【懐かし】阪神国道線について語る【路面電車】
このスレでは1975年5月6日に廃線となった阪神国道線の思い出を語っていただきます。
用地界標といえば、阪神国道のどこかの橋は
阪神電気鉄道が費用を負担して架けられたと聞いたような…? そもそも、線路用地自体が阪神の所有物で、拡張工事も阪神の費用負担だった筈。 大きい橋には通行止めか防水か忘れましたが
道路を封鎖する門扉があって線路と直交していました。
電車の線路に切れ目があって
電車同士の平面交差みたいな通過音を出していました。 末期の頃、乗ろうと思って停留所の時刻表を見て仰天。
日中は2〜3時間おきの運転間隔だったよね。 東側はもう少し運転間隔が短かったですね。
夕方のラッシュ時、ホイッスルの「ポー」という音を鳴らしながら、車の波に
もまれつつ走っていた姿を、今でも思い出します。
>>29
国道なので阪神の負担は2割ほど
線路用地は自社所有 5ヶ月近くどなたも書いておられませんが質問です。
1975年以前には存在していない世代です。
関西の1435mmの鉄道(新幹線は除く)のレールは過去の時代においては、路面電車を介して
すべて繋がれていたと聞いております(すべてが同時代に繋がっていたとは言い切れませんが)。
※平面交差のみは車両の移動が出来ませんので、この範疇には含めていません。
【例】
・阪急〜(梅田)〜大阪市電
・近鉄〜(丹波橋)〜京阪〜(三条)〜京都市電〜(元田中)〜現在の叡山
ただし、阪神の路面電車と大阪市電は野田や天六では接続されていなかったと聞いています。
神戸市電とは東神戸でレールが接続されていました。間接的にでも大阪市電とレールが繋がって
いたことはないのでしょうか?
新幹線は除くと書きましたが、大阪市電の廃車が森之宮に集められている映像を見たことが
あるのですが、地下鉄(谷町、中央、千日前)と線路は繋がっていたのですかね? 北大阪線の中津の鉄橋が知らない内になくなっていたのはショックだった。 >>36
阪急宝塚線高架後に造られた「北野線」は、大阪市電とつながってたそうです。
その大阪市電は、京阪電車と平面交差はあったとか。
阪神国道線と大阪市電は、線路の交差もありませんでした。
阪神国道線と阪急電車は、
阪神国道線〜杭瀬連絡線(昭和50年廃止)〜阪神本線〜神戸高速鉄道(昭和43年開業)
でつながっており、さらには山陽電車とも繋がってたとも言えます。
大阪市交通局内でも、市電と地下鉄の線路がつながってたことはないです。 ありがとうございます。
自分は現在の阪神に付いてもあまり詳しくない者です。
京阪と市電は野田橋(片町)で平面交差していたのですよね。
昭和40年頃のものかと思いますが、市電が1900系特急の通過を待っている映像を見ています。
阪急から京阪へ移籍した車両は梅田および野田橋経由(何らかの方法で京阪のレールに載せ替え)で行き、
現在の阪堺から阪急への移籍も梅田を使ったと聞いております。
阪神から京福(叡山)へは、レールが繋がっていない箇所で何度か「載せ替え」て行ったのでしょう。
阪神国道線と本線は杭瀬で繋がっていたのですか。知りませんでした。大昔の武庫大橋でも
線路は繋がっていませんでしたし。
阪神国道線は間接的に阪急電車と繋がっていたので、地下鉄堺筋線(昭和44年開業)とは繋がっていますね。
大阪市電と地下鉄の線路の繋がりがないことは了解しました。
何らかの方法で車両が森之宮に集められていたのですね。
春日出車庫の幕を出したまま車体が解体され、野焼きにされている映像も見ています。 >39
市電と京阪が平面交差している踏切の横に京阪の片町駅があった・・・。
阪急の天神橋(天六)は、少なくとも1960年代後半には高架駅になっていましたね。 廃止直前、寂しげに車の洪水の中を走る金魚鉢を見て、ホロっときた事があります。 阪神阪急は、神戸高速以前に戦時下当局の圧力で今津でダイレクトに繋いでいたでしょ。
新幹線だって(切り替えだろうが)建設工事の兼合いで平行の阪急京都線が高架切り替えの際新幹線の軌道を使用 新幹線の線路を先に阪急が使っていたのは有名な話だね。 >>40
どうも有り難うございます。
京阪片町駅はその場所にあったのですね。
阪急の天神橋は元々高架駅(日本で初めて駅舎を内蔵した駅ビル)で、
1969/12/6の堺筋線開通とともに地下に移りました。
>>42-43
戦前、阪神国道の手前で阪急600系が坂道を暴走して転轍機も壊して阪神の線路に侵入し、
久寿川駅のホームで車体を擦って停まったんですよね。
新幹線の建設と、並行して走る阪急の嵩上げ工事は、工事の段取りの都合で昭和38年に
阪急が新幹線の線路を借用していましたが、あくまで開業前なので>>36では含めませんでした。
鹿島建設や朝日放送の昔の映像で見たことがあります。
開業前に新幹線と阪急の擦れ違い実験もやったそうですね。録画して家にあります。
※新幹線の土手を建設→阪急がそれを一時的に借用→阪急の土手も出来る→本来の姿にですね。
スレの趣旨とは逸れてしまいすみませんです。 連続ですが、神戸市電は山陽電車とのレールの繋がりもあったので、そちらのルートでも
阪神国道線と山陽は繋がっていたことになりますね。
阪急が西灘〜上筒井に行っていた頃に、西灘付近で阪急とレールが繋がっていたという
書き込みも見たことがあるのですが、現役時代はあったのかもしれません。
廃止直後には、すでに今のように引き込み線が名残として残る程度になっていたのでしょうか。 上本町では近鉄と市電のレールも接続されていた。
www.geocities.jp/dtn2301/db260.htm
全てが同時に接続されていたとするなら、
山陽〜神戸市電〜阪神国道線〜阪神〜阪急〜大阪市電〜近鉄(旧奈良電など含む)〜京阪〜京都市電〜京福(京福・叡山)〜愛宕山の
ネットワークが存在したことになる。
阪急〜能勢電、大阪市電〜南海軌道線、京阪線〜大津線も接続されていた。
従って関西の標準軌は東海道新幹線と第三軌条、工場などの線を除いてすべて接続されていた(可能性がある)。 >大阪市電〜南海軌道線
車両売却や緊急時の車両搬入と相互乗り入れ時以外で常時接続されていた場所はどこ? 明治期は市電と阪堺は天王寺西門を介して直通運転もしていた。
この時期は確実に接続されていた。
大正期に天王寺西門〜天王寺駅前が市に買収されたが、天王寺駅前が
南に移設されるまでは線路もつながっていたんじゃないか? >>46
これは仮想世界(フリーランス)の話で、こんな車両は居ないし、線路も実際に
接続された事はない筈です。 ちとワロタ
架空鉄道のページは本当紛らわしいよな
最悪なのは実在の列車名で時刻表うpしてるタイプのサイトだが 天満橋では歴史的な経緯から、つまり京阪が高麗橋から天満橋まで後退させられ、
その代替的な措置として市電に乗り入れるという案があったことから、接続があって
もおかしくないような気はするんだけどな。実際には直通は実施されなかったが。
近鉄も路面電車の解釈で始まっているけど、大阪市内に路面の区間ってあったの? >>51
奈良市内併用軌道じゃん
>>48
買収後は線路は切り離されている >>51
今里辺りに併用軌道があったとか言う説がある。もっとも、書類上の形式的なものだったとも言われてるみたい みなさん、どうもありがとうございます。
近鉄と大阪市電、京阪と大阪市電は、歴史的に一度でも常設的な連絡線があったのかどうかは分かりかねますが、
近畿地方の1435mmの路線の多くが過去には接続されていたことが分かりました。
しかし>>46のサイトは紛らわしいですねw 昔は国鉄から路面電車、軽便鉄道まで、鉄道は貨物、荷物、郵便など人以外の「物」を沢山運んでいたからな。
会社間での連携も大いに必要だったのだろう。
昔は人と物を併せた全輸送の85%近くが鉄道に依存していたが、今や60%程度にまで落ち込んでいる。
かつては市電がトラックのような役割も果たしてたんだろう。 戦後、オート三輪が発売、何処の商店も購入したが、決定的になったのはトヨエースが発売されたことだろう。
多くの商店がトヨエースを購入した結果、鉄道輸送の代りとなり、大型のキャブオーバー発売が鉄道輸送にトドメを刺す。 国道線って貨物営業実績無いだろw
京阪神都市圏なんて昭和に入った頃には軌道の貨物需要なんてほぼゼロだよ それにしても
>今や60%
てのはどこから出たのかね
国土交通白書からはとんでもなく乖離してるな >>61
国道線って貨車0なのにw
営業貨物は無い
散水車すらない(本線はある)
>人と物を併せた全輸送
どうやって合算するのか定義が分からん 偉そうに草生やして煽ってたID:sl6Ho5DTサンなら分かるんじゃないッスかね ここは私信あかんやろち
何も知らへんならだまっときや 煽ってやれば顔真っ赤にして書き込むだろwwなんて考えは改めた方がいい
人に物を教えてもらう時は頭下げてお願いしますと頼むんだよ ほな放置やな
頭下げて妄想書込まれても迷惑やしな
今後は何の役にもたたん自己満足だけの書込みはやめてな こうしてID:sl6Ho5DT = ID:k0+Ebnz6 = ID:k51wmkr4 君は
デマを垂れ流して逆ギレした挙句、事実を教えてもらうチャンスも逃したのでした まあ>>60の時点ですでにDQN確定してるからな
誰もまともに相手してくれる筈がない ヒントは他社局連絡
って路面電車で連絡貨物送るなら戦前でもトラック使うよな お世話になっております。
昔は荷物を送るのに国鉄に頼んでいたと親が言っていた事がありますね。
あと市内中心部の物流手段として、道路が整備される以前は、水運も多用されていたと思います。
梅田貨物駅には水路が入り込み、貨物から降ろされた荷物は船で大阪市内各所に
行っていたなどと聞いています。今でも環状線に乗って大阪から福島に行く途中には、
元々は「水路を跨いでいた」鉄橋がありますね(走行音が違います)。ホテルのところらへんです。
なんであそこだけ土手やコンクリではなく鉄橋なのか疑問に思っていました。
今では、大阪市内の多くの川や人工的な水路(運河、堀など)は暗渠になってしまいました。
四つ橋も昔は本当に橋が4つあったのですね。 戦後は新車は数両程度しか入れていなかったらしいな。 如何に“金魚鉢”一族のデザインが素晴らしかったかたという事だ。
戦前製という古さを感じさせない。 浜田車庫の構内線って無番号1形が構内牽引車として留置されていた一角、
本線から入って右手の二棟くらいだったかな?、線路が繋がっておらずトラバーサもなく
車両が入れられない構内の孤島になっていたんだけど・・何故?
架線は本線に出入りする最初のとこで分岐していた。 末期の西側は48分間隔だったな。
バスは三宮まで直通で、電車は西灘まででは誰も乗らないのはやむを得ないか。 かなり上の方の話だけど、路面電車と鉄道線は杭瀬だけでなく甲子園でも線路が繋がっていたのだよね? 甲子園線は、そもそも国道線でなく
本線の支線だったはず。
甲子園の東方より分岐して。 国道線は野田−東神戸間で、東神戸終点は神戸市電(脇浜町)と線路が繋がっていた。
本線とは、北杭瀬−杭瀬間の連絡線を介して繋がっていた。
北大阪線は野田−天神橋筋六丁目間で、国道線とは繋がっていたが、
本線高架化後は本線とは直接繋がってはいなかった。
甲子園線は上甲子園−浜甲子園(−中津浜)間で、末端部は戦時中に撤去。
上甲子園で国道線大阪方に繋がっていた。
本線とは甲子園で繋がっていたが、撤去された。本線鳴尾から築堤に登る途中に
山側に折れ、そのまま甲子園線に下る連絡線が存在していた。(跡地は阪神所有の賃貸ビル)
この他に、「新設軌道線」で国道専用車両が走っていた路線として
尼崎海岸線(出屋敷−高洲(−東浜)間。末端部は戦後休止)と、
武庫川線((武庫大橋−)武庫川−洲先間。武庫川以北は戦後休止)があった。
いまは武庫川線は赤胴車が2両連結で運行されているが、1960年代半ばまでは金魚鉢の単行だった。 京阪と大阪市電は線路は直行していたけど(片町・東野田)、繋がってはいなかった。
京阪と京都市電も同様。三条云々の話はどこから出たのか?京津線と京都市電も繋がってはいなかった。
阪急は北野線が梅田で大阪市電と繋がってはいたが、最終的には北野線で、後に撤去された。
それでも廃止後も軌道は残っていたらしい。
一方の神戸市内は、神戸市電とは一切繋がっていなかった。 >84
京都市電と京津線が東山三条で接続していた話を知らないのはアンタだけだ。 >>38
水門橋のレールとの平面交差は2か所ありました >>85
阪神国道線と神戸市電は脇浜で繋がっていました。
神戸市電と山陽電鉄は、戦時中まだ須磨から塩屋東方まで2国経由時代に、
須磨西方で神戸市電と連絡線を設置したが、山陽の電車と市電ではフランジの
高さが違うので問題があって、余り使用されませんでした。
市電の散水車利用で神戸市内の汚わいを山陽沿線の農家に配るのと、山陽沿線からの
農産物を中央市場まで運ぶのが目的だつたが、上記の問題でテスト的に終わった
そうです。
もう一つ市電の散水車が山陽のセクション部分で立ち往生すると出られないとかも理由に
挙げられて居ます。
(詳しくはピクトリアルNO.327 山陽電鉄特集に出ています)
>>86
京都に一時住んでいた時に短絡線が?あったのを見た記憶がありますが、当時
京津線が「古川橋」で市電が「東山三条」だったかと? >>87
水門橋というのがよく解からないが、橋の両端にある防水扉のレールのこと?
それなら淀川・神崎川・武庫川の3ヶ所だった。
確かに電車の線路とは平面交差で、通過する時には大きな音と振動があったのは覚えている。 淀川大橋、左右の歩道部分にだけ
水門用の軌条が半分埋もれかけながら残存しているね。両岸とも。
(左岸山側だけ露出部分が無く完全に埋まってるけど)
また、左岸側のすぐ横の別の橋に、トラス架線柱が左右に2組、計4本残存してる。
大阪市の電柱標識が黒く塗りつぶされて残ってて、彫り字で「ハンコク」って記してあるよ。 最近はあちこちの路線跡で旧架線柱が撤去されちゃって…
廃線された路面電車の痕跡で最後まで残るのは
橋梁自体に付いている架線フックかもしれない いやあ懐かしい。子供の頃、西宮の瓦木に住んでました。
でも、国道線の電車は西灘廃止前日と、50.05.05の全廃日にしか乗ったことが無い地元民でした。
というんも、国道線の電車って昼間ほとんど走ってなかった記憶があり、
昼間、電車が走ってるところを見た記憶がありません。
親と一緒に西宮や尼崎へ買物など出かける時はいつも10分毎に来る阪神バス利用でした。
今思うと、国道線って昭和50年まで残ってたことが不思議なくらい利用価値無かったなぁ。
地元民でも乗ったことが無かったほどだし。 末期の国道線の乗務員って行路は、何往復出・来・た(渋滞の為)のかね?
渋滞遅延で需要が少ないのもあるが、絶対的乗務員不足(行路を消化できない)で運休多発じゃね? 【Jリーグ無観客試合】
女性専用車両も浦和レッズサポーター横断幕と同じONLY表示⇒男性差別/人権侵害
みんなで女性専用車両を批判しよう!
http://www.youtube.com/watch?v=Ei3ZuHjNMjE 俺の小学生当時は野田〜上甲子園間が24分間隔、上甲子園〜西灘間が48分間隔で運転されてた。
国道線の渋滞による運休ってのはなかったと思うが、遅れはあったな。
時間に来なくて、バスが先に来たからバスに乗ったってこともよくあった
(小学生時代の記憶)。
バスは梅田新道〜甲子園間が1時間に2本、北杭瀬〜甲子園が1時間2本程度で
野田阪神前〜宝塚が1時間3本、北杭瀬〜宝塚が1時間3本、尼崎〜神戸税関前が1時間6本。
尼崎市内の国道2号線は玉江橋から西大島までバスが1時間16本も走っていた反面、
国道電車は昼間1時間2〜3本。話にならんね。
最盛期(昭和30年代〜40年代初頭)は野田〜東神戸間通しで、昼間12分間隔だったみたいだが、
いつ頃から24分間隔とか48分間隔ってダイヤになったんだろうか? トンボ出版社発行の「阪神国道電車」は、国道線に興味のある方にお勧めです。
特に、伊丹の園芸センターに保存されていた79号車の、解体危機からの救出→復元
に至る記事は注目です。現在の写真も掲載されていますが、尼崎の公園にある2両
とは比べ物にならない程、非常に美しい姿になっていますよ。
ちなみに阪神電鉄は、79号車に解体の話が出た際に、里帰り保存を打診したところ、
拒否したそうです。 >>96 野上車引き取ったときとは、経済事情が違うのか?
それとも担当者の価値感の相違(結構この要素は大きい・・・で社内に戻っても そういう経緯で解体、処分されるクルマがある。) 甲子園駅下の横断歩道の辺りから甲子園球場の横をチンチン電車が走っとったと言う昔話は今や若者に対してのトリビアやな
若い連れ共と高校野球観に行った時に言ったら「へぇ〜」言うたわ 「へぇ〜」ていう言葉は、感心したり尊敬したりしたときに使われるけど
相手の話に興味がなく、聞き流したいときにも使うよね 今や野田阪神から国道2号線を走ってゆく阪神バスは1日1本、
天六に発着する阪神バスは1日2本か…
なぜここまで凋落したのか… >>83 という事は、国道線と武庫川線交差で別の位置で同じ電車の乗換駅の接続があったということ
かなり遠回りで線路は繋がっているが・・・。 金魚鉢は釣掛ながら間接自動加速の高性能車で設計最高時速は60キロ。
早朝は人っ子ひとりいない国道上を全速力で走った、とピクトリアルに書いてあった。
見てみたいけど動画なんて撮った人はいないだろうな。 神戸市の東、芦屋西宮の知的障害者施設で未成年利用者に性的な行為をして淫行条例で逮捕された三田谷学園元職員の堂垣直人(西宮市老松町)は、結局どういう罪になったの?
被害者家族のケアを芦屋市役所と兵庫県警はちゃんとやったのか?
差別や虐待は環境を選べない子供には関係ない。
http://www.youtube.com/watch?v=JxMzW3ZlV4g&sns=em >>84 京阪と京都市電は平面交差があっても線路は繋いでなかった?そうだけど、
平面交差で発生した衝突事故(3件とも京阪側に非)で物納で京阪京津線の電車が譲渡されたけど
そのときの輸送はどうしたのかね?
ひょとして平面交差部でジャッキアップ90度方向転換? 阪神甲子園−阪神パーク前、しか乗った事ないけど、
とても良く覚えているよ。特に阪神甲子園駅ホーム。
あそこはまだ昔の気配を色濃く残しているよ。 廃止後に阪神パークで開催された部品即売会で
『上甲子園⇔浜甲子園』のサボを1000円で買いました。
当時中学生でした。
いまでも部屋の片隅に鎮座しています。 野田〜東神戸間を全区間走破した方の体験談を聞いてみたいな。 小学生の頃、親父に阪神パークに連れてってもらったとき、甲子園から阪神パーク前まで、
「電車乗っていくか」と言われたが、お金がかかると思って子供だてらに気を遣って、
「乗らない」と言ってしまった。今思うと非常に惜しいことをした。結局国道電車は
一回も乗らなかった。 小学校6年生の頃、
阪神バスに乗らず、わざわざ本数の少ない国道線に乗って
上甲子園にあった阪神受験研究会という塾に通っていた私。
塾も国道線も今は無くなってしまったなぁ。
遠くなった昭和の記憶です。 国道線スレがあったのか
本スレに書き込んでしまったorz ネットで阪神国道線の営業末期の資料写真を見たけど電車の背景に「がんこ寿司」の看板が写ってたなぁ
がんこ親父のロゴがあんな昔っからあったなんてちょっと驚き >>92の人が言ってるように利用価値がなかったというのは
やはり>>95の人が書いているように減便でバスの本数に比べて圧倒的に本数が少なかったためなのかな
それともそれ以前の問題に起因するものなのか
もし阪堺線のように専用軌道部分が比較的多かったらまた事情が変わっただろうか
というか国道線ってそもそも専用軌道部分があったのかな。あまり詳しくないもので 本格的な専用軌道はなかった
野田駅構内は車は入れなかった
甲子園線の甲子園と浜甲子園も同様
中津浜付近は生まれる前に廃線になっていたのでわからん >>120>>121
ありがとうございます
自分でも調べてみたんだけど、本格的な専用軌道はなかったようですね
それからwikipediaによると、全線26qで約2時間かかったとあるけど
これは表定速度約13q/hで実際には渋滞等でもっと遅い時もあったという事かな。
阪堺線はかなりの部分が専用軌道で表定速度19.3q/hとあるから
阪神間で全線併用軌道というのはやはり廃止もやむなかったのかも >>119 >>122
当時、国道線を利用していた者ですが
遅いということよりも危ないという方が正確かも。
国道線は京阪京津線などと違って専用ホームがなかった。
利用者は交通量の多い国道を横切って、
車が走っている道路上で待っていたんです。
西灘〜上甲子園間の最終日、
そんな危ない停留所で待っていると(車道の真ん中です)
通りかかったパトカーがスピーカーで
「そこの僕、危ないから歩道に戻って」とか注意された(笑) >>123
安全地帯の整備がなされていない、いわゆる「ノーガード電停」は乗客は歩道で待機して
電車が来たら道路を横断して白線内に待機するってのが正解?らしい
JTBキャンブックス「神戸市電が走った街今昔」に国道線の紹介がちょびっとだけあります。 >>124
そうそう。その通りなんですが、
要領の悪い子供だったので、
遠くに電車が見えたら焦って道路を渡り
白線内で待っていました。
道路を渡るタイミングって難しいですよ(笑) どこかのwebサイトで車掌が赤い旗を持って降りてきて車を止めて乗客を誘導していたとか読んだ気がするけど
末期はワンマン運転だったのかな