【おおぞら】キハ80系を語るスレ 2D【かもめ】
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北は北海道から南は九州まで、全国津々浦々を駆け巡ったキハ80系について語るスレです。
車両、運用、営業、記憶に残っているうちにどうぞ。
鉄道懐かし板に相応しくマタ〜リいきましょう。
【注意事項】
他系列車両と(動力性能等)の優劣比較の話題は禁止です。
他所でやって下さい。 >>721
その後ろで何両もつながって頑張ってるキハ80のことも忘れないであげて 切妻面(後位)同士が連結されたキハ82を初めて目撃した時(1983年3月 おおとり)の感想は
「これ、制御回路や電源回路が繋がるのかよ・・・!?」
『80系はキハ82前位とキロ後位以外は片渡り』程度の知識しかなかった俺には衝撃的だった。
これが契機で北海道には後位が両渡り改造されたキハ82が存在することを知り、以前から持っていた
80系の編成組成の疑問は概ね解消できたが、それでも未だに疑問が残る編成があるんだよな・・・orz
>>726
憶えておきます・・・。キロやキシのことは絶対忘れないんだが・・・w >>727
13両編成おおぞらで札幌切り離し3両の中のキハ80も向きが違っていて違和感あった 山陽新幹線開業前のかもめ,なは日向はセノハチをどのくらいのスピードで登っていったのだろう >>729
かもめ乗ったけど、いかんせんガキの頃だったんで、
セノハチの存在は名前くらいしか知らなかったんで、
果たしで補機が付いていたのかどうか、どのくらいのスピードで走っているかチェック、
など全くせんかったなあ。すまんな。 >>730
貴重な証言ありがとうございます。
あの区間を13〜14両の長大編成で駆け上がっていく姿は迫力満点だったろうな >>729
キハ82系9M4m編成が22.6‰にR300が加わった換算勾配25‰相当の瀬野八を定員乗車で
上ると変速5ノッチで40q/h、5ノッチ5分制限で4ノッチ運転だと速度1割減といったところか。 >>723
キハ185系(^o^)v
キハ85系(^o^)v >>731
そいえば長大編成。
山陽本線の特急停車駅ならホーム長も余裕だったろうけど。。
13両時代のまつかぜで宝塚駅停車、「後ろはホームに掛かりません」
見に行ったら確かにドア開けっぱ。
オヤジ実家近い宮津線久美浜駅。
あさしおが停まってたがやっぱりホーム長足りない。
で、ドア位置に合わせてか階段がいくつかあった。
業務用だとは思うが誰か利用者いたんかなw >>735
ドアカットしてなかったのかw
スイッチ盤で車両単位でドアカットは可能なはずだが誤操作でホームに掛かってないドアを開けてしまう事故が起きる懸念がある >>729>>730
山陽新幹線博多開業前に瀬野八の第二トンネルの上で撮影をしたことがあるけどトンネル前のカーブを轟音と共に登ってくるが中々被写体に入ってこない。60キロ出てたかな?同じ80系でもローカルの電車の方が遥かに軽快に登ってきてたな。 >>730
80系はセノハチで補機なんてなかった。スピードは電車特急と遜色なかったような。
もっとも山陽本線の電車特急は、2つの勾配と曲線が多いので、東北本線や北陸本線よりスピードは遅かったが。 釧路→札幌の車内情景をノンストップひたすら録音
6時40分発 おおぞら1号 函館行き
このカセットテープまだもっている >>739
カセットの保管はしっかりね
油断するとカビ生えるぞ
出来ればデジタル化した方が良いですよ >>717
鳥取で後ろ6両切り離しがあった影響だろう。
その切り離した6両が、もう1本の大阪行き「まつかぜ」で折返していた。 臨時北斗のキハ80はテーブル付きリクライニングシート化されていたから
当時でも結構豪華な車内だった >>735
舞鶴・宮津線経由の「あさしお」は、80系時代10両→9両で、
京都〜倉吉運転の「あさしお」は7両だった。
そんな事情があったなら、こちらを7両にすればと思ったが、天橋立などの観光需要が多かったか? いちんちちんおうふくだけあった米子あさしおは何両だたん? 関西から城崎方面に直行するのは
まつかぜ、はまかぜと分担してたのもあるかと この時期、早朝の向日町へ行くと
まつかぜ、はまかぜ、あさしお、あさしお
と4本のキハ82が顔を並べ、夏場と比べて
噴き上げる紫煙に迫力があった。 >>710-711
リアル乗車では「南紀」しか知らん世代の近畿民だけど、
北海道の「おおとり」だけは唯一似合ってたと感じる。 >>748
711だけど、オレもリアル乗車は南紀とナゴヤ球場臨しか知らんよ。
南紀はS60.3から絵入りになったけど、そのときには似合わなさにガックリしたわ。 >>748
俺は北海道の80系全盛期(55-10改正以前)を知っている世代だけど、
見慣れた列車がすごく安っぽくなったように思えた。
一時期鉄道趣味から離れた時期があったが、これがきっかけだったな。 >>750
それは電車特急にも言えたよな。特にボンネット型 北斗とおおぞらとオホーツクはJR化後のキハ183系で採用されている
ローマ字タイプの絵入りマークにしていたら似合っていたかも 特急色は落ち着いた色だから
鮮やかな色のイラストマークが
似合わないのもあるな リアル世代じゃないが、文字HM限定で言わせてもらうと、
80系も181系もふくめて特急形気動車にかんしては明朝体のHMが渋くていいね。
北海とか南風とかさ。 >>753
逆に絵入りマークが負けちゃうんだよね。 でも、文字HMは、すぐ「くすんでしまう」のが難点。気動車なので。 >>756
オレはピカピカよりもくすんだ方が味があっていいなぁ >>758
リア充してない現状を強弁しているようだな。みっともない!! あすか廃止以降のくろしお編成は名古屋滞泊の
間合いを利用して臨時列車に活用されていたが
「りんどう」「はつひ」では食堂車は営業して
いたのかな? 広田尚敬「国鉄車両形式集2 気動車」図書館から借りてきた。80系の写真を見ているだけでエンジン音聞こえてきそう。 >>760
69〜70年冬臨の下り急行「のりくら52号」に時刻表だと食堂車があるってのはかなり有名な話だけど
キハ80系だったのかねえ? 臨時運行のみの路線で食堂車営業は
オペレーションが難しそうだな
客車であるところならまだ良いが >>762
当時1往復だった「ひだ」が最初から食堂車連結がなかったのに、格下の臨時急行が
実際に食堂車営業したのかな?
しかし写真でも80系「のりくら」を見た記憶がない。 一時期の臨時北斗のキハ80は定期北斗のキハ183初期型より座席良かった >>718
萌えたんで82同士の写真撮ってる@博多行きまつかぜ
が、13号車指定席→3号車食堂車まで歩く。
機械室→運転台→貫通路→運転台→機械室、長いトンネル脱出…
ガキ自分ながら、なんかヤバイ所だとは分かったw >>768
引き戸じゃなくて、押し戸だからな。客室〜機械室 なんか通っちゃいけんことなってるちゃろか?
って思ってまうわね。 キハ181は機械室がさらに長いので
狭さと相まって船の機関室に
紛れ込んだようだった >>770
押戸に窓がなかったけん余計に???だったとよ。 山線をエンジン回しっぱなし40キロ位のじりじり走り、小さな畳まれたテーブル、六花亭や白松がモナカの広告
アイスが250円の車販のアナウンス、そして降りたら雪で良く見えない北海の文字だけのヘッドマーク 無理すれば110km/h運転可能だったってマジ?
車輪が新品状態で下り坂を使えば可能だろうが摩耗末期だとオーバーレブでエンジンブロー起こしそう
キハ183スラントノーズが車輪を最後まで使い切らない(最後まで使うとエンジンの定格回転数的に107km/hしか出ないため通常780oで交換を820oで交換してた)事で110km/h運転可能にしてた >>775
110キロくらいは実際可能だっただろう。
「つばさ」の東北本線内や、「白鳥」の東海道・北陸本線内、「かもめ・なは・日向」の東海道・山陽本線や
東室蘭以東の室蘭本線・千歳線はやればできたと思う。
ただ組合、特に動労が反対して実現できなかったような。 >>776
タイヤが新品だったら可能じゃなかったかな。
限界ぎりぎりでは苦しかったと思う。
また、最大5M2mの割合ではちょっとの勾配でも厳しいのでは。
組合どうのこうのより、当局側が無理としたんだろう。
しかし室蘭本線あたりでは非公式に100km/h以上出していたかもしれん、想像だが。 >>777
性能の関係で速度を上げなかった可能性もありそう 計算上はエンジン回転数2000rpmまでぶん回せば摩耗末期でも112km/hまで出せる
キハ185系はキハ82系と減速比が同じ2.613である
JR東日本に承継されてDMH17H全廃政策でエンジン換装工事やってたらついでにブレーキ強化で110km/h対応化工事やってただろうな >>766
1991年ごろ臨時北斗で乗った記憶がある
なぜか砂原経由だったかな〜?うろ覚え >>780
砂原線経由なら上りだろう。
民営化後の定期北斗は上下とも砂原線経由はなかったが、臨時ならあった。
上りトワイライトも当初は違ったが、廃止までは砂原線経由だったし。
ただ91年当時の北海道は、既に80系はあぼーんされてなかったか?
(除く:フラノエクスプレス、トマムサホロエクスプレス)
翌1992年3月に、南紀の85系化で全国からオリジナルの80系は消滅したので。 勾配対策に難儀した形式ともいえよう
DMF31HSが成功してれば採用できたが故障多発で没になって仕方なく実績のある原設計が戦前のDMH17を横置きに改設計したDMH17Hを初採用した
はつかりも東北本線経由だと福島県・宮城県の県境の国見峠を回避するため常磐線経由にしてたが奥中山峠はどうしようもなかったため仕方なく走行し上り勾配が非常に遅かった上に故障が多発し「はつかり、がっかり、事故ばっかり」と言われる一因になった >>77
80系でもそこまで走れるんだな 110km/hの回復運転を体験してみたかった >>781
数両が在籍していて臨時北斗に担当されていた >>784
86年11月国鉄最後のダイヤ改正で、道内定期の80系が消えた後は、5両編成で臨時北斗に
使われていたけど、91年が最後だったか? 山陽本線の特急では瀬野八がきつかった?
40キロ程度しか出なかったはず こんにちは。
もしご存じの方がいらっしゃいましたら教えて頂けないでしょうか。
日向町所属時代のキハ82-901なのですが、白鳥に充当されて先頭に立ったこともあったのでしょうか?
いろいろ検索してみたのですが、都道以降の写真しかみつけることができず、諸先輩のお知恵をお借りできたら有難いです。
宜しくお願い致します。 ありません+あります=ありますん?
あいたー(^O^;; >>787
大阪駅で1969年に白鳥、まつかぜで使用されていた姿を見てたよ。 >>791
白鳥は13号車、まつかぜは7号車、あの当時の大ムコ82は中間封じ込めは
なかったから分割併合の都合上、必然的に編成両端には出てたでしょう。 >>792
なるほど
基本編成8両になって中間にキハ82入るようになったのもう少し後か
>>787は秋田時代のイメージもあるんだろうなあ 皆さまありがとうございます。
安心してキハ82−901にも白鳥のヘッドマークを付けさせていただきます! 昭和49年頃交通博物館で買った下敷きに色んな列車の正面の絵が
並んでいてひとつがキハ81のいなほだった。俺はその時点で
まだそれが上野駅に来てるんだと思ってたが、昭和47年時点で
紀勢線に全部いってたのね。小学一年生の俺にとっても
おっさんみたいなインパクトのある顔だったキハ81。
キハ82はのっぺり女顔、それを少し厳つくしたのが181ってかんじ。 鉄模の人は細かいよね、石北本線の手抜き保線中脱線の再現 まではしないか 昭和59年夏EF58を撮りに紀勢線に名古屋側から入って新宮まで行った。
青春18だったので確か4時間か5時間かキハ20でかかって、DMH17のエンジン
から入り込む熱気で死んだ 笑。途中交換で涼しい顔して走り去っていく
キハ82の特急のなんと羨ましかった事。いつかは金持ちになってあの
特急に乗りたいと思った涙ぐましい自分。中高生でもあたりまえにそういう
贅沢出来るようになったのはバブル以降の話だよね。 おらほのとおちゃとかあちやは、「自分のためた小遣いで大山のグリーン車乗りたいはあ」
と言っても「なーまいきいふんじゃねとのこわっぱ!一等車は議員さんとかお医者さんが乗るもんだ」
「でもよ、もう直グリーン車なくなっちまうでよ、オラ乗っときてえだ」
「まだ言うかこのフリむんが!」 >>801
なんとなくいい話、山陰?
>>802
四方に鳥居の付いた・・・・、やめれw キハ80が走ってるところは観光地としては
風光明媚でスレてなくていいとこだったよな
それが電化されて485あたりが走るようになるとスレて中途半端な都会を追い掛けるように
なり面白くなくなってく。 >>799
その頃の国鉄は大赤字の斜陽産業で、先行きの希望がなかったのもあるだろう。
国鉄=ダサいの感があった。
分割民営化と同時期にバブル経済になり、イメージチェンジもあって鉄道に対する観点も変わった。 日豊本線沿線住民だが昔おおよど間合い運用にちりんに
乗らなかった事が悔やまれる にちりんがメインでその間合いがおおよどじゃないの? >>807
昭和50年代初期はEC485系がメインでDC80系は1往復しか残ってなかった
当時おおよどの方が本数多かったんじゃないかな? >>808
おおよどは終始一往復
鹿児島電化でにちりん全列車電車化に伴っておおよども廃止されたのでも分かる通り
おおよどはにちろんの間合い運用 >>809
正確にはDCにちりん・おおよどの廃止は、日豊本線全線電化から1年後だった。
>>806
現実には485系が圧倒的に本数が多い時代で、1往復の80系にちりんを選ぶのはかなりムリがなかったか? 某国鉄車両運用サイトを拝見してると‘80.10ダイ改(キハ80九州運用撤退)鹿カコから一部を廃車、以外は名ナコに転籍するんですね‥ おおぞら51号(札幌−釧路)、北海(函館−網走 小樽経由(延長運転))、
北斗51号(函館−旭川 夜行)、北海51号(函館−札幌 小樽経由 夜行)
毎年この時期になると思い出す臨時列車たち
80系も北海道の鉄道もこれらが走っていた頃が最盛期だったな >>812
思い切り真夜中に発車してた臨時があったよな。
昔の方が遥かに利便性が高かったわ。 >>813
それ北斗51号だな 青函深夜便に接続していた
159便 青森21:45→函館1:35 8025D 函館1:55→旭川8:20
8026D 旭川19:40→函館2:20 158便 函館2:40→青森6:35
(1973/7の時刻) >>814
当時なら全車指定席だったろうな。
あと夜行とはいえ、当時の事なら食堂車もあったりしてw 北斗51号食堂車連結なし
北海51号食堂車の連結あり(非営業) 深夜の連絡船乗換などが便利と言えるかどうか
関東〜北海道の移動はどこかで夜を跨いだから、本州内夜行か深夜乗換かの選択だったが >>817
だからあくまで繁忙期の臨時列車・連絡船なんだよ!
1970年代半までは、上野〜青森の寝台券が取りづらく、繁忙期は秒殺だった。
全車指定席だった「はつかり」も同様。
そして定期夜行列車は相当な混雑だったので、多数の臨時列車の設定があった。
>>814の連絡船は「はつかり」の接続もあった感じだが、その連絡船に接続した臨時急行が
上野〜青森で走らせていた。 つかぬ事をお聞きしますが、本州・九州にいた車両で
裾の赤帯が妻面まで回っていたのはいつ頃までですか? >>818
列車もだけど連絡船もだよね
と言うか連絡船の方が都合の良い時間帯の増便なんて困難
だから何時もは乗客なんて見込めない時間帯に運行してる貨物便を旅客便に振り替えて対応したのが>>813,814 >>820
だから>>818は臨時列車・連絡船と書いてあるだろう >>820=>>822
だったら>>818に対して
>列車もだけど連絡船もだよね
はおかしいだろう! >>823
別におかしくないだろう
ちゃんと流れ嫁 >>824
流れって何だ?
オマエが勝手に言ってるだけだろう!池沼めが ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています