●画期的と不運の63系・72系・73系●2両目
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>>162
鉄道板なんだから多少の脱線くらい良いじゃん?
153系の話は初耳だったし この爺みたいに知識ひけらかしは何処でも居るな。
必死に拾い集めた知識をひけらかして優越気分に浸る。
その知識が間違っていても決して認め無いからタチが悪い。
上を見ると自分の書いた文章を何とか正当化しようと必死で、
しかも自分で書いた文章にID変えでレスしてるところもw
そんな屑に燃料投下すると、某スレみたいに荒れまくる。 そして平戸ボボやうんこ漏らし野郎によってしっちゃかめっちゃかにされた挙句
西葛軌道のAA荒らしによってスレッド糸冬 了 72・73系の事故廃車って総生産数の割には少ないような。
桜木町事故の78144は廃車になってるが、三河島事故に遭遇した数量は皆復活してるし・・。
久里浜水害などは別として事故廃車ってどんなのがあったでしょうか・・・? >>168
サハ78144はのちに全金試作車のクハ79904に改造されている(台枠を流用) >>168
三河島/桜木町のほかに有名としたら三鷹事件の63019(証拠保全で63のまま廃車)
や前面窓5度傾斜の79350/79352ですかね。
1960年以降で三河島以外の主なところでを抜粋。
・79350(津田沼区 1963/10/1廃車),79352(津田沼区 1969/6/19廃車)
詳しくはhttp://c59176.blog.so-net.ne.jp/2011-02-12ご参照
・72038(松戸区 1963/8/1廃車)
1963/4/6 午前4時40分頃取手発上野行6両編成が、取手〜我孫子間で
停電のため停車していところ、上り貨物列車が追突。
最後部の55029の車輪が外れ脱線。5両目の72038の車体が大破され55029が半分食い込む。
東鉄調べでは、塩害による停電と駅間を電話連絡で運転させてたがその手違い
・73130(津田沼区 1966/2/12廃車)
1964/2の東中野追突事故車。16478,41031と中野にしばらく留置。
・79921,72223(陸前原ノ町区 1972/10/2廃車)
1972/8/18 14時18分頃に仙石線陸前浜田-東塩釜間新田踏切で72系4連とダンプカーが衝突し
うち3両脱線、先頭車79921は転覆して沼に突っ込み大破、2両目の72223も大破。
復旧は19日10時ごろとなる。2両は廃車。
変わりに豊田区から73029と72562を貸し出してもらう。 念のため補足しておくと、桜木町事故の廃車は全焼した63756。
78144は半焼ということで、下回りを活用した。 最悪な修復を・・、これ数年で更に酷い状況(修復不可能)になるぞ。
ボランティアを集めるなら、最低でも溶接出来る奴を打診しろって。 >>174
お前はそうやって文句言うだけなんだろ? 結局、真に大枚をはたいて保存する価値のある車両を、根本的かつ徹底的に修繕するのでなければ、「長くもたない」という厳然たる事実がある。
おびただしい数のSLが保存されたにも関わらず、今や腐食などによりほとんどが朽ち果て、解体され、現存しない。
SLより堅牢性が劣り、鋼板も薄いのに、腐食が進んでいるのは、かなり絶望的な状況であり、維持するのももはや難しい。
金も出さないで保存しろと口だけ出す奴ほど、無責任なものはない >>177
吉ヶ原のクモハ73は募金で直してるんじゃなかった?
募金として金を出してる人はいるはず 基本、錆びで穴開いた所から大きく3cm〜5cm位は切り取っておかないと、
錆びは予想以上に進行してるから、発泡やパテ盛りして一時的に綺麗な姿になっても、
錆びは止らないから、2年もしないうちに塞いだ周りから錆びが浮いて来るエンドレス。
腐って無くなった所は同じ厚さの鉄板を当て、溶接して塞ぐしか道が無い。
映画のセットみたいに短期間だけなら、何もせず穴を塞ぐだけで良いけど。 >>178
自分は何もしないで他人に文句言うなよ
最低だな 俺個人としては、この保存に賛成はしていない。
「誰もが望んで」なんかいないということ。
理由は、すでに63形として1両復元保存になった以上、それで充分だから。
望んでいる奴だけで金出し合って保存するのをダメとまでは言わないが、ハッキリ言って社会的には糞の役にも立たない。
文化遺産うんぬん言うなら、63形1両で充分お釣りが来る。
ちなみに自分は73383には可部線で何回か乗っているし、首都圏や関西圏の72・73系にも現役時代に何回も乗ったし、決して思い入れがないわけではない。
しかし、こんな中身が薄く(顔だけ)、金だけはかかる保存なんて、壮大なる無駄でしかないことは指摘しておく。
73383を保存するぐらいなら、山陽系列では
・79004(戦時設計鋼体化名義)
・80017(中間電動車として初めて車籍を得た4両の中の最若番)
・71001(初の全金)
・86021(2枚窓トップで試作なので製造順も先行)
など、いくらでもより残すべき車両があったが、それすらなくてもどうってことない。
73383も、なくてもどうってことない。
旧形電車では、52001と86001だけで我慢すべきだと思うし、それすらなくてもどうってことない。
文化遺産?
笑わせるなという感じ。
なかったとして、日本の文化のどこが傷つくの? まあ実際鉄道の文化遺産といえば、鉄道という交通システム全体を指す。言うまでもなく車両はその中でごくごく小さいウエイトでしかないだろう
車両については、公的には今の各地の鉄道博物館で保存されている程度で良いのかもしれん。
それ以上保存したければ、ナショナルトラストのように趣味者や篤志家が金を出すべきだな。 きちんとした法人が管理していない保存車両の末路を見るにつけ、生半可な気持ちで保存する行為は単なる一時の自己満足に過ぎないと思う。 とにかく中途半端な補修をしても、すぐに腐りが始まり、もっと酷い結果=補修不可能になる。
期間限定、映画セットのつもりで補修するなら、それはそれで構わないけど、少しでも愛着を持って補修するなら、
きちんと指導の元、鉄板溶接出来る人をボランティアで呼び寄せ、切取→溶接で補修するのがベスト。
資金の問題なら、とりあえず錆びだけ落とし、資金が集まった時点で溶接でも良い。
安易な考えで素人が補修した物ほど、再生不可能になることがほとんど。
錆びて開いた穴にスプレー発泡を居れて錆びが止るなら、車の板金屋は一軒も無くなる。
それに錆びが浮かないように塗装するには一度、地肌を出し、綺麗に研磨、
研磨後に鉄板を完全脱脂してからサフェサーを塗らないと、鉄板に錆びる要素を付けたまま塗装、
2年から3年もしないうちに塗装の下に錆びを発生させ、ポツポツと塗装に玉が浮く状態になる。 それはここに書き込むよりも保存会にメールした方がいいと思います
一つの意見として 基本2chはリアルでは不遇で、俺様が本気出せばこんなにスゲーのに
どいつもこいつも使えねえ奴ばっかだぜ、と思ってる人間が集うメディアですから。 そんなこと言ったって、後から今の資材で作り直したリニア館のよりオリジナルで
実際に戦後の荒廃と復興と当時の日本人たちをを見てきた本物の顔が残ってる事が
価値があると思うけどなぁ。。。 保存車につきものの、「ワシントンの斧」のジレンマだな。
ワシントンが桜の木を切った斧の実物が残っているのだが、
その斧、刃を2回、柄を4回交換しているという・・・・・・ >>190
こうなるとレプリカとも言えない、もはや模造品ですな。。。。 名刹と言われる神社仏閣だってどこも一度は燃えて再建してる。レプリカなわけで。
フルオリジナルだが静態なのと、上回り板金、直流モータはワンオフで新規製造な「ニセモノ」でも
つりかけサウンドを響かせながら走る動態と、どちらが貴重で価値があるか。
これが正しいっていう答えはないと思うけどね。
鉄ヲタと一般人、大人と子供、男と女でもかなり違う結果になるだろうし。 何が何でもオリジナルを残す必要はないと思う
静態で残すんなら模型と何ら変わらんし、オリジナルの補修に金がかかるってんならなおさら 結論
無駄な保存は、やりたい奴だけで集まって、自前で経費や用地などを調達して、他に一切依存せずに出来る範囲でなければ、一切認めない。
クモハ73383なんか、手間ヒマかけても前頭部だけでは興ざめもはなはだしく、まさに糞の価値すらないのに、糞色に再塗装をするだなんて、糞に謝ってほしいもの。
他人にビタ一文払わせてはならない。 未だに戦後製造の車輌を戦前と比べて強度が低いなど都市伝説を信じ、書き込む奴が居るんだな。 >>196
お前しつこい。
お前の最大にして根本的な間違いは、外板の鉄についてのみ語っていることで、梁や柱などにおよぶ耐久性や腐食特性などを無視している点だ。
昭和30年代末期頃から一部車両に耐候性高張力鋼を導入しはじめたが、それ以前は腐食に弱かった。
80系スレでさんざん長文で講釈しつつも、見事に論破されているのに、まだ暴れる気か?
鉄板の質が戦後に改善されたのは確かでも、旧型電車とかがちゃんとお前の誤解を証明するような使われ方になっている。
80系電車だって、1977年まで27年間も廃車がなかったのは、長編成高速運転が可能な車両が旧型にはほかになく、無理矢理使わざるを得なかったから。
ようやく置き換え用の113・115・165系を確保できるようになって、その後各地で一斉に取り替えられ、1983年までにあっという間に全廃。
昭和25年以降の質がよくなった鉄だが、お前が言うほど傷まなかったわけではない。
まあ、80系は長距離高速仕業が多かったけれど…
昭和19年の質の悪いはずの鉄のクハ79004が、外板の張り替えもなく、海沿いで長く酷使されつつも、もっと新しいクハ79なんて多数あるのに、取り替えられずに残り、1984年までもったのは、どう説明するんだ?
これの説明なくして、単に戦後に鉄の材質がよくなったことをいくら声高に述べても、なんの説明にもなっていない
それができないなら、お前の見解なんて糞の役にも立たないんだよ
ウザいから引っ込んでてくれないかな? 中梁の有無はどうなるんだ
あと70年代の旧国の場合、
車体劣化以上に電装系のメンテやトラブルが置き換え促進のきっかけだったんじゃなかったの? 151系153系80系70系が短命だったのは外板の薄さや走行距離の延びを痛みの根拠にするけど、
72系や101系のようにラッシュ時フル乗車され更に短距離で加減速を繰り返すのも車輌の使い方としては過酷だと思う。
酷く痛む場所が両者では違うと思う。 >>200 過去の情報を漁るしか能の無い我鬼は失せろ! >>199
そうだな
101系が50年も持っていることについて、未だに納得できる理由を見たことがない
実際のところ、車体や走行系の劣化と言うより単に余剰など需給上の要請の方が大きいような気がするわ また長文書く糞爺が197に登場!!!!
お前もシツコイぞw >>202
極論すれば、旧型だろうが101系だろうが、100年だって無理矢理もたせることは、理論的に可能。
ただし、修繕費は年々ハネ上がるだろうし、性能的に見劣りは否めず、経済的にも営業的にも得策ではない。
ちなみに、腐食に関して言えば戸袋、便洗面所がネック(157系下降窓も同様)だが、耐候性高張力鋼採用の1960年代半ば以降は、若干耐蝕性が向上している
なお、国鉄時代末期の戦後製車両の廃車に関しては、親方日の丸体質もあり、また各部所トップの天下り先に車両製造会社が多数を占めることから、経費削減の聖域として、無闇な取り替えが横行したとする説があるのは事実である。 >>204 某私鉄色の強い車輌メーカーも系列化前から実態は国鉄→JRの天下りが多かった。 63系列のUF117系台枠と、モハ60のUF39系台枠で、
特に梁の通り方や寸法に大きな差はない。
なので少なくとも63系台枠に、強度低下が著しいということ無いはず。
施工が不良で、中央部が垂下したモハ72というのは、
御殿場線にいたようだが。 戦前型に比べてダメだとすれば、鋼材の品質水準劣化と、溶接組立の技術レベル低下の影響だろうか。
トキ900のように台枠鋼材自体が細身にグレードダウンされたというのでもないし
終戦直後のオハ35などで台枠がダメだったという事例も聞かれないので、
電動車台枠ならではの負荷も響いたのだろう。 1979-6(↑扇町・海芝浦)
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クモハ73289(三段窓63スタイル・室内ニス塗り)
モ ハ72587(上下幅1:1アルミサッシ・近代化改装)
ク ハ79388(三段窓・室内淡緑塗装・日除け鎧戸)
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クモハ73029(全金車体・上下幅1:1アルミサッシ)
モ ハ72970(103系ふう車体へのアコモ改造詩作車)
ク ハ79392(三段窓・室内ニス塗り・) >>209 末期に各線区を渡り歩いてきた旧型各車の中で状態?幸運?に
恵まれ生き残り集まった 猛者各車は、ニス塗り・車内濃淡塗りつぶし、近代化改装等
途中の経歴・過程・定期施工工場の方針で手を加えられたワケだが、
定期検査補修時 ニス塗り車は、ニス塗り補修・濃淡塗りつぶし車は濃淡色にて補修、
デコラ張り車は、デコラ板補修と律儀に各々の工法で補修されていたの? >>210
まあ、ニス塗り車の木部補修が、淡緑色でされていたのを見たことはないので、
おそらく内装の実状に合わせて
補修の簡単なメニュー的なものがあったのではないでしょか。 話を蒸し返すようで悪いが、末期製造の旧型国電が短命だったのは別に強度云々ではなく、大きな理由のひとつ
「手間がかかる」
新型車に比べ、検査回帰が短く、メンテナンスフリーの概念が無かったころの車両はとにかく手がかかる
制輪子交換ひとつをとっても、あのクソ重い鋳鉄制輪子を左手で持ち右手でコッターをはめ、割りピンで止める
それが1両につき、16個もある
ブレーキを酷使する線区では4〜5日で交換だ
そのための要員が必要
みんなも映像で見たことがあるだろう
蒸気機関車が仕業を終え、入庫してくると多くの職員がよってたかって機関車を整備するところを
まだ人件費が安かった頃はそれでよかった
こんな車両は要員削減のためにも早くなくすべきだったと思われる
ちなみに、これはある電車区で検査係〜助役だった爺さんに聞いた話
はやく新型車を回してもらえるよう、よく嘆願したものだという
現場で嫌われる車両は短命になる運命という事 >>212
でも初期の新製能電車も短命さではほとんど変わらないよ
たとえば153系は80系に引き続いて廃車になった >>212 だな。
無論 車体の老朽化、技術革新による相対的風化(旧型化)、そのときの事業者の経済的要因等様々だな。 >>213
初期の軽量車体は傷みやすかったのかも。
ナハ10系も短命だったし、外板が腐食してしまって16年で廃車になった157系は有名だよね。
しかしつい先日秩父鉄道で引退した101系は異常な長寿だったけど。
当時国鉄はむきになってMT46装備車を廃車していた。
おそらく、予算使いきりとか、>>212のように現場サイドの要請とかがあったのだろう。
前任の80系が約20年で取り替えたから、同様に153系も取り替えてくれというわけかもね。 ヒント
耐候性高張力鋼
→昭和30年代末期から本格採用 >>215
10系や157系が短命だったのは一段下降窓が原因だったって話じゃなかったか。
車体内下側に窓を収める構造に雨水が溜まり劣化を促進させた。
101系みたいな実用最優先な二段引き違い窓ならもっと長生きしたんでは。 >>216
耐候性高張力鋼が本格的に採用されたのは新幹線0系辺りからだっけ?
>>217
水抜き穴が不完全で、中に水が溜まって錆びが酷かったと元国鉄の人の
ブログに書いてあったのを読んだことがある。 やはり予算の関係や現場サイド、営業サイドの要請だよ
それと労使関係の悪化もある
現代の車体修繕技術があれば全く問題ないよ、153系と157系はね。471系だって最近まで現役だったわけだし
スレ違いでスマン 10系客車は極限設計が過ぎたからな
ハイテン鋼はまだまだ多用できなかったのが昭和30年代でしょ >>157系の近鉄=近車が導入したシュリーレンの下降窓技術を使えばよかったのに・・・面子や近車特許の兼ね合いだな。 >>194や長文説教のようにさも自分が正しいと思っている人増えたよね
結論とか何様だろうw 俺様だからだろうw
著者の勝手な妄想に付いて行ってしまう奴が多いってことよ。 あげと言ってsageてる件
だったら保守と書けばいいのに のっぺりな顔・ベンチレータの形が違う(天井板・照明器具初めから完備)・
・600Vなので制御器・パンタが違う・旧来の在来車と連結運転
ttp://11.pro.tok2.com/~mu3rail/175image/5408kansai81-nankai1512-700.jpg 教えて
クモハ73アコモ車の製造方法っていうのは、
1.台枠を残して車体をすべて解体し、新品の車体を製作。
2.車体の骨組みは残し、補強や修繕を加えて新しい外板・内装に交換。
どっち? >>231
一応2。
クモハ73359なんかがいい例かも。 2の工事に際して、台枠上面は更新前のような木張りでなく、鋼板を張るなどして全金属化を徹底させたな。 質問
モハ72920(全金車)の重量って、新性能車(モハ101等)と比べて
どのくらい違うの? モハ63には本来運転台があるべきだが、サハ代用のサモハとなり運転台なしで使われたもの多数であり、これを
「63形の不運」
という。 鶴見線で初めて三段窓を見た時は、檻みたいでホントに気持ち悪かったな。 意外とクモハは少なくて、やはり運転台機器すら準備するのに時間がかかり、
サモハとして使われて、のちにモハになったり、仕方なくサハのままとして、
サハ78300番台になったものもまとまった数あった。 あの事故がなければ鉄道に詰め込み輸送を定着させた、
いや換言すれば合理化を促進させた功労車とも言えたのだがな >>243
あの事故があっても、4つドアという通勤輸送に最適な車体構造、
大量・短時間輸送の道筋をつけたという点で、十分にその功績が
たたえられていい存在。
フランス、ブラジル、ソ連、中国などにも、後年18〜22メートル車体に
4つドアという通勤電車が多数登場する。その先鞭をつけた系列。 詰め込み=痛勤輸送だから
数多のリーマンにとっては恨めしい存在
大量輸送の旨味を経営側が知らなければ今の日本は通勤車でも転クロが常識になっていたかもしれない
あ、某ベストセラー評論家に感化されてしまってるw >>247
有名なんだね
でもこのくらいのものなら、その辺の板金屋でも作れそうだな 63系は屋根が木造だったけどそれ以前の車両は屋根も鋼鉄製だったの?
銀座線の初代車両は内装に木を使っているけど火災対策から屋根まで鋼鉄製だったと思うけど。
可燃性塗料は致命傷だったね。 >>249
1937〜39年製造の国電は鋼板屋根
分かりやすいのがクモハ52003・004、クモハ53007 >>249
63系は戦時設計だから使えるものは何でも使った。
当然金属は不足していた。木造車が出現しなかったのがある意味不思議。 昭和に入ってからは木造の車両は事実上新造はしなくなったようだね。
いくら防水加工してもどんどん傷んできたんだろうな。だから昭和初期でも木造車は早急に淘汰したかった模様。
戦時中は金属がどんどん回収されていって身近な物だとお寺の鐘等がいい例。
あと甲子園の内野の屋根。
鋼鉄じゃなくて鋳鉄もアリだったろうね。 そういや航空機でも日本は戦争中、金属があれだけ貴重であっても、とうとう最後まで木製の制式機は造らなかったな
英空軍の木製爆撃機に酷い目に遭わされていたのに 英空軍のモスキート、外板の一部が木製であって、内装がほとんど木製の63系と、木の使用割合はそんなに変わらないと思うけどな 重量10トンの飛行機と、自重40トン、乗客詰め込めば更に重くなるという電車。
前者なら機体の大部分木製化できるが、後者じゃそうもいかない。
木製のバス、トラックも見たことないよね。 自重40トンの電車で、天井以外の外板まで木製化して、耐久性確保できますか?ということなんだよなあ
メンテナンスに手間やコストがかかるようであれば、逆効果だし >>255
荷台が木製のはあったし、床が木製のは今でも作られている トラックの荷台の部分は木だったりするもんんね。
バスに関しては岡山の備北バスが2007年式でも床が木だったりした。
首都圏では小湊がKLの最初あたりまでだったな。
今ではどんどん無くなってきている。 >>249
銀座線初代1000形の内装が、木製だったというのは初耳だな。
地下鉄博物館保存の1001はそうなってる?
全金属とうたわれている103系国電も、渡り板の手前部分や、
14系寝台特急も根太の部分は木製だったりする。
>>257
天井は屋根の内装側。63系の半数以上は天井板無しだよ。 >>260
ゴメンあれは金属に木目を貼って違和感を無くしたんだね。
可能な限り木材は使わないようになっていたんだね。
でも随分と重たい車両となってしまったようだね。 富士急行の新型車両「富士山ビュー特急」は結構木材が使われている 無蓋貨車だと床や煽り戸が木製のが
遅くまで作られてたみたいだね
性質上耐火漏水の配慮必要性が薄いとか
固定用の釘を付けやすいとかなんだろうけど 予土線のしまんトロッコ号コトラ152462も木製だな 木製つながりで…クハ79鋼体化改造車は最初の3両のみが木製車の台枠流用。
あとは車籍を引き継いだだけで台車くらいしか流用してないとか。
↑かなり上で話題のサモハ、モハ化した車両あったっけ?
30両がサハ、あとは全てクハ100番台と思ったが。 >>267
いくつかの文献を見ると、4両目からは台枠新製とか書かれているんだけど、
出来上がった電車の連結器回りを見ると、クハ65形同様の形態なんだよなぁ。
だから、名義と実際のタネ車が一致していないだけで、戦災木製車の台枠は
流用されていると思えるのだが、そもそも4両目から台枠新製と書いた
最初の文献は、「レイル」誌なんだよなぁ。
あと、台車も流用されていない車が存在するよね。 >>268
レイル('80冬だっけか)以前に63の詳細を特集した鉄道趣味誌ってありますか?
あと、台車が振替えられた車両って何番かご存知ですか。よければ教えてください。 >>269
一応ジャーナルに特集号があったと思う。
台車振り替えは、とりあえずクハ79024。TR11→TR23。 79024のTR11時代の写真が↑のレイルに掲載されてたな めちゃ古のピクトリアルに、
クハ79戦時形の台車一覧が載っていた気がするんだが、
号数がわからん。
TR10装備の車輌もあった。心皿荷重とか心配だなw ステンレス車は構造上側面の凹凸無しは難しいようだね。
江ノ電500形がステンレス製でスッキリした外見で登場したけど。
鋼鉄製は戦前の53系でさえ凹凸が減らされたのに。
今後東急5576号車みたいな車体は普及するかな。 >>271
TR23は鋼体化クハの特徴の一つではあったな
他にTR23付の個体はあったのだろうか?
もちろん戦前形の4扉改造編入車は別として。 >>275
国鉄車では明確な写真は少ないが、
御殿場線のサハ78450番台にあった(450〜455。457等はサモハ改造なので、
DT-12)。
当然TR23は、戦災台車と考えられるけれど、初期のサハ78に見られる模様。
クハ79は鋼体化車以外は、サモハの改造なので、平軸受けがあっても、
それはTR25(DT-12)でしょうな。
国鉄車ではないが、小田急クハの一部にTR25付き(TR23では無いけど)
が残っていた模様。 >>276
レスthx!
確かに78初期車は混沌としてる節がある。
後にも63ほど徹底した改造も受けてないのかな(貫通路設置くらい?) 調べた範囲で、クハ79戦時形の台車。
当初TR-11だったのは、クハ79024と79025のみ。
それ以外は軸距離2134mmのTR-10。
その後クハ79024以外はTR-23に交換。
クハ79024は廃車(1967年)までTR-11をそのまま使用。
なお、クハ79025のTR-11は軸距離2438mmのインチサイズタイプなので、
イコライザーが細いタイプだったと思われる。 103系みたいに63形→73形もカラフルな塗装になってれば後の印象も違っただろうに。 ぶどう色・・・・・首都圏・関西地区東海道線
オレンジ・・・・・・片町・阪和
スカ色・・・・・・・御殿場・中央西・中央東(71と混結)
スカイブルー・・・富山港
ウグイス色・・・・仙石・広島
これくらいかな >>279 オレンジの電車がやってきたら、何だ、色塗り替えただけの旧式か・・
大阪人にとっては評判悪かったそうだ。 >>279
人それぞれだろうが、自分にはオレンジやウグイス、スカイブルーは却って古臭く、汚れて(事実そうだったが)見えた
その点、御殿場線のスカ色は似合ってた。73系以外では福塩線の旧客ブルーの51系が好きだった >>282
色をカラフルにしてもブレーキダストで車体が赤茶けているからね。
72系970番台も薄汚れいたが、103系になったらキレイなものだ。
920番台あたりを単純にカルダン化する計画とか無かったのだろうか? >>283 床下ほとんど取り替えることになるから、103系新製した方がコスト・パフォーマンス高いんでは? 私鉄車両だが、小田急1800の白地に青の塗装、それに東武7300、7800のセージクリーム塗装って、そんなに赤茶けていただろうか?
私鉄版63系ベースのもあるし、こちらもブレーキダスト多いはずなんだが。
私鉄の方がこまめに洗浄してたからだろうか? >>281
昭和40年前後のオレンジ塗り大ヨト、天オト所属車の色艶はFloquilやHumbrolを塗った様な
艶消し粉吹き状態の汚れた姿が常態だったからね。 >>285
小田急は新塗装になるころから、レジンシューに交換してしまったからなぁ。
新製後しばらくは鋳鉄シューを使っていた5000のほうが、赤茶けていたし、
レジンシューになっても高速運転のためか、5000は運転室ドア付近が
よく汚れていた。 車体洗浄に関しては私鉄の方が断然上、国鉄はなってなかったね
JR転換後、ようやっとまともになったというか。 小田急1800は洗浄できていた記憶
東武7300はやはり裾のあたりが… >>212
確かに最低編成数が三両以上の線区なら積極的に新性能車に更新した方が維持に掛かる工数は激減するのが
地方線区への101/103や11x系列の導入の最大のモチベーションになった訳だよな〜
例えば駆動装置への給脂入庫のサイクルが新性能車だと3倍になるとか
逆に閑散時に二連や単行で間に合う程度の輸送量しか無い線区では
1M方式の105/119が出現するまで旧型国電が残存せざるを得なかったのが実情なのだろうな
(富山港線の73二・四連→急行型EC三連に移行した例は例外として
あんなラッシュ時には二閉塞で四扉車四連フル運行させなきゃ捌けない線区に
急行型EC三両編成投入なんて何考えてたのだろうか)
自分は43・10で電化された伯備線イメージした妄想線区を自分のNゲージレイアウトモチーフにしてて
そこではリアルの新見⇔生山間に相当する線区では三時間に一本の割合で始点から終点まで直通で運行される
153四連+クモユニ74&EF58SG牽引旧型客車五両編成の間をクモハ43/51とクハ47100/68二両編成が隙間運行されてて
それが1980年代前半まで続いていたという想定で投入車両選定してるけどな 七夕豪雨の時に久里浜で被災した73系は数か月放置プレーだったな
遠目には何事もなかったかのように休んでたからかえって不気味だった
あれは大船へ送られたのかそれとも現場で解体されたのかな 軸受けまで海水に浸かっちゃったから現場で解体したはず >>293
ありがとう
せっかく状態の良い車を揃えて送り出そうとしていたのに
天災とはいえ残念至極 ttp://www.geocities.co.jp/HeartLand-Hanamizuki/8439/73/kurihama/kurihama.htm
一年放置って書いてあるね セイジークリームなんかにするから汚れが目立つ
昔みたいにベージュ系にしときゃいいのにさ >>292->>295
今頃すまん、
余剰になったのが1974年6月で、その年の7月に被災しているが、
転用先はどこだったんだろう?
翌年の昭和50年(1975年)3月改正で、神領で5両所要増になっているが、
それまでは関東(京浜東北・常磐・横浜)からの転用だったのが、
このときの5両は鳳から来ている。
この32両の中には神領へ転属予定の車があったのだろうか? >>299
RF1975年4月号に関連の記事を大熊孝夫氏が記載してますが、潰した32両の
行先予定地は「富山港線等今後当分は旧型電車が残るであろう線区への転属
車は最も良質の車両で揃え・・・」しか書いてないですね。。。
当時でいえば候補は金トヤ、静ヌマ、仙リハ、名シン、千ツヌ、天オトくらいですかね。。。 >>298
>>汚れが目立つ
国鉄各線に散って行った仲間も同じ
仙台や広島は先入観ないけど特に汚かった
競合他線がないからだろうか >>298
国鉄末期で現場が荒廃して車輌をきれいにする様な雰囲気もマインドも無かった
からのような気がするなぁ。。。
あの頃電車区行くと止まってる車はいわゆる「族車」っぽいのが多かったし、職員も
若いのは昭和のヤンキーみたいのばっかりだった。
でもそんな兄さんたちでも見学に行くと色々と部品くれたりしてファンには優しかったな。
あのヤンキー兄さんたちももう70歳くらいなのか。。。。 リニア館の保存車、時々前に展示して全貌見せてほしいよね。 >>306
すごい、73系末期のさよなら運転だというのに見える限り3段窓のオンパレード。
しかも後期型なのに、3段窓。
東京南や東京西の管理局の後期型はアルミサッシ2段窓が多かった記憶が。。。 ちゃんと開けていたつもりの下段窓が落ちてきて頭頂部に当たった記憶がある。 あと最後尾の車両の運転席のすぐ横の窓のところに立って車掌目線で前を見るのが面白かった。 後期になると101系と旧型の発展途上ていうか合の子みたいになってて
でもデカいサボ受けとか垢抜けない茶色塗装で味がある、何か生物の進化の
過程を見るようであるのが73系の面白さだよな 306氏の画像見ても 80系も後期は全金属化されている。私鉄だが西武の3ドア20m赤電(501から801)の進化も。
昭和20年代から30年代前半の吊りかけ車、初期のカルダン車の進化を見ると、だんだんと良質な物資が行き渡るようになったからじゃないかと思う。
戦災復旧車のように足りない物資を半ばスクラップになった車両からかき集めていた時代から、全金属新造車を造れる時代へと 自己レス>>280
今頃ごめん
気動車色(窓部クリーム幕板腰部朱色)・・・仙石線
が抜けていた 10月13日に放送されたNHKスペシャル「東京ブラックホールII 破壊と創造の1964年」で
1964年の 御徒町駅のホームで山田孝之が仁村紗和 を見送るシーンで73系が出てくる。
車両が映るのは側面だけだが仁村紗和 が乗り込む車両は「東モセ」表記と見える3段窓車。
隣の車両も3段窓だが、戸袋窓がHゴム車だからモハ72の500番台以降に見える。
ドアが閉まる音も発進の吊りかけ音も良く再現できていたと思ったよ。 >>320
南武・青梅・横浜・鶴見の各線はもちろん灰皿無かった。
御殿場・可部・富山港も無かったと思う。
いずれも35年以上前事だからうろ覚えだが、後の線区は乗ってないからわからない。
ところで先日「写真とイラストで綴る 国鉄72・73系電車 (NEKO MOOK)」¥3,200なんて、
令和の御世に誰が買うのかと思うような本が出版されましたね。
速攻買いましたが、全車の履歴が載っていたのにとにかく感動しましたよ。 >>320 外房線の72系はついてなかったように思う。
1975年に乗ったけど。 >>321
同じく見た瞬間に購入決めました
買う人は、乗車経験者かな?あまり売れる気がしないと思いますが、でもありがたいです
乗車経験ですと
仙石線
京浜東北線、南武線、横浜線、青梅五日市線、鶴見線
中央東線、御殿場線、中央西線
富山港線
阪和線
可部線
もし灰皿あるとしたら、70系と混結前提の中央東線と思うけど、記憶がないです
71/76と72/79では、たいてい71/76に乗ってしまったと思います 72系というと、俺的には南武線のイメージが強い。
クモハは全鋼製に改造されたものが比較的多かったイメージだが、
それ以外は3談窓の半鋼製に当たる確率が高かった。
特にサハはなんとなく車内が暗くて、子供心に恐怖を覚えた。 >>324
大窓の73902ですね、自分も好きでしたが、見て撮れたのは一度だけでした
79904も同様でしたが、こちらは中央西線103系に置き換え途中でついに間に合いませんでした >>320
中央西線の神領車は灰皿なし、禁煙プレート付き。
但し公式には禁煙ではなかったとのことだが、喫煙者はほとんどいなかったと思う。
なお、後継の103系導入の際に正式に禁煙扱いに、
但し、103系は全区間(名古屋―釜戸)、その他は名古屋―多治見が禁煙になった。
https://dotup.org/uploda/dotup.org2209085.jpg
70型の禁煙表示
>>326
せめてhttps://dotup.org/uploda/dotup.org2209089.jpg
S52.01 金山 なんなの、この過疎スレがこんなにも急に盛り上がって(笑)
>>327
おぉ、79904じゃないですか!
70系の「…製作所」の製造銘板画像も気になる。。。
「日立製作所」ですかね?
あまり日立製の70系は数量少なかったイメージですが。 >>327
326です
ありがとうございます
いいですね
当時10両4本(5+5ですが)のうち、1本が103系(6+4)で運用し始めた時のため、
79904は初期に廃車回送で西小坂井?に移動したらしく、79904は神領で見ることはできませんでした
比較的新しい72と79ばかりでしたね、三段窓は見なかったです
ついでに、混色の103系の先頭車にあったサボが強烈に印象に残っていました >>325
鶴見線もそうだったけど首都圏の3段窓車は、オリジナルのニス塗り内装+肌色ドアしかなかったのかなあ。
御殿場線でクハ79300番台に夏場に乗ったが、壁や窓枠も薄水緑色にされてて3段窓ながらものすごいオンボロさは無かった。 近代化改造車が103系の窓ガラスを使っていたというのは知っていたけど、実際に103系顔になったら、という視点は面白いと思う。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~iwate/alacarte/fake_train/73_renew.html 青梅線などで走っていたクモハ73を見て、何故、前面にドアをつけないのかと思っていた。
ロクサン改造の小田急1800のように。
改造費増やしてドアをつける、さらには幌をつけて貫通可能にする必要があるのか?という問題でもあるが。 >>332
ラッシュ時にクモハ40が増結用に連結されたけど、ある意味増解結のときの手間が省けるね。 国鉄の通勤型は、63形以来、切妻、非貫通という安上がりな構造になっていたからね。
短時間で折り返したり、切り離したりと、運用上もそれで十分だったし。
逆に、小田急1800は、使いもしない貫通扉をなぜつけてたんだろう? >>334
使いもしないって連結運転はしてたんだから
緊急時の乗務員移動とかでゃ使ってたんじゃなの? 業務用に使う貫通扉という事はありますね。
そういえば、戦前形国電も、貫通扉ついてたけど、関東では幌がなくて、何に使ってたのか分からない。
クハニ67とか荷物室が前にあると非貫通なので、旅客用前提だというのは想像できるけど。 前面貫通路、非常時の車両間移動の他、前面の行先表示板を取り替えるのに便利なんでは。これがないと、ホームから前面のステップを足場として作業しなくてはならない。 末期に広島で体験運転用に改造したクモハ73は両運で、増設側運転台は貫通顔だったけど、あれはこの貫通話の対象外だな。。。 東武7800系は貫通路は勿論なんだけど、
車掌室のドアを施錠してなくて悪ガキが走行中にドア開けて身を乗り出して転落死する事故が
あったのでそれ以降施錠だけはするようになった。。 でこれは考え過ぎてなんだけど、
もしかして桜木町事故の件があって、必ず貫通仕様でなおかつ事故時に中間クハにも脱出路確保の為に車掌室ドア施錠せずだったのか? 一時期運用された常磐快速のモハ72形が忘れられない。営団6000系とのデッドヒートも見ものだった。 >>334
小田急の貫通ドアは、貫通路として使う前提では無く(と言っても、HE車なんかは運転台も車掌側も
閉鎖できる構造なんだよな)、車内清掃時にドアを開けて連結してある別編成に移動するため。
非貫通だった2200については、貫通化計画が存在したが、施工はされなかった。
>>340
新宿駅で総武線201系に乗る時、友人と冗談半分で「ここから乗るかぁ」とか言いながら、
中韓封じ込め運転台のドアを開けようとしたら、本当に施錠されて無くて開いてしまい、
青くなって急いで閉めたことがあった。あれも確かに車掌側だったな。何か意味があるのかねぇ。 自分は残念ながら国鉄63型73型には辛くも間に合わなかった世代なんだけど、育ったのが東武沿線だったので、
東武7300系7800系という63型系列種?には結構早くから間に合って割と堪能出来たのが幸い。73 78を通じて昭和20年代30年代の板張り吊り掛けの通勤電車を体感出来たというか。 東武西新井工場にはおそらく2000年くらいまで、7300系更新時の朱色に黄色の東武色の63型の頭が倉庫として転がってました。80年代前半まであった7300系の製造銘版は昭和21年製造のと 昭和3?年更新改造のが2枚ついていて、当時としては遠い終戦直後の
時代を偲ぶ事が出来た。ちょっと変な中学生? しかしそれからまた終戦直後まで遡る以上の時間が経ってしまったと考えると感慨深いものがあります。 リニア館のモハ63の顔はなんかどこか違う気がする。。。 静岡局(豊橋・沼津)の72系って客室内にも
鍵式の車掌スイッチが増設されてたんだっけ? 80年代になってもなお本線を走る板張り電車といえば東武ぐらいか >>346
静ヌマサハ78にはあったような記憶が。。。 バラエティに富んだ改造後の姿が人気の源泉かもしれない >>348
京王と西武も。
まあこの2社は80年代前半に早期引退したが。 南武線を走っていた73系はなんだか不浄な印象が強かった。
だから駅で待っていてカナリア色の101系が来るとほっとしたよ。 床が油だとそうなるよね。
全金車だとまた違ったんじゃない?101と同じリノリウムだよね >>354
>>355
サハ78の小さな3段窓とニス塗りの車内がやたら暗く見えて不気味だったのを覚えている。
クモハ73だと全金化されたのに当たる確率が高かったから、こっちは101系に近い明るさがあった。 >>356
ニス塗を上から黄緑色に塗りつぶした車内も安普請と言うか厚化粧と言うか、とにかく洗礼された感じは皆無だったね。 昔、桜木町事件(事件だよ)の写真で、焼け落ちたような車内にまッ黒焦げの男か女かも
判らないような焼死体が累々と倒れたままになっているのを見てから63系とか73系は
不吉で暗いイメージしかない。
写真ではなくて当時のニュース動画だったかも。。。 御殿場線で電化の当初に72系が配備されたのはどうして。
しかもトイレを設置改造までした。 111、113系入るまでの繋ぎなんでは?外房線や鹿島線で72系使われたのと同様。
で、横須賀線で使っていた70系は両毛線に回す。 >>361
ただの「繋ぎ」のつもりなら、わざわざ金掛けて62系アコモ改造車なんて作り出さないんじゃ…? >>363 仙石線のアコモ改造車と同様、新性能車入るまでの繋ぎだったと思うけど。
電車で金かかるのは制御機器や台車といった足回りであって、規格量産品の金属車体はそれほど高くはない。
10年位旧性能車の新性能車並みアコモ改造車で走らせとけば路線のイメージが多少改善され、乗客サービスにもなる。 新性能車入るまでの繋ぎとしても、どれ位の期間その地方線区で走らせるかだね。
千葉から先の房総方面は75年頃の時点で111、113系が入り始めてたし、都落ちの72系は早期に廃車する予定だったから無改造のまま。
仙石線は4ドアロングでないとラッシュ時に対応できない、3ドア中電には向かないという事情があった。ホーム長が短いため最大4両編成。といっても75年頃に101や103を配転させる余裕はない。10年位の繋ぎで乗客サービス改善のため、かつなるべくコスト削減ってことで冷房なしの103の車体に更新。 10年活躍したならもはや「ただの繋ぎ」じゃない気が笑
伊豆急で東急の車輌が入るまでの間使用した113・115系が「ただの繋ぎ」っていう印象です。
まぁ、もはや言葉遊びに近い部分もありますけども… 製造後20年ちょっと走って廃車された車両を短命と言うのが、この辺の相場なんだから、更新して10年でバトンタッチというのを繋ぎといってもおかしくないような。 改造時の意図はともかく
製造から20年でアコモ改造
アコモ改造から10年で新性能化
新性能化後20年で廃車
実に長生きだなw それに比べたら身延に入ったのは短命だったな。
同じ新性能の車体でもトカホセの113なんかと比べるといつもすごく汚れていた。
パンタが違うとあんなに汚れるものなのか・・・? >>360
あのトイレの向かいはロングシートのままだったので向かいの人の視線が気になって入りにくかった。 御殿場線は3ドアクロスを静鉄局は所望したが、電化時に余っている車輌が72系しかなくやむなくトイレ取り付け。
62系や72970のアコモ改造車は、国鉄としては長期にわたって使用する前提で改造はしてる。
再改造して新性能化することはもとより前提に無いのに、台枠や電装品のほとんどを流用など、私鉄の更新車より
検修陣等現場から歓迎されない仕様だったのが疑問。
房総の72系に三段窓が多くて、全金車が極端に少なかったのも、もしかすると62系化改造を構想していたのかも。
新性能車との平行製作は無理があって、房総用62系と武蔵野線向け72970番台は計画倒れに。
>>369
ブレーキシューの鉄粉が舞うため。113系はレジンシュー、62系は鋳鉄シュー。 >>371
武蔵野にモハ72のアコモ車入れば楽しかっただろうな。
トンネル内の轟音がどれほどすごかっただろうか。 >>371 横須賀線で使っていた70系がほしかったのに、同時期に電化された両毛線に持っていかれたというわけか?
御殿場線だと東海道からの111、113乗り入れ増やすからそれで充分と考えたのか 結局、桜木町事故で、昭和20年台後半は新たな中段可動三段窓の72系を大量増備と63系の72・73系編入改造に力を注がざるを得ず、70・80系新製にそれなりに影響が出てしまい、以後あちこちで不足気味になった。
とりわけ80系は運用もタイトで、全検周期3年のはずが、多くの車両が2年前後で走行距離がいっぱいになる状態だったという。大多数の車両が傷みも激しく、かと言って1977年に廃車が始まるまで淘汰も出来ず、それで以降一気に大量廃車になったらしい。
72・73系は、1970年ぐらいから少しずつ廃車が進められていったから、徐々に減ったというイメージなのと対照的。 >>374
そもそも昭和20年台後半の時点で80系運用出来る路線が少なかったからな
その当時の必要数は満たしてただろ
その後の急激な電化電車化に必要な本数を満たせなかったのは当たり前 >>374 仮に桜木町事故がなかったとしても粗製乱造、10年持てばよしの63系を改造するとともに、72系の新製車を大量投入しないと大都市圏の通勤客増加には対応できなかったと思うよ。
70系や80系はそれまで客車列車だった中距離普通、準急を電車に転換するために造られたものだから、72系ほどの優先度はない。
GHQ統治下で物資が統制されている中、大手私鉄では木造車等中古車改造の名目で実質新車を造っていた時代だ。物資が出回ってきたから70系、80系造る余裕が出てきたってわけで。
それでも旅客需要増には対応しきれなかったが。 晩年、地方に転属した全金車や近改車の方向幕をチェックするのが楽しかった。
御殿場線のクハに常磐線幕、富山港線のクモハに横浜線幕が入ったままだった。
あれらも単なるゴミとして処分されたんだろうなぁ・・・、勿体ない。。。 >>377
鶴見のは戦前製、ロクサンより前だよね。
配給受けた私鉄で、自前で増備したのは東武7800系。
よそでは18m車や3扉車の増備になって、20m4扉に切り替えるまでけっこうブランクがあったよね。 >>379
鶴見臨港は戦時中の昭和17年に出現。戦前ではないんじゃないかな。
日本最初の20メートル4ドア車は、クロハ59の事故車改造のクハ55106(→クハ85を経てクハ79056)と
モハ43(→モハ64)か?(昭和18年)。
63系のサモハ63と鋼体化改造のクハ79が現れたのは昭和19年。 その鋼体化79が可部線末期まで残っていた
戦時設計意外と丈夫だったのかな >>381
むしろ、ヤバい車体だったからこそ、早々にローカルに転用されたのでは
その結果、さいごまで残ってしまったとか(笑) 昔、北千住駅は国鉄から東武線への貨物の受け渡しに渡り線があって東武線ホームで電車を
待ってるとひとつ目のDD13が入換してて
ぶぉぉぉぉと紫煙を上げるのが見れたもの
だけど、仮に気まぐれで、昭和40年代に、
1. 常磐線北マトの73系が東武線に入って
単独で東武線内を走れたか? あるいは
東武7300型更には 7800型と併結して走れたか?
2. 逆に 東武7300系更には 7800系が常磐線
に入って走れたか、常盤貨物線経由で
山貨物線更には山手線京浜東北線を
走れたか?更には北マト73と併結して
国鉄線内走れたか?
と荒唐無稽な妄想をしてみるテスト >>382
かつて大鉄局が大阪緩行線での高速走行では動揺が激しく使用に堪えない車両から
地方線区に転出させると言ってたね 飯田線の戦前型国電はその手合いの車だな >>384 >飯田線の戦前型国電
流電は?京阪神地区の高速運転のために造られたんでは?
車体更新されたのも含めて72系が高速運転に向くとは思えないが。 >>385
揺れ枕吊りの短い戦前型と揺れ枕吊りが長いDT17を履いた新製モハ72は
高速時の動揺が全く違うから >>385
常磐で100キロ出しているのを観た記憶がある。 >>387 103系以上の爆音と振動出して走ってたのか? >>385
憶測ですが、経年劣化で高速走行がそぐわなくなっただけでは? >>388
隣同士でも話が出来ないくらいの爆音だった。
ちなみに我孫子→取手、天王台が出来る前。 >>383
走行できただろうか?ATSが違うとか・・?
併結はできないよ。連結器が違う。東武の先頭車は自連、
中間車は7300が63流用密連、7800は大ぶりの密着自連(オリジナル?)だった 対象は違うが、73系末期の頃は中原区でも沼津区でも区を訪問すると随分好感を持って迎えてくれたよ。
当時高校1年生で履歴簿を転記しに行ったんだが、事務所の隅で一生懸命書き写していると
お茶を入れてくれたり「これもってけ」と余剰の部品(車内禁煙プレートとか余ったつり革とか
台車の銘板とか、古くなった国鉄内部の図書とか)をくれたもんだった。
区の職員駐車場はシャコタンだらけでヤンキー兄さんが多かったがみんな良い人だったよ。 >>393
よい話しだ
今では絶対にありえなくなった 高校生の頃、72系ではないが、下十条電車区で可愛がってもらった。
研修の話、構造の話などお茶とともに振舞ってもらったし、実際電車の上や下にも案内してもらった。
また構内の隅に木造国電改造の救援車 クエ9110なんかがあり、車内にも入れてもらった。 73系
御殿場線しか知らない
横浜線も知らない
昨日やってたウルトラセブン
背景に多摩川を渡る63系みたいなのが走っていた
小田急かな >>397 70系の代わりにトイレ付73系が入った御殿場線。
70系はちょうど同じころに電化された両毛線へ。
まあ、小田急からの直通急行がSEになったからそれで十分だろ。 国鉄と東武
63系=→7300系→78x0系=作りの良い63系
6000系=作りの良い165系
8000系=作りの良い103系
1720系=作りの良い151系 >>399
6000系はどうだろうなあ
背もたれの上半分板だったよ 5700系=作りの良い80系
3210系=作りの悪いクモハ11
63系→西新井工場の詰所 山スカ71系に混ざって連結されていたような
外れが来たって感じだね ありましたね山ゲタ ただ4連全車72系はなかったはず
トイレの関係で先頭どちらかは必ずクハ76だった トイレ付73で思い出したが、先日NHKBSで「倫敦の山本五十六」関連の番組をやっていて、
その中で戦死し遺骨となった山本五十六が東京駅に着く当時の記録映像が流れた。
軍の高官らしき人物が白木の箱を恭しく頭上に掲げながら東京駅に着いた列車から降りて
静々と進んでいく短いシーンなのだが、その時山本の遺骨を運んだ車両の車番は「サロ45003」
と読み取れた。
サロ45003は戦時中の4ドア化でサハ78023を経て御殿場線投入用に便所を設置してサハ
78401になった車輌。
過去に御殿場線で数回乗車したサハ78401に山本五十六も載っていたとは驚いたよ。
ちなみに山本の国葬は昭和18年6月。
サロの4ドア化は昭和19年9月@大井工場。 関東ではモハ72が茶色ばかりだったので、関西に行ってオレンジを見たときは感激した。
その後、我孫子駅でオレンジのモハ72を見た。なんと天オトから転属して来た車両だった。 房総のクモハユ74はここでいいんだよね?
今の言葉で言うと魔改造の奇怪な面構えw
あの前照灯とテールライトの位置で、補強?
の楕円がついてると、アルナ工機の東武顔
になる。
ってハがついてるという事は客扱いしてたの
かな?113系との併結でわざわざそっちに
乗る人はいたのかな? >>406
客扱いしたことはなかったと何かの記事で読んだことがある。
101系との併結はレアだった。客扱いありなら乗りたかった。 >>406
>>407
それは今でも議論があって、当時ジモティーで乗ったという人もいるようなのだが、
その「証言」が信用出来るのかどうかがわからず・・・
「きのくに」のキハユニには、一般乗客が乗っている画像があった。
クモハユは荷物車として使用なのに、なんで「ユ」なのかとか、車体流用なのはクモユニと異なるが
なぜかとか、いろいろ謎はある。
乗客を乗せた時期があるとすれば、ハ室のドアに取っ手があるか無いかが鍵? 小包が激増する年末に73系を使った日本縦断荷物列車が運転されていた。
まだクロネコも佐川も存在しなかった頃。 青梅線で73系の先頭車両の客室前部を仕切って荷物輸送やってたな。
カーテンみたいなので仕切ってたような記憶が。 御殿場線も夕方前に国府津を出る列車の沼津寄り先頭車の前3分の1位を幕で仕切って新聞運んでたよ。 たしか仙石線にも。クハニ19亡き後、73系で新聞輸送していたはず。 >>410
上野駅で年末に見た覚えがある。
何故あんな所にモハ72?
よく見ると荷物がぎっしり積まれていた。 「郵便・荷物電車と併結列車」と言うサイトの真ん中辺の「■年末に実施の長距離荷物電車」に>>410の記事がある。
ttp://tnk-ko.a.la9.jp/gallery1/niden.html 南武線の73お別れ運転。
発車後、車掌区のお偉いさんのような年配の方の
「本日は南武線旧型電車お別れ運転にご乗車頂き誠に有難う御座います。」
「長年活躍した旧型電車も本日をもって・・・云々」
とお別れ運転ならではの車内放送が入り、その時はざわついていた車内も
しんみりとして放送に聞き入っていた。
が、放送の最後になって
「皆さま、どうか開けました窓から手や”足”を出さないように・・」
と言ったもんだから、車内のみんなズッコケた(←昭和)
「手や足だって」
「普通は”顔や手”だよな」
って回りで話してたっけ。。。 …南武線、通ったなぁ、横浜線(49年)青梅線〈51年)ときて、南武線〈53年)だったかな?
最後は、状態のいいの、全検の残ってるのをかきあつめて、かなり状態のいいものばっかりで編成されてたように思う
最後に集結した鶴見線は3連だったから、ちょっと触手が湧かなかった覚えがある。 富山の72系は後継車をもってこなかった。
105系とかつかえそうだったのに。 >>419
短区間のために用意しなかったみたいだね。
471系は場違いな感じだった。 >>418
1978頃のコロタンかケイブンシャのシリーズのあるページに鶴見線の説明があり、『クハ79246はモハ63のトップナンバーだった』と書かれていた。
自分は当時小6だったが俄然鶴見線に興味が湧き、夏休みに家族と埼玉からはるばる乗りに行った。
残念ながら当該車には会えなかったが、全金更新車、300番台920番台と色々で面白かったですね。
いかにも元63のニス塗り3段窓もいたし。
付き添いの親もまだこんなのがいたのかと感慨深げでしたよ。
その月のRJ誌だったか、車両動向ページではクハ79246は6月頃には廃車されてたようで。
南武線からの転入車に押し出されたんですな。 63系絡み・・というわけで東武7300型
後に増備された7800型と、運用面ではまったく共通でしたが、保守ではどうだったのかなぁ?
国鉄でも全般検査は63系出自は2年周期、増備者の720-500は3年周期だったから、
東武で置き換えの際に7800型は5000系に更新、7300型は「1回載せ換えてる」から廃車。
そう解説されてたけど、実際はどうだったんだろ、やはり検査周期に格差があったのでは?などと思ってしまう。
そういえば国鉄末期の62系では種車が63系と72系があって、検査周期もそのまま強襲だったので、扱いに苦労した挙句早期の沙汰に至ったというが。 >>422
踏襲な。
それはともかく、7300系でありながら7800系と足回り差し替えの車や、
完成時期からDT12のコロ軸受け化改造台車(戦災台車)が混じっていたり、
おそらくはMT30モーターの車輌があったりと、意外と統一出来てない点はあったかと思うが、
検査周期に差は無かったのかも。単に再更新を嫌っただけでしょう。 中央西線72形の廃車回送の編成、実施日を記した
書籍やWEBページをご存知でしたら教えてください >>425
鉄道ファン77年6月号
なぜか、サハ75が組み込まれて回送。
写真無いのが惜しい。
この回送、先日出た72・73形本にも写真、編成例無かったんですよ >>426
サハ75の出所(75108・75109の2両)
51.4に岡多線開業、それ用として、70系6連(TcMTMMTc)2本から4連(TcMMTc)3本を作った
必要なTcTcはちょうど中央東線山スカ置き換え時だったので2両捻出、ミツからシンへ
押し出されたT2両はしばらく神領区留置、中央線の車窓からもよく見えた
他線区に転用も考えたのかもしれんが、結局廃車、しかも新しい車から
70の運用減分は確か113系転入で埋めたはず(TcMM'Tc×4が大船から転入)
なお、名古屋地区の72は結構無視されることが多い 中央本線の103系も影がうすい。
結局4扉車両は無くなってしまった。 >>428
といいつつほぼ毎日テレビ出演してましたからね
中央線の103系
https://youtu.be/M1hoWsZ1PbY >>427
確かに名シンの73系はアルミサッシ化された戦後新製車ばかりで、クモハもサハも
居なくてイマイチ面白みに欠けた記憶がある。
まだ、仙リハ・新ナカ・高シマ・南ヒナ・南テシ・西ナハ・西トタ・長キマ・静ヌマ
・静トヨ・静ママ・静チウ・金トヤ・広ヒロ・広ウへに戦前型・73系が残っていた
時代。
どうしてもそちらが優先で、気付いたら名シンの73系は消滅していたという感じですね。
ただクハ79904だけは会いたかったしじっくり観察したかったなぁ。 >>433
拾い上げてどこか貼りなおしといてくだしあ
♪がなくなってからどこを使っていいのやら・・・ >>431
ありがとう!
隣のキハ58含め懐かしい写真です。
助手席側の謎の小窓は「編成番号表示窓」ですね。
この頃大井工場が改造したMc73900、Mc73902、Tc79904に設置されてましたが
いずれも後年埋められてますね。
こう見るとMc73902とTc79904の車体は同一設計、と言う噂が信じられるような
でもどこか違うような。。。
判断悩ましいですね。。。 記憶違いでなければ、黒澤明の昭和22年の映画
素晴らしき日曜日に 原型の63型クハかクモハの出てくるシーンがあります。貧しい若者の
カップル。音が筒抜けのひと間のボロアパート
で仲良くしようとしてもこんなとこじゃいや
と言われる。じゃあ喫茶店と言ってもろくに
お茶も飲める金もない。惨めなデート。
でもこの映画好きだな。
昭和46年の京浜東北線の原型窓のクハクモハ
の写真見て、その映画が撮られた時代と、
昭和46年の約25年の間に、東京はどれだけ
激激激変しただろうと思った。と同時に激変した後の東京には、なんだか自分の居場所が無いような気がして少し息苦しくなった。実際は
自分はまだ物心つくかつかないかの頃だったわけだけど。 >>438
貴重な情報ありがとうございます。
早速「素晴らしき日曜日」でググると予告編の様な2分半程度のYouTubeがヒット
しましたが、開始冒頭の1分30秒位に駅に進入してくる63型が画面一面に映って
いました。
数秒の動画ですが、見たところは、モハのようだがパンタを上げていない?、前面
上部に通風器設置有り、手動ワイパー、半室運転台、前面腰部中央にチョークで書
いた行先を消したような痕跡があるが判別不可能、運行灯2桁・前サボ引っ掛け式
なので関西系車両と言ったようなところが目につきますが、驚いたのは尾灯が右側
のみ1灯なこと。
初期のクハ79などでは右側埋め込み、左側引っ掛け式尾灯の車両はありましたが、
モハ で、左側に痕跡も無い車両を見たのは初めてです。
その他にも中間に連結されている半流で非貫通のような謎車両、車両間の貫通幌無し、
当時の世相が判る駅構内など、短い動画ですが非常に見どころのある内容でした。 見て頂いたんですね。ありがとうございます。
63型の最も63型らしい頃?戦後日本のゼロ地点。 大陸の日本人にはまだ戦後ではないですが。
鉄ピクの昭和47年の東武鉄道特集見てるん
だけど、東武に入った63型はずっと国鉄番号
で走っていたんですね。面白いなあ。 >>441
焦土と化した国土だが、一方で戦争が終わった安堵と生きていくために逞しく立ち上がった
人々に甚大に貢献したのが63だったんでしょうね。。。
一方で桜木町は不幸な事件だった。。。 幼い頃に見た更新後の73系しか知らないので、63系の原型を見たときはカルチャーショックだった
この車両がよくここまでブラッシュアップしたもんだと感心した 南武線にはいろいろなタイプが揃っていたから、あまり衝撃は受けなかったなw
近代化改造車が大半かと思いきや、サハ78142とか、クハ79212みたいに、
昨日までロクサンでしたみたいなのもあったり。
クハ79212先頭の立川行きが登戸に入ってきたら、小学生の男子達が
「あー、来ちゃったよー!」と「嘆き悲しんでいた」のが印象的ではあったなw 抵抗制御、かつ回生ブレーキもない63系は環境に優しい電車とは言い難い
(そんなのが車体載せ替えとかやってつい最近まで現役だったという) >>447
お〜、良いね〜♪
眼を閉じて聞いていると自然に身体が揺れ始めるし、レールのつなぎ目ではお尻に軽い衝撃も感じるよw
一斉に左右に振れるつり革も目に浮かぶ。
止まる直前に、”ブツ「のぼりとっ」ブツ”と言う「駅名呼称のみ」の車内放送まで脳内に聞こえてきた。
なつかしいなぁ。。。 >>447
スピード感あるね。
画像がないのが逆に新鮮。 山陽の702,709や小田急1800は変貌したほうだと思うが
72系をJR西日本の103系や201系みたいに徹底的に更新した姿を想像してしまった
旧型車でも付けられる路面電車みたいな冷房を付けたりとか
但し仙石線みたいに台枠より上まるまる新製でなく >>450
窓をユニット窓の上段下降窓に交換。ドアをステンレスドアにして、
パンタをシングルアームパンタ化。台車を新製空気バネ化。付随車はTR69を流用。
CU77クーラーで冷房化。行先表示は黒地に白文字で電動化。ブレーキはHSC化。
確実に新車作るより金かかるだろうなぁ。 >>452
鋼体化名義車以外は、モハ70同様の装備だし、歯数比が違うという点はあるにせよ、
完全新製車は言うにおよばず、モハ70からの改造車もあるのだから、70系の系統だろうよ。 >>451 動力はカルダン化 行き先表示は
LED+液晶 前照灯と尾灯はLEDで四角い
本体が四角いケーシングに収まる
室内灯も白昼色LED >>454
もはや72系の要素はどこにも無いようにも思えるww
車体の骨材のみw >>455
なお、グローブ式ベンチレター・つり革・網棚・座席の一部は種車のものを再利用し
費用の低減化にも努めております。
大阪鉄道管理局 吹田工場 >>453
モハ71って、ブレーキはAE式(70・80系以外の旧型)? ARE式(旧型では70・80系のみ)?
それを確認しないとな?
ARE式なら、12両を超える長編成をARE式装備車両どうしで組める。AE式だと12両以内に抑えられる。
ただし、旧型で実際に13両編成以上を組んで実際に営業に使われた例自体は、実際には80系、80系に組み込まれたサハ75、クモユニ74、クモニ83、クモハユ74(113系に併結)しかない。
モハ71は、長編成を初めから想定せず、完全にモハ72と足回りを共通化した可能性もあるかも知れないと思ったので… モハ71とクハ76の4両と
73系4両連結の8連が有ったろう
実車見たことないが写真で見たぞ >>457
んじゃなにかい?
AEブレーキだったら、モハ71は72系だと、そう言いたいわけ?
3ドアセミクロスなのに? そもそも>>452の質問自体がぶっ飛びすぎてるとここの住人なら思うのでは・・・・?
それとも斜め上を行くような新たな着眼点と発見があっての質問なんだろか・・・? 混在がふつうだったのでどう分けるかも難しいように思う
単独組成が基本の80系がむしろ例外 淘汰された一因はバリアフリー非対応だったことだとか 347Mの最高速度
名古屋まで95
名古屋から110
クモユニ外れるからか
ところでクモユニ74は
やっぱ73系統か アコモ改造車(72系970台)があともう少し造られてたらモハ72は1000番超えてたかな?
そうなると車体表記は気動車や客車のように
モハ72 1001という感じになったかな? >>465
ハチロクやキューロクみたいにモハ72 1970からはじまるとか。。。 >>464
クモユニ74・82、クモニ83等はモハ72・クモハ73からの改造で、足回りは旧車流用だから、実質72系と言えますね。 >>465
モハ72970番台の相方はクハ79600番台だったから
(当初企画段階では500番台で検討、当時クハは489〜899まで欠番)
本来なら900番台は試作車向けの番号区分だから一般車用でもないし
モハ72だと719〜849まで欠番なので720番台とかじゃないの? そもそも国鉄の形式称号規程上直流旧性能車(旧国)に
記号番号に6桁表示やハイフンなど使えないことを理解してないのかね?
1959年の形式称号規程改正で旧国は5桁で収めるルールもあるし
ちなみに1953年の改正で国電は以下の様に整理されている
雑形・社形:1000-9999
17m級:10000-29999 ※1959改正では阪和形を編入(国鉄制式扱い)
20m級:30000-99999 ※1959改正では新性能などを除外 >>469
>そもそも国鉄の形式称号規程上直流旧性能車(旧国)に
記号番号に6桁表示やハイフンなど使えないことを理解してないのかね?
どうせ改正するなら5桁で収めるなんて変なルールやこだわりを無くしてしまって客車や気動車みたいな表記にすりゃ良かったやん
何でこう電車だけ特別扱いしたがる理由が分からん
そもそも旧国は末尾が0始まり(試作モハ90もそうだったな)だったり1始まりと一定してない >>469
クモユニ74とクモハユ74は重複形式であって、本来使えないことを理解してないのかね?
モハ72970台は、全金属車の意味が900番台には持たせていたので、そこに番号を設定した意味もある。
試作車の要素があるとして、72970号はわかるが、その後仙石線に10輌も試作を重ねるか?
実際問題として、武蔵野線用に改造されていたら、必然的に72999まで行ってしまい、オーバーフローは
目に見えているので、おそらく暖地向けとしてモハ72750〜にしてしのいだと思われるが、
クハは79700〜になったかもしれない。武蔵野線は6連なのでサハ78形も登場すると思うが、
サハ78600〜か。62系に房総増結用としてクモハが登場した場合の形式がどうなったかも気になるな。 バリアフリー対応もなされてない電車が何か?
235系は確かに急増乱造窓も開かないバラック電車だが、固いとはいえ長椅子は申し訳程度にあるし、座席のない事実上の車椅子スペースもあるぞ 私達ロートル世代には日本の復興に寄与した頼りになる電車だよ。
若い連中に理解するのは無理だな。 >>457
ブレーキの違いといえば、飯田線に紛れ込んだサハ87001やクモニ83101〜3は個別に改造されたのかな?
あと、阪和線の70系末期に中間にモハ72系を2両挟んだのは(実に見苦しかったが)どうやって対応したんだろ?
ご存知の方おられますか? >>474
AREとAEは、当然にして下位互換はあるでしょ。なので、房総線で80系臨時準急に
モハ72を混結しても問題無かったわけだろうし。
結局混結の場合は、AEブレーキ動作になるだけで、AREの機能が使えなくなるだけでは。
クハ153を先頭にすると、中間のクモハ165等の抑速ブレーキが使えないのと同じでは。 ARE装備車は、それだけで編成を組めば、13両以上の編成が組める。ただ、現実として旧国で13両以上の編成は、80系(サハ75含む)もしくは新性能と組んだクモユニ74・82、クモニ83以外に例はない。72系は、昭和27/1952年以降の新クハ79、モハ72では全検回帰が基本3年と70・80系と同等に伸びたが、ARE式の採用はなく、対応するのは新性能や80系などとの連結を考慮したクモユニ74・82、クモニ83や、一部の事業用など、改造車のみである。 >>475・476
ご教示ありがとうございました。長年の疑問がとけました クモ(ユ)ニはかなり高速走行させられたので
足回りが厳しかったのではないのかと思った。 戦時設計車の旧63の箱の部分はともかく、このグループ重量がかさんでも
言われる程ボロでもなく下回りはいわゆる昔の電車でガッチリしてたんじゃないか
それなりに使い尽くした感じだし >>479 台車の一部に代用材使ったり、制御機器を一部省略するなど、安全性を低下させかねないようなことが行われていましたが 戦時設計の63が持ったのは、桜木町事件もあって欠陥部分の改修を緊急に進め、物資がだんだん出回ってくるにつれて足回り含めて、まともな品質の部品に交換していったからなんだろうなあ。 >>478
高速走行って、基本的に相手が新性能でも111・113・115・153・165系などで普通電車だから、72系の最高95km/hに対してせいぜい通常は100km/hどまりの運転しかしてないよ。
DT13は決して高速特性にはすぐれていなかったから、相当揺れたはずで、乗ってた職員は大変だったかも。 昭和58 59年高校通学でギリギリ東武7300系に
間に合ったが乗っていても大して7800系と
違わなかったな。その7300系だが
昭和21年 新製 東武鉄道に配属
28年 車齢 7年 桜木町事故を受けて改修
35年 14年 車体老朽化激しく7800系と同等の
ものに更新
59年 38年 廃車
それから更に38年経ってしまった。
同じ38年で今と昭和59年はそれほど変わらないが、昭和59年と昭和21年とでは天と地程の差があるだろう。 >>482
実際に走行中は、あの吊掛音が甲高くなって「悲鳴」に聞こえましたね。 急行だとアルプスしか知らないがあれは短距離夜行だったから最高速度100km/hで十分だったかと 高性能車と低性能車が混血すると、低性能車に合わせるんでないかい。 >>444
確かに、車両によって大きく異なるからわかりますね
クハ79はその最たるもの
戦中の剛体改造車
戦後のモハ63(サモハやクモハ)
その後増備された300〜(それも年度によって異なる)
920〜
さらに、戦前車の4ドア化
600からのアコモ改造車
とても同じクハ79とするにはあまりにも無謀としか言いようがないほど
4ドアのTC車を全部クハ79にした、のでしょう 73系の足回りでJRに営業用で承継されたのがクモハ84だけだな
JR西にクモニ83が承継されてこれを旅客用にした
旧型国電全体でみても他にクモハ12やクモハ42とか非常にレア >>489
一つには旧形国電全体の「形式数字の払底」という問題があったのだろうと。
あの2桁の数字で形式を表すのは、それなりに合理的で私鉄だったら十分と思えるが・・・
戦前形の4ドア化はクハ85形だったり、クモハ31はモハ64形だったりしたわけだけど、
その調子でやってると早晩破綻するので、系列が違うはずのクハ58をクハ47に入れたり、
クハ85はクハ79に入れたりいろいろつじつま合わせが行われてる。
戦後早い時期に3桁形式にしていればよかったのだろうけど、大改番は避けられず・・・ >>491
旧国だけあるいは新性能車が出かけた頃、現場で電車の番号を5桁で呼んでいたのも理由かな、
旧国大改番の頃はまだ、モハ72532ならモハ+72532的な感じで扱っていたとか(星晃氏のなんかの文章より)
細かいことが不明ですまん 初めて関西に行ったとき、阪和線や片町線でオレンジのモハ72を見た。
首都圏だと茶色ばかりだったので、とても新鮮に思えた。
それから暫く立った頃、常磐線我孫子でなんとオレンジのモハ72に遭遇した。
成田線運用のモハ72で、天オトから転属してきた車両だった。
あのときの感激は何十年たっても忘れることが出来ない。 >>493
自分も、阪和線の末期で初めてオレンジ色の旧型国電を見て乗った時は、
新鮮というか違和感というか、なにか違う感触をもっていました
しかも70系との併結まであり
中央東線の場合と異なり、塗装が異なる混色でしたから 小田急のモハ63は黄色だったの?
あと国鉄番号が割り振られれたみたいだけど
私鉄に行ったあとは国鉄側では永久欠番に
なってたんだよね? >>495
小田急(後の1800形)は茶色。当時の小田急の一般車両と同じ。
ちなみに、車体更新(全金属化)後もしばらくは茶色一色だった。 >>495>>496
小田急に入線したモハ63は、当然割当時は省と同じ色。形式車号も書かれていた。
のちに少し色味が変わったらしいが、具体的にどう変わったのかはわからん。
私鉄割当車の番号は、その後省向けに同番号が製造されたものが多いようだが、
省向けの63500番台との整合が取れたのかは確認してない。
小田急1800は更新後も全金属車には実はなってない。内装に木が使われている。 サンキュー
私鉄高速電車発達史(1) 鉄道ピクトリアル
アーカイブス という本の表紙が、黄色の
63型通風窓付きで海老名行きとあるんだけど
何なのだろう? ごめん 相鉄だった。馴染みが薄くてピンと来なかった。結構ショッキングな黄色だ。首都圏の
国鉄は山手京浜東北総武常盤中央とも何でみんな茶色だったのかなあ? むしろ相鉄の可能性しか無いんじゃね
小田急1800形の車体更新って1957年と1958年でしょ?
それ以前に海老名行なんて無かったんじゃないか?
相鉄の黄色ってモヤのあれでしょ? >>498
相鉄の3000系。モハ3003を先頭とする4連だが、2輌目はクハ2500形(17m車)、3輌目は旧塗装の3000系モハ、
4輌目は黄色のクハ3500形。
モハ3003は旧小田急初代デハ1808。
このカット、比較的珍しいのは2輌目に2000系のクハが入っていること。省モハ31系の復旧車の模様。 山陽名物の広軌ロクサンが廃車後東二見で長い間留置されてたから、
てっきり保存されると思ってた。淡緑色で赤錆も目立ってたけど、
近くに復元した206号もあったから期待してたのに解体されて残念だ。 ありがとうございます。
17m車はWikiのこれですね。
31066(事故) - 相模鉄道モハ1304 → モハ2007 → 伊豆箱根鉄道モハ164
東武や西武にも戦災復興31系が入ってたみたいだけど20mと併結してバランスが悪くなかったのかな? 東武は20m車は20m同士で組んでいた記憶
63+戦災復旧20m車の2連てのもあった 小田急1800といえば、自分には白地に青帯の「小田急カラー」で、
秩父に行って「黄色に茶帯」がやたらと不自然に見えたものです。
そしてそれが101系に置き換えられた、というのが、なにやら因縁めいたものを感じたものです 寂寥落莫たる北武州大平原を疾駆疾走する秩父鉄道東武鉄道兄弟には土稲藁模様の鶉や雲雀の
様な燻んだ地味目の色が似合うのであります。
かつて旧63型のモハ7317+クハ314に戯れた我ら足立区民には、北千住にて邂逅する白に青線のスマートな小田急車輌やバット社製ディスクブレーキ付き台車を履いた輝けるステンレスボデーの東急7000系は東京西部の洗練された山手を思わせる羨望憧憬の的でありました。 >>506
たしかに秩父カラーは浮いていたな
なんで秩父はこの形式を買おうとしたんだろ
他社にも手頃な中古車はあっただろう >>508 東急5000、車齢は新しいし軽量で性能もよいが、直角カルダンの整備が面倒だったからでは?
西武451も考えられるが制御機器等が古臭い。それよりは小田急1800の方がマシだったからでは?
あと、タイミングの問題。東急5000の場合、引き取り希望先が多く競争に負けたのが原因かも。 黄色は変だったけど、登場時100系とお揃いのシックな秩父カラーは悪くなかった。
年増の厚化粧とか言われるが、子供の頃小田急1700,1800,1900の
末期の白色結構好きだった >>508
浦山口駅のカーブがきつくて、3ドア車だと両端ドア締め切りにした時、中央のドアしか出入り出来ないが、
20m4ドア車なら2カ所ドアが使えるからだったような。あと列車無線が欲しかったというのも理由かも。 他の旧国も同様だったが、73系も末期は3段窓が硬くて開けようとしても開けられなかたった。
もちろん全部の窓が開かないわけではないが、そこそこ開かない窓があった。
これじゃ火災の時逃げられないなぁ、と思いながらこういう個所を区では修繕しないのか疑問に
思ったよ。 >>512 窓から逃げるのって最終手段だろ。その前にドアを開放させて降ろすか、貫通路通って隣の車両に移動させる。桜木町事故当時のロクサンは火災防止対策では欠陥だらけだったが、三段窓以外にも非常用ドアコックの設置場所が乗務員にもわからない構造、貫通路が施錠されていて隣の車両に逃げ込めなくなっていたこともある。 桜木町事故はデッドアースつまり絶縁不良の
地絡による自然発火だったみたいだな。小田急の元ウテシによると小田急に配給された63も燃えたらしい。
ただウテシカレチの機転で直ちにドア解放したから死傷者出なかった、と >>514
えっ、「配線工が誤って落とした工具によって切断された架線がパンタに巻き付いて
火災発生」では無くて自然発火だったのですか・・・? >>514
小田急1800の焼損車は確認されていない。フカされたんじゃないのか? 小田急が1700形特急車のタネ車にするため購入したモハ63082とモハ63168が
全焼焼損車であり、一時経堂車庫に置かれていたので、それを見て勘違いしたのでは。
両車ともその後サハ1751、1752になったが、隅柱に曲線が設けられていたので、
元車体は台枠を残して一度解体して柱を立て直したものと思われる。 いや小田急車掌してた人が本に書いてる。
乗客乗せた状態でデッドアースで火災起こしたが、ウテシの機転で乗客全員降ろして事なきをえた、と。車両も比較的初期消火に成功したんじゃないかな?
桜木町事故のは現場の人の国会招致の記録が
残ってるけれど、最初から我々自ら保線作業員
のミスが原因ですって言っていてなんかおかしい。 貫通扉無しで窓は格子付き、コック無しとか凄いね
インド辺りの客車も乗りたくないわ >>520
等級が上だと、エアコン付き固定窓で鉄格子はないけど、三等はその通り。
3人掛けで木の座席、もちろん扇風機のみ。長距離移動はきつかった。 >>520 インドの通勤電車ってドアなしじゃなかったっけ?ドアから乗客がはみ出ていて >>522
乗客が多すぎてドアを閉められないだけ
ドア自体はちゃんとある エアコン完備の列車は窓が開かないから鉄格子つかないと思う 先日大宮の鉄博行ったら73系の3段窓とシートが展示されていた。
以前行った時は気付かなかったので嬉しかったが、肝心の窓は固定されていて開けられなかったよ。 リニア鉄道館のモハ63
三段窓の中段は固定されているのだろうか
たまにネットで車内公開の報告があるが
窓までは触らせてくれなかったみたいだし >>528
貴重な産業遺産だからな。
安易に触らせない方が良い。 メトロ銀座線なんか昔のリバイバル風なんだから、JRも窓に三段窓をラッピングした
63ふうの車両を出せばよい >>530
裾絞りの無い形式で運転席側4分の1だけでも良いからぜひやって欲しいw
三鷹と桜木町へは入線禁止で。 クモハ73とかクハ79、バリアフリーの観点からは申し分ないんだけどね
車内に段差が無い、とか 三段窓はやっぱり怖い
何かあったときの事を想像してしまう 開閉可能に改造された三段窓中段だけど、末期の御殿場線に居たサハ78は錆か塵が固着して容易に開かなかったよ。 >>537
無賃乗車をシャットアウトするためだとか聞いたことあるけど
事故の時を考えると恐ろしい。 頑丈そうに見えても実は資材不足で恐ろしく薄っぺらい外板だったと後で聞いて驚いた。。。 >>540
誰から聞いたかしらないけれど、確かに当初の車輌は外板厚1.6ミリ。でも増備途中から
元の2.3ミリに戻してるよ。
63系で問題だったのは、ひずみ取りしてない外板よりも、台枠の溶接部および全体の強度不足。
垂下してしまうものが結構あり、東武などでも問題になったので、各社更新時に
台枠は補強している。 ミリ単位で薄くしても節約効果は微々たるものだったんでしょ
それと引き替えに強度を犠牲にしたのではおかしい >>543
外も車内もギンギラギンで、それはそれは当時としては美しかったらしい。
配置区の蒲田区もラッシュ時を避けて壊されないように大事に使ったようだ。
蛍光灯も採用されていた。 >>544
不夜城のようだったと何かに書いてあった 先日同和片上鉄道の吉ヶ原駅に行ったら以前置いてあったクモハ73 383の前頭部が撤去されていた。
噂では四国に行ったらしいがどなたか詳細ご存知の方いませんか?
あとこの車両は車輌後部の妻部も広島?で保管されていたはずだが、そちらは解体されて存在しないのでしょうか・・・? 何はともあれ今の山手線の車両もモハ63形が基本だからね >>547
E235の先頭車を見ていると、だんだん首都圏ローカル電車がモハ63形に回帰しているような気がする。
クハ79系後期からE233系にかけての徐々に洗練されていったデザインが、209系以降徐々にのっぺりに
なってきて、E235系ではついに直線的な面構えに戻ってしまった。 >>548
戦前最後の半流ノーシルヘッダー張り上げ屋根が頂点で
ロクサン以後は大量輸送に追われながらも少しずつカッコよく、という感じだったが
もう今のは人を運ぶ機械でしかないよな 最高峰はMC73902とTC79904だな。
後年の近代化改造車や全金量産車より洒落ている。 >>550
窓がガチャガチャの73更新車は勿論、79920よりもガラスが大きくサンが細いので
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