●画期的と不運の63系・72系・73系●2両目
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戦時体制下の輸送力増強を目的に開発された電車であるが、
21世紀の現在に至るまでの旧国鉄からJRを始め、
大手私鉄でラッシュ輸送に広く用いられている「全長20m、片側4扉」
通勤輸送向け大型車体を本格採用した最初の電車として、
日本の鉄道史上画期的な存在であるにも関わらず登場の経緯から、
極めて粗悪かつ不完全な設計であり多くの犠牲者を生じさせた、
桜木町事故では設計の欠陥が被害を拡大させた63系。
「皆殺し電車」「殺人電車」「ロクでなし電車」とも揶揄された。
1951年以降安全対策・体質改善工事を実施して改称したグループ、
及び戦前製20m級2扉車(32系、42系)の4扉化改造車を含む、
72系電車(新製車)を含む63系改造編入車の72系73系を語るスレです。 身延線の62系はなんで正面の塗り分けを113系のようにしたんだろう?
使用線区を考えれば115系のそれが妥当に思えるけど。 新京阪に63入ってたら阪急は20m4扉になってたのかと思うが、神宝線はちょっと路線改良しても無理かもな。 >>44
そういやガイシュツかも知れんが、62系(2代目)はなぜ72系970代のように新性能化しなかったのだろう
近郊型ならむしろ通勤型よりも需要あったはず、というか115系化して引き続き身延線配置という手もあったんでないかな >>49-50
103系3000代のように機器配置の変更で対応できないのか、あるいは台枠新製とか、
と思ったものの、赤字に喘いでいた国鉄がやらなかったということは、やはりコスト高
なんでしょうかねえ 車体(文字通りガワ)だけ残して台枠交換って聞いたことないよな。
車体の丈夫な戦前型ならともかく、軽量構造の車体の電車だと台枠から剥がした時点でフレームの無い自動車の屋根切みたいに曲がるんじゃないかな?
それに62系(二代目)って種車の台枠の関係で車体の絞りが、裾まで亘ってないから車体も微妙に違うしなあ〜。 63形以降の電車は、資材不足を別問題としても、軽量化等を考慮して、台枠強度も弱くなったから、アコモ改造などを機に、完全な新製ではなくても、バラしたり組み替えたり程度は、当たり前にあったのではなかろうか?
昭和25(1950)年2月の80系一次車の試運転中に火災事故に遭った86017・80027も、台枠は純粋な新調ではないが、完全に組み直した。
西武鉄道で、旧型車を新性能冷房車化した401系の中に、戦前の17m車の流れを汲むという車両が若干数あったが、もちろん元の魚腹台枠を継承などしていないし、車体は完全に西武による戦後新製で、つまり単に車籍を受け継いだだけのものだった。
このように、(床下構造に相違があるから仕方ないのだが…)頑丈な魚腹台枠さえも、どこかで没になったりしているのだ。 鋼体化クハ79って台枠は新製ですよね?竣工事の写真を見ると台車は流用のようですが
普通に考えてモハ10の台枠延長して20m4扉の車体を作ることはやっぱり無理がありますよねえ >>53
>西武鉄道で、旧型車を新性能冷房車化した401系の中に、戦前の17m車の流れを汲むという車両が若干数あったが、
そんなもの存在しないが。
クハ1411と勘違いしていない? >>55 種車411系の更に前歴とかじゃね?
て・・・まあ 流れ(共通した設計思想とか云う主旨)からは、国語解釈を間違えていると思うけど・・・。 >>54
どこまで元の部材を使ったかは神のみぞ知る領域ですが
側梁の薄さは元の部材の寸法に由来しているでしょうね。 まさか旧401と混同してるのか?
新性能化した401系は旧411系
他に451系や571系とか601系が中間車と制御車でバラされたりとややこしい改造があったな >>57
裾の下がった車端部台枠で新製車との違いがわかることで有名だったろ
作り方自体は戦後の60系鋼体化客車同様の総バラシ、補助材挿入での延長拡幅だったと考えるのが妥当 8両中最初の(竣工順?)3両は種車の台枠延長利用、あとは新製したとの話が伝わっている。
とすれば、可部線79004は流用台枠か。 お年玉
神領72・79形 左より車号・前配置・回着・配属
72532松戸 46.03.30 46.10.01
72570松戸 46.07.01 46.10.01
72616松戸 46.03.30 46.10.01
72618松戸 46.03.30 46.10.01
72635松戸 46.07.01 46.10.01
72653松戸 46.07.01 46.10.01
72659松戸 46.07.03 46.10.01
72661松戸 46.07.03 46.10.01
72671浦和 46.11.30 46.12.01
72676浦和 46.03.30 46.10.01
72683浦和 46.07.03 46.10.01
72695浦和 46.11.30 46.12.01
72696浦和 46.11.30 46.12.01
72697浦和 46.07.03 46.10.01
72700松戸 46.07.01 46.10.01
72709浦和 46.07.03 46.10.01
72713浦和 46.07.03 46.10.01
72900浦和 46.03.30 46.10.01
72927松戸 46.03.30 46.10.01
72929松戸 46.03.30 46.10.01
72930松戸 46.07.03 46.10.01
72931松戸 46.07.03 46.10.01
72933松戸 46.03.30 46.10.01
72945下十条 46.07.01 46.10.01 お年玉、見にくいようなので貼りなおし、すまん。
神領72・79形 左より車号・前配置・回着・配属
72532 松戸 46.03.30 46.10.01
72570 松戸 46.07.01 46.10.01
72616 松戸 46.03.30 46.10.01
72618 松戸 46.03.30 46.10.01
72635 松戸 46.07.01 46.10.01
72653 松戸 46.07.01 46.10.01
72659 松戸 46.07.03 46.10.01
72661 松戸 46.07.03 46.10.01
72671 浦和 46.11.30 46.12.01
72676 浦和 46.03.30 46.10.01
72683 浦和 46.07.03 46.10.01
72695 浦和 46.11.30 46.12.01
72696 浦和 46.11.30 46.12.01
72697 浦和 46.07.03 46.10.01
72700 松戸 46.07.01 46.10.01
72709 浦和 46.07.03 46.10.01
72713 浦和 46.07.03 46.10.01
72900 浦和 46.03.30 46.10.01
72927 松戸 46.03.30 46.10.01
72929 松戸 46.03.30 46.10.01
72930 松戸 46.07.03 46.10.01
72931 松戸 46.07.03 46.10.01
72933 松戸 46.03.30 46.10.01
72945 下十条 46.07.01 46.10.01 79311 松戸 46.03.30 46.10.01
79313 松戸 46.03.30 46.10.01
79318 豊田 46.11.30 46.12.01
79320 下十条 46.03.30 46.10.01
79335 豊田 46.11.30 46.12.01
79363 豊田 46.11.30 46.12.01
79365 豊田 46.11.30 46.12.01
79379 豊田 46.11.30 46.12.01
79414 松戸 46.03.30 46.10.01
79433 豊田 46.11.30 46.12.01
79434 松戸 46.07.01 46.10.01
79442 松戸 46.03.30 46.10.01
79443 豊田 46.11.30 46.12.01
79468 松戸 46.07.02 46.10.01
79484 松戸 46.07.01 46.10.01
79904 東神奈 46.08.30 46.10.01
79924 松戸 46.07.01 46.10.01
79953 浦和 46.03.30 46.10.01
72534 鳳 49.04.28
72547 鳳 49.04.28
72558 鳳 49.04.28
79445 高槻 49.04.28
79338 高槻 49.04.28 車号等、出所は間違いない物、手元の資料より。
前スレ終わりがけの書込みに一部勘違いがあった、すまぬ、神領へは比較的早くから来ていたようだ。
回着から配属までの空白期間は不明、この間に浜工でなぶっていたのかもしれん。
なお、関西からの5両については回着日の記載はない。 モハ72900は直前まで淀川にいた筈。
浦和転属は書類上のみで
直で淀川→神領となったのでは? >>59-60
古台枠流用の図面どおりに新造というのもどこかで聞いたような話ですよねw 1950(昭和25)年当時の東海道本線には、東京〜大船間・京都〜神戸間を除いては、電車列車は定期ではまったく運転されていない
それに東京〜沼津・伊東間、さらに約4ヶ月後には静岡まで延長して、風穴をあけたのが80系湘南電車である
とはいえ、1946年のカラー写真は貴重かも知れない モハ63が綺麗すぎてどことなく模型みたいに見える
当時としてはピカピカの新車だったのだろうな 63系電車の580が臨時運用で横須賀線使用、米軍トラックと事故、全焼してる。 三島〜沼津ではモハ52も性能試験してるし、63の性能試験でしょうね。101系、151系なんかもこの辺りでやってます。
後ろに木造のクヤ16000が繋がっていそう。
新車の63ですし、珍しい光景ですね。 >>74
そのモハ52は、湘南電車誕生前(確か1948/昭和23年)に電車の可能性を探る意味でやった性能試験で、もちろん100キロは裕に超えたかと…
ただ、元のMT15時代にギヤ比が歴代電車の最低2.04だったものが、すでにMT30換装されて上げられていた可能性がある ロクサンも西と東で入れ替えが激しかったとか?
63756も新製配置は淀川だけど、2年後のS25には中野に移動したようだ。 「関西国電50年」という本に、淀川時代の63756の写真が載っています。25年10月24日付で
中野に転属していますが、事故前の写真は、たぶんこの1枚だけでは?
同書の車籍表を見ると、数十両に及ぶモハ63が、昭和24〜25年にかけて東西間を移動して
いるので、何らかの理由で、入れ替えが行われた様です。 >>72
1940年代に米軍関係者が撮ったんだから
コダックのカラーだろうが、この時代のカラーフィルムだと発色バランスが後年と違ってるから、
今見ると不自然になってるところはあるかも知れない コダックカラーでも国産カラーでも、20年を越えると退色が始まるだろ。
外国製の方が国産より退色する期間が遅いってだけで、外国製でも30年を越えると退色が始まるはず。
退色が始まったら修整しないと駄目なはず。 >77
鉄道ファン1996年1月号(特集:ロクサン形電車とそのファミリー)の26ページにモハ63756の写真あり。 >>79
現像処理の塩梅と保存状態に大きく依存する
きっちり薬液の温度・使用回数・処理時間守って現像したものを暗所・適切な湿度で保存してたものと
いい加減な現像処理のを直射日光があたるとこで額に入れて飾ってたものでは雲泥の差
正しい処理と保存なら50〜60年は資料として耐えうる発色を保てる
むしろ出始めの頃の自分で焼いたCD-Rとか、もう一度チェックして必要なら再バックアップしといた方がいい
劣化無しのはずのデジタル画の方が先に読み出し不能で全部パアとか実際ありえるからな
退色とか色再現性とか以前の問題 三菱造船、後の三菱重工が記録用として暗所に残していた昭和31年頃から35年位までの自社建造船舶や建設機械とかを映したカラー写真も、
90年代中頃に開帳したら退色が始まっていて、各部分の色が正確に読み取れなかったって新聞に載ってたな。 >>69の写真には
「解説 日本語: 沼津駅でのモハ63形電車。
日付 1946年
原典 『カラーでよみがえるにっぽん60年前』(毎日新聞社)
作者 William J.Rees」
とある。
恐らくフィルムは当時のコダクロームだろう。
元画はおそらく、毎日新聞社管理のアーカイブ画像データとしてデジタル情報化されていると思われる。
最近は、空の色や周囲の雰囲気などから、カラーバランスや濃度を補正して、褪色を補正する技術もある(あくまでも復元ではなく補正に過ぎないが…)。 それにしてもこの>>69の画像、初見ということもさることながら前面窓枠の塗装など非常に興味深い点がある。
ところで運行番号枠2桁ということは関西向けの車両という可能性が高いんだが、落成前試験か何かだろうか。
それにしても米軍関係者の撮影だろうとはいえ、こんな画像がこの時代になって出てくるとはね。 wikiに載せられてる画像、最初は白黒だったろ。
それが何時の間にかカラー(着色?)になってた。 発色が鮮やか過ぎるし、当時これだけの解像度のカメラやフィルムがあったのかどうか…
多分相当人の手が入ってるんじゃないか。 米軍が終戦後にカラー撮影した東京を始め、日本各地の都市の写真なんかも、
90年代には退色してるから記録保持で着色とかCNNでやってたような。 >>86
最初はカラーを白黒で掲載しただけだろう。
基本的に、解像力はコダクロームなら当時もかなりの水準にあり、冷暗所保存によれば褪色には強い。
最近は画像編集による色復元の技術が目覚ましく進歩してもいる…もっとも、だからこそ画像のどこかしらに作為的に見えやすい部分が生じるのはやむを得ないところだろう。
新聞社はある意味、資料写真保存の先端をいっている。
素人の不毛な議論は無意味。 >>39
時代はいつごろかはわかりませんが秩父鉄道に入った写真を見たことがあります
おそらく行楽シーズンの臨時だったような・・・
>>65
昭和47年発行の浅原信彦氏の国鉄電車ガイドブック下に昭和45年3月に浦和電車区で撮影された900の写真があります
説明には「蒲田区に配属され京浜東北線用であったが、現在では900が浦和区(転出予定)、
901が淀川区に配属されている」とあります その後浦和→(淀川)→(浦和)→神領かもしれませんが >>91
もしかして東武仕様の63が東上線から入ったのでは…? >>93
そもそも>>91が、>>92に関して
「その可能性があるのかどうか?」
を示さないと、話が進展しない >>92
先頭がクハ79の300番台だったので東武車ではないです
なんという書籍で見たものかすっかり覚えてなくて申し訳ない まあ、ATSが無い頃の秩父鉄道はなんでもありだったからな。 私鉄の63は96年のピクに特集されてなかったっけ? もっと古くはジャーナル誌1980年11月か12月号で【旧形国電】特集ってのがある。
63〜72系をかなりのページで割いてて、私鉄へ割り振られた件も載ってるよ。
鶴見線から72系が消えた後で、東武のボロ電車に好んで乗りに行ってた頃だったな。 痴漢被害を受けて被害申告したのにヘラヘラ笑う女
http://www.youtube.com/watch?v=hbvkrbN2flw
そもそもこんなことは犯罪ではない
日本の法令はおかしことがわかる ほこ・たてで近鉄6401が日本の私鉄で最初に蛍光灯を採用した、といっていた。
国鉄ではジュラ電かな… 国鉄桜木町事件
ttp://www.youtube.com/watch?v=DHZr6HTAWaY
0:12には焼死された方々の遺体が・・ 貼ってくれてありがとう
最末期の鶴見線は全金車ばかり集められていたんだっけか >>103
2枚目の先頭のクモハ、雨樋がえらく彎曲してますな。施工不良? >>104
前面撤退2〜3か月前の昭和54/1979年秋の時点では
・車内ニス塗り三段窓で日除けヨロイ戸のクハ79392
・車内淡緑塗りながら三段窓で日除けヨロイ戸のクハ79388
・63スタイル三段窓の車内ニス塗りクモハ73289(日除けは巻き上げカーテン化)
などの車内木製内張りが健在だった。
モハ72は500(〜700)番台の近代化改装車が主流で、ほかにモハ72920〜b窿Aコモ改造試麹�ヤのモハ72970がいた。
奇数車に統一されたクモハ73は前年にロクサンスタイル(室内淡緑)の73291が引退して、73289以外は全金(500番台含む)主体だったが、600番台もいた。 >>104
昭和54年でもクモハ・クハとも少数の外観原型が居たと思うけど。
ピクか何処かの雑誌に載ってたような。 73系全金属車3代
クハ79920+モハ72970+クモハ73500
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org4334753.jpg >>109
懐しい電車と懐かしい車たちと懐かしいボストンバッグ。 今だったらジジババがAT車でアクセル踏み間違えて特攻かましそう >>109
クハは辛うじて79936(あるいは79938?)と車番が読めるがクモハの車番が分からないorz 73系は扉が開く方向が車体外側から見て左側に開くように統一されていたな
京急車は1両で品川方か浦賀方に統一されている
山陽2300系や愛知環状鉄道100形などはバラバラだった クモハ73とクハ79は、全4枚が後方に向って扉が引かれ、
モハ72とサハ78は車体中央を境に2枚づつ、車体端に向って扉が引かれる構造だっただろ。
例外としてモハ72やサハ78の中には車端の扉だけ、逆方向に引かれる構造も少数在って、
モハ72に運転席を増設、後パンタのクモハ73600番とかも運転席側の扉が逆方向に引かれ、
4枚の窓のうち2枚が戸袋となっていた。
京急車の400形は元300形の401-420と420形の421-436は更新時に扉の引かれる方向が左右側面で違い、
先頭電動車と中間電動車とも同じ方向に扉が引かれるように統一されていた。
左側面は前から1枚目が後方、2枚目が前方、3枚目が前方に引かれ、
右側面は左側面と逆で1枚目が後方、2枚目も後方、3枚目が前方に引かれる構造になっていた。
左は1枚目と2枚目の扉間にあった4枚の窓のうち2つが戸袋、
右は2枚目と3枚目の扉間にあった4枚の窓のうち2つが戸袋として設置されていた。 >>116の前半に関する訂補です。(京急に関しては不明・汗)
確認用として使える写真を、一部リンクしておきます。
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【モハ72】
◎旧モハ63のモハ72は、パンタ部とは逆方向に引かれる(戸袋がある)構造でした。
→仙リハ・モハ72251
http://www.kokuden.net/mc53/sub.htm/sub72.htm/sub72-72/sub72-72-02/M72251riha1.75.4.28Riha.75c-47-15.jpg
◎モハ63由来の全金改造車も原則同様です。
→大アカ・モハ72024
http://www.kokuden.net/mc53/sub.htm/sub72.htm/sub72-72/sub72-72-01/M72024aka1.75.2.28Osa.75c-16-last.jpg
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【クモハ73600番台】
◎増設した運転台の最寄り扉だけ、引かれる向きを逆転させ、ここだけ種車モハ72500番台とは逆に、車体中間に向かって引かれるように改造されています。
写真は後方パンタの偶数車ですが、前方パンタの奇数車でも同じです。
→南ヒナ・クモハ73624
http://www.kokuden.net/mc53/sub.htm/sub72.htm/sub72-73/sub72-73-600-2/Mc73624hina1.75.9.13Futi.75c-73-00b.jpg
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【サハ78】
◎まず戦前型4扉改造車がありますが、これは車体中間を境にして、扉は中間向きに引かれる構造でした。
→静ヌマ・サハ78023
http://www.kokuden.net/mc53/sub.htm/sub72.htm/sub72-78/sub72-78-1/75c-79-091.T78023numa.75.10.30Hama.jpg
◎サハ78の主力である100〜200番台車はサハ78として製造されたため、モハ72500番台同様に車体中間を境にして、扉は車端に向かって引かれる構造でした。戦前型改造車とは真逆になっています。
→仙リハ・サハ78158
http://www.kokuden.net/mc53/sub.htm/sub72.htm/sub72-78/sub72-78-3/T78158riha1.79.11.10Riha.79c-51-10a.jpg
◎旧サモハ63から改造編入されたサハ78300番台は、モハ63改造のモハ72と同様に、元来運転台があるべき方向とは逆に引かれる構造でしたが、パンタグラフがないため、雰囲気はやや異なるような感じです。
→仙リハ・サハ78368
http://www.kokuden.net/mc53/sub.htm/sub72.htm/sub72-78/sub72-78-5/75c-47-171.T78368riha.75.4.28Riha.jpg
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【クハ79】
◎旧サモハ(一部旧クモハ)63はもちろんのこと、木造車の鋼体化名義で戦時設計の昭和19(1944)年度車からクハ79300番台、ラストグループのクハ79920番台まで、後ろ方向へ引かれる引戸でした。
例外として、戦前型4扉化車は引かれる向きが統一されておらず、種車の差もあり車両によってまちまちでした。リンク先の写真でその片鱗がうかがえます。
http://www.kokuden.net/mc53/sub.htm/sub72.htm/sub72-79/sub72-79-1/sub72-79-1.html
------------
以上、あくまでも原則であり、いわくつきの車両が多数存在した72系ゆえ、何らかの原因で異なる構造となった車か存在する可能性も、否定できないかも知れません。 モハ72かサハ78で近代改造やアコモ改造された中に、クモハ73600番台と同じ、
車端の一枚だけ逆向きに開くのがあったと思う。
推測すると各工場で行なわれた改造がマチマチで違っているのでは無いだろうか? >>118
それみたいな話、確かにありましたな。
旧国スレ(過去)だったような気もするが、わからない。
少し見てみたが、さすがにすぐには見つからない。
該当車番もわからないし、ググるにしてもヒネらないといけないかも…。
わかった方がいればよろしく! >120
ここのサイトでモハ72の項目を見る。
ttp://www.geocities.jp/h6feet/ >>121
>>118の話に合致するものはなく、モハ63由来のモハ72のうちの1両が、パンタグラフの位置を基準にするとドア開閉向きが逆になるということ?
73600台なら、乗務員室扉に客扉戸袋がすぐ連続してしまうのは強度の点で問題ありと判断して客扉の開閉向きを変更した理由になる
しかし、ことさら向きを変えるには、車体側の骨組み構造をいじってドアエンジンの機構も移設しなければならないから、手間や経費がハンパないはず
よほど大きな理由がなければやらないんじゃないの?
戸袋部分は柱も梁もほとんどないため強度的にも弱く、しかも水やホコリがたまりやすく、腐食しやすい場所だったことは確か >>122
旧形国電や大手私鉄の旧形車などは住宅で示すと、台枠(基礎・土台)の上に、
骨組(柱)が建てられる構造で、車で言えばフレーム車と同じ構造。
63系や72系は張殻構造(モノコック)の101系などとは違い、
扉の開く向きを変えても、強度に影響は無い。
大手の17m、18m車なんかで更新や地方転出後、扉の開く向きを逆にされた車両も多くある。
クモハ73600番台の偶数車はモハ72が種車で、扉の開く方向が車端に向ってる構造上、
車端に乗務員室を設置すると、乗務員室の真後ろに戸袋がきてしまう配置となる。
その戸袋を反対側、扉間の窓に移設する訳は、強度なんかでは無く単純に換気対策、
地方圏とは違い、大都市圏を走る電車は乗車率の高さからラッシュ時は常に満員、立ち客が多く、
走行中は扉が閉まっていることで、乗務員室の真後ろは換気が悪く、とくに梅雨時期から、
夏の終りまでは常に蒸し風呂となるので、それを防ぐ目的で戸袋を反対側に移設する。
70系のクハ76も乗務員室の真後ろに扉が有り、梅雨時期から蒸し風呂になる苦情対策で、
乗務員扉と客扉の間に換気用として無理やり小窓が設置された理由と同じで、
更新されて無い旧形車は前面窓が二段窓などだから、雨の日以外は前面窓と、
乗務員室仕切りの窓を開ければ停車中でも車内は十分な換気が出来るが、
更新された車両の多くは前面窓がHゴムの固定が多く、側面に在る乗務員扉の窓だけでは、
停車中に車内の通気が十分に出来ないから乗務員室の真後ろは窓が設置される。
クモハ73600番台の場合、運用が波動的、何処の路線で終始専属運用と決まってる訳では無いから、
近代化改造の時に、後の転属などを視野に入れて、換気対策で扉袋が扉間に移設されたのだろう。
乗務員室の真後ろ部分の換気対策は絶対では無く、無視した例もたくさんあり、
国鉄なら101系と103系は扉と窓の配置上、換気対策は無視された。 すわっ、長文ww
それはいいとして、63系からは台枠から一部の梁が省略されて強度が弱くなってたはず
最初は資材不足、あと80系とかでは高速対応のための軽量化などの意味もあるかも
少なくとも戦前型旧国とか私鉄の短めな車両と同列に考えるなんて暴論じゃないの? 平均的な使われ方をみても、寿命が戦前型よりか10年くらいは短かったわけだし >>124
君の理論では伊予鉄300形なんか暴挙だね。
資材不足が深刻だったのは昭和21年と22年、昭和23年に入ると原油の輸入解禁とともに、
いろんな資材の輸入が許可され、モハ63系も昭和23年以降、徐々に省略されていた工程を復活、
昭和24年後半には戦前型と同類の製造工程になっている。
モハ72の製造開始は昭和27年、しかも600番に改造されたモハ72は昭和28年から製造された分。
車両の寿命については戦前型より短く感じるが、車両不足で戦前型を長く使う必要に迫られた結果だけ。
戦前型も63系72系ともに昭和50年以降に廃車が進められたのは、
昭和50年頃から大都市圏以外にも新性能電車が配置出来る余裕が出来たからに他ならない。
昭和25年から製造された80系だって昭和50年から廃車が始まっている。 >>125
人にモノ申すなら、自分が間違わないようしっかり調べないと恥かくよ
昭和50年→80系電車の廃車は1両もなし
昭和51年→80系電車の廃車は1両もなし
昭和51年度→年度末の昭和52年3月に、2両が先陣を切って廃車
ただし、昭和50年から余剰保留車だった広島のサハ85・87が4両休車になり、復帰をみずに昭和52年に廃車
70・80系スレ(特に初代スレ)にはたびたび出てきていたし、普通の検索であちこちで簡単に調べられることなので、間違いは「み・っ・と・も・な・い」
短距離運転ばかりの伊予鉄を比較の対象にするのも短絡的ではあると思うし…
ちなみに、戦前型と、63形以降70・72・73・80系とでは、後者は明らかに台枠の通し梁が少なくなり強度は低下している。
これは、設計の根本的違いなので、戦前型と同じというのはまったくの間違い。
また、車体外板の厚みも異なるほか、内張りの厚みが遥かに少なめになり、昭和40年代半ば以降に実施された壁材の張り替え工事(72・80系の一部でアルミデコラ化)の際には、腐蝕がひどいものの処理が大変だったそうだ >>126
確か、63形改造の73形は、昭和40年代半ばには淘汰が開始されていますし、
実際に見た車両でも、状態不良車が結構多かった記憶があります。
80系など、一気に置き換えられていった感がありますが、当時聞いた話では、
重量のある床下機器を、戦前型よりも台枠強度の低い戦後製車両が搭載した
結果、戦前型よりも車体の老朽化が進んでいるという事でした。 >>127
まさにその通り
生意気ぶっこいて知ったかかまして、実はなんにも知らなかったのに暴走して見当違いだった>>125は黙ってろ! >>113
長い規制でレス付けられなかったorz
ttp://kie.nu/1ccU
ttp://kie.nu/1ccW
クモハ73500は鷹取工場製の513〜519奇数ではないかと
ところでクモハ73600と言えば、戸袋位置の他に側灯も埋め込み型に改造されている
ふつうシルヘッダーの付いた車両は、側灯も視認しやすいゲンコツ形になっているのが
普通なのだが、なぜこんな改造まで行ったのか謎 先日購入した鉄道ジャーナル1977年2月号,Vol120の「ニュース
ファイル」の投稿に当時大阪天王寺にあった「大阪鉄道病院」屋上にクハ79
の前頭部が保存されていると書いてあり、写真も載っているのですが、この
前頭部その後の情報等どなたかご存知ないでしょうか・・・?
記事では車体色はスカイブルーの記載がありますが、車番の記載は無し。
写真を見る限りでは、正面窓は運転席のみ長方形、その他2枚は正方形のHゴム
化がされており、大鉄通風器付、運行窓は3桁原形で、前面サボ受けは枠では
なく、大鉄風引っかけフックタイプ。
カラーからすると、元金トヤ一の車輛でしょうか・・・?
この前頭部どこかに現存していれば良いですが、まぁ無いでしょうね。。。。 比較的短期で撤去された様な。鳳区で廃車になったクハ79のカットボディ
と聞いた記憶があります。 >>130
特徴あるスケベゴム化や大鉄通風器や廃車時期から見る人が見れば簡単に車番が特定できそうなクハだな。
>>131
天オト車で水色とはわざわざ塗り替えた・・・?
まぁ、解体直前の橙色ともなれば相当薄汚いからねぇww >>130
天オト配属のクハ79 63改造車の廃車年月日を調べてみた。
79104:S49−10−01付け廃車
79118:S50−07−25付け廃車
79132:S48−04−28付け廃車
79142:S52−06−14付け廃車
79144:S48−04−24付け廃車
79170:S48−08−01付け廃車
79210:S50−02−01付け廃車
1977年2月号RJ掲載と言う事は、昭和51年12月発行の号。
って、ことは79118が怪しい・・?
どこかに画像無いかね・・・?
しかし63改造のクハ79100〜250って全部偶数車だが、使い勝手
めちゃめちゃ悪かったんじゃないか・・・? >>134
前スレのdatからサルベージしてきた
286 名前: 回想774列車 投稿日: 2009/10/26(月) 21:09:05 ID:AIDKc6MO
天王寺鉄道病院の屋上にあったクハ79の運転台はどうなったのでしょうか?
運行灯の内蓋に書かれていた車号を記録したのだがメモが見つかりません。
@東京なので、現状もしくは最期をご存じの方がおりましたらご教示ください。
289 名前: 回想774列車 投稿日: 2009/10/30(金) 15:10:20 ID:oNQPFDuc
水色>という事は金トヤ一のクハだった可能性がありますね!
290 名前: 回想774列車 投稿日: 2009/10/30(金) 19:30:00 ID:qhhmR0ZT
>>289
あれは、淀川か鳳のクハ79ですよ。確か、客室側にはワム90000あたりの貨車のカットボディと合わせて
あった様な覚えがあります。
291 名前: 回想774列車 [sage] 投稿日: 2009/10/30(金) 22:53:11 ID:1222cbqb
>>290
その通りで緩行線のクハを塗り直して貨車のカットモデルとおいてました
292 名前: 回想774列車 投稿日: 2009/11/01(日) 08:52:52 ID:XM2r18K4
286ですが、データ帳が出てきました。
車号は「クハ79128」、病院名も「大阪鉄道病院」でした。
乗務員のリハビリ用(主に乗降)としての設置とか。
青22号に塗られ、行った当時はかなり退色してました。
294 名前: 回想774列車 投稿日: 2009/11/07(土) 22:32:14 ID:sZW9Sn6o
リハビリに使うというのは設置当時、ジャーナルに書いていた話だけど、実際は屋上でリハビリは危ないとか言う話で立ち入り禁止だった言う話を聞いた事がある。
その後、外から見えないように囲いが出来たのか見えなくなったが。昔は阪和線から見えたし、設置当初見えていた頃はオレンジだった。 >>126
>人にモノ申すなら、自分が間違わないようしっかり調べないと恥かくよ
人に教えるなら、しっかり調べないとイカンガナ。
>ちなみに、戦前型と、63形以降70・72・73・80系とでは、後者は明らかに台枠の通し梁が少なくなり強度は低下している。
「鉄ファンや鉄ピク」で書かれているように戦前型と63形では設計思想が違うから、台枠は違って当然で、
リベット留めから溶接技術の進歩で通し梁が少なくなっても強度が保てるので、戦中戦後直後の簡素化生産と、
それ以降の簡素化する必要の無い生産を一緒に語っても意味が無いガナ。そもそも強度が低下してるなら何らかの対策が講じられ、
新型車両設計なりが行なわれ、72・73系、70系・80系は大量生産されてないガナ。 >>136
なんか自己陶酔ぎみだが、よく読むとおかしな記述。
頑丈(おもな戦前型)でないとしても、63(72)・70・80系が走るのに差し障るのならば、それはもはや欠陥車のレベル。
そんな記述がどこにもない以上、>>136は一字たりとも書く必要のない無駄なレス。
さらに、リベットに関しては、すでに戦前のうちに徐々に使用されなくなってきており、論旨から考えるならば、補足説明と言うよりは、むしろ蛇足になっている。
いずれにせよ、63・70・80系に関しては、強度が低下して適正寿命が短くなったことは確かなわけで、>>126はその点を理解できていなかった>>125の誤りを、合理的にただした説明ではあると思う。
もちろん、検修体制をしっかりして、保守の充実に努めれば、多少強度の劣る車であっても、長期使用が不可能ということではないし、そんな話自体どこにも出てはいない→あくまでも適正寿命に関する話 ゆとりのアホ丸出しレスは、もっと邪魔
いちいち書くな
嫌なら読まなければいいだけ http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201310080014.html
よみがえれ電車「クモハ73」
可部線で活躍し、1984年に引退した電車「クモハ73」の車体の一部を修理、保存する「73を直す会」が、広島市西区の鉄道愛好家たちの呼び掛けで発足した。 ぼろぼろやな。東武西新井工場にころがっていたロクサンの頭より状態わるいかも
しらん。あれは一応倉庫としてつかってたしな。 どうせ頭しか残ってないんなら、ハナっからレプリカでええやん ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています