山陰本線福知山線の国鉄時代の旧型客車とその思い出
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山陰本線福知山線の国鉄時代旧型客車について語ろう
大阪発出雲市ゆき米子ゆき鳥取ゆきといった長距離の
旧型客車ならば特に大歓迎だが短距離客車列車でもok. >>90
どうやって鳴ってたのかまではあなたと同じで判らんけど、
ブザーは間違いなく出発合図だね。 ブザー付きのとこと、無線機でこちら○○列車車掌、機関士さんどうぞ、
こちら○○列車機関士、○○列車発車!、ポォー・・の流れだった。
旧客は静かだから、掛け声が良く聞こえたなぁ。 >>92
蒸機時代?
ともかく、車掌を介さない「出発合図」常用の頃だったなら
無人駅が無線機扱いだったらしいね。 旧客車両が好きで特に夏休みには、良く乗りに出かけていたな。
夜行山陰も窓を開けて真っ暗な中に白熱電灯が光る田舎の風景を見ながら楽しんでた。
落ち着いた佇まいの車内、61系、35系、43系・・・・、
何故だかあの車内の匂いが妙に好きだった。
あの頃にデジカメがあったら、どんなにか・・・・
そして、今はもうあの懐かしい匂いもすっかり忘れてしまった。 >>96
今残ってる現役車両も、あの頃の匂いは変わらないね。
束も支社内イベントばかりなので、長距離乗れる機会は無くなって
しまったけど。 京都駅山陰線専用頭端式ホームも架線が無くて、
ローカル線独特のムードが醸し出されていて良かったなあ。
あれはまさにディーゼル王国の象徴だったよ。 夏休みは福知山の祭りと花火が一番の楽しみだった
姫路から片道4時間の道のりが行きと帰りで正反対で長いこと
帰りに福知山駅の入り口で売ってた水槽のニジマス買って帰りたかった 100まで来たね
旧型客車=昭和時代と言っても過言ではないが山陰本線福知山線はまさにそれだ 旧客ではないが、蓬莱峡のキャンプ場に置かれている20系は一見の価値有り。 >>92
『ンヴゥゥ〜』
『〇〇〇レ、出発進行ゥ!』
『ホェ〜…』
『ップシャ〜ァ…』
『ガッツン…ガツン…ギシギシ…』
『タッタン…タッタン…タッタン…タッタン…』
『カタカタタタン…カタカタタタン…カタカタタタン…』
全てが皆、懐かしい…(遠い目) 旧客の合間にキハ58 キハ80 キハ181
一般型DC
DD51貨物 工臨
それに出雲
今から考えたら夢の様な線区だったな
ロケーションも含めて >>103
数百キロ以上走破する長距離普通、寝台付き夜行普通、夜行急行、
寝台特急、DC特急・急行、倉吉線の混合列車、スイッチバック退避あり、
山あり川あり海あり餘部あり・・・最後の汽車旅路線だったな。 鉄道に魅力あるとこって土地柄としては閉鎖的で縁の無い者が住むと村八分にされて
かつをにならざるを得なくなる感じ。
福知山はじめ山陰一帯は。なんかどんより暗くてねっとりしたてるよな。
それが景色としてみればいいのだが。たまにいって客人としてみるのがいいので
すむとこじゃねぇな。 >>102>>104
出発合図器のブザを用いての出発合図は
既に全国で小倉と博多のみ(しかもJR化以降は長らく回送列車とワンマンのみ)。
ED76の廃車で、機関車汽笛との取り合わせは絶滅してしまった。 昔の鉄道ファンに普通列車の12系客車にキハ58?が連結されている写真があったんだが、
よくあった光景? >>109
工場の入場出場や転属で、最後尾にDCをぶら下げて行くのは珍しくないものでした。
途中で他線へ行くDC列車を併結する例も遅くまで東北本線にありました。
また途中駅でDCを解放、そこからDCは別列車で折り返すのは函館本線や他の線区でもあったようです。
連結器強度の関係で、DCは後尾に決まっていました。 札幌駅では少なくとも、はまなす回送の時の出発合図にはブザーを使ってるな。 >>114
それってちゃんと汽笛で呼応してくれる? 福知山線の旧客、出発後・到着前の車内放送でオルゴールが流れたのは、大阪・篠山口・福知山と、あとどこかあったっけ? SL乗り遅れの自分にとっては、120さんと同じ思い
しかしもう10年早く生まれていたら、SL+旧客だったでしょう
実際、旧型客車という響きは、自分の世代だけで感じるように思います
主役は必ずしも機関車ではなく客車という意味で
(SL廃止から旧型客車廃止(和田岬は除外)まで10年間
10年上の世代では、SL+旧型客車がセットで、SLが主役、旧型客車は常識
10年下の世代では、旧型客車も夢のうち
120さんも自分と同世代と思います 121さんの言われるとおり、あと10年早く生まれていたら。。
たしかに。。なるほど同感です
120より。 自分もあともう少し早ければ同感です。
1968年昭和43年に福知山線からは既に、
SLは旅客列車牽引から消えてましたが、
1969年昭和44年翌年初めて乗りました。
1969昭和44年と言えば福知山線以外は、
SLがまだまだ現役の時代であったので、
SL福知山線残ってればと今も思います。 DD51旧客に乗って一人で武田尾(旧駅)へ遠出したのが消防の頃の思い出
猿と猪はいなかったw 皆さん仲間がいてうれしいです
旧型客車だけでも相当なのに、その上SL牽引だったら…
もはや夢の中ですが
武田尾もそうですが、もっと強烈な印象が尼崎港
自分の時は末期のせいか、混合ではなかったのが残念
尼崎の高架駅、金楽寺のさびれた駅舎、そして貨物駅に同居の尼崎港駅
当時感じた以上に、すごい体験であったことが今更思い出されます
帰りも塚口行に乗ればよかった… うらやましいです。
世代的に、動いている旧客に、乗れませんでした。
大阪市内の小学高学年でしたので、
親付き&日帰りの範囲でしかまだ旅行できませんでした。
福知山線は12系でした。
車内からの車窓や交換まつかぜ通過の様子などは
8mmビデオに撮ってあります。 12系時代だけど新線移行後も普通客車走ってたんだな スハ32や怪しいオハ41、白熱灯車が残ってた頃が一番面白かったな。
スハフ32(しかも現役時代乗車経験のあるハコ)が残るとは思わんかった。 同じです
スハフ32 2357に磐越西線で乗っていて、撮った写真までありますが、少し前尾久で乗る機会がありました時は少々感激(ただし動かず)
SLだけではなく、もう少し客車も残してほしいと思っていましたけど、ぎりぎり間に合ってよかったです
そういう意味では大井川はもっと評価されていいのでは
怪しいオハ41も同感
七尾線、津山線、伯備線、などは朝夕にわずかに動く程度で結構難しい
弘前か秋田でも1両、山陰線の西部で50系併結のオハフ41(早朝の行商人用で帰りのみ一般乗車ん可能?車内は魚のにおい)
四国だけは昼間もオハ41が動いていましたが、ガラガラの状態で乗ってきた人(高校生?)が、ドアを開けた瞬間「あ、長椅子」と叫んだのがはっきり覚えています
もう30年ほど前のことになってしまいました 正直それは否定できないですね
でもあと30年ほどたつと、今普通に走っている現役車両が同じようになると思います
自分でも、あの時乗っておけば撮っておけば、というものが多数ありますから
特に自分が専門でとっていたもの以外に、それを強烈に感じました
すみません >>129
私がスハフ32 2357に乗ったのは、磐越東線でした。当初保存候補にあがってたスハフ32 2131とのコンビで、
他の2両もオハ35とオハフ33のオール戦前製茶色の4両編成でした。昭和10年製の2131が解体になったのは、
惜しい事をしたと思ってます。(この2両がスハフ32最後の2両になった。) DE10型牽引による倉吉線の客車列車
列車によっては合造車と旧客の2、3両編成や貨車を連結した混合列車もあった
客車列車にはときおり、ナハフ11が倉吉線の客車列車運用に入ることもあった。
ただし、倉吉線は簡易線規格だったため、客車列車は気動車列車より鈍足で、
中には倉吉〜西倉吉間で27分かかる列車もあった 山陰本線には、旧客が似合っていたな。浜坂にビールを飲みながら
撮影が出来る宿があった。多分その宿の屋上から撮ったと思われる
動画だ。
http://youtu.be/yj2pfvtJ7Qs 偉大なるローカル線山陰本線と言ってた宮脇俊三の事思い出したお盆なので合掌 丁度30年前の今頃、「山陰」のB寝台で一夜を過ごしましたが、夏休みもあって、
上段まで満員でした。
寝台車には、昔で言う「車掌補」的な車掌さんが1名居て、乗車の際には寝台まで
案内してもらったのを思い出します。冷房もよく効いて、寒い位でした。 そんな役割でしたね。当然ながら寝台解体などは無いですし。
恐らく、乗客の安全確保も含め、寝台車専属で乗務していたのではと思います。
閉散時はどうか判りません。 イエローの103系が投入されたとき、なぜ通勤型??と思った。
今では隔世の感があるね。 夜行普通列車?(山陰)の寝台車と夜行急行(だいせん)旧客時代が、懐かしい。DF50やDD54牽引の旧客に乗った人て、どのくらい、いるのかな♪ >>140
1969年に乗ったからあるはず。
小さくてよく覚えてなくスマン 播但線ならC57牽引列車に乗ったことあるよ。
茶色の35系主体でオハ41も混じっていたが、編成中唯一の青スハフ42が特別な車両に見えたw >>134 そんなとこに宿があったのか!?
駅から結構あると思うが。今でもあるのかな?
そこの短いほうの鉄橋はラティス桁といって
珍しい橋桁らしいね。
この場所、妻の実家に帰省した際に朝の散歩(チャリだけど)で
撮影がてらよく行くところ。
結婚したのが10年前。いかんせん時代が遅すぎた…。
出雲には辛うじて、キハ181にもなんとか間に合ったが。 >>145
たぶん、宿の名前は(国民宿舎はまさか荘)グーグルアースで見たところ、無くなったみたい。今でもあれば、使えそうだね。 >>140
紀勢線や四国ならDF50牽引客車乗車経験あります
だれかが、DF50は釣りかけモーターがあるからその音が聞こえるはずっていうから、一番前に行って解放状態の客車でしばらくいたけど、釣りかけの音はついに明確にわからず
紀勢線での乗車での時でした
37年前になります 35系と42系の混成編成なら迷わず42系に乗ってたな。 1975年だったか姫路から播但、山陰、宮津、舞鶴、小浜、北陸、高山線の猪谷まで旧客レの旅をしました。残念ながら、猪谷南はDCでした。因みに牽引機はC57.DF50.C58.C58.ED70.C11でした。 1975年だったか姫路から播但、山陰、宮津、舞鶴、小浜、北陸、高山線の猪谷まで旧客レの旅をしました。残念ながら、猪谷南はDCでした。因みに牽引機はC57.DF50.C58.C58.ED70.C11でした。 >>152
〜といいながら門司発福知山行824列車の先頭は昭和50年代の初頭までオハフ61であるのが常でした。824列車には完乗しましたが勿論オハフ61にずっと居れるわけはない。 1980年8月に、弟と大阪駅始発の出雲市行(だったと思う)で谷川まで乗った。
一番古そうなオハ61系客車に乗った。
車両もさることながら、鉄道施設や沿線の風景も20年ぐらいタイムスリップしたような感じがした。
牽引機がDD51でなく、蒸気機関車であっても全く違和感がないだろうと思った。 私が乗った721レ(DF牽引)出雲市19:51着はオハ61も繋いでいたと思います曖昧な記憶ですが途中、オハ35に箱を替えました(笑) 一口に旧客というけど優等列車用から最底辺のローカル用まで
全部含んでるから、居住性もピンきりだったよね。
スハ43系はその後の急行型の基礎になっただけあって、秀逸だったと思う。 初めて大阪駅から福知山線に乗った時DF牽引で、次に乗った時(宝塚から乗車の篠山口行)はC11やった_
これって記憶違い?
武庫川の長い橋梁でデッキから乗り出し下を見ると恐かったそしてトンネルに突入〜そのあとは言わずもがな〜
デッキから退散するも客室内にも、どこからとなく煙が入って来て、
S38年度お伊勢さんへの修学旅行(加太越え)以来のSLレでした。 篠山口行きの客車列車は、吹田のC11牽引だったそうです。
私が生まれた年にDL牽引に変わってしまったので、見れませんでしたが・・・ >>157
青色の近代化改造のスハ43がローカル列車に組み込まれていたら目を見張ったものだった。昭和40年代のことだ。それだけ高級車だった想いがある。 >>158
羨ましいタッチの差駄目だった
1968昭和43年に福知山線から
SLは引退しているわけだけど、
1969昭和44年に乗ったので、
SLにタッチの差で乗れなくて、
1969昭和44年と言えば確かに福知山線では引退していたけど福知山以遠の山陰本線ではまだ
SLが現役バリバリだったけど、
福知山で降りてしまったために
SLは結局乗れずじまいでした。
1969昭和44年と言えば自分は
幼稚園の年中組だった時代で、
福知山には祖父に連れて行って貰ったのですが何故もっと先迄連れて行ってくれなかったかと
SLに乗れなかったということを今でも残念に思ってるのです。 S30年位、幼稚園時代に白浜、新宮方面の旅行で
南紀のサボが付いた扉の前で写した写真は
たまたまだったのかどう言う意図があったのか、
おそらく記念撮影だろうと想うが〜
夜行で乗ったのが南紀だったのか記憶がない
勿論、SLレであった。 レッドトレインじゃないダブルルーフ旧客の50系がいたな
若いファンに言ったらものすごく馬鹿にされた >>163
貴方は間違っていないですよ。間違っているのは若いファンです〜(笑) スロハ31→スハ50.スロフ30→スハフ50.スロ33→スハ51…。ちゃんとした50系客車じゃないですか(笑) いろいろ調べたら「南紀」は当時、準急で紀勢線全通前の紀勢西線新宮行き(C58牽引)だったのです。半世紀以上経って解明した。
一枚の写真から乗った風景を想い出しました。これが私が初体験した旧客SLレでした。 いろいろ調べたら「南紀」は当時、準急で紀勢線全通前の紀勢西線新宮行き(C58牽引)だったのです。半世紀以上経って解明した。
一枚の写真から乗った風景を想い出しました。これが私が初体験した旧客SLレでした。 もう昔の話しです。
雪の日に福知山線に乗りました
牽引機はDF50.オハ61の車内にいる
自分が幻想の世界にいるようで
列車は米子かもっと遠くの知らない町に行くようで〜気がつけば福知山でした。
当時中学生の一人旅としては、
歌の文句ではないけれど、
思えば遠くに来たもんだなのです。
時刻表を見てここらで帰らないと、
神戸の実家に今日じゅうに帰れなく
なるので素直にまた来た道をもどりました(笑) >30
旧客は動き出してからでも乗れる醍醐味が有りましたが、今のイベント列車は安全を重視して、それを出来なくしてしまったようですね!
昔を知るものとして、寂しい限りです。 ♪動き始めた汽車に〜、一人飛び乗った〜
だな。
津軽も観光列車化しちゃったし あの名曲喝采も今となっては、
危険乗車を教唆なんだろうな。
やはり今は世知辛い世の中worz
これだけでは余りに何なので、
You tubeから旧客?のアニメを
http://m.youtube.com/watch?v=NjeGrDraPPI
の19分あたりが旧客?ならでは さすがにそこに文句言うのは老頭児の害悪だな
宮城検校の事故を知らんわけでもあるまい >>150
播但線のC57は昭和47年(1972年)に無煙化、
高山線はそれ以前に旅客列車は無煙化していたように思います。
恐らく5年ほど間違えているかと。 >>171
銀河鉄道999も今後は該当箇所カットですね。 福知山線旧客が大阪駅と尼崎駅で撮影された動画がありました。
古臭い?時代の大阪駅と尼崎駅も一見?
駅アナウンスも・・・。
http://youtu.be/q2_Dt4MRDNo 福知山線の旧客で背もたれの上部にやたらフックが付いている車両があったけど何のために付いていたのだろう。 >>176
簡易寝台対応のスハ43。歴史の1ページですな。 大阪に乗り入れてるのにずっと客車列車時代が長かったものだから
宝塚まで電化されて103系が来たときはマジで感動したっけね
塚口の跨線橋で飽きもせずに行き交う上下電車を眺めてたもんだ >>178
世代差かもしれないけれど、103系が来るとガッカリ(´・ω・`)で
旧客選んで乗っていたなぁ・・・例え電化区間でも。
旧客なんか何十年も乗ってて、という親世代は
新しい電車に喜んでいた。 当時10代後半-20代だったので
貴重なDL牽引旧客の方に惹かれて、ガタガタ揺れて嫌われる
ナハ10系も繋がってたら希少性で選んでいたな。 乗車プライオリティ
スハ32>オハ61(短距離の場合)>オハ35・スハ42>スハ43(白熱灯)>近代化車>ナハ10
夜行の場合
スハ43>スハ32>オハ35>ナハ10 >>180
そのプライオリティは快適さとは違うなw 103系ならどこでも乗れた頃だからね。
阪和線では今でも乗れるわけだけれどorz >>179-180のどっちの気持ちもわかる。
>>181の言うとおりの趣味的プライオリティだが
>>179は希少性でナハ10も選ぶのに対し
>>180は徹底して木製内装のレトロ感優先だわな
夜行は43系が楽なのは同意w >>168他
通常運用時代(〜86.10.31)の旧客は、旅先の福知山でリアルで接してますが、
遠方&幼少だったため惜しくも実際に乗れなかった世代です。
(ただし和田岬線の旧客は何度か乗りに訪問したので
自己責任最後の手動ドアそのものはリアルで知ってます)
質問なのですが、停車直前にうまく飛び降りるコツは、
「進行方向をむいて外側の足ではなく内側(客車側)の足を
列車の速度に合わせながら駆けながら降ろす」らしいですが、
同様に「飛び乗るとき」のコツは、何かあったのですか? 生瀬だっけ、武田尾だっけ、旧駅時代はホームの端部が舗装されてなくて
雨が降るとドロンコになってしまったのは。 豊岡発門司行、門司発福知山行など山陰本線には九州内発着の長距離普通列車もあったが、
なぜ、小倉発着ではなく門司発着だったのだろうか
JR化後も山陰本線の普通列車は一部は門司発着だった
小倉駅での線路容量の関係か、ゆとりがなかったからだろうか 大社駅@NHKブラタモリ
国鉄時代急行だいせん5号で大社駅行き折り返しの普通列車は20系だったけれどその次の普通列車は旧型客車だったな。
文化財歴史遺産としての大社駅もいいが駅は列車が発着してこそ駅だから(>_<) >>186
門司駅の栄枯盛衰みたいなタイトルのページ読んでこい。
小倉駅がおまえが思うような地位奴立場になるのは少なくとも博多開業後だ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています