山陰本線福知山線の国鉄時代の旧型客車とその思い出
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山陰本線福知山線の国鉄時代旧型客車について語ろう
大阪発出雲市ゆき米子ゆき鳥取ゆきといった長距離の
旧型客車ならば特に大歓迎だが短距離客車列車でもok. >>213
使われていたとしてもうんと昔でしょう。
笠置に似たような側線あったね。
駅のたたずまいも似てる
どちらも行楽臨用かな? 先日島ヶ原に行くと側線が残っていた
あのあたりの関西線は昭和の化石みたいになってる >>191
20分も歩けば着くのにそんなに辛いかな。駅南端の貨車を見学しても商店街を抜けて行けば京都模型もあって退屈しないよ。 迷ったりしたんだろう
スマホも無く…とか言ってるし いろんな方の旧客の動画をYouTubeで見せてもらいましたが、
ほんとに懐かしいですね。
小さい頃に和田山のばあちゃんちによく行ってたんですが、
家のすぐ裏を山陰線と播但線が通っていて、兄貴としょっちゅう
汽車を見に出ていました。
時刻表見ては特急がまだ来ないなあ〜とか言ってたら
じいちゃんが和田山駅に電話して、
「孫が汽車通るのを待ってるんですけど、まだですか?」
なんて聞いてくれたのもいい思い出。 >>220
今となっては貴重なものばかりですね。
YouTubeでは鳥取駅の旧客いいですね。高架駅で駅ビルもあるのに列車旧客の、ミスマッチ言うか何とも不思議な感じ。しかも旧客はSLの頃から使われてて、鳥取駅は今でも旧客の頃のままだから、時間が今に繋がってると実感できます。 しかし、だからこそ
二度と旧客が入線してこないのが悲しい。
マイテ除く4両が、束みたいに臨客用として
維持されてたらと思うと、残念。
今でも、調べずとも車番がソラで書ける。
オハフ33 48
オハフ33 389
オハ46 13
スハフ42 2254 DD51牽引旧客の通る音
ガタン↓ガタン↑ガタン↓・・・・ガッタガッタンガッタン、ガッタガッタンガッタン・・
ホェ〜
和むわ〜 やはり、福知山駅の高架化が・・・。
地上時代はホームから蒸気の煙や警告音、
ドラフトの音、連結解放の音が聞こえて
きました。
あーあそこにあの車両がいるのだなあ・・、と
確認できたものですね。 そして駅弁も鬼そばもなくなったからね
高架は時代の流れでしゃあないとしてもせめて鳥取駅みたいになってほしかった 山陰は縁がなかったな
この時代に行ってみたかったな
出張が多い仕事してるから日本のほとんど県に足踏み入れたけど
鳥取県だけはいまだ足踏み入れたことないな
島根も高校の修学旅行で津和野いっただけ
行くまでは山口県だと思っていた ツアーや修学旅行のタイトルが『萩・津和野』だからかな?
『津和野・萩』ってタイトルが一般的なら萩が島根県に属している・・・
何ておもわねえか。 >>227
夜行急行だいせん5号で女子短大生の、グループと一緒に話をした事があるが、出雲市から山口線直通の特急のおきに、乗り継いで津和野に行く言ってたから、彼女たちが津和野が島根だという事を、知っていたかどうかはかなりあやしいw
後全然違うグループ言うか同級生だが、萩では山陰放送TV映らないと言うと、びっくりしていたから(そいつも女だが)世間一般の女子の認識そんなもんではw
あくまで昭和55年ごろのことであって、鉄子が多い今ではそして車で旅行する、女性が多い今では違うかもしれないがw いわゆる鉄子は増えた(カミングアウトした)が、
一般女子のグループ旅行で移動インフラとしての鉄道利用は
とんと見かけなくなった。 今の御時世、女子と呼ばれる年代の旅行グループが利用しやすい列車が少ないしな
新幹線使うなら夜行バスとなりそう >>227
萩津和野から秋吉台→宮島→広島原爆ドームてコース
首都圏の公立高校多かった1980年代
私立だと九州か北海道だったな >>228
萩は松下村塾とか「長州」のイメージあるからそれはないだろう >>230
逆にBBA集団のキッパーが激増した感がある。w >>235
>BBA集団のキッパーが激増
それは>>229のように35年前女子大生だった人たちが55歳前後になり、
子育ての手がかからなくなって再び汽車旅に戻ってきたという感じだな。
まぁ55歳前後は汽車で旅をした普通の女子大生の最後の世代だからな。 >>201
当時親戚が三田に住んでいたんだけど、大阪まで国鉄一本で行けば速いのに
宝塚まで国鉄、宝塚からは阪急って人ばかりだと聞いたことがある。
それが道場南口あたりだと新開地経由梅田が普通で、わざわざ三田経由の国鉄
って人はいないのに驚いたわ。
地域がどれだけ国鉄を忌避していたのかと今になって感心するわ。
宝塚以遠の電化完成〜88年頃までは宝塚乗換えが多かったらしい。
何しろ普通電車2両編成とかあったもんな。 非沿線民だがリアル当時知ってる者だけど、
あれじゃ乗り換えて早く着きたいのは当然だよ。
もっと調べてみてごらん。>>238 いま夜行バスに乗ってるんだが
前のバスが日本交通(鳥取)の米子行バスで、
背面のLEDがシンプルに
米 子 行
FOR YONAGO
なんだよね。吊サボ連想してウルウルきた >>238
キハ58で一本で行くと急行料金取られた時代だし。
普通客レは平気でバカ停するし。 >>242
武田尾でバカ停。
懐かしいな。
止まっている間に猿と猪がおでましだった(嘘 真夏の始発の旧客。
窓全部閉めきってある車両に乗り込むと、当然蒸し風呂。
扇風機が回りだすも、しばらく熱風。 まぁでも旧客なくなった昭和61年とか首都圏通勤車でも非冷房あったからな
貫通開いてると加速と減速で風がながれるのがわかるんだよな。トンネルだとDD51の排煙が流れてくるという >>246
蒸機時代の福知山持ち列車はオハ60・61主体だったから扇風機など
影も形も無かったな。宮原持ち列車との格差が凄かったよ。 支線は基本木造車ー>60系客車の流れだったからね。五能線なんかもオハ61主体だった。
オハ35さえ亜幹線主体、支線にまではなかなか回ってこなかった。
スハ43は、東海道・山陽の急行や長距離普通が廃止されたり、電車化されたりして
余剰ができてやっと他へ転属していった。
東日本は、遅くまで本線で客車主体の運用、客車急行が残ったので、ローカルは
オール茶色の編成も多く、スハ32が最後まで残ったのもその関係だろうね。 >>247
外との空気の一体感が旧客魅力だったな
それにしても昭和61年まで旧客が残った福知山〜豊岡間まで223系になったのはそんな旧客魅力そのものが封印された、禁じられた遊びみたいで実に残念だな。 >>250
前にこのスレだったかに書いたが、
大阪から久しぶりに乗ったら
篠山口以北でようやく、
わずかに国鉄末期の面影が出てきた。
でもすぐに福知山駅で全消しw 旧客時代の山陰線は、倉吉線の混合、夜行の普通客レ、長距離普通列車、蒸気暖房、スイッチバック、余部の絶景、
保津峡の風景・・・全てが汽車時代の面影を残してた。 物理的に無理だな。残念だけど。
路車板の旧客スレにも書いたが
酉が手持ちだった4両(マイテ入れたら5両)を
自ら潰してしまったからね。
現やまぐち用12系が引退のときは
客レとして山陰走らせてほしいね。 ハリボテより京都車で走らせた方がいいね。
京都車もそろそろヤバいだろうし。 福知山線検索だと事故画像出てくるのでいまだに国鉄福知山線旧客福知山線検索 >>255
まだあったんか。…ああ、びわこ号で使ってたか。
ハリボテと言うが、シルヘッダーもついてるし
白帯消したら旧客だよ。
車内の各○○風の改造内装もまだバブル期だったからそれぞれ案外真面目だし、
12系客レ時代を意図してるならオリジナル推すのもわかるけど
俺はいちおう旧客時代を意図して述べたんでね。 >>257
ほんまそれ
別に懐古主義者でも何でもないけれど、福知山線に関しては単純検索では必ず、あの事故が出てくるのが実に残念だorz 大都市のローカル線と呼ばれた福知山線
スピードアップの果てのあまりに不幸な事故だった >>10
SL時代は益田→西舞鶴でやがて浜田→西舞鶴となって
DD時代は浜田→東舞鶴 やがて浜田?福知山となったっけ。
列車番号が綾部で変わるのはなんでだろ?
そして折り返しは東舞鶴(西舞鶴)発ではなくて福知山発。
ただし舞鶴からキハが出て福知山発の客レに接続はしている。
生瀬か武田尾だったか、列車の最後尾にまでホーム長が僅かに足りなくて、
停止位置を間違えてるんじゃないか、などと車中の客がざわついていたのを覚えてる >>262
都会の客かな。長編成客車列車ならホーム足らずの駅
あるのにな。あとブレーキ緩めて連結伸びてわずかに
最後尾扉がホームからはみ出るとか。 夏になると、思う。
汽車旅がしたい。
窓も乗降扉も貫通扉も開けっ放しの旧客に乗りたい。
もう一度再び、汽車旅がしたいと。 ほんとそれ。
別にあの事故があったからではないが、旧型客車あった頃の福知山線封印され、今ある福知山線は忌まわしいあの事故を償う事でしかありえなくなってしまったまるで公害企業のような忌まわしい現実
償わなければならないの言う迄もないが 夏はDD51のエンジン音が暑さをさらに盛り立てるんだよな。
京都駅に入線してもなかなか発車しない鈍行列車。乗り込むと
独特の匂い、むうっとした熱気、振動とともにギシギシと音を立てて
ゆっくりと発車・・・。 大井川鐡道でSL列車に乗ったらあの感覚がいっぺんに
思い出された。 各停だけど、車内販売のワゴンが巡回して来るし。
豊岡駅や和田山駅で40分停車するから、ホームで駅ソバ食えるし。
あと、ホームにある洗面台で、顔を洗ったりするのが、好きだったな。
これぞ『汽車旅』と、言う事を堪能できたよね。 冬の旧客もいい
大阪駅に止まってて、雪は積もってないのに
客車の屋根にだけ雪積んでたりして どれだけ語り合ってもぜんぶ過去にしかないのが空しい。 DD54ってシフトチェンジのタイミングでドッカーンとなるらしいけど、立ってればよろめくくらいすか?
マイバッハの加速力はなかなかすか? DD54ってシフトチェンジのタイミングでドッカーンとなるらしいけど、立ってればよろめくくらいすか?
マイバッハの加速力はなかなかすか? >>274
いやこういう良さって過去だけじゃなくて共感できる人を通して
未来にも色々と生きると思うよ まあでもなんか実際こないだも出雲市から鳥取までダラで乗り継いだけど
俊足な現代DCに揺られてたら都会の列車みたいだったわ。
海辺など自然部分の車窓風景はあの日とまったく変わらないから
余計に思った。 山陰本線の旧型客車列車は何度か乗った事あるけど今でも残念なのは旧客時代の急行さんべに乗れなかった事
末端区間の鹿児島本線部分だけは自由席に乗った事あるけど山陰本線で乗れる様になった時には20系+12系化されていたんだよね
EF65-1000牽引の急行さんべなんて貴重な体験は出来たけど 十分だよ。
こちとら旧客すら乗れなかったんだから
福知山で記念撮影しただけ… >>280
12系の話でも十分にしびれるんですが・・・ 今から30年前、置き換え直前の旧客に乗る為、何度か山陰本線まで行き
ましたが、ある時、香住から浜坂まで、オハニ3611が自分1人だけの貸切
状態になりました。
今思えば嘘の様な、恵まれた経験でした。 >>282
国鉄当時に大阪←→福知山の12系(もちろん車販あり&武田尾の旧線時代)に何度も、
JR化後には豊岡から米子の12系、
山陰地区の客レにそれだけしか乗れなかった俺はシビレ対象に入りますか? ああ、「だいせん」も12系座席と14系3段寝台
どっちも乗ってましたです。
福知山では深夜駅弁販売がありましてね >>284
入りすぎ
俺は佐津〜餘部を12系で一往復しただけだけど一生忘れないよ
窓から手を出して白ラインを青色で塗りつぶしてるのを爪でこすりながら
「微妙に段差が有るんだな」とか思った28年前・・・ 「山陰」末期に、鳥取→京都間をオハネフ12に乗りましたが、多客時という
事もあって満員で、寝台係の車掌が、上着を作業着に着替えて、客の世話を
していたのが印象的でした。 >>287
レスありがとうございます。
現役時代の「生きている旧客」に揺られて旅することが叶わなかったので
この三十年間、歯噛みをなして悔しい日々ですが
こればかりは生まれた場所や世代の順番なので仕方ないですね…
50系も、筑豊(鹿児島)・草津(東海道)・磐越西・東北など各地で乗ってますが
すべての記憶と引き換えに1986.10.31までの旧客列車に1回だけ乗せてくれるというなら
そうしたいです。 >>289
まさに!
小学生時代の大阪駅を変に覚えてるから
「なぜたった一度さえ乗れなかったのか」と
悔しいとか勿体ないとかの言葉で表せないくらい残念なんだよね。
ただ50系でも相当でしょ。
走ってるのを見ただけ。
梅小路に放置されていたもののシートや窓や扇風機を触ると
「生まれるのが遅かったか」と心底思うんですわ。 夏の雨降りだと窓も開けられない、
天井の扇風機はぬるい空気をかき混ぜるだけ、
夜に窓を開けていると蛾が飛び込んでくる、
小駅の待避線で長時間停車中
横を駆け抜けていくキハ82、
いやキハ58でさえまぶしく見えた。 >>290
んー、世代格差やね。
旧客当たり前やったから。
むしろ50系の記憶は短い。 自分の時は181系化されてたけど、まったく羨ましくなかったな
山陰本線、ほんとよかった。いまでもいいんだろうけど
長門以南の鄙びた感じとか、宇田郷、折居に五十猛、田儀、東浜の海沿いに山間の三保三隅、
大山口のD51、久谷のトンネル飛び出し、旧客のドアから乗り出す餘部鉄橋。
鎧はあんなとこで出雲とまつかぜの交換、城崎温泉に保津峡か武庫川渓谷。
なんだったんだろうな。旧客羨ましいのと同じくらいにDD54とかDF50が
走ってた頃に乗った人が羨ましい >>294
まさに山陰線はこのイメージなんだよな
旧客世代それもリアル旧客世代言うよりまさにその東浜の民宿臨海学校で行って民宿の窓から見える山陰本線の旧客が、あまりにも印象的で(ちなみに臨海学校そのものは貸し切りバスで行ったけど)
臨海学校から帰ってから改めてどんどんまた旧客に乗りたいと思うようになって改めて旧客に乗るようになったけれどもそんな理由で乗る様になっただけに旧客=山陰本線に近いようなイメージがある
(勿論他の線でも乗ったことあるが旧客=山陰本線のイメージは他の線とは違う山陰本線ならでは山陰ならばのイメージ
50系客車にも乗ったことがあるけど例え50系客車でも例えば今の羽越本線の村上〜鶴岡間の普通列車あたりとかは架線下DCオンリーになってるからあれだ例え50系でも今よりは全然マシと思うよいや
50系客車どころか羽越本線牽引するのはEF81モーター音爆音イメージで架線下DCなんて電化の意味ないじゃん思うし
明らかにスレチだが何言いたいか言うと50系客車旧客両方リアルタイム世代だが50系客車でも今よりは今のことを思うとまんざらでもないと言うことが言いたい
50系客車や旧客の頃は山陰本線の旧客が東浜のリアルのオープンエアーに対して今の列車と言うものは特急普通関係なく単なる移動手段になってしまってるから
(新幹線でさえ例えば昔の新幹線ならば青柳ういろうとか静岡のわさび漬けとか少なからず旅情を味わうことができたが今は単なる移動手段になってるからね。食堂車やビュッフェがあったころまではまだ良かったがこればかりは時代の流れしゃあないでしょうという事だろうね。
むしろ今は実に残念言うか皮肉だが高速サービスエリア方がまだますのすしとか峠の釜めしとか往年の鉄道に見られた、旅情を味わえるのは実に残念皮肉ですね トンネル通過時に先頭車のデッキに立つと、
目の前のDD54が客車とちぐはぐに車体を
揺らしてる様とものすごい轟音が怖かった。 山陰本線は汽車旅要素が全て詰まってた、特急、急行、夜行急行、夜行普通、長距離普通、倉吉の混合、
荷物郵便列車、余部鉄橋、保津峡、海岸沿い、スイッチバックまであった。・・・で非電化単線。
この頃に思う存分汽車旅できたのは、一生の宝物。スハ32こそ引退してたけど、オハ35戦前製やオハ61
はまだいたからね。 朝の鳥取駅2・3番線西端にたたずんでいると
機関車の入れ替えや、朝の間合い運用に使われた
キハ58などが東西へ向かう急行用に組成替えしてる
しているさまを観察できた。
腹が減ったら砂丘そば。 夏の但馬の田舎の昼下がり。
とある駅に旧客が止まってて、いちばん後ろの車両から
小学生の子が縦笛をピーピープープー吹いてる。
あののどかな光景 シーンとした駅で、車掌と機関士の発射の掛け声だけが良く聞こえたな。
〇〇列車発車、発車ぁ、ポーって汽笛がかっこよかった。
今は旧客もデジタル無線だし、それでやってるのかな。
しかし旧客は停車中静かだったな。 旧客は非冷房でも、米子駅や鳥取駅に停車中の旧客列車は冬になると床下からスチームの湯気が上がってたな 乗り込んだら、モーター音もディーゼル音も聞こえない完全にシーンとした
静寂 普通の景色を走れば、客車内のまあるいの天井が純白で、山あいを走れば、
その天井が黄緑一色に染まる。(何故が。トンネルへ入っても黒くならない)
座席から通路を挟んだ向かい側に並んだ窓々を見れば、美術館に展示された
額縁画を見ているようだった。感動した・・・・ 昭和52年の朝、下関駅にいたら山陰線のオハ61主体の通勤客レが到着、衝
撃を受けたのはマニ60の大きな荷物扉が開いた中からぞろぞろと多くの女子
学生までもが降りて来た。スハニ35(スハ44系の荷物車)からも続々と・
・ しかもその編成にはスハニ35が2両も入っていた・・・・ wikiによれば「スハニ35は1970年までに全車他形式に改造された」
と有るが、小生の見たものは何だったのか?確かにこの目で見たのに。
あの衝撃で目が狂っていたのだろうか? 連投スマン・・・ 昭和52年〜53年に、山陽線の153系快速・普通に乗って下関へ。そこから
山陰線の客レに乗り換えて長門市方面へと・・ 当時は全車オハ61系のフワフ
ワした縦ゆれとジョイント毎の下からの衝撃。(快適・静かな153系との落差
に)辟易としたが、現在になって思えばの毎日の通勤の103系の台車に比べ
てマシだったな!と反省。また現在新規投入された225系5100でも15
3系の台車DT24の快適さには勝てないなァ・・・ 所々ズンズン下から響い
てくる。 153系の方が165系電車より良かったな
明らかにスレチなの百も承知だけども、
165系電車モーターは兎に角うるさく、
153系モーターは旧客的静かさだった。 >>313
153系のTR59 DT24台車の方が乗り心地が良かった。165系は何かとフワフワ
していた。あれは飯田線の急行「伊那」等には向いても「鷲羽」「比叡」には使
うべきものではない。電車の運行本数が少ない路線で乗客から急行料金を毟り取
っていた。急行と言うよりも、停まらない各停であったな。乗客の内容が日常の
買い物客とか一寸した所用客であったな。急行らしい大阪発夜行の「ちくま・く
ろよん」に乗ったが翌朝までフワリフワリで眠れなかった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています