蒸気機関車最後の10年を語るスレ part8
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
蒸機最末期(昭和49年時点)でC50がラッシュ時の旅客列車牽引リリーフ運用に従事していた例はあったのだろうか
三級線でも本務機たるC57やD51は優先的にDD51に入れ替えられている訳だし
C58が許容の限界な四級線でも概ね昭和47年までにはDE10で無煙化達成出来ていたし
最終的に残存した蒸機は原則として入れ替えにしか充当されない数種の小型機だから
多客時のリリーフ運用でC50が朝と晩のラッシュ時に客車列車牽引するのは不自然では無いと思う
C50の運用上の弱点って先台車が8620と比べて曲線通過性能が劣るのと動輪上軸重が旧乙線限界の
14.7tを超過する事位だよな
前者はそれ言うならC11はどうなるのか 保線の観点からすれば島式先台車は軌道破壊大杉で嫌われた、
検修の立場からはエコノミー式先台車の方が簡素な構造なので維持がし易い、
後者は後の三級線規格なら軸重15tまで許容出来るからノープロブレムな訳だし
8620よりも設計が新しく出力大で粘着力もあり高速性能はC58より良好なら
43・10以降の蒸機末期にはもっと積極的に活用されても良かったカマでは無いかと思う
(C58は時速75km以上だとカマの動揺が激しいという悪癖があったというしな) >>391
C50は’71/3末時点で既に入換用しか残ってない
'70年時点で名古屋臨港線の貨レ牽いてるが、あそこは客レはない
’70年時点で朝夕のみDCでは裁ききれない利用客用に客レが残っていた路線もC50配置区では全てDL化完了済み(予備機もDLで対応)
C50が牽引したそれなりの長い編成の区間運転の客レは早い時期に電化したりDC化されて存在意義がなくなった
軸重が重いので四国からは最初から拒否られ、北海道や東北でもすぐに敬遠され結局入換に活路を見出した
鹿児島の特急客車編成なんかの回送には使いでがあっただろう >>392
レスありがと
となるとやはり最末期は8620とかC11限定になるか>ラッシュ時リリーフ運用でPC牽引 母が昭和46年頃に松浦線で佐々から佐世保まで通学していたのですが、
客車列車の後ろにクリームとオレンジの車両を繋いでいたと言います。
これってDCをぶら下げていたってことでしょうか? >>391
最末期は1973年の鹿児島区、その前は1972年亀山区だったはず。
両方とも旅客運用はありえないと思います。
亀山区ならC50が出なくとも
C58がリリーフに入ってましたし、
鹿児島区は言わずもがなです。 >>394
松浦線で客レにDCぶらさがりがあったかどうかは知らないが
当時は客レに回送のDCをつけるのは結構あったような
自分の知ってるだけでも中央西線・日豊本線・山陰本線であった >>393
'71年あたり以降はそもそも客レをDLやELのリリーフでSLが牽くことはない
DLもELも十分予備機があったし、ELやDLの運用前提でダイヤ組んでるわけで、SLで定時運行できる区間は少ない
'71年あたりまでの夏や冬などの臨客をSLが牽くことはあった
これは最初からダイヤをSL運用で組んでいるわけだが、これも'72年頃にはほぼDLやELにダイヤごと交代した
C50だから無理で8620やC11ならOKとかの問題ではない >>395
その1972年8月亀山で動いてたのを堪能した。154号がもっぱらで109号は休んでた。
本線用はC57の110番で、もう1両の4次型(番号忘れた)は動いてなかった。でも火は入ってたような覚えがあるが(C50109も) >>399
自己レス失礼
思い出した、C57のスジで待ってたらDF50でがっかりしたんだ、だからもう1両のC57は有火のまま休んでたんだろう 最後の10年ではなく5年になってSLを追い始めた。C50は地味なカマで糸崎で迷彩色のを見た。66 ,88だったかな。でも糸崎はC59やC62目当ての人ばかりでC50にはカメラを向けなかった人もいたのでは C50が不評だったのは機関士や機関助士というより保線や検修側からのものだったと思われる
ほんとうに使い勝手が悪ければ入換にすら使われないだろう
(’60年代以降は8620やC58も余剰がでていてそれらを転用すればよかった)
亀山、紀伊田辺、柳井、糸崎は全検切れのC50の代わりにわざわざC50を迎え入れてるし、
関東で最後までC50を使っていた小山はC58もいたのにあえてC50を使っていた
鹿児島なんか最後は8620の代わりにC58ではなくC50を呼び寄せてる
静岡局も遅くまで入換機にC50とC58を共通で運用していた
本線運用には8620かC58のどちらかを選べば十分でどうしてもC50が牽引定数的に不可欠
という都市近郊路線は早々に電化してお役御免になっていただけで
カマ自体に欠陥があったわけではないはず(多くの本やhpには欠陥品のような
記述があるが後付けの理由やよく調べていないいい加減なものがほとんど) C50は軸重が重く使えない路線もあったろう。梅小路SL館の発表当初は候補に挙がってたのにC61と入れ替わってしまった。糸崎でしか見てないが豊橋」柳井にも遅くまで残ってた。 昭和45年は万博でフィーバーしてたが大型蒸気最後の年だ〜とそれどころじゃなかった。とはいえ当時は中学生で時間が取れない、10年早く生まれてたら、と随分思ってた。それなら今はジジイだな >>398
うらやましい…
俺は亀山のⅭ50は車窓から見ただけで
撮影はかなわなかった。
しかもⅭ574次型の緑ナンバー198を撮影したくて
待っていたら、
やって来たのは代走のⅭ58だった。
亀山区とは相性が悪かったみたいだ。 >>405
自己レスですまんが、
文字化けしたようだ。
C57198の緑ナンバーを待っていたら
やってきたのは代走のC58だったというお話。 >>405
もう一つ自己レス
現役のC50一度は撮影したかった… 最晩年のC50は亀山と鹿児島だったっけか。
どちらも完全に入換が仕事だったけれど、鹿児島のC50はたまに客車区からの回送で20系などを牽引して短い区間だけれど走っていたなあ。
見た目C50牽引のブルートレインだった。 >>396
レスありがとうございました。回送気動車に間違いなさそうですね。
ちょっと興味がでできたので、週末図書館に行って蒸気の写真集でも眺めてきます
ありがとうございました。 >>391
確かにC50は鉄道省が何をしたかったか解らないカマだよな
C51/52/53よりも設計年度が古いのに動輪上軸重はC51よりも大きくて(C51は14.61t-乙線なら運用可)甲線でしか性能を発揮出来ない、
もしかして3シリンダ型試作機のC52と比較する為に少数試作してみた、という意図で設計されたのが
なぜか154+4両も量産されてしまったのか?
8620改なら動輪上軸重13.6tに抑えないと丙線には入線出来ないのに軸重軽減を敢えてしなかったのはどんな意図があったのか…
C51級では過大出力と査定されるが軌道状態は良好な幹線区に投入する為に8620改を設計する経緯でいろいろ付けたししていったら
いつの間にやら乙線の軸重限界14.7tを超過していますた、という顛末だったのか?
エコノミー式先台車採用も叩かれるにふさわしい重大なスペックダウンとは言えないだろうし
後年のC58は(紀勢本線での快速運用とか)走行時の動揺が酷い欠点がカマたきに嫌われたし
まあ鉄道国有化以前には旧九鉄の3100形が改良前は軸重18t越えという斜め上のカマも存在したけどな
C50が不運なカマだったというのは禿しく同意
#とりあえず加糖には8620と九州型二軸石炭車出して欲しい
袋詰め生石灰輸送特化車なテム300とか出す位だし
(山形交通高畠線に入線してる画像も見た事がある)
室木線のPC+石炭車3〜4両@バック運転とかたぶんここだけだよな >>410へ自己レス
×C51/52/53よりも設計年度が古いのに
○C51/52/53よりも設計年度が新しいのに 最晩年には全検切れで廃車なのが次々と出て来たので使えるのをあちこちで使い回してた。宗谷本線でC55を待ってたらC57が来てガッカリなんてのも 驚いたのは日豊本線でのC61投入、もう少し早く決まってたら鹿児島本線のを回せたのに、夏に奥羽本線に写しに行く予定の人は困っただろう。 >>410
成田機関区に新製配置されたC50が成田佐原間で二度脱線して、以後は我孫子線に運用を限られ、1年かそこいらで他所に転出して代わりに8620がやって来た。
という話がある。
作ったこと自体が間違いみたいな機関車だな C54よりは使えたんじゃないかな、でも8620の方が軽快な感じが、外見はそっくりなのに意味もなく重くしたからかな >>410
古いピクの8620/C50特集で今村・久保田両氏が記してた記事でも
あの軸重は本線から外れた後入換向けに転用するの考慮してたのでは…と〆てたり
(車齢の都合もあって60年代まで入換・短距離列車用としては86より生き残った) 私は好きなのですが、
一般には超地味なC50に
これだけ書き込みがあるのは
嬉しい限りです。 >>418
古すぎて誰も知らんのでは?
現役知ってる人は多分70代以上。 C54は路線も偏ってたし早く消えたし語れるひとはもう死んでるだろう
2120や6760同様に最後の10年ではほぼ対象外 DD54なら見たけど、54という数字は機関車には不遇なようだ。 C54の動画はNHKのDVDとかで見たことあるけど、
C50の動画は見たことないかもなぁ。
ネコの国鉄時代のDVDだったら、あったかも。 >>421
言われてみれば
C54もDD54も山陰線・福知山線だったな。
地味というかレアというか… 少数派の機関車は大体一か所に集められるね、D61、D62やE10も >>424
それはそうだろうねぇ。
短命スレにも書いたんだが、
C54とDD54に対して、
C50とDE50と数字の組み合わせに
どうも不遇な運命を感じてしまうなぁ >>425
それを言うなら
DE50よりもDD50じゃない? DF50もあったがC57のスピードとD51のパワーを目指したもののどちらにも及ばなかったとのこと、亜幹線で頑張ってたな >>426
DD50はもともとつなぎの目的でその目的は十分達した
DF50はなんだかんだ亜幹線の無煙化に貢献したがパワーがなさすぎた
DE50は期待のホープだったわりに致命的な故障と国鉄の方針転換もあって鬼っ子と化した
不遇というとやはりDE50を推したい 福知山線でDD54の牽く列車に乗ったが途中で故障して立往生しないかとハラハラした。SL復活の話も出たらしいが。 そんな機関車がよくブルトレ牽引してたなw
スレチだけど。 機械に故障はつきもの
昭和40年代だとEF58もたまに代機交換やったり運転打ち切りしてた >>425
そこにEF50とEF54を足すとさらに薄命さが際立つな
※間違ってもクモハ54を入れてはいけない そもそも何故にイギリス製の電気機関車ばっかし多量に買ったんだ? >>433
東海道線電化は海軍軍縮条約で宙に浮いてしまった軍艦建造予算が振り向けられたもの。
鉄道省にとっては唐突に決まった話。
で、その軍縮条約交渉の場で大英帝国から妥協を絞り出すために、英国の工業製品を大量に買うからと海軍と外交官がお約束してしまう。
どうせ海軍の予算だった枠の流用で電化するんだから、後始末お願いね英国製品よろしくと言われた鉄道省が大迷惑。
あっ蒸気機関車スレだったw ところで、復刊ドットコムで鉄道賛歌の再販の受付がもうじき終わりそうだぞ。
持ってる奴がいい加減ボロボロになってきたから、私は頼んだ。 43・10以降だと参宮線の紀伊鳥羽編成のハ-ハネの二両編成をC57で牽引していた時期があったな…DF50既に入線していたのに
優等列車の端末区間分割短編成をC57で牽くというアナーキーさ全開なのが禿しく萌え〜
非電化閑散線区でもDCではない二両編成でカマ牽引の優等列車の運行があったという稀有な実例
鳥羽が終点なら四両編成であっても不思議じゃないか?とも思うんだが
しかしWeb上で画像探しても見つからない 漏れが見たのはCanブックスの特定の本に載ってた画像が唯一つorz 石巻線がC11を1974年3月まで運用していたよな
貨物輸送需要が比較的大きかったので無煙化が遅れたのだろうか
定期の客車列車も最後の日まで牽引していたのか興味ある 貨車1〜2両を引っ張るなんて無駄に思える運用あったな、今は無き宇品線も前後にC11とC58を繋いで往復してた。 けむりプロの写真はスノッブすぎてしかもたいして芸術的でもないからあまり好きじゃない
当時鉄道誌によくでていた煙管プロとか日本風とかも芸術かぶれのわりに大した写真は残していない
市井の無名のアマチュアのほうがはるかに素晴らしい写真を残している >>438
ゴレンジャーの機関車仮面なら知ってる。 芸術的じゃないとか芸術かぶれとか凄い基準で判断してるんだなw 昭和43年頃に少年サンデーで「機関車大将」という小説が連載されていてSLブームの火付け役になったかもしれない。当時は漫画だけでなかった >>448
当時少年サンダーを呼んだ世代だがまったく知らない
SLブームなんて都内から客レが消えるってマスコミが騒いだ'69/9頃からじゃないの >>450
ゆうづるや奥中山辺りはブームの前のブーム(マニア内の盛り上がり)じゃないかね ブームになってからなら常磐線のC62も保存されてたかな?49番機は保存候補だったようだけど。ダメでも糸崎に行った48番機を持ってこれたのに、銀河鉄道999(映画)で注目されただろう 福知山線は近くだったのにいつ無煙化されたかわからない、小さい時に親父に連れられて乗った時は確かにSL牽引だったが。昔はローカル線だったのに今は過密ダイヤ、それがあの大惨事を・・ 都内最後の客レあたりからサヨナラ列車にマスコミも殺到して過剰なまでに報道したし、その後は国鉄側も記念乗車券やオレンジカードを乱発した
常磐線や東北本線の本線運用最終はまだ鉄道友の会などの内輪でだけ騒いでいたから同時期の福知山線も特別に騒ぐことがないままあっさり無煙化 >>454
昔塚口住まいだったので尼崎港線C11のDD13置換えにびっくりして、その後の篠山口折返し
C11のDD51置換えが1966年、定期旅客ラストは1968年3月1727レ篠山口一泊731レの
C57128、その半年後に吹田一のD51小運転がラストと大体こんな感じ。 >>454です。情報ありがとうございます。尼崎港線はすでになく跡地は古墳みたいに丘になってます。昭和46年5月16日にC5741が臨時で走ってますがこれが本当にラストランになるのか >>456
1968年昭和43年旅客運用ラストランか
1964年昭和39年生まれなので幼稚園の1969年昭和44年に福知山線乗った時はSLは既に影も形もなかったからな(>_<)
と言いたいところだがその自分が乗った726列車浜田発大阪行きを自分が乗った福知山駅まで牽引して来たのはまさに、SLでありそういう意味で二重の意味でSLにタッチの差乗れなかったいうのは47年後の今も悔やんでも悔やみきれない人生最大の汚点なのかもしれませんorz >>457
どうも456です。C57引退の元となったDD54先行試作機1〜3号機が出来たのが
40年前の7月末。732レ折返し739レにC57を従え1週間テストの後、DD54単機
運用に、そして722レ折返し743レのC57も置換えて3両配置2両使用。
学校帰りに毎日見ていたのを思い出したわ。 >>459
> 40年前の7月末。
自己レス
50年前の1966年7月末の大間違い。 と言うことは1966年昭和41年の当時はつまりビートルズが来日しおはなはんやモノクロのオバケのQ太郎放送の頃は、SL福知山線で現役バリバリなんですね
1966年昭和41年当時学生と言うことは今は還暦過ぎ定年過ぎと思われますが、正直羨ましいとしか言い様ありません。
当時二歳いやまだ一歳だった現鉄子より 大阪近郊は福知山線以外に片町線や城東貨物線があった。後者では本州最後のD52があったがたしかダンプと衝突してジ・エンド SLの索く客車に乗ったのを羨ましがられた。当時は弘済出版社の時刻表はSL列車にはマークが付いててとても助かった。 あのマークは40数年たったいまも変わらず使われ続けているんだよね。
煙室がやけに大きく煙りがヒゲみたいな愛嬌のある。 >>462
吹田のD52は御殿場線より遅くまであったんですか!
当時小学生だったので、撮影に行けなかったのが残念…
@兵庫県出身 >>456
連投ですみません。
岩堀春夫さんの写真集には
「生瀬の工臨」というタイトルで
1969年8月に宝塚で撮影された吹田一のD51319と
福知山線の臨時列車を牽くC57152(福)の写真が
掲載されています。
C57は定期運用が終わっても臨時列車で大阪駅に来ていたんですね。
私は当時、宝塚ファミリーランドに遊びに行ってたのに
残念ながらSLに遭遇した記憶はありません。 御殿場線は68年6〜7月頃に終わり、吹田のD52は同年10〜11月頃に事故ったと鉄道ジャーナルに載ってました。記憶はもう曖昧ですが >>466
千里万博があった1970年でも臨時「だいせん」をC57が牽引してたのを
中央郵便局向かいのテント村で夜行列車待ちながら見てたよ。 >>463
名寄本線天北峠、一ノ橋から上興部キューロクで一往復
乗っけてもらったよ。当日吹雪いてて機関士にたのんでみたら、おけー
96、一機で25‰、とにかくすさまじかった。
時速10キロぐらい、火室に石炭くべる時は5,60センチぐらい
火が噴きだす、蓋しめても、穴からいつも火ふきだしてるし
あまりの恐ろしさに、少し後悔、上興部ついて帰りは、後ろの機関車
機関士、に頼めと言われ、無事一ノ橋まで到着、
今なら、ありえないが、当時はよくあったことで。 >>469
最高の思い出ですね!羨ましい!!(;ω;) >>468
1970年まで臨時急行をC57が牽引して
大阪駅まで来てたなんて…
あと3年早く生まれたかったわ
細かい話だけど、到着後は宮原の転車台乗ったのかな? 福知山線以外にも1970年秋には数回大阪駅から宮津線の丹後山田駅(現在は野田川駅)までC57が走ってた、梅小路の5番機だった。 >>471
福知山線の大阪駅乗り入れ蒸機旅客列車は1965年当時
C57三往復、C11三往復が残っていただけで他は既にDF50に
置換え済み。DD54の登場でC57二往復が消えたのが1966年。
1966年までは午前中の宮原区にはC57が2両、13時半ころに
722レ牽引機もやってきて夕方まで3両滞泊していたよ。 SL牽引の客車は朝夕に集中してて昼はまばらの所が多く朝かなり早く起きて出発した。貨物はダイヤがわからないしカメラをバッグに入れたら遠くから ポーッと汽笛が・・ 無煙化しても数ヶ月〜1年程度は休車で1〜2両はのこして工臨や臨客用に残すケースが結構あった
何故昼間はないかというとわずか数両のDCに余裕が無く朝夕の通勤通学用には定数一杯の客車を機関車で牽くしかなかったから
今では考えられないぐらい当時は田舎の利用客が鉄道を頼っていた SLブーム晩年には撮影ガイドなんて本も登場し、ダイヤも載っていた。播但線の溝口駅にはなんと地図まで用意してあった。三重連の時はかつてない大混雑に、通勤電車より酷かった。 >>473
ありがとうございます。
新大阪では新幹線の下をC57が走っていたんですね。
宮原区にたむろするC57見たかったなぁ…
同じく向日町運転所に滞泊するC57も >>477
「ダイヤ情報」より前に2回刊行された鉄道ファン増刊の「蒸気機関車撮影地ガイド」はまさに当時のファンの
バイブルみたいなものだったね。内容はそれまで本誌に連載されていた「撮影地ガイド」をまとめたものと、なんといっても添付されたダイヤ。これと時刻表とを首っ引きで(行けもしないのに)「あそこであれ撮ってこれで移動して‥‥」なんてやったものだった。
そのなかで「播但線溝口のムード」という、生野越えのC57とは別に姫路口のC11通勤列車群を主体にしたガイドがあって、それにひかれて一回訪れた。すでに朝の列車は半分くらいがDL化されていたけど姫路近郊の田園地帯を行くC11の通勤列車を少しでも味わえた。
(寺前・福崎・溝口と発着駅がいくつかあったな) 撮影ガイドは昭和46年発売でC56が表紙だったが他に写真家による現像についての記事があり、とても参考になった ?S46年の出雲坂根のC56が表紙の撮影全ガイドはキネ旬の三匹目のドジョウのやつで
鉄道ファンの増刊の撮影地ガイドがバイブルだったって意味だったのでは
キネ旬のやつはダイヤも乗ってないただのアマチュア投稿の自己満足レベルだったし
ダイヤは参考になったが、名撮影地の紹介を地図や解説つきでやたら公開したことでマナーも無視して私有地に大挙しておしかける不逞の輩を増やしたわけで功罪半ばの感がある 古書店に出回る撮影地ガイドのダイヤにボールペンなどで幾重にも線が重ねられていることがある。
古書として状態が悪いというよりも、時代の空気感が密封されているような気がして好きだ。
入手当時の若人が迷いに迷って引いた一本一本の線なのかどうか、知る由も無いがw
読者の熱気、殺気が篭っている線だ。 伯備線の三重連は地主にとっては迷惑この上ないことだったろう。なくなった時はホッとしたはず。昭和51年のC571の運転の時は収拾のつかない事態を招いた。こうなるとわかってたからいかなかった。 上目名や常紋、竜が森などは私有地でもほとんど人跡まれな利用してない土地だからあんまり騒がれなかった
信号場の人もトンネル通行を黙認してくれていた(注意するようにきつくいわれたが)
小海線の鉄橋は道路際で仲良く並んでとれるので文句はでなかったし違法駐車も黙認されていた
布原は私有地の畑の中だからそりゃ地主は荒らされて嫌だったろう
当時も今も変わらず非常識に許可なく犬走りや構内を歩き回り、たばこやゴミのポイ捨て、場所取り争い、違法駐車などする連中がいて迷惑極まりない NHKの新日本紀行で、ホームから線路に飛び降りて最短距離で蒸気機関車へ向かう人の群れが番組として流されたりしましたからね。
ルーズな習慣が締め上げられてゆく時期でもありました。武士の帯刀を責めるような発言も控えましょう。 機関区にも行った。腕章とヘルメットを着用して、勿論指示は守らないといけない。入場日を制限している所もあり、曜日が合わず断念! 極めてルーズで現場の人も部外者がいても気にしないという状態があったことは確か。
アポなしで訪れるとカメラで撮ってくれとせがまれる時代。
神話時代といってよいだろう。
現在の、稀にある催事でもなければ断られる状況へは段階的に移行したと思うのだけれども、
いつの時点でどういう管理状況だったのかという事を今さら調べるのは無理なんじゃないだろうか。
過去を今の常識で断罪しても意味がないし、だからといって過去の出来事を得意げに語られても困る。
書くのも読むのも、扱いが難しい。 機関区職員手作りのわら半紙に「見学の注意」とか「配置表」「機関車の動くまで」のイラストとかが
印刷(ガリ版)なんか嬉しかったね。暇な時間か忙しい合間に作ってくれたのか、しかも紙の裏が
運用表と管理局の報告書のいらなくなったものとかだったり。
過熱していたブームにあっても国鉄職員がみな蒸気機関車が好きで暖かくファンを迎えてくれるところもあった。 糸崎機関区ではガリ版の注意書きを渡された。中に作業中の人を写してはいけないとあった。現場から苦情があったらしい。九州では死亡事故の為時間を制限することに 後藤時から小倉に向かう日田彦山線の車内で乗客と一緒にラジオで高校野球聞いてる車掌さんがいた。丁度地元が出ていた時だがいいのかな?昭和48年の話 やっぱり子供が写真撮るのに夢中で怪我した71年頃の九州での事故から機関区立ち入りがうるさくなったと思う
何故か奈良も71年には運転所立ち入り禁止になった
北海道・東北・山陰はそれほどうるさくなかった
九州でも宮崎はかなり甘かったが、どこも71年あたりから労組が嫌そうにこっちを睨みつけたり、たまたまファインダーを向けると喧嘩腰で恫喝するのが増えた >>491
あれ?本当ですか。。
1973年当時小学生でしたが
奈良運転所は入って撮影できましたよ。
同じ天鉄局でも亀山区はNGで、
駅ホームから機関区の方に降りると
むっちゃ怒られましたw 部外者の線路内立ち入りに対する「通達」が何度か出たことは、確からしいのです。
でもそうした記録は残されず捨てられちゃいますからね。
そこには具体的な指針があったのか、それとも曖昧な表現だったのか。
何時に何があったのか。それさえ判らない。
線路際に野越え山越え延々と続く柵だって、昔は要所にしかありませんでしたからね。
これも敷地の境界を明確にしなかった鉄道側が悪いという判決の影響です。
ローカル線まですべて整備した筈です・・・線路の両側ですから総延長、どれほどあるのやら。 >>489
糸崎は43・10の頃までは夜間でも撮れたのが44年辺りから厳しくなってそうなったんだったかな
それでも問い合わせの手紙には返信したり電話番を置いたりと対応してたが
呉線内だと広駅も早朝に撮る人が殺到したため一時撮影禁止?になったりあったね 朝の広駅はC59とC62が並んでさぞ壮観だったろう。幸い呉に親戚があり、最後の夏に撮影に行ったが腕がまだ未熟だしやり残したことも多い、当時は中学生だった。 >>495
確か3本か4本広島方面への通勤列車がホームに並んだんだっけか。早朝の光の中にC59・C62の牽く長編成の客車が‥‥。
一方、それの小型版は播但線の寺前駅の光景(福崎や溝口だったか?)、姫路方面への通勤通学列車が次々と発車するためC11の客車がこちらも3本並んでいた。 ヘッドマークは結構重いみたい、「安芸」のヘッドマーク付けるのに3人がかりだった。当初は付け替えが大変でやめる話があったが上りと下り共に同じカマが担当することになり回避したそうです >>496
広始発の普通列車が3本とその直前に広を出る音戸2号(旧ななうら)だね 音戸は主にC59担当、小屋浦に着いた直後にやって来てカメラが間に合わなかった。ダイヤが遅れていたのを知らなかった。もったいないことした。 >>491
逆に管理職(区長やら助役やら)がうるさかったが、肝心の下っ端(大抵組合員)がいい加減?な処もあったな。
「立入禁止の看板?なーに構うもんか!どんどん撮ってけ!」みたいな。
>>494
呉線には恐怖の運用があったからな。広島〜広の逆向運転。
C56と勝手が違うからな。 九州総局からお達し?があって北九州地区(門司局)管内の機関区の入場規制が
厳しくなった昭和46年頃(たしか週一回のわずかな時間しか撮影できなくなった)だけど
なぜか大分や熊本、鹿児島局の機関区の方はそんな制限はなく普通に許可して撮影できたっけ。
いまは跡形もない熊本区で撮影してたら夕方の9600重連の下り旅客列車が猛然と発車していくシーンを
撮影できた。機関区からでないと撮れない場所だったなあ。
熊本のカマは緑ナンバーが多かった。なのでお金が白黒ばかりのフィルムではナンバー色がつぶれたようになって
しまいちょっとがっかり‥‥。 広島〜広間の逆行運転はさぞやりにくかっただろう、あまり絵になる光景ではなかった。逆行か逆向か?調べないと。写す時は逆光になった。つまらん・・ マニアには至福のひとときでも機関士や整備の人には重労働、運転中もハラハラしたこともあったのでは、無くなってホッとしたのではないのかな たしかに現場には迷惑かけた事もあったけど
機関区を訪れると
ガリ版刷りの豆知識やお茶を出してくれるところもあったし
撮りやすい所に機関車を移動してくれたり
キャブに上げてくれるところもあった
などどこでも暖かく迎えてくれた
糸崎では
シーのロクニは従輪が二軸だから乗り心地がいいんだ
それにストーカーと太いボイラーで楽なんだ
と機関士さんが話してくれたのを今でも楽しく思い出す 糸崎の機関士達は常磐線からの軽量型には難儀したそうだ。すると特急ゆうづるを担当した機関士の腕は凄かったんだな、カロリーの高い石炭を使ったそうだが極限での走行を維持するのだから '70年代に入ると蒸気の機関士はDLなりDCなりELなりECなりの転換教育受けて資格もってるのがほとんどで、ちょっと寂しくてもまあ新しい楽な仕事が待ってるからという余裕から、ファンの狼藉もゆとりで対応していた
しかし、機関助士はほとんどがその時点で将来が不確定な場合がほとんどで(だいたい優秀なのはとっくに機関士になってた)、仕事自体も機関士に比べてはるかにきつくて汚くて危険だったからその反動というか鬱憤ばらしにファンに対しての目線もきつかった >>505
そういう問題じゃない、慣れの問題だろ? >>507
そ、慣れてないだけ。特に大型機はカマ個体の蒸気とアシの癖を把握するまで最低数十回の操作が必要 >>506
いや、それは表向きで、助士については既に内々で処遇がきまっていたらしい。
・全員機関士・運転士昇任を確約
→宇田賢吉氏の証言。
但し弊害もあった。具体的には自学自習の風土の消滅。検修職の昇格の一時停止(整備掛→助士→機関士・運転士が当時の昇格コースだった為)
・営業系職場への職種換
→例えば、尻内機関区では、助士から車掌へ移った方々が少なからずいた。 いちいち角をたてる奴いるな、ホントにわかってるのかね。非難中傷の場ではないよ >>507-508
慣れた結果→高スキル
505の言ってることは間違ってない。 >>509
全員機関士運転士昇格を確約なんてありえないよ
筆記試験と実地試験だけじゃなく適性検査も受からなきゃいけないんだから
命あずけるんだからいくらノッチで動かせるといっても、無条件ってことは国鉄時代はありえない(JRは知らない)
適性や実地で落ちて改札掛や切符掛どころか内勤になった機関助士あがりはたくさんいる
今どき回顧特集記事とかの話で登場する機関助士は要領いいかエリートだった連中、
組合活動にのめりこんで首になったやつとか、規則違反や事故や上司ともめて減給や配転喰らったなったような連中は恥ずかしくて語っていないだけ >>513
「鉄路100万キロ走行記」にハッキリ書いてあったよ。
その結果起こった職場体質の変質もハッキリ書いてあった。
(特に東京・大阪等大都市圏の電車職場がアレになった、と) 誹謗中傷なんてきつい言い方をしたくなかったから別の表現を考えただけだが。 どこのスレにもあら探ししたり揚げ足とる奴いるな、通信添削の仕事に向いてるな >>504
ひろゆき大提督の山陽本線電化以前の姫路区訪問エッセイで
「C59はストーカーが無いので人力投炭では間に合わない C62でないとダメ」というカマたきの証言があったな
それを基にして書かれたのが「機関士三代」(偽車掌の記−六興出版だったと思う)
久保田小倉工場長も「人力投炭で問題なく走らせる事が出来るのはC57まで」と証言してたのも読んだ事がある
しかしひろゆき大提督も1970年代以降の酷牢や洞牢のテロリスト共にはさんざん不愉快な思いさせられたそうな
鉄道に関する素養がある事承知の上で取材名目で国鉄本社から許可貰って動力車添乗してんのに
酷牢や洞牢のテロリストに嫌味言われるは罵声浴びせられるはされたというし
だから後には海外や近鉄とかに阿房列車ネタ移行してしまったからな 労組のつまらん話といっても、当時の蒸気と組合運動は表裏一体
70年辺りから激しくなった国労・動労と管理職のあいだのギスギスした関係は忘れられない嫌な思い出
鉄労・施設労の組員は穏和だった >>519
天下の大阿川にたいしてなんちゅう仕打ち。
国労動労は鉄の心臓というか、ちったあ敬えよ。
阿川大尉も、ぶん殴ってやりゃあ教育になったんだが。
(その頃、鉄道員と客の殴り合いは日常茶飯事だった) > その頃、鉄道員と客の殴り合いは日常茶飯事だった
こういうの平気で書けるという事は、その頃の実体験が無いんだろうな。 動労なんて元々はかなりの労使強調だったのが、共産党内の派閥粛清の犠牲を
喰らって流れ込み共産主義化したもんなあ…
労使問題を調べてみ。60年代の共産党内対立からおかしくなったのがわかるよ。
まあ、一番おかしいのは職員局だが。余剰職員発生の可能性があるのに大量採用して
いたり、機関助士にしても新規の採用はせずに自然減でなんとかなったのにいきなり
廃止とその後のフォローが曖昧だから労使対立の原因になったし。「富士」の西明石
事故の20年前の時点で実はその職級が徒弟制度の中機能不全化していたのは労使とも
ども問題になっていたのだが。 >>523
当時としては大量採用せざるを得なかったんだよ。
終戦後の引揚者対策で大量に採用してしまった以上、年齢構成がいびつになりある時点で一斉退職
の事態を招くのは想定の範囲内。かといって運行本数をいきなり削るわけにもいかないし保守要員
を切るわけにもいかないしな。 >>524
計画的な人員採用は出来なかったのかという問題。
あと、引揚者の採用は国策によるものだったから、合理化の際、いやマル生の
頃に中央省庁や国の機関への転職斡旋とかまで頭は回らなかったのだろうか?
彼らは職さえあればどうでもいい考えだったから、別に国鉄でなくても良かった
訳で。国鉄末期に中央省庁や郵政現業、NTTが国鉄離職者を受け入れていたが、
時期的に遅かったんでないか? >>525
国鉄職員で徴兵されてたのが敗戦で戻ってきたのが元の部署に戻ったように、他の官公労働者もどっと戻ってきたわけで他のところに回すような余裕はない
しかも、ロシアで捕虜になったのを中心に占領軍の施策も追い風となり労組が強くなってたから元の職場で安易に首切りにはできない
民間はお上のようなこといってられないから、空襲被害もあってつぶれて大量の失業者がでた
官公労は共産党の破壊主義が露見して分裂をきたすが、それでも戦前のよう御用主義から決別して権力と敵対するグループが主力を占めていく
さらに安保紛争をへて、70年代からは新左翼が組織にはいりこみ過激な主張と強欲な権益あさりを開始した 三公社五現業の民営化は組合潰しの側面もある
一部の過激派は突然豹変して体制側に迎合して新体制のなかで生き延びることを選んだ
ハシゴをはずされて多くの労組員は訳が分からないままに取り残されたが、情勢判断を見誤った自業自得の面も少なくない 皆さま
国鉄労組スレ立てたら?
SLファンはついていけません >>523
九州みたいに、穏健ながらも国労以外組合とは認めん!との暗黙の了解がある地区
もあったのだが。 当時の事をいまさら思い起こす気は無いが、機関車にでかでかと汚い字を書きなぐられてるのを見た時は、とにかく悲しかったよ >>530
あれは後で直ぐ洗い落とせる様に水溶き石膏で字を書いてたんやけどな >>505
前々から疑問に思ってたんだが、C62は軽量化したら元には戻せないの?
従台車の位置をずらすだけでは? >>532
イコライザのピン位置を直すだけ。重→軽、軽→重どっち向きの改造も可能。
糸崎に軽が来たときは、現場ではなぜ空転するのかわからなかったらしい。
軽の存在自体知らなかったということらしい。
そういうわけで、重に改造してくれという発想自体出てこないということになる。 >>533
プロが解らないとは、よっぽどマイナーな改造だったんだな。 てか533が詳しいな
現役時に現場で蒸機に携わってた人? てかC62スレでもいわれてたが従台車の改造というか実質交換だがね
(表向き、書類上は改造でも従台車と炭水車を丸々32・44号機から移植した15・16号機とか) 軸重軽減車の存在を現場が知らないはずがない
異動時には必ず車歴簿が一緒にくっついていく
車歴簿のチェックしないで新しく配属されたカマに乗るバカはいない
慣れないカマで空転するのは従来のカマと加減弁の調整タイミングが異なるから
一度要領を覚えればそれだけのこと、インタビューで機関士が当初扱いに面くらったという発言を記事にしたのが尾ひれはひれがついていった都市伝説 >>533
ピンの位置変更だけでは済まない
そんな簡単なものではないバネの交換もあるしバランス調整もある
重量支点の移動だけでなく、それによる調整が面倒なので末期は炭水車ごと取り換えたわけで、交換も種がなければ理論上可能でも現実には困難 >>538
その7両も新缶への振替工事と同時に軸重軽減な辺り改造か交換かは藪の中
(ボイラーが鷹取工場製な以上従台車まで作り直してても不自然ではないが) >>523
日共ではなくて革マルの最高指導者な松崎が動労の主導権掌握した事で外部セクトからテロリスト流入→
策動姿勢がテロリズム化した事が動労極悪化へのターニングポイントでしょ
日共系勢力はヘゲモニー闘争の過程で革マル勢力から放逐されて全動労に再編成される訳だし
同じ官公強硬労組でも全逓とは比べる事すら憚られるクソクオリティだな
>>531
鉄博逝ってC57 135のテンダー側面見てみろよ
アジを消した痕跡がしっかり残っている
それとTypoだと思うが石膏なんか使ったらあれ強アルカリ性だからすぐに錆びてしまうぞ
ひろゆき大提督の文章で「戦後の国鉄は蒸気機関車に帝國海軍式の高熱量練炭を使用したので性能が改善された」と書いておられたが
あれ常磐線での特急牽引運用みたいなごく一部でしか使われなかったのか?
それとも日中線みたいな僻地閑散線区でも平等に練炭を使用させていたのだろうか 練炭は決着成分がシンダになったり火室で粘って灰落としの邪魔になったり現場では評判が悪かったが、上層部はコスト削減や燃費計算の平準化に貢献したため好評だった
筑豊の特定の炭鉱の出炭が良質で以下、筑豊・空知・唐津・夕張と続き常磐は最下位で悪名高かった
この常磐炭を九州・北海道炭とブレンドしたのが練炭 優良炭はコークスとか優先的な顧客がいるんじゃないの 敗戦で海軍が秘蔵?の志免炭鉱を手放したので、戦後の国鉄の石炭事情はずいぶんと改善した。
あらかた掘りつくしていたらしいが、財閥系への払い下げを拒んだほどの優良炭鉱だったというし。
でも陳情やら何やらを受けて常磐炭も買わなきゃいけなかった。苦肉の策が加工炭。
だから、練炭にも色々等級があるんじゃないかと思ってみたり。 蒸気末期は関東はほとんど練炭だった、クルクルパーと併せて住宅地の苦情や災害防止
長野や名古屋、静岡も練炭が主流で九州や北海道はまだ石炭の形のままのとんがってたりいびつだったりするものが多かった
しかし、急客など優等列車牽引は練炭が多かった
練炭に等級つけるほど品質管理するとは思えないが、ロットや工場でのばらつきはあるかも 夕張鉄道は北炭の「幌内練炭」。夕張炭はコークス用でボイラーの燃料としては向かなかった! 無煙炭→瀝青炭→亜瀝青炭→褐炭→亜褐炭→泥炭→偽炭→炭がら
英国やインド、南ア、ロシア、ドイツなどは無煙炭の宝庫のため、SLにも無煙炭を使う→あまり煙がでないし熱効率がいい
日本は亜瀝青炭や褐炭がメインだったのでやたら煙が出るし熱効率が悪い
しかし練炭の使用によりコストダウンに成功 >>545
おおざっぱに西日本は三池炭、東日本は夕張炭が最上級品として蒸機に使用された。
(まあ常磐炭や美祢炭とかとブレンドするんだが。そうしないと早く燃え切れて気が
付いたら火が消えていた、なんて話もあった)
ただ、三池炭は常磐炭と違いクリンカーが発生しやすい、という欠点はあったそうだ。
一寸投旦を誤ると火床整理に大苦労。 美祢は無煙炭だよ、優良炭で軍艦に優先的に使ってたけど昭和30年代に枯渇した
ブレンドにするほど国鉄にまわってこない >>552
そうだったのか!知らなかった
石炭といえば北海道と筑豊ばかりで、地元民としては寂しいものだったけど、蒸機にも使用されていたんだね! 美祢線といえば南大嶺駅には一日100本の蒸機牽引列車が発着するというので話題になった時期が
あったね。昭和45年前後だったか。
でも風景も平凡でD51(一部C58)ばっかりだったし勾配が多い北部は列車本数も少なく、
多い方も下り列車が逆向(空の回送も多い)などあまり条件は良くなかったのでファンも少なかった。
訪問した方はいますか? 蒸気機関車を見ていてどうしても解せない点がある
あれほどの車両を作れる技術があったら石炭をもっと楽にくべる仕組みを作れたはずだ
そんなのは労働者階級が頑張ればいいんだとか雇用を生み出しているんだとか
職人技が必要なんだとか、そんなのがあるのはわかるがもう少しどうにかなったはず だから欧米は幹線で大量に長期間給炭が必要なケースは重油焚きやストーカー機能を編み出した
日本人は根性とスコップのサイズで対応した >>558
日本の蒸気機関車史の中でよく非難される所ですよね。
労働の最適化が不十分です。
組合の不在とか人件費の影響とか言われますけどね。
アメリカで改良が進んだのは、労働環境改善の圧力が物凄かったから。
労働組合の功績と言えます。
GHQがストーカーをつけろと口を挟んでいますが、どのような通達文書であったのか知りたいものです。 蒸気時代って山手線エリアの転車台ってどこにあったんですか?
少なくとも東京、上野駅は転車台必須でしたよね? 自動で石炭をくべる装置の研究(の前段階)はあったんじゃなかったっけ
むかし武田鉄矢司会のテレビ番組でやってたと思う >>562
品川・飯田町・田端・尾久あと山手線手前だけど両国
大昔は新橋(汐留)・上野 >>566
なるほど。そうすると現在のように東京(東海道)や上野(東北)で折り返すと転回に
時間がかかりすぎると思いますが、その辺りどうしてたんでしょうか?
一日数本の優等列車だけ東京、上野に乗り入れて車庫との出入りは逆向きor推進回送
鈍行は品川、田端折り返しとかですか? >>567
上野の地上ホームどん詰まりはその都度推進で尾久に客車入れだし
東京は渡り線つかって品川まで逆行運転
飯田町は電化が早いので電気機関車付け替えのみ
田端は客車操車場の設備がない 東京はポートトレインの場合ね
それ以外ははやく電化した >>569
どもです。
上野-尾久とか東京-品川は回送していったん車庫に入れるんですよね。
一部の長距離列車だけならともかく、全列車となると結構非効率てすね。
戦前とかの全列車SL時代は東京駅や上野駅の奥に転車台設備があったのか、それとも
長々と回送するような悠長な時代だったんだろうか。
>>570
>東京はポートトレインの場合ね
ポートトレインって東京-横浜港ってやつですか?
>それ以外ははやく電化した
今の中距離電車の区間は早いっていっても戦後ですよね 重油専燃はC59で試験的改造やったが、扱い方が石炭焚きと異次元で操作できる助士のやり繰りが面倒で炭水車改造を考えると重油の価格優位性もそれほど無くなってうやむやになった
その代わり併燃は簡単な改造ですみ助士の技量も特殊性を要求されず一部地域では仕業によってはコスパ的に採用された >>571
東京機関区は1942/11に田町の先、札の辻に移転するまで八重洲口にあってムーミン用の転車台があった
どん詰まりにあったからSLに使われたか不明、おそらく逆向か推進でそのまま品川からきて使わなかったと思われる
中電区間でも東京−国府津間と横須賀線の旅客は大正時代からEL牽引
上野は日本鉄道時代から引き継いだ当時は今の地上ホームのあたりの機関庫に転車台もあったが、大震災で壊滅し田端に移転した
貨物ターミナル機能は上野や東京から隅田川や汐留などに早くから移転していたので、貨物列車牽引のSLが両駅に乗り入れることは昭和に入ってからはなくなった >>571
>今の中距離電車の区間は早いっていっても戦後ですよね
東海道本線の東京 - 国府津間電化は1925年だよ
戦前の東京口の電化は1934年に沼津まで
ボート・トレインは東京-横浜港のことだけど
あれ戦後は鶴見までELだったみたいよ >>571
上野発着列車は大宮と松戸・取手までの電車を別にすれば
戦後の宇都宮電化まで一日辺り合計100本強だったのでどうにかそれで間に合ってた >>573
上野駅 転車台
でググると上野駅の配線図載せたブログが出てくるけど
1961年3月の配線図だと転車台があって1967年3月のだと無くなってる
1961年6月1日常磐線勝田電化でその時にでも無くなったのかな? 時代的にスレ違いなんでしょうけど、
箱根を走っていたマレー蒸気機関車の馬力ってどのくらいだったのか、
ご存じの人いますか?
昔から色々とググっても出てこないんですが、
一般に国産最強蒸気はD52で1660馬力と言いますが、
やはりその数値よりは小さかったのでしょうか。 >>573
ムーミン用w 電機のくせに
すると八重洲口駅駅前のロータリーとかの辺りは操車場があったんですか?
EL牽引旧客の中電ですか。渋すぎる。機関車はEF15とかですか?
>>573
>大震災で壊滅し田端に移転した
配線図上は残ってるようですが使ってなかったんですかね
>>576
これですね
http://senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-7150.html
>>574
東海道って電化早いですね。戦前はせいぜい山手線近辺にとどまってるかと誤解して
ました。
>>577
小さいです。古い機種ほどボイラー圧が低くエネルギー効率も出力も下がる傾向です。 >>575
一日100本だと仮に1日16時間営業だとして平均6.25本。東北常磐の2系統だから
1系統あかり3本。時間帯による変動考慮すると最高6本/hぐらいって感じですか。
結構ギリっぽいですね。
ちなみにパリ主要駅は未だに似たような運用らしいです
206 : 名無しの車窓から2016/09/23(金) 05:06:35.69 ID:ysbiaxss
>>191
パリのような大規模なターミナルだと、PPコレイユでも
列車ごと回送機でぶっこ抜いて車両基地まで回送してる。
運用の便というより回送運転士の雇用確保や列車乗務員の
勤務時間対策なんだろうな。
SNCFの機関車一覧見ると、回送専従の大型機が数十両いるんで驚く。
それとは別に入換機や構内移動機もいるんで機関車の使い方は贅沢。 >>578
なるほど、そうなんですね。
ご回答ありがとうございます。 子供のころ新鶴見操車場よく行った
親同伴だと操車場内へ入れてくれて
D51を間近で見ることができた C11って石炭3トン積めるんだな
8620が6トンだけど石炭無補給で平坦線基準で何km走れたんだろう >>583
C11吹田一区では大阪・篠山口往復、姫路一区でも姫路・佐用往復なんかあったから
石炭はあの容量でも100キロ位は走れたんだね。水は篠山口や佐用でガブガブ飲んで
いたけど。 レスありがとう
自分も中国山地西部の出だから勾配線で給水が50km毎に出来たら
80-100km程度は石炭無補給で運行可能と考えてた さて今年もまもなく12月14日がきますね。
あの時の今日(13日)の上野駅は東北本線のダイヤが大幅に乱れて夜行列車の運休などで
混乱していたな。銀箱や三脚を抱えて途方にくれている多くの人たちがいたっけ。 225レの機関士と機関助手、紅白への出演依頼があったそうな。叶わなかったのは残念。
ttp://www.kenkourou.or.jp/topmenu/tetsudohonbu/kyukei/kato.htm
紅白の前夜に放送されたニュースハイライト国内編でもC57 135の最後の勇姿が映し出されたようだが、
そのニュースハイライトも鬼籍入り…。 >>578
>すると八重洲口駅駅前のロータリーとかの辺りは操車場があったんですか?
古い写真見た記憶だけど、八重洲側南端に転車台が戦後まであった気がします。
場所的に国労会館ビル建設用地のあたり。
その国労会館ビルも既に鬼籍。 ヤフージャパンブログ社員ダイエットニュース マイナス金利狙い通り「仏」ローーンロンロンローーン
https://www.youtube.com/watch?v=uWLnfkOLmfk京都京野菜ぼったくり取引価格
ダイエットニュース (アリババダイエット40代偽装結婚プロ級世代(ヤフージャパンタイ資金洗浄(40代ブラックバラエティ道路公団談合)
違法改造大好き在日中国人報道中国車リコール発言台湾反日飛行機会社
ヤフーネットダイエットコーヒーニュースタウンワークサービス不足まいちゃりマイカー窃盗犯
安売ドラマ魔界村ビールぼったくり販売員適正価格
適当ビジネスニュース報道プロ級世代新社屋TRUMPTOWER左遷「仏」40代監視カメラ使用コンプライアンス速報駐車場 (★民主党鳩山政権TPP問題★★
トランプジョーカー切り(放送大学消防庁コストカットアイドルマスターアップ株式会社テレビビジネス森友学園パチンコ必勝法オークション販売時代)
NHK中国人用トランプ大統領テレビニュース(ヤフージャパン上院社員特別生活費支給旅行沖縄汚染水スキンケアテレビ東京槍杉ギャンブル依存症顧問職員)
ヤフージャポンマイノリティ社員「日本とロシアは仲良くさせてはいけないーhondasouichirouー」(在日中国人3月決算)
中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティーマスク女問題駅内マスクオンNACNN向け原文ダビンチ月刊(ニッカン)中國春文渋谷区木の葉崩しニュース7億5千万 >>592
ボケg3こんな所で徘徊してたのかよw
鈴木は今年70歳のNO味噌カラッポg3
鈴木は今年70歳のボケg3
鈴木は今年70歳の出歯亀g3
鈴木は小学生程度の割り算ができませんwww
http://hanabi.2ch.net/test/read.cgi/gage/1460012323/552
552: 鈴木 2016/04/29(金) 01:48:02.50 ID:P3uM/wrJ
HOが16.5mmゲージとなるのは、実物が1435mmの時。
その理由は、
1435mm÷87=1435mm
だから。 おまえら、
ビデオテープって、ど〜してる?
DVD変換してる?
懐かしい映像とかもったいないじゃん???
で、こんなトコ見つけた!
★★http://pcassist-tachikawa.jp/dvddub.html
PCアシスト立川
古いビデオテープをさ、
持込でも郵送でも、DVDに焼きなおしてくれるw
デザイナーさんがいて、
『タイトル+タイトル画』も付けてくれるw
既成とオリジナルとあってさ、
1)絵心のあるヤツは自作の絵でもOK!
2)ガキんちょの絵だって、バッチリ
3)写真だって決まるぜ
おれ、近くだから、思い出のビデオテープと絵を持ち込んだ。
涙出るくらいカッチョええwww
PCアシスト立川〜〜〜〜〜〜おすすめだぜ!!
w 最後の3年くらいしか知らないから
10年知ってる人が羨ましい。
昭和40年に撮影行けたら幸せ… >>597
自分も3年だったなぁ、S47から始めて49年の会津が最後だったかな、S50になったらもう北海道しか残ってなかったから、都内の高校生としてはハードルが高すぎて行かれなかった。 >>599
俺なんて小学校6年生で目覚めたから
撮影に行けたのは正味1年。
関西線無煙化で中学生になった頃には
日帰り圏にSLはいなかった(涙)
高校生なら北海道、九州行けるんとちゃう? 昭和49年ともなると本州の営業蒸機はほぼ壊滅、九州も本線仕業は限定され最後の砦は北海道
社会人にはともかく中高校生の身分ではバイトして夏冬休みにやっとこさ
実質的な営業蒸機の時代は昭和47年で終わった気がする >>602
細かいが俺的には昭和48年。
関西線、紀勢線、中央線の無煙化だわ。 誰だよ昭和50年の大学入試をわざと失敗して北海道に通いつめたのは
はい!僕です >>604
という事は、浪人時代にSL撮影三昧か?
昭和51年の入試結果も悲惨だったのでは… >>606
鋭いですね、二浪で諦めて実家の農業継ぎましたw >>607
なかなか幸せな人生じゃないですか。
浪人して大学入って普通のサラリーマンなんかよりw DD51とDE10が憎かったが、今思えばDLももっと撮影しておけばよかった >>609
仕方ない フィルムのひとコマは血の一コマ
シャッター一回ごとが貴重だった。
‥‥そのわりに変なもの撮ってたりするが 当時は田舎の駅前商店でもネガなら売ってたもんな
ただ灼熱の真夏にはアイスやコーラになけなしの五百円札を出す あの頃コンビニがあったら便利だったろうなぁ、おにぎりなんか売ってなかったし、それこそ駅の売店で不味くて高い菓子パンが主食だったから。
今だったら着替えた服を宅急便で自宅に送りつける、なんて手口も使えるが、あの頃は1週間でも着替えなしで同じパンツをはきっぱなし、さぞかし臭かったろう(笑) 前にもレスあったかと思うけど参考のために‥‥。
昭和43(1968)〜47(1972)の大きな主な名所・名撮影地のラスト(国鉄)
昭和43年(1968)10月 奥中山D51三重連
昭和44年(1969)10月 川越線9600、都心の蒸機牽引客車列車廃止(上野・両国・千葉)
昭和45年(1970)10月 呉線C59・62「あき」、鹿児島電化C60・61、首都圏無煙化・八高線・高島貨物線
昭和46年(1971)10月 C62重連「ニセコ」、奥羽C61・D51、矢立峠三重連
昭和47年(1972)
3月 布原三重連、大畑ループ(矢岳越え)D51、
10月 小海線C56、羽越・白新線電化(笹川流れ)D51・C57
※昭和48〜51はもう大きなものはなくなり、煙があればどこでもという感じになってきた。 昭和48年(1973)
3月 五能線8620、肥薩線(八代〜人吉、吉松〜隼人)C57・D51
5月 D52ラスト(長万部)
6月 木曽路のD51(塩尻ー中津川 電化)
10月 千歳線、江差松前、日高二つ目C11、岩内二つ目9600、明知C12、
関西本線加太越え、紀勢・参宮、山口、香月・室木、佐賀・唐津など
昭和49年(1974)
3月 南宮崎電化C57・C61・D51など(南国宮崎のカマ)、七尾、石巻、陸羽東線C58
6月 D60ラスト(筑豊)
10月 本州・九州ラストシーズン(会津・山陰・北九州など)
11月 C56ラスト(木曽福島入換・本線は三江線)
昭和50年(1975)
1〜3月 南九州ラストシーズン(高森・湯前・志布志・日南・日豊入換など)
3月〜12月 北海道ラストシーズン(夏&冬)、D61ラスト(深川 4号)
12月 日本最後の国鉄蒸機定期仕業(旅客・貨物)室蘭・夕張線
昭和51年(1976)
3月 日本最後の国鉄蒸機仕業(追分入換) ナンバープレートの盗難相次ぐ
有名撮影地でゴミの山
無断で機関区に入る
罵声大会のハシリですな >>613
北海道で昼飯に買った
「味噌パン」が懐かしい。
まだあるのかなぁ 筑豊の蒸気機関車は
直方はバラエティー、田川は専門的だった。
D51ならば香春駅だった。 森のいかめしが当時は安くて結構大きいと思ってたが
その後何年かしてデパートの駅弁フェアで見たときは異常にちっちゃくなって値段が反比例して大幅に上がってた覚えがある 冬の北海道撮影行は
凍死・金欠・餓えそして熊出没との闘いだった >>622
雪が少ない年に線路の反対側で見た先輩がいた
いざとなったら三脚で戦うつもりだったみたい 漫画『チャレンジ君』に山中での撮影中に野犬が出没するシーンがあったが
当時はまだまだそういう危険もあったのではないか >>620
冬も時々空腹で冬眠から目ざめたクマが出るから気をつけて大声出せよ
と常紋信号所で教えられた >>620
冬はフイルムが凍る
シャッターが下りないまま列車通過
正月ウヤ
吹き溜まりにハマる
夏は虫の攻撃
炎熱地獄で汗だく着替えなくなりホームレス臭
煙が薄いよ 東北本線上野〜宇都宮間なんですけど、昭和何年ごろまで、
蒸気機関車が走っていたのでしょうか?ついでに蒸気機関車の種類は
なんだったんでしょうか?どなたか教えてください。 >>627
上野ー宇都宮間の定期旅客は
1958年4月の電化でC57・59からEF58・56へ移管
一部の臨時や不定期旅客は同年9月頃まで残る
大宮ー宇都宮間の貨物の一部は電化後も1960年5月頃まで残り
D51からEF12・15へ移管
日暮里ー田端間の貨物の一部は常磐線運用として1968年4月頃まで残り
D51からEF80へ移管
赤羽ー大宮間の貨物の一部は1969年1月頃まで残り
D51からEF12・15へ移管
上野ー日暮里の貨物は不明
機関車の移動や休車指定から逆算するとこんな感じっぽい
事故がらみの救援機や工臨など特例は除く >>624
常紋トンネルは曰く付きだと聞きましたが >>629
朝鮮人の強制連行の話なら、全部嘘とは言わんが、かなり盛られた話らしい
何せ、それを書いたのが二世だか三世だかで、感情移入したんだろう
常紋トンネルの使役についた大部分は、旭川、網走の囚人(ほとんどが日本人)
その中に何人か朝鮮人も入っていたらしいが
一人でもいれば10人100人となるのがあちら流だから
と、地元の古老から聞いた 630追記
タコ部屋労働については、人柱が出てきたくらいだから推して知るべし >>627-628
東北本線の勾配回避と常磐線南部の逼迫ぶりから一時期大宮―長町で水戸線経由の貨物を設定してたが
大宮操―水戸(間々田から短絡線に入る)が電化でEF80に置き換えられる1967年春までは大宮か水戸区のD51牽引だった >>630
囚人労働は年代が違う。
それは明治の初めで、道路建設が主で鉄道は割合としては少なめ。
常紋トンネルの時期には朝鮮半島出身者は大勢いた。
タコ部屋なので強制もあっただろう。
ただし、本土だろうが朝鮮半島だろうが出身地を問わず連れてきた。
中番台などにのし上がって暴力をふるった半島出身者だって当然いた。
色々ごちゃまぜにした酷い記事は多いが、あなたもそうだw しかしダイヤを熟知してるからって長いトンネル通って撮影だなんて若いからこそ出来たんだな
今は俯瞰で小高い丘に登るのでさえ四苦八苦 >>633
地元の古老が言ったと書いてあるが、あんた幾つだ? 常紋と上目名はトンネル歩かないと適当な撮影地にただりつかないから仕方なかったが
ジメジメしたトンネル内に生臭い匂いが立ちこめてたのが印象に残っている
一日で10kmぐらい荷物背負って歩いてたのも今では信じられない >>633
> 常紋トンネルの時期には朝鮮半島出身者は大勢いた。
これについては、見解が別れている。
私も地元で話を伺ったことがあるが、>>630に近い内容だった。
それを踏まえると、君が実際に見たと言うなら別だが、そうでないなら水増しはあったと考えるべきだ。
> タコ部屋なので強制もあっただろう。
> ただし、本土だろうが朝鮮半島だろうが出身地を問わず連れてきた。
> 中番台などにのし上がって暴力をふるった半島出身者だって当然いた。
これについては同意。
> 色々ごちゃまぜにした酷い記事は多いが、あなたもそうだw
この余計な一言は、君自身も自覚すべきだよ 囚人の強制労働についてはきちんとした資料があるんだよ。
古老とやらが勘違いをしている。
間違いを伝承するとは困ったものだ。 少し考えればわかることだけどな、同じトンネル工事の現場でだ。
1)強制連行された朝鮮人
2)囚人労働
3)タコ部屋
どうやって交通整理すんだよw
現場大混乱必至じゃねえか?
三つも要素が並んだ時点でおかしいと気づけよ。常紋トンネルは人権侵害の博覧会かよ。
一番怪しいのが強制連行で、正体はプロの朝鮮出身土工夫であろうと、名簿の出生地が朝鮮であれば強制連行に違いないと騒ぐブームがあったんですよ。
いや、道東にそれぞれの要素が全くないとは言わないよ?
およそ半世紀ぐらいの時間に入れ替わりつつピンポイント的に存在した事象を、常紋トンネルを機会にすべてダーッと並べて話しただけじゃないのか?
ついでにいうと古老とやらが若かりし頃は、一般農民のタコ部屋労働者に対する差別意識は強烈であったともいうぞ。
普通は語ること自体が苦しいという人が多いんだ。古老の正体を疑え。 >>640
黙っていようと思ったけど>>637の証言があったからレスすることにした
古老について
古老の親父さんが、常紋と何らかの関係があったらしい(既に他界)
常紋の人柱発見とその後
常紋で人柱が見つかってから取材が増えたそうだ
中には通訳を伴った連中も来て、朝鮮人は特に被害が大きかっただろうとか、人柱は朝鮮人だろうなど
人数も含め誘導尋問的な取材も受けたそうだ
以後、常紋のタコ部屋労働=朝鮮人みたいに言われるようになったらしい(古老本人)
ここで俺が思ったのが慰安婦捏造事件だよ
慰安婦捏造以外にも歴史を認めない韓国のお国柄、朝日をはじめとする日本メディアの左傾化
それで>>630のレスへと繋がった
常紋の過酷タコ部屋労働は事実。朝鮮人が含まれていた事も事実
俺も聞き違えてるかもしれない
古老も記憶違いがあったかもしれない
ならメディアも疑うべきじゃないの
俺はただ、南京や慰安婦問題のようにはなってほしくないと思っただけなんだよ まるで■国人みたいな威圧的な上から目線に疑いを感じるな
> どうやって交通整理すんだよw
> 現場大混乱必至じゃねえか?
中略
> 一番怪しいのが強制連行で、正体はプロの朝鮮出身土工夫であろうと、名簿の出生地が朝鮮であれば強制連行に違いないと騒ぐブームがあったんですよ。
この状況でなぜほとんどが朝鮮人だったと言い切れるのかねえ 網走刑務所の囚人使役は常紋トンネル開削以前に廃止となっており
同トンネルは手配師によって東北や北海道内から主にかき集められた人足主体で、一部北海道開拓農民の雇用と合わせて掘削された
しかし朝鮮人がいたのは事実でも、朝鮮人が特に多かったわけでもない
また、当時の現場作業は基本どこも似たようなもので騙されたり借金のかたにやむなくやらされた例は数知らず
特に常紋トンネルだけが突出してタコ部屋の悲劇があったわけでもない 併合直後の微妙な時期に強制連行なんて出来る筈もなく
そもそも併合後大量に流れこんできた朝鮮人労働者に手を焼いてたのが事実なんだよね 日朝韓関係の現状、国内メディアまで日本に不利な捏造するんだから、日本人が朝韓寄りの資料に疑念を持つのは当然だわな。 あの頃のこの時期は趣味誌の7か8月号が出てて、10月の改正でどこから煙が消えるのか
どきどきしていた頃だったな。
そした来る夏休みにどこへ行くか? いやその前に試験でちゃんと点をとらないとどこへも
行けないし、バイトで資金もためないと‥‥。YHの予約のハガキも出さないと、と
いろいろ期待と不安が入り交じってたなあ。 YHって駅の近くが少ないし、時間にうるさいし、集会みたいのに参加をしろといわれたり、そもそも往復はがきで申し込むのが面倒くさいし北海道で数回やって懲りてやめたなぁ
駅の待合室、夜行移動、親戚縁者宅、鉄道官舎、保線小屋が定番
洗濯しないし風呂も入らないから夏場はホームレス化して自分でもヘドがでるようになって、小川で泳いだり夜中に小学校のプールに入った覚えがある >>630>>641氏の書き込み、もっともらしく書いているけど、全て伝聞の形だから説得力に欠けるな。
「証言者が亡くなったから証明できないけど、そういっていたから正しい」と鵜呑みにするのは、従軍慰安婦問題でポカを犯した朝日新聞記者と何も変わらない。
定説とされるものを書き換えたり修正しようとするなら、それなりの情報を差し出すべきと思うが。
おっさんが言いたいのはそれだけ。 偉そうにレスしてる>>651の言ってることも全く説得力ないわな
つか、どうして上から目線なんだ?何様のつもりかね?
そんなんじゃ敵が増えるだけだと思うが 何が何でも常紋に朝鮮出身者が大勢いたことにしないと何かマズいのかな?
あちらの血を引く>>651としてはどうしても譲れない理由があるんだろうと推察
あちら系メディアの関係者だったりして(笑)
>>653ゴメンよ
641の反論がないのをいいことに調子に乗ってるガキ大将がいたから >>652>>654
自分も長々と講釈を垂れといて、いざ自分がいわれたら上から目線だの何様だの、都合が良すぎるね。
そしてあちら系だのレッテル張りとか、子供地味た捨て台詞吐くような人間にガキ大将呼ばわりされるなんて心外だ。 もう一度言っておくよ
日朝韓関係の現状、国内メディアまで日本に不利な捏造するんだから、日本人が朝韓寄りの資料に疑念を持つのは当然だわな。
ということだろ?
これ以上素人時代考証人が議論を続けても、不毛な論争にしかならないと思うんだが?
さあ、本題に戻そうか >>655何か誤解してるね
俺は>>645>>652>>655だよ >>658
なんか関係のない人にまで迷惑をかけてしまったね。申し訳ない。
不毛な議論にしかならないし、スレの主旨からも逸脱した議論が続くのは好ましくないから、ここでやめておくよ。 常紋爺鉄討論終わりましたか?
お二人とも落ちついて、二人で仲良くアンカー間違えてるからw 常紋T話を持ち出した若造です、先輩方どうも済みません
撮影行で長いトンネルを歩くなんて今では考えられないので
でも面白い議論でした、なんなら「昭和40年代鉄道趣味で体験した裏事件簿」スレでも建てましょうか?
えっ?余計な事だ!火に油を注ぐな!ごもっともです やったらやったで面白そうだけど
ほぼ間違いなく、ウヨサヨの代理戦争スレになると思われw 馬鹿たれども。
あんたらは、荒らしです。
一言もいらない
ごめんなさい そう言えば>>641のレスないね?
641の言い分も聞いてみたいな・・なんてw レスすれば不毛な議論になることは容易に想像できたし、そうなれば荒れることも分かってた
なのでレスしようと思わなかったし、する気もない
暫くこのスレに来る気はないので安心していいよ >>670
荒れるとわかっていたなら最初から書き込むなks スレタイに騙された俺が馬鹿だったよ
こんな年齢層高そうなスレにまで、あんたみたいなのがいるとは思わなかったから
レスした俺も何だが、あんた荒らしてる自覚ないだろ
バカバカしい… もういい加減にしろよ、良スレだと思ってたのにガキスレかよ…┐(´д`)┌ >>671 >>674
何でこんな大人気ない人がこのスレにいるの? お取り込み中悪いんだけど内輪もめでいちいちageないでくれる?
スレタイにひかれて来ちゃったんだけど・・・orz このスレでこういう展開、正直ショックだった
無意味に何度もアゲられたから無関係な野次馬が加担したんだと思いたい…
また厨房が出たら、このスレあぼーん設定する 常紋トンネル歩いた経験者だけど、当時は信号場でも通行黙認してたし
トンネル内も列車通過時に充分退避できるスペースがあった覚えがある
トンネルより下が見える餘部橋梁の方が怖かった >>681
餘部は、足元から風が吹き上がってきて気持ち悪かった
キン○マが縮み上がるとはこのことだ。と思ったよ 流石、年季の入ったテツヲタらしいスレだなw
コミュ障の見本市みたいな展開にワロタww >>683
貴殿のヲタった脳ミソよりはマシですよwwwww しょうもない釣りに反応するなよ…
周りの先輩テツが九州や北海道ばかりに目を向けていた頃オレは亀山通いをしてた
つーかガキだった俺には亀山しか行けなかった
しかも始発で行って明るいうちに帰路についても帰宅する頃には日が暮れていたから通いという言い方も大袈裟かも
ガキの腕じゃロクに記録も残せなかったが記憶にはしっかり焼き付けることができた
何度か鳥羽往復したが子供心に蒸機は乗るより見ていたほうが魅力的だと実感したな >>684
クソワロタwwwwwwwwww
しょうもない釣に反応するなよヲタったクソ脳ミソくんwwwwwww 該当スレがなさそうにつきここで質問
NHKの深夜フィラーで流れてる昭和のSL映像館、いつも途中で切られてる感じだけど
おしまいまででどれ位の長さでしょうか >>689
九州・四国編#4だとヒストリーchでやってたの正味30分だな
それ以外は録画してないから知らないけど >>689
第1集、「九州・四国編」「西日本編」「東日本編」「北海道編」「新日本紀行編」各30分。
第2集、「九州・四国・西日本編」「東日本・北海道編」各60分。「さよなら運転編」30分。 お早いご解答感謝です
フルで流してる時に録画チャレンジしよう
>>690-691に多幸あれ! >>692
音声ないことが、唯一悔やまれる。
ドラフト音を味わえないのがねー。
でも、貴重な映像には違いないな。 当時に青春を捧げ東奔西走されておられた先輩がまた御一人逝去された
「写真を頼む」と言い残されて、合掌 >>685
俺は奈良通い。
関西から亀山は遠かったので2回しか行ってない。
C50に間に合わなかったのが残念だった。
一番好きだったのはC57198緑ナンバー。
赤ナンバーは奈良にごろごろいたけど
緑のナンバーを見たときは衝撃を受けた。
鉄道ファンで中津川の青ナンバーを見て
もっと衝撃だったがw 一番濃かった?青ナンバーは昭和48年(1973)の「鉄道101年」で
ほぼ専用機になって快速「木曽路」を牽いていた中津川のD51101だなあ。
写真によって発色が違うのか、俺のネガのは「青」というより濃い水色になってる。
いまは静岡県の島田市の公園で余生を送っています。 101号機は昔、島田で見たときはボロボロだったなぁ。
今は綺麗になっていたりするんかな。
「北辺の機関車たち」が復刻されたらすぃね。
蒸気機関車EXが近所の本屋で売ってにゃい(´・ω・`) >>697
先日、見てきたよ。そこそこ整備というか塗り直しはされているようできれいにはなってた。
まあ厚塗りはしょうがないけど。ナンバーはレプリカで黒、なんといってもお子様「登山」防止用の
ネットというか網というかが物々しかった。屋根付きなのでまあ安心。
考えてみたら101号ってD51の標準型(非ナメクジ)の三桁ナンバーのトップなんだよね。 >>696
名鉄局の機関区は色付きナンバー好きだったんですね。
中津川のD51はみんな青だったんですか?
名古屋、美濃太田、豊橋=赤
中津川、大垣=青
米原、亀山(の一部)=緑
美濃太田や豊橋はC50も赤ナンバーだったとか。
撮影したかったが間に合わなかった世代。 名古屋鉄道管理局管内の蒸気機関車は
ナンバープレートを赤とか青とかで機関区を識別していた。
門司鉄道管理局管内も赤とか青とかで機関区を識別していた。
緑か紺は、門司機関区
香椎と吉塚は、赤であったという。 D51522(中)は青ナンプレだった
当時撮ったカラー写真で確認した 昭和48年に小学校に入学した若輩者です
昭和44年に鉄道ファン誌が発行販売した(臨時増刊号ですかね)特集:蒸気機関車撮影地ガイド
今買ったとしても記録観賞って以外の価値は無いでしょうか?
かつての好撮影地も軒並み風景が変わったり樹木成長などで近づく事さえ困難な場所も多いみたいですが >>706
撮影地紹介としての価値ということなら、
当時の撮影名所で今は撮影困難って布原と野辺山鉄橋ぐらいじゃないの
もちろん、最近は犬走りつかって移動したり他人の田畑に無断で入ったりはできないけど
小沢や上目名、常紋、竜が森、冷水峠とかの名所もどう考えても私有地からみんな撮影してたはず
逆に道路から撮影できる名所なんてほとんど存在しない
鳥居峠や田野、矢岳くらいか
DCやEC撮影だと煙がアクセントになるSL撮影名所でもあまり絵にならないから実用価値はたいしてないのでは 筑豊地区の蒸気機関車は
直方は、バラエティー
田川地区は、専門的な考え方があった。
特に香春駅
D51だけならば大変便利。
直方は意外にD51が少ない。 あと10年早く、せめて5年早く生まれていたらとこの40年間思い続けていたが、定年間近になるとあー、これでよかったんだな。
と思い始めた。
ニセコ1号、3号を見ることができたことだけが宝物ですね。
奥中山、ゆうづる、呉線この3つを見れなかったことは、死ぬまで悔やみ続けるでしょう。
小・中学生にとって、都内から移動にかかる金とフィルムの貴重さは、今だとちょうどモンゴルの奥地に建設型を撮りに行く以上の感覚ですね。 >>710
全く同感。
俺は関西なのでC62ニセコなど高嶺の花…
関西本線を見れただけだったが(涙)
小学生には九州のSLも遠い存在だった。 首都圏の無煙化からもすでにもう47年だもんなあ。1969〜70の房総・成田・川越・八高・高島貨物線などが
次々に無煙化されていくのをギリギリ間に合った世代としても。 >>712
それだけ間に合ったら十分だろ。
羨ましい そうだ我々世代は昭和40年代前半に生まれておきながら地元のを見るだけでも幸運、数が数だからタッチの時間差で見る事も叶わなかった
せめてDSiがあったら撮れてたのに >>712
鶴見では、なんだD51か・・と思っていた子供ですた。
東京駅のブルトレに飽きて上野に成田線のC57、遠征して大宮機関区へも。
そんな感じでしたね。 昭和45年(1970)
3月 四国ラストシーズン(牟岐・小松島)
10月 呉線C59・62「あき」、鹿児島電化C60・61、首都圏無煙化D51791、
足尾C12、八高線D51など C59ラスト(糸崎)、C60ラスト(鹿児島)
昭和46年(1971)
3月 二俣線C58、山陰京都口C57、宮津9600・C58
10月 C62重連「ニセコ」、奥羽(秋田〜青森)無煙化C61・D51、矢立峠三重連
花輪線8620、小浜線C58
昭和47年(1972)
3月 布原三重連、大畑ループ(矢岳越え)D51、米坂線9600、B20ラスト(鹿児島)
10月 小海線C56、羽越・白新線電化(笹川流れ)D51・C57、梅小路開館
鉄道100年記念列車(各地)、D50ラスト(直方)
このへん追っかけっこだったなあ、ダイヤ改正が来るたびに趣味誌を見ながらヒヤヒヤして。
(もちろん全部行けるわけでもないのに)
そして次の(夏・冬・春)休みにはどこへいこう?と計画だけたてる。 716の言うような
全国を撮影に行けるような
時間とカネのある人は
当時でも少なかったんじゃない?
俺は小学生だったから無理だったし、
リーマンは時間がないしな。
家が裕福な高校生、大学生くらいかな…羨ましいがw >>717
公務員ぐらいだなぁ
あとは国鉄職員か
当時の趣味誌投稿常連は大学生とそいつらが大半 間もなく廃止となる夕張線=石勝線支線
昭和45年以前はデゴイチと言うよりD50とキューロクが主役だった。
周辺の私鉄・専用線も末期はキューロクだけとなったが
9200や8100・4110、コッペル・11形とSL天国だった。 >>718
確かに国鉄職員なら
職員パスを使って全国タダで移動できるし
休みも比較的取りやすいよな。 >>721
当時の国家公務員は下っ端の給料は安くても官舎なら可処分所得はそれなりだし
休暇は取りやすいし、購買部で公務員用特価でフィルムも買えるし
全国各地の旅館割引もある
地方公務員は知らん 適当ビジネスニュース報道プロ級世代新社屋TRUMPTOWER左遷「仏」40代監視カメラ使用コンプライアンス速報駐車場 (入社拒否
トランプジョーカー切り(創価大学消防庁コストカットアイドルマスターパイナップル株式会社)30代好評人気連載漫画「ヒカルの碁お前ら何や」
NHKトランプ大統領ニュース(ヤフージャパン上院社員特別生活費支給旅行沖縄汚染水スキンケアテレビ東京ギャンブル依存症顧問職員稲田籠池豊田
40代社会人集団ストーカー対策ーhondasouichirouー 横浜マドリッドスペイン上西フライングファイアーウォーターサーバーダイビングドライブシュート川中
中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティー(反日飛行機雲農薬散布マスク女問題)駅内マスクオンNACNN向け原文ママニュース 今回もスムーズなお取引を頂きありがとうございました。又よろしくお願い致します。 明日は12月14日‥‥。もうあまり話題にもならなくなってしまったなあ。
42年もたつんだから。 C57135 D51953 D51241 79602‥‥。 実質は43.10あたりが区切り
1971年以降はほとんど燃えがらみたいなもの 最後の10年でも前半の1966〜1970と1971〜1975ではSLにとっても国鉄としても全く状況が異なる
1971以降SLは亜幹線の主役からもはずれてどうでもいいような運用に落ちぶれた(本線とは名ばかりの路線含む)
そもそも'70年代にはいると輸送手段として自動車が圧倒的に優位に立った
労組の順法闘争により大手荷主も離れた
'71年以降の現場は管理職・鉄労と国労・動労の対立で殺伐としていった 最新SLダイヤ情報の電子書籍版が出てる。
スキャンして垂直を補正しただけらしく写真の質は最低。
だがタブレット等で持ち運びは抜群。古書への気遣いも無用。
値段を見れば、もう古書店は相手にしなくていい。
カトーNゲージの広告など、微笑ましい。 できれば45-46年かな・・ニセコ見たいし、実際小学生時代で見られたのでは
宮崎にC61が入ったばかりの頃をもう一度。 五輪で「LS北見」が言われるたびに「SL北見」を思い出す。
北見機関区訪問したなあ。 北海道は広すぎて、時折どこの地名か判らなくなる。
思い込みの場所と地図上で見つけた場所が、ほかの県であれば隣の隣の県ぐらい離れていたりw まるで野原ひろしさんが抱えている自宅のローンみたいに…。 9201、9237の活躍した三菱鉱業大夕張鉄道。素晴らしかった! 自分が小学生の頃、大コン9200とか、モガル8100とかすでに消えて久しく、古い写真集などで見ても、当時は何がいいのかサッパリ判らなかった。
価値に気付いたのは、けっこういいトシになってからだったなぁ(笑) 725幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 2018/04/18(水) 14:39:30.41ID:sb1JN3os0
自動車やモーターサイクルのエンジンの弁方式のサイドバルブ(SV)って
蒸気機関車のスニフティングバルブから発展したものなの? >>739
機関車の系譜図だって4巻ばっかし読み返してたよな 8100や9200に慣れ親しむと、生産国アメリカの鉄道には何百倍ものプロトタイプがあることに気付く。
鉄道模型の製品数の差は圧倒的だ。
でも数は多くても、写真撮影が一般化した時期と室物が姿を消した時期の時間差から、「イイ写真」は案外少ない。
で、中国になると、これは今も姿を消したけれどもカラーの動画で【いいシーン】が大量に残されることになった。
アメリカ、日本、中国と、消えた時期と技術革新の時間差が面白い。 思い出せば、昭和49年頃まだ高校だったのに、2月の常紋信号所へ金華駅から1人で歩いていったものだ。いや常紋に限らず、植苗駅から室蘭線千歳線の交差のところとか。もう年寄りになった最近、昔の撮影地とか巡っている。今はレンタカーを使うから簡単に行けるけど。 昔よく見てた番組が2つあって、c571の「よみがえれ貴婦人」と、c62がメインの何か?だった
このなにかが全然思い出せなくて探しています…内容的には眼鏡のオタクっぽい人?が現地で解説してた
覚えているナレーションは「急行ニセコ号としてひた走ったのです」「ひたすら前を見」これだけ…
最後の方はなんか海外の機関車フェスティバルみたいなのを紹介してたかな
EDはSLの先頭にカメラ置いて走ってる線路をずっと映しているような感じ
これでわかったらある意味おかしいかも >>845
それは北海道のTV局(札幌TV?)の製作した「よみがえる汽笛 巨大SLC62の復活」という番組ですね
一度だけオンエアされて偶然VHSで録画していました。その後DVDにダビングしてあります
その後DVDで発売になりましたが、当時主催した鉄文協とJR北との間がギクシャクしたことでか、
大幅にカットされた部分と、かわりに追加された部分があり、タイトルも変更になって・・
「スイッチバック」だったかなぁ(?)その北海道のTV局から発売されてますよ。 C51の汽笛ってどんな音だか分かります?
お馴染みの音色の汽笛はアメリカ製C52を参考にしたものと聞くから
C51の頃はまだ86や96のような特徴ある音だったのかしら 形式ごとに汽笛を設計していた訳じゃないですよ?
共鳴室の数で何種類かに分けられるだけです。
個々の番号で言えば、稀に世代が異なる汽笛がついて出場することもあったようですが、
すぐに判りますのでファンが記録していることが多い。 また本年もやって来ましたC57135の日
室蘭駅は雪でした 12月15日三菱大夕張鉄道一部廃線、28日蒸気さよなら またこの日がやってきましたか。1975年12月13日、東北本線は事故があって
ダイヤが大幅に乱れて「はつかり5号」とかが運休、あしたに備えて渡道するファンが
上野駅で途方にくれていたっけ。 室蘭駅は雪の中
多数の客の乗車に手間取ったのか
発車はずいぶんと遅れました 1975.12.24 貨6788 夕張線も間もなく歴史の彼方へ >>755
リリーズがさ、故郷の夕張の夕張本町駅をバックにしたグラビアがあったよね。 夕張本町の廃止は1971年。リリーズのデビューは1975年。夕張駅背景のグラビア 首都圏から消えた69年あたりが実質の終焉
それから先は燃えがら
動労国労の闘争ペンキ時代にはいってからはなんの感慨もない そもそも撮り鉄バッシングされる行為を始めたのが団塊世代 C51が早い時期に運用終了したのがなぁ・・・
貴婦人ってC51の方が相応しいような気がするけど 86、96はSL末期まで走ったけど、C51は動いてるの見たことない >>763
動いてるのまともに見てるやつは70才以上だろ さて明日は12月14日なわけだが‥‥。
もう誰もレスする人がいなくなる予感
いわゆる「現役」を実見した世代が完全にいなくなるにはまだ十数年かかるけど。 さて今日は12月24日なのだが‥‥。
誰もレスしないんだろうなあ。 さて今日は12月24日なのだが‥‥。
女に相手にされない女房娘に捨てられたキモいハゲ散らかしたおっさんのヲタはChristmas Eveが憎くてたまらないから誰もレスしないんだろうなあ。 9600の後継機が新規開発されなかったのは、余ってたから、なのかな。
D 51に職場奪われる傾向はある訳で、D 52→D 51→9600という玉突きが起きた。
C11にも職場奪われそうだし。 高木 蒸気機関車技術論に対する疑問以上のもの
ttp://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/111C0000001-118.pdf
C53型蒸気機関車試論
ttps://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/111C0000001-62.pdf ↑
他人を馬鹿にしようとして自分の馬鹿が露呈した何ちゃって大学教授 ttps://www.imon.co.jp/models/book.mbr/slbij もう誰もここにはいないのだろうか
あの旅客列車最後の日からちょうど45年 前日の13日、東北線でダイヤ乱れて運休続出、北海道に渡れないファンが上野駅で右往左往していたなあ。 北海道は前年夏までしか行けなかったな
父がレンタカーで室蘭本線で並走してくれた事が忘れられない
九州出身でさすがに遠すぎ、
その代わり宮崎や鹿児島のカマは存分に 3年前でほぼ住民消えてたんだなw
Twitterに60代70代で写真UPしてる人ウヨウヨいるのに
2ちゃん→5ちゃんが用途廃止のほうが早いって事か >>785
幼少の頃、牧場の祭りで、似た様なの見たことある
トーマスにもあったな さてそろそろD51241の日だが、もう誰も来ないだろうな。 某スレで温泉ジジイと称される蒸気機関車オタクが発狂中 大晦日 年を越せたのは追分の9600 3両のみ
レス番が791なのはちょと嬉しい 高島線のサヨナラから50年か 国鉄最後の10年を語るスレができました
「あずさ2号」大ヒットの1977年春からJR発足までの1987年春までの国鉄末期を語ろう
【民営化前夜】1977年から1987年までの国鉄
http://mao.5ch.net/test/read.cgi/jnr/1623776275/ 最後の10年といっても
1966〜1968.9 まだなんとか息してる
1968.10〜1970.9 息も絶え絶え
1970.10〜1974.3 ほぼ臨終
1974.4〜1976.3 死に体 普通の蒸気を知っている人もすでに高齢化&掲示板離れで過疎しまくり ミニ四駆のモーターすげえ熱くなるよな
ミニ四駆と比べもんにならんこのでかい奴が
走りっぱなしだったら熱でお湯くらい湧くよな
んでお湯の湯気で動かす物体なんだろ
蒸気機関を維持するのに火いらなくね?
釜を水で冷やしながら走行するもんと違うのか SLマニアは性倒錯者だ、と週刊誌から軽蔑されていた、そんな時代だった。
SNS上で当時を思い起こす事自体、馬鹿馬鹿しくなる。
こんな糞スレは無くなってほしい。 過去を振り返ることをやめれば、また同じ考えで同じ失敗をやらかす人が出てくるかもしれない。
無批判に過去を美化するのでなければ「振り返る」ことに意義がある。 >>796
お前は運動さえしてれば食事しなくとも生きていけるのか?
>>799
埋蔵量は相応にあるが石油と違って地面に噴出して来ず掘れば掘るほど地中深くなるのが難点
(露天掘りとかあるにはあるが) 12月14日
46年前になるのか。前日に東北本線の事故でダイヤが大幅に乱れて運休続出、上野駅で夜行列車を待って途方に暮れている
カメラバックとリュックの集団がいたな。 あの日C57135を追いかけた
先日大宮で久々の再会をした >>801
お前は水さえ飲めば飯喰わなくとも生きてゆけるのか? 多分きっとそういう問題じゃないと思う
蒸気機関車の食べ物はお湯を沸かせれば良いんだから
結構雑食 しかし最後の10年当時の有名な撮影地いまはもう木は伸び放題で線路も新線になったり廃線になったりで面影もないんだろうか
数年前八高線の金子駅の南側の踏切に行ってみたが駅の方向はあまり変わってなかったが
反対向きは見渡す限りの茶畑だったのが、みすぼらしい建て売りや雑草のはえてる空地の先に圏央道が走っていてまるで別世界だった 川越線の南古谷も電化後に激変しました。あまつさえ、電車区ができて4ドア10両の編成が常駐してます c56は煙突となりの蒸気口をスーペースシャトルみたいに後ろ向きにしたら省エネだったと思う >>813
バケットカーを「正しくはバスケットカーだ」って訂正厨がいたけど
結局は原語的にバケットで合ってるんだったよね。 BSフジ 鉄道伝説、「D52形蒸気機関車〜最強の決戦機関車を開発せよ〜」10/22放送
BSフジは2022年10月22日(土)、「鉄道伝説『D52形蒸気機関車〜最強の決戦機関車を開発せよ〜』」を放送します。時間は12時〜12時30分です。
D52形蒸気機関車(SL)は、太平洋戦争中の1943(昭和18)年、国内の石炭輸送を支えるため、史上最強の決戦機関車として誕生しました。
しかし、戦時中の乏しい資材を節約して製造されたため、本来の力を充分に発揮することなく戦争が終結、そのまま姿を消すことに。その後、装備改造を施され、本来の姿に生まれ変わり、東海道・山陽線でそのパワーを存分に発揮しました。
D51形に比べ知名度は低いD52形でしたが、戦中から戦後にかけ、日本の貨物輸送を支えて走り続けた、SLの伝説に迫ります。
raillab.jp/news/article/28393
>>809
> しかし最後の10年当時の有名な撮影地いまはもう木は伸び放題で線路も新線になったり廃線になったりで面影もないんだろうか
[なぜ?]50年前の栄光の撮影地を訪れたら衝撃的な光景が...
布原信号場
www.youtube.com/watch?v=Aco3v-W3UnU やかんと同じような形状だと中も外もあんまし熱く感じないのか
やかんあぶねえ 君らに朗報
コロナからばんえつ物語ストーブが1000台限定で販売された。
古の汽車での旅を集団就職の思い出を味わい、この冬自宅で暖まろう。 更にキャンプに便利な黒いケースが付属し、黒いダンボールに入ってくる。
これは買うしかない。多少高いがお求めやすい価格。 もう12月14日になってもレスが少なくなるんだろうなあ あのシーンを見た世代も最小で中学一年生(12歳)としても、もう59歳だもんな。 蒸機の最後は実質S43.10か都市部全滅のS45.10
それ以降はせいぜい布原・ニセコ終焉まで
残りは日南3号とか大雪くずれ含めてどうでもいいカス メンテナンスができずに放置されてるものが多数
現実、二度と走れない 煙突から石炭をぶち込むタイプもあったのでしょうか
玉込め銃のように >>826
SLは、乗るものから観るものに変質するのです。 中國の奥地へ撮りに行ってた人
今じゃ厳しいだろうな さて今夜の上野駅は夜行列車に乗って北へ向かう連中が大量にいるだろう!
何! 列車運休? もう国鉄の蒸気機関車牽引の営業列車に乗ったり撮影した経験ある人って
どんなに若くても60才以上だもんな
昭和40・ またあの日が来た。
またひとつ歳を取った。
C57135に会いに行くか。 会いに行くなら昭和50年夏以降、日本最後のC57となった北海道岩見沢第一機関区配置のメンバーは、38、44、57、104,135,144の6両。 廃車後135の他は44号は愛媛県の西条市に、144号は岩見沢市に保存。解体されてしまったが38号の動輪は第1動輪が大田原市ぽっぽ公園に、第2動輪が小金井駅前にR、石橋にLが、第3動輪が兵庫県三田市に保存されている。 最後の岩見沢のC57って余所から流れてきてせいぜい長くても6~8年程度しか在籍してないカマばっか
最低10年は同じ機関区・路線にいたカマでないと愛着はでない >>831
昭和40年生まれの人って今年58歳だが 自分が3歳位までは地元で蒸気機関車が走っていてかすかに記憶がある >>835
復活ではなく通常の営業運転の蒸気機関車けん引列車に乗った世代では
たぶん自分たちが一番若い。大学入学時にはベルリンの壁はもうなかったがソ連はあった。 追分の機関庫の不審火は溶接工の火の不始末か漏電という話だが
おそらく組合の関係者もしくは特命を受けた外部のものの嫌がらせだろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています