山陰本線福知山線の国鉄時代の旧型客車とその思い出
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山陰本線福知山線の国鉄時代旧型客車について語ろう
大阪発出雲市ゆき米子ゆき鳥取ゆきといった長距離の
旧型客車ならば特に大歓迎だが短距離客車列車でもok. >>527
郷愁ってこういうの言うんだよなあ。
深秋の山々を背に客車から蒸気が立ち上り・・・。 >>527
すばらしい。冬に行ってみたかった
旧線と旧駅訪問は間に合ったが、福知旧客と季節は年齢的に間に合わなかったので
(旧線と武田尾は86年7月訪問が最初で最後) 高槻市社会福祉事業団で磁気カードを交通費代わりに支給でピンハネされてました! >>533
乙
キハ40系の快速がなつかしい。
>>534
写ってるけど段差があってメイン(奥)寄り部分はちょっと高い 福知山・山陰の普通旧客レで、ナハ10・11とナハフ10・11が、それぞれポツンと1両だけ編成に組み込まれている写真は見るんですけど、編成に両方が組み込まれることってなかったんですかね? 余程のイレギュラーでもない限り、
なかったんちゃう?
軽量客車の混結はけん引定数があるからね けん引定数がどれだけ厳密か、
ナコレク経験者のブログ見たら判るよ。
客車不具合1両の差替だけで一大事だから ガキの頃よく父親に福知山線の旧客を乗りに連れて行ってもらった。
オレはボロ客車より追い抜いていくまつかぜが眩しく輝いて見えて
アッチに乗りたい!と何度も言ってたw
走行中フルオープンのデッキに立たさせられたりして、この客車の方がええやろーーーと
父親が何度も言ってたのを思い出す。。。
この先あんな特急なんて何度も乗る機会があるんだから、
廃止でもう乗れなく客車に乗せてあげておこうと思ってたんだろうな。
今から思えばもっと乗っておきたかった。父親には感謝しかない。
おとーちゃんありがとーーー >>539 です
結局まつかぜに乗る事はなかったですね。。
82系だったかどうだか記憶は定かじゃないですが、はまかぜで明石→和田山 を乗っただけでした
あと岡山→米子のやくも も乗ったけどあれって82系でしたっけ?
デザインはまつかぜと一緒だったと思いますが。
〇〇系ってのは全く詳しくないのですまんませーーん。 >>542
キハ82系の普通車の椅子は背面にモケット貼ってないから直ぐ分かるよ
はまかぜがキハ181系に変わったのは1982年7月1日
伯備線の特急は最初からキハ181系 初代川西池田駅(旧川西池田駅)
旧駅当時の貴重な画像などはネットで見れるけど、
逆に、現在の旧駅跡を探訪した記事や画像が全くない
不思議だ。
能勢電の川西国鉄前の探索記はアホほど出てくる あ、貴重な写真を載せてる
「鉄道の街 川西」サイトさんの現在写真は
90年代末〜00年代直後であって、
少なくとも現在とは言えないからね。
どちらにしても、初見の者が
旧駅位置と現状とを比較しやすそうな画角の写真も
ないので。 どちらの線でもDF50牽引の客車に乗った。もう半世紀以上前だな、山陰本線ではC57とすれ違った。福知山線では当時はまだローカル線で昭和46年5月にC5741が牽引する臨時列車を撮りに行った。それ以後SLは走ってない。つい先日DD51が単機で走っていてビックリ!以前はたまにディーゼル機関車を見かけたがもう忘れた頃なのでしばらく見ていた 自分はイエローの新車の103系が投入された頃を懐かしく思い出す。
ついに新しい時代の幕開けかと思ったが、蓋を開けてみると旧型客車も継続して運転してるし、
汽車型ダイヤだった。6両編成で投入されたが、程なく4両編成に減らされ、中央の2両は常磐線の
編成増強用に旅立っていった。
今では隔世の感が有るね。 103系が入ってもガラガラの宝塚行きだけ。一番混むのはキハ47の快速篠山口行きだったな。
逆レは編成長いから日中は空いていたね。 三田の親類とこ行くのによく旧客乗ったわ
車両の先頭まで行くと機関車とご対面できたな
特にDD54のカッコよさは際立ってた DD54の牽く客車にも乗ったが故障して立ち往生するかもしれんと心配だった。SLと置き換えるはずが故障してC57が救援に向かうという皮肉なこともあったようだ DD54と共にキハ82も故障が多かったね。
開発を急ぐあまりこうなったと聞いたことがある。 SL写していた頃はDLが来たらカメラを向けなかった。今思えば少しくらいは写しておけば良かったかも知れない。客車がなくなるなんて思ってなかったし >>559
いやー、もったいない、というように感じるのは後からの思い
自分はSL乗遅れ組で、559さんより少し後輩?の年齢ともいますが、
旧型国電を撮っていた時に来た165系の急行
旧型客車を撮っていたことの50系客車
キハユニ16や15を撮っていた時の他のキハ
など、みんな同じ
自分は、まだ「来る者は拒まず」で、来たものはシャッターを押してはいましたが、
積極的に動くことはなかったです
もったいないといえばその通りなのですが、当時は主目的の車両以外はそこまでの切迫感が皆無でしたから >>560 さんは旧国スレに身延の話書いてた方ですよね
世代近いかも? 国鉄蒸機は小学生時代で自分のカメラでは撮れず
旧客・旧国末期の記録が精一杯・・
フィルム、特にコダクロームは現像含め高くてシャッター気軽に押せず
今デジカメやスマホでどんどん残してるスナップや動画は当時無理でしたねぇ
本当に末期ですが当時高価なビデオで山陰旧客撮ってる方のYoutubeは有難く拝見 559です、SLならシルエットでも形式がわかってたけどDLやELはほんの一部しかわからないし気動車や電車と客車も貨車も種類は全くわからなかったというより調べなかった。とにかくSL一筋だったな ガキのころ結構写真撮ってたけど無くしてしまったな、、
旧客の写真だけじゃなくDD51牽引貨物や凸凹編成気動車とかも当時は貴重に思えずちゃんと保管してなかったからな >>561
あーた贅沢ですわ旧客乗れたんでしょ。うらやましい。
自分は福知山線は旧線や昼の各急行には間に合ったが、12系化してからだわ。親付き消防の身には山陰旧客は遠すぎて乗れなかった。
本当のほったらかしの旧客は和田岬線の代車スハフ42だけ。すぐ着いてしまうし、個人的にはこの体験は「旧客に乗った」うちに入れられないんよね。 >>561
一列車では一シャッター限定
連写なんてとても無理
いま、40年前のKRをデジタル化して、当時のコダックのポジの凄さをあたらめて確認してしまいます
しかし当時安くない、高かったです >>564
いやいや確かに贅沢かも。当時大学生だったから自由に旅ができたし
でも60-3から61-11のたった一年半だけの旧線12系も貴重ですよ
その頃も大阪早朝の出雲市行き乗り通ししたもんです。
惜しいのは61-11までは篠山口や福知山以北に旧客残っていたこと
親御さんが浜坂あたりまで遠出させてくれてたら乗れたんだよね。
>>565
KRもエクタも当時の東洋現像所(イマジカ)出しで時間掛かったし
とにかく1本購入から現像までで千数百円・・・ 鉄道雑誌見てたらエクタクロームで写した写真もあったので真似して使ってみたが印刷工程の都合での事らしい。DLならともかくSLではあまり意味がなかったな。もうポジは残ってないがあったとしても退色してるだろう。その点はコダクロームの方がいいのか >>566
反応とフォローありがとうございます。
こことかで何度かボヤいてるので、ご存じでしたね。失礼しましたw
そうですね、しかし大阪福知山間は客レ時代で物理的にも時間が掛かったのと、
絵入り「まつかぜ」も通過を撮ったりしましたが
乗ることは思いつきませんでした。また、京都回りで帰ることとかも
まだ思いつかない年齢でした。
いま思えば、たとえば豊岡往復で片道だけでも旧客に乗れたはずですが、
一部区間だけでも乗る、って概念すらまだない子供でした。
まだ昭和の63年、カレチが〆造さん時代の大井川へも乗りに行きましたが
動態保存の旧客と現役供用中のそれとは、やっぱりちがうんですよね。
だから、たった数分でも和田岬線の代車スハフ42乗車経験は宝物です。 身近すぎても撮らんからなあ、ここの近所に2年半住んでいてもあまり撮ってはいない
武田尾などへの遠征もあまりない
しまったとは思うが、まあ、こんなもんだと諦めるしかない
https://tadaup.jp/loda/0731233114625898.jpg
S58.12 中山寺 まだ無人駅で、改札関係なしで出入りできた 追記
>>567
フィルムはKR、何本かあるが横着な保管にもかかわらず退色はあまりない
ER系は一部で紫の細かい斑点が出た
富士、コニカは物によって少し退色
ポジは案外強い
逆に平成になってからネガで撮ったやつの変色が酷すぎる >>569
見させて頂きました。[5]ってことは閉塞信号ですね
その閉塞信号機に出発合図器というのが
いかにも客レ時代を感じますね。
>>570
今でいう撮り鉄のリバーサルは猫も杓子もKRでしたね。 やっぱり外式のKRは丈夫だねぇ
90年代のネガってフィルムも安くなり雑になってると思うよ
プリントの印画紙も質が低下してるな・・
VHSテープも80年代のほうが90年代より劣化してないし
CD-Rも90年代TDKはまだ読み込めるが0年代台湾製がもうダメ
普及して安くなるとそれなりだね、服なんかもそうだし やはりそれなりの対価は払う価値がある理由があるね
そこまでの価値はないとどんどん貧乏至上主義を貫いた結果が現在 565ですが、皆さんご指摘の通りを実感
1978から1980年頃のネガカラーは、色相というか色の変化に愕然
保管が良くないことは事実ですが、黄色化とでもいえばいいのでしょうかね
色補正要です
また、露出アンダーというか暗部は極めて厳しい
露出オーバーのコマはまだ救えますね
それもあるのか、旧型の車両でも、茶色の再現が結構うまくいかないように感じます
少しずつ復元していますが、時間がとにかくかかります
1980年からKRとER併用でしたが、デジタル化してKRが一番再現が良いと感じます
ERは少し青緑化を感じます(ただし天気が悪い日に使用したためかもしれません)
KMは感度低すぎで一度も使用しておりません
いずれにしろ、KRは高いイメージしかなかったです 昔のコダックは感度が低く多少使いづらいところもあった。しかし一番の問題は国産のカラーフィルムを使う時に感度の切り替えを忘れることだな。 国産ポジといえば、ベルビアが出たときの衝撃
KRの発色好きには「悪趣味なギラギラ」で
後になってみればまさにバブル期の象徴だったかとw
旧客のあった頃に存在せず良かったと
90年代のRFやRMのグラビアを見て思う 小さい頃親父に連れられて釣りに行ったが福知山線に乗ったのだろう。SLの汽笛が鳴ったのを覚えている。SLに興味を持ち出した頃はもう少なくなっていて10年早く生まれていればと思ったな、だがそれだとこのスレを見ることなく逝ったか SL乗遅れ世代です
だから、旧型客車の思い入れは、それ以前の世代の方よりもはるかに大きいと感じます 旧客乗遅れ世代です
だから、旧型客車の思い入れは、>>578よりも更に大きいです。
(引用して遊びましたが、ガチです) >>579
和田岬も乗車経験ないでしょうか?
578ですが、正直マジで恐れ入りました
夜行も含めて普通に旧型客車に乗っていた時代の、
最後の10年ほどを末期まで経験した世代です
実は、SL乗遅れで旧型客車を経験した世代って、およそ10年しかなく、
その意味で層が薄い世代かもしれません
従って、混合列車のイメージも、SLではなくDE10などが引っ張るオハユニ61と貨車などのイメージになってしまいます
もしかしたら、そのあとの50系客車の世代とかあるかもしれません
変な個人的な偏見にもなりそうな書き込みで申し訳ございません 全列車ワンマンだらけになっちゃったけど昔はどこの路線も駅間長いと車掌がやってきて検札してたんだよな
旧客の普通列車なのに白スーツの車掌長や乗客専務車掌が乗ってる列車もあって
名所案内が充実していたとか ワンマンじゃないから無人駅から乗車したら
車掌さんに切符だしてもらったな。 同じ線路でも東海道線と福知山線とは線路等級が違う。そのため大型機関車は入線出来なかった。特急つばめは大阪到着後塚口まで回送してC62を最後尾に連結して宮原操車場まで行ってたので塚口までは特甲線なのかな。 電化したら近郊型電車が走り出すと思っていたらまさかの103系。
でもいずれは阪急に匹敵する通勤路線に変貌することを目論んでいたことがわかった。 >>585
まだその頃は良かった
最悪なのは61-11からの数年だ
113-800の2連ぎゅうぎゅう詰めは思い出したくない 大阪駅に113系の2両が堂々乗り入れていたよね。
12系の普通列車の方がずっと良かった。 車内販売すらあったもんな。12系普通列車。
浪花(篠山口駅の駅弁業者)の駅弁を車販から買ったよ。
1986年7月 >>587-588
あの1年8ヶ月はある意味国鉄最後の輝きという感じだな
旧客は好きだったが、60-3で一気に12系化されてオール冷房つき
ボックスも広い急行型統一みたいなもんだった
それがボロ電に詰め込みになったから改悪以外のなにもんでも・・
丹波路快速が出来てやっと近代路線だし
デカンショ弁当も旧篠山口駅舎も懐かしい 福知山線には篠山線という支線があったがもう半世紀前に廃止されてる。ディーゼル車が貨車を牽いたりしてたらしい。。 思い出したくない人には申し訳ないけどw
113系福知山色の青帯、正面V字の角度が
微妙にちがってる二種類あったと思うんだけど
合ってる? >>591
これだけ読んだだけで楽しそうな雰囲気が伝わってきますね
これは何という雑誌ですか? そうです。鉄道ジャーナルの1986年別冊がだいぶ表紙傷んだから
バラシてスキャン、デジタル保存したページです。
昔の旅鉄の旧客特集などもやってます。
記事内容も時代反映してるから面白くて。 1980年7月に、塚口→尼崎港乗車、客車は1両だけ、貨車はなし
乗客は数人と記憶、尼崎港での画像が1コマあるだけ
もったいない、としか言いようがない >>591
きれいにスキャンされてますね。どんなスキャナーをつかわれてるんですか?雑誌の整理もしたいけど
自分はきれいにスキャンできないので貴重と思われる写真が掲載されているものなどは躊躇してます。
山陰本線の旧客といえば母方の親戚が鳥取に住んでいる関係で子供の頃よく乗りました。
一度鳥取始発でDF50牽引の列車で倉吉まで乗った記憶があるのですが、詳しいスジをご存知の方おられますか?
午前9時頃の列車だったと思います。(45年くらい前)
それからいまはなき倉吉線の旧客にも乗りました。背ずりが木製でおそらくオハ61系等ではなかったでしょうか。
他にも今となっては貴重な思い出も多々あるのですが、当時は小学生で写真を撮影することは叶いませんでした。
もっとも、「貴重な体験」などという感覚も無かったと思います。 >>597-598
いつもの者ですが、撮影の件は、
別にそこまで悔やむほどでもないんじゃないですか。
写真技術はまだ200年も経ってませんし、
あの世へは持って行けませんからね。記憶こそ大事だと思います。
自分は割と中高時代からそれで、昔から写真はそれほど撮りません。
撮影に夢中になるあまり、
肝心の乗車(乗り鉄本体)とその記憶に支障するのを好まないからです。
ラストランですらカメラを持参せず携帯でも撮らない人間ですw
あと、当時貴重だとは思わなかったって視点の話、
もうそればかりは世代や個人による「順番」ですわな。
自分は山陰旧客に乗れなくて残念でしたが、乗ることのできた、
保存運転ではないJR唯一&最後の旧客である
和田岬線の64系&代車や、けっこう各地で乗れた12系や50系客レも、
世代や個人によっては垂涎かもしれません。 >>599
> あの世へは持って行けませんからね。記憶こそ大事だと思います
記憶ってあの世まで持っていけるのかな? 割とどうでもいい部分にだけ反応すんなよw
少なくとも写真は持って行けないのは確定。
論点である記憶のほうだが、異論は好きに言えばいい。強制しない
ただ、記憶つまり心ってのは形(実体)がないモノだから
その面においては少なくともスピリチュアル的親和性はある。 話の流れは凄い方向だがひとまず・・
>>598
いやいや古いスキャナでこれも何年も前にスキャンして、今の4K以上モニタなら物足りないですよ。
4000x3000くらいのスキャン必須なので自炊もし直しかな?と・・
体験というのは重いもので、いくら綺麗な写真見ても行ったことない路線や乗車していない車両では
今ひとつ実感が湧かないというのはあるよね。
父親の遺言が 「あの世に持っていけるのは、地位財産名誉ではなく思い出だけ」 だった。
そういう想念というのは複数の体験からあると信じてる。
ひとまず、今のうちに乗っておける好きな車両や路線には悔いなく行くことかと
来週平日に休みたっぷり取ったのでせめてキハ40系で国鉄時代思い出すことにするよ。 >>602
一部フォローありがとうございます。
キハ40系は徳島車をお勧めします。原形エンジンです。
夜行フェリーも関西側から高松徳島双方にあり便利です >>603
いえいえいこちらこそ。 今は関東住まいなんですが、今春徳島に行きました
夜行バスを鳴門で降りたらそのまま鳴門線-牟岐線直通に乗ったり
関東でも小湊鐵道や近畿では北条鉄道でも楽しめるので、これから数年は
まだ行けるかなと。
スレタイの旧客話では来月、痛恨のキャンセル・・大井川鐵道のEL牽引旧客を予約していたら
災害復旧見込み無し。で社の側から予約キャンセル通知・・
来年リベンジですねぇ。 >>602
ありがとうございます。スキャンについてもいろんな方の実践例を参考にしたいのですが、
そもそもここは自炊スレではないのでこれ以上は話題にしないほうがいいかもですね。
体験や思い出はどんな綺麗な写真にも勝る、たしかにそうだと思います。
反面、バックナンバーも含めた鉄道各誌や過去に撮った写真をupされてる方のサイト等を見て
追体験(に近い真似事)をしている自分がいたりもします。他人様の、場合によってはその人の
貴重な乗り鉄体験を犠牲にした写真を拝見することによってそれが可能なわけですから、見分を広げたり、
思い出を疑似的にではあっても反芻できる便利なツールではあるのではないでしょうか。 倉吉線の客車は、見た記憶があるが乗っていない
終点まで行くのは末期はDCばかりと思っていた Rail・Artさんのところに昭和42年10月の時刻表が載ってるけど
この時点で客車列車は上井-関金の列車が4往復、上井ー倉吉の列車が2往復で山守発着は全部ディーゼルカーだな
Wikipedia見ると泰久寺と山守は1線のみで機回し線とかなかったから
末期でなくても客車列車は関金までだったようだ 関金から先、気が不具合のときは
おそらくPPの客レだったんだろうね。 ディーゼルカーの予備車くらいあっただろうよ
プッシュプルにすると機関車2両に客車1両になっちゃうぞ 1980/03時刻表から、倉吉発下り
619(443D)山守
629(421レ)関金
749(445D)山守
914(423レ)西倉吉
1140(447D)山守
1328(425レ)西倉吉
1605(449D)山守
1620(427レ)西倉吉、山守行451D接続
1759(427レ)打吹、山守行453D接続
1841(455D)関金
1927(457D)関金
2127(459D)関金
朝の443Dの前に、関金行きの回送(441D)がありそう もう鉄模は数十年していないけど
関金という文字列は関水金属を連想させるね。笑 倉吉線列車は昭和60年3月改正で全列車気動車化されたが、気動車運用は
どうなっていたのだろうか。
鳥取発倉吉行きのキハ58系による最終列車が倉吉に到着後、そのキハ58系が
翌日の倉吉線気動車運用に入り、関金発倉吉行き最終列車で倉吉に到着後、
キハ40を切り離して、倉吉で夜間滞泊し、翌朝の倉吉発鳥取行きで鳥取まで運用後、
車両基地の西鳥取に戻っていたのだろうか 倉吉線が残っていれば、それなりに利用されましたかね?
少々もったいないように思えました >>617
うーん、どうでしょうね。そもそもが地方の小さな町ですし。
自分の経験でしかないのですが、>>613さんのレスを見てもわかるように本数も限られていましたから。
母親の叔母が打吹の近くに住んでいたのですが、倉吉線に乗るよりはバスの方が便数が多かったのでほとんどバス利用でした。
倉吉線で印象に残っているのは夕方の下り列車で夏休み中にも拘わらず制服姿の高校生で結構混んでいた事がありました(部活帰り?)。
打吹止まりだったので>>613にある17時59分発の427レだったのでしょう。その時は母親が今から自分たちの食事作りをさせては叔母に悪いからと
打吹駅近くの店で食事を済ませて行ったのですが、すでに夕食を用意して待ってくれてました。子供心にも申し訳ない事したと思ったものです。
ところでその頃、大阪市内から倉吉までの切符を買うと運賃が同額だったためか上灘までになっていたと記憶しているのですが間違いないでしょうか。 >>617
>>618
倉吉線が現在も残っていたら、関金~山守間のみ廃止されてレールは50キロレールに
交換されるなどの工事も行われ、列車はキハ47系、キハ126系、キハ120系が使用され、
関金駅は「関金温泉」などと改称されていたかも。 >>617-
一時期よりは減ったとはいえ凋落なく
現役観光地として認識され続けている「輪島」
その輪島までの鉄路が廃止されたのと
ちょっと似てるかも。
鉄路のある頃からずっと、
皆、バスやマイカーが主流だったってね。
なんで全国的な観光地で、現在でも廃れてはいない輪島までの線すら
廃止されたんだろ?ってずっと思ってきたんだが
最近調べてみて、判った。 全国各地同様の現象だが、高校生の数が根本的に違うんだよな
第二次ベビーブーム世代が昭和末期から平成頭までで
その後の世代で急減、大都市以外は車持ってる世代ばかり住んでる時代に
そりゃローカル線も長編成鈍行も要らないよな 残っていたら、米子/境港と同じような感じになったかかな? なってないと思う
あっちは境港市、米子空港、後藤工がある 当時の状況からして普通に考えれば倉吉線の廃止は火を見るよりも明らかだったでしょうね。
ただ、同じ鳥取県の若桜線が三セクとして成功を収めていると見るのであれば
倉吉線も沿線に観光資源が皆無というわけではないですから積極的な策に打って出ていれば
面白かったかも、という思いも少しはあります。 倉吉線は諦めて若桜線は三セクで残した地元判断から考えて
両線の違いは大きかったんだろ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています