山陰本線福知山線の国鉄時代の旧型客車とその思い出
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山陰本線福知山線の国鉄時代旧型客車について語ろう
大阪発出雲市ゆき米子ゆき鳥取ゆきといった長距離の
旧型客車ならば特に大歓迎だが短距離客車列車でもok. あの頃は、普通列車でも長距離なら、車内販売のワゴンが廻って来たもんな。
普通列車にも、汽車旅の叙事と情緒があったなぁ。 JR後、広島の辺りでも遭遇したような>>普通電車での車販
あとは中央東線の笹子餅 >>192
特急にも急行にも終着駅まで抜かれないそんな客車鈍行も少なからずあったね。中国自動車道開通前新幹線岡山開業前は長距離客車鈍行の旅も当たり前だった。 この時代に乗れなかったので
本当に憧れるけど
youtubeの映像を繰り返し見てると
全く遅くて不便で臭くて健康に悪かったんだろうと気付いた
でもやっぱり乗りたかった
m 昔は三田から宝塚行きの阪急バス乗って宝塚から阪急電車って人もいたそうな。
国鉄使わずに三田から梅田行くなら新開地経由選びそうだが >>196
> この時代に乗れなかったので
> 本当に憧れるけど
> youtubeの映像を繰り返し見てると
> 全く遅くて不便で臭くて健康に悪かったんだろうと気付いた
全くその通りと言うか別スレで書いたが大阪から鳥取東浜まで車3時間半なのに福知山線山陰本線なら7時間かかった。
自分の場合高校の臨海学校で鳥取行ってそれから山陰に興味を持ったんだけれど1980年昭和55年山口百恵引退当時さえ車やバスなら3時間半かけて行けるのに福知山線山陰本線で7時間かけ行くのはアホは言い過ぎだが物好きに違いない。
でも自分は物好きだから気にしないわw 昭和60年の正月に、鳥取行きの客車普通列車に大阪から三田まで乗車。
車内は完全に空気輸送だったわ。
当時一時間半かかった記憶。
帰りの急行丹波はデッキまで立ち客であふれてたな。 196ですが、
皆さんの書き込みは本当に貴重ですわ
写真や動画とは違う大きな意味が有ります
と言うことで記憶遺産に認定されました >>197
神鉄沿線に住んでいたとき、大阪には新開地経由が常識だったのに
わざわざ旧客車に乗るのが面白くて三田経由にしてたな。鉄道ファンでもなんでもないのに。
夏休みに合宿で山陰に行くときも鈍行の旧客車を三田から乗っていったけど
途中で1時間くらい平気で停車していた。15分程度の停車もざらだったから
乗車時間と停車時間はそう違いが無かったんじゃなかろうか
長時間停車を利用して友達と駅ソバを食べに行ったのも良い思い出 >>202
ありがとうございます
門司駅ホームの表示で「福知山」と出ている写真をウェブで見て
「おー!」となったけど
考えてみればこれらの駅でも「福知山」や「門司」や「名古屋」が
有ったんでしょうねえ
http://blogs.yahoo.co.jp/dd542fk/14160897.html
http://www.geocities.jp/obaken4649/shouwa4.html
あ
あ >>196
大井川鉄道のSL列車に乗ると、その雰囲気の片鱗が味わえるよ。
>>197
阪急バスでどれだけ時間喰うねん??
>>201
この間、福知山に行ったら、駅そばが無くなっていてビックリ。 >>203
1964昭和39年10月1日ダイヤ別スレより大阪5:55発 浜田22:37着 711レ
京都7:30発 博多20:55着 7D 特急まつかぜ 大阪-福知山無停車
大阪9:30発 浜田19:42/大社8:16着 701 急行三瓶
大阪10:05発 出雲市22:23着 713レ
1980年でも浜田行きが出雲市行きに、出雲市行きが米子行きになったくらいで1964年と基本的に変わってないの凄い >>196
健康に悪いとは思わんかったな。確かにタバコの煙だの煤煙だのはあったjけど、
田舎の空気を思いっきり据えたし、ゆったりとした空間は、精神的な健康には、
凄く良かった。出雲市行き山陰で茶色のスハ42に乗った時も他では味わえない空間。
混んでたけど、興奮したな。 オープンエアーの扉が開いたままの客車今は車でしかいや車でさえも味わえない
山陰本線から日本海の風受けるの最高で723列車で東浜駅に着く直前にデッキに自分がまさにその日に泊まる民宿から、TV音声聞こえ晩御飯の香りがした時は列車民宿が一体なんだと感動しました。
今なら絶対に不可能な同じ空気の感動。 >>206
ディーゼルの排煙は超体に悪いです
あと、10系客車は室内にアスベストだらけ そんな私も
トンネルで顔出し続けて呼吸しまくってましたけど
あと、ブレーキパッドもアスベストの塊でしたね… >>207
86年、修学旅行で浜村に行った兄が
「田舎町の灯りみたいな電灯の凄い電車を見た」
などと話してたので本当に楽しみにしていた
88年、同じ浜村だけどそんな「電車」 (すみません続きです)
そんな「電車」は来なかった
実は86年が最終だったんですね
今、兄にその話題をふっても全く記憶がないとのこと 旧武田尾駅の山側に側線があったが、使用しているのを見たことが無い。 >>213
使われていたとしてもうんと昔でしょう。
笠置に似たような側線あったね。
駅のたたずまいも似てる
どちらも行楽臨用かな? 先日島ヶ原に行くと側線が残っていた
あのあたりの関西線は昭和の化石みたいになってる >>191
20分も歩けば着くのにそんなに辛いかな。駅南端の貨車を見学しても商店街を抜けて行けば京都模型もあって退屈しないよ。 迷ったりしたんだろう
スマホも無く…とか言ってるし いろんな方の旧客の動画をYouTubeで見せてもらいましたが、
ほんとに懐かしいですね。
小さい頃に和田山のばあちゃんちによく行ってたんですが、
家のすぐ裏を山陰線と播但線が通っていて、兄貴としょっちゅう
汽車を見に出ていました。
時刻表見ては特急がまだ来ないなあ〜とか言ってたら
じいちゃんが和田山駅に電話して、
「孫が汽車通るのを待ってるんですけど、まだですか?」
なんて聞いてくれたのもいい思い出。 >>220
今となっては貴重なものばかりですね。
YouTubeでは鳥取駅の旧客いいですね。高架駅で駅ビルもあるのに列車旧客の、ミスマッチ言うか何とも不思議な感じ。しかも旧客はSLの頃から使われてて、鳥取駅は今でも旧客の頃のままだから、時間が今に繋がってると実感できます。 しかし、だからこそ
二度と旧客が入線してこないのが悲しい。
マイテ除く4両が、束みたいに臨客用として
維持されてたらと思うと、残念。
今でも、調べずとも車番がソラで書ける。
オハフ33 48
オハフ33 389
オハ46 13
スハフ42 2254 DD51牽引旧客の通る音
ガタン↓ガタン↑ガタン↓・・・・ガッタガッタンガッタン、ガッタガッタンガッタン・・
ホェ〜
和むわ〜 やはり、福知山駅の高架化が・・・。
地上時代はホームから蒸気の煙や警告音、
ドラフトの音、連結解放の音が聞こえて
きました。
あーあそこにあの車両がいるのだなあ・・、と
確認できたものですね。 そして駅弁も鬼そばもなくなったからね
高架は時代の流れでしゃあないとしてもせめて鳥取駅みたいになってほしかった 山陰は縁がなかったな
この時代に行ってみたかったな
出張が多い仕事してるから日本のほとんど県に足踏み入れたけど
鳥取県だけはいまだ足踏み入れたことないな
島根も高校の修学旅行で津和野いっただけ
行くまでは山口県だと思っていた ツアーや修学旅行のタイトルが『萩・津和野』だからかな?
『津和野・萩』ってタイトルが一般的なら萩が島根県に属している・・・
何ておもわねえか。 >>227
夜行急行だいせん5号で女子短大生の、グループと一緒に話をした事があるが、出雲市から山口線直通の特急のおきに、乗り継いで津和野に行く言ってたから、彼女たちが津和野が島根だという事を、知っていたかどうかはかなりあやしいw
後全然違うグループ言うか同級生だが、萩では山陰放送TV映らないと言うと、びっくりしていたから(そいつも女だが)世間一般の女子の認識そんなもんではw
あくまで昭和55年ごろのことであって、鉄子が多い今ではそして車で旅行する、女性が多い今では違うかもしれないがw いわゆる鉄子は増えた(カミングアウトした)が、
一般女子のグループ旅行で移動インフラとしての鉄道利用は
とんと見かけなくなった。 今の御時世、女子と呼ばれる年代の旅行グループが利用しやすい列車が少ないしな
新幹線使うなら夜行バスとなりそう >>227
萩津和野から秋吉台→宮島→広島原爆ドームてコース
首都圏の公立高校多かった1980年代
私立だと九州か北海道だったな >>228
萩は松下村塾とか「長州」のイメージあるからそれはないだろう >>230
逆にBBA集団のキッパーが激増した感がある。w >>235
>BBA集団のキッパーが激増
それは>>229のように35年前女子大生だった人たちが55歳前後になり、
子育ての手がかからなくなって再び汽車旅に戻ってきたという感じだな。
まぁ55歳前後は汽車で旅をした普通の女子大生の最後の世代だからな。 >>201
当時親戚が三田に住んでいたんだけど、大阪まで国鉄一本で行けば速いのに
宝塚まで国鉄、宝塚からは阪急って人ばかりだと聞いたことがある。
それが道場南口あたりだと新開地経由梅田が普通で、わざわざ三田経由の国鉄
って人はいないのに驚いたわ。
地域がどれだけ国鉄を忌避していたのかと今になって感心するわ。
宝塚以遠の電化完成〜88年頃までは宝塚乗換えが多かったらしい。
何しろ普通電車2両編成とかあったもんな。 非沿線民だがリアル当時知ってる者だけど、
あれじゃ乗り換えて早く着きたいのは当然だよ。
もっと調べてみてごらん。>>238 いま夜行バスに乗ってるんだが
前のバスが日本交通(鳥取)の米子行バスで、
背面のLEDがシンプルに
米 子 行
FOR YONAGO
なんだよね。吊サボ連想してウルウルきた >>238
キハ58で一本で行くと急行料金取られた時代だし。
普通客レは平気でバカ停するし。 >>242
武田尾でバカ停。
懐かしいな。
止まっている間に猿と猪がおでましだった(嘘 真夏の始発の旧客。
窓全部閉めきってある車両に乗り込むと、当然蒸し風呂。
扇風機が回りだすも、しばらく熱風。 まぁでも旧客なくなった昭和61年とか首都圏通勤車でも非冷房あったからな
貫通開いてると加速と減速で風がながれるのがわかるんだよな。トンネルだとDD51の排煙が流れてくるという >>246
蒸機時代の福知山持ち列車はオハ60・61主体だったから扇風機など
影も形も無かったな。宮原持ち列車との格差が凄かったよ。 支線は基本木造車ー>60系客車の流れだったからね。五能線なんかもオハ61主体だった。
オハ35さえ亜幹線主体、支線にまではなかなか回ってこなかった。
スハ43は、東海道・山陽の急行や長距離普通が廃止されたり、電車化されたりして
余剰ができてやっと他へ転属していった。
東日本は、遅くまで本線で客車主体の運用、客車急行が残ったので、ローカルは
オール茶色の編成も多く、スハ32が最後まで残ったのもその関係だろうね。 >>247
外との空気の一体感が旧客魅力だったな
それにしても昭和61年まで旧客が残った福知山〜豊岡間まで223系になったのはそんな旧客魅力そのものが封印された、禁じられた遊びみたいで実に残念だな。 >>250
前にこのスレだったかに書いたが、
大阪から久しぶりに乗ったら
篠山口以北でようやく、
わずかに国鉄末期の面影が出てきた。
でもすぐに福知山駅で全消しw 旧客時代の山陰線は、倉吉線の混合、夜行の普通客レ、長距離普通列車、蒸気暖房、スイッチバック、余部の絶景、
保津峡の風景・・・全てが汽車時代の面影を残してた。 物理的に無理だな。残念だけど。
路車板の旧客スレにも書いたが
酉が手持ちだった4両(マイテ入れたら5両)を
自ら潰してしまったからね。
現やまぐち用12系が引退のときは
客レとして山陰走らせてほしいね。 ハリボテより京都車で走らせた方がいいね。
京都車もそろそろヤバいだろうし。 福知山線検索だと事故画像出てくるのでいまだに国鉄福知山線旧客福知山線検索 >>255
まだあったんか。…ああ、びわこ号で使ってたか。
ハリボテと言うが、シルヘッダーもついてるし
白帯消したら旧客だよ。
車内の各○○風の改造内装もまだバブル期だったからそれぞれ案外真面目だし、
12系客レ時代を意図してるならオリジナル推すのもわかるけど
俺はいちおう旧客時代を意図して述べたんでね。 >>257
ほんまそれ
別に懐古主義者でも何でもないけれど、福知山線に関しては単純検索では必ず、あの事故が出てくるのが実に残念だorz 大都市のローカル線と呼ばれた福知山線
スピードアップの果てのあまりに不幸な事故だった >>10
SL時代は益田→西舞鶴でやがて浜田→西舞鶴となって
DD時代は浜田→東舞鶴 やがて浜田?福知山となったっけ。
列車番号が綾部で変わるのはなんでだろ?
そして折り返しは東舞鶴(西舞鶴)発ではなくて福知山発。
ただし舞鶴からキハが出て福知山発の客レに接続はしている。
生瀬か武田尾だったか、列車の最後尾にまでホーム長が僅かに足りなくて、
停止位置を間違えてるんじゃないか、などと車中の客がざわついていたのを覚えてる >>262
都会の客かな。長編成客車列車ならホーム足らずの駅
あるのにな。あとブレーキ緩めて連結伸びてわずかに
最後尾扉がホームからはみ出るとか。 夏になると、思う。
汽車旅がしたい。
窓も乗降扉も貫通扉も開けっ放しの旧客に乗りたい。
もう一度再び、汽車旅がしたいと。 ほんとそれ。
別にあの事故があったからではないが、旧型客車あった頃の福知山線封印され、今ある福知山線は忌まわしいあの事故を償う事でしかありえなくなってしまったまるで公害企業のような忌まわしい現実
償わなければならないの言う迄もないが 夏はDD51のエンジン音が暑さをさらに盛り立てるんだよな。
京都駅に入線してもなかなか発車しない鈍行列車。乗り込むと
独特の匂い、むうっとした熱気、振動とともにギシギシと音を立てて
ゆっくりと発車・・・。 大井川鐡道でSL列車に乗ったらあの感覚がいっぺんに
思い出された。 各停だけど、車内販売のワゴンが巡回して来るし。
豊岡駅や和田山駅で40分停車するから、ホームで駅ソバ食えるし。
あと、ホームにある洗面台で、顔を洗ったりするのが、好きだったな。
これぞ『汽車旅』と、言う事を堪能できたよね。 冬の旧客もいい
大阪駅に止まってて、雪は積もってないのに
客車の屋根にだけ雪積んでたりして どれだけ語り合ってもぜんぶ過去にしかないのが空しい。 DD54ってシフトチェンジのタイミングでドッカーンとなるらしいけど、立ってればよろめくくらいすか?
マイバッハの加速力はなかなかすか? DD54ってシフトチェンジのタイミングでドッカーンとなるらしいけど、立ってればよろめくくらいすか?
マイバッハの加速力はなかなかすか? >>274
いやこういう良さって過去だけじゃなくて共感できる人を通して
未来にも色々と生きると思うよ まあでもなんか実際こないだも出雲市から鳥取までダラで乗り継いだけど
俊足な現代DCに揺られてたら都会の列車みたいだったわ。
海辺など自然部分の車窓風景はあの日とまったく変わらないから
余計に思った。 山陰本線の旧型客車列車は何度か乗った事あるけど今でも残念なのは旧客時代の急行さんべに乗れなかった事
末端区間の鹿児島本線部分だけは自由席に乗った事あるけど山陰本線で乗れる様になった時には20系+12系化されていたんだよね
EF65-1000牽引の急行さんべなんて貴重な体験は出来たけど 十分だよ。
こちとら旧客すら乗れなかったんだから
福知山で記念撮影しただけ… >>280
12系の話でも十分にしびれるんですが・・・ 今から30年前、置き換え直前の旧客に乗る為、何度か山陰本線まで行き
ましたが、ある時、香住から浜坂まで、オハニ3611が自分1人だけの貸切
状態になりました。
今思えば嘘の様な、恵まれた経験でした。 >>282
国鉄当時に大阪←→福知山の12系(もちろん車販あり&武田尾の旧線時代)に何度も、
JR化後には豊岡から米子の12系、
山陰地区の客レにそれだけしか乗れなかった俺はシビレ対象に入りますか? ああ、「だいせん」も12系座席と14系3段寝台
どっちも乗ってましたです。
福知山では深夜駅弁販売がありましてね >>284
入りすぎ
俺は佐津〜餘部を12系で一往復しただけだけど一生忘れないよ
窓から手を出して白ラインを青色で塗りつぶしてるのを爪でこすりながら
「微妙に段差が有るんだな」とか思った28年前・・・ 「山陰」末期に、鳥取→京都間をオハネフ12に乗りましたが、多客時という
事もあって満員で、寝台係の車掌が、上着を作業着に着替えて、客の世話を
していたのが印象的でした。 >>287
レスありがとうございます。
現役時代の「生きている旧客」に揺られて旅することが叶わなかったので
この三十年間、歯噛みをなして悔しい日々ですが
こればかりは生まれた場所や世代の順番なので仕方ないですね…
50系も、筑豊(鹿児島)・草津(東海道)・磐越西・東北など各地で乗ってますが
すべての記憶と引き換えに1986.10.31までの旧客列車に1回だけ乗せてくれるというなら
そうしたいです。 >>289
まさに!
小学生時代の大阪駅を変に覚えてるから
「なぜたった一度さえ乗れなかったのか」と
悔しいとか勿体ないとかの言葉で表せないくらい残念なんだよね。
ただ50系でも相当でしょ。
走ってるのを見ただけ。
梅小路に放置されていたもののシートや窓や扇風機を触ると
「生まれるのが遅かったか」と心底思うんですわ。 夏の雨降りだと窓も開けられない、
天井の扇風機はぬるい空気をかき混ぜるだけ、
夜に窓を開けていると蛾が飛び込んでくる、
小駅の待避線で長時間停車中
横を駆け抜けていくキハ82、
いやキハ58でさえまぶしく見えた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています