●画期的と不運の63系・72系・73系●2両目
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戦時体制下の輸送力増強を目的に開発された電車であるが、
21世紀の現在に至るまでの旧国鉄からJRを始め、
大手私鉄でラッシュ輸送に広く用いられている「全長20m、片側4扉」
通勤輸送向け大型車体を本格採用した最初の電車として、
日本の鉄道史上画期的な存在であるにも関わらず登場の経緯から、
極めて粗悪かつ不完全な設計であり多くの犠牲者を生じさせた、
桜木町事故では設計の欠陥が被害を拡大させた63系。
「皆殺し電車」「殺人電車」「ロクでなし電車」とも揶揄された。
1951年以降安全対策・体質改善工事を実施して改称したグループ、
及び戦前製20m級2扉車(32系、42系)の4扉化改造車を含む、
72系電車(新製車)を含む63系改造編入車の72系73系を語るスレです。 63系登場の経緯
第二次世界大戦末期の1944年、戦局も敗色濃くなる中、
兵器生産へ人員を動員するための通勤輸送用として、緊急に開発された。
最初に木造車の改造(鋼体化)名義で「クハ79形」制御車が竣工し、
追って「モハ63形」制御電動車及び「サハ78形」付随車が製造されたが、
終戦までに間に合ったのはクハ79形7両、モハ63形14両、サハ78形8両だった。
本格的に量産されるのは終戦後のことであるが1950年(昭和25年)までの間に、
実に688両が量産され、戦後復興の一翼を担った。 63系構造
車両の最大長は従来車と同じく20mとされたが連結器長を縮めて
車体長を19.5mに延長し収容力を増加させた。
また、幅1000mmの片開き扉が片側4か所に設置された。
満員に詰め込んだラッシュ時の換気に配慮して屋根には、
太い煙突状の筒に覆いを被せた形の大容量のグローブベンチレータを装備したほか、
前面上部にもベンチレーターを設けた。
また換気促進およびガラスの節約を目的として側面の窓は3段に区切られ、
中段は固定、下段と上段がそれぞれ開けられるように作られた。
ガラスの節約のため窓の桟を増やした車両もあった。
全体的には「戦争に勝つまでの間、数年保てば良い」という設計思想のもとに、
資材を可能な限り極限まで切り詰めた設計がなされた。
車端部の形状も工作の簡易化のため単純な切妻構造とされた。
雨樋も省略され、代わりに扉の上部に水切りを設けた。
また、鋼材の節約のため外板は在来型電車より薄い1.6mm厚とされ、
施工に手間の掛かりカーバイドや酸素を消費する歪み取り措置も行われなかった。
車体下部の台枠部分の外板も省略され、台枠側面を露出させている。 電装品も一部が省略されたり極めて粗悪な代用品が使用されるなどしており、
特に絶縁関係の脆弱さは後に桜木町事故の要因となるなど問題の多いものであった。
内装においても通常の車内の内張りが省略され、木造の屋根には骨組みが露出しており、
照明はカバーも全くつかない裸電球であった。
また最初期の車両については座席はドア脇の床に置かれるドアエンジンを覆う部分以外には
ほとんど設置されず、布地も張られていなかった。
さながら当時の民家同様、ほとんどバラック同然な車体であった。
また当時は電装部品が不足していたため、運転台付きの電動車として計画されながら、
床下に主電動機や主制御器などの電装品がない状態のまま制御車扱いで運用に入った車両も多かった。
さらにひどい場合は電装品どころか運転台に装備する主幹制御器やブレーキ制御弁などの,
機器もないため付随車扱いの状態で運用に入った車両さえあった。
終戦後の混乱が次第に落ち着き資材不足が収まってゆくにつれて、
内張りや座席も整備されていった。
1948年(昭和23年)から座席の座面に布を張り照明はグローブ付きに扉は鋼製になった。
1950年に63形として最後に製造された4両(63855 - 63858)は雨樋が付き、
屋根の水切りと前面上部のベンチレーターがなくなるなど、車体構造の面では戦前の水準まで回復した。 前スレ、完走出来ず残念、ロクサンナナサンらしいといえばそうだが・・・・
前スレ
●画期的と不運の63系・72系・73系●
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1230184725/ 980越えたら半日ノーレスであぼんとは初めて知ったよ。 前回、クモハ73043+クハ79939で終わったのだけど。
何でこんな事書いたのだろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています