫通、屋根置き前照灯、角型尾灯でも伊豆急100京王5000とどうしてデザイン印象が雲泥なのだろう? >>410
6200のマスコンの稼動範囲を時計で表せば、2時の位置から9時の位置までだったね。
これは東芝と東洋の違いでハンドルの形の違いはあるにせよ、6000も同様だった。
>>411
そもそも6000系は、5200をベースにして貫通扉を設けたデザインだからね。
また両開き側扉、加速重視に振ったギア比など、日比谷線直通を意識したと窺わせる箇所が幾つかある。
因みに6200のマスコンハンドルの形と取り扱い操作方法は、当時の営団3000系と全く同じと私には見えた。 確か昔 鉄道ファン誌か何かの記述に 日比谷線直通を考慮して構想したようなハナシを訊いたような・・・
8000の半蔵門線 9000の南北、三田線 乗り入れ構想設計と云い東急は当初予定したクルマを乗り入れに充てる事
に失敗している(更にモデルチェンジをした)のは何故? 京王の6000や小田急の9000は、乗り入れ開始より結構前から
製造し目的を達成しているのに・・・・
乗り入れ事業者間のパワーバランス(暗黙の力関係 企業体力というより乗り入れによりメリットが向上するほうが譲歩?)
それとも単に東急が新しモノ好きで気変わりが激しいだけ? 7000系登場時も6000系と同じマスコンだったが、営団との直通協定で変更された >>389
新玉川線開通時、8616Fは8916投入でクーラーが使えたが、8617F〜8627Fは空ラーだった
大井町分割が見えてきた8628F以降はクーラーに復帰
そういえば8601Fって、かなり長い間東横線に転用されてなかった?
(営団8000新製の81年〜三越前開通・2分30秒化増発の89年まで) 東横線8500系急行渋谷行きの側面幕は「急行渋谷」を使っていただきたかった >>415 昭和50年代半ばまでは、東急は本当に一番優れた設備、車両、ヒト(教習所を総代で出たヒトとか)とかは、
とにかく東横偏重が酷かったんだよ。
路車板で吠えている横東なんて目じゃなくて・・・確信犯的に。
だから 本来支線向けに設計した7200まで 最新鋭車種のときは、取り敢えず東横線に投入する始末。 約1両分の乗員オミット覚悟で組んだ7200ブツ8など狂気の沙汰 日比谷線直通が8連化されたあとも7200の急行が6両編成で情けなかったよ >>417
>本来支線向けに設計した7200まで 最新鋭車種のときは、取り敢えず東横線に投入する始末。
それは違う。
7200系は元々田園都市線の溝の口〜長津田路線延長用に作られた車両で、後に7260Fが目蒲線に投入された以外は当初の計画通り、新製時には全てが田園都市線に導入された。
5000系との交換で東横線に移籍したのは、デビューして少し経ってから。
因みに、7000系は東横線用(当初は各停専用車)に開発されたのだが、田園都市線長津田延長後に新製された車両達の中には、東横線に投入されずに田園都市線でデビューしている車両もいる。 デハ7300、デハ7400もデハ7200とクハ7500に挟まれた4連で1969年の3月に田園都市線デビューし、ひと月ほどでデハ7200とクハ7500を増結した6連で東横線転籍、1972年入籍の目蒲線の3連本をのぞきすべて田園都市線デビューだったと思った。 6000は大迫力の音が印象的でしたが、6200はどんな音だったのでしょうか
記憶にないもので 6200のサウンド、直角カルダンだから青蛙と同じギヤーだったのでしょうか、静かなものでした。ホイールベースが長いからか、それともオーバーハングとの関係からか、コンコン、コンコンと、踏み切りで聞いたほぼ等間隔で響くとぼけた感じの通過音が懐かしいです。 やはり静かだったのですね
興味深い情報をありがとうございました 俺の印象だと、6000も6200も発進加速の際にはそれほど大して変わらなかったような…
ただ、普段は梶が谷を過ぎると我慢出来ずにかぶりつきに向かっていた子供の頃の俺が、6200だとその気さえ起き無くておとなしく座っていた、って事はあったけどね 6200はあまりの鈍足で呆れ返っていたため、そのスピードや悪魔の雄叫びと言われた走行音よりも、車内更新が遅かった事による、つるべ式客室側窓のワイヤーなどをいじくって、手が油まみれになってしまったとかの思い出の方がつよい
えっ、その油まみれの手はどうしたかって?
良い子の僕チンは座席などに擦り付けたりはしなかったよ…、ははははは… 子供の頃青ガエルのカブリツキが一番広々として見易かった ここで問題です。
今ほど路線毎に形式(車輌)がキッチリと別れておらず、頻繁に転籍を繰り返していた一昔前。
その時代に、新製時から廃車まで一度も転籍が無かった編成があります。
解りますか?
(※形式は、2000系新3000系新5000系列以前で)
ここの住民なら簡単過ぎますかね(^_-)-☆ 9000系もサハは東横線だけだよね。それに8000系なんか東横線オンリーがかなりあったのでは? 8049F、8051F、9007Fは、こどもの国線で営業実績がある。
7260Fは、最晩年は池上線転籍。
東横線の8011、8013、8015は、大井町線の8001、8003、8005とそれぞれ先頭車両を交換していた時期があり、8011F、8013F、8015Fとして大井町線を走っていた事があるな。 1000系の1006F
それから1014F〜1016F・1018Fも
(東急多摩川線にも入ったが、雪ヶ谷検車区配置は変わらずということで) 1000系の1014F〜1018Fは当初4両編成で目蒲線(奥沢検車区)に配置されて、
1〜2年後に池上線(雪ヶ谷検車区)に転属してたので違うな。誤記スマン。 『転籍が無かった編成』ではないけれど、長野電鉄に最初に行った5000系のMc-Tcのうち5155は、東急時代他線転籍がなかったと思った。
でもレギュレーションは編成だもんね。 1000系の1001F〜1005F・1007F・1008Fの中間車各5両も東横線から転出せずに
廃車となることとなる。(既に一部車両は廃車済みで、残りは緊急予備車両
となっている。なお、デハ1350・デハ1450は形式消滅済み) 長期冷遇の池上線にようやく訪れた新造車 1021Fでは?
重箱角でスマンが、そもそも東急的には転属(ソコの所属車)と転用(他線の借り物)は違うわけで・・・
9007のこどもも国線転用などは、管轄区内での処置だし。 >>441
細かいことで大変恐縮だが、それ(3両全車新造車)は1024F。(後述するよう
に、1019F〜1023Fは先頭車のみ池上線に直接投入・中間車は目蒲線から転属)
>>438氏が触れているように、1014F〜1018Fの5本は1019F〜1023Fの中間車を
組み込んだ4両編成で91年に目蒲線に投入された。(当時、建築限界の関係で
1000系は池上線の五反田−雪が谷大塚間への入線が不可だったため、暫定的
に目蒲線に配置された。)
93年に1019F〜1023Fの先頭車と1024Fの3両が製造されて、1014F〜1018Fの
3両編成化とあわせて3両編成11本が池上線に転入・投入され、入れ替わりに
7200系20両が目蒲線に転属、10両が廃車となって上田交通(現上田電鉄)に
譲渡された。 目蒲線下丸子ー蒲田、朝夕区間運転 松 竹 梅号
一両か二両で3200か3250あたり(当時の車番は違ったかも)
日中は一編成が蒲田で休んでいた
当時の蒲田駅は省線と並んでホームがあったが戦災で消滅
池上線のホームに移った
道塚駅焼失廃止、線路も大きく変わり池上線と同居となる 例の、東横〜田園都市(大井町)車両大移動の時、僅かな期間ではあったが7200-7500のアルミ車コンビが、東横線で中間に連結されていた時があったな
確か編成は
7201-7501+7200-7500+7202-7502 東横線では7211-7301-7401-7511+7200-7500というのもあった。これも短期間。 >>445>>446 あった!あった! 西武沿線民で普段乗らない東急に乗りに
鉄友と出かけた消防のとき!色とコルゲーションの違う7200が居て大騒ぎした。
(当時は、私鉄電車アルバム も 誠文堂新晃社のガイドブックも知らない頃) >>439
>『転籍が無かった編成』ではないけれど、長野電鉄に最初に行った5000系のMc-Tcのうち5155は、東急時代他線転籍がなかったと思った。
東横線 72年3月
5045,5046,5055,5155で5045F(4)を組成
・5045F(4)が田園都市線に転出
田園都市線 72年3月
・5045F(4)が東横線より転入
1973(昭48)年4月
所要43本
3000(4)×14
5000(4)×15
5200(4)×1
6000(4)×5
7000(4)×2
7200(4)×8
計 45
3450-3499-3459-3498
3452-3462-3454-3866
3455-3469-3458-3865
3456-3477-3471-3752
3472-3470-3457-3751
3474-3463-3473-3671
3460-3480-3451-3861
3453-3487-3486-3850
3461-3464-3483-3864
3494-3496-3495-3854
3661-3466-3465-3497
3601-3857-3602-3775
3607-3858-3608-3853
3713-3714-3715-3862
5001-5101-5351-5002
5003-5103-5352-5004
5005-5117-5353-5006
5007-5104-5354-5008
5009-5105-5355-5010
5011-5118-5356-5012
5013-5014-5053-5153
5015-5115-5358-5016
5017-5109-5102-5018
5027-5112-5364-5028
5031-5032-5051-5151
5037-5119-5369-5038
5043-5114-5367-5044
5045-5046-5055-5155←◎ >>449 同意!
でも当時の田園都市線(大井町ーつきみ野)は、東横至上主義の犠牲で
車種が多すぎて取り扱いの煩雑さで乗務員的には相当苦労したらしい。
朝ラッシュに3000(但し絶対的速さはともかく3450オールMとかは面白かったらしい)や6200を受け持った時は、必至で自由が丘まで走らせてきたらしい。 > 3450オールM
軽やかな吊り掛けサウンドがたまらなかったですね。 > オールMだと最高速も上がりそうだな
スタートダッシュは凄かったけどそれも60キロ位までで、あとはジリジリ80キロ程度。
そこまで出すと停まる準備をしないと、なにしろ停まるのが苦手なもので。 その頃の田園都市線は当時の東急全車種が在籍してたのかな?
夢のような時代だなぁ >>453
そして停まったあとは、お決まりのあのニオイが… 昨夜、田園都市線長津田開業の祝賀電車を飾ったデハ7046(現7702)がついに搬出されてしまったようだ。 上り向きのクハ3660、車長が16mもないポンコツ、いつまで走らすんだと思っていた小坊時代 7702の搬出が気になるではなくて、7702の搬出「先」が気になる。 >>457 3660って小型で少数派のクセに方々(旧新玉川以外の鉄道全線)で活躍したよね
使いかってが良かったと云うより たらい回し?というコト?
大体メンド、小型、老朽車は池上線送り込みが当時の東急の傾向だったのだが・・・何故に例外?
>>459 市原悦子 赤く塗られ、独特の切文字に変えられた仲間は、どうやって選んだの? > 赤く塗られ、独特の切文字に変えられた仲間
どの車両のことでしょうか? >>461 迷鉄に逝った※注(敢えて この表現で・・・ショートリリーフの使い潰しだから)3700の事?
それとも、MT比 帳尻合わせ道連れになった3670形戦災国電復旧車で後に車体新造した3671の事?
偶々3700と、編成組んでいたからじゃね?
で、3671の車体は、東急の3000グループの標準車体を持って(3700も細部は違うが、基本この寸法を目安に更新した)いたから
・・・確か当時の文献で名鉄と協議の上当該車を選定したとある。
周知の事と思うが、3700自体が、名鉄逝ったのは、お互い運輸省規格型で比較的名鉄3800に近似だったから
名鉄は3扉ロングシート車必要としていたが、混雑解消に3扉ロングシート車導入に難色を示す頭の硬い上層部を実証説得する為。 >461 なるほど、名鉄ね。そう言えばそんなこともありましたっけ。
3700形で3ドア車の威力を経験しなければ、エンエンと2ドア車を造りつづけたかもしれなかったね。
本体が引退後も台車だけは何処かで活き続けたと思ったから、走行系の素性が良かったんだろうね。 名鉄へ行った3700(3880)は6両で特急運用にもついたとの由。乗ってみたかった >>464
台車以外にも扇風機などが他の旧型車(AL車・HL車)に転用されている。
>>465
その当時、既に名鉄の特急は全車指定席車で、パノラマカーや7300系の限定
運用だったから、3880系の特急は走っていない。多分それは「高速」(基本
的に特急停車駅のみの停車で、特別料金が不要の列車…現在の全車一般席
特急に相当)の運用のことでは?
(過去に徳田耕一氏が執筆された本の中に、3880系の犬山線「高速」列車の
乗車体験記が載っていた事があったが、体感的にかなり無理して走っていた
ように感じたと記されていた記憶がある。) 1975〜1985 3880在籍
1977 特急政策の変更
3880が特急で走った可能性はある
定期運用はなかったにしても、異常時の代走とか 何かの本で、東急から来た3880系は弱め界磁を使用していなかったので、最高速度も85km/hまでしか出ず、
名鉄の運転士はイライラしてたという記事を読んだ記憶がある。東急では必要なかっただろうけど名鉄の優等
列車で弱め界磁なしでは流石にきつかっただろうな。 85しか出ないんじゃHLのスジじゃないと走れないな >>468 >>469
3880の特急が走っていたとは知らなかった。情報ありがとう。 3700(名鉄3880)は、東急でパイプカットされていたからね。 3802って東横線時代も 3801ケツに繋がれて営業運転では、運転台は常に封じ込め? 私が幼少の頃東横線は4両編成が主体で、3801さえ滅多に先頭に立たなかったですが、3802が先頭に出たことはあるのでしょうか。 >>477 東横昇圧後3700が急行運用に就いたからその時点でその仕事のおこぼれに預かっていなけりゃ
ないんじゃない?3600品質はともかく国電機器で比較的モーターとか出力があるからその公算は高い。
5000量産後(昭和30年代初頭)には3700も急行失業なので多分無い。
そういえば成長期(大井町起点時代)の田園都市線の快速は、3000、5000の姿は皆無みたいだけど、
快速に入る運用は車種指定だったの?
極端なハナシ 6000-7200までの3扉SUS各形式と8000、8500 4扉SUSが快速運用で共存した時代もないの? 田園都市線の快速は、3扉時代は基本7000と7200だけだったと思う。
こどもの国繁忙期の上り快速に6000や6200を見たことがあるが、5000は見なかったな。
1974年に4扉8000、1975年に同じく4扉8500デビュー後は、専ら4扉だった。 1973〜4年の8000系投入直前ころの、朝ラッシュ時の上り通勤快速は確か11本あったはずだから、7000と7200だけではギリ足りないのではないだろうか?
当時の田園都市線の7000と7200は
7005F、7033Fと、7201F、7203F、7205F、7207F、7209F、7251F、7253F、7255Fだったからね
7001F、7003Fは目蒲線所属だったので、あくまでも予想だが、6000系が快速に就役していたのではないだろうか?
また、1974年以降の8000就役後も快速の必要本数が揃うまでは、3dr車と4dr車が間違いなく混在していたはず 4扉車8000系が田園都市線デビュー前年である1973年4月の朝の快速は8本でした。
1974年は8000系が8043,8045,8047,8049,8051の5本デビューしましたが、この時点でオール4扉車ではすべての快速をまかなえません。
1975年に8500系が一挙に10編成40両デビューし、オール4扉車で回せたはずですが、転居のため実情を知りません。
この辺り詳しい片野書き込みを待ちましょう。6000系、6200系は子供の国発の上り快速は承知してますが、通勤快速出の使用はとくに興味あります。 昭和40年代一時期あった目蒲線での7000系配属(まもなく6000系に変更)って
当然蒲田以外ホームが4両対応していなかったから 目黒ー田園調布 間に限られていた筈だけど、
あれって目蒲線での使用が平日朝ラッシュなだけで(実質 目蒲線近代化の名義貸しみたいなモノで)、日中は大井町線で使っていたんでしょ?
・・・5000系より前の旧型3000グループが多数残っている中で折角の新型の稼働率を下げるのは不経済だし・・・ 私が知る限り目蒲線の4両編成は、朝ラッシュが終わると大岡山行で営業を打ち切り、渡り線を渡って田園都市線の自由が丘や鷺沼に入庫してました。
午後別の編成が目蒲線入りし、夕方ラッシュと翌朝のラッシュをこなす繰り返しで、7000系のほか3450形の4両編成なども区別なくローテーションしてたみたい。
しかし不動前駅両側に40‰の勾配が控えてたので、2M2Tの3600形更新車やパワー不足の6000系は南方ようなきがします。 https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTeOp0(パトカーサービス不足ウソ製作費定義)
https://www.youtube.com/watch?v=IDLUKFTe0p0 メジャールールブック総務京都米予算me-ka-
https://www.youtube.com/watch?v=fDO_QMfIvSc
ニューヨークネックス従業員英産プルトニウム任天プロチャイニーズオージービーフステーキ(キッペイ武田ピク底ファンド
頭皮成分不透明ベンチスタートドナルドストラテジエイト(40代弥勒ソフト 東京急行電鉄 元副社長 八方隆邦
1941年11月22日生まれ
64年4月 大阪工業大学工学部土木工学科卒業
64年4月 東京急行電鉄株式会社入社
93年4月 同社交通事業本部工務部土木課課長
01年6月 同社常務取締役
05年6月 東京急行電鉄株式会社専務取締役
06年6月 同社代表取締役副社長
12年4月 同社取締役辞任
14年6月 東京急行電鉄株式会社常任顧問 >> 435 9000系もサハは東横線だけだよね。
大井町線時代上野毛で、9001fがTc-M-T-M-Tcに組み直されて日中試運転してるのを見たことがある。
9007fが入る前だから、MT比の検討をしたんじゃないかな。 たまに来る湯たんぽにぎょっとした上京間もない時代。 >>489 如何にも東急らしいケチ臭さだなw
一見目立つ処には派手に投資するが、その実シブイ(堅実とは明らかに違う)
不動産や初物は大好きだが、保全や充実には投資を渋る。 3500(3650、3850)をツルっぱげにしたのは、いったい誰のさしがねですか?
悪趣味にも程がある。 >>492 趣味的には3800がスゴイ残念だった
新規に(7200同様の車体)箱を作り変えないなら(無論 理想は半端なリニューなどせず新車取替えが最善だが)
西鉄の313みたい徹底した改造をしてクーラーも載せるとか、
オデコに方向幕をつけるとかすれば良かったのに・・・
短命の6ドアといい、投資の迷い?半端な渋チンが常に裏目に作用している。 小田急や相鉄なら 化けてた な…もっとも、ステンレス導入に梶を切った時点で、先は見えてたが。 >>494 小田急や相鉄なら化けてたな…
デハ3450一族50両やデハ3500が化けてたら、その後の3000シリーズの歴史が変わってたですね。
吊り掛けのオールステンレス車なんて、想像しただけでもゾクゾクものです。 窓から外が見えなかったので、趣味的にスルーしてた幼少期。 通勤化前のこどもの国で走ったらしい9000の1M2T 3両編成の走りってどんな?だったの (秋田の)701系1M2Tは意外にワイルドな走りだよ。 今日で田園都市線開通50周年ですが
当時を知る方、思い出話などありましたら聞かせてください > 当時を知る方、思い出話・・・
初めての溝の口以西の記憶は今でもはっきり焼き付いてます。
梶が谷手前のトンネルを出ると、車窓の景色が一変、家らしい家が無くてびっくりしました。
畑と野山が続き、たまに見かける家は茅葺屋根だったり、そんな中でも1キロ毎に客扱いのために停車するのに、違和感すら感じたものです。
屋根付きのプラットホームもほとんどありませんでしたが、将来の拡張を見越した施設には、近い将来の大発展を予感したものです。
そんな大幹線の出現に恐れをなしたのか、2年後の1968年に予定していた中央林間乗り入れに小田急が反対表明した記憶があります。 鷺沼から先は2両と聞いたが、今や本線上での作業そのものをやめてしまったね。 東急は自連で鷺沼時代も分割併合やっていたから、メンドでスグ(二年程)に止めた。 逆に密連の東武車が不思議だ…過去何回か救援シーンが見られたが、手間については(ry その内に今の溝の口〜鷺沼も過去の風景になるのかな?
施工方法の妄想が膨らむが明らかに無謀な企てな気もする >>508 溝の口ー長津田 間は、一気に開業したのに鷺沼以北は、沿線が飽和状態で新鮮味を全く感じない!
市ヶ尾ー藤が丘の間も高速インターが出来てからたちまち激変。
もう既に過去化は激しく進行してますぞっ。 砧本村の近くに住んでいて、東京オリンピックの後、夢で凄い大きな立派な駅を見上げている夢を見た。練馬に引っ越し、暫くして二子玉川に来たら夢と同じ駅があった。まだ高島屋が出来る前だ。 未だクマがノーパンな件
子供に質問されると説明に困る 大倉山駅→東海道新幹線
右側のほぼ全部が田んぼ
その田んぼから1キロ先の新横浜駅全景が見えていた.
あと新幹線新横浜駅下り線左(今の篠原町あたり)の谷間も
田んぼ多かった。 >>516 その頃は鶴屋千年堂もマダ無かったんだろうな。
その鶴屋千年堂も焼けてからカレコレ二十年近く・・・
地方のヒトのお土産(ウケ狙い)に最高だったのに・・・ 昔、8500までのステンレスカーはドアの開閉音がうるさかった。
開閉のスピードも当時の標準より遅くて、イライラした思い出。 小学校の遠足、学校から列を成して東横線駅へ。
そこから普通の電車に分乗して大倉山駅下車。
三ツ池公園まで歩いて昼食、まさに遠足であった。
高校の時は体育大会でこどもの国へ。
最寄り駅から貸し切り電車でこどもの国直行。
たしか5005編成だった。 >>518
8500系は、1984年にサイレンサーを付けた記憶。 日吉から綱島までだって昭和40年代中ごろは進行右手は見渡す限りほとんど田んぼだったから、冬の晴れた日は富士山が見えた
左手も田んぼだらけで日大高校と松下通信機だけが主な建物、中層マンションや外食店の類はゼロだった
菊名池がまだ埋め立て前で大きくてクチボソやフナがいて子どもがよく釣りをしていた 監獄窓と巨大ステッカーのせいで、殆ど沿線風景(側面)の記憶は無い。
だから将来の株主に反対される事も無く、無茶な開発が出来た…とも言える。 ロングシートに立て膝ついて車窓を眺める子供を最近見ていない気がする 8000系冷房車キタ━(゚∀゚)━!!!!!
室外器ハコだけで中身からっぽだった('A`) >>524
ふた夏ぐらい外面だけのナンチャッテ冷房車だったっけ
非常に虚しい気持ちにさせる車両だった ナンチャッテ冷房車は8000系ばかりでなく、1975年秋の4両オールMの8500系新車、その後もしばらく新車は空箱搭載だった。 8500オールMは空箱ではないな
電源が無かっただけだな >>526
なんちゃっては、8000系の8033〜8042編成、8500系の8518〜8527編成(ここまでは田玉直通時に冷房化)、
8007・8009編成に組み込まれた8200型・8300型各2両(これは86年まで冷房化が遅れた) 8300って電装前提の構造だったのかな?
当初から床に点検蓋あったとしたら面白いが、もう確かめようもない
8200化後はハイナンバーの非軽量車という形態が面白かった 東急バスに至っては冷房車の投入が79年、オール冷房化が86年・・・
都内でも遅かったぞ。 88年に淡島でバス窓車を見た覚えがある。
おお、未だにバス窓生きてるのかと驚いた。
あれって冷房化されてたのかな・・・? 東急の「あぶないドアーがひらくとき」のステッカーに広告を出していた
東京生命も日産生命も経営破たんしてしまったからな
(ちなみに東京生命は東急の「あぶないドアーがひらくとき」のステッカーの他に、
都営三田線や京王のドアの窓ガラスの中心付近に貼られていた、円形時代のステッカーにも広告を出していた) 日産生命や東京生命のみならず、
京急やシーサイドライン、更には横浜市営地下鉄や相鉄のドアの窓ガラスの中心付近に貼られていた、
円形時代のステッカー(相鉄はおおむね京急のようなじゃんけんの「パー」の手のやつや、
東急の「あぶないドアーがひらくとき」や小田急の上半分が青い「ひらくドアにご注意」のステッカーみたいに
いたそうなデザインだった頃、横浜市営地下鉄は緑色のカニが描かれていた頃)にも広告を出していた電気店、L商会も経営破たんしてしまったからな あぶないのは、ドア広告スポンサー企業の方だったワケだな。 次は大坂上、日産生命本社前、大坂上でございます。
って、バスの話だが。 大坂上に玉電の停留所があったなあ
雪の日は渋谷からの坂を登れない電車がいた 大坂は大橋側でしょ。旧道は山手通りまで下って行くけど。 >>536
この頃バスに乗らなくなったんで今は日産生命本社前は停留所名はどうなってる? 目黒通りの”元競馬場”みたいに”元日産生命本社前”の訳ないような 梶が谷の駅前なんて、赤土剥き出しだったもんなあ。1970年代。 >>531 バスネタなんだが・・・釣られてやる。
瀬田営業所のドーム車庫は、1950年代の生き証人。 バスネタだと玉電廃止から新玉線できるまでの渋谷ー三軒茶屋のバス網は異常だった
大橋あたりは視界の中に常時数台が数珠つながりで上下線共に爆走
高速まだなくて空が広く渋滞もなく、冷房のない車掌つきの渋谷駅発横浜駅西口行きが毎30分間隔で遅れもなく走行していた 80年代始めまでは梶が谷駅の目と鼻の先に野っ原に近いグラウンドが在って、少年野球してましたね。 通勤線化前、ゴールデンウィークのこどもの国線は8000系5連の前後に運転士と車掌が乗ってて、交代の時間も惜しむ正にピストン輸送だった
休園日は駅員が居ないから切符買えなくて、渋谷とかで「こどもの国から」て言って精算するのが何か恥ずかしかった たまプラの東側が野っぱらだった。出口もなかったし。 美しが丘公園に向かう小路の途中左手にあった
レンタルビデオショップ(確かMilk House?)
昭和の終わり頃から平成の初めにかけて随分お世話になった
店の奥がアダルトコーナーだった
若い兄ちゃんが店長だったが年々白髪が目立つ様になった
今はどうしているのか >>547
白髪だらけになったか染めているか、はたまたハゲてしまったか…。
興味あるよねー。 あざみ野〜江田間の赤田隧道だっけ
あれどうやって取り除いたんだろう
電車の運行しばらく止めたのかな 東急のキュアホイップ・東急のキュアフローラ・東急のキュアハッピー・東急のキュアパッションこと8500系は
現在の熊のステッカーになる前の、「あぶない!!(改行)ドアーがひらくとき」のステッカーや
今では新京成でしかみられない、かつては東急や京王、京成、東武でも見ることの出来た
円形で黄色い指差しのステッカーも貼っていたんだな
キュアホイップ:キラキラプリキュアアラモードで美山加恋ちゃんがしゃべる宇佐美いちかが変身するキャラクター
キュアフローラ:GO!プリンセスプリキュアで、春野はるか(東急では新6000系(外観がE233系に似ている)に
見立てられている、キュアカスタードの声をしゃべっている有栖川ひまりの声をしゃべっている福原遥と間違えそう)が変身するキャラクター)
キュアハッピー:スマイルプリキュアで、星空みゆき(川崎市出身の、今から9年前になくなられた美少女戦士セーラームーンミュージカルでおなじみの神戸みゆきを思い出しそうな名前を思い出しそう)が変身するキャラクター
キュアパッション:フレッシュプリキュアで、東せつなが変身する、髪型はセーラーマーズ、髪飾りはセーラーちびムーン・スーパーセーラーちびムーンという組合わせのキャラクター ___ _
ヽo,´-'─ 、 ♪
r, "~~~~"ヽ
i. ,'ノレノレ!レ〉 ☆ 衆参の両院のそれぞれで、改憲議員が3分の2を超えております。☆
__ '!从.゚ ヮ゚ノル 総務省の、『憲法改正国民投票法』、でググって見てください。
ゝン〈(つY_i(つ いよいよ日本国憲法改正の、国民投票が実施されます。お願い致します。☆
`,.く,§_,_,ゝ,
~i_ンイノ 鷺沼駅付近、近所の人は2000年頃もまだ、(246の)旧道、新道という言い方をしてた。 >>557
「宮前郵便局前」のバス停も「有馬新道」だったしなー。 オレが小学生の頃の昭和47年、目蒲線にクーラー付きの7260編成が新車で入って、他は全部3000系だから正に虎の子。
久が原に住んでたから蒲田でいつも羨ましく見てた。たまに鵜の木まで乗って10分位余計に歩いて帰った事も有る。
今は上田電鉄沿線に住んでるんで、この時期7200のクーラー音聞くと小学生の夏の想い出が甦る。 >>559
上田ってまだ7200あったんだ
1000ばかりかと思った >>558
宮前郵便局そのものがなかったですからね。
あと、江田駅の西北側(山側)もひな壇の造成地のまんまが長く続いていましたねえ。 宮前郵便局が出来るまでは、LLビーンとかの海外通販も高津郵便局まで取りに行ってた。 小学生の頃に久が原の上りホームの長い木のベンチで板の隙間に切符差し込んで遊んでたら中に落っこっちゃった事あったなぁ、昭和40年代。しょうがないから親に買い直してもらった。
その後引っ越したが今もベンチあるんだっけ?、完全に密開されてたからまだ中にあったりして。 >>555
https://youtu.be/DdaJ9JTptio
こっちの動画の横浜駅自動放送が初耳で新鮮だった
この時代からあったんだな 地上時代の下丸子なんか、地方の駅みたいだったもんなあ。
駅前とか商店街に古ーいパチンコ屋があったりして。 >>570 下丸子(目蒲線→東急多摩川線)は今も地上駅だよ。
新丸子(東横線)と、ごっちゃにしてネ?
ホーム延伸前の代官山1号踏切脇にあった 森永ベーカリーの 初代5000系と自動車の運転士、手がドライブスルーみたいに買い物している絵?の面白い看板は何時で残っていたの? アートコーヒーは東横線の駅構内にあったコーヒー店だよ。 新丸子には多摩川の河原のほうに伸びる砂利取り線みたいのがあった
菊名や田園調布、祐天寺には荷電の停まる留置線もあった
碑文谷工場の跡地にゴルフの打ちっ放しが出来た Sustina組み込みの5176Fが出たとき、かつて、8000系に2両だけ軽量ステンの試作車(後の8090系のプロトタイプ)がはさまれた編成があったことをおもいだした。 平成の初め頃 東横線の武蔵小杉が、あんなに大化けするとは思わなかった。
東急の駅は、昔は只の上下1線ずつで待避線があるどころか、亘り線すらない普通の駅でたまたま、南武線
と交差するから乗換られる位の駅だったのに・・・。
これから将来 溝の口のように、あざみ野も乗降時間の兼ね合いで待避線が設けられて
多摩プラーザに対して駅格差で下克上を企てていく事を期待。 >>569
80年代〜90年代半ばの渋谷方面のおばさん声とは違うね
70年代にも自動放送あったんだな 日比谷線 直通電車が参ります
白線の内側でお待ちください
この電車は代官山、渋谷には参りませんのでご注意ください 懐かしいと云うより 大古のハナシだけど、戦前 開業まもない頃 部分開業した東横電鉄
(東横線 現 多摩川ー横浜?間 )のとき東横の電車も 多摩川 以北は目蒲電鉄に乗り
入れて目黒に行っていたらしいけど、それなら 多摩川ー田園調布間が両線並走になった
のは、、何時? 単純に東横線 渋谷延伸時に独立(多摩川ー田園調布間 も別に線路
敷設?)・・・・それなら もしかして 田園調布ー多摩川 間 が関東私鉄において
初の4線区間・・・それも戦前に(別路線なので複々線かの議論は別にして・・・)なの? >>589
おお、言われて見れば確かにその通りだ
Thank you 1984年か85年位か、当時最寄りだった久が原駅ホームの壁に手書きコピーでヨガ教室勧誘の紙が貼ってあってオッサンが裸で宙に浮かんでる(風の)写真があった
オレも写真やってたから、部屋を真っ暗にしてフラッシュ1発を何枚も撮ったんだろうなぁ、と思った 上田の丸窓 7255-7555
千葉県内で保存するんだって? 最後まで残った7901Fがついに引退か
31年前に大井町線で6連でデビューしたのは
忘れられない 7910Fは雨の中3460+3480を伴ってブレーキ引き替え改造で逗子へ入場回送されてたな
まだ本郷台でDE11 2000が折り返してた頃の話
然もヨ8000付き きっちり剃りこめば
381系みたいにスッキリするよ 今年は8月まで東横線開業90周年イヤーだった。
渋谷から横浜まで、開業当時からずっとこのままという区間は…
多分菊名から東白楽までなんだろうと思う(とは言え、手直しはしていると思うが)。
渋谷から代官山は移転改築。渋谷隧道は一部拡幅して代官山駅延長。中目黒は日比谷線乗入に合わせ改築。
祐天寺から都立大学は高架化。自由が丘駅も昭和40年代に改築し、田園調布は地下化。
多摩川から日吉までは複々線化。日吉から綱島は高架化。綱島駅も高架化。大倉山駅も昭和50年代末に改築。
菊名駅も改築(これで浸水被害無くなる)。東白楽から横浜までは地下化。横浜から桜木町までは廃止。 >>603追記
綱島から大倉山までの間の築堤区間は、線路を付け替えている。 目立つ構造物で言えば、鶴見川橋梁と菊名〜妙蓮寺間山側にある擁壁の一部が、
開業以来、大きく手を加えらずに現存していると言えるのではないだろうか。渋谷〜
代官山間にも擁壁が残っているが、線路自体が地下化され供用されていない。 物語の中で東急東横線と当時の東横線の主力車両だった9000系が出たアニメ「ミラクルガールズ」、
後にフレッシュプリキュアやスマイルプリキュア、ドキドキプリキュア、キラキラプリキュアアラモード、
HUGっとプリキュア、スタートゥインクルプリキュアの「お姉さん作品」である「愛天使伝説ウェディングピーチ」や
フレッシュプリキュアやドキドキプリキュア、GO!プリンセスプリキュアの「お姉さん作品」である「ナースエンジェルりりかSOS(「SOS」というとどうしても相鉄を連想してしまう)」のもとになるんだな 【告発者の名前と住所】
◎宇野壽倫 連絡先:東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸202号室
還暦無職・生活保護不正受給犯罪者の色川高志(東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室)はアルバイトをしていながらそのことを内緒にして申告をせずに
不正に生活保護を受給しています。「糞アリ貧乏人どもは一生死ぬまで汗水流してせっせと働いとればええんじゃい。おんどれら糞アリ貧乏人どもがちゃんと働かんかったら
ワシが遊んで暮らせんじゃろうが〜。ボケ〜。カス〜。アホンダラ〜。」が口癖で「金や金、金持うて来い〜。どアホ〜。」といつも大声で叫んでいるようなとんでもないクソ野郎です。
こんなクソ野郎の思い通りにさせてはいけません。みなさんどんどん匿名で役所や警察に密告してこのクソ野郎が遊んで暮らせないように人生の厳しさというものを徹底的に教え込んでやりましょう。
生活保護が受給されなくなった時点でこの犯罪者クソ野郎の場合は自殺するしか他に道がないでしょう。 こんな犯罪者クソ野郎をのさばらせていては世の中のためになりません。
このような犯罪者クソ野郎が存在していること自体正当に生活保護を受給している人の迷惑となるでしょう。
まずはこの犯罪者クソ野郎に渡ってしまった我々の大切なお金を取り戻しその上でみなさんの力でこの犯罪者クソ野郎を自殺へと追い込みましょう。
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色川高志 (あいかわ たかし)
〒125−0062
東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室
【色川高志という人物も生活保護受給者でありながら申告せずに内緒でネットストーカーなどのアルバイトを
している生活保護不正受給犯罪者です】
【通報先】
◎葛飾区福祉事務所(西生活課)
〒124−8555
東京都葛飾区立石5−13−1
рO3−3695−1111 緑色に塗られた箱根登山鉄道の旧型
3450っぽい雰囲気が出てて懐かしかった。 https://youtu.be/TiIr2qiitk0
旧二子玉川園駅とか併用二子橋のカラー映像
なんで7000は幕を使ってないんだろ 東横線から持ってきたばっかりで
溝の口幕が無かったとか?
長津田開業直前みたいだし 台湾国鉄の公式?なぜだ
JRその他も昔の貴重映像出してくんないかな このアカウント凄いな
画質の悪さはともかくあらゆるストックが凄い
小田急で試運転する7000
https://youtu.be/qldGwpZAsp4 あるブログでは「台湾の人がオークションに出ていたフィルムを落札して手に入れたのではないか?」と推察されていた >>623
13:43頃に移っているのが慶応の校舎と思うので、たぶん日吉(近辺)。
なので、おそらく田園都市線ではない。 6000が2連で走ってるのは新車の試運転だからかね 電車大百科みたいな小学生の鉄の入門書には、3850は海坊主と呼ばれてる、との紹介だった
…一度も聞いたことがない 最後の幕車なんだってね
レア行き先はもう見られないのか >>570
子供のころ御嶽山に住んでいたんだけど、親に下丸子や沼部の方に行ってはいけませんと言われてた。なんでだろ? 東京急行といえば、あの石井丸ゴシック体を用いた上品な駅名標のイメージがある 若い頃、宮崎台駅の近くに住んでた俺の父親はいまだに田園都市線は大井町までで、渋谷へ行くには二子玉川園で新玉川線に乗り換えが必要だと思ってた
この40数年で色々と色々と変化してる 二子玉川の略称がフタコかニコタマかで論争したのも今は昔 >>623-624
紛れもなく日吉
旧駅舎が懐かしい
その直前に写っていたのは箕輪町の築堤?
だとしたらちょうど13:21が現在の東急新横浜線トンネル入り口あたり 懐かし世代的に日本で最長の駅名といえば岩原スキー場前とか尼崎センタープール前なんだけど
時代が下って南町田がそれらを抜いちゃうとは思わなかったな 自由が丘を「がおか」
三軒茶屋を「さんちゃ」
略するとかえってモッサリする例 仕事で横浜行くとき
渋谷で、8000系の急行と
9000系の普通が止まっていたら
迷わず普通に乗ったなぁ
東日本初のインバータ車の衝撃 >>650
逆じゃね?
9000と8590が急行で8000が各停 >>645
もともと「三軒茶屋」って地名そのものが
先入観ナシでみれば、江戸とかそういう前時代的な感じで
垢抜けていないわな。 道玄坂に109ができたのは79年4月28日
その翌年からの10年間の素晴らしい時代をもう一度…
渋谷区栄光の80年代を語れ!
http://pug.5ch.net/test/read.cgi/tokyo/1659715329/ ネーミングでいうなら「田園都市線」と呼ぶのには勇気が要った そうか?
まだ開発が進んでない原っぱや林が田園のイメージと合わないかな 1963(昭和38)年の線名改称当時は大井町~溝の口間のみで、新線区間も未開通の状態でいきなり大井町線→田園都市線と言われてもイメージわかなかったんじゃないかな。 >>651
8000が急行に入ると祭り
8090,8500は急行専業
9000はオールラウンダー 3600の急行は見た事はなかった、晩年は5両だったが6両運用もあったらしい。 東横は旧6000急行とか7200冷房車McTc×4の急行とかもあった 子供の国専用カラー、旧型をゴテゴテけばけば塗って、内装もピンクだった 悠仁君に続いて佳子ちゃんもコロナ感染
都内ではコロナ流行中
電車内はマスク着用必須
マスクしてない人が 高齢者が多い優先席近辺に近づくのは犯罪だと思う 悠仁君に続いて佳子ちゃんもコロナ感染
都内ではコロナ流行中
電車内はマスク着用必須
マスクしてない人が 高齢者が多い優先席近辺に近づくのは犯罪だと思う こどもの国線は7200系に代わってからケバケバカラーは無くなった 長津田駅の地下道に動物とかの絵が描いてあった
その地下道も今は職員用に通路を狭めて残してあるようだ
絵はどうなったかな >>671
アルミだから色を塗るわけにはいかんかったのだろう >>666 派手ではあるが、京王動物園線で走っていたアイボリーホワイトに赤帯巻いた220系ほどの違和感を感じない。こっちの方が旧型車にあまり似合わない塗装の感じがある。途中駅なしのシャトル運用では似たようなもの。 おとこの国線だったら? かつては田奈弾薬庫への貨物線だったから、ほとんど男性職員しかいなかったんだろうけど。 多摩川駅は今も昔も列車こそ沢山来るもののホームも改札も閑散としていてなんとなく『東京の備後落合』といった趣き 田園調布から新丸子の区間は熱海から三島・大垣から米原・相生から岡山などの様な如何にも『境界』という雰囲気が不思議と有る
同じく東京と神奈川を跨ぐ田園都市線、小田急、京急、京浜東北線にはそんな雰囲気の区間はない >>684
確かに田園調布・多摩川(園)は函南・近江長岡・上郡・入野などの境界区間にある駅に似た雰囲気がある
新丸子はそうでもない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています