【愛されて】新快速の思い出【40年】
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
新快速ブルーライナーが登場した時は
革新的だったなぁ
共通運用だったのか急行「鷲羽」や「とも」まで
ブルーライナー塗装だったのは
当時残念に思いました。 >>249
それ昭和47年の新快速増発直前だけの話ではないのか
その後も残った「鷲羽」が新快速と共通運用だったとか聞いたことないが >>249 >>250
確かに250氏がおっしゃるように新快速設定直前、廃止直前には混合色編成
が有りましたが、あの固定6両編成そのままを「鷲羽」に共通運用された記憶
は有りませんね。249氏自信はそんなつもりはないのに「共通運用」の文字
を使用されたのであんな捉え方になったと思います。 >>251
前出の文章に誤りがありました。新快速設定直前、廃止直前
→新快速設定直前、廃止直後 でした。スマソ。 台車の点からも快適に乗っていた153系だったが、クハ165だけは新しく
ても乗りたくなかった。あのTR69台車が何かとフワフワとした縦揺れを伝え
て来るのが嫌だった。153系の老朽化に伴い、165系3両×2組に置き換
わったらどうしようと悩んでいた。 昭和59年頃の紀勢本線の各駅って新快速塗装だったよね?好評につき紀勢本線も塗っちゃいました、みたいな感じ?和歌山ミカンを考えると紀勢本線こそ湘南色かと思うが中央に従いたくない関西の意地、か? 1978昭和53年まで阪和線新快速車両を
1978昭和53年の紀勢本線電化と同時に天王寺〜紀伊田辺、御坊間を直通する、
快速電車に転用したから自然でないか? 快速と数kmにわたり、通過駅を挟んで離合しながらジワリジワリ追い抜いていた頃が楽しかった。
夕方芦屋を通過してた頃まで見れたような。
京都線はまだ見れるのかな? >>256
神戸の西部では今でも結構見られますよ、ぜひ来てください。 子供の頃、153系新快速に湘南色が組まれた混色編成と、
113系のグリーン車込みの快速編成に阪和線のブルーライナー色(冷房車)が組まれた混色とが走っていて、
子供ながらにややこしいと思ったよ。
混色、グリーン車込みの急行比叡もあったし。 >>250
そうですね。ごく短期間でした。
>>251
多分その通りです。
私は小学生の撮り鉄だったので
詳しい運用までは知りませんでした。
でもブルーライナー色の「鷲羽」「とも」の写真は
何枚か撮っています。
その頃、新快速はスカ色113系だったので
増発直前の時期なんでしょうね。 >>257
ありがとうございます。足をのばしてみます。昼間の爆走もいいですがラッシュもアツイですな そういえば1978年の今頃、立花ー甲子園口間でフレートラーナーが脱線転覆。
辺りの道路や公園の一面にみかんがばらまかれており、それを袋につめるおじいちゃんやおばちゃん達・・
原因は前日の保線時にバラストがちゃんと詰まっていなかったとか。
近所だったから見に行ったけど、EF66の数百メートル先にブルーライナーが止まってた。
おそらく追い抜いた直後に脱線したんだろうけど、状況次第では新快速も巻き込まれた可能性があったのかもしれない。 >>261
あの脱線にはびっくりした。丁度大阪から摂津本山の学校に通っていて、午後
3時頃校舎に在学中だった。その日はどうやって大阪まで戻ったかは覚えていな
いが足止めされた記憶が無い・・・ いつも乗っている快速と外側線は高砂工場
から出たばかりのキハ82系尻切れトンボ編成と追い抜きごっこをするー武庫川
を渡って立花駅へ降りて行く大分高台の土盛り高架上だった。本当にヒヤッと
した。今では鉄道事故としてマスコミが後日まで相当うるさいが、当時は夕方の
ニュース程度でサラッと流していた。 >>262
阪急岡本から帰ったんとちゃうの?
阪神間は少し歩けば代替路線あるから
国鉄が止まっても全く困らん。
ちなみに灘高でっかw 数年ぶりに摂津本山で降りたら、まぁ綺麗な駅舎になりましたね
灘なら住吉では?甲南大学かな >>264
ご名答! しかしあの日はどうやって帰宅したのかは覚えていない。当時は
2〜3日 転んだコンテナ車が放置されていたことは覚えていた。その横を
車窓越しに走って帰ったことは記憶にある。事故当日だったのかな。「ただ
危ないな」としか思わなかった。いま思い出すと怖いな。事故後すぐに翌日
でも正常運転していたように思う。 連投スマソ 当時は153系が大好きで、大阪〜本山へ行くのにわざわざ乗り
越し運賃を払って一旦、三宮まで行ってから上り各停で本山まで行っていた。
僅か7年のブルーライナーであったが、とても斬新な列車に思えた。まるで
昨日のことのように思い出す。54年春に117系に変わってからは、転換
クロスシートで目の前に他人の頭があり、狭っ苦しい、車内壁面は茶色で厚っ
苦しい、まるで観光バスに乗っているようで堪らなかった。あれから本線用・
関西空港用に225系等がでたが、20年以上走ってもらっても愛着が湧かな
い。1ボックスで全く見知らぬ他人と相席で向かい合っても広々とした車窓
を堪能できた153系が懐かしい。 >>265
あの事故の当日は東京口のブルトレも全部運休だったから翌日以降かと。
いまあれをやったら大変だね。
枕木の浮いたレールを旅客も走ってたんだよね。
やっぱ貨物は重たいから線路に不具合があると脱線しやすいのかな? >>266
わざわざ三ノ宮迄乗るということは芦屋通過の新快速ということか?
きちんと1時間目から学校行けよ さすが金持ちの甲南のボンボンですなw
当時は阪急、阪神の方が運賃安かったから
国鉄は敬遠されていたのに。 今は知らんが、かつての甲南といえば電車よりも赤いスポーツカーとかに興味がある人が多いようなイメージなんだがww >>230
新快速でも新快速用の車両でもないが、舞子で大阪方面の各停を待っているときに、
西行きの電車線の快速と列車線の快速が面を並べて同じ速度でやってきて
そのまま通過していったのを見たときはちょっと感動した。
国鉄からJRに変わったころだったかな。 ブルーライナー登場時、真ん中に153系新快速の
イラストが入った運転記念スタンプが各停車駅に置いてあった。
みどりの窓口にはブルーライナーの写真入りの切符入れもあったな。 先頭ホロのついていない新快速も、そのうち思い出になるのかな(泣) 新快速の話から逸れるけど許して・・ 新快速153の中吊り広告に「ひらか
た大菊人形」とか「阪神競馬」とか有ったが、新快速運用の引退後の昭和56
年に153系に乗りたさに、懐かしさに山陽地方へ旅行に行った時に広島〜下
関間の153系の吊り広告にも「宇部大菊人形」とか「徳山ボート」「山陽オ
ート」が有ったのにはワロタ。そこまで思い出させてくれたのには・・・ 余分な連投でスマソ 思い出して懐かしいのでクグってみたら 「宇部大菊人
形」は平成8年に「ひらかた大菊人形」は平成8年12月に無くなったとあっ
た。昭和57年に消えた山陽の153系も、吊り広告もそんな昔の話なんだな
ァ・・・ 上記の文の訂正です。入力間違いスマソ。「ひらかた大菊人形」が無くなったの
は平成17年12月でした。 当時の阪急や京阪は吊広告などなく一枚上の格調高さだった 阪急は宝塚歌劇やOSシネマの車内広告なかったっけ? 昔の阪急伊丹線とかの古い電車のドアのガラスに
サラダ油だったかマヨネーズだったかのシールが貼ってあった。
阪急6300も新快速も通勤客はターゲットじゃなかったんだよね。 あの頃は新快速も「特別な列車」で良かった。乗ると嬉しかった。いまや単なる
通勤電車どころか下駄電・草履電になってしまっている。本数は少なくても、
どこにでも好きなところに座れる電車でいて欲しかった。 阪急といえばドアに貼ってある日清サラダ油
ホームのベンチの清酒白雪 ブルーライナーのヘッドマークって鷲羽や立山みたいに横にめくるタイプじゃなかったけど、なんでだろう?
めくるのが面倒そうなんだけど。 広告と言えばワリチョー、ワリコー、ワリシン、リッチョー なんのこっちゃ。
オヤジは飲んだくれ、母親は節約下手の浪費癖いつもカツカツなうちの家計には無縁でござった。ちゃんと利子がつくというのは経済が順調に伸びてるということだよね。確か155系あたりは三菱銀行の金融債でつくられたとのこと 阪急梅田駅で配布していた路線別時刻表には
ワリコー、ワリチョーの広告が入っていた 新快速と広告といえば 三ノ宮駅南側にあった大きな「富士山」を抜きに
することは出来ない。但しポートライナー工事のために153系ブルー
ライナー終焉より少し早くなくなってしまった。小生はスハ32系の宇野
・広島・長崎行きに乗車していた子どものころからのなじみであった。
なぜこんな所に富士山があるのか?理解できないでいた。(本物の山だ
と信じていた。夜になると下から黄色くライトアップされている山だった)
小学生になるとそれが広告看板だと理解出来てきた。80系快速・153系
新快速に乗って三ノ宮へ着く頃に見える楽しみの一つだった。
若い人は分かりますか?何の広告だったかと・・・・ >>287ビルの壁面の大きな富士山ね。三宮通るといつも見てたわ。確か山一証券の広告だったはず。 >>286
103系の扇風機に冬季になると「ワリトー」「リットー」の広告が付いた
カバー掛っていたのは知っているよな?
快速の113系ドア上には「ワリコー」「リッキー」の広告もあったぞ。 >>288
ご名答!そうですね。四大証券の一つといわれた山一證券ですね。あれが
見えたら「三ノ宮だなあ」と思ったものです。たしか、大阪の京橋にもあ
ったような、なかったような??昭和時代の経済小説、株価操縦等を始め
證券界の裏側の暗闇を画いたフイクション場面に「富士山證券」として度
々登場していました。 あの頃の車窓だったら武庫川のヒロタのシュークリームっていつのまにか無くなったよな。
エーデルワイスは相変わらず。
あと神戸駅前にデッカイ スコップがなかったっけ?? >>280
立花をでて甲子園口への勾配の途中に有りましたね。黄色と白の縞々模様のヒ
ロタのシュークリームの工場が、7年ほど前に無くなっていたのには気づきま
した。もっと早期の話は分かりません。その手前立花寄りには「栗田の圧力扇」
線路を挟んで南側には「東亜のバルブと安全弁」という工場・看板が見えてま
したね。 ヒロタはかなり前になくなった。まぁ、いったん経営破たんしたからな。
立花駅構内のショップはかなり粘ったけど、夏ごろに閉店してしまったのは残念。
その近くのコトブキは2000年代に入ってもあったけど、結局無くなったな。
さらに東、立花と尼崎の間のエーデルワイス(アンテノール)は健在だが。 んー、スレチな話題で盛り上がってるので
もう一つw
夙川の大阪方にあった「クリスボン」
小学生の頃に撮影した新快速や優等列車の背後に
たくさん写り込んでます。
震災でなくなったんでしたっけ? >>285
いずれの金融機関もそのままの形では残らなかった。
興銀→みずほ銀に
長銀→破綻の後新生銀に
日債銀→破綻の後あおぞら銀に ヒロタに釣られて、「パルナス パルナス モスクワの味」で検索したが廃業してるんやなあ、残念。 山陽線 明石に着く頃に50メートル南側地平に見えていた山電の
まるで青物市場のような大きな屋根しかない明石駅。須磨の付近で
山手の方を見上げれば路面電車の親分のような山電200型が負け
ずと併走していたこと。「山電」いまや立派な都心乗り入れ電車に・・ 山陽特急は20分毎、新快速は明石まで15分毎但し昼間だけ パルナスは阪神尼崎駅で細々と続いていると聞いたが? >>299
「モンパルナス」でしょ。
パルナス直営ではないよ。
パルナスにいたことがある人が始めた、とかそんな感じだったと思う。
そもそもパルナス自体は清算してしまって法人としては消滅してるし。 >>296
そっと抱きしめてごらん
ママの温かい…なんだっけ?忘れたw
もう一つ思い出した!
パルナス ピロシキ パルナス ピロシキ パルピロパルピロ… パルナスといえば日曜10時半の関テレアニメ再放送
悟空の大冒険やムーミン
10時はエースコックでいなかっぺ大将だったかな 小坊の時、親父に頼んでブルーライナーに何度も乗せてもらったよ。
親父も鉄だったし。
だから雷鳥との追い抜きや、神戸方面で気動車急行との競争を何度も経験させてもらった。
感謝。
そんなある日、急行比叡に時々入るブルーライナーが有料なのにとても新鮮さを感じた。(1980年頃)
そもそもオレが指差して新快速と比叡とを間違えたんだが。(混色だったし)
親父に頼み込んで¥1000もらい(親父も乗ると高くつくので)、一人で比叡に乗ることになった。
一人でお金を持って大阪駅の緑の窓口へ行き、列に並んで自分の番になった。
おっちゃんに京都までの急行券(自由席)を頼んだら立山か比叡かと聞かれ、
迷わず比叡って答えたんだけど、新快速の方が速くて安いから新快速に乗りなさいと・・。
その後も、乗りたい理由、親父はホームに居る等々を述べながらやりとりしたんだが、結局急行券を売ってもらえず乗れなかった。
今なら大人だから買えないこともないし、強行して中で買えばいいこともわかるけど、
11歳の当時はそこまでわからなかった。
いまでも急行比叡に乗れなかった悔しさが昨日のことのように思い出される。
急行券を買って、帯入りのグリーン車の横につながったブルーライナーに乗りたかった。
あのオッサン、次会ったらシバク 今くらいの年齢だったら、とりあえず乗って、
車掌が来たら「急行券ちょうだい」といえば言いだけ、とわかるんだけど、小学生だとね。 >>304
俺も似たような思い出がw
明石に家族で遊びに行った帰り
どうしても急行「玄海」に乗りたくて
親父にせがんだら、
神戸に帰るのは新快速の方が安くて速いと言われ
小学生だったから反論できなかった。
あずき色の475系に乗りたかった(涙)
当時、新快速はスカ色113系だったし。 >>304
当時なら窓口は当たり前の対応ですね
ご年齢から察するにシバく相手はもう鬼籍かも(笑) みなさま
レスありがとうございます。
ところで最近youtubeにブルーライナーの音があります。
京都→大阪、三宮→大阪とか。
ttps://www.youtube.com/watch?v=iE-eiQj7vQg
酒を飲みつつ、地図を見ながら聞いているんだけど、鉄橋があるおかげで大体追えます。
このスレの前にも出てる、看板類やヒロタを思い出しながら聴くと酒が進みます。 やっぱり東海道、山陽線はブルーライナーの頃が黄金期だね。
当時家か何かのCMで、東海道山陽線沿線に
電車の見える場所に家を建てて、おっちゃんが
「いいなぁ、電車は」と呟くのがあったはず。
動画漁っても見当たらないが何処のCMだったんだろ? >>306
当時新快速は1時間毎で日中に数本しかなく、急行停車の神戸駅を勇ましく通過する113系は充分にレアな存在だったはずだが
すでに新快速には乗り飽きていた? >>310
306です。
当時は新快速が登場した直後で
明石駅にスカ色113系を描いた手書きの看板があったのを
覚えています。
今から思うとレアな存在ですが、
鉄の小学生には優等列車の方が魅力的で
113系新快速の価値はわかりませんでした。 スカ色113系の新快速が走っていた頃、快速にも編成中にスカ色塗りのユニット
を挟んだものが存在していたので、注意していなければ誤乗することも多々
あった。ひどいケースは大阪駅ホームの放送が「6番線から新快速西明石行きが
発車しま・・・」と急き立てているのだが、中央階段をホームに上がると
5番6番線にそれぞれが同時に停車しており、どちらもスカ色が停まっているの
が眼に入り、冷静な判断を欠いてしまった場合であった。 昔から思ったのには、小生のような常に大阪駅を発駅として、神戸方面へ行っ
たり、京都方面へ行ったりした人はそんなことはあまり無かったが、京都以東
から大阪を通過して神戸・姫路へ行く人は、よほど地理的理解があるか又は地
図を携行した人でないと「なぜ大阪付近では淀川を2回も渡るのだろう」とか
大阪には淀川が2本あって海に注いでいる」と思いがちになっていたのでは・・
と思う。「大阪駅の手前で淀川の上流を渡り、通過後に下流を渡る」と理解
出来ていた人は少なかったように思うがいかがでしょうか、特に女性や子ども
などは・・・?? >>313
なるほど。そこですかw
タモリみたいな地理的興味ある人は少ないのでは?
特に女性には。
私は子供の頃、淀川よりも北方貨物線の方が不思議な存在でした。
塚本あたりで分岐した線路はどこに行くのだろうと。 >>314
確かにそれも言えています。私も大分大きくなってもそうでした。何故
優等列車のカラの車ばかりがあのカーブした築堤の上で停まっているの
だろう??と、113系や72系はあそこに入らないのだろう?と、
まさか車庫に入る。とは思わない「誰も知らない、行ったことのない遠
い夢の国へいくのだろう」まあ、「宮原操」という人間で言えば休憩と
いった「夢の国」には違いなかったいですけどネ・・・あんなところか
ら宮原操へ行けるとも思って居ませんでした・・・・
、 追記でスマソ、塚本西方の「アラヤの自転車 工場」付近の築堤で併走
して乗っていた車両から見ていたら、どの車両も車内蛍光灯を煌々と点
けた全く無人の車両が斜め上方向に向かっているのは、今思えば何故か
宇宙へ向けて旅立つ『銀河鉄道999』を彷彿させるものがありました。
回送車ならば消灯して走ってくれれば良かったのですが・・・
153系ブルーライナー回送もよく途中で停まっていました。 スレチでスマソ、秋のこの時期になるといつも思い出したのだが、ブル
ーライナー全盛期によくテレビにでていたメナード化粧品のキャッチコ
ピー「月が輝く秋だから・・メナード秋のオータムフェスティバル」
(岩下志麻出演)や資生堂の「海岸通りのブドウ色」のコマーシャルが
あったが、実にワロタのには自分にとって「海岸通りのブドウ色」とは
須磨の海岸沿いを走るモハ72やクモハ51のブドウ色電車のことだっ
たwww。岩下志麻も若くてきれいだった、もう40年も昔の話。スマソ・・
なんであの茶色い色がぶどう色なんだろ?
どう見ても茶色なんだけど。 >>314
>>315
東海道線や北陸線の大阪駅終点の急行はそのまま折り返しできないから、下り線を塚本駅まで行って高架でぐるっとまたいでまた上り線に入り大阪駅始発の列車になると思っていた >>318
たしかにおっしゃるとおりあれは一般的に「焦げ茶」といいますか、「チョコ
レート色」ですが、たしかにブドウも大粒の「黒色」から小粒の「茶色」もあ
りまして・・その辺は大目に・・・・ 一時期、予備の165系中間車が入った編成あったよな? >>313
淀川を2回というより、別の川だと思っていたよ。
山陽線の広島市内みたいに。 >>321
165系の中間車が入ったって、昭和40年代の話しですか?
モハ165−18、モハ164−81のユニットのこと? >>315
宮原が向日町や吹田と違って
在来線からは全く見えない
ブラインド車庫だから
不思議に思ったんですね。 新快速の車内販売に遭遇された方がいらっしゃいましたら、是非いろいろ教えてください。
上郡の駅弁が売られていたという話もありますが。 >>325
614Dに上郡エビスヤが乗っていたからその帰りかも。 新快速の車販は覚えているが、駅弁まで覚えてないな。。
よく250mL缶のコーラを買ったけど、あの頃はウーロン茶とかあったっけ?
思い出せるのは駅弁と一緒に売られてた透明な容器のコップ付きのお茶かな。
あの当時はコンビニも無かったから須磨駅の改札口でも駅弁とか売ってたよな。
牛飯がうまかった。 >>327
それ、ほんまかいな?
新快速で車内販売? 上郡の話は交通公社の時刻表巻末に投稿されていて投稿者は女性だった記憶がある
上郡駅の駅弁マークが気になり確かめに行ったがやっぱり駅弁屋などいない、後日新快速に乗ったら車内販売が来て驚き、購入した弁当の包み紙に上郡駅とあってまた驚いたという内容だったと思う 毎回ではないが何度か見た記憶がある。
今の新幹線でもそうだけど、あの当時も来ると気になって何かしら買ってしまった。
あの当時は113系の快速でも何度か車販を見たことあるし、
福知山線の旧客普通列車でも見かけたことがあるけど、俺の記憶変かな? >>328
マジで見たよ
ただし今と違って姫路行きの本数少なく30分に1本下手すれば60分に1本だから今の長距離特急昔の急行のイメージかな
本数が少ないので結局のところは快速か山陽特急神戸高速阪急パターン多かった 昭和50年ころは湖東線の快速(各停)でも車販がいたらしい 221でも新快速は車販あったぞ。ただし90年3月まで。 >>332
湖東線では国鉄時代に草津南洋軒、大津荻の家を見かけたな。
余談ながら大津荻の家は京都から山陰線の丹後、後にあさしおが出来てからはそちらの
車販も担当してたよ。 子どもの頃、乗った広島行き・宇野行きのスハ32客車でも車販のオネーチャン
がクリームを売りにきたな・・フリルをかぶった制服にはまだまだ異性を意識
するには早すぎる年齢でも何かときめきを感じたナァ・・現代はあんな一寸した
おしゃれがなくなったなァ。鉄チャン向けに車販コスプレの店でも作ったら流行
るかも?? あの一杯物を積んだ台車・ワゴンを通しにくい連結部分の渡り板
の上で難儀しながら渡っているのに色気を感じた子ども時代・・・不思議だった。 後になって、80系電車姫路行きができた頃、貫通路幅も広くなり明るくなった
。渡り板も単なる2階板から3枚構成になったので、大分楽になったと思う。
153系の3枚構成なので良かったと思ったが、153系になり貫通路がまた
狭くなってしまった。113系に至ってはまた渡り板が2枚重ねになったのは
至極不便だ。 貫通路広いと、冬場に隙間風がたくさん入ってきて寒いんでは?
冷暖房の効果が落ちかねないし。 ブルーライナーの頃の国鉄では普通列車でも長編成が多かったけど、
新快速が6連だったのは何か意図があったのか、あるいは単に車両が足りなかっただけなのか?
先頭車に165系を充てたのはわかるが。
個人的に見た目と運用面から6連のあの長さがちょうどよかったと思う。 新大阪通過してた頃が最高だった
それが楽しみで、用もないのに何度も往復wktkだったわ >>341
当時は国鉄の相次ぐ値上げにより客が離れていたから、15分に1本「も」走らせていれば
6両でもガラガラだった。 >>342
そんな頃の新快速は、停車駅が少なすぎて空気輸送列車状態
快速が混んでるという逆転現象が起きてたな。
かと言って、今の新快速は停車駅が大杉てうっとおしい >>342
>>344
ブルーライナーの頃より、今の新快速の方が断然飛ばしてるんだろうけど
音だけ聞いてりゃ、ブルーライナー時代の方がぶっ飛ばしてるなw 117系が新大阪を通過してた頃は、大阪から京都の間で
検札がかなりの確率で来てた記憶がある 朝の下り8時前大阪終着、夕方上り18時頃大阪始発の
快速は153系12連、外側線走行で好んで乗車した。 >>344
大久保〜東加古川間は長らく30分ヘッドで、結構混んでいましたな。
西明石以西に60分間の保守間合い設定とか、複々線・複線で差がひどかった。 >>349
9時15分大阪発新快速姫路行きの後には10時15分まで姫路行なかった記憶然も10時15分大阪発新快速姫路行きは所謂153系電車の大垣夜行から大垣で接続の10時2分大阪発快速電車姫路行き接続を受ける形だったので滅茶苦茶混んだ記憶 ×10時2分大阪発車の快速電車姫路行き
○10時2分大阪発の快速電車西明石行き >>350
読む気になれん
句読点なしでダラダラと意味不明。
せめて、改行してくれんかあ まだ青春18のびのびきっぷが出る前だし混雑してたかなあ
そのまま乗り継げば門司で長崎夜行に乗ることができたんだっけ >>348
あの頃は優等列車じゃないと列車線を走れなかったからラッシュ時の快速が貴重だった。
特に明石から鷹取駅付近までの上り列車線が最高だった。 153系時代の新快速はまさに「料金のいらない急行」という感じがしたけど、
今の新快速は速くなったけど雰囲気的には通勤電車の延長という感じだからな。 221系なってから立場完全に変わったな221系が臨時急行に使われて凄い違和感覚えた時明らかに立場変わったの感じた 吊革やめたら雰囲気かわるんじゃない、ついでにドアチャイムも ドアチャイムはサンダーバードもあいや新幹線も今やあるからそれは不可能だな 117系はむしろ中京快速のイメージだなと格下げ後の福知山線湖西線きのくに線 昔、153系の新快速編成なんだけど、
ヘッドマークの文字が「新快速」じゃなくて
横線だけになってたのって
なんだったの? >>362
アンタ 知らなかったの? 新快速運用じゃない時にいちいち看板を外すのは
面倒だから、ぺラッとめくって、ヨコシマが出るように2枚構造だったという
ことだよ。 小生の知っていた昭和47年4月の登場初期の阪和新快速は
天王寺に到着後、折り返し各停の鳳行きになる際に、運転士が前面扉を開けて
ヘッドマークを外して重たそうにやっとこさで内部へ入れていたのを覚えてい
る。 >>363
その頃は確か小学生だが初めて知った。9時20分から15時20分までの間だけに、新快速電車は阪和線で運転されていて、15時20分以降言うか16時20分以降は、快速電車として運転だった思っていた。(9時20分から15時20分天王寺発の意味) >>363
続き、阪和新快速のヘッドマークはだいぶ重かったのか外す歳にはこぶしで
したからコンコンと何度も叩いて外していた。そして縦に持ち上げて車内に
いれて、置いていたのではなく、助手席側にたてかけていた、大分面倒だな
と思ったが、通学定期券で各停運用の新快速車両に乗れたのが嬉しかった。
どなたかが前記されたように153系も普通乗車券で急行車両に乗れて儲け
ものだったという感があった、やはり現在の新快速は単なる通勤車両だなァ・・・・ 前述の365 ゴメン 追加カキコしてる最中に どなたかが364をカキコされた
ので 数字が誤ったものとなりました。済みません・・・ >>363
阪和の新快速はめくり式だったが、末期
には小型円形板に交換された。
153系の新快速はベース板の上に1枚物の
板を付けていて表(新快速)裏(横線)になっ
ていた。
両方とも、京都鉄道博物館で展示されている。 関西線快速は平成になる頃まで大型看板を脱着してたよ、まあ昭和53年頃に登場時より一回り小型になってはいたが 昔から京都、大阪、神戸は観光地の色が強い。
朝と夕方は通勤客を裁くけど、昼間の新快速は間合い運用みたいなものかな。
阪急6300もだけど、ターゲットは平日の昼間の観光客だったんじゃないかな。 阪和線では今やくろしおが昔の阪和新快速の役割も兼ねてるからな。
紀州路快速はもはや阪和間の直通輸送を半ば放棄したような感じだし。 >>370
>>369
観光地なのは、京都・神戸くらいだわな。
なにわ・摂津と言えば、昔から商人の街、商業都市だから。 >>372
でも新大阪・梅田直結効果は大きいのでは。 >>372
わずか5年ほどの間いつもガラガラで走っていた阪和新快速などもともと大した役割を担ってなかったよ さっきBSの『八つ墓村』で、113の阪和新快速映ってたは はるか、くろしお、関空快速、紀州路快速
環状線以南の列車は大阪以北へ乗り入れたがるが
北陸特急、山陰特急、新快速他
環状線以北の列車は南へ乗り入れない
これは単に新幹線のせい?それとも・・・ ブルーライナーの頃なんて新幹線は東海道と
山陽しかないの忘れてるのかw
新大阪で乗り換えて新快速利用しても
京都や神戸への観光客に利用する意味はない。
あくまで京阪神間を最速で移動したい利用者を
ターゲットにした列車だよ。
それに新大阪駅の周辺なんて何もなかったしな。 湖西線開業後に堅田乗入れって、多少は京阪大津線を意識してたんかいな。 >>379
新大阪駅周辺は今でこそITビジネス街になってるけど、昔は本当に何もなかったからな。
それにブルーライナーの時代は新大阪から大阪市内への移動でも梅田に用のある人以外は、
殆どが国鉄ではなく地下鉄を利用してたからな。 昭和末期の新大阪なんて不動産屋や裏風俗の業者しかいなかった >>380
相手にしてなかったと思うけど。
単純に新線の需要喚起かと。 >>370
>新大阪に止まらなかったのに観光客相手?
京都なら新幹線の駅あるし、三宮も新神戸がある。
西明石、姫路も。
わざわざ新大阪から新快速に乗り換えて神戸や京都へ向かうか? ターゲットは平日の昼間の観光客だったんじゃないかな。
ということですね? ブルーライナーの頃は大阪駅からの客を最優先しただけだよね。
京阪神圏を最速で結ぶ性格上、新幹線からの乗換を
考慮してなかったのと、内線を走って
京阪間を29分走行、大阪駅を00 15 30 45分発に
揃える点こだわったので途中止める事が出来ないという理由もある。 2001年に新大阪のヘルスに行って、新幹線で東京に戻って川口のヘルスに行ったよ そもそもブルーライナー運転開始時の153系って、余剰車みたいなもんだよね。
当時の大鉄局で、
なんか使い道ないかな??
ツードアのデッキ付きだから通勤用にはダメだよね・・
昼間に停車駅の少ない新快速なら使えるかも!
ならば新快速の113系と交換してしまえば一石二鳥じゃん!!(113は通勤用)
しかし153系は長編成を組んでいたから先頭車が足りなくてねぇか?
クハ165でいいんじゃない?(逆に165は先頭車だらけ)
153系のグリーン車は113系で使えばいいだろ。
けど、今さら153系って古くないか?
色を変えたらわからねーよ!
って流れは間違えかな? 75年の春に初めて153系新快速乗ったが、モーター音がうるさかった思い出がある。
とにかく飛ばしているという感じだった。 >>391
ブルーライナー塗装になって、新車だと思う人は少なくなかった。 117系が関西急電色で出たときに考えたんだけど、153系を急電色に塗る案は出なかったのかな?と。
国鉄だったから、JR福知山線の113系よりはカッコ良く塗ったんじゃないかと思う。
けど、ブルーライナーの方がかっこいい。 名神高速は天王山で常時渋滞、第2京阪もなし
阪神高速湾岸線も中国自動車道もなし
都市間輸送に特化できた時代だったのかな
今や京阪神間の優等列車は中間駅で乗客を拾わないと
やっていけないのかも 117が出たとき、うちのテッケンでは阪急京阪と比べ、
細かなところのアコモのダサさに開けた口が閉まらんやった、
という意見で一致しててな。 うちのクラスの女子のあいだでは
テッケンはアコモのダサさだけでなく中身もキモい
という意見で一致しててな >>395
関西の鉄道会社が都市間ノンスットップを
止めたのは途中駅が発達した為だよ。
急行等との混雑率や所要時間差の格差が酷くなってたからな。 >>396
当時、山陽エリア居住だったんですが、カバー付き蛍光灯・バランサー付き下降窓を尊敬していました。
同世代の115-3000には冷房準備車なんてのがありましたからねえ。 >>396
だが座れば117がダントツだったよ。
6300や3000の座席は横幅がかなり狭い。
特に阪急は鎧戸の為もあり、窓側の肘掛けが使いにくいしな。 広告のない阪急や京阪は車内の見通しがよく高級感があった
ところで阪急特急の足元についてる細いパイプは足のせか? あれ足のせだよ。
だから6300系の座席は数字以上に体感が狭かったんだわ。
体裁や意匠品質に異常に拘るが、大柄な人には不評だった。 当時ロマンスシートの京都線特急に痴漢が多いと言われたが、
横幅が狭いから嫌でも体が密着するんだよな。
結構誤解も多かったのではと今になって思うわ。 国鉄と私鉄で車幅が全く違うからな
阪急6300は通路を60cm確保するため、座席幅にしわ寄せがいった
京阪に至っては、車体自体が激狭 和歌山線辺りで117に当たると地元では
今でもゆったりした電車で評判いいからな。
女子高生が窓が開く電車が珍しいと大騒ぎしてたよ。 >>400
それでも広島の115-3000は冷房準備車といってもすぐクーラーを取り付けられるように、
車内のダクトまで準備してた完全なものだったからな。 1979-8の新快速編成実例
クハ165-112
モハ152-69
モハ153-69
モハ152-95
モハ153-95
クハ153-3
→モハの95番ユニットの荷物棚は、網棚からパイプ造作に取り替え 当時の編成記録や形式写真って貴重だよね。
あと、改造の記録なんかも。
当時、花形列車の編成写真ばかり撮ってたことに後悔してるよ。
もっと精神的に大人だったら貴重な記録を残せたかと。 221なんかも意外ときっちり撮影してる人は少ないんだよね。
117は最後はHMが変わったし、221末期は
223と併結編成の新快速もあった。 新大阪は分かるが、姫路便の西明石通過は意図的?
西明石〜姫路相互の客を新幹線に誘導とか。
停めても時間で山電特急に買っていたと思うが。 西明石は元々急行停車駅ではない
西明石始発終着便のほうが例外 宮原に最後まで残った167系6連のクハ165には新快速時代の塗り分け跡がくっきり残ってた。
行き先幕も新快速のままだった。
中間車の窓サッシの隅には修学旅行色の黄色が見えてた。
153系新快速どころか167系ですら懐かしい。 >>411
153系の時代は西明石どころか神戸さえも通過してた ポートピアと言えば、須磨浦公園行きの阪急6連特急のマークを思い出す。 >>419
縦書き?横書き?
俺が覚えてるのは縦書きで、真ん中が水色やったやつ。 縦書きもあったっけ?
覚えているのは青いポートピアマークの下にアルファベット(横文字)で書かれたやつ。 今は梅田・新開地・姫路駅前にボートピア(競艇の場外売り場)があるなw 高槻住人にとってはなじみのない列車だった。
阪急は通勤特急が止まっていたのだが。 >>421
横書きで、京都線で長いこと使われてた「ペコちゃん」特急と、
おんなじデザインのやつだろ? S53の暖かい頃、ブルーラーナーで明石から大阪へ向かっていた。
須磨のあたりで気動車のみまさか・みささに追い着かれ、神戸、三宮で一旦追い抜くも
再び灘あたりからデッドヒート。
西宮くらいで窓からのぞくともう追いつけそうにないくらい先の方まで行ってた。
キハ2858の方が新快速よりも速かったんかな?
雷鳥とはいつもいい勝負だったけど、
あの頃の気動車と58が引く荷物列車はとても速かった印象が残ってる。 >>426
上りで新快速とデッドヒートした気動車急行は午前の「但馬・みまさか」しか
なかったよ。米トリ、岡オカ、大ミハの13両編成との競り合いを芦屋駅東で
よく見かけたな。 キハ58の13両編成!壮観だな
キロを挟んでいたと思うけど
運転席がいくつあったんだろw
空いている運転席に入り込んで
警笛を鳴らして逃げたことがあったわ >>426
1973年頃の新快速は京都〜大阪(途中無停車)29分で特急雷鳥より速いけど
三ノ宮〜大阪は新快速24分、急行但馬最速23分で遅かったみたいですね >>429
手元にある1972年の時刻表では
新快速 大阪1500⇒三ノ宮1525(25分)…153系
急行つくし・べっぷ 大阪842⇒三ノ宮908(26分)…485系
急行みまさか1号 大阪1007⇒三ノ宮1033(26分)…キハ58
急行但馬3号 大阪1245⇒三ノ宮1308(23分)…キハ58
急行屋久島 大阪1505⇒三ノ宮1531(26分)…EF58+旧客13両
急行とは互角以上の勝負してます。
なぜ同じ気動車急行で3分も違うのかは謎w
しかし特急では
特急かもめ 大阪806⇒三ノ宮829(23分)…キハ80系
特急しおじ1号 大阪929⇒三ノ宮950(21分)…181系
特急彗星1号 大阪1940⇒三ノ宮2005(25分)…EF58+20系15両
意外と新快速より早かったようです。 >>427
但馬・みまさかでしたか。
みまさかは みささとのペアだけかと思ってました。
ありがとうございました。 当時の新快速は 内側線を走行していた。先行する103系各停(特に
甲子園口行き)の走行のダイヤ状態等の都合により満足にその性能を
生かせずに走っていたのが乗車していてよく分かった。尼崎・立花・甲子園
口付近はトロトロ走りだった。したがって外側線を走る列車にはかなわなか
った。それでも24分で走ったのは賞賛に値する。 そうやったね。
当時の新快速は内側線でした。
前をゲタ電が走っていたら
遅くなるのは当たり前ですね。 >>190の再掲だけど
かつては特急に抜かれる新快速もあったみたい
1973年の時刻表を見るとこんなのがある。
姫路 1040 1053
加古 1059 レ
明石 1113 レ
神戸 レ 1130
三宮 1135 レ
大阪 1159 1154
(1本目が新快速 2本目が特急しおじ1号) 431です。訂正ですが
急行つくし・べっぷは457系でした。 福知山線445レも大阪10時43分の時代は153系新快速との並走によく遭遇し、最後部に
オハフ33が入っていようものならデッキからの逆かぶりつきで大阪〜尼崎間を楽しめたよ。 当時の内側線は新快速、快速、普電(京都、西明石)、普電(甲子園口or高槻)の4本が15分に詰め込まれていて、
そして、普電が快速を退避するのが高槻、芦屋、須磨だっけ?
芦屋退避では上りと下りでパターンが違ったような気がする。
須磨では普電が新快速と快速に抜かれてたような気がするんだが、どうだっけ?
約40年前のことなんでよく思い出せない・・ >>438
内側線は昼間帯の吹田―甲子園口間で1時間16本運転だった。
C電も芦屋で2本待避。 >>438
各停は昼間時間帯では須磨では新快速のみ退避、芦屋では快速と新快速の退避。
芦屋での退避だが、大阪で新快速と快速の接続をするのだから、
下りは新快速、快速の順で、上りは快速、新快速の順になる。 >>439
一時間で16本の過密ダイヤの中でブルーライナーは快走していたわけですか。
>>440
須磨では新快速のみでしたか。
芦屋で2本退避して、上りと下りで抜かされる順が逆だったんですね。
ありがとうございました。
ブルーライナーが現在のように外側線を走行していたら大阪ー三宮は21分ですね。 >>441
当時の外側線は優等列車に加えて
貨物の本数が結構あったから
新快速を走らせるキャパは無かったですよね。 キャパというより当時外側線のダイヤは基本的に本社設定だっただろ。 >>436
457系なんて、九州には数両のMcM'ユニットのみ。圧倒的多数がTc・Ts・Tbの455を含む475系。 >>436
457系なんて、圧倒的多数北陸だ一昨年2015年平成27年まで現役だったわけで急行立山ゆのくに快速知らなくても青春18きっぷで北陸本線普通電車乗ってればそんな頓珍漢なことは絶対に言わないw >431に特急しおじが大阪-三ノ宮21分とあるが、223系新快速も21分。
223新快速は尼崎と芦屋に止まりながらの21分だから しおじ より速いんだね。
まぁ、当たり前か。 >>444 >>445
436だが、俺は当時SL専門だったんで
交直流急行型の細かい違いまでは正直わからん。
しかし「つくし・べっぷ」に457系使われてたんと違う?
まあ、457でも475でも大して変わらんやろw
ただし俺は小学生の頃何度も写真に撮ってるから
想像で書くとか知ったかぶりとは違うで。
単に知識が浅いだけや 逆に懐かし板で、
400番代の急行型や近郊型の系列と運用状況を正確に記述しないと
ぶっ叩きまくるジジイたち怖すぎ まるで鉄オタと会話してるみたい、女の子の前でもその調子なんだろうな 2017.1.11 15:54更新
【講談社敏腕編集者逮捕】
朝日新聞に「子どもを読む」コラム連載 女性と飲食の約束でツイッター“炎上”も
http://www.sankei.com/affairs/news/170111/afr1701110023-n1.html
大ヒット漫画「進撃の巨人」の編集にも関わった敏腕編集者が、妻殺害容疑で逮捕された。
昨年8月、自宅で首を絞めて妻を殺害したとして講談社「モーニング」編集部編集次長、朴鐘顕(パク・チョンヒョン)容疑者(41)=韓国籍=が
10日、殺人容疑で警視庁に逮捕された。(サンケイスポーツ)
京大卒業後、1999年に入社。「週刊少年マガジン」の副編集長などを経て、2009年10月号の「別冊少年マガジン」創刊に編集長として携わった。
昨年6月から「モーニング」担当となった。
「GTO」などを担当した“ヒットメーカー”で、15年に担当した「七つの大罪」が講談社漫画賞を受賞。11年5月から13年2月まで朝日新聞朝刊に
「子どもを読む」と題するコラムを月1回程度連載し、人気漫画を通して現代の親子関係、社会の価値観の変化などを分析していた。
一方、ツイッターでは担当漫画のファンという女性と飲食の約束をしたことを書き込み、“炎上”。「軽率な行動で、お怒りや不安を与え、
申し訳ございません」などと謝罪したこともあった。
講談社社員の朴鐘顕(ぱく・ちょんひょん)が嫁を殺害した容疑で、1月10日に逮捕され、朴鐘顕の経歴に注目が集まっている。
朴鐘顕は2016年8月に嫁の朴佳菜子を自宅で、殺害した容疑がかけられている。
嫁が亡くなった当初の朴鐘顕は捜査に対し、自殺ではないかと他殺の可能性を否定していたものの、
捜査の過程で嫁が自殺する動機にかけていたことや、当時自宅にいた家族の証言。
さらに司法解剖の結果、他殺の可能性が浮上し、第一発見者で旦那の朴鐘顕が、捜査線上に浮上し逮捕されたようだ。
現段階で逮捕された朴鐘顕は、無実を主張しており、嫁の死亡との関連性を否定している状況のようだ。
嫁の朴佳菜子を殺害した容疑で逮捕された朴鐘顕は、韓国人であり、日本人の嫁と国際結婚を果たしており、現在41歳である。
そんな朴鐘顕が講談社に入社したのは、1999年であり、10年後の2009年9月には「いちばん新しい冒険の書!!」をキャッチフレーズとした
別冊少年マガジンの創刊に携わっている。
そして、現在では累計発行部数6000万部を超し、実写映画化もされている進撃の巨人を発掘した張本人でもある。 2017.1.11 15:54更新
【講談社敏腕編集者逮捕】
朝日新聞に「子どもを読む」コラム連載 女性と飲食の約束でツイッター“炎上”も
http://www.sankei.com/affairs/news/170111/afr1701110023-n1.html
大ヒット漫画「進撃の巨人」の編集にも関わった敏腕編集者が、妻殺害容疑で逮捕された。
昨年8月、自宅で首を絞めて妻を殺害したとして講談社「モーニング」編集部編集次長、朴鐘顕(パク・チョンヒョン)容疑者(41)=韓国籍=が
10日、殺人容疑で警視庁に逮捕された。(サンケイスポーツ)
京大卒業後、1999年に入社。「週刊少年マガジン」の副編集長などを経て、2009年10月号の「別冊少年マガジン」創刊に編集長として携わった。
昨年6月から「モーニング」担当となった。
「GTO」などを担当した“ヒットメーカー”で、15年に担当した「七つの大罪」が講談社漫画賞を受賞。11年5月から13年2月まで朝日新聞朝刊に
「子どもを読む」と題するコラムを月1回程度連載し、人気漫画を通して現代の親子関係、社会の価値観の変化などを分析していた。
一方、ツイッターでは担当漫画のファンという女性と飲食の約束をしたことを書き込み、“炎上”。「軽率な行動で、お怒りや不安を与え、
申し訳ございません」などと謝罪したこともあった。
講談社社員の朴鐘顕(ぱく・ちょんひょん)が嫁を殺害した容疑で、1月10日に逮捕され、朴鐘顕の経歴に注目が集まっている。
http://menswinner.net/pakutyonhyonkeireki/
朴鐘顕は2016年8月に嫁の朴佳菜子を自宅で、殺害した容疑がかけられている。
嫁が亡くなった当初の朴鐘顕は捜査に対し、自殺ではないかと他殺の可能性を否定していたものの、
捜査の過程で嫁が自殺する動機にかけていたことや、当時自宅にいた家族の証言。
さらに司法解剖の結果、他殺の可能性が浮上し、第一発見者で旦那の朴鐘顕が、捜査線上に浮上し逮捕されたようだ。
現段階で逮捕された朴鐘顕は、無実を主張しており、嫁の死亡との関連性を否定している状況のようだ。
嫁の朴佳菜子を殺害した容疑で逮捕された朴鐘顕は、韓国人であり、日本人の嫁と国際結婚を果たしており、現在41歳である。
そんな朴鐘顕が講談社に入社したのは、1999年であり、10年後の2009年9月には「いちばん新しい冒険の書!!」をキャッチフレーズとした
別冊少年マガジンの創刊に携わっている。
そして、現在では累計発行部数6000万部を超し、実写映画化もされている進撃の巨人を発掘した張本人でもある。
そんな現在の講談社の業績を支えている、人気漫画進撃の巨人を無名時代に発掘した朴鐘顕のセンスは、
講談社内では並外れており、「鬼才」とも呼ばれているほどである。
進撃の巨人以外にも朴鐘顕は、2015年にこの漫画がすごい男編で1位を獲得し、2016年9月にアニメーション映画化された聲の形。
現在累計発行部数2000万部を超え、テレビアニメ化もされている、講談社が誇る人気漫画、7つの大罪などの人気漫画も担当している。
そんな朴鐘顕は2013年7月まで別冊少年マガジンの編集長を務め、2016年6月からは雑誌モーニングの編集部へと移動し、編集部長を務めていたようである。
丁度、嫁が亡くなったのは、朴鐘顕が今まで担当してきた漫画部署から、雑誌部署に移動して、間もなくのことであり、
仕事上でのストレスと家庭内でのトラブルが、重なってしまった形なのであろうか。
警察も捜査の段階で、仕事と家庭でのトラブルが背景にあるとみて捜査を進めてきたようである。
いったいなぜ、講談社で鬼才とまで称された朴鐘顕は、逮捕されるまでに至ってしまったのであろうか。
朴鐘顕が1月10日に逮捕されたが、実は1月11日発売の週刊文春でも朴鐘顕が間もなく逮捕されるという記事を掲載予定であったことが判明している。
実は2016年の事件発生後から捜査当局は事件性を疑っており、公表することで捜査への支障をきたすことから、
水面下で捜査を行っていたことを、朴鐘顕逮捕前に週刊文春が事前につかんでいた。
この事実に対して、昨年2016年度文春砲として芸能界の不倫報道を暴きまくり、世間へと大きな衝撃を与えた週刊文春。
2017年度のスクープに期待する声も早くも高まっている。
講談社編集次長の経歴を持ち、人気漫画を世に輩出してきた朴鐘顕の逮捕で始まった2017年の文春砲。
果たして、今年2017年はどのようなスクープが世間を賑わすのであろうか。 ブルーライナーの先頭にクハ165を持ってきて、
クハ153の初期車をクハ164に改造して、、なんとなく無駄だよね。 >>453
基本ヲタしか来ない過疎板で何いってんだお前は
女の子云々どころか嫁の口がそれ以上に悪くて・・・orz ブルーライナーが速かったとは言えいつも空いてたけど
あの当時の国鉄が豪華且つ新車の117系を投入したってことは、ブルーライナーは成功だったのか? >>453
> まるで鉄オタと会話してるみたい、女の子の前でもその調子なんだろうな
女の子に相手にされないお察しくださいまぁあれだ、要するにそういう事だなw
女の子の前では鉄道の話は絶対にしない20000%しないし万一するすればそれは20000%その女の子鉄子である場合のみ
(まぁあれだ、そういう事話せば解るがまぁあれだ、キモハゲ散らかしおっさん20000%女の子相手されないけれどもwwまぁあれだ、ドフサなので悪しからずw 昭和50年3月改正前だと、
大阪〜京都間で、特急「雷鳥」を追い越すダイヤもあった。
昭和50年3月改正以降だと、さすがにそういうのはなくなったが、
急行「比叡」を追い越していたのは有名。 あったねー。特急雷鳥が新大阪駅停車中新快速に一気に抜かれるというパターンあの頃は特急雷鳥は米原回りの時代だし新快速は湖西線へは圧倒的有利だったが北陸新幹線敦賀延伸によってふたたび、あの頃が再びよみがえるのかもしれない 相手が鉄ヲタじゃなくても相手にとって面白く話せるかがキモなんだよ 雷鳥の新大阪停車は湖西線経由になった75年3月改正から
同時に毎時5分発に変更されたので新快速との同時発車はなくなった
ちなみに急行比叡は大阪を新快速の5分前に出て1分後に京都に着くダイヤだったが
実際は比叡が若干早着してたようで走行中に追い越す場面に遭遇したことはなかった 急行「比叡」の大阪発が12:58発の頃(号数はなかったから削減後か)
13:00発の新快速に抜かれるダイヤだったと記憶しているが。
まあもっとも、冬場だと大阪行の瀕死の雷鳥たちが
抜かされる場面はあったそうだ。 >>458
当時何度も京阪間でブルーライナー利用したが空いてた記憶がない。
特に日曜日なんて常に通路かデッキでたってたし。 湖西線乗り入れ後は、休日ともなると
客の積み残しもあったし、夏なんか
冷房効かなくてわやだった思ひ出がある。 空いてりゃ新車いれて増発や延長とかしないしな。
117導入後の方が値上げもあって空いてたよ。 9時15分大阪発姫路行きのあとはたしか10時15分まで姫路行きなかったしね。 1時間姫路行きないなんて今となっては考えられない信じられないことだけども
9時15分大阪発姫路行き激混みだったし10時15分大阪発姫路行き次の新快速はいわゆる大垣夜行からの接続受けたのでこれもまた激混みなのは間違いないね。
青春18きっぷなかったけど周遊券あって混み方そのものは今と変わらなかった。 手持ちの山崎辺りでのブルーライナーの写真みても
大抵デッキ通路も立ち客で埋まって見える。 絶対に冷房車だったからな。
50年代後半でも、とくに網干車は非冷の113系が多数走っていた。 >>471
その非冷房車の、丸ベン、デカ目が好きで、わざわざ選んで乗っていた。オレって変態だと思ったw >>471
芦屋の知り合いの所に行く事多かったが113系非冷房車が嫌で嫌でたまらなった153系冷房車に正直乗りたいと思ったし113系非冷房車に乗る位ならまだいっそ73系の旧型電車の方がまだマシと思った 旧電は別として113系153系に関しては
鉄オタ的に>>473の方がむしろ変態で>>472の方が正常だろ 今思えばあの塗装は如何にも冷房車だっだだよな。
少し青が薄くなった12系も。
湘南色は正直暑苦しそうに見えた。 153と113新快速は全車冷房を売りにしてたし涼しげだしね。 あのころ高槻か網干の湘南色113系に阪和色(青帯車)の冷房車が入ってたよな。
153系の混色が行ったあとしばらくしてから113系の混色(ユニットだけ)が来たことがある。
S53か54年くらいだっけか? 記憶が曖昧。
あれは貸し出しだったのか、冷房車の転属だったのか、オレの中でずっと謎なんだよな。 検索したら奥に写真が出てた。
もう終了してるけど2枚ある。
サロ112とTc青帯の写真はぱっと見比叡かと思うけど、よく見ると違うね。
ttp://closedsearch.auctions.yahoo.co.jp/closedsearch/国鉄113系/0/ >>477
ただ、新宮電化で登場した白地青帯の113系4両編成(基本、田辺以南で使用)は全て非冷房なんですわ。 子供の頃・・・新快速に乗ると、
身分が一つ上になった気分だった。
今は50代・・・通勤の足になっていた。 当時は急行型車両に乗れることがとても嬉しかったよな。
大阪では福知山線でも滅多にキハ28・58が普通や快速に入ることが少なかった。
新快速=ブルーライナーのイメージが強すぎて困る。
もう50目前。 今の新快速は、当時の新快速より
(気持ち的に)格下のように思えるな 神戸・明石間のノンストップ、あのへんの感覚は昔とあんまり変わってないな。 東京にいて、全車冷房の中央線の特別快速が好きだったのだが、
関西へいって新快速をみて、ショックを受けた。 153系冷房車には113系や103系みたいに
ペンギンステッカーが貼ってあったのか? 尼崎、芦屋に停車する時点で格下。
昔の快速並みやな >>491
高槻、西明石もあかんな
神戸だけはなんとか語を書く
新大阪は見逃したろか。 昔の新快速は料金の要らない急行
今の新快速は通勤電車の延長
今のは座席こそ転クロだけどつり革だらけで雰囲気的にも通勤電車のそれ 夜とか、153系6両×2が快速で走っていた。
乗れたらラッキーだったな〜 福知山線の事故以降、現場が気を利かせて何かやらかすと、監督官庁やらマスコミやらにフルボッコされ、会社上層部からも現場が責められるから、
指令が全てを判断し、現場は指令の言いなり、ってなったんだろうな。
異常時は指令が処理すべき事項も多くて処理しきれずにパンクするから、乗客のニーズに合わせたキメ細かい対応は全く期待できないのが現実。
西宮9:00発大阪行き快速5734Mに乗車したら尼崎で遅延の丹波路快速を先に行かせるとの事で
定時に走行していた5734Mまで遅延した他すぐ後ろの新快速も遅延
おそらくその後ろのスーパーはくと2号も遅延しただろう。
JR神戸線の列車を先に行かせていれば丹波路快速と新快速が尼崎に同着ぐらいだったから
丹波路快速の乗客を新快速に乗り換えさせれば済む話だったのでは無いだろうか?
JR神戸線より列車本数や乗客が少ない福知山線の列車を優先させる事は不可解で丹波路快速にお偉方でも乗ってたのかな?
急ぎの乗客は丹波路快速から新快速に乗り換えて貰った方が乗客の影響ははるかに小さかったのでは無いでしょうか?
JR西日本の事情もあったにしろ不可解な退避で丹波路快速1本のおかげで何本もの列車が遅延になった事がやるせなかったです。
乗客の自衛策としては、普通が遅れてて、後続の新快速が定時なら手前の新快速停車駅で乗り換えておくくらいしかない 新快速を待っていて混色が来たら湘南色車に乗ってた。
当時の湘南色車は鷲羽や比叡の優等列車でしか乗れない憧れの車両だった。
しかし、1979、80年頃の湘南色車は転属前の塗り替えだったと知ったのは相当後になってからだった。 >>496
その時代新型117系登場で白にブルーのまま名古屋に行ったのじゃなかった? >>493
昔の新快速は料金の要らない急行
今の新快速は通勤電車の延長
たしかにそうだったなァ・・・ しかし車両的な要因もそうだが、あの頃は
列車線を走る車両(客車・キハ58・485系などのステップ付き車両も
多かったので、本線系のホームの高さは今よりも10センチ程低かったので
三ノ宮・加古川・姫路などでも新快速に乗ろうとすると大きく脚をかけて
乗っていたので、余計に「優等列車に乗る気持ち」があったなァ・・・
下車する時の落差もそうだった。
優等列車ではないモハ72や113でもその他の各駅で「電車の敷居の高さ」
が味わえた。落差の無い環状線に乗ってばかり居て、本線に乗ると一層その
感を強く思った。今となっては忘れてしまっている感触だ・・・ 昼間103系のC電乗ると須磨で必ず通過待ち食らったな。同じ電車線をブルーライナーが駆け抜けた。カッコ良かったけど何で列車線走らへんか不思議に思ったな。
後から大阪局と本局持ちで分かれてたからとわかったけど153系でも列車線走行したら時間縮まっただろうな。 モハ152に乗って、爆音聞きながらぶっ飛ばすのは爽快でしたな
特に新大阪通過は カ・イ・カ・ン >>502
旧型電車が主力の阪和線では完全冷房でガラガラの新快速は破格のサービスだったな >>502
横型のコンパクト時刻表には、長いこと「新快連」て
誤植のままだった。 >>504
あれの巻末にあった私鉄主要駅の発車時刻表は貴重な情報源だったな
大型の時刻表では私鉄はほとんど記載されていなかったし 大鉄局編集のやつ?
あれは貴重。
オークションで安価で出てきたらできるだけ落札するようにしてる。 >>503
冷房車の限定運用だったんですかね?
JR化後も阪和線快速に非冷の113系がありましたが。 東京の中央線ユーザーのオレからすると
京都〜大阪を29分、
すなわち、新宿〜高尾間を29分ということになり、
わが中央線の鈍足さを恨んだもんだよ。
新宿〜立川で、特快で26分
新宿〜八王子で、特急で40分前後だったからな。
その憧れの新快速に乗ることができたときはすでに
117系になっていて、153系を味わうことはできなかった。 >>508
上りの終着駅が「東京」なのがいい。
新快速は、昔は上りの半分が「京都行き」だったが、JRになってマイナーな終着駅が増えた。 >>511
9時台に京都〜大阪32分かかるのがあったりしたな。 始発9時台は大阪9時39分発で京都が10時14分じゃなかった?
最終京都発は16時30分で大阪が17時03分だったと思う いつのことだ?
昭和50年3月下り
■■■■■■■■大0915→明1005→姫1034
■■■■■■■■大0930→明1015→西1019
■■■■京0915→大0945→明1034→西1038(→姫1106・土休日)
野0850→京0930→大1000→明1045→西1049
■■■■京0945→大1015→明1100→西1104
堅0934→京1000→大1030→明1115→西1119
野0940→京1015→大1045→明1132→姫1208
野0956→京1030→大1100→明1145→西1149
■■■■京1045→大1115→明1201→姫1231
堅1034→京1100→大1130→明1215→西1219
■■■■京1115→大1145→明1230→姫1304
草1110→京1130→大1200→明1245→西1249
■■■■京1145→大1215→明1300→姫1331
堅1134→京1200→大1230→明1315→西1319
■■■■京1215→大1245→明1330→姫1405
草1206→京1230→大1300→明1345→西1349
■■■■京1245→大1315→明1401→姫1429
堅1234→京1300→大1330→明1415→西1419
■■■■京1315→大1345→明1433→姫1505
草1310→京1330→大1400→明1445→西1449
■■■■京1345→大1415→明1501→姫1535
堅1334→京1400→大1430→明1515→西1519
■■■■京1415→大1445→明1531→姫1606
草1410→京1430→大1500→明1545→西1549
■■■■京1445→大1515→明1600→姫1635
堅1434→京1500→大1530→明1615→西1619
■■■■京1515→大1545→明1632→姫1703
草1510→京1530→大1600→明1648→西1652
■■■■京1545→大1615→明1703→姫1730
堅1534→京1600→大1630→明1717→西1721
■■■■京1615→大1645
草1610→京1630→大1703 >>513 失礼。下りについては当たりでしたが、上りについては少し違うんですね。
昭和50年3月 上り(京都のみ着時刻)
■■■■■■■■大0911→京0945→堅1012
■■■■■■■■大0939→京1014→草1035
姫0836→明0912→大1000→京1030
■■■■■■■■大1006→京1047→草1105→新潟1927・輪島1808・珠洲1847(急行ゆのくに1号・越後)
姫0847→明0927→大1015→京1045→堅1115
姫0907→明0943→大1030→京1059
姫0910→明0958→大1045→京1114→草1138(明石まで各駅停車)
姫0937→明1014→大1100→京1129
西1024→明1028→大1115→京1144→堅1212
姫1008→明1041→大1130→京1159
西1054→明1058→大1145→京1214→草1237
西1109→明1113→大1200→京1229
西1124→明1128→大1215→京1244→堅1312
姫1110→明1143→大1230→京1259
西1154→明1158→大1245→京1314→草1334
■■■■■■■■大1258→京1336→草1358→名1544(急行比叡1号)
姫1140→明1213→大1300→京1329
西1224→明1228→大1315→京1344→堅1412
姫1213→明1243→大1330→京1359
西1254→明1258→大1345→京1416→草1437
姫1240→明1313→大1400→京1429
西1324→明1328→大1415→京1444→堅1512
姫1310→明1343→大1430→京1459
西1354→明1358→大1445→京1516→草1537
姫1339→明1413→大1500→京1529
西1424→明1428→大1515→京1544→堅1612
■■■■■■■■大1523→京1600→草1622→金1929(急行ゆのくに2号)
姫1414→明1443→大1530→京1559
西1454→明1458→大1545→京1614→野1647
姫1442→明1513→大1600→京1629→堅1636
西1524→明1528→大1615→京1644→草1705
姫1511→明1540→大1630→京1700
西1553→明1557→大1645→京1715
姫1544→明1612→大1703
西1627→明1631→大1722
しかしまあ、京都〜大阪間はよくきれいなパターンダイヤにしたね。
この頃の中央線の特別快速ときたらもうひどいもんで、てんでバラバラ
それに振り回される国立・西国分寺・国分寺の3駅なんて日中20分電車がこないこともあったりしてね。
に そういえば、この頃実は「日本海」に季節スジがあり、
上り「日本海2号」は、京都1004→大阪1046だった。
もっとも【運休中】が多い幻の列車だったが。 それ定期列車ではなかったか?
のちの日本海4号の時代は京都10時06分発大阪10時46分着で10時08分発の快速、10時15分発の新快速に毎日抜かれていた 117系の関西地区の新快速は1999年まで走っていたんだよな 223系登場後も117系は朝と深夜の1往復程度で細々と残ってたけど130km/h運転ができないから撤退せざるを得なかった >>517
季節臨でもなく予定臨というか長い間「運休中」とあったからな。
14系座席だから集約臨等の団臨スジとして役割もあったのだろう。 >>519
ラッシュ時にかかるから12両で、福知山色等も運用されてたな。
最末期は国鉄以来の正規マークではなく、西日本仕様の
黒地で青文字マークに変えられてたが
記録してる人は少ないかもね。 ブルーライナーのころ、朝に安土行きが1本だけあり、当時最東端だった。
その折り返しは普通京都行きで京都から京都始発の新快速となるのだが、
編成の分割を行った上で、それぞれを京都始発の新快速として運転していた。
117系に置き換わってからしばらくして、ほぼ同じダイヤで安土始発の
新快速姫路行き(但し京都までは各駅停車)となったが、
やはり新快速となる京都で12両から6両へと切り離していた。
60.3改正で、新快速の最東端は彦根まで延びたが、草津以東は各駅停車だった。
とりとめのない文章で失礼しました。。 117系が115キロ運転した時はしきりに宣伝していたが、221系が何キロで運転してるか公表しなかったのはなぜ >>524
数字に弱い人が増えたからだろ。
まあ福知山線のアレがあったから
二度とそういう宣伝はなくなるだろうし。 223系が130km運転というのはやたら宣伝していた記憶が
もっとも「素早い乗り降りで定時運転にご協力を」とも言っていたが
例の事故より前の話 小学6年生の春休み(中学に入る前)に連れと大阪駅から大回り乗車に出かけた。
大阪始発の朝一の新快速に乗って京都へ向かったが、検札に来た車掌の二人連れが連れに
「おまえ小学生じゃないやろう。」と絡んできた。
俺が「小学生ですよ。」と対抗したのだが、「おまえにはきいてない。」と一蹴されてしまった。
結局、めんどくさくなった連れは追加料金(不正乗車扱いにはされなかった)を支払った。
車掌が乗客に「おまえ」と言うことは、今じゃないでしょうなあ。 まてよ・・・
小学生が中学生になるときは、3月31日までが小学生で、
4月1日から中学生になるわけだよなあ。
鉄道の運賃もそれに準じるのかな。
オレが中学にはいったとき、4月1日発行の身分証明書がくっついた
生徒手帳をもらったが。 >>526
425前の新快速なんて遅れも日常的な異常な運転してたからな。
大阪駅着く前に「この列車はすぐに発車します、速やかに御降り下さい」
とかやる車掌もいた。車内の客が
「ドアも開いてないのに降りれないだろ」と文句言ってた位だw >>528
527ですが、昭和59年3月です。
>>529
学校の先生に聞いた(当時)ところ、3月31日までは小学生だと言われた。
車掌氏の完全な勇み足と思われ・・・。
帰宅後、連れの母親が「車掌も点数を稼ぎたかったんやろ。」の一言で片づけてました。 >>531
ということは実害60円か・・・。ご愁傷さま。
その頃の種村氏の「相談室」に、武田尾駅で普通列車を降りて、20分ほど
特急などの撮影をして駅を出ようとしたら改札口で
「すぐに出場しないで余計な仕事増やしたから入場料金もらおうかーー」
と「脅され」(?)て、泣く泣く払ったという訴えがあったな。
この頃自分は大学生で、初めて関西へ「京阪神ミニ」で遊びにいき、
大阪駅でA券を出して出場したとき、
係員がなんか早口で言っている。言葉わからないし怖いから逃げる。
すると追いかけてくる。しかも足が速そう・・・。観念して立ち止まる。
「コレ、記念に残したんちゃうか?落としたらアカンやろ?」
よく見ると、前夜347Mに乗るべく買った東京からのグリーン券でした・・・。
チャンチャン >>534
姫路駅に運転停車中の下り「ふるさとライナー山陰」とか。
乗務員扉からコッソリと。 >>533
失礼、その通り。「あれに乗りたい」って憧れた頃が347Mだったもんでついつい。
まあ当時は自分より年上だと、143Mという人が多かったのを思い出した。 >>507
阪和新快速は最初から最後まで原則冷房車限定運用
専用冷房車3本で運用は2本だったから
本来は代走が発生しないはずが現実は代走が頻繁にあった
理由として考えられるのは青帯新快速と赤帯の終日阪和快速限定運用は異常に一日走行距離が長い(最長は831km)だったから
他とバランスをとるためだと思う
たぶん関西線赤帯と走行キロが極端に変わることが無いよう配慮したためだと思うけど 阪和線新快速には103系(青22号)が代用されていた事があった
1973年頃の鉄ピクの「トピックフォト」欄の投稿にあっただけで
実際に見たわけではないが サンライナーの103系代用もあったな。
それを想定したスジにしてた。 阪和線新快速が鳳のみ停車だった頃は、天王寺や和歌山から鳳のみ停車を知らずにうっかり乗り込んだ客が
堺市や和泉府中、熊取などで降りられず、鳳や和歌山まで連れて行かれることもあったようだ 誤乗など至るところであったし阪和線だけの話ではない 新快速が外側線を走行するようになったのは国鉄末期の昭和61年11月改正からだが、
昭和60年3月改正では貨物列車削減などによって外側線にも余裕ができたことなどから
一部の新快速はそのときからすでに外側線を走行していた。 阪神淡路大震災の後、大阪発の夜6時〜7時代に姫路行き臨時新快速が3本あって、
そのうち1本は最新鋭の223系1000番台、もう1本は117系100番台だった。
12両でゆったり座れて帰れるし、乗り比べができて楽しい列車だった。
223系は高速域で不快な振動が激しかった。
117系は221系と同じ台車ながら、どっしりとした乗り心地で、姫路に着いても
降りたくないと思うような走りだった。 >>546
あの時は、播但線にスーパーはくと編成を使った臨時快速(所要一時間強)が設定されていたな。 脱線してスマンが、誤乗。
例えば関空快速と紀州路快速なんか駅の表示に加えて、
構内での再三のアナウンス、車内でも繰り返し放送しているが誤乗が無くならない。
数年前に気づいたんだが、これはJR側ではなく明らかに「客」に原因があるよな。 >>541
113系のヘッドマークのデザインを描いたシールを貼っていた写真を見た事がある。 南紀方面へのCMが幾つかあったけど、あれって大鉄だったの? 天鉄? >>551
男性のナレーションで「しんかいそく、ブルーライナーっ!」ってやつ 知っている方へ質問です。
153系新快速の黄色いヘッドマークって左右にめくれるタイプじゃないみたいだけど、
「新快速」の部分だけ駅で外して裏返してたの? >>554
ブルーライナーを快速に使うこともあったからね。 >>555
ありがとうございます。
日常的にマークを変更するならページみたいにめくれるタイプの方が便利かと思いまして。 阪和新快速は横めくりだったが
奈良の快速は上下にめくる方式だった 横であれ、縦であれめくる方式なら簡単だが、
新快速のは真ん中の文字の部分を一旦外すして付け替えるしかできないよね?
写真を拡大すると3カ所くらいで止まっているように見えるが。 何を軟弱な話してるね
どこでも大型看板取替えしてただろうが特急も急行も
私鉄でもデラもNSEも名鉄も付け替えていたし、愛称名がないから付け替える必要ないかに思える近鉄でも分割毎に大型看板付け替えていた 「新快速」と横線縞々(快速)の2パターンしかないから
そんなに大変な作業じゃないはず。 117系新快速マークは最初からブルーの方を採用していたらどうだったのだろうか >>562
ブルーライナーのブルーじゃなくてJR西日本仕様のブルーの方 比叡と鷲羽、立山とゆにくにはめくるタイプだったが
車掌が運転席窓下の手摺を掴んで、片足を貫通扉のところに乗せて片手でめくっていた。
新快速の大型板の変更も片手で作業できたのか?
とてもそうは思えないんだが。 >>563
そんな有り得ない質問されても答えようがないだろ。
117系新快速マークは大阪鉄道管理局制定でしかも一般公募だし。 >>565
でも全体像からして117系って失敗作だよね。
せっかくブルーライナーで浸透した新快速カラーをやめちゃうし、すぐに薄汚れるへ湯な車体カラー、
中途半端なところで見切れる窓、
木目使えば阪急と一緒、と言わんばかりの
やすっぽい壁紙木目、前照灯のインパクトのなさ、
一般公募ってうレベルじゃなく小学五年生の夏休みの宿題みたいな平凡なデザイン、
車体前部の膨らみが前照灯にあってなくて、顔が変。 流線型や茶色基調はクモハ52からの流れ
それをアレンジして近代化したのが117
顔は平面的になったが、カラーは225も受け継いでいる >>566
ブルーライナー色の方が汚れ目立つよw
また末期は新快速の愛称板の傷みが酷かった。
殆ど文字が読めない程傷んでた編成が多かったし。 関西九州間のブルトレではヘッドマーク不足で
時折ヘッドマーク未装着の列車もあったが。
ヘッドマーク無しの新快速はなかったな。 行き先表示はかなりデタラメがあったがw
新快速は必ずマーク表示してたよな。
逆に比叡の愛称板が先に無くなったし。
関西ブルトレのマークは併合列車もあったし
新幹線博多開業前機関車の所属もバラバラだったから
マークの管理まで手がまわらなくなったんだよな。 117系が登場した頃は、電車の絵入りヘッドマークが好評だった頃
それに反して関西ブルトレはヘッドマークつけてる列車が1本もなかった ブルトレのマークなんて、あろうが無かろうが乗ってる側には関係ないよな。
ホームにパタパタができる前なら必要だったのかもしれんが。 まさかの117系再改造が決まったぞw
しかも長距離運用だし。 昭和50年3月改正時のヘッドマーク付列車は、
「いなば・紀伊」以外の東京発寝台特急、
北陸本線の毎日運転の電車急行と「能登路」
四国内の気動車急行すべて
総武本線千葉方面の電車急行すべて・・・
あとは「新快速」くらいでしたな。 北陸急行みたいに羽根ついたの流行っていた?
近鉄特急や京阪特急もそんなイメージだし 元々は昔から羽はスピードの象徴だから。
軍隊のマークから車のシンボルまで多用されてるよ。
南海の羽車なんて当初輸入した客車からそのままアレンジしたんだしな。 117系のトップナンバー編成は手をつけずに残してほしい。 >>559
阪和の新快速も最初期のごく短期間だけめくり式ではなく取り外していたわけだが
>>566
浸透も何も
阪和では失敗し本線ではガラガラの中古ブルーライナーの巻き返しに
国鉄では初の新製転換クロス装備の普通電車て、客数もかなり巻き返したのに(これは民営化後に昼得の区間拡大の結果もあるけど)
京阪の特急車が一度も取っていない鉄道友の会の賞も受賞しているのに
失敗作って >>570
大鉄の本線通勤電車は電動幕が登場するまでは
組合が前面標識の掲示を拒否していたからね
俺らは運転が仕事で看板の付け替えが仕事じゃないって
だから103系は「普通」
旧型は看板無し
片町線と天鉄はマシだったけど
旧型の前面方向幕は装備していたのに使わなかった >>574
東北方面の急行にはついてなかったんだっけ >>579
本線ブルーライナーはガラガラではなく
混雑激しかったんだが。だから増発と延長がされてるだろ。
更に居住性で負けないよう117系が投入されたんだからね。 福島や郡山での東北本線筋急行との
分割併結がヘッドマーク廃止にきっかけ
だったのではないかな? >>580
あの「普通」というサービス精神のない方向幕は
組合のせいだったのか!
30年以上経って初めて知った。 >>582
区間延長と増発は61年改正だよ
それまでは草津〜姫路
運転時間も9時から16時まで
117系が投入された時はまだ特定運賃制度も無かったから
ガラガラのスカスカ
平日昼間の新快速なんて2〜3割乗車がデフォ
車両の置き換えは主力の153系の老朽化が深刻だったから >>584
プラットホームの表示器や時刻表に行先書いているんだからそれを見ろよ!
ということ
まあ、阪神電車の普通も昭和50年代前半まで行先表示板つけてなかったからね >>586
各停は基本、京都⇔西明石だったしね。
ただ甲子園口や高槻止まりの電車も
あったから、やはり不親切かもw >>586
阪神って「梅田−元町」みたいなのがついていたような記憶があるけど、
昔のは確かについてないな。 >>585
国鉄運賃値上げ以前の話を忘れてないか?
ブルーライナー時代に湖西線が出来たり徐々に運用拡大していったはず。
それに平日なんて快速等皆空いていたよ。
特に京阪特急はもっと空いていた記憶しかない。 >>580
たしかに103系は「普通」表示もあったが、113系はちゃんと手でぐるぐると回して「姫路」や「大垣」としてた。
決して「快速」では無かったんだが。 >>589
いや運賃値上前でも空いていた、寧ろ姫路迄乗る長距離客がある程度いたくらい
廃止された山陽線急行や山陰線急行から移転してきた客 >>591
当時のジャーナル追跡記事や実体験からも空いてた記憶が全くないので。
特に土日は常にデッキまで立ち客いたし
よく利用した京阪間で座れた記憶が殆どない。
対してこちらもよく利用した京阪は京橋からでもまず座れたし、
平日なら相席になった記憶も殆どない。 >>592
土曜日の午後はちょっとしたラッシュがあったかも知れないな
通勤通学客が唯一新快速を利用できる時間帯 新快速が空いてたいた記憶は117系化して
値上げされて以降の記憶しかないな。
少なくとも阪神間は平日日中でも常に埋まってたよ。
大阪ではいつも座席争奪戦あったし。考えて見れば判るが
速いしターミナルも便利。常に空いてたのは快速のグリーン車でしょ。 1ボックス占領できなかったら混んでるとかじゃないよな
阪急と3分差、阪神と4分差、快速と3分差しかなかったが
まあ快速は非冷房車多かったけど 当時1ボックス占領なんて有り得ないですよ。
親と京阪間でよく利用した土日は常にデッキで
座れた記憶が全くありませんし、当時の山崎辺りで見る写真も
常に立ち客が見えますからね。大体空いてたなら
もっと早い時期に新大阪に止めますよ。
117投入は153老朽化も有りますが当時から
6300対策だと言われてたはずです。 京阪間の新快速なんて民営化して昼得が出来るまでは空いてたよ
京都始発の下りが毎時1本あった時は発車間際でも余裕で座れたし
ブルーライナー全盛時なんて1ボックス二人掛けなんて普通に見られた光景
国鉄電車に乗るのに並ぶという発想すらなかったよ
117系投入はそもそもは153系取り換えで、
並行路線の特急との対抗要望が大鉄から本社にあって実現しただけ
利用率が好評だからではない
京阪間直通客のシェアは阪急がトップで次が京阪、論外が国鉄の時代
ブルーライナーの時代は特急がロマンスシートで京阪間の速達列車が日中毎時8本あった阪急が圧倒的に強かった
、
新快速を新大阪に止めたのは新幹線乗り換えの利便性と、何よりも誤乗が多かったから
>>590
快速は行先表示していたよ
拒否していたのは旧国と103系担当の場合なんだが
そもそも113と103は担当が別だし >>597
当時、阪急京都線の下り急行は特急に追い抜かれていたよ >>596さんが言っているのは、
国鉄運賃が並行私鉄と比べても一番安かった時代の話。 >>597
とても当時利用していたとは思えない有り得ない話。
少なくともそれは国鉄が値上げした後ではないの?
それに153のような急行型の扉位置は並ばないと乗れないよ。
列車到着と同時に扉に群がるのが当時だよ。 また車内で見る限りよく利用されてたのが阪急なのは事実。
でも急行が直通客に使われてた事なんて殆ど無いでしょ。
梅田でも座りたい人は皆次の特急待ってたし。
6300の導入も2800冷房化して直ぐなのは
京阪3000対策もあるが当時のブルーライナー対策でもあるぞ。 ふと思い出したが、阪急は何で歪なダイヤだったんだ?
急行が上りは逃げ切るが、下りは桂待避
終点の折返能力や運用数の絡み? 高槻や茨木で153系新快速の通過をよく
見てたがガラガラの記憶がない。
大阪では快速が新快速を待避してたが
7両や11両の快速から6両の新快速に
乗り換える人が多かった記憶がある。 >>602
昔から淡路がネックだしね。15分間隔38分運転は
結構タイトな運転だろう。また2800系も七本しか無く
常にロング編成が特急運用に就いてるので
毎時八本のロマンスシートなんて勿論有り得ない。
また国鉄の京阪間直通シェアが低い=新快速が空いてるのも嘘。
遠方からの乗り継ぎ客も利用してるのにな。 当時の新快速は京阪間と阪神間では利用度に差があったように思う。 阪神間が一番乗車率良かったと思う。
ブルーライナーも空いたのは間違いなく1976年秋の値上げからだよね。
これで新快速だけでなく定期客以外かなり離れてるしな。
それまでに6300もデビューしてるし
それが117に豪華仕様を要請したきっかけだよ。 >>606
ヨソからみたら、特急とすれ違いやデッドヒートがあった京阪間に注目されるけど、爆走ぶりと利用者数で考えると阪神間のほうがメインルートに感じる。阪急にもいえる 国鉄と阪急と京阪の運賃格差がほとんどないころ(京阪>阪急>国鉄)は、
あたりまえだが、運賃というよりもその客にとっての至便の駅をどう選択するかで
利用路線が決まったものだが、国鉄運賃の狂乱値上げ以降、京都側で路線バスの運賃を
加えても他私鉄が安くなるようになり、国鉄の利用者が激減した。 京都大阪間は爆走、大阪以西はチンタラ走行でしょ
京阪間29分、大阪三ノ宮間25分を見ればあきらか。
確か先行各停の詰まり具合が理由でなかったかな? 阪神間は流してたよね。客車でも走れる所要時間だし。
先行列車が逃げ切れないのと旅客数も阪神間の方が多いから
無理する事はないという判断だろう。
1975年頃だと高槻周辺も田んぼばかり、
だから延々と阪急との併走も見れたんだけどね。 ポートピア博のときも阪神阪急はヘッドマークつけるなど盛り上がるなか、新快速は高い国鉄運賃で我がを行くという感じだったな
三ノ宮駅には「新快速は新大阪に停まりません」と遠方客からの客を突き放したような貼り紙があったりしてた(大阪駅で先行の快速に追い付くから利用できるのだが) ポートピア81か
新快速が全て117に変わった頃だな
どうやって行ったのか記憶が定かでないが、故障でポートライナーに乗れなかったことを覚えてる まさかポートピアランドが117より先に消滅するとは思わなかったな。
その117は更に団臨用で延命する勢いだし。 まさかポートピアランドがゴダイゴより先に消滅するとは思わなかったな。
まあ再結成だけど。 昔の新快速姫路折り返し車への乗車が
結構きつかった記憶がある。
並ばない、譲らない、関西全般だったのかな? >>615
俺らが降り終わる前に大量に乗り込んでくる。
当時の俺は学生だったが、文句を言ったら中年男に逆ギレされたな。
117系末期のおはなし。 >>615
naoki tanemura がもそもそと苦言を呈しておったな。 関西全般かも。
昭和30から40年代の大阪駅でも
優等列車の自由席乗車位置案内で
「柱番号〇番付近」とあいまいな
案内放送してたからな。 1985〜86頃は京阪神間を平日に日中バイトの移動で使ってたが
もうこの頃は新快速はかなり空いていて117車内は天国だった。
阪急6300は内装は上品だが座席が小さくイマイチ好きになれなかった。
京阪3000は何故か途中の記憶が殆どない。
何故ならフワフワした乗り心地で必ず途中寝てしまうんだよ。 >>620
今の新快速、定時で走ってるのって
3割くらいかな? 相生・赤穂なんて片田舎の単線区間で、いったん遅れ出すとすぐに回復は困難。
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中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティー(反日飛行機雲農薬散布マスク女問題)駅内マスクオンNACNN向け原文ママニュース >>620
京都➡大阪➡三ノ宮の時代か? >>629
パンフレットの間違いだった
大阪-京都27分、大阪-三ノ宮19分と新快速が一番速かった頃 大阪梅田から関西空港へは、最近では専ら、高速バス。
以前は、大阪駅から関空快速に乗って、関西空港に向かい、海外へ出国していた。
梅田方面から関西空港へは、この、7,8年でJRから高速バスに移った人が激増した。
以前は、高速バスは渋滞に巻き込まれたり、天候の急激な変化で、敬遠されていた。
今では、関空快速利用よりも高速バス利用の方が、渋滞に巻き込まれなければ、時間の節約になる。
料金も関空快速よりも高速バスの方が若干、安いくらいだ。
高速バスより関空快速が不利な点も多い。
大阪環状線や阪和線は複線電化区間で複線区間の割に輸送力が限界に来ている。
また、大阪環状線や阪和線は通勤電車の他に、通常の快速電車や、関西空港方面以外の特急電車も頻繁に走っている。
また、停車駅が関空快速の場合、割と多く、ダイヤによっては、特急電車の通過待ちを強いられることも少なくない。
最悪の場合、関空快速と言っても、日根野までは関西空港利用者だけでない利用客も紛れ込んで乗車するので
大型スーツケースを持って、海外に出かける旅行客にとっては苦痛を強いられる場面も多くなっている。
それでも、関東の成田国際空港に向かう成田エアポート快速電車に比べると、「それでもマシ」ではあるが。
大阪環状線の複々線は無理な話にしても、阪和線区間の天王寺から日根野までの区間は複々線区間にするべき。
関空快速や関空特急「はるか」、新宮に向かう「くろしお」と通勤電車である普通電車と快速電車のバランスは非常に難しくなる。
大阪環状線と阪和線の輸送力の問題点をクリアしないと、関空快速や「はるか」、
南海電車の関西空港方面電車は高速バスに乗客を奪われるばかりの状態に陥るよ。
高速バスは、渋滞に巻き込まれない限り、自然災害で高速道路が不利な条件に陥らない限りは優位に立っているのだから。 >>631
JR明石駅ホームの看板ね。
知らんうちに撤去w 真ん中に153系前面イラスト、
円周に草津姫路間の停車駅名が
書かれたスタンプは同じデザインの
ものが各停車駅に置かれていたな。 221系登場からまだ間もない頃か
始発駅で 電話の保留音みたいなメロディが
車内で流れていた気がする
米原、姫田の発車待ち時に数回聞いたような 雷鳥とピッタリ並んで走ってたから、雷鳥も110km/hしか出してなかったって事ですね 昭和57年のRJ追跡レポを読むと京阪間は6割程度の乗車率とあったが、そんなに空いてた記憶が無いんだよな 座席人数の六割しか乗ってないというのなら空いてる感じだけど、「乗車率」六割なら立客もいるしそこそこ乗ってる感じじゃね? あ、乗車率六割=座席人数六割ってことになるんだっけか?
適当なこと言ってスマン。 国鉄時代は、急行形どころか117も座席数=総定員だったからな
6割なら、1ボックスに2〜3人程度か https://trafficnews.jp/post/81808
関西は、関東とは違う文化かな。
関西は私鉄が特急を無料化しているのが大きい。
昼割引のように、JRと私鉄で競いあいが激しいし。
今回は、京阪の有料にも対抗だろうけど、阪急が有料化しないなら、難しいかも。
特急のように電車が速くなるのではなく、
席の快適さだと、関西人的にはシビアに判断するかなぁーと思う。
JRの大事故も、阪急の速さに対抗して起こったものだし。
新幹線や飛行機を使ってそうだし。
インバウンドの外国人を狙っているのかもしれないけど。
彼らは、新幹線やJRを格安に使っているし。
ただ、首都圏のような有料化の成功は難しいかな。
首都圏はバブル状態だし、景気が良い。
だから、金払いもいいのだし。
東京一極集中化の産物。
首都機能は移すべき。
会社の本社も。
と、思うが、証券も、事実上、東証で東京に集中化しているから、無理だな。
これを本来なら、政治が打破すべきなのに。 >>94
大阪以西は急行にも負けてた。
新幹線博多開業前は、大阪駅をDC急行但馬と姫路行き新快速が12時45分に同時発車。
だが、三ノ宮到着までに新快速が2分遅れ、その後も少しずつ差を付けられるダイヤだった。
それでも、但馬が姫路で運転方向が変わるので、その停車の間に新快速が追い付いていたようだが。 そりゃ「東海道新幹線+九州方面特急急行(昼行・夜行)」が売りやったからしゃーない
てか新快も西武みたく通勤時間以外はニドアにして座席増える様アコモしろ 国鉄時代の新快って今のように外側線が使えなかったから、前で列車がつまって仕方なくスピードダウンしてただけだろ? >>645
でもまあ外側線走ったらかえって急行より速くは出来ないでしょ 当時の時刻表を見てると、相手がDC急行であっても、急行よりは速く走らせない、みたいなポリシーみたいなものは感じるな。 昭和51年の夏に家族と大阪10:51発の臨時急行「加賀」に乗車。
その時、京阪間で内側線を行くブルーライナー新快速にじわりじわりと抜かれた。
あの新快速は大阪11:00丁度発だったんだろうか、もしそうなのであれば
あの「加賀」は京阪間ではかなりの鈍足だったことになる。
※臨時急行「加賀」は、その当時EF81+14系座席車。湖西線では西大津と安曇川に停車。 昭和50年代前半〜半ば頃の新快速はブルーライナーが一般的だったけど、
昭和54年〜55年頃には度々、153系湘南色・高運車の新快速がみられた。
顔がオレンジ一色なのであれは165系ではないはず。 >>649
定期列車でも晩年の急行比叡は大阪を新快速より早く出て京都には遅く着くダイヤになっていたし
当初のダイヤでは特急雷鳥ですら大阪を同時発車して京都には新快速の数分後になってたから
臨時急行が貨物列車の続行などでそうなるのはある意味仕方のないことかと
>>650
117系に交代した後も廃車せず転用するために一部は湘南色に戻されたものが混ざって運用された
ちなみにブルーライナー塗装で運用されていたのは153系だけでなく165系もあったはず >>649
> 湖西線では西大津と安曇川に停車。
当時の急行立山停車駅全く同じパターン 2往復しかない急行立山補完兼ねた(立山3往復だったが夜行あえて除外している)そういう立場だったんであろうしむしろ西大津安曇川からの客ターゲットかも。
※安曇川どころか特急北越さえ止まった糸魚川行き急行立山(富山から快速)直後新潟行き特急北越雷鳥止まってたなんて20000%今では信じられない事であるが11時代15分大阪発の堅田行き新快速に抜かれなければとりあえず急行としての意地言うかプライドは保てたんだろう。
堅田行き新快速は夏に限り近江今津まで延長されたからかなり怪しい感じだが。 https://inacafe.exblog.jp/3149785/
これによると近江今津まで加賀逃げ切りとは言うもののかなりカツカツであるが 新駅:堅田は好待遇だな。
複々線の草津駅と同じような扱い。 0
45 15
30
ってなってる看板のほうが記憶に残ってる。
大阪駅建て替え前だけど。 >>657
同じ看板は京都駅の旧駅舎にも掲示されてたけど毎正時発車できない三ノ宮駅には出せず
新快速 大阪→24分 京都→54分という四角い看板だけだった
スピードを誇示する看板は戦前の急行電車の頃からあったようだけど
例の福知山線事故の際に批判を浴びたので各駅とも相次いで撤去・変更された やっぱり時計型の看板が印象深い
子供にも分かりやすかった 時代だねえ。
今の子供はアナログ時計とか、ピンと来ないのでは? 時計の読み方って今でも習うはずだが。
まぁ、学校で習ったところで使わなければ忘れていくものでもあるがな。 >>662
時計自体のシェアはアナログ>デジタルだろ
そりゃまあスマホでしか時刻は確認しませんと言うならアナログの時計なんて見ないかもしれないが 昭和時代の京阪バスには、正面にアナログ時計が付いていたんだが、今は? >>658
事故と速達サービスには関係がないのに
なぜ看板を無くしてしまうのか、疑問の声があった
スピードとて商品の主要なセールスポイントだのにな
当時、とにかく叩かれる要素は一切潰してしまえ!
という会社の姿勢が好きになれなかった >>666
あの事故の直後は乗務員や駅員に対する暴行や嫌がらせが相次いだから仕方なかったかも
実際、新快速の運転士に“120も出してまた事故起こす気か!”と食ってかかる爺さんを見かけたし >>667
その爺さんは何かに対して食ってかかりたかっただけだよな。
120キロで走ったら事故になるなら特急はくたかはなんなのかと。 >>667
その爺さん、新幹線に乗ったら発狂だね。
飛行機乗ったら、「鉄が空を飛ぶわけない」って憤死だね。 陸蒸気世代の方々が今のスピードについていけないのはやむを得ないと思う。 >>670
>陸蒸気世代
流石にこれは大げさな表現すぎるw 153系終末期の新快速、足回りよれよれ、密連のガスケットよれよれで
エア漏れっぱなし、CPも回りっぱなし それでも117系置き換え後湘南色に戻されて再利用された車両もあったけどね 塗色変更が間に合わなかったのか新快速色のまま
編成に組み込まれているのもあった。 >>672
東海道本線や山陽本線で毎日500kmを超える長距離の優等列車運用を10年以上も続けていたから
そりゃガタガタになるわな。 細かな綻びはあったにせよ
見た目ボロボロにはなってなかったから良かったのでは? ボロボロの117を銀河に改装したものの、実際に客を乗せるのはいつになるやら。 >>681
あれはやらない方がいいと思う
こんな所に書いても何にもならないけどw 愛されて50年になりましたね。
いつの間にか最長距離(普通)列車にもなっていて。 >>685
50年前に、赤穂在住の大阪通勤者とかいたんだろうか?
敦賀はなおさら、豪雪だと出社できなそう。 半世紀前は知らんが、2000年頃から確実にいた
だって自治体が定住促進のために新快速直通を宣伝材料にしてたもん
乗り換えナシで神戸大阪まで行けます!アピールは、非常に効くものと考えられていた 行政がそんな他力本願な政策を実施して良いのか
JRがもし直通止めます!と言い出したらどうするんだ? 言いだすまでは有効だし、言い出したら反対してやめさせるだけ
新快速に限らず日本中で行われてきたことだけど?
懐かし板で何言ってんの? 大阪-京都無停車時代
高槻に停車後
高槻〜京都13分30秒で走り抜けた117系
たまに音聞くけど、最高速度115kmは超えてる
ただ
あの頃、110km/だよね
最高速度は 新大阪はまだしも高槻に停まるようになって格落ちイメージ付いちゃった
個人的には新大阪も通過で良いと思う
阪急を完膚なきまでに打ち負かせると思うのですが。 事実上降参状態なのにトドメを刺すのは気が進まぬ
新大阪停車は新幹線との乗り換え需要もあろうし現状維持で良き
この議論は昔から変わってない HANKYUでも「十三を出ますと大宮まで停まりません」は今や昔だもんね
それにしても敦賀〜播州赤穂が旭川〜稚内よりも遠いことにびっくらぽん
40年前なら824レだった最長距離普通(特別料金不要)列車が新快速になるなんて 化けちゃたい(´TωT`)
HANKYUでも「十三を出ますと大宮まで停まりません」は今や昔だもんね
それにしても敦賀−播州赤穂が旭川−稚内よりも遠いことにびっくらぽん
40年前なら824レだった最長距離普通(特別料金不要)列車が新快速になるなんて >>696
JR,阪急、京阪共々、時代と共に速達列車の停車駅が増えていくのが寂しい限りだね。 停車駅が増えてもスピードダウンを極力抑える努力は見せて欲しい その区間は国鉄時代から新快速の一人勝ち状態だったからね
新快速の高速化や停車駅増加は主に阪急との乗客獲得競争の結果だから >>702
快速すら停車しなかったのに、東西線開通で二段階特進だもんな >>699
それを突き詰めた結果が、、、
あの頃は客扱いも兎に角急かせるばかりで滅茶苦茶だった印象。 以下は2003年秋ごろから朝ラッシュに停車駅ごと繰り返してた車内アナウンス
JR西日本では定時運転確保に努めております
○号車と○号車にご乗車のお客様にお知らせします
次の○○駅では○号車と○号車から大変多くのお客様がご乗車されます
○○駅で○号車と○号車からお降りのお客様はお早めにドア付近までお進みください
その他のお客様は車内中ほどへお進みいただきドア付近を広く開けるようお願いします
定時運転確保にお客様のご協力をよろしくお願いします
車掌が乗客にここまで指図するとはちょっと異常だと思ってたら程なく大惨事が起きた >>704
現場を知らないアホがスジ引いてC電昼間帯の停車時分設定が15秒だったからね 芦屋や尼に停めたのは阪急の特急通過駅から客を掻っさらう狙いかしら
尼に限っては東西線の影響もあろうけれども >>704
>>706
尼崎事故の前から、何かやらかす予感あったよね。やり過ぎ感というか。
まさかあんな最悪な形になるとは思わなかったけど。
>>707
芦屋と高槻は、緩急接続による私鉄対抗という意味合いだろうね。
実際、京阪間や阪神間ノンストップなんて使い難い列車を15分ヘッドで走らせるなんて、リソースの無駄遣いでしかなかったと思う。
尼は東西線接続と、駅前再開発の期待や、元々の近隣工場の通勤需要も有った。
大阪至近とはいえ、尼はそもそも快速は停めても良かったんじゃないかと思う。 尼崎は東西線マターだね
駅自体にポテンシャルはない 大津市内は本線も湖西線も停車駅が割と多いんだが、京阪を意識しているのだろうか。 単に利用者数の問題だと思う
地元からの請願という名の圧力が強いし
競合区間というほどあの辺は京阪強くない 末端に行くほど本数や編成両数も減るからね
京急快特の「堀ノ内から先は各駅に停まります」みたいなものかしら いずれは茨木にも停めそう
再開発エリアに大学も出来たし 201系の臨時新快速に乗ったことがある。
外側線を生き生きと走っていた。 日中時間帯限定・6両編成の速達サービス列車が
今や終日12両編成の基幹列車だもんね
アーバンネットワークの顔というかJR西日本の顔 >>716
確かに発展著しいね。
その代わり阪急・阪神・京阪は厳しくなったのでは・・・ >>717
717系と東海の373系、それほど変わりない気がする。 373系はテーブルあるしリクライニングするし吊革や広告ないからすっきりしてるし洗面台あるし
座席間隔広いし全然違う。 >>718
阪急京都線なんかは真っ向勝負を避けちゃいましたね
新快速も高槻・新大阪に停まるようにはなったけれども
>>720
実際に乗ってみると違いますね
何かにつけ資本主義臭が鼻につくJRCだけど車輌は案外ちゃんとしてる
185はホントに117と変わらないけれどもw 1973年10月まで
9時42分発の新快速京都行き
5分前に姫路を発車した寝台特急きりしまを追い上げ、三ノ宮では1分差に詰める。
ついに大阪で追いつく(10時59分着)。
大阪できりしまが3分停車するのを横目に新快速は1分停車で大阪を発車し京都11時29分着。
きりしまは大阪で新快速を退避した快速と同時発車し、京都到着も茨木、高槻と停車した快速と同じ11時36分。
夏休み中は毎日のように打出村踏切できりしまを猛然と追い上げる新快速を眺めていた。
三ノ宮から新快速に乗ってきりしまの追い抜きを見たいと両親に何度も頼んだが、小学生の訳の分からん頼みには聞いてもらえず。 >>721
>実際に乗ってみると違いますね
>185はホントに117と変わらないけれどもw
185に全く乗ったこと無い事だけはワカタ >>722
素敵なエピソード!
当時のきりしまって583系電車?
足の速い電車寝台が相手だったなら尚のこと痛快。 新快速の使用済みプラサボを持っているんだが、いつ頃のものだろうか。
西明石〜草津
白地で文字は水色 >>722
寝台特急を並走しながら追い抜く新快速に猛然とした速さを感じたんだろうけど
実際はスピードより乗り心地重視の寝台特急より新快速の方が僅かに速かっただけ
姫路・大阪間77分ということで表定速度は68.5キロに過ぎないんだからね
現に大阪9時30分発の新快速は2分後に出る特急はまかぜに追い越されるダイヤ
今はなき石屋川トンネルの上からは並走しながら抜かれる様子が見られた >>726
72年3月から80年7月まで新快速に153/165系が使われた当時のものだね
80年7月に置き換え終了した117系以降は方向幕が装備されたのでサボは存在しないし
初代のスカ色113系当時は確かグレーの地に黒文字だったかと 大阪駅を9時30分に出る新快速と9時32分に出る下りはまかぜは、9時45分頃に打出村踏切を並走していた。
その他10時30分頃に上りはまかぜの追い上げられる新快速が見られた。こちらは大阪駅に同時到着。
いつも新快速を応援していた。
優等列車を相手に疾走するブルーライナー時代の新快速は、小学生の俺にはヒーローだった。 >>724
きりしまは寝台電車でした。
583系か581系かは分かりませんが。
遠い西鹿児島から夜通し延々と走り、しかも途中の熊本から広島までノンストップで最後は疲れて新快速に追いつかれてしまったのかなと、小学生の頃は思っていました。 '86.11改正前までの内側線新快速ですが京阪間は普通と快速は待避していたのでしょうか?
>>603に書いてありましたが快速は京都発車後に大阪で新快速に追い越さるのみ? >>732
普通は高槻で快速と新快速の2本退避
103系時代は高槻芦屋間で逃げ切れないので
京都〜甲子園口と吹田〜西明石の串刺しダイヤ 失礼しました
快速については手持ちの時刻表を見ましたら大阪まで追い抜きはないですね
•新快速京阪ノンストップ期(‘78.10)
下り:京都を快速が新快速より7分早発で大阪に2分早着
上り:快速が大阪で新快速に追い越され(2分早着•2分遅発)で途中追い抜かれる事なく京都に到着(1本後の新快速は8分後に到着)
•新快速新大阪停車•快速高槻以東各停(’85.3)
下り:快速が京都14分早発するも大阪で2分早着
上り:快速が大阪で待避時分は変わらず新快速に追い越されるが途中追い越されず京都に到着(1本後の新快速が2分後に到着)
ただ普通の時刻表がないので‥どこで快速と新快速に待避してたのか教えてください。 >>733
そのために昼間の甲子園口・吹田間の内側線は1時間16本という過密ダイヤに
95キロ制限と合わせて新快速が大阪・三ノ宮間で鈍足になる原因だったが
普通の201系化でも解消されず逆に24分から26分にスピードダウンする羽目になった
>>734
普通が京都・西明石間で新快速を待避するのは高槻・芦屋・須磨の3駅 時刻表とネットから当時の国電ポケット時刻表(大阪&高槻)を調べて見ました
※C電はJTB時刻表大阪近郊区間の時刻表から所要時間を
大阪←吹田12分←高槻26分←→京都22分で計算しています
※快速の高槻到着時間は予想(停車時間を1分として)です‥
日中大阪→京都(10-16時帯)のパターン
===大阪発→吹田着→高槻着高槻発→京都着
新快速=00→→→→→→→→→→→→→29
=快速=02→→→→→→19=20→→36
=普通=04→16→→→30=37→→59
=普通=07→19===========
新快速=15→→→→→→→→→→→→→44
=快速=17→→→→→→34=35→→51
=普通=19→31→→→45=52→→14
=普通=22→34===========
新快速=30→→→→→→→→→→→→→59
=快速=32→→→→→→49=50→→06
=普通=34→46→→→00=07→→29
=普通=37→49===========
新快速=45→→→→→→→→→→→→→14
=快速=47→→→→→→04=05→→21
=普通=49→01→→→15=22→→44
=普通=52→04=========== 連レスですみません
日中京都→大阪(10-16時帯)のパターン
==京都発→高槻着高槻発→吹田発→大阪着
新快速00→→→→→→→→→→→→→29
=普通==→========38→→50
=普通01→=23=30→→42→→54
=快速08→=23=24→→→→→→42
新快速15→→→→→→→→→→→→→44
=普通==→========53→→05
=普通16→=38=45→→57→→09
=快速23→=38=39→→→→→→57
新快速30→→→→→→→→→→→→→59
=普通==→========08→→20
=普通31→=53=00→→12→→24
=快速38→=53=54→→→→→→12
新快速45→→→→→→→→→→→→→14
=普通==→========23→→35
=普通46→=08=15→→27→→39
=快速53→=08=09→→→→→→27 >>734
ここ
BBS_UNICODE=change
なので注意な 今となっては、京都から大阪まで、103系の普通にのって
録鉄しといてよかったよかった
103系が可哀そうなくらいに酷使されてる。
まあ、常磐快速の103系ほどでは無いけど
あっちは異常なくらい飛ばしたからね。 東京の二番煎じを嫌って急遽変更されたと言われる
変更が間に合わず1970年10月号の時刻表には特快と表示されてるが
看板だけはデカいが鈍足の通勤電車という中央特快と一緒にされたくなかったのかと
ただ初代113系新快速はダイヤクラッシャーで国鉄離れをさらに加速させたが ガキの頃、いつまで「新」なのかなとはよく思ってた。 関東住人にすると
新鮮の新かな
名古屋か大阪行かないと会えない種別だから 名古屋は新快速という種別をパクっただけでなく特快の下位種別に貶めたからね
関西の鉄オタからすればブランドを傷つけられて面白くないのが正直なところ あーそうか
中京では新快速<特別快速なのよね
μ鉄から乗客ぶん獲る作戦は成功したのだし
新快速に一本化しちゃえば分かりやすくていいのにね 祝・スレ10周年@鉄道の日
新快速は51周年(・∀・) 153系時代は京都大阪間だけやたらに速く、メーターはいつも115位を指してた。
認可速度は何キロ?
大阪三宮間はいつもノロノロ運転でノンストップなのに、途中駅停車の快速(中電)
と大差ないスピード。確か80キロくらいでかなりの距離を流してた。
神戸姫路間はまずまずの走りっぷり。
一度だけ前面のカーテンを開けて走ってたのに乗った。 メーター誤差あるんでメーター読み115なら実速107〜110ぐらいじゃないの 新快速が内線しか走れなかった頃の貴重なエピソードですね
大鉄の誇り >>750
当時の新快速が走行する線区最高速度は大阪・西明石間のみ95キロでそれ以外は110キロ
なので速度メーターが115キロを指してたというなら恐らく誤差だろうね
京阪間と阪神間での速度差は最高速度の違いのようにも思えるけど
実際は前を走る普通に頭を押さえられて徐行する区間が長いのが原因
大阪駅基準だと京都方面は8分前のものを吹田で、11分前のものを高槻で追い越すのに対し
神戸方面は5分前のものを甲子園口で、9分前のものを芦屋で追い越してたので 内側線の時は制限が多かったね。なんで空いている外側使わないのか不思議だったけど、外側使うようになるとすごく生き生きしている新快速であった。 新快速といえば何系?
ボクは223系が好きだったりするのですが邪道かな 俺はやっぱシティライナー117系かなぁ。
当時では車両からして特別感が凄かった。 俺は117系100番台だな。
0番台はハズレ、100番台ならラッキーみたいな感じ。 俺も153系ブルーライナー
外側線を走る優等列車とのデッドヒートが好きだった 初めて153系ブルーライナー乗ったときは感激した。
こんなに良い列車なのに特別料金が不要なこと。 やはり内線激走のブルーライナー強いですね
ボクは223系の何というか上品なオラオラ感(?)に惹かれるのですが 内側線時代の新快速が速かったのは全区間110キロで力行する大阪・京都間のみ
他の区間は遅延時の回復運転でもなければ70〜80キロ前後で流して走ってたけどね
なので下りは大阪、上りは三ノ宮で大半の客が降りてしまって大阪・三ノ宮間はガラガラ状態
全車冷房車なのと並ばなくても座れるという理由で新快速に乗ってた そうそうあの頃は快速は非冷房で普通に至っては吊り掛けバリバリ
そんな時代新快速凄い価値あった
その頃親の仕事の関係でおともでよく芦屋に行ってたが当時芦屋は新快速通過で恨めしい思いをした
吊り掛けサウンドもよかったけど >>763
釣り掛が残ってると15分ヘッドで新快速が運転出来ないから
昼間帯普通103系化と京都・甲子園口、吹田・西明石間の分割運転が始まったんだよ 新大阪通過が懐かしい。
今ではありえないからなあ。 当時の上り新快速、快速は芦屋で鈍行を抜いてから無停車で前が空いていたから大阪駅はそれぞれが3分ほど早着していた。逆に下りは京阪間で快速34分新快速29分が目一杯で大阪駅は遅延ぎみ、それでも尼崎あたりで先行の甲子園口行きにあたってしまうダイヤだった。
新快速は京阪間が29分阪神間が24分だったがそれぞれ30分と23分としたほうが妥当だったと思う >>767
京都と大阪両方0分、15分、30分、45分発にしたかったんだよ >>766
確かに芦屋・大阪間はかなり飛ばしてたが3分もの早着には遭遇したことがない
いくらダイヤ上可能でも当時の内側線は95キロ制限なのでそれ以上は出せない訳で 芦屋〜大阪が19.2キロ当時の快速で所定17分、それを3分早着だから14分、どんな計算すればいいのかわからんが95キロでもいけるんじゃない?
時刻表見ていると快速同士のすれ違いがさくら夙川あたり、新快速と快速がそのすぐ西側、そのすぐ西側芦屋駅の東あたりで新快速同士か >>770
ところで皆様は先行の快速が新快速の頭を塞いでいるのをお忘れで
快速が大阪到着2分後に新快速到着のスジが引かれているのにどうやって
3分も早着するのやら 快速がいつも早着していたのだよ。
上り普通の大阪着は03分06分、12分着の快速は前が空いていた 現実に起きていたことにどうやっても何も
ネタだと思っていたのならおあいにく様 時刻表み見てると新快速はラッシュ時は走ってなくて、外側快速が結構走っていてその停車駅は結構少ないな。京都〜明石間で現在の新快速に加えて茨木、元町、兵庫だけ、尼崎はない 快速抜く快速とかあったからな。
でその快速抜く快速には新快速の153系電車が使われていてしかも、12両編成の堂々たる編成なので、
6両編成新快速より堂々としてた。 快速の停車駅も当初は京都高槻大阪芦屋三宮元町神戸だし
山陽電車乗り換えで兵庫停車
新幹線乗り換えで新大阪停車
万博で茨木停車
乗降客が増えたんで六甲道須磨垂水神足西宮停車
普通廃止で山崎向日町西大路停車
東西線開業で尼崎停車
明石海峡大橋開通で舞子停車
と増えていく 長距離の客車列車が停車駅の少ない快速とは別に存在した、昭和40年代まで走っていた気がする。垂れ流し便所もそのまま使えたのかまで記憶にない 垂れ流し便所はそのままつかえたが、使用を控える区間の表示があったように記憶している。
つまり乗客の良識に任せていたわけだ。 ↑
京都と西明石の間
双方の矢印が表示されなかった トイレには“停車中は使用しないでください”のプレートがあっただけで区間指定は禁煙表示だったはず
当初は普通に合わせて京都・西明石間で後に草津・加古川間に延長された 愛知在住だけど一番好きな新快速車輌は153系ブルーライナー!
117系に置き換えになった時はガッカリしたもんだ
ただ一部の153系が新快速色のままで中京地区を走ってくれたのはうれしかった
でも、その中京移動組153も結局117系に置き換えられてしまったけどね 117系が出た時はブルーライナーがなぜ暖色系にと思ったけれども
流電色だったと知って感慨に浸ったおやぢ臭い小学生の我w
今年も全力疾走でヨロシク新快速 夏はブルーライナー色、冬は関西急電色と塗り替えたら良いのにと妄想していたチビてつの頃 それにしても
首都圏の中電はこっそり10連化が進んでいるのに(そもそも車両がアレだし)
終日12連化だなんて新快速すごいね >>786
京阪神間では一人勝ちといっても良いかもしれない。
全区間複々線は強いよね。 153系ブルーライナー色、好きだったな。
紀勢本線に165系が入った時は、113系と同じ色にして、ブルーライナーの気分が味わえると期待したんだが。 敦賀発の4連が播州赤穂まで直通するなら乗ってみたいと思うのだけど
(何しろ旭川〜稚内を上回る最長距離の特別料金不要列車!)
終点まで行くのは米原で増結される8連
赤穂線内の需要って意外にあるのね ブルーライナー色は青が絶妙。
あれより濃いと小田急紛いになるし、薄いと東武になる 153系に似合う渋い青ですよね
あれ当て書きだったんでしょうかね ブルーライナー色、関東で見れたらいいなって思っていたらなんと一時期実現した。
天オトから千ツヌへ転属してきた113系が千葉ローカルで使われたのだ。
我孫子駅で見た時は感無量だった。 ブルーライナー色、もう存在しないと思うと、悲しいね。
今の新快速をブルーライナー色にしとも十分かっこいいと思うんだよなあ。 >>793
1編成ブルーライナー塗装にラッピングしてみて利用者の反応を聞くのも良いと思う。 正面のハラマキ(?)が223系だと処理が難しそうだけれど
225系なら何とかなりそうですね(・∀・) ブルーライナーだったのは153系だけやん
117系ですでに違う塗装 その117系カラーも流電色の復刻ですしね(・∀・) 昼の1本が草津止まりになって
117系時代のように戻ってしまった。 >>793
関西行ったとき、ブルーライナーを初めて見てすごく良い色だと思った。
その後、天オトから113のブルーライナーが何両か千ツヌに転属してきた。
一時期千葉ローカルでその姿が見られ、我孫子駅で見たときは感激した。 岡山に流転したブルーライナー、マンション特攻後ATS-Pがあった関係で急遽京都に呼び戻されたが、琵琶湖バックに走る湖西線も合ってたな 1991年新快速停車駅
米原
彦根
能登川
近江八幡
野洲
守山
草津
石山
大津
山科
京都
新大阪
大阪
三ノ宮
神戸
明石
西明石
加古川
姫路 とりあえず、停車駅を減らせ
京都ー新大阪はノンストップ、芦屋も通過しろ 1978年当時の新快速
草津-石山-大津-京都-大阪-三ノ宮-神戸-明石-(西明石)-加古川-姫路
近江今津-安曇川-近江舞子-比良-滋賀-堅田-叡山-西大津-京都-大阪-三ノ宮-神戸-明石-(西明石)-加古川-姫路
西明石発着の場合のみ西明石に停車
京都⇔大阪 30分
大阪⇔三ノ宮 25分
三ノ宮⇔明石 20分
明石⇔姫路 27~35分 一方で普通列車は
(各駅)-京都-高槻-新大阪-大阪-芦屋-六甲道-三ノ宮-元町-神戸-兵庫-須磨-垂水-明石-西明石-(各駅)
六甲道/須磨/垂水は通過する場合があった。
京都⇔大阪 34分
大阪⇔三ノ宮 28分
三ノ宮⇔明石 25分
明石⇔姫路 40分
新快速は速いけれど,普通列車も各駅に止まる明石から西はともかくそれほど遜色ない時間で走っていた。 新駅が増えたからなあ
桂川、島本、JR総持寺、
神足がいつの間にか名前が変わっとるし >>805
「日和見」な
何を興奮してんのかわからんけど >>807
関西圏では普通列車と言えば1972年10月改正で消えた長距離列車を指すので
パターンダイヤに組み込まれたものは快速電車と言った方が通りがいい
ちなみに1978年の停車駅なら茨木が抜けてる
六甲道・須磨・垂水を通過するのは列車線を運転するもの
ホームのない須磨・垂水と違い六甲道はホームに乗車位置の準備がなされてたが
両駅利用者の反発を恐れてか民営化されるまで停車しなかった >>811
やな、京都ー大阪29分で30分を切ったと宣伝していた スーパー北斗の函館−札幌2時間59分と違って
全列車29分だったのだからホンモノよね 京阪特急
淀屋橋
北浜
天満橋
京橋
七条
四条
三条
丸太町
出町柳 阪急京都線特急(39分)
梅田
十三
大宮
烏丸
河原町 新快速は原点に戻ってほしいな。
高槻、新大阪、芦屋、神戸、西明石は通過。
その代わり、現在の新快速に当たる準新快速を新設する。 >>818-819
ここは鉄道懐かし板の思い出を語るスレだからスレチの妄想ネタは他の板で >>818
バブル期にスーバー新快速と呼ばれる停車駅を絞った種別案があったが御蔵入りしたからな
高槻が外側線ホームとなった時に普通・快速との乗り継ぎの関係で茨木に新快速停車させる動きがあったな 新快速初期は,普通列車が今の新快速相当の停車駅(>>807)だったのですがね。 >>821
それより前の1979年にも新快速のスピードアップ計画が新聞報道されたことがあるから
列車線に移しての高速化は国鉄時代からの悲願だったようだね 国鉄時代は大鉄の悲願ですね
アーバンネットワークは分割民営化してよかったねと言える数少ない区間な気が酢 昼に外側走っていたのは北陸急行(山科~大阪)と山陰方面急行(大阪~姫路)と
あとは貨物くらいですか 90年代前半の大山崎での阪急京都線特急6300系と新快速221系のバトルが懐かしい >>824
国鉄時代、通勤時間帯は外側線を使えば効率よく増発できただろうが、ほんの数本しか使われていなかった。
当時はなぜだかわからなかった。 >>827
朝ラッシュの上り列車線は1966年10月から快速電車用に開放されてるけどね
そのために芦屋・高槻両駅の退避線へ列車線から直接入れるポイントが設置されたので >>814-816
JR新快速 大阪─京都 29分
阪急京都線 梅田─河原町 39分
京阪特急 淀屋橋─出町柳 54分 >>829
大阪と梅それぞれそれぞれ立地が離れているから、所要時間だけで利便性を語ることは出来ないと思う。 訂正↑
大阪と梅田以外は立地が離れているから、所要時間だけで利便性を語ることは出来ないと思う。 京阪はノンストップ区間の京橋ー七条で比べるべきか?
それとも、河原町=四条で比べるべきか
まあいずれにしても、カーブの多い京阪が一番遅いのは明らかなんだが 京阪を頑張って阪神と直通させることが出来たら便利だと妄想していたが、
まさかの阪神と近鉄の直通。
車両の規格からすれば京阪の方が良いと思ったんだけどね。 京阪神では新快速に勝るものなしだもんね
奈神とか伊神とか、果ては伊姫とかのほうが勝算があるのかも >>835
そりゃ近鉄の方が路線網が広いし、奈良なら方面との直通ならJRとも被らないし、良いことづくめ
それに京阪やと、JRと阪急京都線(同じグループ)とも被ってメリットは少ない。
理想はアーバンライナーが三宮〜奈良で定期運行出来れば良いが、阪神の路線が貧弱すぎる
改良工事と高架化で速度アップも出来るだろうけど、果たして…
京阪は中途半端過ぎる上に、さらに中之島線とか中途半端な路線を作って、意味不明
まだ鉄ヲタの妄想の方がマシな路線計画を立てるぞ コストやら許認可やら諸々で引きたいように線路引けるわけでもなし路線ネットワークの成立なんてかなりの部分は成り行きでしかない
本当に必要な路線はあってしかるべきって言うならエイトライナーもメトロセブンもとっくにできてる でも中之島線の中之島止まりは必要ないやろ
せめて西九条まで伸ばすとかしないと
案の定、ガラガラで当初直通を多発していた快速急行も取りやめたし、
挙句の果てには列車で居酒屋とかやって客寄せるしか策がない >>838
もう一歩進んで、かつて大流行したノーパン喫茶を始めるのはどうかな? ここは主に国鉄時代の新快速についてのスレ
近鉄だの京阪だのの話はスレチだからよそでやってくれ 1924年復刻版時刻表が売っていた
(下関~)岡山-姫路-加古川-明石-兵庫-三ノ宮-住吉-大阪-京都
(下関~)姫路-加古川-明石-兵庫-三ノ宮-住吉-大阪-京都-(山科)-大津-石山-草津-近江八幡-能登川-彦根-米原(~東京)
という新快速の原型のような普通列車がすでに存在していた 阪和線の新快速だが、鳳のみ停車で阪和間45分をリアルで体験した57歳だ。
当時キハ82系くろしおが阪和無停車でほぼ同じの45分だったので(きのくには48分)、電車の優位性を実感した。
その優位性は53年10月紀勢線電化でも実感する。113系普通が58系きのくにと和歌山〜御坊、田辺間の
所要時間があまり変わらなかったのだ。。 阪急神戸線が山陽電車と直通運転やめたのっていつ頃?
80年代のような気がするけど、はっきり覚えてへん >>847
1998年2月に阪神梅田・山陽姫路間に直通特急が走り出した時に中止された 【大山崎】JR新快速vs阪急・山陽 併走バトル【山陽明石】
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/rail/1564636030
JR新快速 vs 阪急京都線特急 大山崎の戦い、JR新快速 vs 山陽直通特急 山陽明石の戦いについて語れ! JR新快速 223系 vs 阪急京都線特急 9300系 併走バトル 大山崎の戦い
https://youtu.be/OJm7yhGKLqE
JR新快速221系 vs 阪神8000系 直通特急 併走バトル 山陽明石の戦い
https://youtu.be/RndHfFbTJQw
JR新快速 vs 山陽直通特急 山陽明石の戦い
https://youtu.be/JV7KOEThnfk リアル電車でD!? 新快速が阪急9300系と並走中!ミュージックホーン有り
https://youtu.be/0ilP9wa_62E
阪急9300キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
2:25~ >>848
ライバル同士が同じ線路を走っておもろかったんだけどねえ。
でも今ではどちらも同じ持ち株会社の傘下に入っているとは・・・
時代の流れを感じるね。 ホンマは阪急は山陽ではなく、神戸市営地下鉄の山手線に乗り入れる計画やったんやろ
神戸市が無能すぎた
挙句、海岸線とか作って赤字垂れ流しやし 阪神と近鉄の直通は快挙だったな。
青帯と近鉄の車両の離合なんてかつては考えられなかった。
時代は変わったなあ。可能なら、青帯が近鉄奈良に乗り入れて欲しい。イベントでも良いから! >>854
鉄ピク11月号は阪神青帯特集号ですごく詳しい内容だよ。
ジェットカー好きなら一読をお勧めする。 当初は特別快速にする予定だったが東京の二番煎じを嫌う大鉄局が急遽変更した
ただ時刻表の変更が間に合わず70年10月号のみ特快と表示されてる 中京地区は東西文化の入り交じるためか、新快速、特別快速双方あるのがすごいね。 あれ古のμ鉄の高速みたいで分かりにくいですね
そして注目>>1 >>856
なぜ「特別快速」でなければおかしいと思うのか。
結局、脳内の常識や固定観念なんてものは、個々の思い込みに過ぎない。
実際の理由は別にしてもな >>847-848
山陽と阪急に確執が出来て解消に至ったのは
六甲事故が遠因だと昔から噂されてるが、
いちおう一因であることには間違いないのだろうか? >>863
あの当時既に山陽電鉄直通が6両編成に限られるのがネックになっていて
直通の縮小化が進んでいたから一因にもなってないと思う >>864
しかし火のない処に噂は立たないと思うのだが。 >>865
煙は立たないと言うが実際はそうでもない >>865
「付け火して煙喜ぶ卑怯者」という言葉もあるよ もそもそ阪神と阪急が同じ会社になっちゃったしね
束になってかかるしかないほど強力になった新快速がやっぱりすごい 阪急阪神の経営統合なんてもう四半世紀前だからな
リアルお子ちゃまだと知らないだろう ブルーライナー塗色は’72年登場時どんな評判だったんだろう。かなり思い切った色合いだと思うし。
その後同系的な関西線の春日色も出てきて、大阪や天鉄沿線はあの2カラーのおかげで?
昔から我が街、地元色の濃い記憶が植え付けられてる。。 新車だと思った人も少なくなくて子供にも人気があったようだけどね
特に夏場は全車冷房車というのもインパクトが大きかった 底運の153は面白い顔つきに見えたけど、あの色のインパクトが強かった 当時の小学生は153系低運転台車を“垂れ目”高運転台車を“上がり目”と呼んでたw あのタイプで低運転台車が有るのは、153系・401系・421系だった。 考えてみれば117系シティライナーって、あの当時(79年?)の国鉄の台所事情でよくあんな
オリジナルなもの作れたなとも思うな。。 >>878
185系と類似した部分もあるから、設計にはあまり手間がかからず、手っ取り早かったのかも 大鉄局は117系投入に合わせて外側線による120キロ運転を計画していたようで
前年秋に大阪・京都間25分・大阪・三ノ宮間20分にすると新聞報道されてた
結局本社に相手にされなかったようで実現は民営化が決まった6年後になるんだけど
京阪間25分は新大阪・高槻の停車もあって130キロ運転になった今も実現していない 京都大阪29分でも十分インパクトはあった
両駅の発車時刻が00、15、30、45と時刻表を持たなくても分かり易いダイヤ 現行で充分だが仮に京阪間25分を実現しようと思えばもっと加速よくしないと
あと駅通過時に手前110制限が多いからその改良も必要だな >>883
外側線の閉鎖しているホームは速度制限掛けることないような気がする。 >>884
ホームの分膨らんでカーブしてるんで110制限の駅多いよ ブルーライナー153系、シティライナー117系、130q223系とエポックな車両たちだが
221系新快速はちょっとタイミングが悪いのか陽の目を見ない・・・。
JR西自慢の新型近郊車両だったが。 >>886
んなことないでしょ、221は新快速としてはもちろん、大和路快速としても新風を吹き込んだ
未だに使われ続けてて飽きられて陳腐化してるように思われてるだけで
3扉転クロ、車内のLEDボードによる案内など、当時としては最先端の洗練された技術が結集された車両だし JRになって程なく221系が現れたときは敗北感がすごかった関東民のワイより
あの外観は223にも受け継がれたしね JRになって最初の新型が特急用車両じゃなくて221系だったことからも
力の入れようがわかったってなもんだ 221系が現れたときは新しいJRを感じたものだ。
ただそれ以降、各線同じような塗色なので、もう少し個性を出した塗色がほしいかも・・
かつてのブルーライナーや春日色みたいな。 手本になった近鉄5200系、ああいうスタイル、アコモが通勤優等列車の最適解だとそれ以前のガキの頃から
常に描いてた(後だし須磨そ) 流電の流れを汲む国電の・大鉄の新快速が
一気にJRの・Urban Networkの新快速になったよね >>890
227の赤色と緑色は良いなと思った
あと、阪和の223、225は海の色と空の色をイメージできててなかなか良いと思うんだが
本線がちょっと没個性になってるね
大和路線(奈良線)も221にオリジナル塗色入れても良い気はするね 221系のMT比1:1は徹底していてスゴイなーと思った。
他車では見られない2M方式=221、1M方式=220という付番が斬新だった。 >>890
気持ちは分かる
でも当時、白基調のカラーリングは本当にまぶしかった
平成の幕開けにふさわしい輝きがあった 国鉄時代は全国画一で個性がないと言われたが
各社の標準色に集約されて同じ事になってるだけなんだよなw >>897
でも西の単色塗装はなんとかしてほしい色もあるね。 >>898
かつての京阪神緩行70形茶坊主を彷彿とするのもある。 単色塗装は標準色ではないんでない?
劣化色は茶坊主に遠く及ばない >>899
茶坊主はちょっと不気味な感じがした。食パン型の車両だと茶色に違和感はないけど、
車両にはそれぞれ合った塗り方があるのを感じた。 賛成
そんなに複雑な配色でなく、合理化に反しない
支障ないと思うけど どうしてやめちゃったんだろ
シンプルにしてスマート
これほどまでに素敵な配色があっただろうか 153系時代は京阪間"だけ"速かった。多分スピード違反だろうけど常時に115km/hくらいは出してた。
しかし大阪以西は急に遅くなってずっと80km/h程度。大阪−三宮は無停車24分と特に速くはなかった。
むしろ普通(各停とも呼んでた)の103系110km/h運転(性能以上に無理してたはず)のほうが印象が強い。 阪神間は内側線のみで1時間16本運転の区間が京阪間より長かったのと
京阪間の110キロ制限に対して95キロ制限だったことが大きい
その後、普通に201系を投入して高槻・芦屋間を逃げ切るダイヤにしたものの
阪神間では完全に逃げ切れず大阪・三ノ宮間は24分から26分にスピードダウン
そんな体たらくだったから当時は阪神間で国鉄に乗る人は物好きだとバカにされた 所要時間だけにこだわるなら国鉄時代からずっと国鉄優位は変わってないので
それ以外の要因で乗客にソッポ向かれてたのね >>878
東京設計局主導で無かったのが歴史的転換点だった まず昭和51年に空前の運賃2倍値上げ。
117系登場時で京都─大阪が阪急京阪250円の時代に国鉄は特定運賃を設定しても510円だったから、ら話にならない。
しかも新快速はデータイムのみの運転。 まず昭和51年に空前の運賃2倍値上げ。
117系登場時で京都─大阪が阪急京阪250円の時代に国鉄は特定運賃を設定しても510円だったから、ら話にならない。
しかも新快速はデータイムのみの運転。 臨時普通列車のびわこ号、近江路号は
草津から西で内側、外側のどちらを走っていたのでしょうか。 >>910
あれはすごかったね。
料金表を見て腰を抜かす人が続出していた。 何でデータイムしか新快速が走らなかったかといえば、
国鉄は通勤定期の割引率が国策で大きく通勤ラッシュだけは混んでたから。
当時外側線には足の遅い貨物列車や荷物列車、長距離夜行列車が大量に走っていて
内側線だけでは退避駅が少なく、ラッシュ時には新快速の速達性を維持できない。
それで貨物・荷物が大削減されるまで朝晩は2本つなげて快速という時代が長かった。 新快速は確かに速い
京都-30分-大阪-24分-三ノ宮
が、普通列車も遅くない。停車駅は京都,高槻,茨木,新大阪,大阪,芦屋,六甲道,三ノ宮
京都-35分-大阪-28分-三ノ宮
今は普通列車が遅いので新快速が混雑する >>910
初乗りは30円から60円と2倍になったけど全体では1.5倍(50%)の値上げ
それに京阪間の特定運賃も510円じゃなく410円だった 新快速
という名前が大阪人的発想だなと感じる
新喜劇、新大阪、新神戸、新疋田、新垂井とすぐ頭に新を付けたがる >>921
神戸も疋田も垂井も大阪じゃ無いよ
知ってて言ってるのなら余計に間が抜けている 首都圏に来れば、新木場も新浦安も新小岩も新柴又も新大塚も新板橋も新中野も新代田も
新国立劇場も(旧)新高輪プリンスホテルもホテルニューグランドもありますしね 113系しか乗ったことなかったわいが初めて新快速に乗った時の
宙に浮いてるのか的な感覚とかわかるやついる? 113系からの117系ならそんなに違わないのでは?
あ、221系か 113系の新快速
103系の普通(緩行)
大鉄はアツかったですね 新快速が設定される直前の快速・緩行ってどんなダイヤパターンだったんだ?
快速は復刻版時刻表に載ってるけど緩行は資料さっぱりなくて。
なんで内側線だけでダイヤ完結させてた時代に快速・緩行とも10分間隔にせず
新快速という発想になったのか? 昭和43年10月のダイヤ改正でそれまでの快速20分ヘッド普通10分ヘッドから
普通・快速とも15分ヘッドに吹田・甲子園口間の小運転が30分ヘッドで加わる形に変更
昭和45年10月に万博号用のスカ色113系を利用してデータイム1時間ヘッドで新快速を設定
茨木への停車で快速の所要時間が延びたため競合私鉄との競争力確保が設定理由
しかしパターンダイヤを崩して設定したため快速・普通の運転間隔がランダムになって不評を買った 113のは石屋川の土手で初めて見た
ヘッドマークになんて書いてあるかわからなくて
しばらく謎電だった 5月21日発売の鉄ピク7月号は新快速特集だ。
本屋へ急げ! >>938
昭和元年に走り出した列車が昭和54年も残ってるのと同じなんね それを言うなら大正14年。
54-1=53なんだが。 >>935
関西の主要書店では軒並み完売してるので急いでも入手できません 新快速は設定当初の停車駅に戻してほしい。
あるいは新快速の上位種別を新設で「京都〜大阪〜三ノ宮〜明石〜加古川〜姫路」に。
京都以東もなるべく少なく「草津〜近江八幡〜彦根〜米原」でいい。 各鉄道会社、優等列車の停車駅を増やすのがデフォになった感がある。 関西は今後も人口減に加えて少子高齢化が進み通勤通学需要の減少が見込まれるからね
新駅設置と優等列車の停車駅増で需要を掘り起こすしかない 新快速は「大阪の次は京都」
阪急京都線は「十三を出ますと大宮(前アクセント)まで停まりません」
こんな時代はもう来ないのですね 平成初頭は昼間のみ高槻停車で、大阪を出たら三宮まで止まらなかった。
京都・大阪間29分、大阪・三宮間19分。
最も驚くべきは117系6連で客を捌けていたこと。 >>933
設定当時は新快速不要論まで出てたぐらい散々だったからな 国鉄の新快速は京都・大阪ノンストップ
京阪と阪急の特急は両ターミナル寄りの数駅は各駅に停車 関西圏の電車の車体色が画一化しているのが気になる。
ブルーライナー色、復活しないかなあ 京阪特急・新快速・阪急特急にそれぞれグリーン車的な特別車両が連結される様になるとは夢にも思わなんだ
1970年代初期までは湘南色113系快速にグリーン車が連結されていても東横線Qシート以下の回送状態だったのに >>957
1等車のころやグリーン車初期までは乗り継ぎしてもグリーン券を通算できたのでお得だったが
それ以降、列車ごとに支払うことに変わったので横須賀・東海道本線以外では渋くなった 昭和47年のグリーン券の要点
・急行列車用と普通列車用と船室用がある
・急行列車用は普通列車でも使える
・計算方法,有効日,途中下車の可否は乗車券と同じ
・乗り継ぎをするときは通算できる
・こどもは半額
急行用
200kmまで800円 400kmまで1400円
600kmまで2000円 以降400kmごとに600円加算
普通用
20kmまで100円 40kmまで150円
60kmまで200円 80kmまで250円
それ以上は300円 昭和53年だと
・急行自由席用は2日有効/普通列車用は100kmまでは当日限り,それ以上は2日
・下車前途無効
・1列車限り有効で乗り継ぎ不可(新幹線は途中下車しなければ可)
・こどもは同額 >>957
金払ってでもおすわりしたい輩が増えたのよ レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。