名寄本線
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貨物が終わった時点で廃止のカウントダウンが始まったのだろうな
紋別空港がもう少し防衛設備を整えれば、燃料輸送もあっただろうから、生き延びることもできたかも
あの時代でも過疎はあり、限界集落で車が必需品だったのだろうね 廃駅に凝っていた時期があった。大社駅は立派だった。 紋別空港と湧別市街地経由のルートにすれば紋別〜遠軽は生き残れたと思う
あんな内陸の無人地帯通すより良いと思う 意外と紋別空港は需要あるんじゃないでしょうか。利用したことが一度もないですけど。 >>453
そんな立派な大社駅も戦前からの建物らしくぼっとん便所は外にあった。 ボットン便所と言えば90年代半ばの北浜駅はまだ
ボットンでした。 ぼっとんは、今や見つけることが困難に。砂漠の中で1億円発見するくらい
難しい。 名寄本線健在ならば行きは宗谷本線で稚内を目指し、復路は天北線経由音威子府
さらには名寄から迂回して名寄本線経由遠軽から旭川まで、などなど多彩なルートを
選択できただろうに。惜しまれることだ。 石北本線のほうは遠軽から方向転換して網走を目指す。 >>466
今は住宅が駅の周りに結構立っております。 名寄本線がアッサリ切られたのがどうも納得がいかないね >>470
さるる の下車印押してもらったきっぷを持ってるぜw 名寄本線は旅客30、貨物70の割合だろ?
貨物は木材が主。
沿線は過疎化するわけだね 脳の記憶装置に問題あるのか、留萌はすぐ出てくるんだが、名寄がなかなか出てこないんだよなあ。 今、ヤフオクで湧別発中湧別行の硬券が出品されている
画像見ると懐かしい・・ 遠軽始発4:23 → 名寄7:52
随分と早い時刻から運転していたものだと感心。 >>491
夏場は遠軽から景色が見えるが、
冬はほとんど闇夜の中。 随分前に地下鉄銀座線を夜9時頃に渋谷から乗った時、
斜め向かいに宮脇先生が旅行鞄抱えて座っていた。(生 宮脇先生を見ちゃった)
上野から夜行列車に乗ってどこかへ行こうとしていたのかな・・ 興部のパン屋でコッペパンを出したら、「おこっぺパン」? >>511
オフコースがCMで歌っていたブルボン・アルルを思い出した。 ♪何も聞かないで
何も 何も見ないで
君を悲しませるもの
何も 何も見ないで♪ 小田和正さんは、実はちょくちょく北海道に足を伸ばしている。 「言葉に出来ない」は屈指の名曲でゲスけどまだまだ名曲はありますど。
「水曜日の午後」とか「「めぐる季節」とか。北海道の、とりわけ道東を旅行している時に
おススメの曲でゲスよ。 横●創学●の学園祭にサプライズ登場して、驚かせたことがある小田氏。
この高校の修学旅行先は、今はニセコだったと思う。
北海道に行く高校が多い。 留萌も確実にそうなる
もしかしたら日高も。鵡川まで残しても意味無さそうだし 留萌に関しては絶望的。日高も完全復旧はさすがに無理。暗澹たる気分だ。 うわさはあったよね
バカな自治体がお金欲しさに結局全線廃止になっちやった 興部だけのせいではない。
北海道でどこか1路線を第三セクターで残す話になったときに、ムネヲが地元の池北線を強く推したのは事実。
池北線の方が経営きびしかったのに。
天北線はどのみち無理だったね。特に音威子府ー中頓別は代替バスすら厳しいのでは?と意見も当時から多かったから 札幌からの乗客も天北線エリアは「中抜け」で稚内を目指す人たちだったようだから
やはり存続は厳しかったと思われ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています