山陰本線福知山線の国鉄時代の旧型客車とその思い出
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山陰本線福知山線の国鉄時代旧型客車について語ろう
大阪発出雲市ゆき米子ゆき鳥取ゆきといった長距離の
旧型客車ならば特に大歓迎だが短距離客車列車でもok. ああ、「だいせん」も12系座席と14系3段寝台
どっちも乗ってましたです。
福知山では深夜駅弁販売がありましてね >>284
入りすぎ
俺は佐津〜餘部を12系で一往復しただけだけど一生忘れないよ
窓から手を出して白ラインを青色で塗りつぶしてるのを爪でこすりながら
「微妙に段差が有るんだな」とか思った28年前・・・ 「山陰」末期に、鳥取→京都間をオハネフ12に乗りましたが、多客時という
事もあって満員で、寝台係の車掌が、上着を作業着に着替えて、客の世話を
していたのが印象的でした。 >>287
レスありがとうございます。
現役時代の「生きている旧客」に揺られて旅することが叶わなかったので
この三十年間、歯噛みをなして悔しい日々ですが
こればかりは生まれた場所や世代の順番なので仕方ないですね…
50系も、筑豊(鹿児島)・草津(東海道)・磐越西・東北など各地で乗ってますが
すべての記憶と引き換えに1986.10.31までの旧客列車に1回だけ乗せてくれるというなら
そうしたいです。 >>289
まさに!
小学生時代の大阪駅を変に覚えてるから
「なぜたった一度さえ乗れなかったのか」と
悔しいとか勿体ないとかの言葉で表せないくらい残念なんだよね。
ただ50系でも相当でしょ。
走ってるのを見ただけ。
梅小路に放置されていたもののシートや窓や扇風機を触ると
「生まれるのが遅かったか」と心底思うんですわ。 夏の雨降りだと窓も開けられない、
天井の扇風機はぬるい空気をかき混ぜるだけ、
夜に窓を開けていると蛾が飛び込んでくる、
小駅の待避線で長時間停車中
横を駆け抜けていくキハ82、
いやキハ58でさえまぶしく見えた。 >>290
んー、世代格差やね。
旧客当たり前やったから。
むしろ50系の記憶は短い。 自分の時は181系化されてたけど、まったく羨ましくなかったな
山陰本線、ほんとよかった。いまでもいいんだろうけど
長門以南の鄙びた感じとか、宇田郷、折居に五十猛、田儀、東浜の海沿いに山間の三保三隅、
大山口のD51、久谷のトンネル飛び出し、旧客のドアから乗り出す餘部鉄橋。
鎧はあんなとこで出雲とまつかぜの交換、城崎温泉に保津峡か武庫川渓谷。
なんだったんだろうな。旧客羨ましいのと同じくらいにDD54とかDF50が
走ってた頃に乗った人が羨ましい >>294
まさに山陰線はこのイメージなんだよな
旧客世代それもリアル旧客世代言うよりまさにその東浜の民宿臨海学校で行って民宿の窓から見える山陰本線の旧客が、あまりにも印象的で(ちなみに臨海学校そのものは貸し切りバスで行ったけど)
臨海学校から帰ってから改めてどんどんまた旧客に乗りたいと思うようになって改めて旧客に乗るようになったけれどもそんな理由で乗る様になっただけに旧客=山陰本線に近いようなイメージがある
(勿論他の線でも乗ったことあるが旧客=山陰本線のイメージは他の線とは違う山陰本線ならでは山陰ならばのイメージ
50系客車にも乗ったことがあるけど例え50系客車でも例えば今の羽越本線の村上〜鶴岡間の普通列車あたりとかは架線下DCオンリーになってるからあれだ例え50系でも今よりは全然マシと思うよいや
50系客車どころか羽越本線牽引するのはEF81モーター音爆音イメージで架線下DCなんて電化の意味ないじゃん思うし
明らかにスレチだが何言いたいか言うと50系客車旧客両方リアルタイム世代だが50系客車でも今よりは今のことを思うとまんざらでもないと言うことが言いたい
50系客車や旧客の頃は山陰本線の旧客が東浜のリアルのオープンエアーに対して今の列車と言うものは特急普通関係なく単なる移動手段になってしまってるから
(新幹線でさえ例えば昔の新幹線ならば青柳ういろうとか静岡のわさび漬けとか少なからず旅情を味わうことができたが今は単なる移動手段になってるからね。食堂車やビュッフェがあったころまではまだ良かったがこればかりは時代の流れしゃあないでしょうという事だろうね。
むしろ今は実に残念言うか皮肉だが高速サービスエリア方がまだますのすしとか峠の釜めしとか往年の鉄道に見られた、旅情を味わえるのは実に残念皮肉ですね トンネル通過時に先頭車のデッキに立つと、
目の前のDD54が客車とちぐはぐに車体を
揺らしてる様とものすごい轟音が怖かった。 山陰本線は汽車旅要素が全て詰まってた、特急、急行、夜行急行、夜行普通、長距離普通、倉吉の混合、
荷物郵便列車、余部鉄橋、保津峡、海岸沿い、スイッチバックまであった。・・・で非電化単線。
この頃に思う存分汽車旅できたのは、一生の宝物。スハ32こそ引退してたけど、オハ35戦前製やオハ61
はまだいたからね。 朝の鳥取駅2・3番線西端にたたずんでいると
機関車の入れ替えや、朝の間合い運用に使われた
キハ58などが東西へ向かう急行用に組成替えしてる
しているさまを観察できた。
腹が減ったら砂丘そば。 夏の但馬の田舎の昼下がり。
とある駅に旧客が止まってて、いちばん後ろの車両から
小学生の子が縦笛をピーピープープー吹いてる。
あののどかな光景 シーンとした駅で、車掌と機関士の発射の掛け声だけが良く聞こえたな。
〇〇列車発車、発車ぁ、ポーって汽笛がかっこよかった。
今は旧客もデジタル無線だし、それでやってるのかな。
しかし旧客は停車中静かだったな。 旧客は非冷房でも、米子駅や鳥取駅に停車中の旧客列車は冬になると床下からスチームの湯気が上がってたな 乗り込んだら、モーター音もディーゼル音も聞こえない完全にシーンとした
静寂 普通の景色を走れば、客車内のまあるいの天井が純白で、山あいを走れば、
その天井が黄緑一色に染まる。(何故が。トンネルへ入っても黒くならない)
座席から通路を挟んだ向かい側に並んだ窓々を見れば、美術館に展示された
額縁画を見ているようだった。感動した・・・・ 昭和52年の朝、下関駅にいたら山陰線のオハ61主体の通勤客レが到着、衝
撃を受けたのはマニ60の大きな荷物扉が開いた中からぞろぞろと多くの女子
学生までもが降りて来た。スハニ35(スハ44系の荷物車)からも続々と・
・ しかもその編成にはスハニ35が2両も入っていた・・・・ wikiによれば「スハニ35は1970年までに全車他形式に改造された」
と有るが、小生の見たものは何だったのか?確かにこの目で見たのに。
あの衝撃で目が狂っていたのだろうか? 連投スマン・・・ 昭和52年〜53年に、山陽線の153系快速・普通に乗って下関へ。そこから
山陰線の客レに乗り換えて長門市方面へと・・ 当時は全車オハ61系のフワフ
ワした縦ゆれとジョイント毎の下からの衝撃。(快適・静かな153系との落差
に)辟易としたが、現在になって思えばの毎日の通勤の103系の台車に比べ
てマシだったな!と反省。また現在新規投入された225系5100でも15
3系の台車DT24の快適さには勝てないなァ・・・ 所々ズンズン下から響い
てくる。 153系の方が165系電車より良かったな
明らかにスレチなの百も承知だけども、
165系電車モーターは兎に角うるさく、
153系モーターは旧客的静かさだった。 >>313
153系のTR59 DT24台車の方が乗り心地が良かった。165系は何かとフワフワ
していた。あれは飯田線の急行「伊那」等には向いても「鷲羽」「比叡」には使
うべきものではない。電車の運行本数が少ない路線で乗客から急行料金を毟り取
っていた。急行と言うよりも、停まらない各停であったな。乗客の内容が日常の
買い物客とか一寸した所用客であったな。急行らしい大阪発夜行の「ちくま・く
ろよん」に乗ったが翌朝までフワリフワリで眠れなかった。 フワフワ台車の話で思い出しての連投スマソ。小生はスハ43・オハ46
の台車ももあまり好きでなかった。むしろTR23に換えたオハ47に乗っ
ていた。一番好きだったのはオハ35丸屋根車だった。オハ35丸屋根>
オハ47>オハ46>スハ43>オハ35戦後型>スハ42の順だった。
オハ46純正はTR47台車ながら鉄板屋根だがスハ43のようにあまりフワリ
フワリしなかったが、ジョイント音はあっさりと冷たかった。オハ35戦後
型はゴリゴリした安ッポイ感じ。オハ35丸屋根は大きな木製の酒樽を柔ら
かく叩くような「コンコン」とした暖かい響きが車内いっぱいにしてとても
好きだった。ポイント部を通過しても音だけで車体は全く揺れなかった。
台車の優等生だった。 スハ43・スハフ42は体重的に頭デッカチなので、ポイントを渡った
ときなど、長周期的に右へ左へフワリフワリと揺れるのと、ジョイント
音があっさりしすぎて嫌いだった。ナハ10のTR50は音だけでは良か
ったが、小生の云う旧型客車では無い。上記の文章があまり下手なので
済みませんでした。 TR50以降の新型台車は短軸間台車なので、ジョイント音そのものが違った。今でもオハニは
ジョイント音だけだと、50系や12系みたいな感じ。TR47やTR23とは別物。 スハ44とスハフ43が福知山線の鈍行で走っていたのは、同客車が急行銀河から引退(昭和50年3月)して以降だったのでしょうか。
また、スハ44とスハフ43はいつ頃まで福知山線の鈍行で走っていたのでしょうか。 >>318
宮原のスハ44は銀河だけでなく日南にも使われてたよ。50.3で消えたけど。 スハフ43といえば高松松山間で見かけたりDF50牽引の鈍行に乗った。
山陰福知山線での記憶はないな。昭和50年代前半にはつくしや日南
、銀河から撤退、四国にわたったんじゃないの? 昭和53年の3月に長門市到着普通列車でガタガタのオハ35に混じって
いるのを目前に見たよ。番号は控えずだが、都落ちの車にしては新車同様
に丁寧に塗り替え立てでピカピカだった。宮原持ちのスハ43・オハ47
でもあんなにきれいなのは見たことがなかった。小生 >>308で下関で見た
スハニ35のことをカキコした者です。シートピッチが狭いので乗ろうと
は思わなかったが・・・・福知山線大阪口でもしばらく使用されていた
期間があったが気には留めなかったが短かったと思う。確か宮原所属では
なかったような・・なぜかというと、スハ43やオハ46・47と組んで
いるのは見なかったのでたぶん福フチだったのかも・・・・ 小生>>311で下関口のオハ61のことを書いた者だが、スレチでゴメン。ある日
鉄ファン誌を見ていたらページ巻頭の目次で『陰と陽が出会うところ』との
投稿写真のテーマが有ったので男性特有の期待感と何か宗教的なオカルト感に
そそられながら当該ページを開いてみると、何と山陽線・山陰線の幡生駅西方
で両線が分離していく場所を撮影しただけの内容だったにはただ呆れたwwww >>321
福知山線で使用されていたスハ44の実例。
1974年11月.26日 736レ 大阪
DD54 20福
ナハフ11 2007大ミハ
スハ44 29大ミハ
オハフ33 468岡イト
オハ35 3169大ミハ
オハフ33 122岡イト
スハ44 26大ミハ
スハフ42 2255大ミハ 中学のとき小さなテレビのついたソニー製のラジカセを持ち込んでヘッドホンで風の「夜汽車は南へ」を聴きながら乗ったのがいい思い出だわ 歳とるなぁ…
リアル旧客に乗れずいつも悔しがってる者ですが、
(当時なら福知山から先へ乗れば泊まりがけになる
小学生のうちは泊まりがけは禁止されてたため)
それでも何とか86/10/26に福知山に「接するだけ」のために行けました
が、それが動いている国鉄通常運用の旧型客車を見た最後になりました
オハフ33とオハフ45の写真が残ってます。車番を控えなかったのが残念 そうか既に30年前の今日は過去の車両か
旧型客車引退後も城崎(温泉)以西では、50系客車や12系客車が頑張ってたけど12系客車撤退してからも既に20年近い
223系電車とか新型電車が投入されたり城崎(温泉)以西の非電化区間においてもトワイライトエクスプレス瑞風の東浜駅停車とか今でも明るい話題もあるけども山陰本線福知山線の今では全く必要ない長さの長いホームはわびしさしかないな
JR西日本が旧型客車に残酷冷酷なのは国鉄時代からだからしゃあないとしても今も当時のままの長いホームその理由を「どうしてこんなにホーム長いの?」と孫の子鉄や孫娘の鉄子に質問された時に
「昔昔旧型客車という長い列車があってこのホームいっぱいに止まってたよ」と孫の子鉄や孫娘の鉄子に教えてほしいとこのスレの住人にお願いするしかないな 326です
ただ、これもどっかで何度か書いたように
「ドア保安なしの本来の供用スタイルでの旧客」そのものには
乗ることができました。はい、和田岬線です。
ふだんの64系も紛いなく旧客ですが、
山陰で乗り損ねていた当時の私にとっては
64系は旧客ではありませんでした。
64系時代の兵庫へは三度ほど訪問しただけでしたが
たった一度だけ、予備車のスハフ42 2254が兵庫方に連結されており、
「本物の旧客」との感無量の邂逅でした。
初め貫通扉は閉められてましたが、自分であけて
去りゆくレールを展望したり、デッキから身を乗り出してみたり
座席にすわって旧客のたたずまいをかみしめてみたり、
山陰で叶わなかったことを夕方1往復の短い時間で全て叶えました。
スハフ42には、私ひとりでした
いま振り返っても夢での出来事みたいです。 山陰線の50系
京都〜福知山までの運用は知ってますが、
福知山駅以西では、どこ駅以西に50系の運用が実在しましたか?
福知山〜豊岡〜浜坂〜鳥取に50系の定期運用はありましたか?
路車板で疑問が上がってまして… 営業運転をする旧型客車には3歳か4歳の頃に乗ったような気がするかすかな記憶があるのだが定かではない。 大阪駅で年末の大雪のため急行だいせん1号が運休、やむなく後続の
10時頃発の鈍行(米子行だったような)に乗ったら長距離客で満員、
網棚にも荷物が並んで往年の客車急行の風情を味わえた。 80年代初頭、但馬のばあちゃんちに帰るために大阪駅で急行但馬5号に乗るんだけど、
その列車が来る前にそのホームには雪積んだ旧客が止まったりしてた。
おかんとこれに乗っても帰れるんだよねとか言いながら。 昭和50年 大阪〜摂津本山までの定期券旅客となった私は、8時32分発の
各停西明石行きに乗車していたが、友人から尼崎までは8時30分発の篠山口
行き客レに乗るよう薦められ、大ミハのオハ47やスハ43の客となった。
尼崎8時39分に到着する頃、後発した各停西明石行きクモハ51を挟んだ
72系が到着。それに乗り換えていた。昭和51年3月に旧国の運用が終わる
まで、それはそれは楽しみの毎日であったのが懐かしい。8時30分客レが出発
する直前に、3番線に到着する急行きたぐにの2号車のスロ54としばし併走
(10秒ほど)していた。 連投スマソ。8時30分発の客レは8時10分頃から2番線に入線して
いたので、特に寒い冬季は早いめに大阪駅へ行って、暖かいスチーム
暖房の充満した天井の高い広々とした客車空間を楽しんでいた。その内
にハイケンス オルゴールが鳴って案内放送「途中 塚本・草野・南矢代
には停まりません云々」と言っていたなあ・・・ 自己満のカキコゴメン
ナサイ・・・ 過疎ってるから、カキコゴメン。>>334続きです。
尼崎8時39分到着前に放送。「まもなく尼崎です。ホームは右側です。列車
良く停まってからお降りください。立花・甲子園口・芦屋・神戸方面お乗換え
です」と言っていたが、小生と同じく1駅だけ乗る人が居るのを知っていたの
か、それとも誤乗した人のためだったのか? 今になって不思議だ・・・ もっと不思議なのは東海道線上り快速の大阪駅到着直前の車内放送で、
「まもなく大阪大阪です。新快速京都行きは8番線、次の福知山線は2番線
へお回りください。次の普通列車の福知山行きは〇時〇分、環状線は環状1
番2番のりば」とか言っていたが、例えば(芦屋→川西池田)などの乗客で
実際の乗車経路(大阪〜尼崎間)の乗車券を持っていなくてもこの区間分は
見逃してくれていたいうことなのだったのか? 一旦大阪駅改札を出て買い
なおす正直な人は皆無だろう・・・不思議な案内だと思った。 単に全列車案内なだけでしょ
福知山線が尼崎分岐なのを知らん人のほうが多いでしょ。 >>337
尼崎通過列車だから大阪・尼崎間の区間外乗車が適用されるだろ。 尼崎通過の列車が多数存在してた時代の名残かな?
今区間外乗車が適用されるケースって はまかぜ・はくとくらい?
規定が変わってたら知らんけど >>341
国鉄時代の緩行線快速は尼崎に停車しなかったんだよ坊や。 >>342
↑
恥の上塗りで片腹痛いww
「区間外乗車」って知ってる? 342は当時東海道線快速は尼崎通過だったため下記条項の適用を
言いたかったのだろう
旅程第151条
列車が次の左側の駅を通過するため左側の駅と右側の駅との間を
折り返し乗車する場合は、当該区間内において途中下車をしない限り、
旅客は別運賃を要さずに、当該区間の区間外乗車をすることができる
ことを定めている。 尼崎駅・大阪駅間
それに対する343の回答「区間外乗車」とは上記のことなんだが。
会話噛み合っている? 334、336だけじゃなく337も昭和50年当時の話なんだろ
それなのに338、341、343は現在のことと誤認してるんだな
尼崎駅の東海道線の快速停車は1997年
それまでは東京の日暮里駅みたいな感じだったのよね 尼崎通過は誤認してないよ
でも344の書いてあることを誤認したみたい。
344がレスする前に調べた
悪かったな 尼崎は福知山線の快速は止まってたからややこしいと言えばややこしいけどもな
そう言えば今でも塚本駅には止まるのと止まらないのと両方あるのもややこしい 駅到着前の「ゴーーッ」と床一面に響く音とともに停車寸前には、大概の車掌
・駅アナウンスは「列車 よく停まってからお降りください。」と連呼してい
た。今ではよく停まってから降りれる列車なんか無い。寂しいな・・・・ 過疎ッたら悪いのでカキコ。今でも「ゴーーツ」と共に耳に響いてくる。
「ささやまぐちーッ・ささやまぐちーッ」「ご乗車お疲れ様でした。国鉄バス
で本篠山、ふくすみ方面はお乗り換えです」「到着の列車は普通列車大阪行き
です。」とともにその隣にはキハ26が「カランコロン カランコロン」
懐かしいなァ・・・ >>349 訂正です。
今ではよく停まってから降りれる列車なんか無い。←表現の間違い
正しくは→「今ではよく停まってからでないと、降りれる列車しか無い。」 >>350
もっと前なら「篠山線福住方面は只今連絡列車が御座いませんので駅前からバスを
ご利用下さい」なんて聞いたよ。 >>350
篠山口位になるとホームの向こうからよく聞こえてきたなァ・・
おじさんの生声で「弁当ォー 弁当ォー・弁当にお茶ァー」「ジュースにみか
んんー」おじさんから窓越しに直接買えたなァ・・ >>354
三田まで来ると、「ハイケンス→次は三田 三田でございます。神戸電鉄で
有馬温泉・神戸新開地方面はお乗換えです。」「三田を出ますと、道場、武
田尾、生瀬、宝塚の順に停まってまいります。」 >>355
生瀬を出ると、「ハイケンス→お疲れ様でした。まもなく宝塚、宝塚でござい
ます。阪急電車で西宮北口・神戸三ノ宮方面はお乗換えです。」「車内にお忘
れ物のございませんようにお降りください。」そう言っている内に「宝塚ァー
宝塚ァー」到着だった。 福知山駅で高架になった今では食べる事の出来ない「鬼そば」を食った。
「鬼そば」と言ってもホントに何も入っていないのに他の駅そばに比べ
て5割くらい高かった。これは正に「鬼価格だ」「ボッタクリそば」と
改名すべきだ!と思った。姫路駅のマネキの駅そばとは雲泥の差だった。
姫路駅のは何回も食いたくなる何かが入っているのかも知れないと思っ
た。 またコピペか?
鬼そば=生そば(きそば)
つまり単にそば屋でっせという生そばの「き」に鬼の字を充てて
地域性ある屋号風にしただけのものだから。
(大江山の鬼退治の地域) てか姫路のどこがうまいの?
フツーなだけで特別のうまさは無いだろ。
中華麺という変則さが名物にしては白くて有難味ないし >>360
の言うとおり、特に美味いという程のものではないが10年前までの
地上駅にあった売店のものは何故か飽きずに食べていた。高架になって
からは、1度も食っていないし、あんな愛想のない建て方の所では食お
うとも思わない。品物自体よりも、やはり雰囲気が大事だな。古い駅の
狭いホーム上でスペースをとっていた場所が良かった。姫新線・播但線
が30・31番線というより「東1番2番 西1番乗り場」と言っていた
頃が・・・ それなら了解です
地平駅時代のは美味く感じたのは同感です。
平成初頭あたりまでは上屋柱に筆書きの「ひめじ」ホーロー板が健在でしたね。 昭和50年代の黄色い103系がまるで似合わなかったな。架線下の複線にキハ47がやってきたり、DD51が牽く山陰や篠山口から来る10系や42系の普通列車…さすがに白熱灯じゃなかったけど天井に家庭と同じサークル蛍光灯がズラリと並んだのは印象的だったなあ。
それから塚本通過してから鳴る大阪終点を知らせるハイケンスは心地良かったが開けっ放しのドアは怖かったな。 砂丘そば、大山そば、鬼そば
他にどんなのれんのソバ屋があった? 瑞風とは別に気軽に楽しめる長距離列車を検討中とか。
ちょっと気になる。できれば客車でやってほしい。 松本伊代がフラフラして列車止めた所?風光明媚だし解らんでもないが駄目orz 福知山線のひげ線、金楽寺駅のほう(だっけ?)に行くのは、
客車?気動車?
乗り潰しに行ったとき、駅員さんに
「あと2時間もあるからやめとき」
って諭されて、切符だけ買ったの覚えてるw
小学生の時。 福知山線の客車列車と言えば、DD51。
担当機関区は、米子機関区、福知山機関区、吹田第一機関区ですね。
米子、福知山のDD51は、古い車もあれば、新しい車、1100番台もある。
吹田第一のは、かなり古く、一桁や二桁の車が走る。また、福知山線の南部を中心に走る。
吹田第一機関区のDD51。
DD5112、正面ナンバーの白線が下側、如何にも初期のDD51。
DD51833、ごく普通のDD51。
DD51752、正面ナンバー白線無し、赤ナンバー。如何にも九州出身の出で立ち、無理も無い、熊本機関区で、デビューして、東新潟に転属して、吹田第一機関区に来ました。
DD51754、これもまた、正面ナンバー白線無し、赤ナンバー、如何にも九州出身の出で立ち、吹田第一機関区に転属して、正面ナンバーに白線が入り、ごく普通のDD51になりました。 福知山線の客車列車は、DD51。
福知山機関区のDD51で
DD51571〜DD51575があった。
正面ナンバー白線無し赤ナンバー、如何にも九州出身の出で立ち
無理も無い、その車は、鳥栖機関区出身だからだ。 福知山線は武庫川に沿って走ってたような気がする。
河原に人がいたので列車の窓から手を振った。
それから河原の人もこっちに向かって手を振ってた。 福知山線と言えば、宝塚駅。
宝塚歌劇団の女子学生は、福知山線の客車列車に乗ったか?
それとも、阪急電車に乗ったか? この中にも824レに、門司から福知山まで乗り通した兵がいると思うが
福知山に着いた後、どうしたか教えてくれ。
俺は定番通り3時まで待って、上り「山陰」に乗り継いだ。
駅ネしたり下り列車で折り返したり、ご法度のクルマで掟破りした奴もいるだろ?w 門司発福知山行きの相棒は
豊岡発門司行きであった。 >>376
従兄弟分が大阪発出雲市行きだったかな? >>372
阪急が経営していた歌劇団の生徒が
(正確には宝塚音楽学校)
国鉄に乗るわけないだろw
あのグレーの制服が懐かしいわ。 浜田発東舞鶴行(綾部からは列車番号変更)の相棒は
福知山発浜田行。SL時代は益田発西舞鶴行。 大阪発米子行きが翌朝米子発京都行きになるんだったっけ?それとも違ったか?鉄道ジャーナルに詳しく書いてたけどもあまりに複雑すぎておぼえていないただ大阪発鳥取行きがそのまま翌朝の鳥取発大阪行きになるシンプルなものもあった
>>376
大阪発出雲市行きは確か浜田行きになりさらにその翌朝の浜田発大阪行きのはずただ出雲市発浜田行きだけの筈ないので(それだと今と変わらない事になる訳で)出雲市発下関行きとか筈だが覚えてない嗚呼、あの頃の運用表がもう一度見たい 820列車米子発京都行き825列車京都発浜田行き827列車京都発出雲市行きかな
今日2月10日(金)松本伊代が山陰本線の線路に立ち入った件で書類送検されたが伊代がまだ16だった頃の国鉄山陰本線はドア扉を開けたまま扉を開いたまま走る旧型客車長距離普通列車当たり前だった
伊代がまだ16だった頃の山陰本線ならば伊代は恐らく書類送検されなかったろうしかし実に残念ながら残酷シビア言うか伊代がまだ16だった頃の国鉄山陰本線と伊代がもう16ではない今のJR山陰本線違う故に書類送検するしかないだろうな
特に松本伊代ファンでもヲタでもないが伊代がまだ16だった頃の国鉄山陰本線をドア扉を開けたまま扉を開いたまま走る旧型客車長距離普通列車当たり前の頃の山陰本線を知っていると実に複雑だorz 福知山到着後、ナハ21で折り返し。
4人で座ると窮屈だった。
大山口で停車中にホームと反対側の
ドアを開けて隣の上り旧客に乗り換えた。 3月にサロンカーなにわを夜行で山陰線走らせよるな。
申し込もうかな・・・。 旧客最後の夏に自宅のあった滋賀から餘部橋梁へ写真撮影で向かう途中、
和田山駅で停車前の車両からホームに降りてしまい転倒、腫れ上がる腕の痛みに
湿布を貼って耐えながら、餘部橋梁にて夕方まで撮影を敢行。
翌日は日曜日だったので、月曜日に病院へ行くと、人生初の骨折だということが判明。
病院から帰ると祖父が亡くなったとの連絡が・・・。
親には怒られ、兄弟には馬鹿にされ、いろんな意味で痛い思い出となってしまった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています