【懐かし】阪神国道線について語る【路面電車】
このスレでは1975年5月6日に廃線となった阪神国道線の思い出を語っていただきます。
俺の小学生当時は野田〜上甲子園間が24分間隔、上甲子園〜西灘間が48分間隔で運転されてた。
国道線の渋滞による運休ってのはなかったと思うが、遅れはあったな。
時間に来なくて、バスが先に来たからバスに乗ったってこともよくあった
(小学生時代の記憶)。
バスは梅田新道〜甲子園間が1時間に2本、北杭瀬〜甲子園が1時間2本程度で
野田阪神前〜宝塚が1時間3本、北杭瀬〜宝塚が1時間3本、尼崎〜神戸税関前が1時間6本。
尼崎市内の国道2号線は玉江橋から西大島までバスが1時間16本も走っていた反面、
国道電車は昼間1時間2〜3本。話にならんね。
最盛期(昭和30年代〜40年代初頭)は野田〜東神戸間通しで、昼間12分間隔だったみたいだが、
いつ頃から24分間隔とか48分間隔ってダイヤになったんだろうか? トンボ出版社発行の「阪神国道電車」は、国道線に興味のある方にお勧めです。
特に、伊丹の園芸センターに保存されていた79号車の、解体危機からの救出→復元
に至る記事は注目です。現在の写真も掲載されていますが、尼崎の公園にある2両
とは比べ物にならない程、非常に美しい姿になっていますよ。
ちなみに阪神電鉄は、79号車に解体の話が出た際に、里帰り保存を打診したところ、
拒否したそうです。 >>96 野上車引き取ったときとは、経済事情が違うのか?
それとも担当者の価値感の相違(結構この要素は大きい・・・で社内に戻っても そういう経緯で解体、処分されるクルマがある。) 甲子園駅下の横断歩道の辺りから甲子園球場の横をチンチン電車が走っとったと言う昔話は今や若者に対してのトリビアやな
若い連れ共と高校野球観に行った時に言ったら「へぇ〜」言うたわ 「へぇ〜」ていう言葉は、感心したり尊敬したりしたときに使われるけど
相手の話に興味がなく、聞き流したいときにも使うよね 今や野田阪神から国道2号線を走ってゆく阪神バスは1日1本、
天六に発着する阪神バスは1日2本か…
なぜここまで凋落したのか… >>83 という事は、国道線と武庫川線交差で別の位置で同じ電車の乗換駅の接続があったということ
かなり遠回りで線路は繋がっているが・・・。 金魚鉢は釣掛ながら間接自動加速の高性能車で設計最高時速は60キロ。
早朝は人っ子ひとりいない国道上を全速力で走った、とピクトリアルに書いてあった。
見てみたいけど動画なんて撮った人はいないだろうな。 神戸市の東、芦屋西宮の知的障害者施設で未成年利用者に性的な行為をして淫行条例で逮捕された三田谷学園元職員の堂垣直人(西宮市老松町)は、結局どういう罪になったの?
被害者家族のケアを芦屋市役所と兵庫県警はちゃんとやったのか?
差別や虐待は環境を選べない子供には関係ない。
http://www.youtube.com/watch?v=JxMzW3ZlV4g&sns=em >>84 京阪と京都市電は平面交差があっても線路は繋いでなかった?そうだけど、
平面交差で発生した衝突事故(3件とも京阪側に非)で物納で京阪京津線の電車が譲渡されたけど
そのときの輸送はどうしたのかね?
ひょとして平面交差部でジャッキアップ90度方向転換? 阪神甲子園−阪神パーク前、しか乗った事ないけど、
とても良く覚えているよ。特に阪神甲子園駅ホーム。
あそこはまだ昔の気配を色濃く残しているよ。 廃止後に阪神パークで開催された部品即売会で
『上甲子園⇔浜甲子園』のサボを1000円で買いました。
当時中学生でした。
いまでも部屋の片隅に鎮座しています。 野田〜東神戸間を全区間走破した方の体験談を聞いてみたいな。 小学生の頃、親父に阪神パークに連れてってもらったとき、甲子園から阪神パーク前まで、
「電車乗っていくか」と言われたが、お金がかかると思って子供だてらに気を遣って、
「乗らない」と言ってしまった。今思うと非常に惜しいことをした。結局国道電車は
一回も乗らなかった。 小学校6年生の頃、
阪神バスに乗らず、わざわざ本数の少ない国道線に乗って
上甲子園にあった阪神受験研究会という塾に通っていた私。
塾も国道線も今は無くなってしまったなぁ。
遠くなった昭和の記憶です。 国道線スレがあったのか
本スレに書き込んでしまったorz ネットで阪神国道線の営業末期の資料写真を見たけど電車の背景に「がんこ寿司」の看板が写ってたなぁ
がんこ親父のロゴがあんな昔っからあったなんてちょっと驚き >>92の人が言ってるように利用価値がなかったというのは
やはり>>95の人が書いているように減便でバスの本数に比べて圧倒的に本数が少なかったためなのかな
それともそれ以前の問題に起因するものなのか
もし阪堺線のように専用軌道部分が比較的多かったらまた事情が変わっただろうか
というか国道線ってそもそも専用軌道部分があったのかな。あまり詳しくないもので 本格的な専用軌道はなかった
野田駅構内は車は入れなかった
甲子園線の甲子園と浜甲子園も同様
中津浜付近は生まれる前に廃線になっていたのでわからん >>120>>121
ありがとうございます
自分でも調べてみたんだけど、本格的な専用軌道はなかったようですね
それからwikipediaによると、全線26qで約2時間かかったとあるけど
これは表定速度約13q/hで実際には渋滞等でもっと遅い時もあったという事かな。
阪堺線はかなりの部分が専用軌道で表定速度19.3q/hとあるから
阪神間で全線併用軌道というのはやはり廃止もやむなかったのかも >>119 >>122
当時、国道線を利用していた者ですが
遅いということよりも危ないという方が正確かも。
国道線は京阪京津線などと違って専用ホームがなかった。
利用者は交通量の多い国道を横切って、
車が走っている道路上で待っていたんです。
西灘〜上甲子園間の最終日、
そんな危ない停留所で待っていると(車道の真ん中です)
通りかかったパトカーがスピーカーで
「そこの僕、危ないから歩道に戻って」とか注意された(笑) >>123
安全地帯の整備がなされていない、いわゆる「ノーガード電停」は乗客は歩道で待機して
電車が来たら道路を横断して白線内に待機するってのが正解?らしい
JTBキャンブックス「神戸市電が走った街今昔」に国道線の紹介がちょびっとだけあります。 >>124
そうそう。その通りなんですが、
要領の悪い子供だったので、
遠くに電車が見えたら焦って道路を渡り
白線内で待っていました。
道路を渡るタイミングって難しいですよ(笑) どこかのwebサイトで車掌が赤い旗を持って降りてきて車を止めて乗客を誘導していたとか読んだ気がするけど
末期はワンマン運転だったのかな >>127
私も覚えています。
それだけ揺れたって事でしょうか。 廃止されるまでツーマン運転でしたよ。通行量の激しい国道の真ん中を走るのに、
停留所に安全地帯がなかったので車掌さんも大変だったと思います。 国道線の電車、たしか金魚鉢のほうに連結器が付いていた。小学校一年生の時の担任
の先生が、以前は2両編成で走っていてたくさんのお客さんが乗っていた。と教えて
くれた時、ガラガラの電車を見慣れていた僕はちょっと信じられなかった。昭和
41年の話です。 >>131
すごいフィルムが残ってたね!
あの日、カメラを持ってあの電車に乗っていた中学生の私…
映り込んでいないかを真剣にチェックしました。 国道線系統の専用軌道
北大阪線 野田周辺、中津〜北野
国道線 野田周辺、杭瀬連絡線
甲子園線 甲子園駅、浜甲子園
プラットホームや安全地帯があったのは
ホーム 野田、甲子園、浜甲子園
安全地帯 中津、天神橋筋六丁目、西灘(短縮後) だけ >>134
> 安全地帯 中津、天神橋筋六丁目、西灘(短縮後) だけ
中津は安全地帯じゃないね、176号を渡った阪急横の低床ホームだから。 安全地帯 中津、天神橋筋六丁目、西灘(短縮後) だけ
なのに
西灘にも安全地帯なかったっけ?
これで日本語おかしくないと? >>139
すみません。
単純に見落としていました。
老眼でもないのにね(>_<) 甲子園線は利用度も高く黒字だったのに、浜田の車庫への出入りができなくなるために巻き添えを食らってしまった。
とはいえ、同様の問題を抱えていた東急世田谷線(玉川線廃止のため大橋の車庫に出入りできなくなる)は沿線の上町に車庫を新設して存続したし
浜甲子園には車庫を新設する土地くらいあったと思うのだが(あるいは阪神パークの経営悪化が実際より早ければ、1975年に用地の一部を車庫にする決断がされたか) >>143
北大阪線も朝ラッシュ時の野田−中津間は超満員だったね。 >>143
面白い見解だね。
しかし70年代当時は、まだ阪神パークは盛況だったと記憶している。
ダメになったのはTDLやUSJのような
本場のテーマパークが日本に出来てからだろう。
混雑度が高かった甲子園〜浜甲子園間も
廃止前から阪神バスの本数は多かったし。 鉄道線と軌道線の違いはあるが、やはり阪神間に同一企業体が2本持ってるのは二重投資の謗りを免れない、という意見があったな。
それがまた阪国廃止の口実に都合良くな利用されたけどね
しかし阪神阪急統合で色褪せたね
今じゃ顧みる人もいない 東京の人は海から5kmもない幅のエリアに
阪急、JR、阪神と3路線も走っているのを凄いと思うらしい。
昔は国道線もあったから4路線って事になる。
そう考えると二重投資どころか四重投資くらいの状況だったのかも。 >>150 鉄道、道路の主要輸送ルートが六甲山地の南側を通さなくてはならなかったから、集中するのもやむを得ない。
東京周辺にはこれほどの地形的制約はない。
JR、旧国鉄線が貨物に長距離輸送をも担う一方で、インターアーバンとしての阪急、阪神、それに路面電車の国道線があったわけだが、それぞれ性格が異なっていたからね。
四重投資というのはナンセンス。 大阪-堺間は南海線、高野線、阪堺、新阪堺、阪和と5路線あったんだが 金魚鉢71型
スルッとKANSAIらくやんカード出てるね 廃止後、中津付近は電柱はおろか軌道も暫くそのまま遺されてたよね 中津〜浜甲子園間の道路は平成になるまで未舗装だったらしい >>156
そうそう。覚えてる。
中津浜の廃線跡を見に行ったら(昭和50年代)
土の道だったので驚いた。 国道線や北大阪線、甲子園線は当時本線・西大阪線・武庫川線も「軌道」だったので
通し運賃で乗れたと記憶している。
(もしかして国道線だけ別運賃だった?)
甲子園線や北大阪線の乗客が多かったのはそのため。
阪神バスの甲子園地区は今でも乗客はいるが、北大阪線代替路線は乗客減に悩み
遂に免許維持路線に。
運賃が別だからか?
中津まで市バスが並行して走っているからか? 毎日新聞の関西版の記者の昔の思い出で阪神支局の思い出が書かれてて
「国道線の電車が走る音で朝を知った」とか書いてあった >>158
浜甲子園団地は阪神バスしか交通機関ないからな。
昔は甲子園線の金魚鉢も満員だった。 >>143
というより、甲子園線だけであれば車両5両程度で足りたし
阪神パークの一角を車庫にしても問題なかったのでは?
その例にある東急の上町車庫は、当時の写真でも周囲は民家がぎっしり建っていて
よく用地を確保したと思うし。
結局は阪神と東急の軌道事業に対する熱意の差だったのだろうか? >>162
廃止当時の阪神パークはまだ盛業中だったので
車庫を作る選択肢はなかったと思う。
あの当時は路面電車→バスの流れが当然視されていて
数年後には京都市電も全廃。
熱意というより時代の流れだった…
個人的には国道線・甲子園線よりも京都市電が惜しまれる。 >>162
青木先生も阪神が戦後、軌道線用の車両を製造しなかったことを批判的に書いているし
最後の最後まで戦前生まれの車両ばかりだった阪神と、意欲的すぎる200系の車両を造った東急で
やはり軌道事業に対する熱意の差はあったと思う。
もちろん、阪神の場合国道に他社が路面電車を敷くと脅威になる(普通に考えて国鉄の方が脅威やろと思えなかったのか)という
消極的理由だったのが大きいが。
しかしプロ野球に対する熱意は、全く逆だったようで。日公が東急の糾弾だったことを知る人ももういないか。 >>164
東急玉川線は世田谷の足として機能していた。
端的に言えば乗客が増えたので田園都市線に代わったようなもの。
安全地帯のホームも少なからずあった(特に246号線拡幅後は増えた)。
「道路上の自動車が増え、思うように走れなかった」のは同じだが、元々阪神国道線はサブの存在。
阪神バス(阪国バス)が並行していたので、存在感は低かった。
安全地帯にホームがほとんど無かったのも痛かった(乗るのが億劫)。 >>166
東急玉川線の代替が新玉川線→田園都市線で、また246号線上には東急バスも数系統走っているが
経営的に成り立っていて、バスも乗客が多い。
阪神国道線は阪神バスに取って代わるも、その阪神バスも大阪方面は乗客難で免許維持路線化。
神戸方面は市バスの撤退でおこぼれを貰っているようなもの。 海老江に錆びた架線柱が残ってたがもうなくなったかな
2000年頃にはまだあった 武庫川線の武庫大橋駅が現役で稼働してたころの写真はどこかに残ってないだろうか?
後年の朽ち果てた姿の写真はいくつか見たことあるんだけど。 >>170
浜田の車庫前にも電柱が残ってた
アサヒオートセンターのあたり 【告発者の名前と住所】
◎宇野壽倫 連絡先:東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸202号室
還暦無職・生活保護不正受給犯罪者の色川高志(東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室)はアルバイトをしていながらそのことを内緒にして申告をせずに
不正に生活保護を受給しています。「糞アリ貧乏人どもは一生死ぬまで汗水流してせっせと働いとればええんじゃい。おんどれら糞アリ貧乏人どもがちゃんと働かんかったら
ワシが遊んで暮らせんじゃろうが〜。ボケ〜。カス〜。アホンダラ〜。」が口癖で「金や金、金持うて来い〜。どアホ〜。」といつも大声で叫んでいるようなとんでもないクソ野郎です。
こんなクソ野郎の思い通りにさせてはいけません。みなさんどんどん匿名で役所や警察に密告してこのクソ野郎が遊んで暮らせないように人生の厳しさというものを徹底的に教え込んでやりましょう。
生活保護が受給されなくなった時点でこの犯罪者クソ野郎の場合は自殺するしか他に道がないでしょう。 こんな犯罪者クソ野郎をのさばらせていては世の中のためになりません。
このような犯罪者クソ野郎が存在していること自体正当に生活保護を受給している人の迷惑となるでしょう。
まずはこの犯罪者クソ野郎に渡ってしまった我々の大切なお金を取り戻しその上でみなさんの力でこの犯罪者クソ野郎を自殺へと追い込みましょう。
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色川高志 (あいかわ たかし)
〒125−0062
東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室
【色川高志という人物も生活保護受給者でありながら申告せずに内緒でネットストーカーなどのアルバイトを
している生活保護不正受給犯罪者です】
【通報先】
◎葛飾区福祉事務所(西生活課)
〒124−8555
東京都葛飾区立石5−13−1
рO3−3695−1111 >>173
平日ゼロ本/日
土日1本/日
もはや代替とは呼べんな >>178
天六もかつては交通の要所で、天神橋商店街の北詰でもあり栄えていた。
市電がなくなり、阪急千里線も地下鉄と直通になりターミナルではなくなった。
それでも北大阪線があった頃、廃線後も昭和末期までは需要はあったようだが…
今は本当に存在意義がなくなった。
レール剥がしたのは正解といわざるを得ない。 >>178
梅田を経由せずに中津や野田と天六を往き来する人なんていないのかな
商店街はいまも盛況でコロナ流行まではインバウンドでウハウハだった
明らかにこの四、五年で商店街の客層が変わったと実感できる >>181
そもそも中津に降りる人間はいない。
最近は、阪急高架下付近を改造して、こ洒落たバーとかやってるけど、元々需要がない。 そうそう、あの辺り阪急もJRも高架下のリフォームで新しい店がたくさんできたけど
1年と持たずに閉店してるのも多い
今から思えばたとえコロナが無くても長続きしそうな感じしなかった
リフォーム屋が起業者をおだて上げてあの界隈の開店バブルを煽ったとも言える うめきた付近へも、中津から歩いて行けるけど、特急が停まらないのと、京都線に駅がないし、存在感がないから、
一般人は梅田から行く。
中津から乗ると座れないし、買い物ついでに帰るには、梅田になるから、益々使いたがらない。 昭和40年代の北大阪線野田―中津間の通勤ラッシュの凄まじさを
知らない人が何かいってるね >>186
公共交通機関での鉄道の利用割合が高かった昭和40年代は、どこでも混雑率が高かったことを知らずに、
何か言ってるね。 懐かし板でうめきた付近ががどうのこうのとかピントが合ってない人もいるしね 廃止になった後も、豊崎付近は軌道敷に簡単にアスファルトを被せただけでレールが所々見えたままになってた
粗い仕事と思った >>189
あのあたりは南浜も本庄中通も同じで軌道上にアスファルトを盛っただけで
後の道路拡幅再舗装工事ででレールがめくられてしまったんだ >>186
昭和40年代にの通勤ラッシュを経験したジジイが何かいっているね 架線は早々に外されたのかな?
柱はガンコ寿司の看板で有名だった中津駅西側の高架道の脇にかなり遅くまで残ってた 色がシックで今見ても渋い
岡山の宇野バスに通じるものがある >>192
支柱は2010年でもまだ残ってた(と思う)