国鉄日中線
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厨房の頃だったけど、鉄道雑誌の特集記事を見て、是非日中線に乗ってみたいと思いましたよ〜。
DL牽引になってからも。
国鉄最終時代、バイクで熱塩駅に行き、
乗車はできなかったけど(帰りの列車が無いし)、写真だけ撮りました。
渋い写真が撮りたかったけど、色々話していた若い(私より当然年長)車掌さんが、カメラを向けたらピースサイン(苦笑)。
渋くはないけどいい思い出になりました。
廃線後も熱塩駅には数回行きましたね。
私にとっては思い出深い熱塩駅です。 夜行で若松に着く 621レに乗る 熱塩まで往復して622レで戻る 日中は若松周辺観光とか会津・只見線へ
午後の列車で喜多方へ 欠きとりホームの客車へ移動 623〜624レに乗車
喜多方で珈琲などを飲む 再び学生たちとともに下り終列車625レに乗車
熱塩でがらんとなった構内にたたずみ 上り最終列車626レで夜汽車?の旅情を楽しむ
まだ東京では宵の口で飲み屋も賑わっている頃だなぁ、などと思いつつ
喜多方で野沢からの客車列車で若松へ
最終の夜行「ばんだい」もしくは郡山まで先行する客車列車で再び夜汽車を味わい、郡山でから夜行で帰京するもよし、
待合室で過ごして再び会津若松へ〜そして日中線へ
こんな旅を何回かしました。 なぜこの線は廃止までディ―ゼルカーが一度も入線しなかったのだろう。
DCなら熱塩での機関車付け替えの手間がかからず、合理的なはずだったが。 >>9
貨物(混合列車)の必要性があったと聞いたが、この程度の長さの線では説得力がないな 廃止が昭和60年〜62年ごろだったら、全列車気動車化されていたかも。 >>11
途中会津加納のみ有人駅で貨物も扱っていた。
停車中にC11が側線との入換をしていたのが懐かしい 「きょうだいきかんしゃ たろうとじろう」と「トマトせんせいのじどうしゃ」
この2冊の幼年童話に登場するC11型牽引の混合列車の走る路線は日中線で、
「トマトせんせい」とは自動車運転免許取得まで列車を利用して、沿線民の往診に
回っていた医師。
小学生の頃、教科書に「きかんしゃ やえもん」なんていうSLのものがたりあったなあ >>13
加納から喜多方なんて8.2kmしかないじゃない
何を運んでいたか知らないけど、国鉄でトラック1台借りれば充分運べるでないの 失礼。訂正です。
>>17
昭和47年までは近隣の鉱山からの石膏。閉山後は発送殆ど無かったらしい。
到着は肥料が時々といった程度。
こう考えると確かに貨物扱い続けていたのは不可解。
>>19
自分が乗った時もワムが1両のみ。
何積んでるかは不明だったが。 多分貨物廃止と気動車化は国鉄末期特有の労使問題が絡んで
当局も手出しできなかったんでないかな 熱塩駅でのんびりしてたらSLが動き出してしまい、あわててホームを追いかけて
列車を止めたことがある。気づいてくれた車掌さんごめんなさい。そしてありがとう。
喜多方に着いたら熱塩に忘れ物(落とし物)をしたことに気づき、また熱塩に戻る
羽目になったw
懐かしい思い出だな。 今も田んぼの中に踏み切りがポツンと残っててシュールな風景だよ。 シュールと言えば16年前の「旅と鉄道」誌の中で「日中線の廃線跡を辿る」
という記事があったんだけど会津村松駅跡近くのゴミ捨て場(?)に
何故か梅宮辰夫の等身大の看板が放置されていたという記述と写真が掲載
されていたね。
あれもシュールだった。 自分が乗ったのは、朝の一往復
オハフ61とオハ61に2両と記憶、ワムはなし
秋で寒い記憶
ただし、磐越再選の車掌さんに聞いたら暖房は次週からだといわれたので、日中線も暖房は無理と勝手に納得
混合はいつ頃まであったのでしょうかね 熱塩駅前の県道は大峠道路のアクセス道路として車の通行量が多かったけど、先月に大峠道路が全通したので
ローカル県道に戻ってしまいました。バスも日曜運休になってどのぐらいになるだろうか。
日中温泉は泊まったことないけど、熱塩は2度ほど泊まった。静かで熱くて塩辛くて、良い温泉だったよ。 国鉄時代の青春18きっぷポスターに
ここの保存客車が使われたんだっけ? その昔、蒸気機関車が廃止と聞いて、今は亡き父と乗りに。
途中の、いや熱塩かな、駅にNHKが来ていたな。
放送見たけど、俺は映つていなかつたよ。 乗車中に車掌と仲良くなった。
機関士も了解の上で熱塩駅のポイントてこを操作させてくれた。
トングレールが動いた時には感動した。 テコって硬いの?
電動転轍機の手動手回しならやった(軽いけど何回も廻すので面倒!)ことあるけど・・・ レバーをどっこらしょって感じで動かした。
硬いというより重量感があったよ。使用後はてこを施錠してた。
車掌と機関士に「楽しいかい?」って聞かれたな。 高校のとき初めて乗りました。夜行「ばんだい」から621レに乗車。まず塩川で下車。
(入場券購入)ついで後続の新潟行に乗車。喜多方で再度621レに乗車。終着駅に近づくにつれて
車掌さん以下なぜか「仲良し」になる。出した切符はほぼ全員「周遊券」!!
東北ワイドの者もいれば福島会津磐梯ミニの者もいたりした。(青春18は
まだなかった)終着の熱塩駅では皆で記念撮影。帰りも列車ではつまらないと
折り返す皆を見送り早朝の散歩。熱塩温泉にいくと早朝から開いている50円の
風呂があり入ってみる。(なんと混浴であった)
帰りは会津バスで喜多方へ。喜多方までは近道ルートと加納経由と2系統のバスが
続行運転。あえて遠回りの加納ルートを選んだ。加納あたりから混みだして
終点の喜多方駅前には立客もいるほどだった。当時は夏休みなので通学客はいなかったが
いまと違って田舎の路線バスもそれなりに需要はあったわけだね。 私が訪れたのは昭和57年の夏だった。
夕方の列車で熱塩へ行き折り返しの列車で戻った。
この折り返し列車は会津加納でしばらく停車するので下車印貰いの列が出来た。
もっとも通常の下車印は無いらしく「会津加納駅」という普通のゴム印を各自自分の切符に押しては次の人に渡していった。
ほぼ全員東北ワイド周遊券を持っており「耳なしほういち」状態の切符を自慢しあってました。
あれから30年近い時が過ぎました。
国鉄も日中線も混合列車も周遊券も会津加納駅のような有人駅もみんななくなってしまいました。
廃止になる少し前、実物大レプリカの[熱塩行][喜多方行][熱塩⇔喜多方]サボを持参してみた。
その頃実際に使用されていたサボは、不要のサボの文字をペンキで塗りつぶして駅名を殴り書きした酷いシロモノ。
車掌に許可を貰ってレプリカサボをサボ差しに装着させて貰ったら、わらわらと人が集まり撮影会が始まった。 改札口の横の柱に「私製スタンプ(「私の旅」風)がさがっていたこともあったな。
フレーズは「ロマンあふれる奥会津の終着駅」だったっけか。 街のラーメン店から3人前のラーメンとかつ丼(これも有名)を列車に出前をしてもらったことがある。
丼だけあっても扱いに困るので、大きなトレーに薬味一式、お茶入りの小ぶりな薬缶、湯のみも借りた。
発車の5分前位に喜多方駅改札口まで届けてもらい代金を支払い。列車が戻る時刻に器類を下げに来てもらった。
車内でいただく喜多方ラーメンとかつ丼の味は格別だった。
他の客や車掌は不思議そうな顔をしていた。 >>40
私が訪問した時は、ローマ字の部分に青い帯が入った新しいのを使ってた。
2枚吊下げてあって、若松へ戻す時のサボが下に重ねてあった。
始発は「熱塩」で、熱塩に到着すると車掌さんが「喜多方⇔熱塩」に差替えた… 数十年ぶりに行ってみた。
いまだに熱塩駅は当時のままに残っていた。
展示車両もあり感激した。 ttp://www9.plala.or.jp/omohansha/b4/b401.htm
この時代に戻りたいな… 上三宮駅は無人化後にボヤで焼けて駅舎を再建築したんだよね。
会津村松駅はほとんど柱だけだったんだが、よく駅舎が倒壊しなかったもんだ。
県境の大峠にながあ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜いトンネル掘って米沢に繋がってたら現存していただろうか?
もし繋がっていたとしたら、熱塩駅の先に福島県側の駅が一つか二つあって
山形県側最初の駅は「八谷」になっていたのかな。 県境の流動が只見線以上に無いだろうが、豪雪地帯で平行道路なしという条件で現存の可能性は高いな。
田中角栄が会津生まれなら実現してたろうに。 今となっては日中線米沢延長話は「たら、れば」世界のコトだけど
なんかちっちゃな夢があるな。 日中に運転しない日中戦とは・・
朝夕線じゃねえかw なんか勘違いしてる香具師が多いが
日中線は日中走ってるから名づけられたわけじゃないぞ? 米沢まで開通していたら「岩羽線」か「会羽線」「喜米線」とかになっていたかもね。 >>43
それ、連休中は記念館の保存車両に掛けてありましたよ。
盗られないようにハリガネが巻いてありましたけどw >>55
そっかー。
確かに野岩羽線計画ってのがあったよね。
列車だと本数は少ないけど、
沿線にバスの本数は結構あったんだよなぁ。
今は減ってるかも知れんけど。 国道の大峠が改良されて
「喜多方⇔米沢」のバス路線が出来るかと思ったけど
今のところその気配は無いね。
もしあれば会津バスと山形交通の共同運行かな? >>59
県境越えのバス路線はどこも少ないからなあ 日中線があるころの会津バスの熱塩日中方面の下り一番バスには
乗客輸送というよりも新聞やら給食のパンやらを輸送する使命があった。
>>61
新聞輸送は他所でも聞いたことがあるけど
給食のパンとは初耳じゃ。 レス番がさよなら列車牽引C11
無理だが今も沿線に残るこのカマにかつて走った石巻線の「復興
列車」を牽引させたい。 >>63
こちらも会津で過ごした動態保存(一応)機。 今日から6日間はかつてのおなじみ列車番号になるね。
621レ ファン御用達 実際は若松からの機関車&客車回送と
上りの通学客お迎え列車。
上野からの夜行からC11に会いにくる。少し遅れた人は後続の
DCで喜多方で追いついた。 >>64
64号機は動態ではないよ。動態にすれば、酉も出張運転しやすいと思う
んだがね。静態のままなら、青梅の1号機と交換して、会津で動態に
して欲しい気はする。 ブラタモリで「あいづむらまつ」の駅名板が映ってた。
紺地に白い筆文字が懐かしい… ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています