懐かしの京阪大津(京津石山坂本)線を語ろうぜ
懐かしの京阪大津線区(京津と石山坂本)を語ろうぜ。 >>209
たしか260の2次車だと思う(両開きでシル付のグループ)
あの窓はベンチレーターみたいに下部を押して開けるようだね
GM切妻商店の小林画伯ボックスアートではそうなってたよ >>222
こいつの特急色がいたけどなんで特急が走ってないのに
特急色がいたの? >>224
京津線内の急行に使っていたから
浜大津駅が今の建物になり、
急行が廃止されて準急になった頃に、
京阪標準色に徐々に塗装が変わりました。 >>225
そうだったのか
急行だけど色だけ特急色だったのか
枚方民だけど小さかったころ親戚の家が膳所にあるのでよく京津線で行ってた
昔の浜大津駅が思い出せないなあ 1970年代末期までは、京津線・準急に使われる車両が特急色で、石山坂本線を往復する車両が一般色
・・・と運用はほぼ固定されていた記憶なんだが、実はそんな決まりはなくて混用されていた? 国鉄膳所、京阪膳所
3線 蒸気機関車が浜大津まで走っていた 今の市民会館前の踏切北あたりで
京阪線路から分岐
江若へ接続 昔の京阪の浜大津は今の駅と、北側の京都方面駅と分かれていた なによりもポール集電がすごい
車掌が後部窓開けて架線にw 昭和56年の記憶では石坂線は一般色に混じって特急色も走っていた
形式は覚えていない
当時の最新鋭500形は石坂線には来なかったと思う 大津市民には山吹と赤のツートーンカラーが特急色という認識ないのよね >>236
500形
最初は表示幕と表示板を併用してた
幕は行き先よりも種別を大書きしていた 三 四
条 宮
80の行き先表示板はシンプルでカッコよかった 最末期、三条側で260形一族に乗りたかった。
面長でペッタンコ顔の車両
三条へはラッシュ時にしか顔を出さなかったんだっけ?
それとも全く運用なかったの?
さすがに最終日は出てたみたいだね。 >>242
末期は冷房車優先で600/700しか運用されていませんでしたよ
廃止直前の二週間くらいは装飾された261+262が運用され
京津三条発浜大津行き最終便に充当 どうも
言っても詮ないけど、乗りたかったね。
当時はネットも無かったし、廃止後のニュースで出てるのを知ったので。 よく考えたら261+262は激込みの最終便でしか乗らなかったですね
ラスト1ヶ月は京津三条〜四宮間の定期券を購入して廃止区間を
乗りまくっていたはずなのにもったいないことした(笑)
片開きドア、連結部元運転台、非冷房で窓全開など今思い出しても
魅力的な電車でした >>239
それは行先表示板でもそうだよ
円形に「準急」が大文字、その傍らに小さく「三条」 車体の色でも準急か各停か見分けがついたような気がします 一時期、京津線も本線も一般色と特急色だけだったのになんで80形だけはオリジナル塗装を維持したんだろ?
一般色や特急色と比べても手間がかかりそうな塗分けだったのに 低床車を区別する意味合いだろうな
低床ホームで待ってみるとわかる 80は軽快な印象だったのに冷房装置搭載でヘビー級に大変身 屋根上に載ってただけだから大して気にならない
それより涼しくなってくれたからその方が嬉しかった 本当は冷房化したくなかったけど地下鉄工事が遅れていたから
なくなく改造したかと
でもやると決めたら徹底的に改造するところが京阪らしい
JR東日本のAU712みたいな簡易冷房じゃなくてよかった 原形時代を知らない俺が言うのもなんだが、
80は非冷房時代に原形を大きく崩していた
前面中央窓の下辺を上げた時点で×
なので、冷房化の時点では原形どうこうよりも
素直に嬉しかった
地下鉄化まであの暖房車が居座ると思ってたからなぁ ポール時代の原形顔は
いかにも60年代スタイリッシュで良い。
特に初期のライトグレーHゴム時代 93-94は運転台撤去と片運仕様の両方を比較することができた 80の準急運用もたまにあった
ドア横に「準急」のサボを入れていたような 如何にもチンチン電車然とした20,50,70の入れ替わりに80が
デビューした時は、さぞ輝いて見えたろうな 初めて2両編成の80形に乗った時、貫通路脇に「走行中は通り抜けないで下さい」みたいな注意書きがあって驚いた
京阪本線や国鉄の貫通路と比べると狭いしカーブも多かったから確かに危なかったんだろうな 600は増備ごとにマイナーチェンジしていて、登場時に違いを探すのが楽しかった
前面窓、連結面、保護棒の有無など
700は全体的に同一形状だったので面白味に欠けていた 穴太〜坂本間は単線だった
戦争時に金属供出のため
複線化工事が行なわれた時、日本は平和だなぁと改めて思った
ちなみにこれで京阪電鉄完全複線(一部複々線)化達成 >>263
素でわからないので
もう少し詳しく教えてください >>272
三条広道から神宮道にかけての曲線と下り勾配? >>273
九条山前後の専用軌道ですよ
今から急勾配を下っていくから速度と圧力を確認していた
どんなに遅れていてもこの区間の制限30は徹底していた
逆に最高速チャレンジは御陵→京阪山科だったかな
JRをくぐる制限30まで可能な限り加速していた 併用軌道から三条の構内に入る曲線はカントが付けられなくて制限15だったな。 80型の運転台は開放的だったから運転操作をよく観察出来た
加減速もハンドルさばきと連動していたから面白かった
今の800系はパワーがあるので加減速はもっとスムーズだけど
運転席の様子が分かりにくいので残念 >>275の補足
三条通の併用軌道から駅構内への曲線が制限20、分岐器通過の制限が15。
三条京阪前交差点から駅に進入する際の運転士の確認歓呼が「交通進行、制限20、場内警戒、○番線」だったと記憶している。
専用軌道に入って分岐制限が15。
場内信号は停止と警戒しか現示しないのに、Gを塞いでない四灯式で進路灯が付いていた。 80型で元運転台の小窓は全開こそしないものの
手前に窓枠を引いて下げるタイプで好きだった
冷房改造されてもそのまま残っていましたっけ? 三条通を梵鐘音を真似た警笛を鳴らして走る80系が懐かしい この先カーブが続き電車が揺れますので、お近くの吊革手すりをお持ちください。 運転士「交通停止。」
車掌「信号待ちです。しばらくお待ち下さい。」 ラッシュ時の蹴上駅
「乗車券は運転士・車掌または駅係員にお渡しください」 「次は京阪山科、山科です。国鉄線、京阪バス醍醐・六地蔵方面はお乗り換えです。」 90年代、何度か名古屋から在来線乗継で京都・大阪方面へ
石山〜膳所付近で大津線の電車を見て、関西突入を実感した想い出 京阪三条〜御陵間が廃止される直前
京阪三条〜四宮間の定期券を購入し、ちょっとでも時間があれば乗りに行っていた 三条を出てすぐに車窓から見えたもの。
だん王
篠田屋
イエローカメラ
洋服の病院
反対側は
いつまでも立ち退かない売店
肉のキヨタ
いろは旅館
伏見 >>283
あれって梵鐘イメージの音色だったのか。
自分はそもそも大阪地下鉄民なのと
(ガオガオ〜って似たような電笛を先に知っていた)、
80型ちゃんと電車らしい空笛あるのに
なかなか鳴らしてくれないので
あの電笛、あまり好きではなかったな。
たしか
ペダルを深く踏んだら空笛、
浅いと電笛が鳴る仕組みだったんだっけ?
間違ってたら指摘おくれ そうそう、普段は「ボーン」なんだけど
自動車などが軌道内に進入したら
「プワーン!!」と怒りを表現していた >>296
それそれ
ところで不細工な70型って
高床車といえ完全に路面電車タイプだけど
フートゴングは付いてたの?
昔であれば、80型の電笛は
フートゴング相当の使われ方なもんで。 ○
○
○
九条山から日ノ岡方面へ向けてカーブの途中にあった中継信号機、いつ見ても制限信号だった 踏切が作動してない時は右上と左下の2つだけ点灯していて、
作動すると全部点灯するんだっけ?
南海も同じ方式だが背面板が京阪は正方形、南海は円形と違いがある そう
踏切のそれは民鉄では義務付けられている
(今現在は知らんが)
丸ランプ5つタイプだけでなく
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↑タイプもあるな。 >>300
いや、南海の場合のそれは1990年頃まで。
現在は、鳴動してない時は消灯、警報機が鳴動して2灯点灯、遮断機が降下して全灯点灯、に変更された。
一説によると電気代節約のために消灯するようにしたとか。 \/
/\
↑
これって踏切の遮断棹を可視化したものだったのか!
踏切が閉まったのに✕なのはなんでだろう?と勘違いしていた マイナーな設備だけと、専用軌道と併用軌道の境目に閉そく区間終了か終端か何かの標識があったな。
御陵とか九条山と日ノ岡の間とか蹴上の浜大津寄りとかで見た。 >>298 300 301
踏切動作表示灯は、黒い円盤の中央に白色灯が点滅するデザインのものが昭和55年前後には使われていた
本線では絶滅したが京津線には僅かに残っているはず 地下鉄化で、九条山にも
北陸本線の筒石駅みたいな超地下駅が出来るかと密かに期待していたのだけど 水色の800系も思い出の彼方になってしまった
琵琶湖をイメージした選定だったはずなのに 近江電鉄のあかね号とともに水色系は涼しげで良かったですね 今の塗装は、そもそも本線系であっても暑苦しい
濃い色が上部に来てて圧迫感あるし
旧塗装に戻してほしい