●画期的と不運の63系・72系・73系●2両目
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戦時体制下の輸送力増強を目的に開発された電車であるが、
21世紀の現在に至るまでの旧国鉄からJRを始め、
大手私鉄でラッシュ輸送に広く用いられている「全長20m、片側4扉」
通勤輸送向け大型車体を本格採用した最初の電車として、
日本の鉄道史上画期的な存在であるにも関わらず登場の経緯から、
極めて粗悪かつ不完全な設計であり多くの犠牲者を生じさせた、
桜木町事故では設計の欠陥が被害を拡大させた63系。
「皆殺し電車」「殺人電車」「ロクでなし電車」とも揶揄された。
1951年以降安全対策・体質改善工事を実施して改称したグループ、
及び戦前製20m級2扉車(32系、42系)の4扉化改造車を含む、
72系電車(新製車)を含む63系改造編入車の72系73系を語るスレです。 >>465
ハチロクやキューロクみたいにモハ72 1970からはじまるとか。。。 >>464
クモユニ74・82、クモニ83等はモハ72・クモハ73からの改造で、足回りは旧車流用だから、実質72系と言えますね。 >>465
モハ72970番台の相方はクハ79600番台だったから
(当初企画段階では500番台で検討、当時クハは489〜899まで欠番)
本来なら900番台は試作車向けの番号区分だから一般車用でもないし
モハ72だと719〜849まで欠番なので720番台とかじゃないの? そもそも国鉄の形式称号規程上直流旧性能車(旧国)に
記号番号に6桁表示やハイフンなど使えないことを理解してないのかね?
1959年の形式称号規程改正で旧国は5桁で収めるルールもあるし
ちなみに1953年の改正で国電は以下の様に整理されている
雑形・社形:1000-9999
17m級:10000-29999 ※1959改正では阪和形を編入(国鉄制式扱い)
20m級:30000-99999 ※1959改正では新性能などを除外 >>469
>そもそも国鉄の形式称号規程上直流旧性能車(旧国)に
記号番号に6桁表示やハイフンなど使えないことを理解してないのかね?
どうせ改正するなら5桁で収めるなんて変なルールやこだわりを無くしてしまって客車や気動車みたいな表記にすりゃ良かったやん
何でこう電車だけ特別扱いしたがる理由が分からん
そもそも旧国は末尾が0始まり(試作モハ90もそうだったな)だったり1始まりと一定してない >>469
クモユニ74とクモハユ74は重複形式であって、本来使えないことを理解してないのかね?
モハ72970台は、全金属車の意味が900番台には持たせていたので、そこに番号を設定した意味もある。
試作車の要素があるとして、72970号はわかるが、その後仙石線に10輌も試作を重ねるか?
実際問題として、武蔵野線用に改造されていたら、必然的に72999まで行ってしまい、オーバーフローは
目に見えているので、おそらく暖地向けとしてモハ72750〜にしてしのいだと思われるが、
クハは79700〜になったかもしれない。武蔵野線は6連なのでサハ78形も登場すると思うが、
サハ78600〜か。62系に房総増結用としてクモハが登場した場合の形式がどうなったかも気になるな。 バリアフリー対応もなされてない電車が何か?
235系は確かに急増乱造窓も開かないバラック電車だが、固いとはいえ長椅子は申し訳程度にあるし、座席のない事実上の車椅子スペースもあるぞ 私達ロートル世代には日本の復興に寄与した頼りになる電車だよ。
若い連中に理解するのは無理だな。 >>457
ブレーキの違いといえば、飯田線に紛れ込んだサハ87001やクモニ83101〜3は個別に改造されたのかな?
あと、阪和線の70系末期に中間にモハ72系を2両挟んだのは(実に見苦しかったが)どうやって対応したんだろ?
ご存知の方おられますか? >>474
AREとAEは、当然にして下位互換はあるでしょ。なので、房総線で80系臨時準急に
モハ72を混結しても問題無かったわけだろうし。
結局混結の場合は、AEブレーキ動作になるだけで、AREの機能が使えなくなるだけでは。
クハ153を先頭にすると、中間のクモハ165等の抑速ブレーキが使えないのと同じでは。 ARE装備車は、それだけで編成を組めば、13両以上の編成が組める。ただ、現実として旧国で13両以上の編成は、80系(サハ75含む)もしくは新性能と組んだクモユニ74・82、クモニ83以外に例はない。72系は、昭和27/1952年以降の新クハ79、モハ72では全検回帰が基本3年と70・80系と同等に伸びたが、ARE式の採用はなく、対応するのは新性能や80系などとの連結を考慮したクモユニ74・82、クモニ83や、一部の事業用など、改造車のみである。 >>475・476
ご教示ありがとうございました。長年の疑問がとけました クモ(ユ)ニはかなり高速走行させられたので
足回りが厳しかったのではないのかと思った。 戦時設計車の旧63の箱の部分はともかく、このグループ重量がかさんでも
言われる程ボロでもなく下回りはいわゆる昔の電車でガッチリしてたんじゃないか
それなりに使い尽くした感じだし >>479 台車の一部に代用材使ったり、制御機器を一部省略するなど、安全性を低下させかねないようなことが行われていましたが 戦時設計の63が持ったのは、桜木町事件もあって欠陥部分の改修を緊急に進め、物資がだんだん出回ってくるにつれて足回り含めて、まともな品質の部品に交換していったからなんだろうなあ。 >>478
高速走行って、基本的に相手が新性能でも111・113・115・153・165系などで普通電車だから、72系の最高95km/hに対してせいぜい通常は100km/hどまりの運転しかしてないよ。
DT13は決して高速特性にはすぐれていなかったから、相当揺れたはずで、乗ってた職員は大変だったかも。 昭和58 59年高校通学でギリギリ東武7300系に
間に合ったが乗っていても大して7800系と
違わなかったな。その7300系だが
昭和21年 新製 東武鉄道に配属
28年 車齢 7年 桜木町事故を受けて改修
35年 14年 車体老朽化激しく7800系と同等の
ものに更新
59年 38年 廃車
それから更に38年経ってしまった。
同じ38年で今と昭和59年はそれほど変わらないが、昭和59年と昭和21年とでは天と地程の差があるだろう。 >>482
実際に走行中は、あの吊掛音が甲高くなって「悲鳴」に聞こえましたね。 急行だとアルプスしか知らないがあれは短距離夜行だったから最高速度100km/hで十分だったかと 高性能車と低性能車が混血すると、低性能車に合わせるんでないかい。 >>444
確かに、車両によって大きく異なるからわかりますね
クハ79はその最たるもの
戦中の剛体改造車
戦後のモハ63(サモハやクモハ)
その後増備された300〜(それも年度によって異なる)
920〜
さらに、戦前車の4ドア化
600からのアコモ改造車
とても同じクハ79とするにはあまりにも無謀としか言いようがないほど
4ドアのTC車を全部クハ79にした、のでしょう 73系の足回りでJRに営業用で承継されたのがクモハ84だけだな
JR西にクモニ83が承継されてこれを旅客用にした
旧型国電全体でみても他にクモハ12やクモハ42とか非常にレア >>489
一つには旧形国電全体の「形式数字の払底」という問題があったのだろうと。
あの2桁の数字で形式を表すのは、それなりに合理的で私鉄だったら十分と思えるが・・・
戦前形の4ドア化はクハ85形だったり、クモハ31はモハ64形だったりしたわけだけど、
その調子でやってると早晩破綻するので、系列が違うはずのクハ58をクハ47に入れたり、
クハ85はクハ79に入れたりいろいろつじつま合わせが行われてる。
戦後早い時期に3桁形式にしていればよかったのだろうけど、大改番は避けられず・・・ >>491
旧国だけあるいは新性能車が出かけた頃、現場で電車の番号を5桁で呼んでいたのも理由かな、
旧国大改番の頃はまだ、モハ72532ならモハ+72532的な感じで扱っていたとか(星晃氏のなんかの文章より)
細かいことが不明ですまん 初めて関西に行ったとき、阪和線や片町線でオレンジのモハ72を見た。
首都圏だと茶色ばかりだったので、とても新鮮に思えた。
それから暫く立った頃、常磐線我孫子でなんとオレンジのモハ72に遭遇した。
成田線運用のモハ72で、天オトから転属してきた車両だった。
あのときの感激は何十年たっても忘れることが出来ない。 >>493
自分も、阪和線の末期で初めてオレンジ色の旧型国電を見て乗った時は、
新鮮というか違和感というか、なにか違う感触をもっていました
しかも70系との併結まであり
中央東線の場合と異なり、塗装が異なる混色でしたから 小田急のモハ63は黄色だったの?
あと国鉄番号が割り振られれたみたいだけど
私鉄に行ったあとは国鉄側では永久欠番に
なってたんだよね? >>495
小田急(後の1800形)は茶色。当時の小田急の一般車両と同じ。
ちなみに、車体更新(全金属化)後もしばらくは茶色一色だった。 >>495>>496
小田急に入線したモハ63は、当然割当時は省と同じ色。形式車号も書かれていた。
のちに少し色味が変わったらしいが、具体的にどう変わったのかはわからん。
私鉄割当車の番号は、その後省向けに同番号が製造されたものが多いようだが、
省向けの63500番台との整合が取れたのかは確認してない。
小田急1800は更新後も全金属車には実はなってない。内装に木が使われている。 サンキュー
私鉄高速電車発達史(1) 鉄道ピクトリアル
アーカイブス という本の表紙が、黄色の
63型通風窓付きで海老名行きとあるんだけど
何なのだろう? ごめん 相鉄だった。馴染みが薄くてピンと来なかった。結構ショッキングな黄色だ。首都圏の
国鉄は山手京浜東北総武常盤中央とも何でみんな茶色だったのかなあ? むしろ相鉄の可能性しか無いんじゃね
小田急1800形の車体更新って1957年と1958年でしょ?
それ以前に海老名行なんて無かったんじゃないか?
相鉄の黄色ってモヤのあれでしょ? >>498
相鉄の3000系。モハ3003を先頭とする4連だが、2輌目はクハ2500形(17m車)、3輌目は旧塗装の3000系モハ、
4輌目は黄色のクハ3500形。
モハ3003は旧小田急初代デハ1808。
このカット、比較的珍しいのは2輌目に2000系のクハが入っていること。省モハ31系の復旧車の模様。 山陽名物の広軌ロクサンが廃車後東二見で長い間留置されてたから、
てっきり保存されると思ってた。淡緑色で赤錆も目立ってたけど、
近くに復元した206号もあったから期待してたのに解体されて残念だ。 ありがとうございます。
17m車はWikiのこれですね。
31066(事故) - 相模鉄道モハ1304 → モハ2007 → 伊豆箱根鉄道モハ164
東武や西武にも戦災復興31系が入ってたみたいだけど20mと併結してバランスが悪くなかったのかな? 東武は20m車は20m同士で組んでいた記憶
63+戦災復旧20m車の2連てのもあった 小田急1800といえば、自分には白地に青帯の「小田急カラー」で、
秩父に行って「黄色に茶帯」がやたらと不自然に見えたものです。
そしてそれが101系に置き換えられた、というのが、なにやら因縁めいたものを感じたものです 寂寥落莫たる北武州大平原を疾駆疾走する秩父鉄道東武鉄道兄弟には土稲藁模様の鶉や雲雀の
様な燻んだ地味目の色が似合うのであります。
かつて旧63型のモハ7317+クハ314に戯れた我ら足立区民には、北千住にて邂逅する白に青線のスマートな小田急車輌やバット社製ディスクブレーキ付き台車を履いた輝けるステンレスボデーの東急7000系は東京西部の洗練された山手を思わせる羨望憧憬の的でありました。 >>506
たしかに秩父カラーは浮いていたな
なんで秩父はこの形式を買おうとしたんだろ
他社にも手頃な中古車はあっただろう >>508 東急5000、車齢は新しいし軽量で性能もよいが、直角カルダンの整備が面倒だったからでは?
西武451も考えられるが制御機器等が古臭い。それよりは小田急1800の方がマシだったからでは?
あと、タイミングの問題。東急5000の場合、引き取り希望先が多く競争に負けたのが原因かも。 黄色は変だったけど、登場時100系とお揃いのシックな秩父カラーは悪くなかった。
年増の厚化粧とか言われるが、子供の頃小田急1700,1800,1900の
末期の白色結構好きだった >>508
浦山口駅のカーブがきつくて、3ドア車だと両端ドア締め切りにした時、中央のドアしか出入り出来ないが、
20m4ドア車なら2カ所ドアが使えるからだったような。あと列車無線が欲しかったというのも理由かも。 他の旧国も同様だったが、73系も末期は3段窓が硬くて開けようとしても開けられなかたった。
もちろん全部の窓が開かないわけではないが、そこそこ開かない窓があった。
これじゃ火災の時逃げられないなぁ、と思いながらこういう個所を区では修繕しないのか疑問に
思ったよ。 >>512 窓から逃げるのって最終手段だろ。その前にドアを開放させて降ろすか、貫通路通って隣の車両に移動させる。桜木町事故当時のロクサンは火災防止対策では欠陥だらけだったが、三段窓以外にも非常用ドアコックの設置場所が乗務員にもわからない構造、貫通路が施錠されていて隣の車両に逃げ込めなくなっていたこともある。 桜木町事故はデッドアースつまり絶縁不良の
地絡による自然発火だったみたいだな。小田急の元ウテシによると小田急に配給された63も燃えたらしい。
ただウテシカレチの機転で直ちにドア解放したから死傷者出なかった、と >>514
えっ、「配線工が誤って落とした工具によって切断された架線がパンタに巻き付いて
火災発生」では無くて自然発火だったのですか・・・? >>514
小田急1800の焼損車は確認されていない。フカされたんじゃないのか? 小田急が1700形特急車のタネ車にするため購入したモハ63082とモハ63168が
全焼焼損車であり、一時経堂車庫に置かれていたので、それを見て勘違いしたのでは。
両車ともその後サハ1751、1752になったが、隅柱に曲線が設けられていたので、
元車体は台枠を残して一度解体して柱を立て直したものと思われる。 いや小田急車掌してた人が本に書いてる。
乗客乗せた状態でデッドアースで火災起こしたが、ウテシの機転で乗客全員降ろして事なきをえた、と。車両も比較的初期消火に成功したんじゃないかな?
桜木町事故のは現場の人の国会招致の記録が
残ってるけれど、最初から我々自ら保線作業員
のミスが原因ですって言っていてなんかおかしい。 貫通扉無しで窓は格子付き、コック無しとか凄いね
インド辺りの客車も乗りたくないわ >>520
等級が上だと、エアコン付き固定窓で鉄格子はないけど、三等はその通り。
3人掛けで木の座席、もちろん扇風機のみ。長距離移動はきつかった。 >>520 インドの通勤電車ってドアなしじゃなかったっけ?ドアから乗客がはみ出ていて >>522
乗客が多すぎてドアを閉められないだけ
ドア自体はちゃんとある エアコン完備の列車は窓が開かないから鉄格子つかないと思う 先日大宮の鉄博行ったら73系の3段窓とシートが展示されていた。
以前行った時は気付かなかったので嬉しかったが、肝心の窓は固定されていて開けられなかったよ。 リニア鉄道館のモハ63
三段窓の中段は固定されているのだろうか
たまにネットで車内公開の報告があるが
窓までは触らせてくれなかったみたいだし >>528
貴重な産業遺産だからな。
安易に触らせない方が良い。 メトロ銀座線なんか昔のリバイバル風なんだから、JRも窓に三段窓をラッピングした
63ふうの車両を出せばよい >>530
裾絞りの無い形式で運転席側4分の1だけでも良いからぜひやって欲しいw
三鷹と桜木町へは入線禁止で。 クモハ73とかクハ79、バリアフリーの観点からは申し分ないんだけどね
車内に段差が無い、とか 三段窓はやっぱり怖い
何かあったときの事を想像してしまう 開閉可能に改造された三段窓中段だけど、末期の御殿場線に居たサハ78は錆か塵が固着して容易に開かなかったよ。 >>537
無賃乗車をシャットアウトするためだとか聞いたことあるけど
事故の時を考えると恐ろしい。 頑丈そうに見えても実は資材不足で恐ろしく薄っぺらい外板だったと後で聞いて驚いた。。。 >>540
誰から聞いたかしらないけれど、確かに当初の車輌は外板厚1.6ミリ。でも増備途中から
元の2.3ミリに戻してるよ。
63系で問題だったのは、ひずみ取りしてない外板よりも、台枠の溶接部および全体の強度不足。
垂下してしまうものが結構あり、東武などでも問題になったので、各社更新時に
台枠は補強している。 ミリ単位で薄くしても節約効果は微々たるものだったんでしょ
それと引き替えに強度を犠牲にしたのではおかしい >>543
外も車内もギンギラギンで、それはそれは当時としては美しかったらしい。
配置区の蒲田区もラッシュ時を避けて壊されないように大事に使ったようだ。
蛍光灯も採用されていた。 >>544
不夜城のようだったと何かに書いてあった 先日同和片上鉄道の吉ヶ原駅に行ったら以前置いてあったクモハ73 383の前頭部が撤去されていた。
噂では四国に行ったらしいがどなたか詳細ご存知の方いませんか?
あとこの車両は車輌後部の妻部も広島?で保管されていたはずだが、そちらは解体されて存在しないのでしょうか・・・? 何はともあれ今の山手線の車両もモハ63形が基本だからね >>547
E235の先頭車を見ていると、だんだん首都圏ローカル電車がモハ63形に回帰しているような気がする。
クハ79系後期からE233系にかけての徐々に洗練されていったデザインが、209系以降徐々にのっぺりに
なってきて、E235系ではついに直線的な面構えに戻ってしまった。 >>548
戦前最後の半流ノーシルヘッダー張り上げ屋根が頂点で
ロクサン以後は大量輸送に追われながらも少しずつカッコよく、という感じだったが
もう今のは人を運ぶ機械でしかないよな 最高峰はMC73902とTC79904だな。
後年の近代化改造車や全金量産車より洒落ている。 >>550
窓がガチャガチャの73更新車は勿論、79920よりもガラスが大きくサンが細いので
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