【愛されて】新快速の思い出【40年】
京阪神のスピードスター、新快速の過去・現在・未来について語り合いましょう!
※名古屋地区の新快速の話題は禁止 153系と117系も併結は可能だったようだか、営業運転では153系と117系併結の
新快速や快速は見られないまま、153系は引退した >>200
ネットで拝見しましたが
リバイバル新快速は湘南色113系だったのですね。
ヘッドマークは当時のモノっぽいですが
どうせならスカ色にしてほしかったです。 ブルーライナーの頃は確かにカラーリングは格好良いと思った
でもそれ以降は全然ダメ、中でもシティライナーの色は暑苦しくて最悪だった 153系新快速、京都〜大阪は速かったけど三ノ宮〜大阪は鈍足だった印象 新快速の窓に新聞挟んで開けっ放しにするオッサンがいてこわかったな 敦賀延伸当時休日に存在した敦賀発米原経由播州赤穂行き(敦賀発の4両全区間直通)に敦賀から播州赤穂まで乗り通したのはいい思い出。
土休日全12連化された今はもうないのかな。 >>203
ボックスシートでデッキ付の153よりは転クロの117の方が接客面じゃ色々進化してると思うけどな
確かに色は暑苦しいし木目調の妻面は更に暑苦しかったがw 鷲羽とか比叡とか北近畿とかくろしおとかに117系が使用されなかったのはなぜ? 昔は大阪〜三ノ宮ノンストップだったっけね
芦屋に停まる時に金持ちが多く住んでるから優先されて決まった、
などという埒もない話になったな。 爽やかな感じのブルーライナー
関西急電の伝統が甦った117
どっちも良いと思う
1980年頃の新車から内装が寒色→暖色に変化したのは、冷房の普及が理由だな
厳密には多少のズレがあるし、153は早くから冷房付いていたけど
非冷房で赤や茶系の座席だと、暑さ倍増だった 113系新快速について
・スカ色から湘南カラー
・冷房化
されたのはいつ頃でしょうか? >>213
117系はクーラー1台しかなかったから暑かった
気がする 新快速で雷鳥やフレートライナーを追い抜くのは楽しかったよ。
特に駅を通過するときが。
車内には交通科学館と交通博物館のポスターがあり、車販もあり、西日本と中部日本の路線図もあった。
関西線の113も含め、大鉄にしては斬新なカラーリングだった。
カラーも「新快速」も大鉄局の創案だろう。
確かに揺れたけど、かえってスピードを感じた。
当時の東日本では同じ車両に急行料金を支払っていたんだから、無料で乗れるブルーライナーは偉大だった。
新快速運用に就けた車両は左遷ではなくむしろ出世だったんじゃないかと思う。
大型のヘッドマークを誇らしげに掲げ、朝の駅では切り離し作業とヘッドマークをめくる。
今の時代と比べるやつはバカだ。
もしくは可哀想なのかもしれない。 どう考えても左遷だろ
百貨店のスーツがしまむらで売られているみたい 左遷とは思わんがな。
S47年に全車冷房化。
大阪では「老朽化」という口実で117に置き換えられたが、
その老朽化した車両がその後も他地区では重宝されて、再び有料列車に使用されてる。
80年代でも急行東海では非冷房車が走っていた。
話は変わるが、当時の阪急も6300の停車駅は少なかったが、今では急行並み。
時代が変わって高槻や茨木のベッドタウン化が進んで利用客が増えたんだろう。 >>216
>>218
京阪神間で時速100キロしか出せない内側線を走って果敢に120キロの外側線に挑んだ
あの懐が厳しい時代の大鉄局を知っていればこそやわな。 00・15・30・45
東京などではあり得ん、画期的なこと。 >>219
ブルーライナー当時の内側線は大阪以東110キロ制限、以西は95キロ制限
ちなみに外側線は大阪以東110キロ制限、以西120キロ制限
いくら急行型車両でノンストップでも最高100キロで京阪間29分運転は無理 銀行の営業時間みたいに早じまいだった新快速
京都発16時30分大阪行きが最終、29分では走れず33分運転 大鉄局の意気込みが今の223系、225系につながっているんだろうね。
関東では真似ができないグレードの車両とシート。
例えるなら、185系が無料且つ15分ヘッドで東京ー横浜間を20分くらいで・・
不幸な話だけど阪神震災後、最初に復旧したのがJRで、その時に一気に阪急・阪神の客がJRに流れた。
それだけならまだしも、その客たちがJRの新快速を覚えてしまい、そのまま定着してJRの一人勝ちの構造ができた。
大鉄局の戦術は間違えなかったんだよな。 153系新快速はS47年からS54年春までの、今思えば7年の短い生涯だっ
たが、やはり大きなインパクトは1両に1ヶ所ずつのトイレと洗面台、大きな
アルミ製のゴミ箱、そして極め付きは何といっても車内壁面化粧板の薄パープ
ル色がとても高級に思えることだった。編成先頭にたまにクハ165が入った
ものが有ったが、化粧版とTR69台車がイマイチだったので、153の方を選
んで乗っていた。無くなってから37年がたった今でも、カッターシャツの薄
パープルを買って着ながら、高級感を思い出して懐かしんでいる・・・・ 新快速の話でなく、153系の話でスマソが、昭和55年頃、大阪の近
畿車両の工場敷地で廃車となった車の解体場でアルミサッシを拾って
本当に驚いたことであるが、アルミ枠の中身は空洞と思いきや、実は
窓枠と同じ形の木枠が入っていたことだった。(換言すれば、窓枠を木
で作ってアルミで包装してあるような形だった、実に凝った作りだった
)だから他の113系などのようにガタピシといわずに静かに走行して
いたのだろうと思う・・・ 電車でも結構木材を見かけたよね。
東日本に残ってる583系も化粧板の間から木材が見えてる。
当時は資材が潤沢ではなかったのと、大工の腕が良かったんだろうね。 >>222
かりに西明石行きだったら、29分運転にして大阪1700発だったんだろうねえ。 大阪17時04分に同時発車する2本の下り快速があり、明石方面へは件の新快速から大阪駅で内側快速、芦屋駅で外側快速と乗り換えるのが最速だった 大阪17:04の同時発車あったよな。
外側線は岡山行きの113系宮原車だった。
宇野線への送り込み。
尼崎駅でよく待っていたが、きれいに並んで通過していくことは少なかっただけに、
ツラが揃って通過した日には感激した覚えがある。 夕方の岡山行の返しが朝の岡山発上り快速大阪行だったかな?
G車がなかったような記憶がある。 こんな記事を見つけた。
ttp://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161009-00139263-toyo-bus_all 記事にある117系の時代に雷鳥と並走するダイヤなどなかったはずだが >>230
俺の持ってる1973年の時刻表では
外側線は備前片上行きになってるな。
西ノ宮に停車するので芦屋駅では内側線快速よりも
3分遅れて発車している。
その後は須磨、垂水を通過するので
西明石には逆に1分早く到着。
なかなか面白いスジだな。 そういえば外側線の快速には
横線縞々の意味不明なHMがついてたな。 三本線のマークはいろいろ呼ばれてたけど、
踏切でカメラを持ったオッサンが「ボウズ」って呼んでたのが耳に残ってる。(@関西)
一般的、あるいは正式にはなんて呼ばれてたんだろうか? 急行用のHMなのに
快速だから「ボウズ」なんだろうか… 魚釣りでも坊主って言うと・・・ だよね
外道ってことかな 鷲羽や比叡、東海のHMでも快速、各停運用では横線縞々だった
山陽や安芸のHMは白地面を掲出してたな 今風に言うと、ネタ列車が「臨時」幕で走るみたいなもんか。
カメラ構えて朝から待ってたら、なんだよボウズかよって感じ。
当時の撮り鉄の無念さを表す言葉が「ボウズ」ってことか。 >>240
いや別に無念でもなんでもない。
定期列車の快速が来たと思ったら
変な三本線のHMつけてた…くらいの感覚。
当時は撮影するのがめんどくさい程
優等列車が次から次にやって来たから。
EF58の旧客夜行急行とかも
「地味」とか言ってパスしてたくらい(笑)
今思うともったいない。 あの頃はフィルムだったから今みたいに撮れなかったよな。
オレは一回の撮影でフィルム1本(36枚)だったから、無駄撮りしたくてもできなかった。
ケツにマニ37をぶら下げた急行雲仙なんて、最終日しか撮ってないわ。 当時はフィルムもプリント代も高かったね(特にカラー)。
関西在住の俺が当時撮影しないでスルーしたのは
急行「雲仙」「日南」「西海・べっぷ」「桜島・高千穂」
「但馬・みまさか」など多数。
もちろん新快速や三本線の快速もスルーした。
ああ、もったいない。 やっぱ新快速の新の元ネタって
吉本の新喜劇と同根で、
新って付ければお客は食いつくだろ的な
銭が一番なんでもええねん銭よこせや
という命より現金という大阪人的な単純発想だったの? 新幹線の終点、新大阪を無視する大胆な設定だったから、「新」をつけたんでは〜?
京阪だったら、京橋すっ飛ばすようなものだろ。 あの頃の優等列車って入線の際に ◯◯からの寝台特急◯◯みたいでかっこ良かった。
都城からの寝台特急彗星号新大阪行き みたいに。
特急の類いはマークがあったから写真を撮っても見栄えしたけど、
58が引く座席急行やキハ58の類いは後から写真を見ても列車名がわからないよね。メモ必須。
あの頃は58の引く座席急行よりも荷物列車の方がよほど魅力的だった。
その点新快速にも花を感じた。
なぜかシャッターを切ってしまったよ。
とくに混色が好きだった。
被写体としてはブルーライナーが一番すき。 新快速ブルーライナーが登場した時は
革新的だったなぁ
共通運用だったのか急行「鷲羽」や「とも」まで
ブルーライナー塗装だったのは
当時残念に思いました。 >>249
それ昭和47年の新快速増発直前だけの話ではないのか
その後も残った「鷲羽」が新快速と共通運用だったとか聞いたことないが >>249 >>250
確かに250氏がおっしゃるように新快速設定直前、廃止直前には混合色編成
が有りましたが、あの固定6両編成そのままを「鷲羽」に共通運用された記憶
は有りませんね。249氏自信はそんなつもりはないのに「共通運用」の文字
を使用されたのであんな捉え方になったと思います。 >>251
前出の文章に誤りがありました。新快速設定直前、廃止直前
→新快速設定直前、廃止直後 でした。スマソ。 台車の点からも快適に乗っていた153系だったが、クハ165だけは新しく
ても乗りたくなかった。あのTR69台車が何かとフワフワとした縦揺れを伝え
て来るのが嫌だった。153系の老朽化に伴い、165系3両×2組に置き換
わったらどうしようと悩んでいた。 昭和59年頃の紀勢本線の各駅って新快速塗装だったよね?好評につき紀勢本線も塗っちゃいました、みたいな感じ?和歌山ミカンを考えると紀勢本線こそ湘南色かと思うが中央に従いたくない関西の意地、か? 1978昭和53年まで阪和線新快速車両を
1978昭和53年の紀勢本線電化と同時に天王寺〜紀伊田辺、御坊間を直通する、
快速電車に転用したから自然でないか? 快速と数kmにわたり、通過駅を挟んで離合しながらジワリジワリ追い抜いていた頃が楽しかった。
夕方芦屋を通過してた頃まで見れたような。
京都線はまだ見れるのかな? >>256
神戸の西部では今でも結構見られますよ、ぜひ来てください。 子供の頃、153系新快速に湘南色が組まれた混色編成と、
113系のグリーン車込みの快速編成に阪和線のブルーライナー色(冷房車)が組まれた混色とが走っていて、
子供ながらにややこしいと思ったよ。
混色、グリーン車込みの急行比叡もあったし。 >>250
そうですね。ごく短期間でした。
>>251
多分その通りです。
私は小学生の撮り鉄だったので
詳しい運用までは知りませんでした。
でもブルーライナー色の「鷲羽」「とも」の写真は
何枚か撮っています。
その頃、新快速はスカ色113系だったので
増発直前の時期なんでしょうね。 >>257
ありがとうございます。足をのばしてみます。昼間の爆走もいいですがラッシュもアツイですな そういえば1978年の今頃、立花ー甲子園口間でフレートラーナーが脱線転覆。
辺りの道路や公園の一面にみかんがばらまかれており、それを袋につめるおじいちゃんやおばちゃん達・・
原因は前日の保線時にバラストがちゃんと詰まっていなかったとか。
近所だったから見に行ったけど、EF66の数百メートル先にブルーライナーが止まってた。
おそらく追い抜いた直後に脱線したんだろうけど、状況次第では新快速も巻き込まれた可能性があったのかもしれない。 >>261
あの脱線にはびっくりした。丁度大阪から摂津本山の学校に通っていて、午後
3時頃校舎に在学中だった。その日はどうやって大阪まで戻ったかは覚えていな
いが足止めされた記憶が無い・・・ いつも乗っている快速と外側線は高砂工場
から出たばかりのキハ82系尻切れトンボ編成と追い抜きごっこをするー武庫川
を渡って立花駅へ降りて行く大分高台の土盛り高架上だった。本当にヒヤッと
した。今では鉄道事故としてマスコミが後日まで相当うるさいが、当時は夕方の
ニュース程度でサラッと流していた。 >>262
阪急岡本から帰ったんとちゃうの?
阪神間は少し歩けば代替路線あるから
国鉄が止まっても全く困らん。
ちなみに灘高でっかw 数年ぶりに摂津本山で降りたら、まぁ綺麗な駅舎になりましたね
灘なら住吉では?甲南大学かな >>264
ご名答! しかしあの日はどうやって帰宅したのかは覚えていない。当時は
2〜3日 転んだコンテナ車が放置されていたことは覚えていた。その横を
車窓越しに走って帰ったことは記憶にある。事故当日だったのかな。「ただ
危ないな」としか思わなかった。いま思い出すと怖いな。事故後すぐに翌日
でも正常運転していたように思う。 連投スマソ 当時は153系が大好きで、大阪〜本山へ行くのにわざわざ乗り
越し運賃を払って一旦、三宮まで行ってから上り各停で本山まで行っていた。
僅か7年のブルーライナーであったが、とても斬新な列車に思えた。まるで
昨日のことのように思い出す。54年春に117系に変わってからは、転換
クロスシートで目の前に他人の頭があり、狭っ苦しい、車内壁面は茶色で厚っ
苦しい、まるで観光バスに乗っているようで堪らなかった。あれから本線用・
関西空港用に225系等がでたが、20年以上走ってもらっても愛着が湧かな
い。1ボックスで全く見知らぬ他人と相席で向かい合っても広々とした車窓
を堪能できた153系が懐かしい。 >>265
あの事故の当日は東京口のブルトレも全部運休だったから翌日以降かと。
いまあれをやったら大変だね。
枕木の浮いたレールを旅客も走ってたんだよね。
やっぱ貨物は重たいから線路に不具合があると脱線しやすいのかな? >>266
わざわざ三ノ宮迄乗るということは芦屋通過の新快速ということか?
きちんと1時間目から学校行けよ さすが金持ちの甲南のボンボンですなw
当時は阪急、阪神の方が運賃安かったから
国鉄は敬遠されていたのに。 今は知らんが、かつての甲南といえば電車よりも赤いスポーツカーとかに興味がある人が多いようなイメージなんだがww >>230
新快速でも新快速用の車両でもないが、舞子で大阪方面の各停を待っているときに、
西行きの電車線の快速と列車線の快速が面を並べて同じ速度でやってきて
そのまま通過していったのを見たときはちょっと感動した。
国鉄からJRに変わったころだったかな。 ブルーライナー登場時、真ん中に153系新快速の
イラストが入った運転記念スタンプが各停車駅に置いてあった。
みどりの窓口にはブルーライナーの写真入りの切符入れもあったな。 先頭ホロのついていない新快速も、そのうち思い出になるのかな(泣) 新快速の話から逸れるけど許して・・ 新快速153の中吊り広告に「ひらか
た大菊人形」とか「阪神競馬」とか有ったが、新快速運用の引退後の昭和56
年に153系に乗りたさに、懐かしさに山陽地方へ旅行に行った時に広島〜下
関間の153系の吊り広告にも「宇部大菊人形」とか「徳山ボート」「山陽オ
ート」が有ったのにはワロタ。そこまで思い出させてくれたのには・・・ 余分な連投でスマソ 思い出して懐かしいのでクグってみたら 「宇部大菊人
形」は平成8年に「ひらかた大菊人形」は平成8年12月に無くなったとあっ
た。昭和57年に消えた山陽の153系も、吊り広告もそんな昔の話なんだな
ァ・・・ 上記の文の訂正です。入力間違いスマソ。「ひらかた大菊人形」が無くなったの
は平成17年12月でした。 当時の阪急や京阪は吊広告などなく一枚上の格調高さだった 阪急は宝塚歌劇やOSシネマの車内広告なかったっけ? 昔の阪急伊丹線とかの古い電車のドアのガラスに
サラダ油だったかマヨネーズだったかのシールが貼ってあった。
阪急6300も新快速も通勤客はターゲットじゃなかったんだよね。 あの頃は新快速も「特別な列車」で良かった。乗ると嬉しかった。いまや単なる
通勤電車どころか下駄電・草履電になってしまっている。本数は少なくても、
どこにでも好きなところに座れる電車でいて欲しかった。 阪急といえばドアに貼ってある日清サラダ油
ホームのベンチの清酒白雪 ブルーライナーのヘッドマークって鷲羽や立山みたいに横にめくるタイプじゃなかったけど、なんでだろう?
めくるのが面倒そうなんだけど。 広告と言えばワリチョー、ワリコー、ワリシン、リッチョー なんのこっちゃ。
オヤジは飲んだくれ、母親は節約下手の浪費癖いつもカツカツなうちの家計には無縁でござった。ちゃんと利子がつくというのは経済が順調に伸びてるということだよね。確か155系あたりは三菱銀行の金融債でつくられたとのこと 阪急梅田駅で配布していた路線別時刻表には
ワリコー、ワリチョーの広告が入っていた 新快速と広告といえば 三ノ宮駅南側にあった大きな「富士山」を抜きに
することは出来ない。但しポートライナー工事のために153系ブルー
ライナー終焉より少し早くなくなってしまった。小生はスハ32系の宇野
・広島・長崎行きに乗車していた子どものころからのなじみであった。
なぜこんな所に富士山があるのか?理解できないでいた。(本物の山だ
と信じていた。夜になると下から黄色くライトアップされている山だった)
小学生になるとそれが広告看板だと理解出来てきた。80系快速・153系
新快速に乗って三ノ宮へ着く頃に見える楽しみの一つだった。
若い人は分かりますか?何の広告だったかと・・・・ >>287ビルの壁面の大きな富士山ね。三宮通るといつも見てたわ。確か山一証券の広告だったはず。 >>286
103系の扇風機に冬季になると「ワリトー」「リットー」の広告が付いた
カバー掛っていたのは知っているよな?
快速の113系ドア上には「ワリコー」「リッキー」の広告もあったぞ。 >>288
ご名答!そうですね。四大証券の一つといわれた山一證券ですね。あれが
見えたら「三ノ宮だなあ」と思ったものです。たしか、大阪の京橋にもあ
ったような、なかったような??昭和時代の経済小説、株価操縦等を始め
證券界の裏側の暗闇を画いたフイクション場面に「富士山證券」として度
々登場していました。 あの頃の車窓だったら武庫川のヒロタのシュークリームっていつのまにか無くなったよな。
エーデルワイスは相変わらず。
あと神戸駅前にデッカイ スコップがなかったっけ?? >>280
立花をでて甲子園口への勾配の途中に有りましたね。黄色と白の縞々模様のヒ
ロタのシュークリームの工場が、7年ほど前に無くなっていたのには気づきま
した。もっと早期の話は分かりません。その手前立花寄りには「栗田の圧力扇」
線路を挟んで南側には「東亜のバルブと安全弁」という工場・看板が見えてま
したね。 ヒロタはかなり前になくなった。まぁ、いったん経営破たんしたからな。
立花駅構内のショップはかなり粘ったけど、夏ごろに閉店してしまったのは残念。
その近くのコトブキは2000年代に入ってもあったけど、結局無くなったな。
さらに東、立花と尼崎の間のエーデルワイス(アンテノール)は健在だが。 んー、スレチな話題で盛り上がってるので
もう一つw
夙川の大阪方にあった「クリスボン」
小学生の頃に撮影した新快速や優等列車の背後に
たくさん写り込んでます。
震災でなくなったんでしたっけ? >>285
いずれの金融機関もそのままの形では残らなかった。
興銀→みずほ銀に
長銀→破綻の後新生銀に
日債銀→破綻の後あおぞら銀に ヒロタに釣られて、「パルナス パルナス モスクワの味」で検索したが廃業してるんやなあ、残念。 山陽線 明石に着く頃に50メートル南側地平に見えていた山電の
まるで青物市場のような大きな屋根しかない明石駅。須磨の付近で
山手の方を見上げれば路面電車の親分のような山電200型が負け
ずと併走していたこと。「山電」いまや立派な都心乗り入れ電車に・・ 山陽特急は20分毎、新快速は明石まで15分毎但し昼間だけ パルナスは阪神尼崎駅で細々と続いていると聞いたが? >>299
「モンパルナス」でしょ。
パルナス直営ではないよ。
パルナスにいたことがある人が始めた、とかそんな感じだったと思う。
そもそもパルナス自体は清算してしまって法人としては消滅してるし。