思い出の淡路交通電車
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かつて、淡路島にも電車が走っていた…
洲本と福良間を結び、昭和40年代に消えていった淡路交通の鉄道線について
語って下さい。 幼少の頃、祖父から聞いた話だか、どうやってあんな大きな鉄道をこさえたの?、と聞いたら「エジプトの奴隷が沢山来てなあ」と、教えてもらった。 >>8
素晴らしい充実した内容のサイトですね。
そういえば、廃止後の施設撤去や車輌解体シーンがたくさん載ってるサイトもありますね。
かなりショッキングな画像もありましたが… 此処って 昭和30年代前半までマメに車両改造したりして鉄道事業に意欲的だったのに、
何故その後 急変して昭和41年に廃止になったのですか?
S36の鋼体化が、新造車体から阪神中古車体になったのが、転換期? そうですよね。
垂直カルダン駆動を自社で独自に開発したり、
スマートな車体に更新したりと意欲的だったのに
急に廃止へ舵を切った経緯を知りたいですね。 >>12 2・3年前 淡路交通 だか 廃線跡でネット検索したら、淡路島(旧沿線)に
貨車のダルマが残っていたようなサイト写真見たよ。
勿論こういう情報は、意外とあっさり状況変化で潰される事が多いので現在は、定かでないが・・・
個人的には、南海譲受車で 加太から里帰り後再度 淡路に卵型正面5枚窓電車と共に島流しにされた
電化時導入のモハ1001→クハ101を日本最古の私鉄南海が引き取り(因縁もあったのに・・・)
残さなかったのは、南海の愚策だと思う。
それと、この規模の他線と線路を接しない鉄道にしては贅沢?に所有していたモニ501は、
何故にアレだけ、南海勢とプロパーガソ改電車オンリーの中で国鉄譲受なのか?多いに疑問。
そもそも国鉄配給電車の払い下げ事例自体珍しいが・・・だれか教えて!! >>12
以前2軸客車のダルマさんがあったようだが、
潰されたらしいね。 >>14-15
ご多分に漏れず、道路整備の進展とバスの大型化がリンクした結果でしょうな。
昭和30年代までは国道でも未舗装(砂利道)だったり県・市町村道なんかは
泥道や獣道レベルのも多かったので、走行路管理が容易な鉄道が有利だった。
しかし道路整備が進み、同時にバスの性能向上と大型化が図られたことから、
鉄道事業者は鉄道の設備更新とバス化を天秤にかけ、バス化を選ぶ事も多かった。
それと淡路の場合は、岩屋−福良ルートでの本四連絡コースが成長したことで
洲本までしか通じない鉄道を見限らせる要因になった、という流れだったかと。 淡路交通が電車を見切ったのは、確か縦貫線バスの増強に必死で
鉄道まで手が回らなくなったことが直接的な原因だったような…
大昔は本州−淡路・四国連絡は洲本港経由が主役だったが、
道路整備とバスの高性能化で岩屋ルートが大きく伸びた結果、
鉄道は取り残されていった形になってた。
で、社会も安定してきた昭和40年代には鉄道線の劣化が進み、
近代化への投資が迫られる状況となっていたので、それまでの
小手先での改善では済まなくなり、大きな設備投資を迫られた。
もちろんそんな余裕はなく、中途半端に鉄道を残すよりは
早いウチに見切りを付け、投資余力があるうちにバスを強化して
将来に備えよう、という結論に達した結果だったはずです。 輸送密度4000人台で早々と廃止・・・だったか
鉄ピクの近畿ローカル特集号に書いてあったな
鉄道への投資は二重投資になるし、島の交通ならバスだけでもまかなえると
今でも残ってたら、どんな車両が走ってただろう?
やっぱり、関西大手からの中古かな? 水間と同じく南海本線&高野線昇圧時 南海1201統一 但し潮風の影響で水間より持たない
その後の南海の車両供給が渋いから東急か京王ってところじゃない?
ひょっとして淡路交通は、本土のバス会社買収進出する位企業体力あるから(水間より資金力あるみたい?)から
自社プロパー新車一部導入してるかもね。 まあ、最大限の妄想をしたら、当時地方私鉄で流行ったような
18m車でクロスシート装備の急行車が2両×2編成くらい入って、
他は他社の18mクラスの中古導入だったんじゃないかねぇ。
関西私鉄は車両を使い潰す傾向があったし、特に1,067mm車は
出物が少ないから、関東から何か買ってたかもね。 もし残っていたら、
今走っているのは南海の丸ズーム、角ズームあたりかなあ。
T化されて養老線に入っちゃった志摩電気鉄道の電車なんかも
もし走っていたら似合いそうだね。 >>27 三重交通引継ぎの電車 俺も似合うと思うけど、近鉄が、しゃぶり尽くすだろうから手放さないよな。 >>14-15
越後交通の栃尾線あたりとイメージかぶるとこあるよな。
そう考えると、会社の意欲だけではどうにもならない
「時代の波」だったのではないかと思えなくもない。 昭和30年代は鉄道会社でも鉄道で儲けなくて
バスでウハウハいわしていた時代。
西鉄や名鉄なんかがその代表例
特に名鉄なんかは支線区間をどんどんバス転換していたくらい。
(元々旅客を運ぶためじゃなかったというのもあるが)
だから、バス会社である淡路交通は、バス専業として
運営したほうが効率がよかったんじゃないかな?
バスと鉄道が別会社であったら、今でも鉄道線は
生き残っている可能性がなくともない。と思っている。 >>30
ちょ〜っと時代考証にズレがあるかなぁ…
昭和30〜40年代は、大正から昭和初期の地方鉄道ブームで開業した
各路線において、地上施設・車両とも更新期を迎えていたのな。
それと同時に、バスの車体大型化や道路の改善が進んでいたのな。
で、鉄道線の更新を考えた際に、規格の低い路線では大型バスより
輸送力で劣ることも多々あり、鉄道線を更新するよりバス化した方が
全ての面でサービスアップになる事例も多かったのよ。
西鉄なんかはその最たる例で、軽便上がりの低規格線を廃止して
大型バスに転換することで「サービス改善」を大規模に図ろうとしたのよ。
淡路交通も似たような発想ですな。 初歩的な質問で失礼します。
此処の電車の色って 昭和35当時上半 クリーム 下半 マルーン
らしい(カラー写真を見て無いので)ですが、
廃止時(昭和41年)は、白黒記事でも明らかに下半が別色(明るい色)に
見えるのですが・・・退色ではないと思うのですが。
塗装変更時期とか、どなたか知りませんか? うわぁ〜素晴らしい模型!
鉄コレで出ないかな(笑) >>30
確かに単独経営だったら銚子電鉄のように生き残ったかもしれない。
また、大手不動産会社に買収されて生き残った紀州鉄道のような例も有る。 >>35 でも橋ができるまで、島内の有力(まさか唯一?)の交通事業者だったみたいから暴力団とか、ヤバイ集団に独占されないで善かったよな。
この会社 鉄道所有時代から戦時統合の産物で「交通」を名乗っていたけど、「鉄道」だったら今も社名に「鉄道」「・・・テツバス」みたいに社名わ残していたかもな。
それにしても、あれだけ鉄道運営意欲的でしかも、日本で戦後唯一の島の電車だったのに廃止後 電車を1両も保存する機運がなかったのは、
残念というより不可解だ。 今は裏千家の茶道が本業
ttp://www.tankosha.co.jp/cgi-bin/maglist.cgi >38
上手くボケたつもりかと思うけど、全然オモロないよ。 >>31
同じような事例としては、宮城の仙北鉄道が近いな。
>35
水間鉄道に譲渡された1010・1011以外は解体。
2008は最後まで解体されず宇山駅撤去後も暫く旧構内にポツンと保管していたが結局解体されたと思う。ただ、仲介業者を通じて海外へ渡った噂も聞きましたが確証はありません。 保存車が全くないというのが、本当に残念ですね。
某サイトで、廃止後に車両が次々と解体されてゆく画像を見て悲しくなりました。 >>40 新幹線や新鋭車両ではなく、こういう鉄道車両にこの歳で熱心に興味関心を持つとは、将来楽しみな奴だな。 廃止後、淡路交通鉄道部品セールなんてやったのかな?? 水間に行った2両は、転入当初は淡路交通カラーのまま貝塚〜水間を走ったんだね。 >>42 何故に2008が最後まで・・・残そうとしたのかな・・・垂直カルダン?
1010.1011が売れたから 自社初の鋼改車(オリジナルと云う意味で)1002の方が普通残し気持ちになりそうなんだけど・・・。
神鋼が色気ほのめかしていたの?
個人的は、南海からきた最後の卵 1005あたりが好い気がしたが・・・。 >>38-39
俺は昔、淡路交通とその淡交会・淡交社に関係があるのかと思ってたよ。 昔は牛引っ張った農家の人が、牛引き連れて乗っていたらしいぞ?
牛の乗車賃っていくらなんかな? 路盤が残ってれば復活も不可能じゃないね。
須磨ー淡路ー鳴門の列車 淡路市に遅れること10数年
とうとう旧洲本地区にもeoがやってきました
郊外より順次市街地へeo光、拡大予定
6月より第1区間予約開始中! 今月のRMライブラリー144号、145号は淡路交通?? >56
ガセネタご苦労。
次号は大阪市電になりました。
床下吊り下げのモーターにプロペラシャフトつなげた
直角カルダンもどきの駆動音を聞きたかった。
似たのが栃尾電鉄にもあったとかなかったとか? >>58
乗り越しカルダンとかって一部で呼んでたヤツだっけ。
厳密に言えばカルダンジョイント使わないからカルダン駆動じゃない、
というモノだっけ。まあ後の主流派となったWN駆動もそうだけどw
乗り越しカルダン自体は、他にも事例あったんじゃなかった?
ガソリンカーのエンジンをモーターに載せ替えるだけとかで。
淡路と栃尾と言えば、垂直カルダンですわな。これについては
ナローでカルダン駆動が採用できる、唯一の方法だったんだっけ。
結局は大成しなかったけどね。 乗り越しカルダンは名古屋市電だけで、また別のもの。
車体中央のモーターからシャフトを伸ばし、
両側の台車にある中央寄り1軸を越して外側の軸を駆動するから乗り越しカルダンと呼ばれてた。
淡路のは気動車のエンジン部分がモーターに変わったやつだから、言ってみれば車体装荷式の直角カルダン。
モーターを車体床下に設置して直角方向に車軸を駆動する電車、というのだったら今もある。最近の超低床路面電車の一部。
これとは別の方式で、モーターを縦向きに配置したのが垂直カルダン。
>>59氏のおっしゃるように、マイナーすぎて現存車はない。 実は、土佐電鉄に在籍している、もとシュトゥットガルト市電がこの方式。
走ることはないがなあ・・・。
世界に目を転ずれば、
イタリアの高速特急電車 ETR460、ETR470がこの方式。 クモヤ790もその方式じゃなかったっけ?
床下の大型誘導電動機から推進軸伸ばしてトルコン介して伝達するの。 >>62
ポイントは、そのトルコンを挟むというところを、上記各例と同じと考えるかどうかだろうなあ・・・。 無理に呼称する必要あるのか?
シャフトドライブ→シャフト駆動?
余談だが、垂直カルダン駆動 と クイル駆動 は別モノ?
あと 電気式気動車で 元相模(キハ1000) のちの、日立電鉄ハシゴ電車なんか は機構的には電気式気動車時代から吊りかけ駆動だったの?
>垂直カルダンとクイル駆動
は、別物です。
>電気式気動車
は、戦前製のものはすべてツリカケ駆動です。 垂直カルダン車の走行音や乗り心地はどんな感じだったんだろう…?! >>68 アース刷子交換やアマチュアのバーケンの手間は、どうだったのかな?
客室内フロアに点検蓋があったのかな?
軸部分のグリス潤滑で苦労しそう。 実物が残っていれば、↑氏の疑問もすぐに解決するのに。
やはり、車両保存は大切だよな。
全車両保存しろとは言わないが、垂直カルダン車くらいは残しておくべきだったと思う。
垂直カルダン車の図面くらいは淡路交通に残ってるんだろうな。 鉄道車輌の駆動装置なんていう重要部品を製作していたのだから
事業撤退後も神鋼社内に記録とか残っているんじゃないかと思う。 重要部品というが、現在駆動装置は撤退してしまった分野である上に
30年以上前にユーザーはいなくなってるし、
その後の鉄道車両に大きな影響を与えたとか、志を継ぐような技術が発展したわけでもない。
両社とも、「かつて手掛けました」という以外大した記録が残ってなくても不思議はない。
とはいえ、2008の、せめて台車まわりぐらい保存していてもよかっただろうね。
「淡路島にも鉄道があって、このような試みもなされました。」と誇ってもいいだろう。 やはり、全車解体は暴挙だったな。
廃止当時、社内で車両保存の話は出なかったんだろうか。 古い書類は捨てまくる事を推奨するこのご時世、残ってるとは思えないな。 1005が引き取り手なしで廃車は惜しい気がする。
1010,11も含めて琴電に行ってれば、90年代までは確実に生き残れただろうに、 気動車を電車に改造したり、垂直カルダンを自社開発したり、近代的な車体への載せ替えなど、鉄道の現場サイドは色々と意欲的だったのに突然の廃止決定…
といったところか? >>77
淡路交通って、客が減って廃止になったわけじゃないですからねえ・・・ >>75
その水間も数年で南海1201に総替えだからね >>76 琴電は、その頃(厳密にはその少し前)阪神から小型は沢山買っていたかな〜
仮に引き合いがあっても(1010.1011) は、南海一派で関わりのソコソコありそうな水間を優先していたのではないかな?
もし琴電が引き取っていたら(1010.1011+1002等α)も考えられたよな。 >80
廃止が長尾線昇圧で車輌をかき集めてた時期だったら、琴電入り有り得たかも?
その代わり、東濃の東芝電車があそこまで生きながらえなかっただろうけど。 >>81
というか、東濃車が入らなかっただろう。
昭和43年というと、コトデンは名鉄3700を譲り受ける寸前だね。
阪神に続き、車両統一志向になった頃だね(そしてオイルショックでその計画が破綻するわけだが)。 水間に移籍した2両も結局短命に終わったが、淡路島から大阪への輸送シーンを撮影した写真は残っているのだろうか? >>82 そんな中、玉野市電が行ったのは、車輌そのものが極めて上物でそして至近の対岸だから? 玉野のやつは、対岸のコトデンに移籍して永年活躍し、引退後は再び海を渡って里帰りして保存されたという、非常に幸運な車両だよな。 >>85 でもない。
一両は予備で殆ど走らずで稼働率の低い同車は琴電のお家芸で台車交換されまくり。
最終的には、貴重な運転チャンスに不遇に踏み切り無視進入のダンプに衝突し玉砕! 電化の際 近隣の南海・山陽・琴平参宮 各社の電気技術者を招いて指南を受けたみたいだけど、
複数社だと各社技術者間で見解・基準で揉めなかったのかな?
・・・もっともマダ戦後混乱期だから 何処もベッタリ面倒見切れなかったのでこういいうコトになったのだろうか?
他社の事だが、三岐鉄道は電化で何処かに技術指導をうけたのだろうか・・・
近鉄や三重交通あたりだと当時はマダ競合関係や関わりも薄そうな感じで難しそうなのだが・・・。 三岐の電化は小野田セメントの意向だったらしいから、
どっかそっち系のつてで応援・ご指導を頼んでるかもよ。
あくまで「…って事もあるかも」程度の想像だけど。
妄想ついでだけど、南海と山陽は、ともに私鉄63型が投入されたんだよな。
その辺で「共通言語」的なものはあったかも知れない。
三岐は小野田と繋がりが深かった東洋電機が主導的役割を果たしていたかと。
地方私鉄の電化で、電機メーカが丸抱えというパターンは結構あった。
東濃駄知の東芝製電車も電化工事を東芝が一括受注した結果だったかと。 当時は地方都市近郊に私鉄敷設ブームが起こってたから(ほとんど実現してないが)、
それを当て込んで電機メーカーが「電気鉄道まるごとセット」みたなパッケージ商売で
色々と売り込んでたみたいね。弘前電鉄(現弘南大鰐線)は三菱のデモ路線ですな。 昔、鉄道ジャーナルに連載の「車輌と共に・・・大井工場OB・・・」で日立電鉄から 元院電のモハ1を
引き取り復元した際のエピソードで 復元部品調達に淡路交通も調査対象に挙げられたみたいだけど
もしかして 当線のモ二501についていた螺旋連結器が役立ったの?(淡路はガラパゴスのため貨物は最後まで螺旋連結器使用) 車両を1両も保存せず、全部叩き潰したのは暴挙だな。 >>93 当時国鉄が、淡路交通がマダ持っているか(持っていたとしても該当車両の復元に使えるか?)あたったのだあって
淡路の電車の連結器が使われたのは?真相は定かではない。
1966年昭和41年廃止ですか。
それから9年後に淡路島に行った時駅の跡がありました 南海の木造車(特にクハ104)に是非乗ってみたかった。
想い続けていた当時(昭和50年代半ば)でも なんと福井には卵形の残骸が待合室に残っていたのだな。
模型造りに明け暮れ地方巡業を怠ったツケだな。
輸送密度5000人ぐらいの時に廃止されたんだっけ
今そのぐらいのレベルの路線ってどこだ? 自動閉塞の導入、車体更新、垂直カルダンの開発など、意欲的な面も見せ、利用者も決して少なくない…
そんな中での、突然の廃止決定だったんだな。
本当に残念だ。
もし今でも存続してたら、南海から来た角ズームあたりが走ってたんだろうな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています