名寄本線
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紋別市は北海道で数少ない鉄道が消えた市なんだな
他は歌志内市や三笠市くらいか
九州では鹿児島県鹿屋市が鹿児島県第2の都市なのに大隅線が消えた 紋別は路線バスが異様に発達してるんだな
巨大なバスターミナルがあるし札幌から直通バスが走ってるし 昔から北見バスと北紋バスの2社があるからね。地方のバス路線で、
同じ路線を2社で共有して走らせているのも珍しいと思う。 >>82
加世田市からも消えたぞ。私鉄だったけど。
ほかに輪島市とか。 池北線も消えたし、今度江差線も木古内から先は消えるし、廃止を免れてもあとは赤字を垂れ流してお荷物になるだけだった。
名寄本線は財政学的にはあそこで思い切って全線廃止して正解だったんだろう。
だけど鉄路がないってのは寂しいね。旅人としては途中下車でふらっと、という楽しみが無くなってしまった。 次が何時間後に来るか分からんような駅でふらっと途中下車って怖すぎ オホーツク紋別空港も過疎ってるよな
東京発が1日1往復だけってw
昔は丘珠空港からの便もあったのに消えた 名寄本線廃止から25年…。
四半世紀かぁ…。
何もかも変わってしまったなあ。
鉄道も、日本も、人々の心も…。 下川のバスターミナル(駅跡)の展示品見てきたが、
下川町教育委員会の廃止の説明が恨み節すぎてワロタ。 江差線廃止は史上初の「支庁所在地から鉄道が消えた」事例になったな
檜山管内から鉄道が消えた 稚内駅は駅舎改築時に道の駅として転用できるようにしたような
鉄道廃止を危惧したか? イオン紋別店はいつオープンしたっけ?
昔サティだったような
長崎屋中標津店は標津線廃止前の1981年にオープンしたが中標津駅から離れてて鉄道で店に来る人は皆無だったはず >>101
調べたら1980年
紋別ローズタウン→ニチイ紋別店→紋別サティ→ポスフール紋別店→イオン紋別店と推移した
紋別駅跡の南西540mに店舗がある
長距離バスでも便利な立地であるが遠征客は少ないだろうな >>103
都会人には分からんかも知れんが
クルマを持てない世帯はそうするしかなかったのだよ ラチスガーダーage
誰か、一ノ橋駅近くの名寄川で撮影したのはおらぬのか? 班渓駅の画像を見た時の衝撃…。
よくあんな所に駅建てたなぁ…。
北海道じゃデフォだったんだろうけど… 下川駅跡のキハ22の静態保存場所の地面にひかれたアクセサリーのエンド
レス線路&エンドレス線路の中に立つ一本の樹木とアクセサリーの側線…こ
れじゃNゲージの入門的レイアウトみたい。…笑った…でもメルヘン… >89
この状況で鉄道が無ければ
旅行客は増えるわけない罠
道内の飛行機輸送が無いなら
鉄道廃止するべきではなかったのにと思う
北海道旅行しようと思っても
レンタカー運転できない(ペーパードライバーなんでもしかしたらできる?w)
と、電車でいける範囲が現状は狭すぎて、
結局有給を取る決断までいかないぉ 一番激しく廃止反対したのは、地元住民じゃなくて、防衛庁だけどね。
名寄本線、天北線、羽幌線、池北線、標津線は、ソ連が攻めてきた時、戦略上重要とされていた。
だから、廃止すると兵員輸送、補給物資輸送に著しい支障が出ると言う理由で、反対した。
それを、軍事音痴の防衛庁長官、加藤紘一が庁内の意見を無視し、廃止に同意した。 ついでに、ソ連のヴラジヴォストクは不凍港で、海流の関係上留萌〜稚内への上陸は
たやすいとされていた。だから、前線となる羽幌線の廃止は論外、後方支援で重要な
名寄本線、天北線も、防衛庁は存続を死守しようとした。 それほど国防上で意義ある路線であったのなら
防衛予算で赤字を補てんすることにより延命させることは考えなかったのかな >>114
その方向は既に動いていた。しかし、軍事音痴の加藤紘一防衛庁長官に
理解されず却下され、万事休すだった。
なお、加藤のこの失策は、ソ連が崩壊したから「結果的に」よかったものの、
崩壊しなければ今でもぼろ糞に評価されていただろう。 「危機管理」のエキスパート・佐々淳行さんの著書にあったが、『駐屯地への引き込み線があるローカル線』とはこの辺だったのか。
ここ数年の著書には、加藤氏のしょーもなさを繰り返し書いておられるな。 佐々も安全保障のスペシャリストとか持ち上げられてるが充分しょうもないやつだろ 紋別市があったのにあっけなく廃止されたな
長距離バスに負けたんじゃないかという憶測もある
他にも大隅線が鹿屋市があったのに廃止された 80年代に防衛輸送が鉄道だとか
軍事音痴って誰のことだよw >>120
当時は今ほど高速道路も充実しておらず、国道と鉄道なら下手すれば
倍近くの速度の差があったからね。(もちろん鉄道の方が速い)
また、大量輸送においても、鉄道の方がはるかに有利。
当然、軍事輸送目的でも使われていた。 自衛隊は、政治ストやっている国鉄労組による輸送妨害の危険があるとして、60年代から国鉄線利用をなるべく縮小してきたんだけどなあ。 三海峡封鎖作戦で宗谷海峡方面に富良野や旭川、名寄などの部隊を移動させるにしても、名寄本線はあまり役に立たないようなあ。
鉄道貨車への積み下ろしの手間も考えると、駐屯地からトランスポンダで移動させるか、自走させる方が便利。
80年代には道内の主要幹線道路は十分整備されていたし、鉄道使う必要性は少ない。まして名寄本線のようなローカル線は。 名寄本線よりも羽幌線の方が軍事的に重要な地域を通っているんだが、名寄本線の2年前に廃止されているよなあ。 鉄道なんて破壊されたら終わり復旧に時間かかりすぎ
北海道のローカルなんて低規格なのに
まして北海道なんて建造物や急峻な地形は僅かだから
道路や急造の開削で十分 真冬の北海道じゃ、飛行機も自動車も船舶もアウトだもんな。
鉄道ならなんとか走れる。 >>125
うん。防衛庁は最後まで反対したよ。ソ連侵攻時に重要な路線となるからね。
これも、加藤紘一が防衛庁長官として判を押した。当然庁内で大ブーイング
だったけどね。日本をソ連に売り渡すのか、とね。
なお、地元はさほど反対しておらず、官だけが最後まで抵抗するという珍しい
例となった。 まだ妄想垂れてるよ
有事にチキ集めて誰が運転するんだ >>130
ソ連や中国なんかでは機関車運転できる軍人とかいるらしいね 74式戦車までは鉄道輸送考慮してたけど90式戦車から無視したって聞いたけど本当なのか? 73式装甲車が車幅2.9m、これが無蓋車でぎりぎりという感じ。
61式戦車の車幅は2.9m、74式は3.1m、90式は3.4m。74式以降は鉄道輸送考慮していない。
アメリカやロシアは戦車の鉄道輸送やってるが、イギリスは標準軌だけど車両の幅が狭いので、センチュリオン等、戦後製のイギリス戦車は鉄道輸送を前提としていない。 名寄本線はフラノエクスプレスが入った事があるんだな
他に特定地方交通線にジョイフルトレインが入ったのはアルコンが胆振線に入った位か? 元特定地方交通線だったら、ふるさと銀河線にキハ183改造のジョイフルトレインが入ったことがあるが 特急車が入るか否かでかなり雰囲気が変わるね
特に支線の場合は。 今回の豪雨災害で道東方面への路線が被害甚大だが、名寄本線があったら良かったのにな、と思うね。
ま、名寄線も被害あったかも知れないが。
昔、石北線が開通前は名寄線が北見方面へのメインルートだったんだよね。 名寄線でなく、網走本線、則ち後の池北線、そしてふるさと銀河線、の方がメインルート >>131
中国は今でも有事用でSLが何台か動かせる状態で置いてあるらしい
確か四平だったかな?
解放軍が管理してるとか? 幌加内線の頃
樺太急行は
函館-長万部-東輪西(東室蘭)-苫小牧-岩見沢-旭川-名寄-音威子府-幌延-稚内
網走行は
函館-長万部-小樽-札幌-滝川-帯広-池田-野付牛(北見)-網走
釧路から網走に行くのが大変!
http://i.imgur.com/yiyjJSg.jpg キハ183系が団臨で入ったことある?
フラノエクスプレスは入ったことがあるが >>149
聞いたことないなあ…
アルコンなら入線したことあるらしいけど 北見平和駅の標示に萌えていた
もちろん今は現物はなくなってるが愛好家の方がネットにアップしてくれているのがうれしい 名寄本線は原則として3番線から発車していた
蒸気機関車が今にも現れてきそうな雰囲気だった
名寄駅2、3番線ホームの年代物の上屋も撤去されたけど
昔はこのホームも客でごった返していたんだろうなぁ...
今は寂しい限りだよ >>154
名寄本線、そして、留辺蘂から安国までが先に通ったからね
その後、安国と遠軽との間で分岐駅争いが勃発
安国を分岐駅にすると今みたいなスイッチバックがなく
遠軽も今ほどに栄えていなかったと言われている。 >>139
それは後年の話な。
野付牛行は名寄回りが元々のルート。
それこそ網走本線経由より石北本線ルートの方がメインルートと言ってるようなもん。 >>156
池北線が先だよ
明治時代に開通している
名寄本線は大正10年代に全線開通している >>158
昔は長輪線と根室本線の滝川〜富良野間が無くて富良野線が根室本線だったので
大正10年までは北海道の入り口の函館から網走へ鉄道で向かうには・・・・
小樽経由で旭川へ、そして、富良野線経由で池田〜北見、網走だった。
名寄本線が開通してからは旭川までのルートは同じで、ここから名寄へ向かい
遠軽を経て網走へ向かっていた事になるけど、随分遠回りだね。
石北本線が開通したのは昭和7年だよ。
昔は名寄駅や池田駅、遠軽駅なんて乗客でごった返していたんだろうね。
>>160
いいね
駅本屋内ではなく2、3番ホームでベンチに腰掛けて
風景を眺めながら 名寄駅2番、3番ホームの上屋が無くなり、キヨスクも閉店したし
0番ホームも無くなったし、寂しいなぁ・・・ >>162
キオスク以前にツィンクルプラザもなくなったし、駅弁もなくなったし、営業時間も8時ちょい前から17時過ぎにくらいまでに短縮された。
夏のまだ日が高い17時代に無人になるとか、終わってる感がハンパない。 >>166
この駅は昔は蒸気機関車が昼夜を問わず
忙しげに走り回り、もうもうと煙を吹き上げていたよ。
2番、3番ホームなんて今にも蒸気機関車が現れそうで、いい雰囲気だったけどね...
構内が広いだけに、音威子府や幌延よりも寂しい感じだよ。 >>159
滝川〜富良野の方が名寄線開通より先だったね >>168
富良野線が先に開通して、更に明治44年に池北線が開通すると網走方面への
鉄道ルートが一応は完成した。その後、大正2年に滝川〜富良野間が開通
大正10年に名寄本線が全線開通するとこっちがメインルートに移行した。
石北本線の中越〜白滝間が開通したのは昭和7年。 >>170
昭和4年に石北西線が中越まで開通すると
中越駅前から石北東線の白滝駅前まで
義侠心に富む某が馬車運送をしていたとの事だけど
結局、大赤字で間もなく撤退したとの事
名寄本線は大正9年秋に下川〜上興部間が先に開通して、
翌大正10年3月に名寄東線の中湧別〜興部間が開通、
その年の10月に興部〜上興部間が開通して全線開通した。
天北峠の分水嶺が最終工区になったのではなく、網走支庁の上興部までが
少し先に開通した訳だけどちょっと珍しい開業パターンかもね。
名寄本線廃止当日の名寄発最終も上興部行だった。
もちろん名寄方面からの利用者がいたのかも知れないが
手前の一ノ橋の交換設備が撤去されたために
交換設備のある上興部まで運転していたのかも知れないな。 当たらずも遠からず。
一の橋は営林署もなくなって過疎まっしぐら、交換設備もなくなり閉塞区間が上興部までだから、いやでも上興部まで運転することになる。
まあ、上興部ってか西興部村の住民は興部や紋別より名寄に出る傾向が強い気がするから、それが自然なんだろうとは思う。 >>172
名寄本線が開通した当時の西興部駅周辺(瀬戸牛)は無人地帯だった。
西興部市街は鉄道が開通して街ができた様なもので
下川〜興部間でまともな街だったのは上興部くらい。
上興部は西興部の顔と言われ、昭和40年代までは
西興部よりも上興部の方が発言力も大きかった程だし
下川〜上興部間が先に開通しても不思議でもないか。
昭和30〜40年代の名寄発最終も一ノ橋行ではなく上興部行だったから
名寄や下川、一ノ橋と上興部の結びつきがあったのかもね。
上興部も寂しくなったけど今でもまずまずの街があるし
旅館や駐在所、郵便局などが一通り揃っているよ。 >>176
石北本線や千歳線、長輪線がまだ無いね。
名寄本線で最後に開通したのが興部と上興部の間。
当時は混合列車で荷物の積みおろしにも時間がかかったのでは?
開業当時は主要幹線の筈の名寄本線だけど列車本数も少なかったんだね。 炭層に圧をかければ出て来るらしいが、北海道程度の規模では採算合わないらしいね。 興部駅の駅弁を食べた事ある人いる?
製造元の米田さんは初めは駅逓業者で
鉄道開通後は上興部で駅弁を販売していて
後に興部へ移転したとの事
興部駅で弁当を販売していたのは昭和60年位までかな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています