【おおぞら】キハ80系を語るスレ 2D【かもめ】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
北は北海道から南は九州まで、全国津々浦々を駆け巡ったキハ80系について語るスレです。
車両、運用、営業、記憶に残っているうちにどうぞ。
鉄道懐かし板に相応しくマタ〜リいきましょう。
【注意事項】
他系列車両と(動力性能等)の優劣比較の話題は禁止です。
他所でやって下さい。 臨時運行のみの路線で食堂車営業は
オペレーションが難しそうだな
客車であるところならまだ良いが >>762
当時1往復だった「ひだ」が最初から食堂車連結がなかったのに、格下の臨時急行が
実際に食堂車営業したのかな?
しかし写真でも80系「のりくら」を見た記憶がない。 一時期の臨時北斗のキハ80は定期北斗のキハ183初期型より座席良かった >>718
萌えたんで82同士の写真撮ってる@博多行きまつかぜ
が、13号車指定席→3号車食堂車まで歩く。
機械室→運転台→貫通路→運転台→機械室、長いトンネル脱出…
ガキ自分ながら、なんかヤバイ所だとは分かったw >>768
引き戸じゃなくて、押し戸だからな。客室〜機械室 なんか通っちゃいけんことなってるちゃろか?
って思ってまうわね。 キハ181は機械室がさらに長いので
狭さと相まって船の機関室に
紛れ込んだようだった >>770
押戸に窓がなかったけん余計に???だったとよ。 山線をエンジン回しっぱなし40キロ位のじりじり走り、小さな畳まれたテーブル、六花亭や白松がモナカの広告
アイスが250円の車販のアナウンス、そして降りたら雪で良く見えない北海の文字だけのヘッドマーク 無理すれば110km/h運転可能だったってマジ?
車輪が新品状態で下り坂を使えば可能だろうが摩耗末期だとオーバーレブでエンジンブロー起こしそう
キハ183スラントノーズが車輪を最後まで使い切らない(最後まで使うとエンジンの定格回転数的に107km/hしか出ないため通常780oで交換を820oで交換してた)事で110km/h運転可能にしてた >>775
110キロくらいは実際可能だっただろう。
「つばさ」の東北本線内や、「白鳥」の東海道・北陸本線内、「かもめ・なは・日向」の東海道・山陽本線や
東室蘭以東の室蘭本線・千歳線はやればできたと思う。
ただ組合、特に動労が反対して実現できなかったような。 >>776
タイヤが新品だったら可能じゃなかったかな。
限界ぎりぎりでは苦しかったと思う。
また、最大5M2mの割合ではちょっとの勾配でも厳しいのでは。
組合どうのこうのより、当局側が無理としたんだろう。
しかし室蘭本線あたりでは非公式に100km/h以上出していたかもしれん、想像だが。 >>777
性能の関係で速度を上げなかった可能性もありそう 計算上はエンジン回転数2000rpmまでぶん回せば摩耗末期でも112km/hまで出せる
キハ185系はキハ82系と減速比が同じ2.613である
JR東日本に承継されてDMH17H全廃政策でエンジン換装工事やってたらついでにブレーキ強化で110km/h対応化工事やってただろうな >>766
1991年ごろ臨時北斗で乗った記憶がある
なぜか砂原経由だったかな〜?うろ覚え >>780
砂原線経由なら上りだろう。
民営化後の定期北斗は上下とも砂原線経由はなかったが、臨時ならあった。
上りトワイライトも当初は違ったが、廃止までは砂原線経由だったし。
ただ91年当時の北海道は、既に80系はあぼーんされてなかったか?
(除く:フラノエクスプレス、トマムサホロエクスプレス)
翌1992年3月に、南紀の85系化で全国からオリジナルの80系は消滅したので。 勾配対策に難儀した形式ともいえよう
DMF31HSが成功してれば採用できたが故障多発で没になって仕方なく実績のある原設計が戦前のDMH17を横置きに改設計したDMH17Hを初採用した
はつかりも東北本線経由だと福島県・宮城県の県境の国見峠を回避するため常磐線経由にしてたが奥中山峠はどうしようもなかったため仕方なく走行し上り勾配が非常に遅かった上に故障が多発し「はつかり、がっかり、事故ばっかり」と言われる一因になった >>77
80系でもそこまで走れるんだな 110km/hの回復運転を体験してみたかった >>781
数両が在籍していて臨時北斗に担当されていた >>784
86年11月国鉄最後のダイヤ改正で、道内定期の80系が消えた後は、5両編成で臨時北斗に
使われていたけど、91年が最後だったか? 山陽本線の特急では瀬野八がきつかった?
40キロ程度しか出なかったはず こんにちは。
もしご存じの方がいらっしゃいましたら教えて頂けないでしょうか。
日向町所属時代のキハ82-901なのですが、白鳥に充当されて先頭に立ったこともあったのでしょうか?
いろいろ検索してみたのですが、都道以降の写真しかみつけることができず、諸先輩のお知恵をお借りできたら有難いです。
宜しくお願い致します。 ありません+あります=ありますん?
あいたー(^O^;; >>787
大阪駅で1969年に白鳥、まつかぜで使用されていた姿を見てたよ。 >>791
白鳥は13号車、まつかぜは7号車、あの当時の大ムコ82は中間封じ込めは
なかったから分割併合の都合上、必然的に編成両端には出てたでしょう。 >>792
なるほど
基本編成8両になって中間にキハ82入るようになったのもう少し後か
>>787は秋田時代のイメージもあるんだろうなあ 皆さまありがとうございます。
安心してキハ82−901にも白鳥のヘッドマークを付けさせていただきます! 昭和49年頃交通博物館で買った下敷きに色んな列車の正面の絵が
並んでいてひとつがキハ81のいなほだった。俺はその時点で
まだそれが上野駅に来てるんだと思ってたが、昭和47年時点で
紀勢線に全部いってたのね。小学一年生の俺にとっても
おっさんみたいなインパクトのある顔だったキハ81。
キハ82はのっぺり女顔、それを少し厳つくしたのが181ってかんじ。 鉄模の人は細かいよね、石北本線の手抜き保線中脱線の再現 まではしないか 昭和59年夏EF58を撮りに紀勢線に名古屋側から入って新宮まで行った。
青春18だったので確か4時間か5時間かキハ20でかかって、DMH17のエンジン
から入り込む熱気で死んだ 笑。途中交換で涼しい顔して走り去っていく
キハ82の特急のなんと羨ましかった事。いつかは金持ちになってあの
特急に乗りたいと思った涙ぐましい自分。中高生でもあたりまえにそういう
贅沢出来るようになったのはバブル以降の話だよね。 おらほのとおちゃとかあちやは、「自分のためた小遣いで大山のグリーン車乗りたいはあ」
と言っても「なーまいきいふんじゃねとのこわっぱ!一等車は議員さんとかお医者さんが乗るもんだ」
「でもよ、もう直グリーン車なくなっちまうでよ、オラ乗っときてえだ」
「まだ言うかこのフリむんが!」 >>801
なんとなくいい話、山陰?
>>802
四方に鳥居の付いた・・・・、やめれw キハ80が走ってるところは観光地としては
風光明媚でスレてなくていいとこだったよな
それが電化されて485あたりが走るようになるとスレて中途半端な都会を追い掛けるように
なり面白くなくなってく。 >>799
その頃の国鉄は大赤字の斜陽産業で、先行きの希望がなかったのもあるだろう。
国鉄=ダサいの感があった。
分割民営化と同時期にバブル経済になり、イメージチェンジもあって鉄道に対する観点も変わった。 日豊本線沿線住民だが昔おおよど間合い運用にちりんに
乗らなかった事が悔やまれる にちりんがメインでその間合いがおおよどじゃないの? >>807
昭和50年代初期はEC485系がメインでDC80系は1往復しか残ってなかった
当時おおよどの方が本数多かったんじゃないかな? >>808
おおよどは終始一往復
鹿児島電化でにちりん全列車電車化に伴っておおよども廃止されたのでも分かる通り
おおよどはにちろんの間合い運用 >>809
正確にはDCにちりん・おおよどの廃止は、日豊本線全線電化から1年後だった。
>>806
現実には485系が圧倒的に本数が多い時代で、1往復の80系にちりんを選ぶのはかなりムリがなかったか? 某国鉄車両運用サイトを拝見してると‘80.10ダイ改(キハ80九州運用撤退)鹿カコから一部を廃車、以外は名ナコに転籍するんですね‥ おおぞら51号(札幌−釧路)、北海(函館−網走 小樽経由(延長運転))、
北斗51号(函館−旭川 夜行)、北海51号(函館−札幌 小樽経由 夜行)
毎年この時期になると思い出す臨時列車たち
80系も北海道の鉄道もこれらが走っていた頃が最盛期だったな >>812
思い切り真夜中に発車してた臨時があったよな。
昔の方が遥かに利便性が高かったわ。 >>813
それ北斗51号だな 青函深夜便に接続していた
159便 青森21:45→函館1:35 8025D 函館1:55→旭川8:20
8026D 旭川19:40→函館2:20 158便 函館2:40→青森6:35
(1973/7の時刻) >>814
当時なら全車指定席だったろうな。
あと夜行とはいえ、当時の事なら食堂車もあったりしてw 北斗51号食堂車連結なし
北海51号食堂車の連結あり(非営業) 深夜の連絡船乗換などが便利と言えるかどうか
関東〜北海道の移動はどこかで夜を跨いだから、本州内夜行か深夜乗換かの選択だったが >>817
だからあくまで繁忙期の臨時列車・連絡船なんだよ!
1970年代半までは、上野〜青森の寝台券が取りづらく、繁忙期は秒殺だった。
全車指定席だった「はつかり」も同様。
そして定期夜行列車は相当な混雑だったので、多数の臨時列車の設定があった。
>>814の連絡船は「はつかり」の接続もあった感じだが、その連絡船に接続した臨時急行が
上野〜青森で走らせていた。 つかぬ事をお聞きしますが、本州・九州にいた車両で
裾の赤帯が妻面まで回っていたのはいつ頃までですか? >>818
列車もだけど連絡船もだよね
と言うか連絡船の方が都合の良い時間帯の増便なんて困難
だから何時もは乗客なんて見込めない時間帯に運行してる貨物便を旅客便に振り替えて対応したのが>>813,814 >>820
だから>>818は臨時列車・連絡船と書いてあるだろう >>820=>>822
だったら>>818に対して
>列車もだけど連絡船もだよね
はおかしいだろう! >>823
別におかしくないだろう
ちゃんと流れ嫁 >>824
流れって何だ?
オマエが勝手に言ってるだけだろう!池沼めが 無給油で大阪〜青森を走行できたのが意外
途中で長時間抑止食らって燃料が足りなくなったらどうしてたんだろうか? >>786
それでも151系とか153系みたいに補機の助けを借りなかったんだな >>829
そもそも151系と153系が坂道不得意過ぎなんだよ 無理もない
主電動機出力100kwで抵抗器も自然冷却だぜ 定期列車で走行したことのない県は神奈川、静岡、四国四県、沖縄だけかな 千葉県民だが、キハ80系が走っていたという
実感がわかない。
停車駅もなかったのかな >>836
当時の常磐線の特急は上野出たら次は水戸だからねえ なんかな、ナウでヤングな東京シティボーイな俺にとってはキハ80とか特急気動車は縁遠い。博多でまつかぜ見た時はこいつが関西からわざわざ日中山陰周りで来たことが驚きであった。 >>838
博多でまつかぜ見てる時点でおっさんじゃねえかw オレみたいなナウでヤング東京育ちにはキハ80なんて伝説の乗り物•́ω•̀)?。 田舎の博多で撮ったまつかぜのネガ見ると今でもよくこんなん撮ったなと思う。 鴬谷ではつかり、やまばと、はくたかを眺めてた中学生は完全な爺ぃになってしまったよ。 でも最近65歳定年も多いから新卒で入った会社で現役の人もいるんだろうな 838と841で似たようなこと書いちまってナウで
ヤングな東京シティボーイな俺は恥ずかしい。おじいちゃんさっき書き込んだでしょ? ってか
見慣れた485系や181系の美しく格好いい
クリームと朱色の気動車バージョンがあって
地方都市と東京名古屋大阪を結ぶ特急としてバリバリ活躍してるというのが国鉄車両の楽しみだよな。 車販のアイスクリーム250円は高い、と思ったもんだ。ラクトアイスしか知らないガキだったからである >>848
おいおいホームランバー食ったことなかったのか? 私が間近にキハ82系と対面したのは、1966年3月のことであった。
外出の帰りに母に頼んで札幌駅に立ち寄ってもらった時のことである。
入場券を買って改札口から1番ホームに出ると、「間もなくこのホームに特別急行……」という案内放送が耳に入って来た。
私は思わず興奮した。今まで列車ですれ違ったり、離れたところから特急が走っている姿を見たことはあるが、間近でじっくり見たことはない。もうすぐ特急を間近で見られる。
同時に特急とは言わず特別急行と言うんだと感心した。
〜つづく〜 >>850 その2
私が特急列車に深く関心を持つようになったのは、近所の従姉三姉妹のところに遊びに行っていた時のことである。
二女の従姉が札幌から函館まで特急に乗ったことがあるという話を聞き、途中どこに停車したか訪ねて見た。
すると従姉の記憶では2駅ぐらいしかなかったのではないかということであった。
当時私は夏休みなどに札幌から洞爺まで準急に何度か乗ったことがあり、函館までのほぼ中間にある洞爺までの状況はある程度わかっていた。
私は特急と言えども少なくとも人口16万人の室蘭、それに登別温泉がある登別、洞爺湖温泉のある洞爺には停車するはずだとい言うと、従姉が時刻表を持って来て停車駅を読み上げてくれた。
「苫小牧 登別 東室蘭 洞爺」
私が洞爺から函館まではないの?と尋ねると、無いと言うことであった。
私は衝撃を受けた。函館までのほぼ中間地点の洞爺から函館まではどこにも停車しない。特急ってすごい。それに急行が止まる千歳にも止まらない。
それから従姉に時刻表の見方を教わり 近所の本屋へ行って時刻表を買って来た。1965年11月号であった。
〜つづく〜 >>850
>>852
すごく面白いです
続きお願いします ガキの頃
特急>特別急行 と思ってた俺は
おおぞら、あさしおに乗った
昔は特急は高値(!)の花だった 函館から小樽まで北海に乗った。山線では唸るような喘ぐような感じで、峠に挑む80系はかっこ良かった。
峠を過ぎるとイッた時のような清々しい走りだった。 キハ81は、後年運転室に冷房改造していたけど、
夏場は窓開けている写真ばかりだな。 >>852
リクエストありがとうございます。ここしばらく休眠状態のスレでしたので、ぼちぼちカキコして見よう思い投稿して見ました。
今後もぼちぼち続編をカキコするつもりでおります。
共感されていただく方がいて、とても嬉しいです。 >>851 その3
時刻表を見ていると列車の時刻以外にも色々なことが載っている。
その中で特に私の目を引いたのは列車の編成表と主要駅の案内図であった。
この主要駅の案内図の中には残念なことに札幌駅はなく、札幌駅の案内図が掲載されるようになったのは、後の時刻表がB5判に大型化された1967年の10月号からであった。
この時刻表を見るまでは特急列車の知識はほとんど無かったが、この時刻表により北海道の特急列車の時刻、運転区間、編成の知識を得ることが出来た。
ちなみに当時の北海道の特急列車は、3本だけで[おおぞら]が函館ー旭川・釧路間 [おおとり]が函館ー網走・釧路間 [北斗]が函館ー旭川間でいずれも千歳線、室蘭線経由、全車座席指定のため改札口に早くから座席確保のため並ぶ必要がない。
各方面の全てに1等車 おおぞら と おおとり の釧路編成、北斗には食堂車が連結され、停車駅を必要最小限に抑えた正に特別急行列車であった。
特に おおぞら については、滝川〜帯広間の3時間近く客扱いの停車がなく、時刻表には通過印のレ点が連なっている。帯広停車後も上りおおぞらとの列車交換のための運転停車はあるものの釧路まで約2時間客扱いの停車はない。
〜つづく〜 >>857の追記
釧路ー帯広間で下りおおぞらを待避させた上りおおぞらであるが、帯広ー滝川間については下りおおとりとの列車交換のための運転停車がある。 >>858 その4
話はキハ82との札幌駅での初対面の時に戻るが、特別急行おおとりがまもなく到着する旨の案内放送が流れた。
このとき私は母と東跨線橋の階段昇り口付近に立っていた。5号車の停車位置のところになる。
ホームに向かって右手の苗穂方向を注視していると、数百メートル先の石狩街道の高架橋をくぐるキハ82が姿を現した。
それがだんだん近づいて来て1番線に進入し、ジョイント音を響かせながらぐんぐん近づいて来て目の前を滑るように通り過ぎた。
進入スピードが他の列車より1段速い。キハ82の先頭部のヘッドライトとパノラミックウィンドウ付近の予想外の風格ある姿に胸がときめいた。
さっぽうろ さっぽーろー さっぽーろー さっぽーろー
〜つづく〜 >>859
札幌といえば、カウベル(牛の鐘)を感じさせる発車ベル。
ジリジリジリジリーーーンが主流の時代、カラカラカラカラ・・・・・・と、
いかにも北海道と言う感じだったなぁ。
今は違うんだろうなぁ・・・ >>859 その5
次に目に留まったのは、食堂車の1段高い位置で連なっている窓、そして先頭車同士が顔を合わせて連結されている分割併合部分をであった。
やがて列車は停止した。時刻は15時50分定刻。1番ホームには12両で電源エンジンを含む24基のエンジンのアイドリング音が響く。
後に開発されたけたたましい強力エンジンの音とは異なり、ほどほどの気動車であることを感じる響きである。
停車時間は5分。まず母と西側に進み通り過ぎた8号車の食堂車の内部を見る。ホーム側の席でサラリーマン風の人が食事をしている。羨ましい。
それから札幌から進行方向が変わって先頭となる1号車へ向かって東側に向かって歩き出す。
食堂車のとなり7号車は1等車。グリーンの等級帯はないが、その代わり入口のそばに1の銀色に輝く金属製の切り抜き文字が貼りつけてある。
時間はあまりないが、思いきって1等車の車内に入って見る。車内は札幌から乗り込んだ人たちで混雑していたが、さすが特別急行、明るくとても綺麗な印象を受けた。
〜つづく〜 >>861 の追記
このとき1966年3月の北海道のキハ82系は、1961年製が21両、62年製が2両、
64年製が31両、65年製が23両と新しい状態で、その上この頃は車輌の手入れも行き届き、
晩年とは大違いで、車内も急行などとは異なり、別格の綺麗さで正に特別急行列車にふさわしかった。また車内の色調も急行などの汚れの目だたぃない濃い色のものとは異なり、明るめの色調であった。
ことに巻き上げカーテンを収納する窓上部に連なる座席番号の札が付いている銀色に輝く
カーテンレールはひときわ栄え、別格の特別急行列車という車内の雰囲気を盛り上げていた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています