名寄本線
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>>511
オフコースがCMで歌っていたブルボン・アルルを思い出した。 ♪何も聞かないで
何も 何も見ないで
君を悲しませるもの
何も 何も見ないで♪ 小田和正さんは、実はちょくちょく北海道に足を伸ばしている。 「言葉に出来ない」は屈指の名曲でゲスけどまだまだ名曲はありますど。
「水曜日の午後」とか「「めぐる季節」とか。北海道の、とりわけ道東を旅行している時に
おススメの曲でゲスよ。 横●創学●の学園祭にサプライズ登場して、驚かせたことがある小田氏。
この高校の修学旅行先は、今はニセコだったと思う。
北海道に行く高校が多い。 留萌も確実にそうなる
もしかしたら日高も。鵡川まで残しても意味無さそうだし 留萌に関しては絶望的。日高も完全復旧はさすがに無理。暗澹たる気分だ。 うわさはあったよね
バカな自治体がお金欲しさに結局全線廃止になっちやった 興部だけのせいではない。
北海道でどこか1路線を第三セクターで残す話になったときに、ムネヲが地元の池北線を強く推したのは事実。
池北線の方が経営きびしかったのに。
天北線はどのみち無理だったね。特に音威子府ー中頓別は代替バスすら厳しいのでは?と意見も当時から多かったから 札幌からの乗客も天北線エリアは「中抜け」で稚内を目指す人たちだったようだから
やはり存続は厳しかったと思われ。 浜頓別で白鳥の湖・クッチャロ湖を見る選択肢はあった。 名寄は下川ー紋別間が酷すぎた。
池北は置戸ー足寄間が酷すぎた。
天北は全部酷かったけど特に音威子府ー中頓別間 運転扱い駅員のみの配置となっていた中興部と小向はJRになって硬券入場券再開したけど、乗車券はどうだったのかな?出補等で販売していたのかな? 紋別は高速バスの独り勝ちだった感するよな
オホーツク紋別空港も一時期札幌から出てたが今やもう羽田から1往復のみとか過疎空港になってる プリンスホテルは、西武のトンネル会社と言われていた時代が確かにあった。
真冬に一度だけ宿泊経験あり。バイキング形式の朝食は当時は斬新に感じられ、
印象は悪くなかった。 紋別は市内の路線バスも充実しているし、高速バスもあってバスの天下だね 紋別空港は乗客の大半がマイル修行僧か?
コウノトリ但馬空港も殆どマイル修行僧で折り返し便でとんぼ返りしてしまうため地元の観光協会が観光してくれないとか嘆いてた 当時まだ名寄本線が現役で空港も元気だった頃、元紋別ー小向間に空港直結駅を作る、川西経由でなく、湧別中心部経由にする
これが出来ていたら運命は変わっていたような 夏は東海大学の駅伝グループが夏合宿に来たりして
活況を呈したこともあったが毎年訪れているという
わけでもない。今年はどうだろう。 >>550
小向は入場券のほかは紋別までの乗車券があるのみでした
それ以外はおそらく補充片道での対応だったと思います。 >>550
自分が小向行ったのはJRになってからですが、そのときは入場券がありませんでした。
売り切れだったのかな? 紋別のほうが網走よりも流氷の勢いがいい。今年に関しては。 >>541
昔は天北線が宗谷本線で
幌延廻りの今の宗谷本線が天塩線だったけど
宗谷本線が天塩線のままで
天北線が宗谷本線を名乗っていたら
どうなっていたと思う? >>576 両線とも廃止対象になり、名寄本線とともに宗谷本線も廃止されてたかもね〜
その前に天塩線廃止。 音威子府から先の部分、今の宗谷本線と
天北線部分が共に宗谷本線だったら、
どうなっていた事か? >>579 札幌から旭川経由稚内まで、天北線部分も含め全部宗谷本線だったら存続してたかもねえ… >>580
室蘭本線の岩見沢ー沼ノ端間と似た様な感じかな。
千歳線が事実上の室蘭本線の続きみたいな感じだけど、苫小牧ー岩見沢間は貨物もそれなりに走るし、2600トン級の石炭列車がビシバシ走っていたくらいで路盤も強固、いざという時の代替路にもなるからね。 天北線が音威子府ー浜頓別ー南稚内ではなく音威子府ー稚内で、宗谷本線が南稚内までだったら、どんな事態になったか? >>576-577
音威子府〜南稚内だけなら、天北線区間の方が輸送密度は多かったので、
「天北線」が宗谷本線なら、廃止を免れていた。
木古内から末端は江差線より松前線が輸送密度が多かったのに、
五稜郭からが江差線だったので、あえなく松前線が廃止されたのと同様のケース。 トンネルは無いが、音威子府から先、天塩川沿いへの敷設は難工事だったらしいね。
とりあえず稚内迄は鉄道を通しましょう。
そして、天北線回りの方が長くても路盤も安定していて沿線の石炭や木材等を運ぶのにも有利とされた。
こんな話を聞いた事もある。 天北線の音威子府ー中頓別間は酷かったが、宗谷本線の音威子府ー南稚内も同じくらいに酷かったからね
輸送密度は天北線が上だったよね >>585
音威子府と小頓別〜中頓別の間はトンネルを隔てて天北峠もあるし、仕方ないよ。
それでも、浜頓別や鬼志別等からの貨物輸送も見込めたし
稚内への足の確保に加え、枝幸も当時としてはかなりの町だった
小頓別からは歌登方面へのバスも発車していたし、
名寄本線と異なり、廃止当日まで
急行天北が運転されていたのはさすがというところか。
南稚内発の上り普通列車は宗谷本線より天北線の方が多かったのでは? 名寄ー遠軽間はずいぶん離れている気もするが、140キロしか無いんだね。 140qって、東海道本線だと東京・富士位の距離に相当しますが。 札幌〜紋別は鉄道だと遠回りで高速バスに負けた感するよな
高速バスは滝上町を経由する 北遠軽駅で1時間待っても電車が来ないんだがストライキなのか? >>589
遠軽回りだとそれほど遠回りではないよ
といいつつ、乗り換えではダメだね 名寄本線が発着していた名寄駅2番、3番ホームの上屋が撤去されて跨線橋入口に待合室ができたけど、雨や雪も降るし、あった方が良いと思うけど、それだけ利用者も減ったという事か? 名寄本線に深名線もなくなった今の名寄駅は淋しいものだろう。
と言いつつももう何年も行っていないのだが。 >>591
スタン・ハンセン氏が乱入してテリー・ファンク氏にウエスタン・ラリアットを見舞ってKO
する事態が渚滑駅で発生して、その後大乱闘に発展したためのダイヤ乱れです。
再開の見込みは今のところ立っておりません。 >>595
名寄本線や深名線だけではなく、
キヨスクも駅弁も蕎麦屋も、駅横のきょくてつストアや機関区、車掌区に0番ホームも無くなったし、2番、3番ホームに架かっていた重厚な木造の上屋も無くなり、がらーんとして寂しい限りだよ。 >>596
その後馬場氏が怒ってハンセンにチョップの嵐のようです。
さてともかく、渚滑駅の無人化はなぜか悲しかった。沙留でなく渚滑に交換設備残してほしかった >>598
機関車や貨車がたむろしていた構内も側線がほとんど剥ぎ取られて草ボーボー、冬は一面の雪原だよ。 名寄駅は1番線だけで十分、駅前ロータリーも必要なし、オワタ >>567
もともと小向は昭和53年から無人駅扱いで
運転関係の職員さんの配置駅だったので
切符はすべて簡易委託でした。
JRになってからもそのままでしたが
廃止直前に入場券が復活しました。
声問も同じでしたよ。 上興部と中興部に交換設備残すなら西興部一駅のみ残すだけで良かったと思うけどね。 下川ー興部間の交換駅も位置的には西興部一つで良さげだけど、天北峠を跨いだ下川ー上興部間が村内で最初に開業したり、昭和30年代から名寄発最終は下川行や一ノ橋行ではなく上興部行だった様に、上興部は西興部や興部だけではなく名寄方面との繋がりもあるからね。
廃止当日も一ノ橋の交換設備が撤去されていたので、名寄発最終は上興部行。
22時過ぎに上興部に着いた車両が上り最終に併結されて名寄へと戻り、名寄本線の歴史に幕を閉じた。 >>604
沿線の豊富な森林資源に加え、
上興部には石灰鉱山もあり、ここを始発とする貨物列車も運転されていたし、峠を控える上興部には機関車駐泊施設もあった。
SLの時代はここで補助機関車を連結したり、給水したりで停車時間も長く、駅には売店もあったし、発車待ちの貨物列車が停まっている事も多かった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています